第七章『瞬の色をかえて』


 秋は終わりを告げようとしていた。
 秋の日は気が付けば遠い記憶の彼方。
 日々の糧を得るために過ごし、夕暮れ時の黄昏は四季の中で最も切ないように思う。
 それはただの感傷なのだろうか、それとも遠い記憶に残る心の傷か何かだろうか。
 はっ、と岩下明美は吐き捨てる。
 心の傷?
 よくもまあ、常人がよく使う己の弱さの都合のいい言い訳を使ってしまったものだ。
 心の傷など大それた言い方をしているが、所詮は己の弱さだ。
 そして弱者は食い潰される。
 弱者は強者にならねばならないのだ。どのような手段を使っても。
そうでなければいくら搾取されようと文句などは言えない。言ってはならない。
「岩下さん?」
 坂上修一が心配そうに声を掛けてきた。
 飽くまで『心配そうに』だ。儀礼で声を掛けただけで本気で心配しているわけではないだろうし、岩下明美にしても彼に心配などされる筋合いはないってものだ。
 だから岩下明美は何事もなかったかのように答えてやるのだ。
「いいえ、別に。ところで何か用?」
 瞬間、ぱっと花開くように坂上修一が微笑んだ。
 あどけないのに残虐な笑み、否、あどけないからこそ残虐な微笑。
 例えるなら命を玩具にして虫たちを殺す幼児。彼はきっとその系統の人間だ。
 誰しもが子供の頃に様々な残酷な経験を持ちながら成長していく。それを受け容れながら、それを否定しながら、人々は成長していく。成長とはそういうものだ。
 大人になりたくないという人間がいるが、真に大人にならない人間というものは幼児期の残虐性を発露しただけの人間へと変化していくだけで、それを具現化した人間が坂上修一のような気弱なふりをした人間なのだろう。
その微笑のままで坂上修一はあっさりと言った。何でもないことのように。
「岩下さん。倉田さんのことなんですけど………」
 倉田恵美。
 この学校の三年生の新堂誠と付き合っているショートヘアの少女。
 確か坂上修一と同じ新聞部。
系統的に坂上修一と似た雰囲気を漂わせている少女だが、彼女の場合は坂上修一とは異なり、純真なままで現実を知らずに育ってきたらしいきらいがある。
純真で、可愛らしくて、夢見る乙女という言葉がよく似合う少女と言えるだろう。
まったく結構なことだ。吐き気を催すほどに。
自分にさよならを告げるための計画の標的には入っているが、彼女の順番はまだ先のはずだった。先に標的にしておいた方がいい人間はまだ大勢いる。
「倉田さんがどうかしたのかしら?」
「倉田さんも………、堕とすんですよね?」
 まったく見事なものだった。笑顔を崩さずにこんな言葉を言うのだ。この少年は。
「ええ、彼女も必要でしょうね。それであなたは倉田さんをどうしたいのかしら?」
「彼女、僕にくれませんか?」
 岩下明美は思わず沈黙してしまった。
 どうもこの少年には自分が奴隷であるという自覚が大いに欠けているらしい。
「あなたね………」
 この少年の扱いには慣れない。まるで幼児を相手にしているかのようだ。
「何か?」
「あなたは私の奴隷でしょう?」
「ああ。そうでしたよね。すみません。だからこれは単なるお願いです」
「お願い………ね」
「僕が倉田さんを新堂さんから奪います。その褒美として僕が倉田さんを所有する。こういうことでどうでしょうか?」
 岩下明美はしばらく黙考した。
 あと七人。まだ七人。
 所有できたのは、まだ細田友晴と坂上修一のみだ。
成程、効率を考えるのであれば、坂上修一に彼女を任せるのも一興かもしれない。
「いいでしょう。いってらっしゃいな」
「ありがとうございます」
 屈託のない微笑。
 しかし確実にこれからこの少年は一人の少女の人生を変えることをするのだ。
 それが畏怖できることでもあり、軽蔑すべきことでもある。
 ただひとつ言えることは、彼はきっと自分と相容れることはないということだ。
 手に入れなくてはならない存在ではあるけれど………。
 岩下明美は思いながら窓際に身を乗り出した。
 あの日感じた想いはきっとすぐ傍にある。そう思わせる立冬の風に吹かれた。

 体育館倉庫。
 坂上修一は一人の男性を監禁し、微笑しながら語っていた。
「気分はどうですか、新堂さん?」
 名を呼ばれた新堂誠は、縄で痛む手首を気にするようにしながら吐き捨てた。
「おまえ………、どういうつもりだよ。こんなことしやがって………」
 坂上修一が新堂誠を拉致する手際は、岩下明美から見ても見事なものだった。
 細田友晴に話をさせておいて、後方から木製バットで思い切り殴りつける。
 気絶させて密室に運び込む。凄く単純な方法だ。
下手すると死んでいたかもしれないが、それでも坂上修一にとっては『ああ、死んじゃった』で済むような出来事に相違ない。死んでしまったときは死んでしまったとき。それはそれで計画を修正することになるが、それはそれで面白い。
 人の死とはその程度なのだ。坂上修一という人間にとっては。
 まあ彼にしても金属バットではなく、木製バットを使ったところがせめてもの気遣いのつもりなのだろうが。
 坂上修一は呻く新堂誠の瞳を覗き込むようにして言った。
「新堂さん。僕に倉田さんをください」
「はあっ? 何言ってんだよ、おまえ!」
「倉田さんをくださいって言っているんですよ」
「何でそんなことを………」
 夢見るような口調になって、坂上修一は続ける。
「いいですよね、倉田さん。何もかもが純真で眩しい人です。僕は彼女を所有したい」
「な、何を………」
「ましてそんな素晴らしい人があなたのような人のものだなんて思ったら、腑に落ちないのも自明の理って奴でしょう? 奪いたくなるじゃないですか」
「倉田の彼氏が俺で、何が不満だっつうんだよ!」
 新堂誠が叫ぶ。
 必死さが目に見えて分かる哀れな行動だった。
 坂上修一は両側から新堂誠の頬を手で潰しながら、真正面から彼の瞳を睨みつけた。
「Everything.」
 全部だ。
 坂上修一は新堂誠の全部を嫌いだと言い張った。
 滅多なことでは出来ることではない。
「僕は貴方の何もかもが嫌いです。不良ぶって格好つけることが全てだと思っているところ。己の外見に自信を持って女性を弄ぶところ。弱くやっていれば救いがあるだなんて無意識に思い込んでいるところ。その全部が。そして何より………」
 視線を更に激しく威嚇するように。
 視線で射殺してしまわんがほどに。激しく変える。
 そして坂上修一は言った。
「同級生の女生徒と倉田さんを同一視しているところがね」
 はっとしたように新堂誠が視線を逸らす。
 頭をガンと殴られたような衝撃だろう。目に見えて力を失っていた。
 暴力は肉体を殺す。言葉は精神を殺す。
 そして坂上修一はそれを知っていて、有効利用するように出来ている。
 壊れた肉体ならどうにか治せる。
 だが壊れた精神は二度とは治せないのだ。
「優しさのつもりなんでしょうね、あなたは。ねえ、新堂さん?」
「……な………」
「ですけど、優しさは優柔不断でもあるんですよ。あなたは二者択一の選択が出来ない、ただの弱々しい男なんです」
「…………うな」
「一度に二人の人間を好きになってしまう。よくある話ですけどね。でも………」
「それ以上言うな!」
 新堂誠の心の叫び。
 己の心情を見透かされた者の発狂寸前の慟哭だ。
 分かっていたのだ。自分は二人の女性を愛してしまっていると。
分かっていたからこそ、彼は深く倉田恵美に踏み込まないようにしていたのだ。
倉田恵美を傷つけないために。そしてあの人も傷つけたくなくて。
しかし彼は分かっているからこそ、分かっていないのだ。何も。何もかも。
 ただ認めたくないだけなのだ。哀れな惨状だった。
 それでも坂上修一は止めを刺した。
「あなたは誰も傷つけたくないつもりで動いて、誰も傷ついていないと思っている。でもそれは違うんですよね。あなたはただ自分が傷つきたくないだけなんだ」
 無言。
「皆を好きであるが故に、誰のことをも好きじゃない。好きなのは自分だけだ」
 無言。
「本当に倉田さんのことを思うならば、潔く振ってあげるべきだった。あなたはそれが分かっていたのに、それができなかった。………それはあなたの弱さに他ならない」
 無言。
「僕は違います。僕は彼女を所有します。所有して最大限の幸福感を与える。少なくともあなたよりはね」
「俺に………」
「はい?」
「俺にどうしろって言うんだよ………」
「倉田さんと別れてください。まあノーと言った場合は今の話を倉田さんにしますが」
 それだけは避けたいものだった。
 自分の弱さを愛しい者に知られてしまう。しかも更に傷つけるようにして。
 それだけは出来ない。新堂誠には出来ないことだった。
 蛇足となってしまうが………。
 このとき新堂誠は弱さを曝け出しても、真実を倉田恵美に言うべきだった。
 しかし彼にその選択肢は選べなかった。
 その点でも、新堂誠は間違っていたのだった。
「………最悪」
 一部始終を見守っていた岩下明美がそう小さく呟いていたのを、新堂誠は知らない。

 後者裏。
 倉田恵美を呼び出しての別れ話。
 新堂誠にはその選択肢を選ぶことしか出来なかった。
 先に何が待っているのかも知らずに。
 やってくる倉田恵美。いつも通りの優しい笑顔。
 それでも。
 新堂誠は口を開いてその言葉を言った。

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