第三章『One Drop』







 ボクハソラヲトブ。







 相沢信彦の日常において最も関心のあることは、勉学ではなく、俗世の者が気を向けるような恋愛ごとでもなく、全てにおいて最優先事項とされたのは、落下した人間はどうなるかということに収束されていた。
 彼は友人が少ないわけではないし、女性に縁がないわけでもない。
 むしろそのような些細なことで自殺衝動を発起させるような、矮小な人間でもない。
 ただ、落下した人間がどうなるのかを知りたかった。
 この学校の屋上から、人が、落下したとして、その人は、どうなるのか。
 彼の関心ごとはそれが全てだった。他には何もない。
「一体、どうなるのかな………」
 普段の如く彼は屋上の柵に手を付き、下に広がる世界を見つめていた。
 眼下には人間の世界が広がっている。
 その世界に生まれたことはいいとして、大人たちに押し付けられた倫理観を持ち続けるのも、端然と続いている伝統を守り続けるのも、理不尽な悲嘆にくれてしまうのもいいことだとは思う。反抗する人間になろうとは思わないし、この世界の仕組みに従って生きることも必要だと思う。自分は物分りのいいつもりだ。
 反抗して無意味な自己満足に陥るよりは余程いい。
 しかし、あとは自分の好きなようにしても、いいのではないだろうか。
 ただ一つくらい、自分の思うように生きてみても、構わないのではないだろうか。
 落下。
 重力に引かれること。
 そして、重力に惹かれること。
 落下ということについて、自分の全てを感じてみてもいいのではないだろうか。
「落下………。落下って、何なのかな………?」
 答えを期待して呟いたものではなかった。
 だがその呟きには答えがあった。
「落下より派生するもの………ね」
 驚いて相沢信彦は声の方向に振り返る。
 一人の女性が、風に長い髪を靡かせながら、ただその場所に悠然と立っていた。
 岩下明美だ。
 何故だろう。相沢信彦はこの女性を知っている。
 相沢信彦は何故かと思ったが、別に何てことはない事に気づいた。
彼女ほど目立つ存在を知らない生徒が居るものか。
その外見の美しさは当然としてだが、彼女の冷淡でただ美しいだけの存在。触れてはならない、禁忌のような空気を身にまとった女性。その圧倒的な存在感を、この学校の生徒たちの大半は気づいていた。本能的に、としか言いようがないが。
しかし何故彼女がここに………?
驚く相沢信彦に眼を向けようともせず、岩下明美は屋上の柵をあっさり乗り越えた。
あっ、と相沢信彦は思ったが、岩下明美が落下したというわけではなかった。
柵を飛び越えて、外側の縁に腰をかけただけだ。
それでも。
相沢信彦の心臓は熱く鼓動していた。激しくて止まらない。
何故だ?
岩下明美が簡単に屋上の柵を飛び越えたからだ。相沢信彦が理性の限界の淵で、してはならないと戒めていたことを、岩下明美があっさりとやってのけたからだ。
異常に興奮していた。何人もの恋人と夜を過ごした時などと比べ物にならない。
「貴方は………、ここに来ないのかしら?」
 してはならないことだと分かっていた。
それでも相沢信彦は言われるままに、柵を乗り越えて岩下明美の隣に座った。
禁忌を、乗り越えたのだ。あっさりと。
外に出している脚に触れるものは何もない。ただ自由な存在だった。
「相沢、信彦君」
 突然声を掛けられ、岩下明美の方向に彼は視線を向ける。
「どうして、僕の名前を………?」
「うふふ………。さあ、どうしてなのかしら………?」
 何も質問に答えてはくれないのに、彼には不快感も何もなかった。
 ただ初めて間近で見る岩下明美の横顔に見とれていた。
 触れてはならない美しさが、そこにあった。
「いい風ね」
 脈絡なく岩下明美は呟く。
 本当にそうだな、と相沢信彦は思った。
 今なら空を飛べる。何もかも捨てて、自由に飛べるのだ、空を。
 彼はそう思えて仕方がなかった。どうしようもなかった。抵抗することもできない。
「自由に飛べそうよね」
 そう言ったとき、初めて岩下明美は相沢信彦に視線を向けた。
 夜の深淵のような瞳。
 吸い込まれて、吸い尽くされてしまいそうだった。
「貴方は………空を飛びたいのかしら?」
 気が付いたら頷いていた。頷く以外のことは出来なかった。
 彼女は僕の全てを分かってくれている。そう思った。
 思ったときにはどうしようもなかった。
彼は岩下明美に自らの肩を寄せた。
 抵抗されるとは思わなかったし、実際岩下明美は抵抗しなかった。
 そのときになって相沢信彦は初めて気づいた。
 僕、勃起している………。
 それは岩下明美の美しさに圧倒されてのことには違いないけれども、それ以上にこの浮遊感が、風と落下に向けての禁忌が、相沢信彦を異常に興奮させているのも、また事実だった。落下より派生するものに向けての、興奮だ。
 岩下明美は相沢信彦の頭を自らの胸に抱いて、小さく優しく呟いた。
「我慢しなくていいのよ………。ほら、いい子いい子………。貴方は今まで我慢してきたんでしょう? だから、もう我慢しないで、貴方の思うままに………ね」
 そうなのだ。我慢することは何もない。
 相沢信彦は岩下明美から顔を離して、その場に立ち上がった。
 手と足を開いて、大の字になってみる。
 それはレインツリー。死者を悼む樹の如く、秀麗だった。
 全身で浮遊感を感じる。
 あとは何もない。
「僕は………、僕は………」
「空から………」
 岩下明美は節を付けて歌うように言った。
「空からこぼれた、ひとしずく」
 そうだ。自分は空からこぼれたしずくなのだ。
 だから、相沢信彦は言うのだ。
「僕は………、空を飛ぶ」
 高い、高い場所からなら、きっと自分は飛べる。
 想いは、翼になる。
 指は羽に、腕は翼に、きっと変わる。
 脚を、前に踏み出す。
 岩下明美はじっと自分の顔を見ている。
 相沢信彦は岩下明美に微笑して、この世界から、飛び立った。
 この浮遊感。自由な感覚。風が強い。耳に届く風の音。風音。
 ほら、視点が変わる。
ほら、僕は空を飛べる。
人に生まれたのは間違いで、きっと自分は鳥になるために生まれてきた。
飛翔するために。
そして、何故か足元に感じる強い衝撃………。
視界が暗転する直前、相沢信彦は思った。
こういうのって、落下症候群って言うんだっけ………。
思ったところで意味を成さなかった。
残ったものは闇だ。

 眼下を見つめていた岩下明美は、喜びとも悲しみとも付かない表情で呟いていた。
「人は、空を飛べないわ………」
 飛んだところで、人間が飛ぶには他のものを犠牲にしなくてはならない。
「僕は、空を、飛ぶ………か」
 気が付けば相沢信彦の下に人が集まってきたようだった。
 地に足を付けた人々が、空を飛ぶことを夢見た少年の下に。
「I wish I were bird.」
 呟くと岩下明美は背を向けてその場を去った。
 風と、相沢信彦の残された思念が、自分に語りかけてくるような気がした。
 だが彼女は二度と振り向きもせず、足早く自らの教室に戻っていった。
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