第一章『コッペリアの柩』
「また、いつか逢えるから」
言って別れた二人。再会を信じていた二人。
だから、いつか再び逢えることだけを信じていたのに、その日が来ることはなかった。
分かっている。全てを分かっている。
分かっていたからこそ、哀しくて、自分の心を閉じていくことしかしなかった。
掻い摘んで言うと、細田友晴という男はそういう人間だった。
彼がトイレという密封された世界に閉じこもって行ったのも、そういうことだった。
人を好きになろうとは努力していた。
努力はするが、自分が嫌われることが恐くて、別空間に逃避するのが常。
友情を人一倍執着するが、それが自分が嫌悪される原因だと彼自身も気づいている。
だから、密室に閉じこもる。
他人というものについて臆病になっていた。
近づかない。関わらない。何もしない。
そうすれば人を傷つけることもないし、自分が傷つくこともない。
トイレ好きの豚。
いつのまにか自分にはそんな通り名がついていたが、それもいいだろうと彼は思った。
それによく言ったものだ。
自分は確かに肥満体だし、他人と関わらないためにトイレに入り浸る。
他人がそう思う以上、自分がそれについて言うことも何もない。
ただ淡々と死へと近づいていく人生。
彼はそれでもいいと思っていた。
「細田君」
学校の休憩時間、常通りトイレに逃げ込もうとしたところで細田友晴は呼び止められた。
振り向くと一人の女性が立っていた。
岩下明美。
細田友晴の数少ない知人である新聞部部長の日野貞夫の同級生で、はっとするほど冷たい眼光を持った女性だ。例えるならばギリシアの女神。そんなところだろうか。
面識は数度あったが、こうして休憩時間に呼び止められるような仲でもない。
ただ仲間ではあるという感覚を、細田友晴はその年上の先輩に感じていた。
霊感。
そう呼ぶのが正しいのかどうかは知らないが、細田友晴はそれに近しい感覚を有していて、岩下明美もそれを有しているように感じられた。
初めて彼女を見かけたとき、細田友晴は彼女の中に深い情念のようなものを感じた。
憎悪。嫉妬。愛情。慈愛。そのどれとも違う感覚をだ。
「あ、どうも。どうかしたんですか、岩下さん?」
角のないように細田友晴は返したが、自分のような冴えない男に声を掛ける美女をクラスメイトたちが好奇の目で見つめていることに気づき、とにかくどこか違う場所で話そうということにした。
自分はともかく、年上の女性にまで嫌な気分にさせたくはなかったからだ。
即座に場所を決定するほどの決断力を細田友晴は有していなかったため、自分で発案したものの岩下明美に連れて行かれる形で校舎裏まで歩いた。
「どうかしたんですか?」
先刻と同じ質問をすると、岩下明美は冷笑と同等の眼光で細田友晴を見た。
「あの………」
これが射すくめられるという感覚なのか、細田友晴は微動できずに息を呑んだ。
確かに元より常人とは違う雰囲気を身に纏っていた彼女。
しかし、これほどまでに人を支配するような眼光を、彼女は有していただろうか。
「ねえ、細田君。訊きたいことがあるの。いいかしら?」
それほどまでに人を射すくめているというのに、何もなかったかのように岩下明美は冷笑を絶やさぬままに訊ねる。細田友晴は頷くことしかできない。
「うふふ………。ありがとう。それじゃあ訊くわね。細田君。あなたは心の底からの絶望というものを感じたことがあるのかしら?」
「え?」
「生半可な絶望ではないわ。よく自己陶酔の人が語るような、取るに足らない絶望は必要ないの。私が知りたいのは、あなたの心から湧き出てくるような深い慟哭。考えるとかそんな感情以前の人間が根本的に持っている意識」
「言っていることがよく………」
自分でも声が震えているのが分かった。
恐怖という感情は何度も感じたことがあると思っていた。
だが、いつまで経験したどれとも違う、未知への恐怖。
生まれて初めて、細田友晴はその感覚に気づいていた。
「うふふ………。質問がよく分からなかったかしら? それじゃあ………」
ぱん。
大きな音と共に衝撃が自らの頬に伝わる。
張られたのだと気づいたのは、それからかなり経ってからのことだった。
「いきなり何を………」
それが言葉としての意味を成す前に、岩下明美の両手に押されその場に崩れ倒される。
座り込んでしまった自らの腹を、岩下明美は何の躊躇いもなく踏みつけた。
痛み。激痛。思わず呻く。
「うあっ………! や、やめてくださ………!」
岩下明美の力に手加減はまったく感じられなかった。
本気で細田友晴を踏みつけている。
だが、その顔は恐ろしいほどに普段通りだった。そうすることが正しいと言わんばかりに、岩下明美はまったく表情を崩すことなく、細田友晴の腹に跡が残るほど思い切り踏み仕切るように踏みつけていた。
「い………痛いです………! やめてくださいよ………!」
細田友晴の呻き声は聞こえているのかいないのか、岩下明美は何の反応も見せない。
冷徹な人形のようだった。寒気がするほどだった。
何故彼女はこんな表情ができるのか、こんなに躊躇いなく人を傷つけることができるのか。考えると恐怖で身がすくむ思いだった。
だのに、彼女は言うのだ。あっさりと。
「だったら、抵抗すればいいじゃない?」
その瞬間、はっと細田友晴は息を呑んだ。
がつんと何かで頭を叩かれたような衝撃も感じた。
もう一度、岩下明美は確かめるように言った。
「だったら、抵抗して見せなさいよ。抵抗なさい。私は非力な女だもの。あなたとはいえ本気で抵抗されると跡形もないわ」
細田友晴は岩下明美から目を逸らした。現実からも目を逸らした。
そうなのだ。自分は抵抗すればいいのだ。
だのに、身体が動かない。動いてはいけないと頭のどこかで誰かの声がする。
動くな、と。動いてはいけない、と。
そしてそれは紛れもなく自分の声だった。
しかも、動けないのは恐怖ばかりとはいえなかった。何故なら………。
「ほら、ここも………」
岩下明美の足が下半身に移動する。否、股間だ。股間の逸物を力強く踏みつける。
激痛だ。感じたこともないほどの。なのに。
「大きくなっているじゃないの。あんたは痛がりながら、膨張させているのよ。浅ましいわね。情けなくて恥ずかしくて厭らしいわ。あんたは踏まれて膨張させているの」
「……………」
「うふふ。ただの変態ね」
「!」
「ほら、変態って聞いた途端に、また少し大きくなったわよ。ねえ、変態?」
「僕は………、僕は変態なんかじゃ………!」
みなまで言えなかった。膨張した逸物が折れるほどに岩下明美が力を込めたからだ。
激痛に泣き出したくなった。泣き叫んで喚きたかった。
それなのにやはり快楽も感じている。もっと踏みつけて欲しいと身体が反応する。
「ほら、身体は正直よ? あんたはただの猿、いや、豚ね。ただの豚」
「う……ぁぁあっ!」
「トイレ好きの豚。あんたはクラスメイトからそう言われてるようだけど、私が新しい名前を付けてあげる。嬉しいでしょ?」
うふふ、と岩下明美が嗤う。嗤いがとても冷淡で、美しい。
「下僕豚。そう、あんたは私の下僕よ。それで豚なの。だから、下僕豚。どう? そのままでいい名前でしょ?」
「下僕………」
「いい加減、自分に正直になりなさい。でないと………殺すわよ」
岩下明美がポケットの中に手を入れる。チキチキチキ…、と厭な音が響く。
そうか。殺されてしまうのか。
そう思うと、何故かとても細田友晴の快楽は深くなった。
「あらあら、殺すって言葉は、下僕豚には興奮する材料にしかならなかったみたいね」
「ぼ、僕は………」
「それじゃあ………」
足が細田友晴の睾丸にまで移動した。ひどく強く踏みしめられる。
「う、うわっ………!」
それなのに、靴のままで踏まれているというのに、悦楽の要素などひとつもないはずなのに、細田の性感は刺激される。
快楽が体中を支配する。もう果てる。足で踏まれたままで果ててしまう。
「あんたの大切なところを潰そうかしら?」
「や……やめっ………!」
言っているのに快楽をとめることができない。
潰されてしまったときのことを考えると、もう堪えることなどできようもなかった。
「あ………ああっ!」
浅ましく、卑しく、下着の中に細田友晴は射精する。
何度も何度も、果てをなくしたかのように。
「睾丸を潰されたときのことを妄想して果てるなんて………」
一部始終を見取っていた岩下明美は、細田友晴を家畜を見るような瞳で見下ろした。
「変態以下の豚よね」
それでも、そんなことを言われてさえも、細田友晴の快楽はとどまらず、再び踏まれたいという衝動が芽生えるのだった。
そうだ。自分は変態だ。それがよく分かった。
自分は下僕豚だ。それ以上ではありたくない。
「あなたは私の下僕豚………。分かったわね?」
「分かり………ました。でも………」
「何?」
「どうして、岩下さんはこんなことを………?」
岩下明美は何かを考えているかのように見えたが、ただ微笑してこう答えた。
「あなたが絶望を求めているから。絶望を飽きる人間なんていないわ。人間ってね、幸福を求めているようで、みんな絶望を求めているものなのよ。分かるかしら?」
「たぶん………」
「それも人間は本当の絶望を求めている。あなたはその衝動が強そうだったから」
言われながら、幼い頃、失くした人を細田友晴は思い出していた。
再会する約束をしながら、逢うことのできなくなったあの人。
二度と喪失の思いをしたくないと思って、トイレという密室に逃避していた自分。
だが、本当にそうだったのだろうか?
本当はあれで相当量の絶望をしてしまい、もっと多量の絶望をしたい、絶望をもっと味わいたいがために、他人を拒絶するだけの道を選んでしまったのではないだろうか。
不幸と幸福は同じものでできている。そういうことなのだろうか。
どうでもいいことだった。
自分はこれからどんどん絶望に陥っていくことだろう。
絶望という美酒にのめり込んで、果てには破滅が待つのみだろう。
そのときをこそ、細田友晴は待っているのだ。
そしてきっと、自分に真の絶望を与えようとしている岩下明美本人も。
「じゃあ、靴を舐めなさい。あんたので少し汚れてしまったわ」
「はい、岩下さん」
「岩下さん、ではないわ。豚のように何も言わず、愚鈍に舐めなさい」
沈黙して、細田友晴は岩下明美の靴に汚らわしい舌を伸ばした。
まあ、答えを出すのは今はまだいい。
これから、自分は岩下明美の傀儡として浪費され、哀れに捨てられてしまうのだろう。
そう思うと、細田友晴は興奮で再び下着の中に射精した。
コッペリアの柩で眠る自分。
自分は踊りつかれた人形。
暗闇から目覚める人形だ。
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