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2010/10/14

「新型うつ」に「未熟」という形容詞をつけたニュースに納得

今朝のニュースでNHKが「新型うつ」に「未熟」という形容詞をつけたのは、なるほどと思った。

大学以下の学校が「就職予備校」化しつつある今の世の中、企業が社員の「精神的な未成熟」(それが何を意味するかは別として)の面倒まで見なければいけないのは避けられないからだ。

日本の高度経済成長期が一段落して、「いい会社に就職するには、いい大学に」という考え方が日本社会にすっかり定着した。

そしていい大学に入るための、いい高校・中学に入るため、さらにいい小学校・幼稚園に入るための「お受験」が、マスコミによって社会的現象にまで増幅されたのは1980年代。

このあたりで、子供の教育はすべて「いい会社に入るため」になってしまい、教育のその他の面は二の次という価値観が確立されたと思われる。

一方、核家族化が定着した家庭内で育児をするのは、相変わらず母親であって、父親は育児に参加する時間的余裕などない。育児において母親が孤立し、子供の「精神的な成熟」は家庭と学校で押しつけ合いになる。

そこへ「グローバル化」を口実に、実質はアングロサクソン的価値観を日本社会に無理やり接ぎ木する新自由主義路線で、セーフティーネットのない、むき出しの成果主義が企業に導入された。

その結果、子供の「精神的な成熟」のような、一銭の金にもならないことは、家庭と学校と企業がお互いに押しつけ合う。

企業は単に株主向けのリップサービスとして、職場の多様性(ダイバーシティ)を叫ぶだけ。有休取得率や育児休暇取得率は、ほぼ横ばい。女性の管理職登用率も先進国中で最低レベル。

したがって、リストラで人員が減り、さらに多忙になった父親が、育児をかえりみる時間などない。育児を一人でかかえる母親も、頼りにできる地域コミュニティはない。

学校は学校で、新自由主義の自己責任の哲学のあおりを受け、教師に対する評価が露骨に「減点方式」になり、教育現場は逆に「事なかれ主義」が強化される。

大学も、ごく少数の高偏差値大学を除いては、少子化によって大学全入時代となり、卒業生がどれだけ良い就職をしたかで選別されるようになる。その結果、大学は「就職予備校」と化す。

さて、こうした社会で、子供が「精神的な成熟」をするチャンスが一体どこにあるだろうか。

さらに突っ込んで考えれば、いったい今の社会で「精神的な成熟」とは何を意味しているのか。

結局、いまの社会で「精神的な成熟」とは、職場の空気になじみ、突出した個性を持たず、長時間のサービス残業にも耐え、サプライチェーンの中で発注元が発注先を強烈なコスト削減圧力で公然といじめる、そういうサラリーマン社会に適用することを意味しているのではないか。

個人的に、こんなもの「精神的な成熟」とはとても呼べないと思う。人間の存在価値が経済効率だけにあるというのは、多様性もクソもない、極めて偏った価値観だからだ。

こういう意味での「精神的な成熟」ができない人間を、「甘えだ」と非難するのは、今の社会の価値観を何も考えず追認しているだけだ。

ただ、百歩譲って経済効率至上主義に滅私奉公するのが「精神的な成熟」とされるのは、仕方ないと認めたとしても、最終的に企業が「新型うつ」のようなかたちで、若者の「精神的な未成熟」のツケを払わされるのは、自業自得である。

もともと子供の教育環境を、「いい会社に入る」という目的に収斂させてしまったのは、企業が社員の採用時に学歴で足切りを続けてきたことと、バブル崩壊後、新卒社員の人材育成を企業間で押し付け合い、即戦力のキャリア採用にシフトした結果だ。

言い方をかえれば、企業が経済効率性の追求だけを考えていればいいと開き直っている限り、逆に、企業は「新型うつ」などのかたちで、そのツケを払わされ続けることになる。

これは、典型的な合成の誤謬だろう。

それでも企業が、「『新型うつ』社員は職場の士気を下げるので困る」などと、経済効率性の追求をしつづけるなら、サラリーマン社会からはじき出された人々は、最終的に生活保護に頼り、結局、国民が税金のかたちでそのツケを払うことになる。

生活保護に頼らざるをえない人口の増加は、国内需要を長期低迷させ、企業業績も低迷される。やはり自業自得だ。

なので、「新型うつは単なる甘えだ」とほざく人々は、自分がこの問題と無関係な安全地帯にいるという幻想を抱いているだけだ。

こうした人々の非難の声が強くなればなるほど、呼び名は「新型うつ」でも何でもいいのだが、とにかく現状のサラリーマン社会に適応できない人々は増えつづけ、結局、生活保護などのかたちで、社会で養わざるを得なくなる。

こういう状態は、社会全体の自業自得、マッチポンプ状態であり、「新型うつ」患者に石を投げても何の解決にもならないことは明らかだ。

ただ、この問題を解決する「劇薬」は存在する。それは僕が以前からこの「愛と苦悩の日記」に書いているような、「自殺(尊厳死)の制度化」だ。

社会が現状を変えようという意思を持たず、自己正当化を続けるなら、そこからはじき出された人々に、生活保護だけでなく、物理的に社会から退場する選択肢を与えるべきである。それが「自殺(尊厳死)の制度化」だ。

そうすれば、「新型うつ」の人々も、病気で苦しむことに「ムダ」な時間を費やすことなく、さっさとあの世に行くことができる。

「新型うつ」の人々や、電車に飛び込んで自殺する人々に対して、「いい迷惑だ!」と石を投げる社会は、そうした人々を送り込む「収容所」や「ガス室」を望んでいる社会だということを、認めるべきではないか。

そんな社会が、果たして「良い社会」と言えるのかどうかは、はなはだ疑問だが。

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