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ビーイング事件簿一覧

 

INDEX

 KIX・Sの末路
 WANDS事件
 宇多田 vs 倉木騒動
 「作詞 大黒摩季 ビーイングスタッフ」

 

※ビーイングとは
 1978年、長戸大幸氏によって作られた音楽制作のためのグループである。所属していたタレントは、下記タレントのほかにB’zやZARDなどがあげられる。通常のタレントマネージメント会社が一つの会社で複数のタレントをマネージメントし、マネージメントの他の事業もかねるのに対し、一つのタレント、一つの事業に一つの会社を立ち上げ経営するというシステムを用いた。
 ※詳細はフリー百科事典「ウィキペディア」の、「ビーイング」の項
 「一アーティストに一会社(事務所)」という形式を用いたのである。
 この原則は倉木麻衣他が所属するGIZAによって崩されたが、アーティストや会社の収入を会社の株にかえるなど、税金対策のために会社をわけたのではないだろうか。
 この一大グループとして存在するタレント事務所は、1992〜3年頃、レコード会社へも手を広げ、他のレコード会社に所属していたアーティストたちをひきあげてレーベルをいくつか作った。これも、自社内に利益をとどめるための方策だったろう。
 しかし、こうして作った会社などに金が集まる黄金期がいつまでも続くはずがなく、時間が経つにつれてさまざまな目に見えるトラブルを巻き起こすようになっていった。
 これはそのときの事件簿である。

 

◆ KIX・Sの末路 ◆

 KIX・Sとは、安宅美春(vo)浜口司(g)の二人で構成された女性ロックグループであり、1991年「KIX・S」としてデビューし、翌年「また逢える…」のヒットでブレイクした。

 うち、安宅美春はKIX・S結成前にB’zの松本孝弘のプロデュースの元に日本初の女性ソロギタリストとしてデビューを果たしている。そもそもこの経緯からしてマネージメントはビーイングが行っていたらしく、「KIX・S」を結成してからは女性版B’zと呼ばれていたこともある。
 「もう一度TENDERNESS」「LOVIN' YOU」などでスマッシュヒットを飛ばしたが、この1994年2月に発売しスマッシュ・ヒットを飛ばした「LOVIN' YOU」が、翌年1995年10月発売(コンサートの出し物として作られた曲だそうで、公式発表は7月のツアー時)B’zの「LOVE PHANTOM」で盗作されることとなる
 それからなぜか1995年4月発売のKIX・Sのシングル『NAKED WOMAN』、アルバム『BODY』共に、それまで編曲を担当していたビーイング所属の葉山たけしが編曲から手をひき、1996年2月発売の『GORGEOUS』からはSUPERVISORとしてそれまでのアルバムに名を連ねていたビーイング中島正雄が手をひいた。
 それにつれてKIXSの売り上げも伸び悩み、1997年アルバム『Sunrise』を最後に楽曲制作は中止、「THE KIX・S」と名を改め二枚のベストアルバムを出して解散した。
 B’z松本孝弘の盗作と、このKIX・Sの楽曲制作にどう関係があったのか、水面下で何かあったのかはわからない。コンサートは半年前にはチケットが売り出されるし、安宅らがアルバム制作に入った頃、既に「LOVE PHANTOM」は出来上がっていたかもしれないし、出来ていなかったかもしれない。それでビーイングがKIX・Sのプロモーションから手をひいたのか。それはわからない。それとも盗作そのものが作品作りに精神的なダメージを与えダメになってしまったのか。それも謎である。

 しかし一番わからないのは、自分がプロデュースしてデビューさせたアーティストの、どんな神経をしてその楽曲を盗めるのか、それが一番わからないのである。

◆ WANDS事件 ◆

 「WANDS」とは、B’zと同じビーイングに所属し、1991年に大島康祐(key)、上杉昇(vo)、柴崎浩(G)の三人で結成され「寂しさは秋の色」でデビューしたグループである。1992年、大島から木村真也にメンバーチェンジして、第二期「WANDS」となり、「時の扉」がヒットするや、「恋せよ乙女」「世界が終わるまでは」など数々のヒットを飛ばした。(詳細はWANDS公式ホームページ
 この「WANDS」が立て続けにヒットを飛ばした後、1996年の2月に「WORST CRIME 〜About a rock star who was a swindler〜 / Blind To My Heart」沈黙。上杉、柴崎らは次第にポップス路線からロック路線へと移行していったが、音楽性の違いからボーカルの上杉とギターの柴崎は1997年初頭ビーイングを脱退することになった。
 しかしこれは円満移籍ではなかったらしい。
 まず、ビーイングは「WANDS」の沈黙期に相当する1996年の6月「WANDS」のグループ名を特許庁に商標登録してしまい(特許庁ホームページ「特許電子図書館」商標出願・登録情報検索参照)、移籍後、上杉と柴崎が「WANDS」として活動できないようにしてしまった。この結果WANDSメンバー3名中、中でもグループの顔であるボーカル上杉とギター柴崎の二名が再び音楽活動しようとしたとき、本来なら移籍後、そのままバンド名をひきついでバンド活動をするところ、別のバンド名をつけて活動をせねばならなくなった。(本人たちがどう言おうとこの事実は歴然として二人の前に立ちはだかったはずである)
 次にテレビから上杉・柴崎が全く姿を消してしまった
 過去の作品の売れた順位を紹介するカウントダウン番組などでは、必ず上位に位置するはずなのに、フジテレビではランキングを欠番にして放送し映像を流さず、日本テレビ「FAN」では、中山美穂とデュエットした「世界中の誰よりきっと」を、中山美穂のみのイラストにさしかえ、曲を流すということをした(ちなみに各所でトラブルを起こしていた松田聖子もイラストだった)。
 おそらく、あの二人をテレビ画面に出すのならB’zなどの以降の出演は断るなどと言ったのではないだろうか。
 少なくとも二人が一切テレビ画面から消されてしまったのは事実である。
 さらに、新生「WANDS」として第三期「WANDS」をデビューさせ、そのボーカルに上杉昇の声そっくりの和久次郎を起用し、上杉つぶしにかかった。CMフィルムでさえ、ボーカル和久の姿がわかりずらいように、いかにも久しぶりに上杉がグループの顔で「WANDS」が再登場したかのように装っていたし、ファンも一瞬騙された。

 しかし、第二期「WANDS」から第三期「WANDS」まで、若干のブランクがあったけれども、ファンが彼らの存在を忘れるはずもなく、待ちに待った「WANDS」かと思いきや、別人で、しかも辞めた本人たちとどんなトラブルがあったかしらないが、ファンにはとてもわかりやすい活動の邪魔をしているとあって、第三期WANDSは瞬く間に陰が薄くなってしまったのである。
 ビーイングとしては、売れ線の曲にタイアップをつけてただ歌手に歌わせていたつもりだったのかもしれないが、そもそもあのバンドが売れたのは、それぞれの構成員の個性であり、上杉の深みのある声、表現力、歌詞であって、売り方の問題だけではなかったのである。
 所詮音楽を商売の道具としか考ていない連中は、その道具が反乱を起こすと捨てて見えなくすればなんとかなると思っている。
 ビーイングがおそろしく株を落とした事件であった。

 ちなみに「WANDS」は第三期、ほぼ鳴かず飛ばずで2000年に解散している。

◆ 宇多田 vs 倉木騒動 ◆

 B’zが『Pleasure』で500万枚の売上を記録し、日本歴代1位のアルバム記録を作ったのを、はるかに上回る枚数で抜いたのが当時15歳の新人ミュージシャン宇多田ヒカルだった。
 宇多田はこれ以前にアメリカで一度「キュービックU」としてデビューし、その後日本でデビューしたという経緯をもつ。
 これと同じ経緯をたどってビーイングがデビューさせたのが倉木麻衣だった。倉木は宇多田と同じ年で、声の感じも宇多田に似ている。曲の傾向も同じようなものだった。倉木本人が「宇多田さんと間違えて売れたらいい」と言ったように、まさしくそれをねらってビーイングが売り出した新人だった。(一説に大手事務所に所属していない宇多田にマネージメントを持ち込んだビーイングが断られたのを逆恨みし、意趣返しに声や年格好の似ている倉木を探し出してきて同じ手続きを踏ませたという噂もある。どこかできいた話…。
 ことは宇多田がフジテレビの歌番組「HEY! HEY! HEY!」に出演していたとき、司会のダウンタウン浜田雅功が宇多田に「おまえパクったやつおるやないけ」というふうに言ったのに対し、宇多田が否定せず、収録していた会場の客も「あ〜(倉木)」とうなずいたことで、ビーイング側が騒ぎ立てたという事件である。
 結果この発言をした浜田と所属事務所ならびに番組プロデューサーが倉木に謝りに行かされたということがあった。(謝らなければB’zなどの所属アーティストを出演させないと言ったからとか、フジテレビのスタジオ前で街宣カーを使っていやがらせさせたからという噂もある)さらに倉木が宇多田のファンだと言い張るため、宇多田側が宇多田のコンサートに倉木を招待し、楽屋にまで呼んで握手の仲直りをした(させられた)ということがあった。
 これで倉木の知名度は一気にあがったが、結局は実力がともなわないためか、右肩下がりに人気がおち、今は見るかげもない。
 ちなみに、この倉木は主に学業優先と称しプロモーションビデオやCDジャケットのみでしかその姿を見せていなかったのが、大学入学式のときにマスコミのカメラの前に姿を表し、真ん丸の輪郭を宇多田にイメージが似るよう細みに修正していたことが判明した。

◆ 「作詞 大黒摩季 ビーイングスタッフ」 ◆

 大黒摩季がビーイングから移籍した後、契約途中の強引な移籍だったためかビーイングのレーベルから大黒摩季のベストアルバムが発売された。そのときの歌詞のクレジットが「作詞 大黒摩季」から、「作詞 大黒摩季 ビーイングスタッフ」に改められていたのだ。
 確かに曲作りの最中であってみれば、スタッフが口を出したり書き加えたりすることもあるだろう。しかしいったん単独で作詞としたのなら、それを貫くべきであるのに、いやがらせに「作詞は一人でしていたのではありません」と言わんばかりにばらしたのである。
 ちなみにこの後ビーイング所属の歌手が単独で作詞したものはすべて、ビーイングスタッフが手を加えているものと疑われ、「作詞 稲葉浩志 ビーイングスタッフ」「作詞 倉木麻衣 ビーイングスタッフ」などと吹聴されるにいたった。

(文責・糺)


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