在沖縄米軍による反日・侮日教育

 皆様、こんばんは! さきほど、沖縄戦で戦死されました英霊に対し黙祷を奉げてくださいまして、ありがとうございました。私の伯母も、ひめゆり部隊で戦死いたしました。戦死公報を見ますと、「昭和20年6月、沖縄本島島尻付近において戦死」ということだけで、最期の場所は分からないのであります。私の母も、疎開する途中、例の「対馬丸」に乗っておりまして、九死に一生を得ました。しかし、私は国家を決して恨んでおりません。
 今から私は、皆さんがビックリするようなことを申し上げます。私は少年時代、学校教育を沖縄で受けました。沖縄を統治していた米軍政府の中に米陸軍第8心理作戦部隊というのがありました。これが、とんでもない教育をしておりました。どういった教育かというと、反日・侮日教育であります。前県知事と今の県知事などは、そういったウイルスが頭に残っているような方であります。
 私が小学校時代に教わった内容は二つの柱がありました。その一つは、戦前、沖縄県民は差別されていた。その帰結が沖縄戦における惨劇であるというものです。もう一つは、日本軍は沖縄住民を保護するという視点がなかった、というものでした。そういうことを教室や地元マスメディアから絶えず言われていました。一方私は、物心ついた時には、もう母に連れられて亡き伯母の供養のために沖縄本島の南部地域を何箇所か定期的に回っておりましたから、非常に複雑な思いで少年時代を過ごしました。

日本軍は県民保護につとめた

 ところが私は、中学から九州の学校に遊学しました。そして防衛大学校に進んで行くうちに、隠されていた史実を発見したのであります。帝国陸海軍も、旧内務省も、沖縄県民の保護のために、ありとあらゆることをいたしました。それをこれからご紹介申し上げます。
 その前に平成9年頃、橋本元総理が、沖縄問題が拗れた時にかなり補助金をばら撒きまして、「対馬丸」記念館というのを那覇市に建設致しました。そこに行きますと、ああ何と沖縄県民は悲劇を強いられたか、と思えるわけでありますが、これから申し上げる数字はそれを吹き飛ばすようなものであります。
 内務省は昭和19年7月7日に、沖縄県に対して疎開勧告を出しました。これは、非戦闘員、女子及び60歳以上16歳未満の男子、約10万人を、県外と沖縄本島の北部の山岳地帯に疎開させるという計画であります。その結果、10万人を遥かに上回る16万人が疎開し、命が救われました。それに要した船舶はのべ187隻。撃沈された船舶は「対馬丸」以下6隻、犠牲者は約3000人見当です。ところが地元メディアや教職員会は疎開の話を「対馬丸」沈没による学童738人の遭難にのみ集約するのです。従って沖縄修学旅行に来る青少年はこの「対馬丸」記念館を見ると、「日本は沖縄に何と多くの犠牲を強いたのだろう、しかも学童にまで」と解釈し、同情をするわけであります。以上のとおり、米軍上陸までに国は必死になって疎開活動を実施致しました。

戦闘艦に乗せて住民を助ける

 次は米軍上陸前後の住民保護について申し上げます。疎開は昭和19年の8月から開始されました。そして昭和20年の3月上旬で打ち切られるわけですけれども、それからがまた大変だったんです。帝国海軍は、内規として、戦闘艦に一般住民は乗せてはいけないことになっていました。ところが、沖縄戦が始まるギリギリまで、海軍の艦艇が港に横付けして、一般の婦女子を乗せて高速で九州に向かったという史実があります。これは救助された人達が証言しているんです。
 一つ紹介します。私が懇意にしている、真喜志(まきし)文子という79歳の老婆がおられます。この方の話を聞きますと、父母を疎開させるために那覇港に見送りに来たら、水兵がたくさん艦から降りて来て、「艦長命令です! 全員乗ってください。まもなく米軍は上陸します」ということで、そこにいた人力車の車夫から、労働者まで、かたっぱしから三隻の艦艇に乗せられたそうです。そして、那覇港を出たら高速で「之の字運動」を繰返しながら熊本の三角港に入った。その結果、この一家は全員助かっているのであります。このように帝国陸海軍は、米軍が上陸する沖縄戦の直前まで、住民の疎開に死力を尽くしたわけであります。
 そして、米軍が上陸して来た。米軍は本島中部に上陸し、南下した。帝国陸軍も本島南部で決戦をするつもりでおりました。沖縄本島が分断されたものですから、もう本島北部山岳地帯への疎開も不可能になりました。この時どうしたか。沖縄の新聞や朝日新聞は、軍は住民を保護しなかったといっているんですけれども、救助された老婆が証言しております。私がお話しているのは全部証言にもとづいておりますので、いつ左翼から攻撃されても十分切り返すことができます。
どういうことかといいますと、沖縄県の首里・那覇は人口密集地だったんです。そこは、本来なら沖縄県の警察が避難誘導をするべきだったんですね。ところが、警察官は逃げていないものですから、憲兵が各家を一軒一軒回って避難誘導したんです。そのことを富名腰(ふなこし)ツルさんというお婆ちゃんが今から10年前に証言しています。「自分の家で死ぬのが本望です」といったら憲兵に叱責されたというんですね。「死に急ぐな! 生きることを考えなさい」といって説諭され避難壕に誘導された。その憲兵は避難住民に兵糧まで配給し、「勝利の日にまた会いましょう」といって敬礼をして、そしてまた戦場に戻って行って戦死されたそうです。私は以上の史実を、本来なら教科書に載せるべきだと思います。(拍手)

米軍に追いつめられた

 「沖縄人は差別された」というくだらんことを言う者がおりますけれども、疎開して九州に行った沖縄の子供達はどうしていたかと言いますと、皇后陛下からビスケットとか饅頭を下賜されました。わざわざ皇后陛下が詠まれたお歌までいただいている状況であります。
 それで、次がもっと問題であります。沖縄戦がいよいよ激化しますと、避難住民が次々と戦闘用の壕に流入してくるのであります。私は伯母の最期を知りたくて、ひめゆり部隊女子学徒の証言集を時々読んでいるんですけれども、当時は今とは全然違う状況であります。米軍は壕の前で、投降勧告に応じなければすかさずガス弾を投入し、火炎放射器で攻撃したのです。
 このひめゆり部隊を引率している陸軍の将校や下士官達が、「あなた方は生きて沖縄のために尽くしなさい」と言いました。すると、女子学徒は何と言ったと思いますか。

渡嘉敷島の「集団自決跡地」の碑


「死ぬ時まで一緒といいながら、ここに至って投降せよというんですか」といって、くってかかったのです。こういった証言がいくつも残っているんですね。ですから、帝国陸軍の将校とか下士官達が、抜刀して、「ここまで言っても分からぬのか、たたっ斬るぞ」といって、壕の外に追い出して投降させた。そういう風にして救助されて、今日、生きている当時の女子学徒が多数いるのであります。

沖縄平和祈念資料館展示の嘘

 ところが、みなさん、沖縄に沖縄平和祈念資料館というのがあります。そこに行かれますと、戦闘中における壕の中の生活が蝋
人形で再現されています。母子に対して着剣した兵士が威嚇している像があります。こんなのは撤去すべきなんですよ。さっきいったように、ひめゆり学徒の証言、他の方々の証言を総合しますと、ああいった極限状態で、「みなさん、早く投降してください」といわれてそれに従ったら、同じ沖縄県民からも恨まれるという状況があったのです。それで、着剣して、強制的に壕から出して、助けたという例が多々あったのであります。本島南部でも着剣して自決しようとした住民を威嚇して投降させています。そのようにして住民を助けた帝国陸軍の方がもしご存命であれば、平和祈念資料館の展示を座間味・渡嘉敷島の集団自決訴訟のように名誉毀損で告訴すべきだと思うんです。(拍手)
 沖縄県が修学旅行で全国から来る青少年の数が一番多いんですが、この青少年が必ず平和祈念資料館でこういったシーンを見せられて帰って行くのです。頭の中には、もう本当に左翼のウイルスが打ち込まれて行くのであります。ひめゆり学徒の証言とか、沖縄戦を生きのびた老婆達の証言を見ていますと、その中に軍から「自決せよ」とか、「死ね」とか言われた話はどこにも、一言も出てこないんですよ。

被害者意識を左翼が利用

 では、一体、何を根拠に日本軍を非難しているかといいますとね、「疎開というのは下心があってやったのだ。次の戦闘力を保存し、戦争に動員するための手段であった」というわけです。私は沖縄県民として恥ずかしく思います。これは戦前からあった沖縄県民の癖であり、日本本土に対する被害者意識であり、ひがみというべきものであって、それが見事に左翼に利用されているのです。
 その次に申し上げます。じゃ、一般兵士はどう戦ったのかといいますと、これも実際にあった話であります。昭和59年5月16日の毎日新聞に出た記事ですが、アメリカのシカゴに住んでいる米陸軍の軍曹だったイラン・ポニックさんという人が、こういうことをいっているんです。「沖縄本島の南部で、両足を銃弾で打ち抜かれて倒れている沖縄の少年がいたので、助け上げて救命していた。すると、日本兵が至近距離まで近づいてきて、狙撃されかかった。ところが、その日本兵は、米兵が少年を介抱しているとわかって銃口を下げた。ポニックさんが『サンキュー』といったら、その日本兵も頭を下げて去っていった」というのです。だから、是非、この日本兵に会って御礼がいいたい、という趣旨の記事だったんですね。


                    沖縄平和祈念資料館の展示

立派だった日本兵の行動

 その日本兵は、千葉県にお住まいの石橋明元上等兵であられたのです。この方は生存されておられるのです。いかにお二人の証言が一致するか、ちょっと紹介させてもらいます。この方は、当時27歳で、球(たま)部隊独立機関銃第18809隊に属していた方です。ちょうど沖縄県の最南端に向かう途中に、県人避難民45名と米兵を発見した。米兵が背を屈めて、日本人の子供に触れていたので、虐待しているのではと思い、後方から近づき米兵の正面に立ち、米兵を撃とうとした。その時、実弾が5発入っていたといいますから、確実に撃てたわけです。ところが、米兵が子供を介抱していることを発見したので、殺す必要は無いと思った。これは昭和20年6月20日のことでした。沖縄戦が終結したのが6月23日でありますので、最後の戦いだったんですね。殺す必要は無いと、銃口を下に向け、その場を立ち去ったのです。その次がまた偉いんですよ。近くには避難民とそれを監視していた米兵達がいた。発砲すれば住民も犠牲になるから、ということで発砲を控えたということであります。
 ですから、上は大田實海軍中将から、下はこういう兵士に至るまで、日本の国威と沖縄の将来のために、真剣に戦ったのであります。それをぜひ、理解してほしいのです。(拍手)残念ながら、自衛隊でさえも、最近はこういった歴史教育をしきれなくなって、今回の検定意見撤回を求めた県民大会には、制服自衛官までもが参加しておりました。由々しき問題であります。
 きょう、実は、「新しい歴史教科書をつくる会」が行った記者会見に同席したのですが、その時、私は以上の事を申し上げました。沖縄戦のネガティブなところだけ教科書に掲載するんじゃなくて、今申し上げたことも書いてくれと申し上げました。 

疎開で16万人の命が助かった

 ここでもう一度要点を4点申し上げます。
第一は、疎開計画に基づいて、述べ187隻の船舶と日本軍の車輌をもって16万人の命が助かったという点です。因みに、沖縄戦における非戦闘員の犠牲は、3万6千956人で、この方々の多くは、県の避難勧告に従わなかったからこうなったのであります。はっきり言わしてもらいます。
 第二に、憲兵による避難誘導の話です。この憲兵の方は戦死されました。
 第三に、大田海軍中将が最期の電文を打ちました。その電文の内容はさきほど先生方が申し上げたように、「沖縄県民斯く戦ヘリ、後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」というものであります。佐藤栄作総理は、沖縄が昭和47年に返還された時に、「沖縄県民の労苦に報いることであれば、国費をいくら投入してもいい」とおっしゃられているんです。その結果、平成12年までに約10兆5千億の金が沖縄に投下されました。隣の奄美大島は、過疎で戦前より人口が減っているんですけれども、沖縄県はこれでブクブク太りまして、戦前の人口の2倍を突破し、現在138万人に達しております。

沖縄の米軍基地は23.5%

 第四に、最近、共通一次試験にも変な問題が出るようになってきましたが、「沖縄にある米軍基地は、在日米軍基地の75%が集中している」という、これも大変なデマゴギーであります。実は、在日米軍基地は、沖縄には全国の23.5%しかありません。75%といいますのは「米軍専用施設」の中だけの比率であります。岩国、三沢、佐世保、横須賀等の広大な施設、これら米軍・自衛隊共有施設は分母に含まれていないのであります。ところがこういったデマが、全国民の頭の中にまで組み込まれてしまっているんですね。「沖縄の負担を鑑みて意見を言えない」という国会議員の先生方もいっぱいいらっしゃるのであります。

あきれた山崎拓議員の発言

 はっきり申し上げますけど、あの県民大会の一日前の9月28日、山崎拓代議士が、あの近くの、ラグナ・ガーデンホテルというところに来ました。彼が支援している沖縄出身の国会議員がいるのですけれど、彼の応援弁士として山崎議員が何を言ったかといいますと、「渡海文科大臣は自分の派閥だ。教科書検定意見に反対するように、自分から言っておく」と、公言しているんですよ、みなさん。
 沖縄県民におもねって金をドンドンやると、さっきいったように、対馬丸記念館を建てたり、平和祈念資料館の蝋人形をつくったりします。そこを県内の児童と本土から来た青少年が見て、「ああ、日本軍はけしからんな」と当然思わせられる。左翼のウイルスを頭に充満させて、みんな帰っていくのであります。ですから、厳しい意見や反論も沖縄県民にどんどん言ってください。みなさんは、不要な哀れみをする必要ありません。
 以上で私の話は終わりますが、私はまともな沖縄県民として、勇気を持ってこれからも行動して行きたいと思っております。(拍手)

 
 

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