【看護学生のためのパソコン活用法】

人体解剖見学と標本室の話

〔人体解剖見学実習の目的は?〕

 どこの学校でも1年生のときに生理学と合わせて解剖学があると思います。看護学校のカリキュラム基準では「人体の構造と機能」というらしいですけど、その構造の部分をやるのが解剖学。
 看護学校の場合は、分厚い教科書を使った座学が中心で、その仕上げとして解剖見学実習を行なうところが多いようです。解剖学を教えている講師というのが、だいたい近隣の医科大の解剖学教室の教授なので、その医科大に出向いて解剖を見学させてもらうというのがふつうです。
 医学部に併設された学校(学科)の場合は、授業と並行して学んだことを逐一実際の人体で確認するという方法でやっているところもあるようですが、ふつうの看護専門学校の場合は、通常、見学はたった1回だけということが多いようです。
 医学部では、4人チームくらいで一体の遺体がわりあてられて、それを数ヶ月かけてたんねんにバラしていきます。看護学生はその途中のたった一日を覗かせてもらうだけなので、残念ながら人体各部のすべてを見ることはできません。
 私が学校の解剖見学で某歯科大に行ったときは、解剖台の上の遺体は全身の皮が剥がれて筋肉が露出した状態でした。さらに主要部の血管や神経が剖出してありました。腹や胸部は開いてあるものの、なかの臓器はまったく手つかずで腔内に収まっている状態。
 「壊さない程度に好きに触っていいよ」と言われていたので、腎臓を確認したくて小腸の下を探ってみたのですが、結局わからずじまい。頭部はまったく手つかずだったので、脳やその周辺の膜構造なんかもまったくわかりませんでした。
 事前に、自分が特に確認したい部分について調べてこいと言われて事前学習レポートを提出させられたんですが、まったく意味がない。医学生のおこぼれという感じで、主体的に見学する雰囲気ではありませんでした。
 とういうわけで、結局のところ、解剖見学実習は「人体の構造を学ぶ」というよりは、もっと抽象的な人体についてのイメージを得るためのもの、一種の儀式という意味が強いのかなと思いました。



〔解剖学の理解の役立つのは『人体標本』〕

 教科書の上で解剖学を勉強していると、次第に知的好奇心が駆り立てられる感じがしてきます。いくら図や写真、言葉で説明されても、よくわからない。3次元的な構造や、つながりを理解するには、やっぱり現物を見るのがいちばん。というわけで、そんなまどろっこしい説明をしないで、現物をいまここに出してよ! と思ってしまうわけです。
 解剖学って人体各部の名称を覚えることに終始しがちですが、いちばん大切なのは見えない体の内部を、自分のあたまのなかで描ける、イメージできるというところにあるんじゃないでしょうか。
 その点で、たった一日だけの解剖見学実習では、ただの解剖体を見たという強烈な経験で終わってしまって、冷静な学習というのには不十分。医学生のように長い時間をかけて人体細部を探索できればいいんでしょうけどね。
 そこで看護学生として、解剖学の勉強にいちばん役立つのは『人体標本』を見ることじゃないかなと思うようになりました。人体標本というのは、要するにホルマリン漬けのヒトの体。どういうわけだが私の通っている学校にも瓶詰めになった心臓やら小腸、肺、大動脈、肝臓などの標本が教材室の奥深くに眠っています。
 心臓とかの各臓器だけに切り離されてしまうと、あまり意味がないのですが、医学部の解剖学教室の標本室にはもっと大きな標本、たとえば人体が丸々一体瓶詰めになったような標本があったりします。
 教育用に作られた(加工)されたものなので、解剖学アトラスに載っているような状態、たとえば消化器系なら切断された胴体の前面を開いたもの、泌尿器系なら腸などを切除して腎臓が見えるようになっていたり、といった形で見ることができます。
 テーマ別にわかれて、いろいろなパターンの切り方、開き方をしているので、教科書と照らし合わせながら見ているとホントに勉強になります。
 なんて言ったらいいんでしょう、目の前にあるのは解剖学アトラスでおなじみのアングルなのに、やっぱり目の前にある現実感があるというか、イメージじゃなくて現実として人体をとらえることができるんですよね。
 たとえば女性の骨盤部を正中で輪切りにした断面の標本があります。女性の尿道は3〜4センチと短く、尿路感染で膀胱炎になりやすいという説明と一緒によく図示されているやつです。
 写真でいくら見慣れていてもスケールが違うからイマイチよくわからない。でも、それ実際に目の前にあると3〜4センチというのが目で見てわかる。そうすると自分の小指くらいの長さしかないとういことに気付いて、ホントにこんな短くていいのっていうような印象が生まれてきます。こうして感じたことは忘れることはないでしょう。教科書的に勉強すると数字として丸暗記しがちですが、実際に感覚的にわかってしまえば、3〜4センチという数字なんか覚えなくても「これくらい」と言えるわけです。
 こうして自分の頭のなかで体の構造が描けるようになってくると解剖学っておもしろいと思うようになってくるはず。



〔人体標本はどこで見られる?〕

 とっても勉強に役立つ人体標本ですが、それを見ようとするとちょっとやっかいです。展示しているものがかつて生きていた人の「体」なわけですから、むやみやたらと公開するのは問題があります。アメリカのスミソニアン博物館などではふつうに人体を展示しているみたいですが、日本では一般公開の博物館で人体展示をしているところはほとんどありません。(全国で3ヶ所だけみたい。川崎医大現代医学教育博物館、日本歯科大新潟歯学部医の博物館、津山科学教育博物館)
 現在日本で人体標本を展示している場所といったら、大学医学部や医科大の標本室だけということになります。それも通常は学内者専用で、部外者が立ち入ることはできません。
 医療関係者や医療系の学生なら特別に見学を許可するという施設もあって、そういった場所で勉強させてもらうというのが、かろうじてできることかなと思います。
 私自身は、これまでに東京大学医学部、慈恵医大、神奈川歯科大の標本室に行ったことがあるんですが、このうち東大と神奈川歯科大は個人的なツテで実現したことです。
 各標本室の内容については、倫理的な問題から、あまり詳しく書くわけにはいかないのですが、一般書で公開されている範囲で紹介したいと思います。


 《慈恵医大》

 比較的自由に見学できるのが東京の新橋にある慈恵医大で、ここはコメディカルの学生なら特に予約などもいらず勝手に標本室に入ることができます。展示室自体は広くて標本点数も多いのですが、古い病理標本ばかりで状態もよくないので、はっきりいって解剖学の勉強にはちょっと????です。強いていえば奇形児の標本は充実していた気がします。あと体の全臓器が左右逆になっている胴体の標本があったのも印象に残っています。
 比較的標本室管理には力を入れているはずなのですが、わざわざ遠くから電車代をかけてまで行くほどでもないなという感じでした。まあ、首都圏では唯一フリーパスで入れる標本室なんで、それなりの意味はあるかもしれません。標本室の詳細は、慈恵医大のホームページに載ってます。(リンク元をたどられたくないので、リンクは張りません。Yahooかなんかで探してくださいね)

 《神奈川歯科大学》

 もう退官してしまったんですが、神奈川歯科大学には横地千仭氏という有名な解剖学の先生がいました。本屋の医学書コーナーに行くと解剖アトラスが何種類もありますが、そのほとんどは洋書の翻訳。もちろん載っている写真も西洋人のものが大半です。日本人が書いた解剖アトラスもわずかながらあるのですが、どの本をみても使われている写真は同じものばかり。その標本の制作者が神奈川歯科大の横地氏なんです。
 そんなわけで、神奈川歯科大は、解剖学ではちょっとした有名な学校です。その標本室には横地氏の作品(?)がずらっと並んでいて圧巻。
 医学書院の解剖生理学の教科書の口絵写真に使われているのも、神奈川歯科大の所蔵品で、標本室に入ると口絵写真でお馴染みの筋骨粒々の男の人の全身筋肉標本が出迎えてくれます。透明なアクリルケースの中に立っているんですが、どこも固定されておらず、どうして倒れないのかとっても不思議。
 神奈川歯科大は正常標本が多いのが大きな特徴です。それこそホントに解剖アトラスの現物が並んでいるわけですから、解剖学を勉強している人にとってはこれ以上はないってほどの充実度。部屋自体は決して広いわけではないのですが、テキストをもって一日中籠もっていたいほどでした。
 ここがいちばんお奨めの標本室なんですが、コメディカル向けにも特に公開はしていないようです。私が行ったのは個人的なツテで話を通して予約のうえ、見学させてもらいました。
 ただし、この学校はとってもかわっていて、歯科大入学希望者のためのオープンキャンパスのときの見学コースに標本室が含まれています。一般の人が見るにはちょっと刺激が強すぎるかなという気がする内容なんですけどね。特に身分証明や予約がいるものではないので入学希望者に紛れて行けば、標本室に入ることはできます。(そんな姑息な手は使わずとも看護学生として熱意を持ってお願いすればきっとOKしてくれると思いますが…)

 《東京大学医学部》

 日本の近代医学が集大成されているともいえる東大医学部の標本室。ここのコレクションもすごい。医学史の教科書に載っているような珍しい標本が目白押しなんですが、残念ながら多くは病理標本。解剖学の範疇の正常標本もあるんですが、とても神奈川歯科大には及びませんでした。
 正常標本で興味深かったのは、自由に触れられる本物の人骨を継いで作った骨格標本や、プラスティネーションという手で触れられる脳の標本あたりでしょうか。
 プラスティネーションというのは、人体の水分をすべてシリコンで置き換えてしまったタイプの新しい標本。これは液漬けにする必要がないので、その辺に無造作に置いておけますし、自由に手で取って見ることもできるという画期的なもの。
 ドイツで開発されたもので、日本ではこれを作っているのは東大と順天堂大学、慈恵医大くらいなもの。かつて東京科学博物館で開かれた展覧会でドイツの本家本元の人体丸ごと標本が展示されて話題になったことがありました。
 東大標本室では心臓と脳のプラスティネーションが自由に触れるようになっています。心臓自体はホルマリン漬けや解剖途中の状態で見たことはありましたが、こうして丸ごとを手にとって眺めるのは初めて。やや堅めですが弾力も残っていて、心房部に入った切り込みを広げて中を覗くこともできます。こうして手に取ってみると心臓という臓器がすごく身近なものに感じられてしまいました。
 私としてはいちばん勉強になったなと思ったのが脳のプラスティネーション。これは側頭あたりから輪切りになった頭蓋に収まる形で展示されていて、脳を自由に取り出してみることができます。脳は上から見て4つに切り離されていて、さらに小脳もはずれる。つまり立体パズルのようになっているんです。
 いちどバラバラにしてしまうと、意外と元に戻せないもの。やっぱり立体物として脳を理解していないんだなと思いました。こうしてさんざん脳と頭蓋骨を手に取って眺めていたせいか、あとで学校でやった脳外科系の疾患の授業でCT画像を見て、なんとなく実像がイメージできて嬉しかったのを覚えています。
 東大標本室は、医学全般の標本室とすればたぶん日本一だと思います。今ではもう見られないような、重度の結核患者の臓器や梅毒の末期状態などが見られるのは、たぶんここだけでしょう。あまり詳しくは書けないのですが、傑出人の脳として有名人の脳がコレクションされていたり、エジプトのミイラと日本のミイラの対比、法医標本、刺青、寄生虫、医学の歴史に関するもの、原爆関係など、医学博物館として立派なコレクションを誇っています。
 また各大学で標本室の予算が削られて縮小傾向にあるなかで、きちんと管理者がいて定期的に薬液の交換を行なっているのもとても珍しく、お陰でどの標本もとても綺麗な状態が保たれています。
 医療者ならぜひ一度は訪れたい場所なんですが、東大標本室は見学者管理が厳しく、医療者といえど学内関係者以外はほとんど見ることはできないようです。看護学生の学校単位の見学は受け入れているようですが、その場合も事前学習やレポートの提出など、かなり細かいところまでチェックされるとか。どうしても行きたいという人は自分の学校の校長などに働きかけて、学校単位の見学を実現させるくらいしかなさそうです。

〜今回のネタ本〜

全国の人体標本展示施設を紹介しためずらしいガイドブックが「人、ヒトにであう―全国標本展示ガイドブック」(坂井建雄・小林身哉編、風人社、1999、¥1,890)。紹介されている施設のほとんどは医学部の標本室で、一般公開されているものではない。しかし医療関係者なら可能な場合が多い。

人、ヒトにであう―全国標本展示ガイドブック



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