惑星開発委員会の善良な市民(宇野)氏を批判する

参考:

第二次惑星開発委員会

「善良な市民」(宇野)氏の発言抜粋

関連記事:

惑星開発委員会の善良な市民(宇野)氏を分析する

「ゼロ年代の想像力」に対する批判者のためのメモ書き

「共同体主義」⇒「個人主義」⇒「決断主義」(⇒「共同体主義」)

惑星開発委員会の宇野常寛氏を批判する 2007

注意書き

本文中,特に最初にアップロードしたバージョン中で,対面での会話を基にした文章がありますが,互いに「言った・言わない」の水掛け論になる可能性があること,また元が会話内容であるため,私というフィルターを通したものであることを前提としてください.


§0前書き

惑星開発委員会が批判している対象への批判があまりにレベルの低いものであったから,私は惑星開発委員会に関わった.だが,いまや,惑星開発委員会への批判があまりに低レベルだと感じる.だから,惑星開発委員会へのまっとうな反論を書きたいと思った.そこでここに文章を公開する次第である.本文を読まれるあなた方に対して,いくつか前書きしたい.

惑星開発委員会の善良な市民(宇野)さんの主張で,賛同できるのは,

対談 「ゼロ年代にネットで何かを伝えるということ」

「ブログでヌルく群れあっている奴等は死ね」

http://www.geocities.jp/wakusei2nd/p01.html

に代表されるような態度,

という二点である.したがって私も,「書いてから発表するまでに一ヶ月あける」「発表してから再びレスポンスするまでに一ヶ月あける」という制限を自分に課することにした.これを書いたときから一ヶ月以上,意見表明等の応答は控えることにする.(明確な訂正等の批判は受け付けるが,誉めるとか嫌うといった感情的応答に対しては応答を一ヶ月待ってもらう)

さらには,ウェブ上の自分を知っている人との接触を公開後一ヶ月間控えることにする.それは,人間関係的側面から自分の書いたものに賛同したり反論したりする行動を慎ませるためである.評論は人間関係から距離を置かなくてはならない.

 

何故このような形でまとめて文章を上げることにしたのか,一つ目の理由はいちいち「当てつけなんじゃないか」と邪推されるのがつまらなかった,ということである.批判したいことがあるのならばそのたびごとに反論すればいいのだが,そういう反論が細切れに消費され,馴れ合いゲームに使われてしまうことを批判するのが惑星開発委員会の善良な市民(宇野)氏だ.そして,論争を馴れ合いゲームの駒に使うべきではない,という主張そのものについて,私は彼に同意する.

である以上,馴れ合いゲームとして消費されない分量の反論を書くことが必要だと思ったのであり,だから今私は,内容について誰とも相談せずに,この原稿を書いているのだ.この場を馴れ合いの場にしないためにも,軽はずみな賛同は避けて欲しい.彼のルールの上で彼に反論するという縛りを,ここに設けようと思う.

二つ目の理由は,同人誌の製作に関わっている立場として,彼の主張の完成形を見たいと思った,ということがある.同人誌の製作中に,私が反論を書くと,彼の文章はそれにたいする当てつけに終始したものになってしまい,彼自身の意見が同人誌に反映されなくなってしまう.だが私は,彼自身の意見,厭味パフォーマンスでない彼自身の主張というものを知りたかった.彼自身の主張の完成形としての『PLANETS Vol.2』を見たいと思ったし,関わった以上は一つの本が完成するまでは反論を控えることにしたのだ.

 

以上を踏まえ,惑星開発委員会の善良な市民氏への批判を始める前に,読者の方々に二点「お願い」したいことがある.これは「お願い」であり,強制ではない.提案でありアドバイスである.一つは「噴き上がるな」(人格攻撃や,「社会が悪い」系の発言をするな)もう一つは「馴れ合うな」である.私は惑星開発委員会はのポリシーには,半分は賛成できるし,だから今まで一緒にやってきた.その賛成できるポリシーとは,「噴き上がるな」であり「馴れ合うな」である.しかし,問題は,彼のポリシーの一部が,彼自身の行動と矛盾していないか,ということなのである.その矛盾点を浮き彫りにするため,私はいまこの文章を書いている.読者の方々には,個人的人間関係を背景としている(と思われかねない)ような賛同は控えて欲しい.それこそ,「ネットの馴れ合いでダメになった議論のサンプル」にされるだけである.議論がどこまで人間関係から独立したものとしてあり得るのか,それを実験したい.

 

色々な人間から一時的な好き嫌いの評価を貰って,喜んだり腹を立てたりするような醜態は晒したくない.それは言論のためにならない.繰り返すが,言論は個人的な人間関係から距離を置かなくてはならない.このことを私は惑星開発委員会から教わった.意見のある方はメール(tenkyoin2アットマークinfoseek.jp)等でお願いしたいが,今意見しても一ヵ月後に意見しても返答は一ヵ月後である.受け取った意見に対しては,既存の人間関係や感情論抜きに平等に応対したい.「耳に痛い反論だから無視する」ということはしない.

§1:方法論の問題

善良な市民(宇野)氏の方法論をまとめておこう.

彼は,相手をまず極端な場に位置づけようとする.それは,「極端でない自分」という立場を保持するためであるように思える.彼は,このような言い方を用いる

「あなたはブンカ系パフォーマンスで悦に入ろうとしている」

「あなたは現実逃避の道具として現代思想を使っている」

「あなたは現実で恋愛できないことからの逃避のためにフィクションを利用している」

「あなたはただのオタクじゃない自分を見せようと頑張っている」

「あなたは大学で人文とかやっちゃうキモオタである」

と.

 

これに対する反論が出てくるのは当然だが,そこで反論が出てくることこそが彼の作戦の内である.「そうやってムキになるところがキモいのだ」「あなたが私の分類に少しも当てはまらないなんてことがありますか? それはウソでしょう? 現実から逃げてますよ」という二の矢を,彼は予め用意している.

そう言われると,これらの批判は多くの人が,多少なりとも当てはまると思うことなので,「そう言われればそうだけど……」と口をつぐんでしまう.

こうして反論しようとした人間は,「自分はそんなに極端な人間ではないよ」と言おうとしたはずが「このような性質が少しも無いだなんて言わせない」と微妙に論点をズラされた形で再反論されてしまうのである.そして,彼は自分が出会ってきた「キモオタ」や,ネットで見かけた「キモサブカル」がどれほど酷いかを語り,自分のペースの中でのみ論を構築しようとする.

このやり方を見て,私が思い起こすのは,テレビ番組で「毒舌」と呼ばれるような占い師や,自己啓発セミナー(特に「管理職養成セミナー」というような呼ばれ方をするもの)の類だ.「恋愛関係にやましいことがあるでしょう?」「学歴にコンプレックスがあるでしょう?」といった誰でも少しは当てはまるようなことを言って,相手の反応を伺うのが占い師のやり方であり,相手のこれまでの人生がどれほど愚かなものだったかを思い知らせるのが自己啓発セミナーの第一段階であるように(「コールドリーディング」と言ってもいいかもしれないが,彼のやり方はもう少し煽動的だ.相手に無条件に同意させることによって論拠を得るのが「コールドリーディング」であるのに対し,彼の方法論は相手に無条件に反発させることによって論拠を得るものである).このやり方がカルトや管理者養成セミナーの「被験者がどれだけ弱い人間であるかを思い知らせる」プログラムに類似していることに注意しなくてはならない.

 

こういった方法論の変形として「沈黙の螺旋」というものがある.小森陽一はこう解説している.

ナチスドイツがつくりあげた,「沈黙の螺旋」という仕掛けがあります.解散から総選挙に入るプロセスが,見事にその通りだった.

沈黙の螺旋は四段階.第一段階は,権力者が大声で「これが緊急の課題だ」と,それまで誰も関心がなかったことについて言う.だから当座は明確な批判や反論が出ません.そして二段階目で,明確な批判が出てこないからその課題は正しかったとしてしまう.三段階目は,遅れて出てきた批判は日国民的意見として排除する.四段階目は大勢に乗り遅れるのを恐れて批判がなくなっていく

(孫引きであるが,香山リカ『テレビの罠』p117より)

「ゼロ年代に入ると,いい加減「終わりなき日常」という物語が「死」という最大の問題から目をそらしていたことのツケが回ってきて,どんどんこのモードに浸かっていたバカな連中が時代に置いていかれている.「セカイ系」の流行は最後の悪あがきみたいなものでしょうね.」(『PLANTS VOL.2 p79)とある..保身を考える人たちは,下手に反論すると馬鹿に見えてしまうので「あえて反論しない」というスノッブな態度を取り,保身を考えない人は彼のシナリオ通りに反論し醜態を晒して,「キモオタのサンプル」にされてしまうのである.このようにして有益な批判が出なくなっていく.

 

彼は座談会やクロスレビューで頻繁に登場する「一生恋愛できないキモオタ」というのを仮想敵にする.「あの人たちは一生布団をかぶっていじけていればいいと思います」(PLANETS VOL.2 p81)と書いているように.

宇野さんの論法の危ういところは,「こういうことを書くと〜〜と反論してくる人がいるけれど,それは間違っている」という言い方をしているところであり,元の文章の中で仮想敵や仮想愚民を作って,それを叩く,という形を取っている部分だ.

強力なゴキブリホイホイを置いておいたらゴキブリがいっぱいかかっていた,だからこの部屋にはゴキブリがいっぱいいるに違いない,と言っているようなものなのだ.ところが,そのゴキブリホイホイは臭いが強すぎるために,他の部屋のゴキブリまで誘い出してしまったり,ゴキブリでない虫まで捕獲してしまったりしている.それは正当なサンプリングではないだろう.

 

「反論したら『弱さを認めることになる』と思わせる」という戦術は,その戦術ゆえにカルト的なのだ.ここで言う「カルト」とはその具体的内容の反社会性によるのではなく,対等な議論を妨げる論法を用いているという点において定義される.

「反論したら『弱さを認めることになる』と思わせる」という戦術に対して3つの誤った対応があり,それらが議論を対等でないものにさせてしまうのである.そのような煽りに対して,

1.「自分は弱くいじけた人間だと認める」

のは,管理者養成セミナー的な自己啓発セミナーにも通じるある種のカルト(ただしそれは,オウム等の超越型カルトとはまた違う種類だが)の洗脳手法であり,それによって相手は,必要以上に自分を卑下し,またそれを認めさせた相手を崇拝するようになる.「善良な市民(宇野)さんのおかげで,自分がどれだけキモオタかが分かりました」というような,「理想的な読者」の場合がこれにあたる.だが,「キモさ」「いじけさ」「弱さ」といったものは,アナログ的なものであり,「いじけている/いじけていない」と二分できるようなものでもない.誰もが少しずつ「キモく」「いじけて」「弱い」人間であり,個々人の間のパラメータの違いがあるだけだ.そのパラメータを,適切に定量化しない限り,「自分のキモさを過剰に意識する」「自分のいじけさを過剰に意識する」といった,極論を招きかねないのである.

2.「反論する」

これは,前述の「ゴキブリホイホイ論法」である.反論する者が愚かに見えるような仕掛けをしておくことで,「反論するのは全て愚かな人たちである」という誤った推論をさせてしまう.「批判する人はどうせ自分のいじけを認められないんですよ」というのが,その「仕掛け」にあたる.だが,「愚かな批判が目立つ」ことと「批判する者が皆愚かである」こととは,等値ではない.

「悪意を相手に見出す」という,惑星開発委員会を批判する人の陥りやすい罠があり,そういう人は議論を人間関係や好き嫌いの問題に単純化してしまうという点で,惑星開発委員会の善良な市民(宇野)氏の作戦に嵌っている.議論を好き嫌いの問題に矮小化する愚かな人間への再反論は,十分すぎるほどに準備されたものである.「悪意」を相手に見出すのでは,手番を相手に預けてしまうことになるのだ.もしかすると,多少トリッキーではあるものの,「悪意で言っているわけじゃないですよね?」と聞き返し続けることの方が,有効な対応かもしれない.

3.「沈黙する」

反論したら愚かに見えるから反論しない,それがこの三つ目の対応である.それもまた一つの対応ではあるが,惑星開発委員会の影響力は,たぶん,3番目の方法を取っているあなた方が思っているより強い.『PLANETS Vol.2』の宇野・更科対談でも言われているとおり,「エヴァンゲリオン」「野ブタ.をプロデュース」「マンハッタンラブストーリー」などで検索をかけてみればよい.だからこそ問題なのであり,だからこそ私は1番目や2番目への逸脱を避けつつ,このように反論を書いているのである.

 

「煽るな」とは言わない.その代わり逆洗脳を提示し,「煽られるな!」と言うことにする.「ゴキブリになるな!」「クレバーになれ!」「他の部屋のゴキブリホイホイは無視しろ!」と.反論されることを折り込み済みで宇野さんの文章は書かれているんだから,そこにストレートに反論するのは愚かではないか?

宇野:惑星開発委員会に怒り狂っちゃうような人間は,そのレベルまで行けないんですよ.

トリエント公会議出張版(『PLANETS Vol.2』

彼はわざと仮想敵になろうとしているんじゃないだろうか? 「理論武装するオタクたちがショボイ仮想敵を見つけては安心している」「惑星開発委員会を仮想敵にして怒り狂うような奴らはスペックの低いオタクだ」という二つの主張を並べて見たとき,「ショボイ仮想敵=惑星開発委員会」ということになってしまわないだろうか.「自分たちのようなショボイ物に対して対抗意識を燃やすような奴らを自分たちは啓蒙する」という形で,言説の場自体を囲い込み,地盤沈下させていないだろうか.あえて相手に合わせてレベルを低く見せてあげているのかどうかを聞きたいところである.もしそうであるとしたら,「自分たちのレベルは本当は高いけれどあえてレベルを低く見せてあげているのだ」という部分を実証してもらわなくてはなるまい.

 

僕はこれ以上あなた方に,無意味な善良な市民批判を繰り返して欲しくないし,単純な沈黙に陥って欲しくもない.安易な反論は想定済みのシナリオの一部になるだけだ.そのような批判は,すぐさま「コンプレックスの発露」として処理され,彼らの持論を補強するための格好のサンプルにされてしまう.

どうか,読者の方々には当てつけの応酬の中でいじけパフォーマンスを悪化させないで欲しい.本当にいじけている奴は惑星開発委員会を読んでも悪化させるだけだ(これについては後述する).読者のあなたがたの中には,自分で思っているほどキモいわけではなく,「自分はキモいんじゃないか」という不安からコンプレックスを悪化させてしまった人もいるように思う.そういう人の場合はむしろ,キモいはずだと思い込むことの方が問題なのだ.どうか,マッチポンプの片棒を担がないで欲しい.サンプルにされないで欲しい.噴き上がりと噴き上がり批判のループは議論の場自体を詰まらなくすると思う.

 

§2:インテリの価値

ヘタレインテリと本物のインテリの差ということが僕には結局分からなかった.スペックの違い,人間の器の違い,というのを誰が判断するのか,あるいはそれを判断するDSM-IV的なテストチャートでもあるのか,という部分が明瞭にならなかったのである.他の現代思想系オタク評論をこき下ろす一方で,彼は僕を評価した.だが,私だってただの俗人であり,愚民の一人である.文学部の専門講義すら受けていない.私は,幻想の自己肯定感から逃れなくてはならないと考えている.

私はカッコつけるためとか,自己正当化して悦に入るために思想用語やその枠組みを使っているわけではない.それは第一に「面白いから」使っているのだし,付け加えてはそういう思考をすると世の中がクリアに見えるから使っているのだ.勝手に頭がそういうふうに考えてしまうのであって,そこに他意はない.いや,なかった,といった方がいいかもしれない.惑星開発委員会に関わるようになってから,自分は自分が何らかの用語を使うときに,自分はマッピングのどの立ち位置で,どのパフォーマンスとしてその用語を使っているのだろうか,と考えるようになってしまった.それどころか他人に対しても,同じような勘ぐりをするようになってしまった.だけれどもそれは,無駄な労力だったと思う.「自分の立ち位置がカーストのどこにいるか」を意識しながらものを考える,という態度が健全なものだとは思い難い.

§3:コミュニティの「まともさ」は何によって保証されるのか?

「一人で拗ねているよりはコミュニティを作れ」

「ただしキモいコミュニティには属するな!」

と,善良な市民(宇野)氏は主張するが,さて,コミュニティがキモいかキモくないかは何によって判断されるのだろうか.

私は,彼の回答をある程度察することが出来る.それは,「内部に競争や対立をちゃんと持っているコミュニティはキモくない」ということなのだと思う.誉めあうことが不文律化しているコミュニティや,彼の言ういわゆる「白雪姫と7人の小人状態」のコミュニティ,相手を公然と批判することが許されず,カリスマの周りでクネクネと馴れ合っているようなコミュニティは,ヌルくてキモい,というのが彼の意見だと思う.違いますか市民さん?(←善良な市民(宇野)氏ふうに書いてみた) である以上,私は惑星開発委員会をキモくてヌルい場にしないために,公然と批判を向けることとする.

§5:プチ市民の量産を警戒した方がいい

宮台真司や岡田斗司夫のやり方,つまり仮想敵や仮想下層民をそのたびごとに作り上げて,それを蔑みつつ自分の立場の「ハイレベルさ」を示すという方法論には,一つの負の側面がある.それは,彼らのやり方を上辺だけで真似た,強がり・ハッタリだけの,プチ宮台,プチ岡田ばかりが量産されてしまったということである.「田吾作を馬鹿にして生きていれば,自分は少なくとも田吾作じゃないんだ!」(プチ宮台),「ヌルオタを馬鹿にして生きていれば,自分は少なくともヌルオタじゃないんだ!」(プチ岡田)というように.

これは「ニートを馬鹿にして生きれば,自分は少なくとも負け組みじゃないんだ!」と思わせようとする,小泉政権流の方法論にも通じる.

文化の活性化のために,ある程度のハッタリが必要であることを,私は否定しない.価値の序列をあえて持ち込むことで,文化に競争が生まれ,レベルアップに繋がる.だが,そのハッタリが形骸化したとき,文化競争は上辺だけの「自分の方が上だよ」ゲームに陥る.

宇野さんの言説にも,宮台真司や岡田斗司夫の読まれ方と似た危惧を感じる.つまり,「反論しないで宇野さんの言うことを肯定すれば,少なくとも自分はダメオタじゃないんだ」「オタクを馬鹿にして生きていれば,少なくともボクはスクールカースト最下層じゃないんだ!」と思ってしまう読者がいやしないだろうか? という危惧である.

そうすると,彼の人生訓が行き着く先は,「自分より一つ下を見下しなさい」にしかならないんじゃないか,と思うのだ.心理的スケープゴートを作って安心するという心理において,他のカルトと惑星開発(善良な市民)というカルトとはさほど差がないのではないか?

「バカにされたくないから,もっとダメな奴をバカにする」という行動に出る読者がいるのではないか? それを抑止しないでよいのだろうか?

§7:「どうせみんなヌルく生きるしかないのだから」と論じるあなたのヌルさ偏差値はいくつだ?

あと,これも成馬さんと放映期間中によく話してたんですが,ハルヒはちゃんと「つまんない大人」になって欲しいですよね(本当は絶対に今より面白いんだけど).

ハルヒって,実際はたぶんあんな美人じゃなくて「観ようによっては可愛い」くらいの娘じゃないですか.キョンもたぶんあんな無味無臭な外見はしていない.

そんなハルヒがちゃんと「つまんない大人コース」を歩んでくれたら,これ,すごくいい話ですよね.大学で「垢抜けたいんだけどイマイチ乗り切れない」タイプのぬるーい文化系サークルに入って,サークルクラッシュしたり.OLになったあと自分探しでいきなり退職して南の島行ったり語学留学したり(笑).

http://www.geocities.jp/wakusei2nd/haruhi.html

このレベルのスペックの人はこのヌルさで生きなさい.そしてヌルさを自覚しつつ,それを受け入れなさい,と言っているように思える.しかし,ヌルさを自覚した人がヌルく生きるなんてこと,できるんだろうか? 特に善良な市民(宇野)さん本人はどうだろうか?

あるレベルのスペックの人はそれに相応のヌルさを受け入れるべきで,それを超えたロマンを見出すべきではない,確かにその通り.だけれども,ヌルさ偏差値というのがあるのではないか? そして,ヌルさ偏差値55(ここで座標軸は,数字が高い方が「ヌルくない」という方向に取る)は50を見下し,ヌルさ偏差値60は55を見下し,という相対的な問題が存在するのではないだろうか.私は,善良な市民(宇野)氏が,自分のヌルさ偏差値をいくつだと見積もっているのかが気になる.あなたはヌルさ偏差値いくつの立場から,ヌルさ偏差値いくつの立場を俯瞰しているのか? と.

「ヌルさを自覚しつつ,それを受け入れる」ことで人生がプラスに働いた人の事例を聞かせてもらいたいのだ.(ここで,いや自分も確かにヌルさを受け入れているが,キモオタよりはヌルくない.と彼が言うのならば,そこで私は聞くまでである.あなたのヌルさ偏差値はいくつですか? と)

これは反語ではない.私は真面目に,世の中の様々な行動の「ヌルさ偏差値」を定量化するべきだと考えている.そして惑星開発委員会にはそれができる能力があると期待している.それを定量化したところから,有益な議論は始まると思うのだ.どうすればあなたみたいに,自分のヌルさを自覚した上で,世の中のヌルさよりはマシな立場に自分を位置づけることができるのですか? と,善良な市民(宇野)氏に聞きたいところである.

§8:オタクになれない自分を撃て

自分の体験を思い返してみれば,オタクたちの方が,よっぽど日常を楽しんで,ちゃんと仲間を作ってコミュニケーション巧みに生きていたように思う.それは環境の問題なのかもしれないけれど,少なくとも自分はオタクにコンプレックスを感じていた.オタクになりきれない自分の薄さ,ヌルさに劣等感をおぼえた.

日常を楽しむためのツールなら,いくらでも世の中にはある.オタクだって非モテ(の多く)だって,日常を楽しむためにツールとして割り切って遊んでいるように思う.割り切れなくて,幼稚なのは,そこに仮想敵を見出してしまう我われだ.それらを単純に「ロマンを求めてるからダメ,ロマンを求めていないからOK」と線引きするのは,もう使い古されているし,だいいち「ロマンを求めているかどうか」という観点自体が,主観的なものだと思う.

そうではなくて,全ての物語,日常を楽しむツールはある意味で等価だとした上で,そこにいかにして審美的な序列を持ち込むのか,という部分こそ,文化評論とか文化レビューが担うべき場所なんじゃないだろうか

§9:北風と太陽

作品評価に付随する(と本人が思い込んでいる)勝ち負けの価値判断を意識しながら作品に触れることが,「素直」なことだとどうして言えるだろうか? この問題についての分かりやすい例え話として,『美味しんぼ』というマンガの,捕鯨禁止論者にクジラを食べさせる話を思い出してみる(これはよく知られたエピソードの一つとして挙げているだけで,『美味しんぼ』というマンガそれ自体に私は特に関心は無い).クジラを食べるなんて野蛮だと言っている外国人に,その考えを改めさせるため,主人公たちはその食材がクジラだとは言わずにクジラ料理を食わせてしまい,その後で「君が食べたのはクジラだったのだ」と明かす.ここで最初から「お前はクジラを食べないなんていじけている」と煽っていたとしたら,捕鯨禁止論者の彼は決してクジラを食べなかったであろうし,もしかすると主人公たちに反感だけを持つだけだったかもしれない.

同じ構図を,「非オタク文化を認めないオタク」についても考えてみる.「非オタク文化を認めないなんていじけている」と言われた相手が,果たして,惑星開発委員会の薦める「野ブタ.をプロデュース」であったり「マンハッタンラブストーリー」であったりを,「素直」に受容できるだろうか.多少なりとも自意識のある人間であれば,「『野ブタ.』を楽しんだら負けなのではないか,いや負けとか考えているのがダメなんじゃないか……」と考え込んでしまうだろう.そういう自意識は,作品鑑賞にあたっては,特に価値の無いものであると私は思う.少なくとも中高生のうちはそうだ.そのような文化的境界線(「あちら側とこちら側」)や勝ち負けの優劣判断をしないことによってこそ,若いうちだからできる文化的奔放さが得られるのではないか.つまり,啓蒙する側の「もう若者ではない」我々からしてみれば,「あちら側」とか「こちら側」といった文化的線引きがあることは知った上で,それを言わずに,それを意識せずに文化を受容できる環境を用意してあげることこそが,中高生の「素直」な作品受容に通じるのではないかと思うのである.先にクジラを食わせてしまってから,彼や彼女が大学生になった頃に「君が食べたのはクジラだったのだよ」と言えばよいではないか,と.

§10:煽ることで大きくなってしまうオトコノコ問題

惑星開発委員会の善良な市民(宇野)氏はしばしば,彼が言うところの「ムキになってしまうオトコノコ」を皮肉ったり煽ったりするわけだけれども,それは彼らが目的としているところの,「ムキになってしまうオトコノコを健康で文化的な最低限度の生活のラインに乗せてあげること」には,必ずしも繋がらないのではないか,と思う.

コンプレックスを解消させる方法として自己啓発セミナー等で使われるものだが,いわゆる「セルフ・アサーション」というものがある.そのコンプレックスの存在に自ら気づかせ,それをカミングアウトさせ,その上で治療する,というやり方だ.しかし私は「セルフ・アサーション」的な方法が最善だとは限らないのではないか,と思う.このやり方の問題は,煽られることによって,新たなコンプレックスが再生産されてしまう,ということである.

目的を,コンプレックスの少ない,ストレスの少ない,噴き上がりやルサンチマンの少ない社会とするのであれば,必要以上にコンプレックスを煽るのは逆効果なのではないだろうか.喩えとして不用意かもしれないけれども,いわゆる「丑松思想」にはそれ相応の価値があるのではないか.また,煽りに対する「カミングアウト」は,偽のコンプレックスを捏造し,それが攻撃されているのだというシナリオを演じてしまうという,行動化を引き起こしかねないのではないか.そしてそれによって,より根本的なところのコンプレックスは,抑圧されたままになるということにならないだろうか.本当のコンプレックスは本人にしか分からないところにあるのではないか.そうだとしたら,他人から攻撃された部分を「本当のコンプレックスであるかのように」防衛したり解消しようと努力したりするのは,本当のコンプレックスから目を背けさせてしまうことにならないだろうか?

あくまでこれは仮説だが,惑星開発委員会の善良な市民(宇野)氏は,「どうせみんな『オトコノコ』で優越感が欲しいと思っているんだから,その部分は早めに煽って顕在化させ,膿を出させた方が良い」という立場にあるように思う.しかしその前提部分は正しいのだろうか? そもそも,本当にみんながそんな優越感に飢えているんだろうか?

§11:「いじけているじゃないですか?」と聞かれて「ハイ.いじけていますよ」と素直に言える奴はいじけていないし,いじけている奴の「ハイ.いじけていますよ」は皮肉でしかない.

「酸っぱい葡萄なんですよ」これは誰からも反論されない無敵のフレーズだ.何故かと言うと,その通りですと認めたら酸っぱい葡萄的反応であるし,「自分はそんな人間じゃない!」と反論すれば,その行為自体が酸っぱい葡萄的反応になってしまうからだ.従って,「酸っぱい葡萄なんですよ」という,予め反論を封じた言い方は,酸っぱい葡萄から抜け出る道を塞いでしまうことになりかねない.

そういう自意識を持っている時点で,「酸っぱい葡萄」からは逃れられないのではないだろうか.だから,本当に「酸っぱい葡萄」から抜け出ることを目指すのであれば,自意識を離れて何か楽しめる場を提供することが必要になるのではないだろうか.

「酸っぱい葡萄なんですよ」という煽りで素直になれる人間がいるとは思えない.このフレーズは,善良な市民(宇野)氏が,どっちに転んでも(つまり相手がそれを認めても否定しても)彼の体面が保てるような場を作ろうとしているだけのことではないか?

前述の「下を見下すことによる優越感の備給」という話にも繋がるが,その煽りに対して唯一「素直になった振り」ができるのは,「自分は,いじけていることを素直に認められない奴らよりはマシだ」といういじけた自己肯定を正当化した者だけではないだろうか?

§12:今,我々にできること

私は,善良な市民(宇野)氏に「煽るな」「あんな文章を書くな」などと言うつもりは無い.その発言は単に,実効力を持たない「噴き上がり」である.そんなことを言ったところで,各人には各人の好きなように文章を書き,ウェブにアップし,冊子を自費出版する自由がある.私にも,善良な市民(宇野)氏にも.

煽るの大いに結構.オタクメディア批判の文章を書くのも大いに結構.だが,私はこう言おうと思う,「煽られるな!」「愚かなオタクのサンプルになるな!」と.方法論の問題については§1でも述べた通りである.彼に反論しようとする人は,もとの文章にある疑問文に対して「Yesと答えたらどうなるだろう?」「Noと答えたらどうなるだろう?」の両方をシミュレーションし,どちらに転んでも関係ないような状況が作られていないかを検証するのがよいだろう.場合によっては彼は先に母集団を規定して,AはAであると言っているだけかもしれない.

そして,私はコンプレックスやルサンチマンから逃れた地点での評論の可能性を探りたいと思うのだ.他人のルサンチマンを穿り出すことが,書き手本人や読者のルサンチマンからの解放に繋がるとは考え難い.

§13:終りに

これでもう立場は明らかになった.これからは惑星開発という立場を離れてレビュー等を書く,一人の書き手に戻ろうと思う.

回りくどかったかもしれないが,以上が惑星開発委員会の善良な市民さんへの反論である.自分と同じような袋小路で悩んでいる人たちが,少しでも楽になれればと思う.

惑星開発委員会や善良な市民さんの主張・方法論が全部間違っていると言いたいわけではない.私が思うのは,あなたがたのやり方では,啓蒙をやるつもりならば誤った相手に届いてしまうリスクが高いし,「いじけ」を悪化させかねないよ,ということなのだ.誤って受け取ってしまった人,たとえば「自分はキモオタなんじゃないか」という不安に苛まれて,オタクにも非オタクにもなれなくなってしまった臆病な人たちの,フォローのことを私は考えている.

以上.批判するならメール等で.最初のルールと実験を完遂するため,私からの再返答は一ヶ月待っていただければ幸いである.


2006年9月1日

アップロード直前の追記

誰にも予告していなかったので,私が突然このような文章を公開したことに戸惑う人もいるだろうと思います.が,だいぶ前からこれはこれは考えていたことです.議論というのは双方向のものでなくてはいけないと自分は考えています.しかし,現在の善良な市民(宇野)さんは,反論を予め封じるような論法で,読者を囲い込んでしまっているように思うのです.そのような状況において,読者の側には§1で分類したような三通りの愚かな応対がありますが,その三つのどれも上手く機能しているとは思えないのです.誰か自分の代わりに,批判勢力になってくれる人がいるのならば,まだ議論にはバランスが取れたのかもしれません.だけれども,そういう人が現れる様子は無い.である以上,自分自身が風穴を開けるしかないと,思ったのです.

読者からの反応として,著者は最近善良な市民氏とトラブルがあったんじゃないか,という邪推が想定できますが,それは半分は誤りです.少なくとも「最近」何かがあったわけではありませんし,立場の違いということについては初めから折り込み済みです.『PLANTES』においても,第二次惑星開発委員会の更新においても,「惑星開発委員会の書き手」の立場として,自分の責務を果たすべく行動しております.それが,8月31日までの私です.

くり返しますが,惑星開発委員会や善良な市民さんの意見それ自体の必要性,有効性を私は評価しています.だけれども,有効な批判勢力を欠いている状況が良いとは自分には思えないし,一部の読者に対しては,惑星開発委員会こそが,「いじけ」や「ひねくれ」の供給源になってしまうのではないか,と危惧しているのです.私は,そういった層へのセーフティネットや,善良な市民さんとは別の方向からの評論を提案したいと思うのです.

そのために必要なのが,人間関係を脱色することだと私は考えています.「馴れ合いパフォーマンス」も「厭味パフォーマンス」も「いじけパフォーマンス」も,個人的な人間関係のゲームに言説を使っているという点では同じことです.ある人間関係に好意を持つから作品論においてもプラスに評価する,ある人間関係に嫌悪感を持つから作品論においてもマイナスに評価する.そのような人間関係バイアスから自由になる力というのが,「いじけ」や「ひねくれ」から自由になるために必要なのではないか,と思うのです.

だから私は誰にも予告せず,別段,人間関係上の齟齬も生じていないこのタイミングで,批判を公開するのです.予告を伴い,人間関係上の諸々が絡んだ状態では,それがプラス方向であれば「馴れ合い」の,それがマイナス方向であれば「厭味」のバイアスが見出されてしまいます.そのバイアスを脱色すること,それこそが善良な市民さんの方法論に対する,真の対抗案になるものと考えた次第です.