「善良な市民と青木摩周のスペイン宗教裁判」第一回

「文中に頻出する(笑)という表記は「悪魔的な笑い(Diabolical Laughter)」を表しています。そのつもりでお読みください。HA! HA!←こんな感じ」(青木摩周)
「構成,、タイトル、htmlと青木さんに大変お世話になりました。この場を借りて感謝の意を」(善良な市民)


◎唐沢俊一・上野俊哉

青木摩周(以下「青」):昨日、上野俊哉について調べていたら、また惑星開発委員会にたどりついちゃいまして。いや、やっぱいろいろと有益な情報が満載のサイトですね。上野俊哉について俺が知りたかった視点でまとめてくれてたのは、やっぱりここだけでした。

善良な市民(以下「善」):辞典で上野やるならもうちょっと突っ込みたいと思うんですよ。ユリイカにあのエルガイムの設定まで深読みして思想やってたあの文章が堂々と載ったせいで「やっぱりアニメって文化になってないな」と思ったヤツたくさんいると思うので、その辺は一度落合信彦並みにこきおろされるべきでしょうね。

:上野俊哉については、ニュータイプMkIIで彼の仕切ってた座談会がすんげートンデモで面白かったので、ネタにしようと思って調べてたのです。ネットで調べた限りでは最近の動きがあまりよく分からなかったのですが、なにやってんでしょうね?

善:カルスタ狂いでしょう。

:うわあ、一言で切り捨てますね(笑)。
なんか、荒らすだけ荒らしといて後片付けもなしかよ! って気にはなります。
そんなら過去の悪行全部暴き立ててやるぜ……と言いたいところなんですが、あんまり知らないし調べるほど本気でもないので、テキトーにおちょくるだけですが。

ところでその上野俊哉の文章が載ってたユリイカって、読んでないんですよね。スタジオボイスとかクイックジャパンあたりのエヴァ当事の動きもあまりチェックしてなかったので、いまひとつ唐沢俊一とかの苛立ちの原因ってのもリアルに感じられないところがあります。


善:高校の頃でしたね。恥ずかしながら生まれてはじめて手にしたユリイカがあれです(笑)
唐沢俊一の苛立ちは確かに不可解ですよね。

:いや、たぶんあの苛立ちのいちばんの原因は、あのあたりの変な学者がいろいろ言ってたことに対する反発だと思いますよ。
そのあたりはおそらくフィールドワーカーとかが理論家に対してもつ普遍的な反発なのでしょうが。
「研究室にこもって理屈こねくり回してるヤツに何がわかる」といった。
ただ、俺としては「そんなにひどかったかなあ」という違和感があって、でもニュータイプMkIIを読んで「ああこりゃひどいわ」と、その片鱗がちょっと見えた気がしたのです。


善:そう言われてみればそうですね。
唐沢兄って、ホントは時論っぽいことをもっとやりたい人だと思うんですよ。
でも彼なりのモラルと言うか職業意識、あるいは商業的な評価からやらないし、やらしてもらえない。
そこの「現代思想」なんて引っさげて実証的な研究とは無縁のオタク時論家が登場した・・・というのが気に食わないんでしょう。
伊藤剛の件がなければそれでも無視していただけですんだようなきもしますが・・・

:確かにやりたいんだろうな、という感じはしますね。
でもやっぱあの人がそういうエラそうなこといっちゃいけないんだろうなあ。隠居キャラだから。



○クロスレビュー

:クロスレビューはいつも拝見させていただいてます。ただ、私のあまり知らない作品がほとんどなので、ちょっと寂しいですね。テレビドラマとか週刊漫画誌って、あまりチェックしてないのですよ。

善:クロスレビューは苦しいですね。TVドラマや週刊マンガが多いのは単純な話週に4人の人間がチェックするのに便利だからですよ。それ以上の理由はないです(笑)
本当はもっとリクエストにも答えたいんですけど。(*)
例えば「最終兵器彼女」とかはマンガ夜話で岡田さんがベタ誉めしたおかげで「善良な市民はどう思うんだ」ってきかれまくりですけどこういう理由でできません。
と、いうより最近はまいたけが仕事の都合で抜けたおかげでローテーション自体が厳しいですね。

:けっこう、複数の人間でやってるがゆえにしんどいんだろうなーというのは見てても感じます。
複数の人間でやることで自分の立ち位置をきちんと相対化しておきたいというのは分かるし、それはしんどくても維持していくべきだろうと思うんですけど、もっと一人で突っ走る部分もあっていいんじゃないかとも思います。
なので書評については期待してます。


善:ありがとうございます。
なんのためにクロスレビューにしているのか?っていうところは全く伝わっていないようなので、そういっていただけるとすごく嬉しいです。あの形式は善良な市民の立場を絶対化するつもりなんて毛頭ない、という意思表示のつもりなんですが・・・
ホントはもっと活字レビューとかやりたいんですけど・・・周りはあまり小説読む人居なくて。

:んー。
ただ、善良な市民さんと善良な婦女子さんについては非常にキャラが立ってていいんですが、あとの二枠が評者が流動的なこともあって、ちょっとスタンスが分かりにくい気がします。
とりあえず善良な市民さんと善良な婦女子の評価を見比べるとその作品のポジションがだいたい分かるというシステムは素晴らしいと思うのですが(笑)、ちょっとクロスレビューとしての緊張感には欠けるきらいが。
そう贅沢言える状況じゃないってのも分かるんですが。



◎ジュニアノベル

:あ、月刊レビューのジュニアノベル編は面白かったです。特に前編はラインナップ自体が「ぎゃー」って感じで。
あのあたり直撃の世代なんで、こう並べられてみるとなんかものすごく恥ずかしいというか。あとはグインサーガが入ってればリストとしては完璧だと思うのですが、完結してませんからねえ。


善:グインは読めませんでした、長くて(笑)しかもあの人数に一ヶ月で〜は無理でした(笑)
ホントはもっと幅広くやりたかったんですよ。
でも角川文化を中心に、対比の意味で徳間やソノラマを、というスタンスでしたからね。「スレイヤーズ」と「オーフェン」は必須でも「ゴクドーくん」と「メイズ」と「ヤマモトヨーコ」を全部入れるのはイヤだったんですけどね。
最初は「ロケットガール」のかわりに「フルメタルパニック」が入ってて(笑)私が管理人権限で「さすがにこれは勘弁」で野尻に変更しました。

:「メイズ」と「ヤマモトヨーコ」は不要だったかなという気がします。逆に「フルメタルパニック」の方が重要だったかも。
野尻抱介はどうなんでしょうね。マニア評価は高いけど、シーンに対する影響力はあまりないような気がします。秋山瑞人も似たようなポジションかな。
後編は全体にラインナップが、前編に比べて冷静になりきれてない気がしますね(笑)。


善:おっしゃる通りです。実はあの月刊のラインナップは鬱田のもので(笑)
個人的にはもう少しソノラマ系を入れたかったですね。フルメタは重要でしたか?う〜ん、入れとけばよかったなあ。
どうもアニメ版のGONZOらしい「手堅いつまらなさ」の印象があって「ああ、ガンオタ転がしね」で片付けちゃったところがありましたね。
弟が持ってたかな〜。今度読んで見ます。

:アニメ版で原作の評価ってのはあまりしない方がいいですよ。
漫画原作のものにしてもそうですが、昔は原作よりも優れたもしくは拮抗したアニメ版ってけっこうありましたが、いまはほぼ確実にアニメ版の方がつまらないですよね。なんでだろ。

なんで「フルメタ」を重要だと思うかというと、ジャンプの「友情・努力・勝利」みたいに、富士見なりの王道っていうのが多分あって、それをきちんとそなえてるのってたぶん「スレイヤーズ」「オーフェン」「フルメタ」くらいじゃないかと思うからなんです。
その富士見王道がなんなのかってのは……たぶん「勝ち気な女の子」「テンションの高いギャグ」ってのは必須だと思うのですが、ちょっとまだ分析が必要です。
(*)

善:ああ、それはぼんやりと思っていたけれど明晰ですね!
是非、分析してください。その辺を踏まえた上でこの前のレイアース論をもっと進めたりできませんか?かなり面白くなるような気がします。


◎中島梓

青:グインは、20巻あたりまでは読んでみて損はないと思いますよ。
あとはキャラの誰かに魂を惹かれてしまったら読み続けるしかないけど……てな
感じですかね。俺は30ちょいまで読みました。
栗本薫のSF作品や中島梓としての評論にはかなり影響受けてるんですけどね。


善:「コミュニケーション不全症候群」は私も影響受けましたね。あの人は自分の嗜好を熱っぽく語るところをもう少し抑えてくれれば評論家として長生きできたと思うのですが、どうです?

青:中島梓は作家・栗本薫の理論武装のために存在していたので、自分の嗜好にこだわってしまうのは仕方ないし、役割を終えてしまったのだと思います。ただ、栗本薫の現状を見ると、中島梓が復活して栗本薫批判をするべきなんじゃないかとは思いますね。

「コミュニケーション不全症候群」は中島梓の語るべき領域を越えてしまっている気がして、俺はあまり好きじゃないですね。やや被害妄想の傾向があるし。
俺としては「わが心のフラッシュマン」あたりがいちばん好きです。社会評論・文芸評論としては何の意味もなしてないですが、なんつーかああいうロマンティシズムは好きです。

善:「フラッシュマン」は実は読んでなくて・・・コミュニケーション不全も「古典」として読みました。
「ああ、当時の文脈の基礎ってこれなんだろうな」という意味で私の基礎文献になっています。でも後半のヤオイ論は・・・でした(笑)


◎RPG的ファンタジー・セカイ系・CLAMP・高橋留美子

青:ただあの月刊レビューに関して言うと、「スレイヤーズ」や「フォーチュン・クエスト」については、TRPGにどっぷり浸かってた俺の方が語れると思うのですが、やはりあの二作品が和製ファンタジーに与えた衝撃はけっこう強烈だったのです。
特に「スレイヤーズ」に関しては、それまでの無意味にシリアスなファンタジーをこてんぱんに打ちのめすパワーはあったと思います。RPG的な成長要素を一切排し、いろんなお約束を徹底的にコケにしまくった。実はそういう変にシリアスなファンタジーが嫌いだった俺は、快哉を叫んだものなのです。ここまでファンタジーのお約束がバカバカしいものになってしまえば、そーいう作品はもはや出て来れないだろうと。でも、どんな世界でもジャンルに対してアンチ的な立場を取る作家ってのはそうなんですが、そういう作品を書いてしまうともはや筆を折るか、逆にそのジャンルの中にこもってしまうしかなくなるのです。「スレイヤーズ」に関してもそうで、途中からキャラ小説になってしまい、自らが否定したはずのファンタジーを自分でやるハメになってしまった。だから俺は途中で読むのをやめたし、アニメ版についてはまったく評価していません。あまりに林原バラエティすぎるし。

そしてファンタジー小説全体に関していえば、シリアスさがなくなった代わりに今度はその後期スレイヤーズ的なお気楽なものばかりになってしまったわけです。

善:そういう背景だったわけですか。あまりTRPGの歴史には詳しくないので大変勉強になりました。
「スレイヤーズ」に関しては本当は4点にしようかな、とも思ったのですが後期のキャラ小説があまりにも酷い出来だったのでああしました。それに、やっぱりブームが大きすぎてジュニアノベル市場をつまらなくしすぎましたよね。

青:いやー、「スレイヤーズ」以前からかなりヒドかったと思いますよ。
なんかあのラインナップを見て、「ファンタジーはスカだった」という言葉が頭の中に浮かんでしまい、けっこうのた打ち回ってしまいました。NOTEでもちょっと触れたファンタジー論を書き始めたのは、それが動機だったりします。

これはもう少し推敲してからアップしますが、とりあえずいま書いてあるデータを添付しますので見ていただけますか。(→PARADISE STREET
なんかあまり和製ファンタジーの本筋とは関係ないかも、とか思いつつあったのですが、いま読み返してみたらこれはこれで状況論にもなってるかもしれません。でもやっぱ「よかったさがし」にすぎないよなあ〜。

善:大変面白かったです(特に「レイアース」論) ちょっとお話がずれるかもですが、青木さんの文章を読んで思ったことに「ファンタジー」は「社会」を作品中から脱臭する効果があるということです。
 これはなにも「夢一杯の世界では、現実逃避になる」という以上の意味があると思います。

青:あー、「社会」をすっとばして「世界」に直結しちゃうってことですかね?

善:そうですね。「物語」を確保するためには現代的な社会はあまり魅力的じゃない。
そこで近世以前のような世界が舞台として好まれる。だがここでは「歴史」「社会」が邪魔してヒロイックファンタジーを生臭くしてしまう。
そこでファンタジーを導入することによって「歴史」を脱臭する。ということです。(*)

青:そういえば最近、「セカイ系」という言葉があるそうですが。
http://homepage2.nifty.com/tproject/20030106.htm
↑このあたり参照


善:セカイ系に関しては私もしばらく考えていましたね。
でも、正直な話、90年代的な自意識過剰文化のオタ市場での展開にすぎないんじゃないかって思います。
岩井俊二やJブンガクとどこが違うのか?といったら同じですよね。
それこそテーマ性のレベルで「社会」を脱臭することによって楽をしているんじゃないか、っていう印象があります。
少なくとも「社会」というファクターを通さずに世界=心象風景という構図を当てはめるのは私はあんまり好きになれないですね。
勿論、技法としては大いにありだと思います。
ただ、こうも連発されている上に「セカイ系だから」という理由で過大評価されている作品も多い(「ほしのこえ」はストーリーじゃ評価できませんよね?)ので、その辺は少しおかしいと思っています。
あと、結局「社会」に対する不全感を動機としながらも(例えばエヴァのシンジ)セカイ系的な装置で癒される、という構図はなんだか問題をすりかえているみたいでちょっと薄っぺらいんじゃないかっていうのもあります。う〜ん、まとまりないですね。
別にもっと「国家や社会を描け」と言っているのではなく、「手前等の自意識過剰で膨らんだ世界像なんで世界でもなんでもない、ただの妄想だ」って言いたくなっちゃうんですよね。

青:うーん、確かに通底してそうですね。
ただ、個人的にはセカイ系ってそんなにキラいではなくて。

「最終兵器彼女」にはちょっと違和感を感じる。ブギーポップはなんでウけてるのかさっぱり分からない。
「ほしのこえ」はたしかに持ち上げるほどではないけど、キモチイイのは確か。たぶん「終末の過ごし方」もセカイ系っぽいけど、これは好き。まあ微妙なところなんですが。


善:
セカイ系に関しては「全否定」ってほどじゃないんです。
確かに私はこの現象って半分は私の辞典でいうところの「ブンガク」で説明できるんじゃないかって思います。
「ブンガクっぽい記号」の組み合わせに反射しているだけです、半分は。
しかし、何故あの「中学生日記」的な空間が「ホンモノっぽい記号」として消費されるようになったのかは、別に考察が必要でしょう。
私はこれこそ「日本版ポストモダンの90年代的展開」だと思っています。
やっぱりこの「ポストモダンの世の中」、宮崎哲弥が言うようにアイデンティティ(というフィクション)の置き場はローカルな人間関係でしかあり得ない。
だからどうしても、主観的には「世界」は目で見、手で触れることのできるローカルな人間関係の範囲と重なってしまう。
だから物語の中で世界が「セカイ」のように見える・扱われるという技法は寓話的な技法としてはすごく巧いと思うんですよ。
少なくとも「同時代性」という言葉で形容してもいいと思います。
勿論、その「セカイ」系の技法に甘えて俗流心理学的な薄っぺらい人間観を垂れ流すのは如何なものか?とは思ってますが(笑)

セカイ系作品の個人的な評価を私も書いてみましょう。

「最終兵器彼女」は私は評価しません。4点くらいです。
セカイ系というのは比較的ローテンションに保つことで「セカイ系的リアリティ」を生み出し、設定を中途半端に小出しにすることで世界観の深読みを誘う(そしてホンモノ感を誘う)という技法を用いていると思うのですがサイカノは後者は取り入れても前者は取り入れていない(むしろテンションは高い)
そういう「セカイ系の変化球」として受け取りましたが、この試みはあまりうまく言ってないんじゃないかって思います。
それは完全に技術的な問題で「過酷な情況」のインフレがものすごくウソっぽくなってしまっている。一言で言うと「あざとい」。
「破滅なんか来ない」「終わりなき日常がある」からこそのセカイ系なのに、あんな破滅が本当にやってくるなら人間恋愛なんかしなくても元気になりますよ(笑)って思っちゃいます。

「ブギーポップ」はレビューでも書きましたけど「ジュニアノベル」で許される範囲を広げた功績と技法的な小技、アナクロなセンスの導入は買ってますね。でも、あそこまで受けるとは思わなかった。

「ほしのこえ」は映像センスはもっと評価されるべきだと思うくらいです。
しかしストーリー的には・・・「ふぅん」って感じですか(笑)
あれをストーリー的に深読みするようになると「ブンガク的過大評価」だと思いますね。
確かにほしのこえはキモチイイですけど、私の場合それは映像センスが響いたからじゃないかって思ってます。

青:社会というファクターを通さずに世界を見た気になるってのはたしかに危険だと思います。
ただ、たとえば政治・経済ネタを語ってしたり顔をするだけで世の中を分かった気になってしまう人々、つまり社会の向こうにも世界があるということに気づかない人々、たとえば落合信彦ファンなんかもそうだと思うんですが、そういう人々のことも俺は好きになれないわけですよ。

「社会/世界」を「形而下/形而上」と言い換えればいいのかな。

社会というフィルタを外すことでしか見えないものってのもあると思うんですね。
つまりそれが「寓話」というもののもつ機能で。
社会に対するまなざしと、世界そのものを見据えるまなざし、それは両方とも必要だと思うんですよ。


善:全く同感ですね。エヴァに他者性が欠如してるって批判、あたってると思うんですよ。
もっと政治経済歴史を描け、という訳ではない。エヴァもセカイ系も岩井俊二もJブンガクも、個人的な「内面」はナルシスティックに表現できたかもしれないけれど、「人間関係」は何一つ描けていない。それも「描こうと」してはいるけれど薄っぺらいものになってしまっている、と感じるんです。
「お前等、本当に苦しんでいるのは人間関係(社会)のことだろ?そのせいで自分の内面ものぞこうと思ったんじゃねぇか。だったら中を覗き返す手で外も見ないとただの自己満足だぜ」って思うんです。

ファンタジーに関しては青木さんがご指摘されたように、ファンタジーの高い感情移入は「責任(社会性に裏付けられる)の回避」という要素に拠るところが大きいと思います。 CLAMPはその辺の構造には結構自覚的だと思います(ちょびっツでも仮想現実批判してたし)。しかし彼女等の場合そういった問題意識が男性オタ的なフェティッシュへの悪意以上のものには育っていないのが徹底されない理由だと思います。ファンタジーという魅力的な意匠が、たかが責任回避が保障された世界観の消費のためだけに用いられているフォーマットへのあてつけになるためには、青木さんのページでのレイアースへの論考に即して言えばやはり私も光たちはあの異世界と訣別すべきだったと思いますし、そうしないとあの作品の物語的なバランスも悪いと思います。

青:あの最終回は、見てられなかったです。ほんとに途中でチャンネル変えちゃいましたもの。
後でまた戻したけど。
CLAMPについてはほんとによく分からないですね。ターゲットを女性から男性にシフトしてきてる理由とかも。
まずは読めばいいんでしょうが、どうも拒否反応があって……。「X」の1巻だけ読んだことがあるんですが、ダメでしたね


善:高橋留美子に関しては彼女にとっての「ゴール」こそがビューティフルドリーマー的な円環なんかもしれないと思っています。
めぞん一刻、は五代が成長してるーみっくわーるど的理想郷である馴れ合い空間の永遠の住人として登録されるお話だと思ったりもします。 しかし、彼女のそれはその理想郷が「届かない」ものだと割り切っているようにも見えるのでこれを理由に高橋を批判したくはないですね。

青:うーん、これは東浩紀についての反応と反対ですね。
俺の場合、るーみっくわーるどにどっぷりはまっていってしまった連中が同世代に多かったので、ちょっとそこまで冷静にはなれない(笑)。かなり気持ち悪いもんですよあれは。


善:それは分かります(笑)でもテクストなんてどうとでも読まれるものですからね。
例えば私ガンダム好きですけどガンオタなんてある意味オタクの最下層だと思ってますよ(笑)
構造と力だって序文だけ癒しちっくに読んでたヤツが大多数だったって言われているんですから、ファンのせいにしちゃあ高橋がかわいそうですよ(笑)
彼女は「絶対にあり得ないからファンタジーとして描く」人だと思いますね。そうじゃないとあの年になって「犬夜叉」やれないでしょう(笑)

青:それはそうです。
ただ、俺が「東浩紀についての反応と反対」と言ったのは、善良な市民さんが東浩紀について


>こういうメディア上の振る舞いって結局受け手がどう取る
>か、ということなので、やっぱりその辺は批判的ですね。


と言っているからなんですね。高橋留美子に対してこの理屈をあてはめるなら「作品って結局受け手がどう取るか、ということなので、やっぱりその辺は(高橋留美子に)批判的ですね」という言い方はできちゃうわけです。
揚げ足取りみたいで申し訳ないんですが、やはりそこで送り手を批判するか許すかってのは、シンパシーを感じうるかどうかみたいな話で、俺は東浩紀にある程度シンパシーを感じるが高橋留美子には批判的で、善良な市民さんはまったくその逆、というのがちょっと面白いなと思ったのです。


善:はい、一本取られましたね。
イイワケさせてもらうと「批評家」は、特に東のようなスタンスの人は「どう読まれるか」まで戦略として組み込んでいくべきで、彼もそうだと明言している。だから「どう読まれるか」重要になる。
しかし高橋のような「作家」は「娯楽」を提供するのが目的なので「どう読まれるか」という部分は相対的に評価に加味されない、ということです(笑)浅田彰に関して最終的な評価が微妙なのはこのためです。彼が作家なら「逃げ切った勝者」でしょう。
私的には「どうしようもない子達だけど私の子供だから」と引き受ける「お母さん」が高橋で母親が甘いのをいいことに放蕩を続ける息子たちが第三世代動物化オタ、彼等を懐柔してなんとか自分の家庭内発言力アップを目指しているのが長男の東、ってとこでしょうか(笑)

◎第三世代と動物化

青:それから、以前いただいたメールで書かれていた「札幌ベンヤミン事件」の話、とても面白かったです。そっちで読んでみたかった気もします(笑)。

善:ありがとうございます。実は秋ごろ「開発委でノベルゲームをつくろう」って話があって、そのときあの話を原型に・・・って企画がありました。動物化しきれないオタ共同体がカルト的な文脈にあっさり回収されてしまうお話、ですね(笑)まあ、おはこ入りですが。

青:んー、やっぱそれは読んでみたいですねー。
けっこうそのあたりって、物語の形でまとめるのが、いちばん空気が伝わるような気がするんですよ。
「げんしけん」みたいな痛みの感じられない物語だけで、「これがあの時代だった」みたいにまとめられるのは、ちょっとなー、という気がしています。


善:実は私の昔の仲間、あの黒歴史の寮の仲間たちはうち半分くらいが引きこもりギャルゲーマーになっちゃってるんですよ(笑)
彼等を横目で見てきて考えたのがあのサイトに書いてあるオタク論で、ベンヤミンみたいなストーリーです。
書いてるときはケタケタ笑いながらですがたまに読み返すとイタイですね、自分も(笑)
「動物化」という現象自体は認めても、それが「ポストモダンの徹底」という現象を表すものかどうかに関しては懐疑的なのは彼等を見ているとどうしても根っこはどうしようもなく「人間的」だからなんですよ。

青:「動物化するポストモダン」の書評についても、そのあたりの世代的な体験に基づく切実感みたいなものが、いちばん迫力あったと思うんですよ。
東浩紀にしたって、がんばって第三世代的なものを代弁しようとはしてるけど、そのあたりの切実感ってのはどうしてもつかみきれないものなんだと思います。そういう部分について「それは違うんだ」って言えるのは当事者でしかないし、いまのところネットを見回してみても、そういうものを形にできる人はまだ出てきていませんから。


善:横目で「動物化」したらしい「性癖の共同体」をずっと見てきて、片方でいわゆる「一般人」をずっと観てきて、その間を往復しながら考えたときやっぱり彼等の社交性(を通じた物語の獲得)への渇望はいささかも衰えていない、という実感があるんです。(*)
そこは大切にしていきたいと思っています。
本当はみんな分かってると思うんですよ、でも、実存的な動機が邪魔して認めたくないんじゃないかって思います。

テキストサイトの書き手には、私と同じ第三世代も多いと思うんですけど、正直言ってあまり好きになれない人が多いです。
とりあえずネット上のプロフィールに自分史書いちゃう人、私は嫌いですね。(*)
私は他のメンバーから「レビュアープロフィールつくれ」って言われても絶対にイヤだ、といった人間ですから。
セカイ系に関してヘンな過大評価している人も多いし。
本来「90年代的自意識過剰」で一刀両断してやらないと話は先に進まないんじゃないかって部分まで深読みして、揃ってナルシスティックに自分語りしてるしもうどうしようもないなってずっと考えてるんですが、どうです?

青:うーん、そっかあ(笑)。
いや、確かに善良な市民さんはそういうタイプの人に反発を覚えるだろうなとは思ってたんですけど、そこまでキッパリとした反応がくるとは思わなかった。
これは数年後にオタ論壇を二分する構図になるのかもしれない……


善:いや、面白いとこもたくさんあったんですけど、例えばその手のサイトで多いデカンコ引いて「メタだ」って叫ぶタイプの「シスプリ」論とかがOKになるのって要するに「脱構築」以降の文芸評論の文脈でしょう。「なんであるか」ではなく「どう読めるかが大事」。テクストからの解放、って。でもそれってポストモダニスト以外にはただのトンデモなわけで・・・。私がBSマンガ夜話や夏目房之介・呉智英を評価するのは「少なくともマンガ評論はポストモダニズムの病と無関係な方向でGO」って部分が明確だっただからです。

青:いやたしかに自意識過剰で視野狭窄だとは思うんですよ、そのテの人間って。中島敦いうところの「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の典型みたいなもんですよね。
ただ、俺はそういうのをキラいかというと必ずしもそうじゃない。
ってゆーか俺も、いまの第三世代の人たちと同じ年の頃は、そんな感じだったなーと思いますもん(笑)。

善:でも私はプロフィールに自分史書くのはやっぱ気持ち悪いなあ(笑)


◎オトナ帝国vsほしのこえ

善:なんだかんだで「と学会」VS「TINAMX」って文脈を考えてみたいんですよ。
唐沢俊一に関しては力はすごくある人だと思うんですよ。私自身のことを考えてみてもオタ文化論はすぐ時論になりすぎてしまうのは確かに悪い傾向で、唐沢や鶴岡の存在は貴重だと思いますね。
ただ、逆に唐沢兄は東が指摘するように少しでも時論がかった発言になると党派性が剥き出しになりずぎる。
あの人が「オトナ帝国」を持ち上げるのはオトナ帝国を評価する以上にそれで自分のタコツボに踏み絵をさせているに過ぎないですからね。勿論、東―大塚が「ほしのこえ」を持ち上げるのも同じ理由ですが。

青:なるほど。「オトナ帝国」支持層vs「ほしのこえ」支持層って捉え方は面白いですね。
個人的に「オトナ帝国」とか「アイアンジャイアント」あたりの受容のされかたってすげー違和感があって、ちょっとそのあたりもつっこんで考えてみていいかもしれない。

しかし、あれの受容のされかたについてきちんと批判できるかというと、なんかうまく言えないんですよね。ただもう「気持ち悪い」と言うしか。
まさか「オトナ帝国」が映画秘宝で年次ベストまでとるとはなぁ……。いや見てないのでなんとも言えないですけど。

善:確かに映画「しんちゃん」ってウェルメイドで、実は私は本郷時代から好きで観ているのですが、あの文脈がそのまま私たち第三世代にまで無批判に受け入れられてるとしたらちょっと違うなって思うんです。
「オトナ帝国」を岡田さんや唐沢さんが評価するのはすごく分かるし、あの人たちはアイロニカルな70年代の風景(輝かしい未来像が信じられたころ、近代的家族システムが無条件に有効だったころ)の扱いが琴線に触れているわけですよね。
でも、それって80年前後に生まれた私みたいな人間には頭でっかちに本を読んでようやく構造が理解できる「ああ、巧いな」と思う「感心」にすぎないはずなんですよ。(*)
それを私より年下のオタク系テキストサイトの人が同じように感動モノとして扱って、DVD発売を一大事のように取り上げちゃう・・・のはただの権威主義ですよ。「と学会」に習えば玄人オタできると思ってんじゃないの?って皮肉をかいちゃおーかなーって思ってたときもありましたけど。


◎「オタク」という言葉

青:唐沢俊一については、私もやはりたいしたもんだと思います。で、たぶん東浩紀をいちばん評価してるのも実はあの人なんじゃないかという気がするんですが……どうしてああも噛み合わないのか。
唐沢俊一の日記で、「なぜオタクにまつわる言説がクズ理論になりがちなのか、それを立証する体制を整えている」と言ってるので、それが出てくると彼の立場が少しは明確になるかと期待しているのですが。

俺もあの東浩紀とか唐沢俊一あたりの動きがいまいちばん気になってます。
エヴァでかなり曖昧になったはずのオタクと非オタの境界線がまた強固なものになりつつあるようなので、どっちつかずな俺なんかは引き裂かれてしまいそうでちょっとヤなのです。


善:「オタク」って言葉どうなんでしょうね。
中森明夫が「おたく」って言葉を作ったとき、それは80年代的な消費社会の実現ではじめて出現した内向的な趣味人の総称ですよね。
そして90年代に岡田斗司夫が「オタク」を擁護したときはポジティブな意味での「趣味人」ですよね。
「大きな物語」や「実存の問題」を趣味人としての冷めた位置から相対化し得るっていう。(浅羽通明や今野敏の立場もこれに近いでしょう)大塚英志の場合はこれに彼ならではのセンチメンタリズムが加わる(*)、というとこでしょうか。
次が斉藤環で、彼は岡田・大塚が意図的に隠蔽したセクシュアリティの問題を指摘したわけですよね。
斉藤環は「アニメ絵で抜ける性癖の持ち主がオタクだ」といった。
岡田さんが指摘した「オタク」と斉藤の言う「オタク」は大きく重なっているでしょう。

しかし、結論から言うと今「オタク市場」という言葉を使った場合、一番この「市場の担い手」と重なるのは斉藤の定義だと思います。
なぜならばオタク産業は実質的に恋愛産業として伸びてきたからです。
コミュニケーション弱者(結果として恋愛弱者である可能性が高い)が多いオタク層を意識して、美少女キャラとその背景を売りさばく市場構造は基本的に変わっていない。ガンダムとアキラと宮崎アニメではアニメ業界は産業として成立しない。
岡田さんがいった「オタク」はオタキング自身の言葉通り今やいわゆる「オタク業界」の外側にまで拡散してしまっていて、そういった意味では誰でも「オタク(岡田)性」は多少なりとも持つようになってしまった。

そしてここからが重要なのですが今「自分はオタクだ」と思っている第三世代の「オタク」って間違いなく斉藤の定義です。
どうもこの「岡田定義のオタク」と「斉藤定義のオタク」がごっちゃにされているのが混乱の原因でしょうね。
この両者は大きく重なっていて、「どっちの定義にもあてはまる」人も結構いるでしょう。
でも「岡田定義のオタク」ではあっても「斉藤定義のオタク」ではあり得ない人だっているし、その逆もあるでしょう。
でも、今、ネットや本屋に溢れている文章は岡田的な「趣味の効用」を指す時も、斉藤的な「虚構性の高いコンテクストに異常な反応を示す性癖」を指す時も同じ「オタク性」という言葉を使っている・・・。

「善良な市民はオタクじゃない」「オタクがオタクを馬鹿にするな」とかたまに言われますけど、答えは簡単です。
要するにこの二つの要素は区別しよう(片方だけでも成立しますからね、「コインの裏と表」じゃない)と言ってる訳です。
エヴァのブームは「斉藤的オタク」の外に広がっていって、一般人に「岡田定義のオタク」層を広げた。
しかしエヴァ以降のアニメ・コミック・ゲーム業界は動物化した斉藤的オタクのニーズに忠実に答えるべくそれ系の作品を量産し、結局エヴァで増えたアニメ人口を吸収できなかった、と考えて居るのですがど−でしょうか?

青:んーと、「オタク」ってひとつの言葉にいろんな人がいろんなイメージを押しつけすぎるから話が混乱してるってのは確かだと思います。
かなり前、俺の周りで「オタクって何?」みたいな話が割と真剣に話されてた時期なんかは、「『オタクって何?』って考えるヤツがオタクなんだよ。オタクじゃないヤツはそんなの気にもしねーんだから」とか言ってたんですが。
そもそも「オタク」って言葉は蔑称なんですよね。だから「『バカ』って何?」って問いと同じで、そんなのにまともなコンセンサス求めてもなー、って気はずっとしてるんですが。

ただ、善良な市民さんの分析を読んで、ちょっと思い出したことがあります。

「海洋堂クロニクル」という、ガレージキットの歴史について語ったあさのまさひこの本の中で、彼はガレージキットスピリッツという言葉を使っています。
「ガレージキット」と「ガレージキットスピリッツ」は違うのだと。


「ガレージキット」というのは、主にレジンキャストという素材を使った、少数生産のインディーズ的な模型のことです。主に「プラモデル」という言葉との対比で使われ、また、アニメ・特撮などのキャラクターの模型以外は、あまりガレージキットとは呼ばれないようです。

「ガレージキットスピリッツ」というのはそのガレージキット文化の中から生まれたある種の職人精神、圧倒的な造型にこだわり続けようとする姿勢、といった意味で、あさのまさひこが生み出した言葉です。

それで面白いのが、海洋堂の白井氏が言っていることなのですが、海洋堂はガレージキットにこだわり続けてきたメーカーなのに、アクションフィギュアとか食玩なんかに手を出すのは間違ってるんじゃないか、自己否定であり、日和った行為なんじゃないかと悩んでいたらしいのです。
でもその「ガレージキットスピリッツ」という言葉を聞いて、間違ってなかったと確信できたというんですね。
自分たちがこだわってきたのはガレージキット的な精神・姿勢であり、レジンキャストキットとか、美少女キャラ模型とかじゃなかったんだと。そのあたりの区別が意識の中ではっきりしていなかったがために悩んでいたんだというわけです。
それで自信をもってチョコエッグなどの、ガレージキット文化以外の場所でも圧倒的なクォリティを追求することができたというわけなのですが。


同じように「オタク」という言葉にも、「スピリッツ」の部分と「文化」の部分があるように思います。

善:「オタク」という言葉は厳密な意味ではもはや単体では使えないと私は思っています。
何が「オタク」かっていう議論は多分無駄で、ポジティブな意味での「趣味人」なり、ネガティブな意味での「性癖」という個別の要素が人によってあったりなかったりするだけじゃないでしょうか?
確かに作品の系譜やスタッフの意識の上で「オタク界」というものは存在していると思います。
消費者の意識でも「自分がチェックする範囲」としてはぼんやりと存在しているでしょう。
しかしその業界の消費者たちの自己規定として「オタク」なて言葉はこのポストモダンの世の中(笑)通用しないと思います。
居るのは「岡田的スタンスのアニメファン」だったり「ただのマンガファン」だったり「アニメ絵性癖の持ち主」だったりするだけではないでしょうか?
少なくとも「自分はオタクだ」という自己規定はただの混乱と無理解の産物でしかなくなってしまったような気がします。

青:そうですね。オタクという言葉の奪い合いみたいな印象は受けます。
なぜそうなっているかというと、分化したそれぞれのトライブなりスタンスなりを、うまく表現する言葉がまだないからでしょうね。
もし俺に造語センスがあれば「君はこれからこう名乗りなさい、君はこれ」と一つずつ名前を配って歩きたいくらいです。とりあえずデカンコという言葉はとても気に入ってしまったので、勝手に乱用しようと思ってますけど。


善:デカンコはいいですね〜。私も使っちゃいます。
デカンコがセカイ系を語るともうキモクて仕方ない・・・って感じで(笑)


◎エロゲー

青:俺はどっちかっつーとスピリッツの方にこだわるオタクです。
アニメや美少女ゲームも好きですが、それらの中の優れた作品が好きなわけであって、アニメと名のつくものならなんでもチェックしなければ気がすまない(でもクレイアニメとかはアニメとは認めていない)といった連中には嫌悪感すら覚える。
一方でオタク文化とは見なされていないような分野の作品でも好きなものは好きだし、それらをオタク的な作品と同じ地平で語れない今の状況にはかなり苛立ちを感じている。
そのあたりが、いまオタクにまつわる言説に首をつっこんでいる動機ですね。


善:あ、これはすごく同感です!
私も「アニメ好きか?」と聞かれたら好きだと迷いなく答えますけど、アニメ的な表現やアニメ的なお約束に対するフェティッシュはあまりなくて、結局「洗練された」「面白い」ものが好きなわけです。だから同じようなテーマを扱っているのに「アニメだから観る」「小説だから読まない」という態度には批判的です。
勿論、そういった意味では美少女ゲームにだって十二分に可能性はあると思ってます。
ただ、現在の「泣きゲー」ブームなんてただの90年代の亡霊の吸収でしかないのに、タコツボの中でだけ「ホンモノ」宣言して喜んでいるようじゃあちょっと・・・とは思うんです。

青:そうですね、美少女ゲームについても、「萌えたー!」「泣けたー!」といった脊髄反射的な評価だけじゃなく、ちゃんとした評価をしてもらいたいという気はします。
ただ……一方で「それはムリなんじゃないか」と思う自分もいるのです。
美少女ゲーム、というか俺はそういう曖昧な呼び方ではなくあえてエロゲーという言葉を押し通したいのですが、このエロゲーという性的欲望と不可分の関係にある作品群を、性癖というか性的嗜好についての言及抜きに文芸評論的に語るってのはものすごく嘘くさく感じるんですね。
するってとやっぱ「萌えたー!」「泣けたー!」しかないのかなあ……。
そのあたりについてはどう思われますか?


善:その辺はピンク映画やAVの評価と同じような方向でいいと思っています。

青:うーん、でもピンク映画やAVって結局「そういうもの」としてしか評価されないじゃないですか。一般の映画やビデオとは分けて語られる。
「精解サブカルチャー講義」の阿部嘉昭なんかはたしかにそれらを評価していますが、そういうのってサブカルとか文学のプロパーだけで、やっぱり閉じた世界での評価でしかない。


善:一時期のにっかつロマンポルノみたいな「エロだからこそ、自由にやれた」って文脈が一番落とし所としてはいいと思うんですよ。理想を言えばキリがないですが・・・
「抜ける」だけじゃなくて「泣けて」「笑えて」「謎解きが面白くて」って評価はアリだと思うんですよ。
でもそれって「一粒で二度美味しい」っていう意味なので、やっぱエロゲーは「抜き」の魅力が優れているものが名作、っていう基準が一番しっくりきますね。
意外かもしれませんがアニメ美少女が築き上げてきた「性的な魅力」(倒錯の魅力)って、私は実は結構アリだと思ってるんです。
 私が「泣きギャルゲー」的な「ホンモノ感」に批判的なのは、本来「ああ、セカイ系ね」で済むくらいのレベル(セカイ系の中でも)のものが、東浩紀の作品論的な深読みや場合によってはもっと稚拙な中学生の読書感想文ちっくな感情移入で過大評価されているからですよ。その「過大評価」を生んでるのって、キャラクター消費的なフェティッシュですよね?
そんなものは排撃するしかないじゃないですか。

青:んー、ちょっと分かりにくいな。重要なところだと思うんだけど。
つまり、エロティシズムに評価の基準を置くということでしょうか。
でも、キャラクター消費的なフェティッシュが過大評価を生むってのがよく分かりません。


善:例えば「エロゲーレビュー」があったら私は「抜ける」作品に高得点を与えるのを基本に、「ゲーム性がいい」「笑える」などのポイントを足したり引いたりします。
でも惑星開発委員会のクロスレビューで評価するなら「なるべく普遍性のある面白さを」という基準なのでそれらの総合、でしょう。

私が「泣きゲー」を評価しないのは・・・
例えば「泣きゲー」なんだけどものすごく文学的に優れた(嫌な言葉ですが、便利なので)作品なら私は大いに認めます。
しかし、実際の「泣きギャルゲー」のレベルは辻・桜井がいいところです。だが、「セカイ系的な過大評価(技法としてセカイ系だと、ホンモノっぽくみえる)」と「恋愛(純愛)に関する過大評価」があるために泣きギャルゲーマーたちは過大評価している、と思うのです。

青:俺がエロゲーにおけるエロティシズムをどう考えてるかを言っておきますね。

たしかにエロゲーにおいて、エロティシズムは重要です。
ただ、必須でもなければ、エロければすべてOKというものでもないと思っています。


エロくないけど素晴らしい、という作品はけっこうあります。たとえばライアーソフトが出している「行殺新撰組」などのバカゲーがそうですね。また、ジェリーフィッシュの「GREEN」、これも青春ドラマとして面白いのであって、エロはほとんど重要ではありません。
かつての日活ロマンポルノがそうであったように、「とりあえず裸出しときゃ何やってもOK」みたいな雰囲気が90年代後半のエロゲ業界の熱気を支えていたのも事実なのです。
ただ、ライアー作品にしてもエロがバカバカしさをさらに加速させているところがあるし、「GREEN」も主人公とヒロインがセックスするシーンがストーリーを急展開させるってとこに面白さがあるんですけどね。


それに、エロけりゃいいのかってーと、それもかなり疑問だと思うんですよ。
エロゲってメチャクチャ単価が高い。最近は低価格化が進んでるけど、それでもエロゲ一本買う金で、エロ本やエロ漫画が何冊も買えてしまう。それらに対するロゲの優位性が何かといったら、プラスアルファの部分、ゲーム性だったり泣ける演出だったり感情移入度の高さだったりするわけで。
いまエロゲ業界はかなり低迷してるんですが、その原因が何かっていったら、作り手が客の萌え心とゆーかフェチ心をくすぐることしか考えてなくて、そこに付け足すべき何かを見失ってるからだと思います。


善:これは・・・まさに同感。
あまりサイトでは言ってないですが、私は今の代表的なギャルゲーの女の子が全然「いい娘」「いい女」に見えないんです。
それって結局「記号的な組み合わせ」でしかなく「作家性」がないから萌えられないんじゃないかって思うところもあるんですよね。
この場合「萌え」って言葉を使うのがいいかどうかは議論の余地大有りですが。

青:俺としては山本直樹みたいのが理想なんですけどね。
エロが作品の魅力の根本にありつつ、エロだけにとどまらないという。

善:山本直樹は私も好きですね。中期のスピリッツの頃が一番好きかなあ。

青:あ、俺がいちばん好きなエロゲは、アリスソフトの「アトラク=ナクア」という
作品です。これがあるから俺はエロゲの未来を信じているのです。未プレイであればぜひぜひ。

善:ああ、聞いたことあります・・・今度貸して下さい(笑)


◎斎藤環

青:ここいらで話をオタク論の方に戻しますが、岡田斗司夫的なオタク観にはかなり違和感があって……。
「匠の技」だの「粋」だのって、「あんたホントにいっつもそんな冷静にアニメとか見てるの? アニメってもっと、見てる側の魂がわしづかみにされるみたいなところが楽しいんじゃないの?」とつっこみを入れたくなります。
岡田氏の著作は「オタク学入門」しか読んでないのでその後はまた変わってるのかもしれないのですが、あれを読む限りではそんな印象を受けました。それも彼一流の洗脳なんでしょうけど。

だからといって斎藤環のような「んな通人ぶったところで、要はアニメキャラで抜きたいだけでしょう?」といったつっこみに対しても、「その通りですが何か?」と切り返してしまえば話が終わってしまうんじゃないかという疑問を感じます。
そんなことはやましい部分のある人間には言われなくたって分かってることだし、そういうことを外の人間に暴露したところでどうなるの? もともとあったオタク蔑視の風潮を呼び戻すだけじゃん、って思います。

しかしまた大塚英志のようにオタクの原罪、というかなんというか、闇の部分みたいなのに根拠を置く立場(唐沢俊一はこの立場と岡田斗司夫の立場の両面が感じられます)にも、そこにこだわってることを免罪符にしてるだけなんじゃないかという疑問を感じてしまいます。

善:私は岡田さんの作品論は面白いと思うんですけど、時々びっくりするくらいドライに切っちゃうときがあって、それがアンチの人は嫌みたいですね。
斉藤の「抜き暴露」を私が評価するのは別にオタク蔑視の加速を歓迎しているからではなくて、東がいう「動物化」という現象をセクシュアリティという側面から照射するのは重要だと思うからです。

青:なるほど。
えーとですね、俺らの世代って「セクシュアリティの問題抜きで、市場分析を含むオタク論はありえない」というのは自明というか言わずもがななところがあったのです。たぶん、M青年事件があったことがデカいんでしょうね。
当時はもうオタクの問
題すなわちセクシュアリティの問題みたいな勢いでしたから。
だから、セクシュアリティの問題抜きでオタクを語ると、どこかからほぼ自動的に反論が出てくるような構造があったと思います。
その傾向は、あのときすでにオタクとしてできあがっていた第一世代よりも、思春期だった第二世代の方が強いのではないかと思います。って、主観的な状況を世代に普遍的なものみたいに語るのは危険だってのは分かってるんですけどね。

東浩紀もセクシュアリティの問題については分かってるんだと思います。

でも動ポでは理論としての通りのよさのためにあえて韜晦してる、そんな気がします。それは岡田斗司夫のように戦略的に隠蔽してるというよりは、そんな重要なことではないからここでは脇においておこう、といった感じなんではないでしょうか。
でも、第三世代もしくはそれ以降の読者は、そういう暗黙の了解みたいなものを共有していないから、そこに東浩紀の言説だけをぶつけるのは危険だ、ということですよね?
ということであれば確かにそれはそうかもしれません。
俺もちょっと腰を据えてかかるべきかもしれませんね。


善:個人的には東が出て来て「萌えと抜きは無関係」と言ったときに、「あ、これは東の戦略にヘンに乗せられて真に受けたり、癒しにするヤツが出るな」と思った訳です。いわゆる「萌えキャラ」っていうのが容姿が好みだったり、エロシーンが多かったりすることよりも正に「キャラクター」(性格設定)だってことは常識だったはずなんですよ(声優だってブサイクなのに萌えるのはイノセントなキャラ設定が「所有可能」だからですよ)。
だから「泣きギャルゲー」にエロが少ないから「泣きギャルゲーは恋愛産業じゃない」みたいなこと言う人が居ますよね。
それって単に「萌え」ってものが自分でもよく分かってないだけですよ。「お前等、萌えてるから泣けるし、泣けるキャラだから萌えてんだよ」って教えてやろうかって思ってます(笑)

「恋愛産業」ってのは「ポルノ産業」と同義に考えていいのでしょうか。
萌えというのがエロスではなくキャラクターの問題なのであれば、たしかに泣きゲーはポルノではないという言い方はできる。

ただ俺としては、萌えもやはりエロス(=抜き)だし、泣きゲーだってポルノの一種だって思ってます。
ちょっと取り扱い注意な単語が多いので混乱してきました(笑)。

善:すみません、明瞭じゃないですね。
私の使う「恋愛産業」は「ポルノ産業」を含む「異性のイメージを切り売りする産業」ですね。
美少女アニメ、声優を含むアイドル、ハーレクインロマンス、全てのポルノ、全部そうです。
しかも「読み方」によってはどんな作品でも恋愛産業になりうる。
キャサリンが好きで「嵐が丘」読めばそれは「恋愛産業として消費している」と言えるでしょう。
私が「オタク系文化」で一番特徴的なのは「産業としては、恋愛産業として発展してきた」ということだと思っています。
例えば、もてないオトコノコが某声優のラジオを聞いて、「ああ、この声優さんみたいな女の子とだったら俺も付き合えるかな」と思うことが作用してあの頑張れソングが魅力的に聞こえる、そしてCDを買う。これは明らかに「声優CD」が「音楽産業」としてではなく「恋愛産業」として機能しています。
こうして考えてみるとオタク系文化は「恋愛産業」としての機能をメインに商品として成立しているものが大半であることは紛れもない事実です。
これはアニメ・コミック・ゲームという虚構性の高いメディアの特性が、コミュニケーション弱者(結果として恋愛弱者が多い)を引き付け易いから起こった現象でしょう。
しかし、当の消費者たちは自分たちが「恋愛産業」を消費していると認めたくないので「作品としてすごい」という評価をしたがる。
勿論、「恋愛産業」としても「物語産業」「ゲーム産業」としても共に優秀な商品はいくらでもあるでしょう。
しかし、現在のオタクたちの大半はこの辺を整理せずに一緒にしてしまっている。
例えば「泣きギャルゲー」のファンの一部は「これは文学だ」という。
しかしそれは単に頭が悪いか、それとも先述した誤解をしていると言えます。
私はこう思います。
泣きゲーのキャラが好きな人は女の子の容姿が好きなだけでしょうか。多分違います。「泣ける」キャラだからより「萌える」のです。
(そして私なんかはあんなアタマの悪い自分語り物語なんてチープすぎるので泣けない、だから萌えない、のです)
「泣き」と「萌え」の有機的な結合に関して、この種のファンの一部は意図的に回避しているところがありますね。

 私は萌えオタいじりが半ば芸風と化しているので(笑)言いづらいですが実のところ個人的な領域では彼等に悪意はないし、「萌え作品」が言うほど嫌いな訳でもないです。まあカネ払ったことはまずないですが。
 ただ、タコツボの中でセクシュアリティの問題を「なかったことにしよう」という空気があって、それは少なくとも市場分析を含むオタク論としてはあり得ない、という所は指摘しておきたいんです。
 東がいうように新世代のオタクに動物化現象が進行しているとしましょう。
その場合「動物化」は性/恋愛という本来社会性を通じてしか獲得できない(人間的な)快楽を「キャラクター所有(消費)」という形で動物的に獲得できる快楽に加工するという作業を通じて起こっている。
だがこの加工は「ポストモダンの徹底」によって可能になったものというよりは、精神医学的な「倒錯」によってむしろ可能になるとい
うのが斉藤の立場です。東は「動物化」現象に性/恋愛が密接に絡むことに触れていない。そこを斉藤達に網状言論F改で突っ込まれていたけれど、結局韜晦してしまっていました。

青:これは古くて新しい問題ですよね。
オタクの性愛は特殊なしろものなのかどうかという。
東浩紀が正しいのならば、いずれすべての人間は動物化することになるが、斎藤環が正しければ動物化していくのはオタクだけ、ってことになるんですかね?


善:と、いうより「抜き」の問題をゼロにした東だと「動物化」がオタク市場で先鋭化しているという説に穴が開く、ってことだと思います。

青:斎藤環はオタクのセクシャリティを特殊なものだと考えてるんですか?

善:斉藤環は「アニメで抜けるのがオタクだ」と定義しました(笑)
具体的には「愛の対象を虚構化することで<所有>する人」です。
(詳しくは辞典みてください)
この「所有可能」の条件に「アニメ絵である」が完全に当てはまるかどうかは疑問です。
個人的には「自分でも(このセカイに行けば)恋愛可能(だと自分では思う)女性像」というのがメディア上の女性がオタクにとって「所有可能」かどうかの分岐点だと思います。
だから広末涼子のゴシップを知っているオタクは広末の外見を好きになることはあっても「萌え」(オタク的イメージの「所有」)は無理。逆にブサイクで既婚でも林原めぐみが所有可能なのは彼女の「キャラ」がオタク(コミュニケーション弱者)に極度に優しく演出されているからです(所有可能、なキャラに設定されている)(*)

 私は斉藤の言うように「動物化」現象を考察するにおいて性や恋愛の問題は回避し得ないと思うんです。
少なくとも東のいうような「動物化」したオタク市場というものは恋愛産業として突出することで形でつくられたことは明白です。
なぜ、「恋愛産業で」という考察は必要だと思うんです。「善良な市民」が言うとただの嫌がらせになってしまいますが(笑)
本当はこの辺を突っ込んでみたいんです。

青:うーん、その辺はぜひつっこんでみてもらいたいですね。
というのは、俺なんかだとやっぱ「めがねっことか、好きだから!」と、あずまんが大王の木村先生のように一言叫んで終わりになってしまうような気がするんですよ(笑)。



◎妥協ラインの女たち

善:斉藤環はこの「オタクの性」と「動物化」的な情況論を精神医学の立場からアプローチしていますが私はそういうのはちょっとついていけないので、市場の動向や同世代の連中を横目で見てきた実感で語りたいと思っています。
 例えば「声優アイドル」がオバサンでブサイクで既婚でも「消費」される(所有可能である)のは何故か、という具合にですね(笑)
 あの「オタドル小百科」に「妥協ライン」とか意地悪に放り込んでいるのはいわゆる斉藤的「オタク」の大多数がコミュニケーション弱者であるということ、そしてその身も蓋もない現実がやはり産業構造や諸作品の表現にも大きな影響を与えていることから目を背けるな、ということを言いたかった訳です。

青:なるほど、読み返してみて納得しました。
しかし……声優ファンの消費対象が「妥協ライン」上のものであるならば、なぜ彼らは現実に妥協できないんでしょうね?
癒してくれる幼なじみ系をキープしつつ、やっぱり本命はヒロイン系なのか?


善:妥協できますよ。でも能力的に「恋愛可能な」コミュニティに接続できない(大学でいうならサークルで浮いてしまう)だけですね。やっぱ周りのオタク(斉藤)見てると妥協ラインは低いですよ。いや、多分このさきの人生で一番先にフツーに話せるようになった女性に無条件に惚れるんじゃないかってのがほとんどですね。(実はこれに関しては悪趣味な実験もしました)

青:ふむ……。
このあたりは世代的な差というより、属していたコミュニティのモテ度の差が影響してるな。
俺の周りって、けっこうモテるヤツが多いんですよ。俺はモテませんが。
TRPGファン全体はやっぱりモテ度低いですよ。エロゲファンと比べてどうか
はちょっと分からないけど。ただ、俺は社交性の低いヤツを徹底的に排除した。
そういうヤツとTRPGをやったって面白くないんです。
というわけで俺の周りのヤツはけっこうモテる……いや違う、そこそこモテていいくらいの社交性とツラと常識その他もろもろはもってる、なのにモテない。というか女性に対してひどく消極的なのです。
やっぱり声優ファンとか多いですよ。俺はよく分かりませんがたぶん妥協ライン上のキャラでしょう。で、そのくらいの女だったら実際に身の周りにいる、その気になれば落とせるはず、なのに「ハッ、あんな女」みたいなことを言って手ぇ出さないんですよ。
だから「このさきの人生で一番先にフツーに話せるようになった女性に無条件に惚れるんじゃないか」ってのはほとんどいない。
いや、いま言ったみたいなヤツばかりじゃないですけどね。二次元キャラとか声優とかはぜんぜんダメで、現実の女の方がいいに決まってるってヤツもいるし、俺みたいに妥協できないがゆえに現実の恋愛ができないとゆーのもいます。
このあたりはちょっと噛み合わないかもしれないなー。


善:そうですねぇ。あの「オタク黒歴史」の連中は間違いなく「手が届く」女性が目の前に現れたら飛びつきますね。

青:それから、ちょっとお聞きしてみたいことがあります。
ファンタジーマニア系に絶大な人気を誇っていた癒し系ミュージシャンとして、遊佐未森、谷山浩子、ZABADAKというのがいました。このあたりっていまはどうなんでしょう。人気あるんでしょうか。

善:この辺のファンは同世代にはあまり居ませんね〜谷山浩子は僕等の世代では「みんなのうた」の人って認識です。

青:そのあたりは世代間の共有性はないものなのですね。
まーアイドルとか音楽ってだいたいそーいうものかあ。
ただ、受容のされ方はそれらと似たようなもの、という認識でいいんでしょうか?
あと、浜崎あゆみ信者の精神構造はかなり声優ファンと酷似しているのではないかと睨んでるんですが、実際のファン層はかぶっているのでしょうか。


善:ハマサキに関してはその通りだと思います。「キャラ先行」という一点において。
でも、声優ビジネスは「アニメキャラと同じように<所有可能>なアイドルを売る」というのが基本ですからその意味では離れていると思います。

青:浜崎あゆみについては、俺、なんで売れてるのかさっぱり分からないんですよ。
ただ、こないだ友人たちと飲んでて、浜崎あゆみがなぜ売れるかという話になったんです。
彼らの話を聞いても俺は感覚的にはさっぱり分からなかったのですが、理屈としては「浜崎あゆみには固定したイメージというものがない。歌で見せるイメージとトークで見せるイメージ、そのほかの場で見せるイメージはまったく異なっていて、それらの間に一貫性はまったくない。もちろんファンがそれぞれに抱いているイメージも各自まったく違っている。だがもともと一貫性がないゆえに、その食い違いがファン同士の齟齬を生むこともなく、ファンはそれぞれ自分なりの『あゆ』のイメージを抱きつつ、なおかつ『あゆっていいよねー』と何の違和感もなく言い合える」ということらしいのです。
俺としては「えー、そんなアクロバティックな受容の仕方、できるわけないじゃんっ!」って感じなんですけどね。
それはともかくとして、声優ファンでありつつ浜崎あゆみファンでもあるというようなヤツはいるんでしょうか?


善:あまり居ませんね。確かに構造は似てるんですよ。
でも、ファン層が被らない理由は、「あゆ」はオタク(斉藤)にとって「敵」だからですよ。
例えば「泣きゲー」と「辻仁成」はレベル的にはいい勝負(同じ90年代的自分語り癒し要素の記号的挿入)のはずなのに、「カノン」のファンは絶対に「ピアニシモ」は読まない。それは彼等が「オタク」という「性癖のタコツボ」の中で「俺たちは弱者じゃないよ」と慰めあいながら自閉しているからです。(*)
現にたまたま何かの弾みで辻を読んで「こういうのもいいよね〜」というオタク(斉藤)は居るでしょう。
同じ理由で林原めぐみのファンは、「あゆ」は聞かない(敵だから)同じ「燃えパターン消費」なのに「バキ」のファンは「水戸黄門」は否定する(敵だから)
私はこれがオタク(斉藤)の好きじゃないところです。
このゲームはメタフィクションがいいんだよ、と某ノベルゲームを支持するやつでも「じゃあドグラマグラは?」と聞くと興味をもたない(萌えキャラが出ないから、敵だから)(*)


◎タコツボ

善:こういう話って評論だの言論に「癒し」を求めてるなら無視した方が幸せになれる現実でしょうが、私はそうじゃないので指摘します。
勿論、彼等だって分かっているでしょう。しかし、そこで開き直ってテキストサイトの海の中でタコツボをつくり、外界から遮断されることで「俺たちは悪くないよな」と慰めあう情況は不毛です。
ファンの不毛な馴れ合いがもっとも文化を凋落させることは文学が証明したばかりじゃないですか(笑)
 別に彼等を差別化して薀蓄系オタクのタコツボをつくるつもりはないですし、そこでイチイチ意地悪してしまう自分の文章を読むとちょっと・・・と思うこともあるんですが、私の力量ではただのバッシングにしか見えないのは・・・私の責任ですね。

青:惑星開発委員会の掲示板でも、「好きな人は好きなんだから悪口言うな」みたいな書き込みがときどきありますけど、なんでみんなタコツボにこもりたがるんだろう……。

善:これは仕方ないですよ。でも「ああ、俺に怒ってもあんたたちの問題なんて解決しないのにな」とはつくづく思いますね〜(笑)
でも、「なら、オタクたち全てに今すぐ社会性(もしくは女)を与えて見せろ!」って叫ばれたら困りますからね〜
さすがに「お前を殺ってからそうさせてもらう!」という訳にはいかないですし(笑)

青:んー、ああいう煽りに対していいカウンターが出てこないかなとは期待してるんですけど。
でも駄々っ子みたいな反発か、ベタベタなすり寄りか、「いいですなっ、若いってのは!」みたいな距離を置いたなまあたたかい見守り方くらいしかないのがちと残念というか。まあ俺もなまあたたかく見守ってるだけなんでなんとも言えないですが(笑)。ああ、でも最近はちょっと面白いかな。


善:善良な市民の煽りに対するカウンターは私も少し期待してたんですよ。
でも、一年やってメールはたったの十通ちょっと。
ネットで言及されることはおかげさまで結構多いのですがご指摘のとおり毒にも薬にもならない「感情的な反発」「擦り寄り」の二通りしかなく(笑)ちょっとがっかりです。
 私が期待してた反論の方向性は二つあって一つ目は「ブンガク」に関する部分で、「パターン消費を批判する、と言ってもポストモダン文学っていったって高橋源一郎は5年ももたなかったじゃないか。お前は<ペンギン村に陽が落ちて>みたいな作品が増えてもいいのか?」という批判でした。

青:んー、じゃちょっとディベート的に意地悪な批判をしてみましょうか。
「なぜ文学にこだわるんだ? エンターテイメント系の小説やアニメ、ゲーム、音楽といった分野が十分に文学の代替を果たしてるじゃないか。文学なんてもう必要ないんだ。必要があるとすればファッションとしての文学だけだし、もともと文学にはファッションとしての側面だってあった。文学にいちばん権威を求めてるのは君じゃないのか?」


善:この場合私の反論はこうですね。
「私が<ブンガク>を批判する理由は二つあります。一つは文学が<ブンガク>になることで実際に小説の質が下がっていると感じるからです。いわゆる「権威」としての文学が死んだことは別に悲しくともなんともありません。むしろ歓迎すべきことでしょう。しかし今そこにある日本小説の大部分は望むべき<権威から解き放たれた裸の日本小説>ではなく<権威があった頃の文学を俗流イメージの記号的な挿入で気取っているまさに「ブンガク」と呼ぶべきもの>だからです。私のブンガク批判は文学擁護ではなく、むしろ文学という権威の完全死こそが日本小説というジャンルの最浮揚の必須条件だと考えるからです」

青:あ、これは完全に同意です。
ただ俺はJ文学にはほとんど興味がなくて(W村上、高橋源一郎、島田雅彦あたりまでは好きなのですが)、むしろ旧文学の受け取られかたの方に興味がありますね。権威を完全に解体してしまえば、日本文学はもっと面白く読めるはずなんですよ。そうすればそこにある技法やエッセンスをもっと素直に継承して、これからに生かしていくことができると思うのです。


善:辻や町田が「ブンガク」として売れてるのってオタクでいうと「セカイ系だ」ってだけで思い入れ膨らませて10点つけちゃうようなアタマのヨワイ人がろくに古典も読まずに「こういうのって文学っぽいかも」とファッションや癒しにしている訳ですからね。
むしろ権威が解体してしまえば「文学っぽい」なんてことは全然正の価値じゃなくなるはずです。
逆に「ブンガク」という現象が一部の困ったちゃんたちに寄生することで「文学」という権威が生き延びていると思うんです。だから「ブンガク」みたいな権威のゾンビは排撃した方がいいんです。(*)

もう一つの「これはあるかな」って思ってた反論の方向性は「確かに萌え産業はコミュニケーション弱者を対象とした慰み産業だ、だがお前はセーフティネットの存在を否定するのか。仮想現実批判なんてお前の言っていることは子供にTVを見せるのをやめて自然の中で育てろといっているエコ親父と一緒じゃないか」という批判です。

青:こっちは難しいな。
「なぜ放っておいてやらないんだ。彼らがどうなろうと君の知ったことじゃないだろう。
彼らの醜さを撃つことで、自分の中にある醜いものを否定できると思っているのか?それともそうすることで、彼らの上に立ったつもりなのか?」
やっぱあんまり出来がよくないですな。


善:「私が彼等を批判する理由は二つあります。まず、第一に彼等の抱えている問題を解決する方法として、二次元美少女の<所有>は間違っているからです。社会性を通じてしか獲得できないものを他の方法で代替する試みは失敗に終ります。そういった意味でギャルゲーはセーフティネットとしては機能しないと思ってます。ただ、この問題は「じゃあお前はヤツらに<届かない恋愛>以外のイキガイを提案できるのかと言われたらムリなので、迷ってます。もう一つは彼等の言論が市場に悪影響を及ぼすからです。彼等は自分たちの性的な嗜好を作品評価に直結させすぎる。「面白いもの」と「慰められるもの」は分けるべきでしょう。私が「敢えて」発言する理由は主に後者です。私は私の一般人の友人たちに「アニメとかで面白いのある?」と効かれたときに、自信をもって勧められるマニアがいいなと思うからです。私が彼等より優位に立っているとするならば、それは性的嗜好の問題ではなく、情況理解に実存的な願望を持ち込んでいるか否かの差でしょう」

青:なるほど、これもすっきりしてていいですね。
いまエロゲーを語ってる人って、擁護の立場の人しかいないですよね。
ただの嫌悪感の表明はあっても、エロゲーやエロゲーファン、それらを取り巻く状況をきちんと批判しようという人はいない(斎藤環はどうなのかな……)
ただ、「情況理解に実存的な願望を持ち込んでいる」というところだけ意味がよく分かりませんでした。


善:斉藤環はそういった意味では一番評価してます。
例えばギャルゲー擁護の人で多いのはそれこそ、東浩紀をヘンに読んで「これは動物化という新時代に対応したクレバーな行為だ」ってニュアンスですね。でもこれは彼等の「俺たちは弱者じゃない」「少なくとも直視はしたくない」という実存的な「願望」です。
でも私はそういう「願望」があってもそれは評価には加味しない、ってことです(笑)


◎80年代の言説と90年代の言説

青:あ、「動物化するポストモダン」の書評は読ませていただきました。
だいたいの認識においては賛成です。てゆーかあれの受容のされ方についてここまで突っ込んだ話というのははじめてだと思います。

あれ、スキゾキッズになりきれなかった連中の分析ってのはなんかあったかな。
なんかそーいうのがあると比較対象として役に立ちそうな気がしますが。


善:浅羽通明の「天使の王国」(幻冬舎文庫)や大月隆寛の初期の著作が80年代のこの辺の動きに関してはよくまとまっていると思いますが、お読みになられましたか?
大月隆寛はちょっとアレになりすぎましたけど、彼の80年代批判に影響を受けた論者は多いと思います(宮台なんかも間違いなくそのクチでしょう。認めたくないでしょうが)(*)

青:ああそっか、浅羽通明や大月隆寛あたりがそうか。そうですね。
「80年代の正体」はたしか大月隆寛が仕切ってたんですよね。あれは面白かったです。
「天使の王国」はそうとう昔に読んだっきりで、ほとんど内容忘れちゃいましたね。あれ文庫になってたんですか。知りませんでした。今度探してみます。呉智英のポジションって、いまだと誰かいるんでしょうかね?


善:呉智英はいませんねー
なんかトリックスターを気取ってもいい、という人がいないんですよ。
みんなシリアスに自分語りしたいみたいで(笑)

青:「博識な教養主義者」ってことではまさに唐沢俊一がそうなんでしょうけど。こないだの日記の「夜長ってのは秋の季語だ」って話なんかはいかにも呉智英ぽかったですね。
でも「エセインテリの痛烈な批判者」「無敵の喧嘩師」という要素をもった人は……いないですねえ。一時代に一人はあーいう人が欲しい気がするんですけど。


善:話を戻すと、「10年経って見ろ、脱構築とかほざいてた連中よりずっとお前等の<深読み>恥ずかしくなるからな〜!」とは思ってますよ(笑)

青:そういえば浅羽通明の直系は割とこんな方面に生き残ってるようです。
http://www.geocities.jp/utyuukaizoku/


なんか80年代と90年代の状況の対比が、頭の中でだいぶ整理されてきたように思います。一時期、論壇系からはかなり興味が離れてたので、割とそういう図式がちゃんと見えてなかったんですよね。


◎浅田彰と東浩紀、カリスマ文化人たちの抱く幻想

善:結局浅田彰が「自意識の問題はあるんあるんだけど、ないことにして表層と戯れよう」と言ったのは10年もしないで「そんなの無理じゃん」ってことを彼等自信が証明しちゃったわけですよね。
今の、「動物化」も同じような運命をたどるんじゃないかって疑うような批判があっていいはずなんですよ。でもないんですよね〜(浅羽のミニコミ誌でちょっとそれっぽい記述があったような・・・)
東浩紀って分析は正しいって思うんですが「動物化」に関してはオタク(斉藤)にちょっとロマンチックなものを抱いてるんじゃないかって思います。宮台の「まったりと生きる女子高生」や大塚の「少女」と同じですね。(*)
実際は一皮むいただけで近代的な「ニンゲン」の生皮が出るんじゃないかって思うときもあります。

青:「動物化」は確かにそういう幻想の部分がありますね。
でもそういう幻想をもたないとしんどくってやってられないんでしょうね。
動ポのあの論旨からそういう幻想までなくしちゃったら、身もフタもなさすぎますから。
だからいまの段階であれを幻想だってバラしちゃうのは、ちょっと東ちんがかわいそうすぎるのではないかと(笑)。


善:東大の院を出たエリート様の幻想を、下手に癒しにしちゃったためにあとで後悔するのはぼく等の世代ですから・・・

青:まあそうなんですけど……スキゾキッズと同じで、放っておいても割と簡単に底が割れちゃうんじゃないかって気がしますが。

善:そういっていただけると安心しちゃいます。
デカンコ使って「ギャルゲーはメタでポストモダン」とか言わないと批評サイト顔できないんじゃないかって被害妄想的なことも頭よぎったりしますからね(ウソです・・・笑)

青:あ、その気持ちはなんとなく分かるなー。
古い言葉に威圧されて、リアルな気分が口に出せなくなってしまうような構造っていつの時代もありますよね。高度成長的/全共闘的な言葉は今でもそういう役割を果たしてるし、オタク第一世代的な言葉も抑圧的なはたらきかたをしてしまう局面はある。やっぱきちんと批判してかないとダメかー。


善:オタク第一世代に関して言えばよく分からないんですよ。
なんかメディアの向こうの人しか、知らないんですね。第二世代の知り合いは結構居るんですが・・・・。

青:スキゾキッズも、糸井重里あたりの立場からすれば簡単に仕掛けが見抜けちゃうものだったのに、そっから一つ下の世代は割と本気だった、みたいなズレもあるからなあ。

善:それは本で知りました(笑)
ですから私はギリギリ「動物化?字面とおり受け取るなよ、バーカ」って言ってくれる同志の出現を期待しています。

青:善良な市民さんが挙げられた系譜には、いとうせいこうとか渡辺浩弐なんかも入られそうな気がします。中森明夫の「おしゃれ泥棒」も、少女幻想まる出しだったなあ。
少女とかそういう「自分が絶対になれないもの」に幻想を託して、それを寂しさと憧憬に満ちた視線で見つめるのって、なんなんだろう?


善:う〜ん、どうなんでしょうね?
でも大塚や宮台が「自分には絶対になれないもの」に幻想を抱いていたのに対し、東のそれは自分の分身の如き下の世代の男性オタですよね?その辺の違いにも興味があります。

青:たぶん東浩紀は、第三世代を自分の分身のようには感じてないんじゃないですか?
頭では理解できるけど、彼らのように無邪気に萌えることはできない……といった疎隔は感じてる気がするんですけど。動ポの謝辞とか読むと。


善:そうですね。でも、彼のギャルゲーやアキハバラへの言及を見ると結構本気で好きなんじゃないかって思うんですよね。

青:でも彼の萌え方って、たぶん第三世代の連中にはついてけないでしょうね。
てゆーか彼の萌え方は、誰にもついてけないんじゃないか(笑)。
萌えじゃないけど、網F改の「『大日本』は特撮のナショナリズムへの傾きを露悪的に笑い飛ばした」なんて評価は、俺からしても「ハァ?」という感じです。確かにそういう面もないとは言えないんだけど……でも真っ正面からそういうところを力説されてもなぁ。


善:「イデオンは冷戦構造を」にも大爆笑ですね〜

青:たぶん彼はギャルゲに対してもそういう意味不明な萌え方をしてるような気がします。「メタ構造たんハァハァ」みたいな。

しかしそういった「俺は古い人間だけど、彼ら(少女・コギャル・第三世代)がステキな世の中を作ってくれるさ」的な人々に比べると浅田彰はやっぱすごいなと思いますね。
「俺がスキゾキッズの見本だ!」という自己演出を貫き通して、なおかつ誰も浅田彰のようにはなれなかった。少なくとも彼は、自らのフォロワーからは逃げ切ったと言えるのではないでしょうか。


善:それは言えると思います。落としどころも綺麗ですよね。「政治的には近代に踏みとどまって弱者救済。でもそんなイデオロギーを訴える芸術はクソ」だなんて。私も同じで「ギャルゲーみたいな弱者救済は(政治的に)必要だが、セーフティネットとしてしか機能しない作品は(作品評価として)クソ」って立場です(笑)


◎さくらの唄

青:あ、いま唐突に思い出したんですが、安達哲「さくらの唄」って漫画知ってます? 
これもそのテの「少女憧憬」系の作品なんですが。講談社漫画文庫から出てますので、未読でしたらぜひ。


善:・・・ハードカバーでもってます(笑)

青:ぐはぁ(笑)

善:あれは私も結構衝撃でしたね。大塚英志がエヴァのTV版最終回批判の引き合いに出していたのを覚えています(読売新聞)

青:あー、俺も読んでてエヴァを思い出しましたが、しかしあれを批判に使えますかね? 破綻してるって意味では同じだと思うのですが。論旨覚えてます?

善:確かエヴァ(今思えば「セカイ系」)の他者性の欠如を指摘する内容だったと思います。同じ破綻でも安達には「他者性」がある。みたいな・・・よく覚えていません。

青:とりあえずあれ読んで思ったのは、もはや少年というか男には、成長物語ってのはムリなのかな、ということですね。男はずっとうじうじしてるしかなくて、女性を賛美することでしか世界を肯定できないのかなと。なーんか谷崎潤一郎みたいな話ですが。

善:それはすごく同感ですね。最後に主人公や映画監督の友達が成長しちゃうところだけがファンタジーで浮いちゃってる。

青:学園祭以降はそもそも完全に破綻してるからまあいいんですけどね。
ただ、ああいう展開になってしまった理由って、まともな青春モノになってしまうことに作者が恐れをなしたからなんじゃないかと思うんですよ。当初の路線でいけば、主人公は自意識過剰でいじけた性根を克服して、明るく爽やかな高校生へと脱皮する予定だったはずです。でも作者は、どんなに主人公がまともに葛藤し苦悩し成長したとしても、日の当たる側に出てってしまうことが我慢できなかった、そういう主人公に共感できなかったんだと思います。
それは分かる気がするんですよ。俺もあの自意識過剰でうじうじした主人公に共感していたわけだし、それを少しずつ克服していくところに爽快さがあった。でも、彼がすっきりさっぱり明るい高校生になって楽しい学生ライフをエンジョイするようになってしまえば……彼がいかに厳しい試練を経たにしても、「あいつはあっちの世界にいっちまったんだな」としか思えないような気がするのです。
すると、俺なんかがいちばん求めている「冴えない自意識過剰な少年の成長物語」なんてのは構造的に不可能なんじゃないか? と暗澹たる気持ちになるのです。


善:これは結構コアな問題ですね・・・それだけに先送りさせてください。
それってもしかしたら「セカイ系の可能性とその限界」をいみじくも現しているんじゃないでしょうか・・・


◎党派的覇権

青:あと、「オタク批評タコツボの党派的覇権を目指してるような印象が強い」てのはどうなんでしょう。確かに印象としてはそう見えちゃうんですが。
ただ、本人の意識としてはあくまでいろんな立場の人の接点というか触媒になろうとしてるだけなんだけど、なぜかつるんでるように見えちゃうということなんじゃないかなと思ってるんですが。


私もそう思います。でも、こういうメディア上の振る舞いって結局受け手がどう取るか、ということなので、やっぱりその辺は批判的ですね。あと東に関して言えば(他が切れるだけに)作品論がダメすぎるような気がするんですけど、どうですか?「ナデシコは勧善懲悪のパターンを劇中劇で批判した傑作」とか、本気だったらちょっと寒すぎるような・・・(*)

青:俺もあの人には、個別の作品論はあまり語ってほしくありません。なんかしらんけどすんげー違和感を感じます。以前彼がSPA!に書いてたガンダムについてのコメントがムカついて、それでしばらく彼のことは大嫌いだったんですよ。動ポを読んでだいぶ認識を改めましたが。

善:私も「動ポ」で大きく彼を見直したクチです。
しかし、東の言うような「自由な批評」が東の活躍によって生まれるとは思えないし、あの「YU-NO」の気持ち悪い深読みみたいなものが増えてしまったのは嘆かわしいです。

青:うーん、彼が「自由な批評」を生み出す可能性については、期待したいと思ってるんですけどねえ。
あれだけあちこちで喧嘩しまくってるんだから、もう少し風通しよくなってもいいと思うんですけど。なんでだめなんだろう。


善:最近流行りの深読み萌え作品評みたいなものがたくさん・・・と思うと頭痛くなります(笑)

青:どうかな。結局のところ善良な市民さんみたいな反動(?)も出てくるわけじゃないですか。たぶん動物化一色にはならないですよ。いや、もしかすると一時期はなるかもしれないけど、最終的には平衡を取り戻すと思います。

善:個人的にはこの「動物化」は触れないでおこうかなって思ったんですよ。でもいわゆるテキストサイト界の中には唐沢俊一派で「笑い飛ばす」人もいるけれど、「第三世代は動物化して、これからもし続ける」っていう東の枠組み自体を(批判者も含めて)自明のものと受け取ってる人が多かったので突っ込んでみました。
あと彼の「動ポ」以降の論壇放免の切り込みは好ましく思っています。「トリッパー」の竹田青嗣との対談とか。

青:竹田青嗣対談は読んでないですが、笠井潔との往復書簡 は面白かったです。全然かみあってないあたりが(笑)。どのように噛み合わないかというのを明確にするのも、それはそれでひとつの進歩だと思います。

善:確かにアレは「かみ合ってない」ところが面白いですね。


◎最強のデータベース駆動エンジンとしての<物語>

青:そういえば、以前、特撮の方からこのテの世界に入ったという話を書いてましたよね? 具体的にはどのあたりでしょうか。「怪獣学・入門」とか?

善:いえ、なんかガキの頃に「仮面ライダー」とかが好きでよくビデオレンタルで観てました。さすがに「正義とは」みたいな熱い魂に感じたりはしませんが造形的なフェティッシュはある程度あると思います。その辺を引きずっているところがありますね。これは間違いなくただの個人的な趣向に基く偏愛であり性癖でしょう(笑)

青:円谷派じゃなくて東映派ですか。リアルタイムの世代じゃないないのに怪人フェチ、ってのはかなり珍しいんじゃないかと思います。
俺は仮面ライダーシリーズについては、Xとアマゾンは割と好きですが、ほかはちょっとなあ……。正義とか語られるのガキの頃からきらいでしたし。いまのホスト系俳優ばっかのもあまりノれないです。
そういえば、「仮面ライダースピリッツ」についてはどう思われますか?


善:スピリッツは複雑ですね。レビューは5点をつけましたね。
オタク(斉藤定義の)としてはスピリッツも好きだし、「スパロボ大戦」もある程度好きなんです。
でも、あのシナリオで感動できるほどは好きじゃない(性癖が弱い)って複雑な立場ですね。(*)
 でも、本当に好きなマンガや小説に比べると・・・やっぱりちょっと、いやかなり落ちてしまう。「記憶資源」に反応するだけで、そこをオミットして考えるとアクションマンガとしてもヒーローものとしても「及第点やや上」じゃないかって思うんです。で、5点ですね。

あとこういう「スパロボ企画」ってオリジナルが魅力的じゃないと辛いなって言うのがありますね。今のジャンプで「ファミコンジャンプ」つくっても・・・っていうのがありますから。
 「スパロボ企画」ってデータベースからのサンプリングで、それこそ「動物化」の象徴みたいな作品ですけど、やっぱりその「データベース」として一番魅力的なのは「作家性」を備えた「物語」じゃないかって思うんです。このあたりから東の「動物化」に対する反論ができないでしょうか?
 例えば「スパロボ大戦」にゲキガンガーやトライゼノンが出ても嬉しくないですよね(笑)似たようなことをどっかでみかけたような・・・うう、パクってしまいました。

青:それはちょっと面白い見方ですね。でも、作家性なのかなあ。結局は「燃え」だったりするような気がするんですが。富野台詞の楽しさとかも、作家性っていうか、やっぱ性癖の部分で喜んでるだけでは。ストーリー的には見るものありませんしね。

善:程度問題だと思うんですよ。
例えば「スパロボ」がマジンガーとゲッターとコンVだけだったらやっぱりつまらないと思うんですよね。やっぱりガンダムやダンバインが居る方がいい。確かにスパロボのストーリーはクソですし、クソにしかなりようがない。でも私自身がスパロボやってまあ多分他人よりはずっと反応微弱にせよ「燃える」のは確かに「燃え性癖」を刺激されるのもありますが、それ以上に「作家性による<燃え>の記憶資源」を呼び起されるからだと思うんです。稲葉振一郎的にいうと「<物語>(作家性)こそが最強のデータベース駆動エンジンだ」ってことです。
ましてやナデシコやトライゼノンがスパロボに出ても「スパロボ企画みたいなものがスパロボに出た」だけなので「記号的な燃え」しか得られない。「記憶資源の刺激」はない。それは「作家性」のあるものでないと記憶資源として弱いからです。(*)
スパロボに「作家性」はない。
しかしスパロボが使用している「データベース」が魅力的なのは多分にオリジナル作品の「作家性」に依存している。

私は「燃え」「萌え」を性癖だと罵ったのは現在の動物的流行がまさに記号的組み合わせでしかないからです。現に私はP2のしのぶさんがいいなと思いますますし、キングゲイナーの戦闘に興奮します。しかしこれらは100%記号的組み合わせだけではなく作家性や技術による効果も大です。「作家性による燃え・萌え」は存在するでしょう。記号的な組合せで発生する性癖の充足を「萌え」「燃え」と定義するならちょっと違うものになるかもしれませんが・・・
つまり、もし「富野ガンダム」に「作家性」がなかったらスパロボの魅力でさえも半減するのではないか?ということなんです。(*)

◎まとめ〜次回公判へ

青:いやー、しかしずいぶんと話のネタが広範囲に広がっちまったというか。いったいどうなるんだろうと途中かなり心配したんですが、意外と話の方向は収斂してきてるような気がします。

ひとつは「セカイ系」の話。これは和製ファンタジー・CLAMP・高橋留美子といったベタベタにオタク媚びな物語の構造とリンクしていながら、ご指摘のあったように、実は「さくらの唄」みたいな自意識過剰青年特有の幻想というか絶望感みたいなものともリンクしているという構造が見えてきた。これはかなり面白いなと個人的に思ってます。ただ「セカイ系」を巡る状況論については、更科修一郎さんの日記で、俺の気分はほとんど言い尽くされちゃってるんで、むしろ「ホンモノ感」を演出する技法みたいなところをつっこんでみたいですね。

それから、エロゲーの方で出てきた「萌え」における作家性の話。これってスパロボの方で出てきた「燃え」における作家性の話と、構造的に一緒ですよね、ってそのあたりは狙って出してきました?作家性という言葉が適切なのかどうかはちょっと微妙なとこなんですけど、それはまた長くなるので。

あとは東浩紀とか斎藤環とか動物化とか第三世代とか、そのあたりかなー。このあたりは善良な市民さんのリードに基本的にお任せしようと思うんですが、ひとつだけ、今回は「噛み合わないかなー」でうっちゃってしまったんですが、コミュニケーション能力と虚構への親和性の違いによる、現実恋愛へのスタンスの差、みたいなところはつっこんでみたいなと思ってます。

善:私の方としてもこんなに話が噛みあうと思ってなかったので、ちょっと驚いています。
エロゲーの「萌え」とスパロボの「燃え」の話は狙ってました(笑)「動ポ」を読んだときにも真っ先に浮かんだのが「スパロボ大戦」の話なんです。前から「萌え」も「燃え」もある側面では似たようなものという考えはあったので。
私はオタク文化の問題ってやっぱり半分はコミュニケ―ション論に帰結すると思ってる所があるんです。それはただ「三次元の恨みを二次元にぶつけてる」という入り口で終っていい話じゃなくて、選択共同体や帰属の問題にも絡むと思います。それを例えば「何故オタクやサブカルには<社会派>が多いのか?」とか、東がいう「社交性を通じて物語が得られない」世の中に対して「どうやりすごしていっているのか?」とかそういう問いの立て方をしていきたいですね。

私にはやっぱり彼等が「文化祭の前夜」を諦めたとは思えないんですよ、でもそう簡単に「文化祭の前夜」は手に入らなくなった。じゃあどうするかっていうときに、西部先生は「恋愛しろ」と言ったし宮台真司は「まったり」だと(*)小谷野敦は「退屈に慣れろ」と言った訳ですけどそんな中で「動物化して萌えろ」っていう人も出て来ている。この文脈でオタク論も整理できるんじゃないかって思うんですよ、素人考えですが。

セカイ系」やファンタジーに対する評価とその変遷もこの辺りの話も絡んでくると思うので、続き、楽しみにしています。

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