2010年10月26日5時51分
東野治之・奈良大教授(古代史)は「聖武天皇を供養するため」とみる。「光明皇后の強い思いのこもった品だったのでは」と語った。
別の見方もある。
聖武天皇が亡くなった翌年の757年、皇位継承にからむクーデター未遂事件「橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変」が起きた。758年7月には光明皇后は体を壊し、759年4月と760年1月には聖武天皇の別の夫人2人が世を去った。
奈良文化財研究所の渡辺晃宏・史料研究室長は「自分が死ねばますます世が乱れる、と光明皇后の不安は大きかったはず。すがるような思いで、大刀を大仏にささげたのではないか」と推測した。
760年6月に世を去った光明皇后にはもう一つ、大きな気がかりがあったと考えられている。聖武天皇の跡を継いだ娘・孝謙(こうけん)天皇(718〜770)に子どもがいなかったことだ。文武(もんむ)天皇、その子・聖武天皇、孝謙天皇と、古代最大の内乱・壬申(じんしん)の乱(672年)を制した天武天皇の血統が絶えようとしていた。
東大寺の森本公誠長老は「陰陽の大刀は、奈良時代よりも古い時代の大刀という見方があり、天武天皇から代々伝わった宝剣だった可能性がある。皇后は自らの死期が迫るなか、別の血統の世に大刀を残すことが気がかりで埋めたのではないか」と話した。(成川彩、渡義人、編集委員・小滝ちひろ)