2010年10月26日5時51分
約1250年間も行方が分からなかった正倉院宝物の幻の大刀(たち)「陽寳劔(ようほうけん)」「陰寳劔(いんほうけん)」は、東大寺の大仏の足元から100年も前に見つかっていた国宝の金銀荘大刀(きんぎんそうたち)だった。東大寺では今月15日から3日間、光明(こうみょう)皇后(701〜760)の1250年忌が営まれたばかり。なぜ大仏の足元に大刀は埋められたのか? 古代史の謎がまた一つ増えた。
保存修理を任された元興寺(がんごうじ)文化財研究所(奈良市)が、さやに入ったままさびた大刀をX線で撮影したのは9月30日。そこに浮かび上がった「陽劔(ようけん)」「陰劔(いんけん)」の文字に、橋本英将研究員は「除物(じょもつ)」となった正倉院宝物の「陽寳劔」「陰寳劔」だと確信したという。
聖武(しょうむ)天皇の即位後、たびたび飢饉(ききん)が起き、737年には天然痘が大流行した。聖武天皇と光明皇后は仏教の力で国を治める鎮護国家を実現するため、全国に国分寺、国分尼寺を建立するとともに、東大寺を建て、大仏を造立する一大事業に着手した。
光明皇后は、初めて皇室以外から迎えられた皇后だった。仏教をあつく信じ、続日本紀(しょくにほんぎ)などによると、皇后になった翌年の730年には平城京に病人や孤児を救済する施設の悲田(ひでん)院、薬草などによる治療所の施薬(せやく)院を置いた。
「陽寳劔」「陰寳劔」は聖武天皇の遺愛品六百数十点の目録「国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)」のなかでも、大刀の筆頭に登場する宝物だった。それを正倉院から持ち出したのは、妻であり、献納した光明皇后以外にはいないとされてきた。
古代史を題材にした作品を手がける漫画家の里中満智子さんは「夫の大刀を正倉院よりもっと大仏に近い場所に埋めることで、夫婦一緒にあの世で仏様の加護を、と祈ったのかもしれない」と言った。