人間万事 塞翁が馬 (にんげんばんじ さいおうがうま)
先日、とある雑誌からインタビュー&アンケートを取っていただいた。
そのアンケートの中に
あなたの座右の銘は?
というのがあった。僕は迷わず
「人間万事塞翁が馬」
を書いた。
塞翁が馬の故事は以下の通り。
http://mizote.info/image/02profile/30kaisetu_jinkan.html
より抜粋。
中国の北の方に占い上手な老人が住んでいました。
さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。
ある時、その老人の馬が北の胡の国の方角に逃げていってしまいました。
それを聞いた近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。
ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。
「このことが幸福にならないとも限らないよ。」
そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。
そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。
「このことが災いにならないとも限らないよ。」
しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。
近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。
「このことが幸福にならないとも限らないよ。」
1年が経ったころ胡の異民族たちが城塞に襲撃してきました。
城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。
そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くはその戦争で死んでしまいました。
しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。
・・・・・・・・・・・ここまで・・・・・・・・・・・・・・・・
まあ僕たち、生きていると色々なことがある。足が宙に浮きそうなほど幸せで楽しいこともあれば、肩が地面に沈むほど落ち込むこともある。
僕は本当に楽しく幸せな日々が続く時、これが永遠に続く楽しさかと感じてしまいそうになるけれど、それは錯覚でしか無いことを知っている。これほど楽しいことは、楽しければ楽しいほど終わりが来るのも早いものだ。だから僕は心が浮き立って来始めたら真っ先に警戒する。次はどんな悪いことがあるのだろう、と。それが素晴らしく楽しいこと、幸せなことであればあるほどその警戒は強くなる。その間中、恐怖感を抱いていると言っても良い。こんな僕はペシミスティックに過ぎるだろうか?
逆にこれほど警戒感を持たなければ、元々はお調子者の僕である。浮かれ立って仰のけに高転びにこけてしまうのだ。何度そんな風に同じ失敗をしでかしただろう。本当に良いことが起こっている時ほど警戒感を持って歩みたいものだ。悪い周期に入るとありとあらゆる嫌なことが起こってしまうが、それら嫌なことは大概浮かれていた時に蒔いた種が発芽しているに過ぎないことが往々にしてある。だから、良いことが身の回りに起こっている時こそ身の処し方に気を付けなければならないのだ、と思っている。
そして、悪い周期のどん底にいる時。こんな時は一生自分の人生はここから這い上がれないのではないか、という気持ちになってくる。本当に辛くて悲しいことは世の中たくさんある。僕はそんな中に嵌まり込んでいる時こそ、この「塞翁が馬」という呪文を唱える。良い周期の種もこの時に蒔かれる。次はどんな良いことが起きるんだろう、と楽しみになる。
今、悪い周期のどん底にいる僕とあなたへ。(僕も、かよ(笑))
次は必ず良いことが巡ってくるさ。谷深ければ山高し。
「暁闇(ぎょうあん)」とは、夜が明ける前の闇が一番暗いことを表す言葉だ。
今日の、夜明けを待とう。
そのアンケートの中に
あなたの座右の銘は?
というのがあった。僕は迷わず
「人間万事塞翁が馬」
を書いた。
塞翁が馬の故事は以下の通り。
http://mizote.info/image/02profile/30kaisetu_jinkan.html
より抜粋。
中国の北の方に占い上手な老人が住んでいました。
さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。
ある時、その老人の馬が北の胡の国の方角に逃げていってしまいました。
それを聞いた近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。
ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。
「このことが幸福にならないとも限らないよ。」
そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。
そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。
「このことが災いにならないとも限らないよ。」
しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。
近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。
「このことが幸福にならないとも限らないよ。」
1年が経ったころ胡の異民族たちが城塞に襲撃してきました。
城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。
そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くはその戦争で死んでしまいました。
しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。
・・・・・・・・・・・ここまで・・・・・・・・・・・・・・・・
まあ僕たち、生きていると色々なことがある。足が宙に浮きそうなほど幸せで楽しいこともあれば、肩が地面に沈むほど落ち込むこともある。
僕は本当に楽しく幸せな日々が続く時、これが永遠に続く楽しさかと感じてしまいそうになるけれど、それは錯覚でしか無いことを知っている。これほど楽しいことは、楽しければ楽しいほど終わりが来るのも早いものだ。だから僕は心が浮き立って来始めたら真っ先に警戒する。次はどんな悪いことがあるのだろう、と。それが素晴らしく楽しいこと、幸せなことであればあるほどその警戒は強くなる。その間中、恐怖感を抱いていると言っても良い。こんな僕はペシミスティックに過ぎるだろうか?
逆にこれほど警戒感を持たなければ、元々はお調子者の僕である。浮かれ立って仰のけに高転びにこけてしまうのだ。何度そんな風に同じ失敗をしでかしただろう。本当に良いことが起こっている時ほど警戒感を持って歩みたいものだ。悪い周期に入るとありとあらゆる嫌なことが起こってしまうが、それら嫌なことは大概浮かれていた時に蒔いた種が発芽しているに過ぎないことが往々にしてある。だから、良いことが身の回りに起こっている時こそ身の処し方に気を付けなければならないのだ、と思っている。
そして、悪い周期のどん底にいる時。こんな時は一生自分の人生はここから這い上がれないのではないか、という気持ちになってくる。本当に辛くて悲しいことは世の中たくさんある。僕はそんな中に嵌まり込んでいる時こそ、この「塞翁が馬」という呪文を唱える。良い周期の種もこの時に蒔かれる。次はどんな良いことが起きるんだろう、と楽しみになる。
今、悪い周期のどん底にいる僕とあなたへ。(僕も、かよ(笑))
次は必ず良いことが巡ってくるさ。谷深ければ山高し。
「暁闇(ぎょうあん)」とは、夜が明ける前の闇が一番暗いことを表す言葉だ。
今日の、夜明けを待とう。