■日本俳優連合30年史■ 前史 |
一つのきっかけ |
放芸協を組織するに当たって、中心的に基礎作りを進めたのは俳優の久松保夫氏、村瀬正彦氏でした。いずれも1960年代において、テレビドラマやラジオドラマ、また映画や舞台、そしてテレビの外国映画の声の吹き替え(アテレコ)などで絶大なる人気を博した俳優です。久松氏が俳優の組織を形成するのに力を発揮したのは、生来の力量に加えて伏線となった事件があったと言われています。それは1959(昭和34)年、芸能界を驚かせた「太平洋テレビ事件」でした。
この年、北海道出身で代議士の秘書を務めた経験のある清水昭という名の人物が単身渡米し、米国3大ネットワークの一つであるNBCとの独占契約を取り付けて帰国したのでした。この契約は、NBCの持っている外国映画を日本へ輸入する権利を独占してしまうというもので、新聞に大きく報道されたばかりでなく、スタートしてまだ間もなかった民間放送各社の経営状況を大きく左右するものとして、業界全体を震撼とさせたのでした。
清水昭氏の野望は、外国テレビ映画の輸入を独占するばかりでなく、日本の俳優をも独占してしまおうというものでした。そして、手を結んだのが有力俳優の久松保夫氏だったのです。もともと弁舌さわやかで人なつこく、包容力もあった久松氏は俳優仲間に声をかけては同調者を集め、半年間で「太平洋テレビ芸能部」(PTC)を興してしまいました。東京・築地に事務所を構え、事業開始の宣伝も華やかに、文字通り時代の寵児となったのでした。所属した俳優600余名、マネージャー30余名だったと言われていますから、巨大な芸能集団が短期間の間に出現したのでした。
ところが、この新しいプロダクションは、ほとんど実績を挙げないまま、崩壊してしまいます。あまりにも性急な組織化のために、人は集まったものの、それに見合うだけの仕事が確保されず、投資資本の回収の目途が立たず、破綻したのです。1956(昭和31)年、政府が『経済白書』の中に「最早戦後は終わった」と書き込んで以来、高度経済成長に向けて日本全体が飛躍して行こうとするなかで、新しいテレビ文化の幕開けを象徴するかのようなプロダクションの出現でしたが、結果はあだ花に終わってしまったのでした。
ただ、事業体の設立としてはあだ花だった「太平洋テレビ」事件も、俳優の力の結集という意味では遺産を残しました。1960年初頭に、築地本願寺で開催された「俳優クラブ世話人」の呼びかけによる集会です。先に600人を結集した実績から見ると、わずか30%弱の動員に過ぎませんでしたが、それでも170人余が集まって討議を開始したのです。PTC破綻の過程では、固定給制度を廃して歩合給にすると告げられた約30人のマネージャーたちが早々に労働組合を結成し、ストライキを打ったりしていました。そこで、討議は「俳優はマネージャー集団とはどう提携したらよいのか」に始まり、「そもそも俳優の権利とは何か」「何に向かって闘うべきか」と進められていったのです。
とくに、外国映画の吹き替えなど新しい分野の放送芸能に携わろうとしていた俳優には重要な取り組みの開始となりました。当時、放送局側は吹き替えやラジオドラマに出演する俳優には、実際にテレビに顔を出して演技する俳優と大きな格差のある出演料を押しつけていました。顔が出ないのだから演技の質が落ちる、などという理屈はどこにも立つはずがありませんが、作品を作る側には差を付けなければいけないという先入観念があったのでしょう。文字通り目分量で、出演料を八掛け(20%引き)とか七掛け(30%引き)に値切ってきたのです。局によっては、「声しか出てないのだからラジオのランクで」と堂々と低い出演料を押しつけてきたところもあったと言われています。画面に顔を出そうと出すまいと全力で演技に立ち向かう俳優に、また、同じように時間の拘束を受ける俳優に理由なき格差を押しつけるという矛盾がまかり通っていたわけです。
こうした状況を打ち破るための俳優の力の結集が、太平洋テレビの失敗を教訓とした久松保夫氏の指導で開始されたのでした。1987(昭和62)年に発行された社団法人・日本芸能実演家団体協議会(芸団協)の創立20年史『芸団協 春秋二十年』では、この一連の流れと経緯について
「放送資本が醸成したこのいわれなき人格権への偏見が、声優たちに作用した反面教師としての影響は強烈であり、権利意識を基調とする著作権問題に、彼らが示した反応が他を圧していたのも当然だった。とりわけ太平洋テレビ事件以来屈折した心境にいた久松は、獲物をねらう荒鷲のように猛然と立ち上がって著作権法の改正案と真っ向から取り組み、のちに『忘れられている著作権――芸能人は法律でどのように護られているか――』なる畢生の遺書を残している」
と記しています。まさに、放芸協、芸団協そして日本俳優連合の組織化に向けて無類の力を発揮する久松氏の行動はここに始まったと言えましょう。 |