以前「青雲」の話では「青」という色について述べたが、今回は「緑」を取り挙げたい。ここで「みどり=グリーン色」という一般常識は忘れていただきたい。古語「みどり」は色の名前ではないのだ。題名「みどりなす黒髪」では与謝野明子などの明治の女や、洗い髪の江戸女房あるいは百人一首の清少納言などが想像される。しかしその色は「漆黒」「まっくろ」であって「緑色」ではない。「みどりなす」という形容が色自体の表現でない事は、この言葉だけでも、既に明らかである。
なおこのテーマはある掲示板に出た意見から勝手に頂いたものである。おだやかな人々の集まるその掲示板では私の意見は似合わないので、ここ自分のページで奇説を展開する事にした。私はどうも異端者であるらしい。
さて万葉集巻の十の2177番に「山を詠む」と題して次のような歌がある。資料は岩波「日本古典文学大系」だ。
春は萌え夏は緑に紅の綵色に見ゆる秋の山かも 綵色=しみいろ=染めた色、まだらな、シミがついたような状態
この歌は、山が「春・夏・秋」それぞれに趣のある色替わりを行う様子を詠んだものだ。ここで「紅」は「色名」であるが、「綵色」は「色の付き方」をいう言葉である。「色の付き方」とは日本語「色模様」の事である。
「春」における「色の付き方」すなわち色模様は「萌え」であり、「夏」における色模様は「みどり」だ。つまり言いかえれば「みどりなす山々」となる。秋の色模様は「綵色」すなわち「まだら」である。
「萌え」とはどんな色模様なのか。以前「萌黄・萌葱」という言葉について書いたが、「もえ」とは「情報不足だが、存在しないとは言えない」概念であると紹介したと記憶している。もちろん今回の「萌え」も同じ概念である。
冬が去り、木々の芽が一斉に吹き出すが、その最初の兆候はかすかなものだ。色の付き方としては「かすかに」「やわらかに」「おぼろげに」「ほんのりと」「そこはかとなく」などと表現出来る。
「綵色」とはどんな色模様なのか。それは「染めた色」だが、この言葉が出来たのは、はるか古代の事であり、染色技術はおそまつなものだ。すなわち「まだらに」「ムラがあり」「シミが付いたような」そういう色の付き方を言うのである。
「みどり」とはどんな色模様か。「一面に」「まじりっけなく」「一色で」「塗りつぶし」これが「みどり」だ。そうでなかったら夏の絵は描けない。
春
夏
秋
冬
というわけで出来たのが上の絵だ。左から順に「春・夏・秋・冬」となる。下手な絵ではあるが、万葉歌「春は萌え 夏は緑に・・・」のさし絵として採用した。おおかた夏の山はこの絵の通りだ。これが「みどり」である。歌には冬の山は出て来ないが、載せないわけにはいかない。
この絵、あるいは実際の夏の山を見て、「これが緑だ」と教えられたなら、その色の名が「緑」であると、99%の子供は誤解するであろう。やがて「緑」は色名となって現在に至る。
清少納言はじめ百人一首に出てくる姫君の髪は(想像だが)「漆黒の」「みどりなす黒髪」である。これを「まじりっけなく」と解釈しても間違いあるまい。万葉歌の「夏山みどり」と姫君の「黒髪みどり」は同一概念と考えてよいのだ。「みどりなす山」に近い使用例は、島崎藤村「みどりなすハコベは萌えず、若草も敷くによしなし」であるが、これは「夏ならば草の色で一面になるであろうが今はその気配もない・・・」という意味である。
起源「みどり(まじりっけなし)」が明治まで残って広く行われていたかどうか疑問だが「みどり」と「もえ」を一組で採用した藤村が上記の万葉歌を知っていた事は確かだ。「みどりなすハコベは萌えず」とは、まだ「萌え」でもなく「みどり」でもない状態の事であり、つまりは「みどり=一面に」の意味で使われたと見て間違いあるまい。
なお「みどりの黒髪」を「若芽のような」「若々しい枝葉にたとえた」などと解説する人も居るが、これは前記の万葉歌「春は萌え」と矛盾するから誤りとしなければならない。もしそうなら「春はみどり」になってしまう。春は上の絵のような「萌え」つまり「萌芽・若芽の季節」であり、夏が「みどり」なのだ。
みどりご
だが日本語には別に「みどりご」という言葉がある。これはご存じ「あかご」「赤ちゃん」つまり「生まれたばかりの幼児」を言うが、その「みどり」とは何であろうか。「夏山・黒髪」とは違うのではないか。「生まれたばかりの幼児」がなぜ「みどりご」なのか。これを解明しなくてはならない。
私の下の娘は国立病院に勤める看護婦である。以前「モロー反射」について確認した事もあるが、今度は「蒙古斑」の話題になった。ご賢察の通り「みどりご」は「蒙古斑」の表現なのだ。
ある日父親は生まれたばかりのわが子を見に来るが、その背中から腰にかけての肌が「一面に」青くなっているのを見て、あおくなって驚き、「みどり!(変な色で塗りつぶされている!)」と叫ぶ。だが産婆さんは既にご承知であるから、心配ないと父親に説明する。父は納得するが、その「みどり」が「みどりご」の起源となるのだ。
蒙古斑は幼児の成長と共に消える。モロー反射と同じく、人類進化の過程を再現する現象の一つなのだ。ただし蒙古斑が出るのは「モンゴロイド」人種に限られるそうだ。もしこれが出たらモンゴロイドの一族だと言われているが、南米大陸の南端のある村に住む人々の中に、その現象が見られると、何かの本で読んだ事がある。
蒙古斑の色「あお」については既に書いた通り「あを=個体に迫る危険」つまり「オレの子供が何でこんな事に?」という意味である。。今回は「みどり」だ。ここでは「まじりっけなく」よりも「一面に」「塗りつぶし」あるいは「べったりと」などがよく合うはずであるが、基本的には同じ概念である。「みどりなす肌を持つ子」これが「みどりご」なのだ。やがて蒙古斑が消えたら、もう「みどりご」とは呼ばないのである。
さて「みどりなす黒い髪」「みどりなす緑の夏山」「みどりなす青い肌」が、いずれも同じ概念の表現である事がわかった。ではなぜ「みどり」が「一面に」「まじりっけなく」「べったり」なのか、もう一つ根本的な解明を求められる段階になって来たが、それはもちろん「ローマ象形文字」が解答を出すはずである。
MI 何らかの行動・行為がなかったとは言えない。
DO 大いなる区域。
LI 導びかれた行動・行為。
MIDOLI 何者かの指導による行為がその広い区域に行なわれた。
ここで「大いなる」「広い」は実際の面積の表現でなく、言った本人の主観である。幼児の蒙古斑は、何も知らない父親にとっては「広い面積」なのだ。もちろん「夏の山」は実際にも広い範囲である。最後の「LI=り」については、例えば「夏の山」などでは毎年起きる現象なのであるから、「導かれた行為」と表現されるのである。
すると「蒙古斑」の場合には、父親は、産婆さんから説明を聞いたあとで「それにしてもみどりな事だなあ」と言ったのかも知れない。この場合の「MI」は「もしかしたら病気になったのかも知れない」と意訳出来る。また「LI=導き」はモンゴロイド全員に「何者か(神か)の指導」が加わったという認識となる。あるいは「誰でもやがて消える」事をさして「導き」と考えたのかも知れない。この方が自然だ。
上記「み・ど・り」の意味は「みどりご」の場合に最も強く残っている。この言葉が「夏山」「黒髪」よりも古い発生であると考えても間違いないであろう。
「みどり」がこのような意味ならば「みどりなす白雪」「みどりなす白髪」などがあってもよい事になるが、実際に書き残された例は知らない。おそらくそれらの現象は、「みどり」とは別の印象を人々に与えたのであろう。例えば「ドカ雪」の「DOKA」は「ど=大いなる区域」「か=危険の発生」である。「ドカ」現象は「みどり」現象よりも話題性が大きいし、実際の面積も広いので、先にその概念に基づく言葉が市場に流通してしまうのだ。もちろん「黒髪女」の方が「白髪女」より優遇され、世間にもてはやされるのはやむを得ない。
なお蒙古斑の正確な色は「青緑色」であろう。これをある父親が「あお!」と呼び、別の父親が「みどり!」と呼んだ事になる。いずれも最初の意味は「色」ではなく、おおよそは「たいへんだ!」という感じの叫び声だ。青と緑についての呼び名と色の混乱は、蒙古斑が原因なのである。
日本語「みどり」は自然(何者か)の力に対する感嘆の声だ。誰にこんな仕事が出来ようか。・・と、みどりの黒髪を撫でながら光源氏が言ったかも知れない。
幼児をいう言葉には、他に「あかご」「あかちゃん」があるが、もちろん「赤色」の事ではない。たしかに血色のよい健康な赤ちゃんの肌は赤みを帯びているから、それが起源だと誤解する者もあろう。だがそうではないのだ。またこの場合は「色の付き方」をいうのでもない。
おおよそ幼児のまわりは危険に満ちている。「あっ!あぶない!」と親が叫ぶ場面はいくらでもあり、幼児は、むしろ好んで危険な事を始めるかに見えるほどだ。子供を育てた経験者ならおわかりであろう。その「あっ!あぶない!」という言葉が「あかご」の起源なのだ。「あか」とは「AKA」「A=事件・危険」「KA=事件・危険の発生」つまり「あっ!危険が発生したぞ!」の意味となる。要するに現代語「あぶない!」は古語では「あか!」となる。
「危険の発生事件」が「あか!」なのであるから、幼児のいたずら以外にも発言される機会はある。その例は「洪水」だ。「赤川」「阿賀野川」「赤堀川」など「あか」の付く川は多い。「あか!」という声を聞いたならば、幼児の親も、川沿いの村の人々も、直ちに行動を起こしてその危険を未然に防がねばならない。この場合、一瞬の遅れも許されないのである。
古代の幼児より、現代の幼児の方が、はるかに多くの危険にさらされているのはご存じの通りだ。ただし病気への対応は、もちろん現代の方が進んでいる。
しかし「あかり=照明」の場合には直ちに対応しなければならぬ危険はないではないかとのご意見があろう。だが照明としての明かりは、人類が火をコントロール出来るようになった後の技術だ。最初の「あかり」は落雷や山林での「自然発火」である。これは洪水に劣らぬ大きな危険だ。
前記の掲示板に出たもう一つの話題に「しろたえの衣」がある。これは万葉集巻1−28「春過ぎて夏来たるらし白栲の衣干したり天の香具山」」(岩波・日本古典文学大系版)の中の言葉だ。歌の作者ははご存じ持統天皇である。
問題は「しろたえの衣とは、どんな衣なのか」という事なのだが、おおかたは「楮(コウゾ)の繊維で作った布」と結論されたようだ。これは岩波版にもそう書いてある一般論だ。
そこで万葉集をひもとき、他の例を探して見ると、「しろたえの衣」「しろたえの紐」「しろたえに匂う信土の」「しきたえの枕」「しきたえの袖」「しきたえの家」「あらたえの布」「あらたえの藤江の浦に」「あらたえの藤井が原に」などだ見つかった。これらの言葉に使われた万葉仮名すなわち当て字は「妙」「栲」「細」の3種だけのようだ。つまり「白妙」「白細」「白栲」が混在している。
だがこれらの言葉を見ると、この例で「たえ=繊維・布の原料」と結論するのは、いささか早計と言わざるを得ない。例えば原文「しろたえに匂う信土(まつち)の山川に我が馬なづむ家恋ふらしも」の例では、「しろたえ」が地名の形容に用いられている。「あらたえの藤江の海に・藤井が原に」も同じだ。
強いて言えば「その場所には栲の原料となる植物(コウゾなど)が自生していた」のかも知れないが、「コウゾ」などは、その段階では白くないからとても採用は出来ない。布になって初めて白色(生成り)になるのである。
突然現代の話になるが、最近出来た園芸店へ冷やかしに行った時、「えっ?」と驚く植物を見つけた。名前は「白妙菊(しろたえぎく)」である。どんな植物かご存じであろうか。その茎・葉は一面に白い「産毛」のようなものに覆われていて、一見した所では「白い植物」に見えるのだ。信州あたりの高原にある「白樺」も幹は白いが、葉の先々までは白くない。
さて日本語には他に「たえなる調べ」「息もたえだえ」「絶えてひさしくなりぬれど」「絶え間なく」などの言葉もある。これらの「たえ」が「しろたえの衣」「しきたえの枕」などと、いくらかでも関係がある可能性は、きわめて高い。そこでこれらすべての「たえ」を考えあわせてみる必要に迫られる。
と書いたが、ここで「ローマ象形文字」の概念を当てて見れば、事は一挙に解決するはずである。「たえ」は「TAE」と表記出来る。
何の事であろうか。これを「しろたえの衣」に当てはめると「なぜか白色と決まっている衣」となる。ここで思い当たるのは病人の着る衣服だ。医師・看護婦の衣も白い。その色は、昔からなぜか白色と決まっている。「なぜか白色と決っている衣」これが「しろたえの衣」なのだ。
しろたえの衣・しろたえの紐 なぜか白色と決まっている衣・紐。例は病衣・死者を包む布・神事を司る者の衣。
しろたえに匂う信土 なぜかそのあたりの土地の色は白い。
しろたえ菊 なぜか知らないが、その菊の茎や葉は白い。
「しきたえ」の「しき」は、以前書いたように「古くなったら取り替える」「よごれたら取り替える」概念の言葉である。例は「式年遷宮」「年式」「おしきせ」である。
しきたえの枕 なぜか取り替える習慣になっている枕(おそらくは枕カバー)。
しきたえの袖 なぜか取り替える習慣になっている袖。当時擦り切れた袖だけ繕う習慣があったのであろうか。
しきたえの家 なぜか建て替える習慣になっている家。掘っ立て小屋。山小屋(病人隔離のための小屋)。
あらたえの布 なぜか荒織りのまま使う習慣になっている布。現代の例では「包帯」「ふきん」のような織物であろう。
あらたえの藤 なぜか荒織りのまま使う習慣になっている藤細工。かご・ざる。細かい織りのかごは竹細工。
あらたえの浦 なぜかいつも波の荒い入り江・湾。
あらたえの原 なぜかいつも荒れている原。河川敷。雨が降るとすぐ湿地になる原。
「あらたえの藤江の浦」「藤井の原」の例は、地名「藤江」「藤井」の「藤」にかかる枕言葉のように使われているが、それは植物「藤」と地名「藤江」「藤井」いずれも「あらたえ」に該当する事を、歌の作者が承知しているからであろう。
たえなる調べ よくわからないが、聞こえる事は確かだ。
息もたえだえ よくわからないが、息をしている事は確かだ。
絶える よくわからないが、もう止まった事は確かだ。
絶え間なく 「もう止まった事は確かだ」と思う間もなく。
耐える よくわからないが、まだ続く事は確かだ。
「もう止まった」と「まだ続く」は、「事が成立」つまり「現状肯定」という意味で同じ概念となる。万葉で漢字「細」を使う理由は、上記の事が、いずれも「細々と」行なわれている現象だからである。
次の例はどうか。
うろたえる なぜかわからないが、判断出来ないうちに、事は成立してしまった。
こういう状態を「うろたえ状態」と呼ぶ事は可能だ。この場合の漢字は「細」よりも「妙」が合う。「妙(みよう)な成り行きになってしまった」などと言う状況は、上記「たえ」の概念にピタリと合う。
以上「TAE」という概念は、ほぼ日本語「たえ」の全部に共有されている事がわかった。・・と考えても間違いないであろう。いかがであろうか。
「しろたえ」という言葉の概念が最もよくわかるのは前記「しろたえ菊」だ。幸いにも現代に残った「生ける化石のような言葉」と言えよう。園芸店・花屋などで、ぜひ実物を見て頂きたい。「しろたえ菊」の肌は、古代人が「コウゾ」の繊維で作った布に例える事が出来るような感じではない。
なお広辞苑で「たえ」を見ると「不思議なまでにすぐれたさま」とあるが、それは漢字「妙(みょう)」の意味なのかも知れない。「妙技」と「感にたえる」は同じ概念である。また漢字「妙」には別に「かすかに」「小さい」という意味があり、日本語は、その意味を借りたものであるかにも見える。だが実際には「たえ」を表現するために採用したせいで、逆に意味付けされてしまったのかも知れない。