○本項ははじめ「ヴェーダとの関わり」という標題でした。
日本語のタミル語起源説に基づき、『ホツマツタヱ』の内容をインドの聖典ヴェーダと比較することを主な目的としていたのですが、書き進めるうちに話題が多岐に及んでしまったため、標題を改めて掲載することにしました。「ことばのやわらぎ」の主旨を理解するための一助として下さい。
『ホツマツタヱ』の宗教観には一部仏教の影響があるのではないかとの疑いが持たれていた。
だがその疑念は日本語の起源を南インドに見るとき、もはや短絡と言わざるをえない。
『ドラヴィダの世界』(辛島昇編著 東京大学出版会)にはこうある。
P17 ヴェーダ朝の宗教
『リグ・ヴェーダ』(紀元前十二世紀−前九世紀ころに成立)をはじめとするインド最古層の文献には、現在インドでわれわれが目にするような寺院の存在を示唆する記述は見当たらない。当事の宗教は、祭官たちが適当な場所に小屋を建て祭火を設置し、マントラを唱えながら神々に供物をつげる儀式を中心とするもので、その小屋も儀式が終わると火を放って燃やしてしまう。また、神々に献供するといっても、敬虔な信仰心を捧げているわけではなく、長寿や繁栄を得るために疲弊した自然界の諸力を煩雑な儀式とマントラの力によって活性化し、本来の力に満ちた状態にもどす作業を行なっているのである。その意味で、ヴェーダの宗教は極めて自立的性格の強いものであったといえる。
紀元前一千年紀も半ばになると、ヴェーダ祭式が目的とするこの世での繁栄や長寿が人間に一時的な満足しか与えないことに人々は気づき、輪廻からの脱却によって究極の目的と幸せを目指す新しい宗教運動が、ウパニシャッドの思想家、仏陀、ジナらによって開始される。
この中で「小屋を焼く」祭事は日本と南インドで共通する(詳しくは『日本語以前』P14を参照のこと)。
記紀また『ホツマツタヱ』には、これに対応してコノハナサクヤ姫の説話がある。
後者における説話のあらましについてはこちらを参照されたい。
また『ホツマツタヱ』には「ユキゝのミチ(往来の道)」と呼ばれる転生観があるが、上記における輪廻からの脱却、すなわち仏教で言うところの「解脱」に相当する思想は見られない。
仏教が「解脱」を目的とするのに対し、『ホツマツタヱ』は転生を完全に肯定している。例えば原文十三紋には「人心(ひとごころ) 世に帰る時 直(すぐ)なれば また良く生まれ 邪欲(よこほし)は あゑ帰らぬぞ」とあり、むしろ転生の失敗を戒めている(詳しくは『言霊ホツマ』P263を参照のこと)。
こうした転生観の結実が『ホツマツタヱ』におけるハナキネ(ソサノヲ)とハナヒコ(ヤマトタケ)の物語である。国王夫妻の「不良息子」として生まれたハナキネは、天朝に反乱を導いたのち、悔い改めて解脱するのではない。後世ハナヒコという「孝行息子」に転生し、当代の反乱を鎮めることで、前世の罪を自ら贖うのである。そして贖罪を果たしたハナヒコは、ハナキネの恩人であるモチタカ(イブキドヌシ)の霊を冒涜したため祟られて死ぬが、これもまた前世の因果に基いている。
記紀はこの両者を叢雲の剣(草薙の剣)で結び、ソサノヲを氷川神とする一方、ヤマトタケを熱田神と対称しているが、何故こうした対称が見出されるのか、その理由はまるで分からない。だが『ホツマツタヱ』によれば、ハナヒコが叢雲の剣を用いるのは、ハナキネが叛徒を鎮圧したさい獲得した武器だからである。だからこそ後世の彼が、同じ目的を果すためにこれを帯剣する意味がある。また氷川と熱田の対称については、ハナキネの転生であると意識したハナヒコ自身の、「我が光る 原見つ錦 熱田神 元つ縞衣に 織れるか氷川」といった謎歌(折り返し歌)によって明らかになる。記紀にこうした「意識」は見られず、従って転生観も全く感じられない。
仏教的な見地からすれば、この両者は業に囚われ愚かな転生を繰り返しているに過ぎない。
然し『ホツマツタヱ』は、ハナキネの大逆という事件を前半に、その転生であるハナヒコの贖罪を後半に置き、その死を以って全編を完結することで、肯定的な転生観を貫いている。前出の戒めに基づけば、ハナキネは生前に自らの罪を悔い改めたからこそ、ハナヒコという孝行息子に転生し、自家に対する負債を返済することが出来たのである。
『ホツマツタヱ』のこうした物語によって、ハナヒコ東征の主な舞台となった武蔵国に、ハナキネを祭神とする氷川神社が数多く勧請された理由も明確になる。一般的には第五代考昭天皇の御代に、出雲国氷ノ川上から杵築大社(出雲大社)を勧請したためその名がついたとされる氷川神社だが、こうした縁起の根拠と勧請の理由は明確でない。考昭天皇による勧請を正しいとしても、出雲から氷川神社を勧請する背景として、はやくからこの地に氷川神を尊崇する風の根づいている必然があるが、この必然に対する答えを『ホツマツタヱ』の逸話が示している。氷川神の転生である熱田神が武蔵国を征した――だからこそ武蔵国に、熱田神の敬愛した氷川神が勧請されるのである。また『ホツマツタヱ』には「ムサシ」の地名起源説話も収録されており、これもハナヒコとその部下にまつわるものである。
『ホツマツタヱ』の語る転生観には、この他原文十三紋においてトヨケ神(豊受大神)が語っているもの(詳しくは『言霊ホツマ』P263を参照のこと)や、ハナキネの大逆をそそのかしたモチコに関するものが挙げられる。これらは良き転生の例だが、悪しき転生の例としてモチコの妹ハヤコに関するものもある(いずれも詳しくはこちらを参照のこと)。これらは善悪に関わらず転生の行なわれることを意味しており、仏教の核心である転生そのものに対する批判は微塵も感じられない。『ホツマツタヱ』の転生観は、転生を是非のない事実として認識しているのであり、そこから脱け出すという発想そのものが欠如している。彼らの興味は「如何に正しく転生するか」というその一点にあり、この方法を教えるのが「ユキゝのミチ」なのである。
次に「自然界の諸力を煩雑な儀式とマントラの力によって活性化」するというヴェーダ祭式の性格だが、これは日本における言霊思想と著しく共通する。「マントラ」とはサンスクリットの動詞マン man (思考する)に後接詞トラ tra を付して成る名詞で、もと思考を表す用具、すなわち文字や言語を意味する(参考『世界大百科辞典』平凡社刊)。言葉に霊力を見るこうした思想は「始めに言葉がおり、言葉は神とともにおり、言葉は神であった」という有名な聖書の記述をはじめ、バラモン教や密教に濃厚な思想であるが、こうした思想が密教渡来以前の古代日本において、既に見られることは注意すべきである。そして『ホツマツタヱ』には、記紀万葉に断片的な言霊思想が具体的な体系に基づいて表われている。例えば「天の御柱巡り」に関する『ホツマツタヱ』の記述は、儀式としての整合性を記紀以上に示しており、このなかで「言挙げの音数の変化」についての記述があるのは『ホツマツタヱ』のみである(詳しくはこちらを参照のこと)。言葉に関するこうした厳密な規定は、ヴェーダ祭式におけるマントラの役割を鑑みれば、決して軽視出来るものではない。
上に挙げたいくつかの事実は、「解脱」に象徴される宗教運動がインドで始まる以前の古式のヴェーダ祭式と、日本の習俗及び『ホツマツタヱ』の宗教観が一致することを意味する。『ホツマツタヱ』の宗教観は仏教とは明確に異なるが、その素地は共にヴェーダ祭式にあると見られる。ここからインド南端より日本に訪れたタミル人の渡来時期を推察することが出来る。上記によればそれは紀元前一千年紀半ば以前であり、この年代は『日本語の起源 新版』における大野氏の推定(前500〜前300年・同書P114)と一致する。
ここで再び『ドラヴィダの世界』より引用してみよう。
P29 南インドの思想の動き
インド思想史の幕は、紀元前一五○〇年ころ、広大なインド亜大陸の北西部、現在のパキスタンを貫流するインダス河中流域に位置するパンジャーブ地方に進入し、定住したインド・アーリヤ人たちによって開かれた。彼らはそこで紀元前一二○○年を中心に、インド最古の文献であるバラモン教の聖典『リグ・ヴェーダ』を編纂した。彼らは次第に東進し、ガンガー河とヤムナー河に挟まれたドアープ地方を中心に、バラモン文化の華を咲かせた。仏教の開祖ゴータマ・ブッダが活躍する紀元前六―五世紀ころまでには、その後のインド思想・宗教の発展の基盤となった膨大な数と量のヴェーダ聖典の大部分が成立した。
南インドがインド・アーリヤ文化の影響を受けるのは六―七世紀といわれているが、バラモン教が、どのようにして南インドのドラヴィダ民族に受容されていったのか、――これは将来解明されるべき問題である。しかし正統バラモン教の思想伝統を受け継ぐ少なくとも二つの哲学体系であるミーマーンサーとヴェーダーンタの学問の中心地は、七―八世紀には、南インドに移っていたように思われる。
仏教の影響はそれよりも早く、アーンドラ地方のナーガールジュナコングにその名を残す、大乗仏教最大の思想家の一人、中観派の開祖ナーガールジュナ(龍樹、一五○―二五○)を逸することはできない。
ミーマーンサーは、ヴェーダ聖典のなかの祭式を扱う部分(祭事部)を研究対象とする祭事哲学である。この学派の成立・発展の歴史の詳細は不明であるが、伝承ではジャイミニ(紀元前二○○―前一○○ころ)を開祖とし、七―八世紀のころ、アーンドラ出身と伝えられるクマーリラ(六五○―七○○)と、その弟子で、トラヴァンコール北部の出身と伝えられるプラバーカラ(七○○ころ)の二人の碩学によって盛んとなり、両人はそれぞれクマーリラ派とプラバーカラ派の開祖となり、クマーリラは、仏教を激しく攻撃した。
他方、ヴェーダーンタは、主としてヴェーダ聖典中のウパニシャッド(知識部)を研究対象とする一元論的哲学である。この学派の源流は、おそらく少なくとも紀元前三世紀ころまでさかのぽると推定され、伝承ではバーグラーヤナ(前一○○○ころ)を開祖とするが、その発展史は不明のところが多い。
上記より年代を抜き出すと次の様になる。
- 前一五〇〇年:アーリヤ人のインド北西部進入
- 前一二〇〇年:アーリヤ人による『リグ・ヴェーダ』の成立
- 前一○○○年:ヴェーダーンタの開祖バーグラーヤナの伝承
- 前六―五世紀:仏教の開祖ゴータマの活躍
- 前二○○―前一○○年:ミーマーンサーの開祖ジャイミニの伝承
- 後一五○―二五○年:大乗仏教中観派の開祖ナーガールジュナの南インドでの活躍
本文中で南インド、すなわちドラヴィダ民族との明確な関わりを示すのは、後一五○―二五○年の仏教徒ナーガールジュナだが、他方伝承では前一○○○年のバーグラーヤナがいる。仏教徒の進入以前に南インドに普遍していた宗教観は、始めに挙げた「小屋焼き」の祭事に象徴される様なヴェーダ朝の宗教であったと考えられる。そこで祭られる南インドの神は土着性の強い自然神である。これは「小屋焼き」の祭事とともに、日本の土地神の性格と共通する。
語族上の分類は北インドが主として印欧語族に属し、南インドがドラヴィダ語族に属するが、これは必ずしも文化上の分類を意味しない(詳しくは『ドラヴィダの世界』P238を参照のこと)。端的には、近代に成立した純粋な言語学的な概念の違いを、文化の違いとして平行的に解釈することは短絡である(例えばキリスト教徒は現在あらゆる語族に普遍している)。前一二〇〇年成立の『リグ・ヴェーダ』には、アーリヤ対非アーリヤのテーマが既に表われており、形而下に隣り合う両者の関係は、古代より密接であったと言える(詳しくは『ドラヴィダの世界』P240を参照のこと)。
※補足資料 ― 『インド』 鳥山孟郎著 岩崎書店刊P13〜14より ―
インド文明の源流
かつては、アーリア人の文明がその後のインドの文明のもととなり、インダス文明は力を失って滅び去ったものと考えられていた。ところが最近では、どうもそうではないらしいということがわかってきた。
モへンジョ・ダロで出土した印章の中には、牡牛の像を刻んだものがおおく、たくさんの動物にかこまれて中央に両腿を開いてあぐらを組んでいる人物(神か?)の像も登場する。これはいまでもおおくのインド人の信仰を集めているシヴァ神を想いおこさせる。シヴァ神はこのような姿勢で精神統一をはかる苦行者の姿をとることもおおく、牡牛はシヴァ神の乗物として重んじられている。
そのうえ、生殖や宇宙の再生をつかさどるというシヴァ神の象徴としてのリンガ(男性器)崇拝の証拠も遺跡の中から発見されている。
また、モへンジョ・ダロの城塞の中央には、長さ一二メートル、幅七メートル、深さ二・七メートルの巨大な浴槽があり、すべてレンガ造りで防水処理もほどこされている。この浴槽は単なる水浴のためのものではなく、宗教的な行事としての浄めの水浴(沐浴)のためのものだろうとみられる。今日でも、インド各地の池や川、海岸では、朝早く沐浴する人びとの姿を見ることができる。それが朝のだいじな宗教的なつとめとされている。
今日のインド人の信仰を特色づける、このようなシヴァ神の性格や沐浴の習慣は、いずれもアーリア人の古い信仰のなかには見られなかったものである。
このように、都市文明こそ失なわれたとはいえ、インダス文明のいぶきはその後も脈みゃくとして、無視しえない影響力をおよぽしてきた。それは、アーリア人がかってインダス文明をきずいた人びとを軍事的には征服したけれども、その文化を滅ぽすことはついにできなかったことをはっきりと示している。
※インダス文明はドラヴィダ民族系の文明だと言われています。文中のリンガ崇拝は、大湯環状列石(秋田県。前一八〇〇年)の中心に立つ柱との類似を感じさせます。
南北インドの文化的交流を示す実例としては、シャンカラという人物を挙げられる(詳しくは『ドラヴィダの世界』P29以下を参照のこと)。シャンカラは仏教化したヴェーダーンタの伝統を、本来あるべき姿に戻そうとした宗教改革者である。彼には八―九世紀の人物とする定説がある一方、前五〇〇年とする異説がある。シャンカラは全インドを遊行し、当時有力であったミーマンサー学派の学者などと議論を戦わせたという。また5世紀後半の歴史書『マハーヴァンサ』には、前3世紀のアショカ王が仏教布教のために伝道師を南方に派遣したことを伝えている(詳しくは『ドラヴィダの世界』P144を参照のこと)。『リグ・ヴェーダ』の成立に前後して、こうした遊行僧が多く活躍していたとすれば、北インドで成文化したヴェーダの教えが南インドに伝播していたことも充分に考えられる。
ところでシャンカラが改革を目指した様に、仏教の影響は既にヴェーダ聖典にもある(詳しくは『ドラヴィダの世界』P34を参照のこと)。これは『ホツマツタヱ』に仏教的な転生観や肉食禁忌の教えがあったとしても、それが後代大陸経由で渡来・発展した「仏教」の影響下にあるとは断定出来ないことを意味する。先述した通り、『ホツマツタヱ』に仏教の目的とする「解脱」の思想はなく、仏教本来の教義にはない祖先崇拝の思想が色濃く表われている。日本仏教はこうした土着信仰を教義に取り入れ、独自の発展を遂げたとの指摘がある(詳しくは『言霊ホツマ』P214を参照のこと)。洞察すべきは仏教に先立つこの土着信仰が、どこから派生したかということである。祖先崇拝は北インドにほとんど見られない反面、南インドや東南アジアに根強い(詳しくは『ドラィダの世界』P164を参照のこと)。南インドから日本へ至る航路に、東南アジア一帯が含まれることを鑑みれば、日本におけるその根拠はほぼ明らかである。
また一概に肉食禁忌と言っても、『ホツマツタヱ』のそれは後述する五元観に基づく具体的な体系がある(詳しくは『言霊ホツマ』P452を参照のこと)。そして重要なのは肉食を忌む理由だが、端的に言ってよき転生を妨げるからである。従ってこの肉食禁忌は「解脱」を目的とする仏教本来の教義とそぐわない。なお注目されるのは、『ホツマツタヱ』がゾロすなわち田畑の苗に、日月のウル・ナミ(精霊。陽陰的な対概念をなす)が含まれ、これを基礎とする人のナカゴ・ココロバ(心臓、腎臓。この他君主、商人といったカーストも表す)に、前者を供給することで死後速やかな転生を導くとする一方、鳥獣の肉には日月のウル・ナミが含まれないため、これを妨げるとしていることである。ここには農耕民の性格が強く表われていると言えよう。
さて、南インドのタミル人が日本に訪れた時期だが、先の推定によれば紀元前千年紀の半ばであり、これはインドにおける仏教の興隆期と一致する。タミル人が日本に渡来したとするなら、その渡来する理由を示さねばならないが、大野氏はこれを北インドを根拠とするアーリヤ人との力関係に見出している。この推測に宗教的な見地からの理由を加えると、南インドに進出し、ここを根拠とし始めた仏教徒との相克を挙げられる。原始仏教はヴェーダ祭式における呪法を禁じたため、先述の言霊思想と対立を生ずる。また『ホツマツタヱ』には施しを受けて回ること、すなわち仏教における托鉢を批難する記述があり、この見解を支持している(詳しくは『言霊ホツマ』P265を参照のこと)。
なおこうした道徳観を「スズカのミチ(鈴明の道)」という。スズを暦や道徳の根本に据える『ホツマツタヱ』の宗教観は、古墳時代の到来とともに滅んだ銅鐸、すなわち青銅製の鈴を表徴とする文化圏との間連からも真に興味深く、この点重要である(詳しくはこちらを参照のこと)。
2000/12/18初出