元大蔵事務次官の斎藤次郎氏(73)が日本郵政の新社長になる一方で、もう1人の元エリート大蔵官僚も最近、出世を果たした。中島義雄元大蔵省主計局次長(67)で、17日付でセーラー万年筆の代表権のある副社長に就任した。同社で唯一代表権を持つ碓井初秋社長(73)が体調を崩し、治療に専念するためだ。今年3月、碓井氏に見込まれて常務として入社し、いまや実質トップである。
学生運動の活動家、大蔵省(現財務省)のエリート官僚、そして失脚、京セラ、船井電機、セーラー万年筆と渡り歩いてきた中島氏の足跡はまさに「人生いろいろ」だ。
東大法学部を1966年に卒業後、大蔵省に入省した。学生時代は社学同(社会主義学生同盟)に属する活動家でもあったが、当時、同省秘書課長として上級職の採用を担当していた故・高木文雄元大蔵事務次官が「単なる優等生ではダメ」と力量のある人材を求め、晴れて入省となった。
高木氏が66年(昭和41年)に採用した大蔵官僚は「花の41年組」と称され、有能な人材を輩出。紅一点が、北朝鮮の拉致問題で活躍した中山恭子氏(69)だった。
卓抜した優秀さから41年組の「三羽がらす」と称されたのが、中島氏と武藤敏郎氏(66)、長野厖士(あつし)氏(65)の3人。
武藤氏は財務事務次官となって日銀副総裁に転じ、日銀総裁の有力候補になったものの、民主党の反対でなれなかった。秀才で知られた長野氏は金融機関から過剰接待を受けたとして、98年に証券局長を最後に退官し、弁護士になった。
中島氏は大蔵省のエリートコースである主計局を歩き、85年には主計局主計官として国家予算を動かした。事務次官候補といわれたが、過剰接待で足下をすくわれる。
「かつて、大蔵官僚は日本の国家、経済の運営において政治家以上の権力をもっていた。その権力は、戦前の陸軍幕僚を凌駕するといっていい。そんな大蔵神話を崩壊させたのが、イ・アイ・イーグループの故・高橋治則氏で、血祭りに上げられたのが中島氏だった」(関係者)
「高橋氏は、自ら経営していた東京協和、安全の2信組を大蔵省がつぶしたことに激怒し、復讐を行った。大蔵官僚を接待付けにした資料を次々とマスコミに流し、大蔵省に深手を負わせた。これが2年後の97年に発覚したノーパンしゃぶしゃぶスキャンダルにつながり、大蔵省は解体へと向かっていく」(同)
中島氏は、2信組事件の当事者である高橋氏から過剰な接待を受けていたことなどが次々と発覚し、退官。救いの手を差しのべたのが、京セラの稲盛和夫名誉会長(77)だった。97年に京セラに入社した中島は、傘下の京セラミタの経営再建を手伝い、その後、京セラの北京事務所首席代表などを務めた。
2005年、中堅映像機器メーカー、船井電機の創業者、船井哲良社長(当時)に招かれ、「次期社長含み」で執行役副社長についた。同社は08年3月期決算で上場以来初の営業赤字に転落。その責任を取って、船井氏が同年6月に代表権のない執行役会長に退いたため、中島氏も非常勤の顧問に追いやられた。
「捨てる神あれば、拾う神あり」で、今度はセーラー万年筆に招かれ、実質トップとして、経営再建に取り組むことになった。
日本郵政の新社長になる斎藤氏は、民主党の小沢一郎幹事長(67)と親密。そして、中島氏は小沢幹事長の盟友、京セラの稲盛名誉会長に救いの手を差しのべられ、現在がある。なんとも不思議な縁である。