「戦場において敵兵を捉えて食すか、敵兵の屍肉を割いて食すことは、二種類の積極的意義がある」と、黄先生は続けます。
一つには軍糧を節約し、欠糧の危機を解決できること、もう一つには「肉を食してその皮に寝る」という敵愾心をあおることができる、という事らしいです。敵愾心をあおるための食人とは文明人らしからぬ仕業ですが、それもシナの特性をそなえた文明の形でしょうか。
『晋書』李矩伝に、都の洛陽が侯郁に攻め落とされ、政府軍の藩と薈という将が壊走した際、「大飢餓、賊・侯郁らは人を略奪する毎に之を食した。藩と薈の部隊は多くがその喰らわれるところとなった」と。
『唐書』令狐楚伝に、咸通九年(868年)、辺境守備隊の龐勛が叛乱したさい、令狐楚は李湘に命じて討伐させます。反乱軍は投降すると見せかけ、李軍の警戒を解かせます。「湘軍は甲を解き警徹を去り安眠した。昼は賊軍と歓笑し言葉を交わす。ある日、賊軍は時を選んで歩兵騎兵ともに湘軍陣営に入り、準卒五千人をすべて生け捕りにし、徐州に送り、賊のため蒸されて喰われた」と。
民衆を糧食とするにもどって。
また食人しながら転戦した例としてとくに有名なのが「黄巣の乱」(875年~884年)の黄巣軍です。「黄巣の乱」は唐を滅亡に到らせた大きな叛乱でした。それは流民や飢民を吸収し五十万の規模に膨れ上がり、各地を転戦しながら、880年ついには都・長安を占領します。以下は『呪われた中国人』(カッパ.ブックス)からの引用です。
「この黄巣軍は、その大軍に食糧を供給するために、大規模な「人肉生産工場」を設置した。」
「中和三年(883年)五月、黄巣は兵をひきいて陳州を攻めて百日が経った。(中略)賊(黄巣軍)は人々を捕らえて食用に供した。一日ごとに数千人をも食べてしまった。賊は『舂磨砦』という巨大な臼数百基を備えている。人々を臼に入れて、骨も一緒に細かく砕いて食用に供した。」(『唐書』黄巣伝)
「黄巣らの反乱軍は、西は関門、東は青州、斉州、南は江、淮、北は衛州、滑州にいたるまで荒らしまわった。」
中原一帯全部ということでしょう。
「人影は絶え、イバラが野をおおいつくした。反乱軍は食糧が欠乏していたので、食用人間を貯蔵していた。兵士が四方に出て人々を捕獲し、『塩屍』をつくり、関東の郡県はことごとく攻略された。」(『唐書』秦宗権伝)
『塩屍』とは人間の塩漬のことだそうです。
前回の明末の張献忠の仕業に勝る、シナ史上最大の食人匪賊集団であった黄巣軍は、まるで蝗の大軍のようにその至る所、殺し喰いまくったもののようです。
ここからは余談です。(ちょっと余談に逃避させてください)
南宋の有名な「愛国」将軍・岳飛(1103年~1142年)の人口に膾炙した詞に『満江紅・写懐』があります。
その一節に、「壮志飢餐胡虜肉、笑談渇飲匈奴血」とあります。
若くてシナの真面目を知らない頃、それは文学的修辞の一種とばかり考えていましたが、後にシナの食人文化を知ってからは、それは文学的誇張ではなく、実際の戦闘行為中に発生した事をそのまま描写したものであろうと考えを改めるようになりました。(実は『狂人日記』についても同様な見方の変化があったのですが。)
ちなみにこの岳飛は、シナ人に最も「愛されている愛国者」の一人で、現中共王朝でも賞揚されています。
当時、満洲族の金は北宋を滅ぼし南宋を圧迫し続けます。岳飛は実は後先も大局も見られぬただの戦争屋だったらしく、ひたすら徹底抗戦を主張し、時の宰相・秦檜を悩ませました。秦檜は、南宋は金の武力に敵せずと見て平和共存を謀り、策を弄して岳飛を死に至らしめます。
このことから秦檜は売国者、投降派の汚名を着せられ、死して尚、その妻と共に杭州にある岳飛の墓『岳飛廟』の墓前に、縛られ跪く鉄の像となり檻にいれら、参拝の人々からツバや痰を吐きかけられ続けています。
いかにもシナらしい有様ですので、杭州に旅行なされる方は、西湖畔にある『岳飛廟』を参観されることをお勧めします。しかしそこに集う「愛国者」たちから敵国人として危害を加えられる恐れもあるかもしれませんから、心の準備のほどを、うふふ。
by 丸山光三
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