2010-10-22 13:31:28

ああ

テーマ:駄ブログ

右の ZYUブログにて 今 クリシュナ店長 ネパールから更新が読めるのだけど。


鶏の声 お祈りの声 牛乳を運ぶ音 などの 文で




ああ、 そこにいるんだなあ と ふつふつと そこに行きたい欲がわいてきます。




なんだかねえ ほんと 行ってみないとわからない国すぎるので

いくら 良いよ~ といっても 天野(死神博士)さんの

”スペインはいいよ~” ってのと かわらない 響きを 自分でも感じるので


すごく 説明ばかりが 横滑りしそうなんだけど




”どこかで 神様の歌が聞こえてきます。”




神も仏もいるもんかあ!!って私ですが そんな 私が


神かあ いたらおもしろいね^^ もしかしたら いるかもね こうやって 自分が

この風景の中で チャイをすすってるのも 奇跡的だからねえ


と毎度 思うのであった。



神の存在を感じる 一種のトランス状態にあるとき

そんな状態のときは なにげない 言葉

たとえば


「おはよう」 と だれかに 一声かけるだけで



わぁ なんて幸せ 今日も元気に目覚めて すばらしい1日が私に与えられる!! ってかんじ


幸せも 妄想で生み出せるひとつの例だ

でも 人生の中で 感じれる幸せの多くは こんな なんてことない時に 突如 にじみ出る

脳内物質に身を任せることで 得られる感じがするのだ


なんでもいいんだよ ブッダでもマリア様でもウルトラマンでも 救いを求めれる対象は



なにかを 信じる という事は  人任せにする事でもある。


幼児のころ おかあさんに見ててもらうだけで 転んでも安心♪ みたいなもので

自分のささいなミスなら そのまえに 教えてもらえる という 精神の手抜き感甘え

それが 信仰においての 一番の魅力 「心が楽になった」と 通じると感じる


『神は あなたを見ておられます」 という言葉で 

げげっ!! と おもうか わあああありがとうございます!!と 思うかは

人それぞれだが、 人間は集団性の生き物なので、いつどこでも なにかとつながってる!と

思うことこそが 種の存続のなかでの 一番の欲求なのだろう。 だから 宗教は生まれ

同じ宗派という コミュニティに属する快楽を感じるのだろう



でも 冷静に物事を捉えるひとは  人は死ぬときは一人 という所から

自然全般の理と照らし合わせ、生物としての人間を悟ると 無神論者になっていく

みてもらえるから 安心 とか だれかがフォローしてくれる とか そういう期待をもつ心に

心から安心を得られない 脳内にドーパミンがにじみでない そんな快楽へ鈍感であるとも

考えられる。 それより 酒だ!! うちこめる趣味だ! 仕事だ!! そんなところに意識が

向いてる。  


おかあさん(神)のいるひとから みれば 「なんか かわいそう・・」 と 思うのだろう。

でも それも 大きなお世話で、 最初からいないものを かわいそうがるのは もてる者の

ひねまがった自慢であり 偽善への半歩すすんだところ ってものである



だれかを かわいそうがる。 これは 多くの場合 そう思うことによって

自分はまだまし♪という 安心にもつながり ほとんどが 相手のことを想うことよりも

そんな他人をきにしてる自分の余裕に酔う所である。 


「だって ほっとけないんだもん」=「おもしろそう!行ってみよう!」

と とれるのだ。 

世の中の ヒットする映画第1位は 泣ける映画  という点でも 世間の人間の心根に

どすぐろさは 理解できるだろう。



本当に笑いたいなら     悲しむ人から 離れろよ

それは 見殺しでもなんでもない 人前で悲しむ人は まだ人とつながって甘えてる。

本気で心配するなら 連絡してこないやつを 心配したほうがいい


病んでるやつほど 病んでるやつが きになったりするものだ



そんなことを いつも言ってる私でも


ネパールの朝の コケコッコーー に 神の羽ばたきを感じたりして

うっとりできて チャイに 幸せな人生の甘みを感じたりする


無敵感 自分絶対感だけじゃない 大きな宇宙の一部の取るに足らない芥子粒みたいなもの

っていう ちっちゃーーい自分に 砂粒程度の喜びに にまにま笑っちゃうのさね


便利ね ドーパミン物質