一生どうでしょうします

2010.10.21(木)

本日の日記

本日の写真
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(2010/9/22)
2010年10月21日(木)

嬉野ですよ奥さん。
また私ですよ。

仕方ないじゃないですか、
藤村さん、ここんとこ留守なんだから。
ねぇ。
だから当然ながら今日も明日も私なんですよ。
もうねぇ言っときますよ今から。

だから今日もうざいくらいねぇ、
長い日記を書いてやろうと思いますからねぇ、
冗談じゃないわよって方はねぇ、
ここらでお戻りになったほうがよござんすよ。

さて、今日は秋晴れの札幌であります奥さん。

去年作りました「ミエルヒ」というドラマが、
ABU賞というアジアの国際賞をいただきまして、
藤村さんと福屋さんと私との三人で授賞式に出てまいりました。

脚本を書いてくれた青木豪さんは、
同じABUのラジオドラマ部門で本賞を取った作品の脚本も
書いておられましてね、
奇しくも青木さんは、アジアのラジオドラマもテレビドラマも征したようなことで、大変と景気の好い繁盛振りでございます。
実にめでたいことでありますよ。
そういう方にHTBは脚本を書いていただけたのだと、
実に晴れがましい思いです。

「ミエルヒ」はねぇ、あと二個くらい賞をもらってますから、
あと二回くらい授賞式に出ますよ。

でねぇ、そのたんびに三人でゾロゾロ出張してやるんですよ。
してねぇ式典のあとの立食会場で寿司食ってワイン飲んで赤ら顔で帰って来るんですよ。

でも、嬉しいですね。
苦労して作った作品がいろんなところで評価されて。

「それでも」と、
ぼくは思うのです。

「一番嬉しかったのは、ロケに入る直前だったかな」と。

おかしなこと言うようですがね。

ドラマを作ると、
ロケに入る直前にね、
オールスタッフ打ち合わせという会合がありましてね、

そこは助監督のチーフの仕切りなんですが、
台本の最初のシーンから最後のシーンまで、
撮影の準備に漏れが無いか、
新たに持ち上がった問題が無いか、
クリアされないままになっている問題はないか、
逐次確認していく場なのですが、

監督を筆頭に、
撮影部、照明部、美術部、録音部、助監督チーム、
制作部チーム、メイク部、衣装部と、
明日からのロケに関わる全スタッフが初めて一同に会する場なのです。

それは、ドラマをやれば、
普通に行われる撮影に入る直前の、
打ち合わせの場に過ぎないのですが、
私は、あの日が一番嬉しかった。

私も福屋さんもあの日が一番嬉しかったのです。

つまり、
あの日からドラマの撮影が始まったということです。

そしてそれは、
プロデューサーだったぼくと福屋さんの
仕事が終わった日だったのです。

あの日の季節は秋、
ちょうど1年前の今頃のことでした。

でも、ぼくが石狩川の畔でドラマのネタと遭遇したのは、
前年の12月でした。

あの頃まだ制作部長だった福屋キャップに、

「うれしー、ドラマの原案どうなってます?」

と、険しい目でぼくは確認されのを覚えています。

前月の11月に、四宮さんとぼくの二人で、定山渓の温泉宿に缶詰になってドラマの原案作りをやりました。

でも、どれだけお互いに登場人物や物語の展開を含めて具体的に考えを出し合っても、どうにも面白いと思えるものにはならず、

自分が面白いと思えるものが出ない以上、
物語はいっそのこと脚本家に任せてしまい、
「父親と一人息子の物語」という骨格だけを残し、
この親子の家庭がどのようなものだかは分からないけれど、
ただ、息子は父を嫌って家を出て、
長い長い時間の果てに、
また父親のもとに帰ってこざるを得ない人生をおくってしまう。

その設定だけを残し、
息子が家を出た理由、そして、また戻って来ざるを得なかった人生を脚本家に考えてもらおうと決めたわけです。

そう決めた時、

「いったい脚本家は、どんな物語を作ってくるだろう」と、
面白がっている自分がいたのです。

他人任せにして気が楽になった分、
無責任に面白がれた、
それだけのことかもしません。

それでも、
面白がる自分はいたのです。

信じられるのはその自分だけだと思いました。

四宮さんは、その日を最後に体調を崩してしまい、
以来10ヶ月復帰できませんでした。

ですから12月の制作部長福屋キャップの焦りは、
そのあたりにあったのです。

現場からネタが上がらないという理由で、
ドラマの制作を頓挫させたくは無かったのだと思います。

だからその時、

「ドラマを作ろう」

そう思って切羽詰っていたのは、
福屋キャップとぼくの二人だけだったのです。

「脚本家は青木豪さんに」と、
これは、既に四宮さんが内諾を取ってくれていました、

むろん、「今回は骨格だけを脚本家に投げよう」と考えてはいましたが、それにしても、そこにはあるのは骨だけで、
それはあまりにも骨過ぎて、そして脚本家を口説きに行くだけの想いが自分の中に無い事にも気づき、ぼくは、物語の舞台を決めなければと思い至ったのです。

そう。
プロデューサーであるはずのぼくも、
そして福屋キャップも、
それほどまでに素人だったということです。

でも、仕事はおそらく、
他人とのぶつかりですから。

人がぶつかれば、斬り合いになるかもしれない、

その時の戦いようは、武器や技ではない。

それは想いです。

これをもとに、どうか物語を作って欲しいという熱です。

そしてその熱の元は、
自分の中に、本当に作りたいのだという、
切実な想いがあるのか無いのかでしかない。

ぼくはそう思ったのです。

だから「舞台は自分が決めなければ」と、思い至ったわけです。

まだ自分の中に熱が無い。
これで是非脚本を書いて欲しいと迫る熱が無い。
依頼主である自分に熱がなければ、自分は脚本家をくどけない。
脚本家が、引き受けてくれなければドラマは頓挫してしまう。

そこから自分だけとの対話が始まったと思います。

そして幸運にも石狩川で漁師の船を見て、
冬枯れた葦の茂る河川敷に迷い込み、
製紙工場の長い煙突から昇る白い蒸気を見て、

「ここはドラマの舞台になる」
そう思った自分を信じるしかなかったのです。

「そうだ、親父は時代に忘れられたような石狩川でやつめうなぎを捕る川漁師なんだ。一人息子は、そんな親父が嫌で家を出た。それでも上手くはいかず、それどころか、彼の人生には、一番帰りたくない場所に帰るしかない人生が待ち受けていただけだったんだ。けれど、帰った故郷で、親父の仕事は以前より困窮していた。この父親と息子が、その先の自分らの人生にどう折り合いをつけながら生きて行こうとするのか、そこを書いてもらおう」

ぼくは、現場の写真を撮り、
会社に戻り、キャップに話し、同意を得、
このネタで進めることに決めたのです。

こうしてキャップと二人で東京へ出張し、
青木豪さんと暮も押し迫った新宿で会って、
正式に依頼をし、快諾してもらったのです。

その後、漁協に協力を仰ぎに出向き、
市役所に出向き、
キャップは、役者の事務所に電話を入れはじめるのです。

そこからのキャスティングは、
怖いもの知らずの素人の熱情だけでした。
人間力だけで、
名優たちを口説き落としていったのです。

私は名優たちへの長い長い口説きの手紙を書き、また書き、
それをメールで送り、
キャップは、ガチンコでタレント事務所に電話を掛けました。

その電話での会話で、先方には一発で、こいつはドラマは素人だなと分かる無茶な口説きようで、でも、そこで、キャップは排除されるどころか、かえって信頼されるのです、

「分かりました、私、福屋さんを信じます」

タレント事務所の担当者にそう言われ、
先方は出演に前向きになってくれる。

それでもまだ確約は出ない。

しばらくしてビビリながら電話を入れる。
電話するタイミングも分からないながら、
でもただ自分の感に頼って、
そして電話を入れる。

キャップと、何度も東京に出張に行きました。
昼間はタレント事務所に顔を出し、
夜は宿の近くで酒を呑み話し込み。

どこまでも二人だけだったのです。

それでも、どれだけ心細くなっても、
性格の違うのが二人いるのは気楽でした、
どちらかが不安でも、どちらかは平気なのですから。

そんな日々が10ヶ月続いたのです。

キャストも全員確定し、
ロケの日程も出て、
スタッフも決まり、
全ての全てが決まって、
ぼくとキャップはあの日を迎えたわけです。

広い会議室にぞくぞくとスタッフが入ってくる。
そいつらが全員席に着く。

あぁ、こんなにいたんだ。
ぼくはそう思いました。
あぁ、あとはこいつらがやってくれるんだ。
もう任せて好いんだ。
ここからは彼らの出番なんだ。
オレとキャップの仕事は終わったんだ。

そう思うと、不意に気持ちが浮き立ったのでしょうか、
ぼくは、感激して泣きそうな気分でした。

その時、となりに座っていたキャップが言ったのです、
「いやぁ、なんだか感動的だなぁ」

それがその時のぼくとキャップの、
掛け値なしの本音だったと思います。

つまり、ぼくら二人は、
あの日を迎えるまで、
全力を出し切っていたということなのだと思います。

それは特別なテクニックでも特殊な経験でもなんでもなく、
それまで生きてきた自分の経験と自力で乗り切った真剣な気持ちの先にある満足感だったのだと思います。

「やれることは、もうやりきったんだ」という。

もちろん、
撮影が始まってからの仕事もたくさんありましたが、
それは全て外堀の仕事で、
撮影スタッフを支える仕事で。

だからそれは意味が違うのです。

ドラマのプロデューサーの仕事は、
だから、あの日で終わる。

そのことをガチンコで、ぼくら二人は実感したのだと思います。

そのことを、
ぼくは実は忘れていて、
おとつい、東京で藤村くんに、

「あんたたち、そう言ってたじゃない。感動的だったって、それ聞いてオレは、あぁこのドラマは大丈夫だって思ったんだよ、だって、あの段階であんたたちには見えてたわけでしょう、このドラマが満足いくものになるんだって、だからオレは安心して撮影に入っていけたんだよ」

そう言われて、
あぁそうだったと、久しぶりに思い出しましてね、

あぁ、
思えば素晴らしい経験させてもらったんだなぁと、
あらためてしみじみとしたのでありますよ奥さん。

ということでねぇ。
てめぇらのことばっか書きましたが、

他人とぶつかるのが仕事で、
でも人とぶつかったら斬り合いになるかもしれなくて、
斬り合いになれば、
その時、自分のなかに切実な想いがなければ、
相手に斬られてしまうか、
誤って、相手を斬ってしまう。

いずれにしても、取り返しのつかないことになる。

だから油断無く、
常に自分に正直に、
自分に出来る事を全力でやる。
生きると言うのは、
おそらく、それしかないのだと。

ただ、思うばかりで。

本日は日記終了であります。

また明日も、懲りずにお出でくださいませ。

それでは解散。

グッドナイト。



(16:53 嬉野 )
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