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成長の序列 (2002/12/09)

 

(この議論の前提として「スパイラルダイナミクス」・「イエローから」をお読みください。)

 

イエローの一つの大きな特徴は、価値判断による序列づけを行えるという点です。それゆえSecond Tier と呼ばれます。Second Tierの高みからFirst Tier全体を見渡すことができるということです。言い換えれば、私たちの精神性がFirst Tierの6色によって区分・序列づけされている見方を認めるのがイエローだということです。たとえばブルーはこのような区分と序列を認めはしないでしょう。ブルーはブルーの世界観において完結しているわけですから、それ以外の世界観(色・精神性)を否定はするとしても、肯定はしないでしょう。オレンジもオレンジの世界観で完結しているため、全ての判断をオレンジ的価値の範囲内で行おうとします。First Tierにおいてお互いの色が嫌い合っている理由はここにあります。全体を見ずに自分(自分の色)のみを見ているのです。

 

そして6色の中で若干傾向が異なっているものはグリーンです。もちろんグリーンもグリーン的価値の中で完結していますが、グリーン的価値には「他者を認める」という多元主義があります。これがグリーンの精神性を一見、他の5色は異なった性質に見せています。他の5色は無条件に他の色を否定します。5色においてはSpiral Dynamicsの全体像を概観する視点がないからです。イエローは他の色をSpiral Dynamicsという全体序列における優劣からそれぞれを成長させることにコミットしています。グリーン以外の5色同士は完全否定です。グリーンのみがFirst Tierの最後の色として、イエローのような成長へのコミットはないものの、完全否定ではなく、一見すると肯定しているように見える逆説的な否定をしています。後述するようにこの逆説的な否定に一つの誤謬が含まれています。

 

たとえば、ブルー的精神性の宣教師が未開の人々へキリスト教を広めるという意図には、一見すると他者成長へのコミットがあるようにも見えます。宣教師個人の実存的精神性がイエローやターコイズ(イエスキリスト自身やパウロなど)であれば、確かにそこには他者成長へのコミットはあるでしょう。しかし実際は、ブルーから他の色への全否定がほとんどでしょう。原理主義的信仰者の狂信的傾向はその典型です。またオレンジも、ブルー同様、オレンジ内での閉じられた世界観でオレンジが唯一であるという認識において他の色を全否定します。オレンジにも、まだSpiral Dynamicsの全体像を展望するまなざしは完全ではありません。もし完全だったら「グリーンはオレンジより優れている」という見方を認めることになりますから。

 

したがってグリーンが6色の中では唯一Spiral Dynamicsの全体像を展望するまなざしをもっているといえます。Spiral Dynamicsの中でグリーンが一番上に位置しているからです。そして初めて全体像を見ることができたグリーンに何が起こったかというと、当然、6色の中で「視野が一番広い色」らしく、6色同士の争いを何とか解消しなければならないと思い始めます(むろん、グリーンは全体像に敏感である前に、何よりもオレンジの負に対する嫌悪感の方が勝ってはいます)。そこでグリーンが真っ先に優先する価値観が「序列の否定」なのです。もっと言えば「序列の全否定」です。「『序列の全否定』によってこそ、6色間の争いに終止符を打つことできる」とグリーンは考えるわけです。

 

オレンジが「物事を科学的・合理的に捉えることによってのみ、世界中の争いや環境との対立を解決できる」と考えたように、グリーンは「多元主義的に無条件に他者の価値観を認めきることにより、世界中の争いや環境との対立を解決できる」と考えます。ただしここには一つの誤謬があり、グリーンはそれに無自覚です。この誤謬とは「無条件に他者の価値観を認める」ということも一つの価値観であり、無意識的にその価値観にとらわれてしまっている(それに無自覚である)という点です。つまり、序列を否定しておきながら、その否定という行為のためにかえって不可避的に「序列」が入り込んでいるということです。「他者の価値観を全否定するよりも全肯定する方がよい」という「序列」が入り込んでいるわけです。

 

グリーンも自身の価値観に無意識に縛られているため、First Tier内の対立構造から抜け出ることができません。「全ての色の価値観を認める」という多元主義がグリーンの価値観としてあるため、自身の色への固執から自由になれないのです。「他の色を認める」というグリーンの価値観に固執しているがゆえに、逆説的に真に他の色を認めていることになっていない、この逆説的誤謬に無自覚なのです。グリーンはグリーンに固執することで、他の色を認めようとしているわけですから、これは他の色を本当に認めたことにはなりません。結局、グリーンはその努力にもかかわらず単にグリーン自身を認めているだけなのです。

 

もう少し日常的な例で説明すると、道徳的律法主義にこの傾向が見られます。たとえば「隣人を愛せ」という教えに関して、その教えのみを対象化し固執してしまうと、そこに律法主義が入り込む危険があります。隣人その人を見ずに「教え」に従うことだけしか見ないため、本当にその人を愛することができなくなります。「私は『隣人を愛せ』という道徳律に従う必要があるから、その必要性において(いやいやながら)あなたを愛します」と言われても、そう言われた当人は、愛されたとは感じないでしょう。「無理して愛してくれなくもよい」と思うだけです。道徳律に従わなければならないという(自分のみに向けられた)関心が自我に従属して現れています。

 

自我で愛しても相手はあまり愛されたとは感じない。なぜならこの愛には理解と共有が存在していないからです。「私がこんなに愛しているのに…」というときの「愛する」は自我からきているものです。それゆえ本当の意味で「愛」が成立していません。「『のに』がつくとぐちが出る」という相田みつをさんの詩がありましたが、この「のに」は自我の典型的な属性ということになります。本当に愛することができたらならば、そこには相手への理解と共有があるわけですから、「こんなに愛しているのに…」という愚痴にはならないはずです。この場合、「自分は愛していると錯覚しているだけで、実は本当に愛することができていない」ことになります。

 

さらに別の言葉で言い換えればこの誤謬がよく理解できると思います。「こんなに理解しているのに…」とか「こんなに共有しているのに…」というようなフレーズは一つの語義矛盾といえます。相手を理解していたならば、既に相手のことは分かっているわけですから、このような愚痴が成立し得ません。「こんなに理解しているのに、どうして相手は(自分を)理解してくれないの」という愚痴。これは語義矛盾です。あなたは既に相手があなたを理解していないことを理解しているはずなのですから、そのような愚痴は出てこないはずです。もしこのような愚痴がでてきたならば、あなたは相手を理解していないという自己認識にいたるはずです。愛すること、理解すること、これらが高い倫理観の上から実践される場合、常に自己から発せられるはずです。つまり、常に「あなたを愛します」・「あなたを理解します」になるはずであり、「愛してほしい」・「理解してほしい」にはならないということです。

 

お気づきのように、First Tier の6色は後者のような「何々してほしい」というかたちで理解されます。自分の色の価値観だけで相手をはかり、それだけで相手を理解できたと思ってしまうわけです(したがって相手も自分の価値観で理解してほしい…となるわけです)。唯一、グリーンが前者のかたちを試みますが、実際は上述の誤謬のとおり、無意識の内に後者へスライドしてしまっています。「あなたの価値観を認めます。あの人の価値観も認めます。あれもこれも認めます。すべて認めます」と、崇高な行為を行っているかの自己陶酔に陥りますが、その背後には「こんなにあれもこれも認めているのに」という「のに」が隠れています。グリーンはただグリーンの押し付けを行っているだけなのです。もし相手への真の理解を実践したかったら、この「のに」の排除が必要です。それは理解を常に自己から行うことです。そうすると自然にきっぱりと(総合的な)価値判断の上で、つまり真の序列の中で相手を成長へ導くコミットをすることになります。

 

(繰り返しますが、真の理解は、相手を自分の価値観だけではかるわけではなく、かといって相手の価値観を無条件に受け入れることでもありません。前者はグリーン以外のFirst Tierの理解。後者はグリーンの理解。そして後者も結果的に前者と同じ価値の押し付けを無自覚に行っています。真の理解は、相手の価値観を認識しながら「成長の序列」により相手の成長へコミットすることです。)

 

グリーンの誤謬は、序列を否定するというグリーン自身の意図および価値観にもかかわらず、そこに無意識的に序列が入り込んでいるということでした。序列を否定することにより「序列を肯定するよりも否定する方がよい」という新たな序列を発生させ、「序列を否定する方がよいという価値観は自分たち(グリーン)に属する」という自我にはまっています。グリーンも他の5色と同じく、自らの世界観に固執する(グリーン自体は固執していないと自分では思っているでしょうが)First Tier の色なのです。

 

そしてグリーンにおけるやっかいな点は、実際はFirst Tierであるにもかかわらずグリーン自身はFirst Tier の問題を克服していると思い込んでいることです。グリーンはFirst Tier全体を見渡す展望をもっていますし、序列の否定・多元主義の導入という思い切った価値観を持ち得た意味では「6色の中で最も優れた精神性」ということはできます。しかし皮肉にもこのような思い切った価値観のため、誤謬に陥り、結果的にSecond Tierへのリープを妨げているのです。これは「愛と理解と共有の実践を行なうとして逆に自己欺瞞に陥ってしまった」ということと似ています。先述した「こんなに愛しているのに」というメンタリティーです。本人は愛と理解を実践していると思っている一方、「のに」という言葉からわかるように、その実践は自己欺瞞的に形骸化しています。そして「愛」という「与える行為」はいつのまにか単なる「所有欲の行為」に退行してしまうわけです。

 

さて、グリーンにおいてやっかいな点(それゆえにイエローへのリープを妨げているもの)がもう一つあります。「序列の全否定」です。序列を完全に否定しようとするあまり、いわゆる「成長の序列」さえも否定してまっている点です。「成長の序列」とは、簡単に言うと、成長する方がよいという価値観です。「成長の序列」まで否定することにより、「成長するよりは成長しない方がよい」という別の序列を無自覚のうちに発生させてしまい、それに価値をおいてしまっているのです。

 

一般に序列には良性と悪性の二種類があるといいます。良性の序列とは「成長の序列」。悪性の序列は「差別の序列」です。「成長の序列」とは「人は本来的に成長していくものであり、同時に成長のためには努力と決心(内面的成長へのコミット)が自己から(自我からではなく)の要求として生じる、そのような方向性を示す序列・階層・ヒエラルキー」といえます。誤解を恐れずに言えば、それは「神へ向かっていく道」ともいえます。そして言うまでもなく、この「神へ向かっていく道」はレッド的な支配と全能への欲望のことではありません。そうではなく、神の知恵と愛を実感し、その実感が洗練されていく過程でより強く神との一体感を感じる(仏教的にいうと絶対無や空を悟る)という(呪術的ではない)神秘的な志向性です。

 

たとえば、私たちが神へのまなざしを追求していくと次のような認識に至ります。神とは「あそこにいる」とか「どこからきた」とか「このあたりにいる」とかそのような“対象”ではありません。あえていうならば、神はどこにでもいるがゆえにどこにもいないようにもみえる。私たちを含んでどこにでもいるがゆえに私たちの内面でこそその存在を理解できるということでもあります。逆に言えば、もし私たちが神を対象化できたらならば、その時点で私たちは神の外側に立つことになってしまい、致命的な矛盾が生じてしまいます。

 

神は神であるがゆえに決して対象化されない。これは私たちが真に神と出会うためには非常に重要な認識です。対象化されるものは知識として認識することができます。しかし神がこのように認識されると、神が私たちの外側に捉えられることになり、その時点で神が神でなくなってしまいます。神との出会いはその意味では対象化を克服した直観において実現するものであり、非対象的・直観的に神と出会うには知識ではなく知恵が必要となります。そしてその知恵のためには「意識の成長」が必要となります。First Tierの6色がその歴史と個人の「意識の成長」からも分かるように、私たちは神を非対象的・直観的に内面においてその全体性において出会うことができていません。いつも知らず知らずのうちに神を対象として捉えようとしてしまい、「神はどこにいるのだ。どの神が正しい本当の神なのだ。私たちの神が正しくて、あなたの神は間違っている」というような追求と争いを繰り返しています。「神を対象として捉える」ということは「神を所有しよう」とするか「神に所有されよう」とすることでしかありません。すなわち、エゴとエコの対立です。

 

知恵の実を食べてしまったために、ベージュからパープルへのリープを起こし自我が発生し、私たちは神を対象としてしか捉えられなくなりました。この「神の対象化(環境との対立)」が、私たちの中に「神の所有(エゴ)」または「神への従属(エコ)」という自我を発生させ、人類の歴史は、神々(理念・信条も含む)の戦いで残酷に彩られることになったのです。すなわち、パープルからグリーンへの道程です。言うまでもなく、この道程は歴史的に展開されるだけでなく、個人の意識成長の過程においても展開されます。私たちが「神の対象化」を克服し、真に神と出会う・再会するためには、何よりも「意識の成長」が必要となるのです。

 

私たちは神に出会うために成長しなければなりません。その道は決してたやすいものでなく、どの成長もそうであるように、つねにチャレンジとその克服というステップが待ち受けています。神に出会うために成長の道を歩むというような言い方すると、神はどこか遠くにおり、私たちは長い長い道程を経て遠くのどこかにたどり着くというイメージをいだきがちです。しかし、このようなイメージは、神を対象として見ようする落とし穴です。神との出会いとは一つのパラドックスです。対象化したり自分の外側を探し求めたりする方向性を克服し、自身の内面にピュアなまなざしを向け得たとき、私たちは、神は実はどこにでもいたという真実に(知識としではなく)実感として気づくことになります。すべては神であり、自分自身も紛れなくなく、そのすべての一部であり全体であり、それゆえに自分自身は神の一部であり全体であるというパラドキシカルな直観に至ります。そうした直観においてこそ「私は神であり、真理である」というイエスキリストの言葉が真の意味を持ち得ます。あるいは「私たちが神について考えたとき、神は私たちを通して自分のことを考えている」というスコリモフスキーの言葉の意味も実感することができます。

 

「神の対象化」を克服していない状態でそんな発言をしても、それは単なる狂信的なカルト宗教的教義となるだけです。実際、上のイエスキリストの発言はほとんどの場合、First Tierの意識性において模倣され、誤解のもとに理解され、単に「神々の戦い」をより熾烈に残酷にしただけに終わっています。そして「神の対象化」からは「差別の序列」が生まれ、他方、「神の対象化」を克服し真に神と出会うためには「成長の序列」が不可欠となります。その辺りをもう少し詳しく述べてみましょう。

 

先述のようにグリーンの一つの大きな過ちは、序列を唯一のものとして捉え、First Tierの争い(神々の争い)を解決するためには、序列そのものを完全に否定すべきという価値観をもったことです。このグリーンの見解は半分当たっています。神々の争いが序列にから生じていたとういうのは事実です。しかしここで見落としていたことは、神々の争いは「差別の序列」から生じたものであり、「成長の序列」から生じたものではないという点です。「差別の序列」とは、「神の対象化」から生じた、あるいは「神の対象化」という世界観を維持させるためのヒエラルキーです。

 

たとえば、パープルでは親族関係が「差別の序列」を形成させる一つの要素でした。あるいは逆にいえば「差別の序列」が親族関係の力関係を維持するために必要なヒエラルキーでした。ある特定に親族がある特定の神話的属性をもつことにより、社会での一定の権力を行使する。そしてその序列の中で「神の対象化」は顕在化され、ヒエラルキーの頂点には神(人)が君臨することになります。その神がその頂点を維持するために行使されるのが「差別の序列」であり、また「差別の序列」により維持・機能されるのが親族構造や神話ということになります。

 

レッドの場合は、「差別の序列」の頂点に位置する神(人)がより自我的属性を帯びることになり、そこでも「差別の序列」が大きな役割を果たします。神であり英雄である人は、卓越したパワー・自我・神話的・親族的属性により圧倒的支配権を行使します。この英雄(神)は選ばれた超人であり、一般大衆から一線を画します。このような世界観を支えているのも紛れもなく「差別の序列」です。パープル的意識で説明できたヤーウェ(旧約聖書の神)が徐々に英雄的人格を帯びてくるのは、この点で興味深い。イエスキリストが神の子であると同時にダビデ王の子孫であると新約聖書でわざわざ明記されていたりします。イエスがブルーの啓蒙を行おうとしていた時代(イエス自身はイエローかターコイズですが)、彼が神の子(パープル)であり同時にダビデの子孫(レッド)といわれた点でキリスト教の出現当時の意識状況がどのようなものであったかを確認できます。時代状況および当時の人々の意識レベルがこのような位置であったため、イエロー的・ターコイズ的なイエスキリストの発言は、ことごとくブルーとして(場合によってはパープルやレッドとして)解釈されたのでしょう。つまり、より精神的な絶対他者的超越神が神の概念のとして対象化され始めたわけです。ここでは、パープルの神話的神やレッドの英雄的神よりも洗練されたかたちで神は認識され対象化されたわけですが、依然「対象化」であることには変わりなく、神は絶対他者として私たちの外側に設定されたに過ぎません。

 

なお、そのようなブルーの時代においても個別では非常に高い意識レベルに到達した人は存在しました。そのような人は自分自身で「神の対象化」を克服し、内面において神との一体化と出会いを実現しました。たとえばエックハルトなどがそうでしょう。聖書の中の使徒たちやパウロなどもそうであったことはいうまでもありません。もっともそうであるがゆえに、エックハルトなどは当時(中世)の教会から異端扱いを受けもしました。そのような教会的権力は、ブルー的価値を維持する「差別の序列」であったといえるでしょう。またこれは中世ヨーロッパに限らずいつの時代でもそして現代でも頻繁に見られる傾向です。ブルー的超越神を対象化し維持するためには、厳格な制度化が必要となります。この制度というものが紛れもなく「差別の序列」であり、しばしば制度の内部では醜い権力闘争が展開されます。そして人々はいつの間にか制度に従属することになり、神の名のもとに(制度の名のもとに)残酷な所業行われました。社会主義末期の病症も同じです。唯物論的世界観という“超越的神”の制度は、制度化した教会などと極めて似たような様相を呈することになります。教条化したマルクス主義は(たとえ実践者は科学を標榜していても)ブルーの精神性になります。

 

こうして「(神話的・人格的・超越的)神の対象化」とそれに伴う弊害(神々の争い)に疲れ果てうんざりした人々は、「神の対象化」そのものを否定しようと試みます。神をどのように自分たちの外側に置くべきかという追求そのものを止めてしまいます。「神の対象化」そのものを否定することにより無意味な神々の争いを回避しようとします。つまり、対象化された神から自らを自由にするというオレンジの啓蒙思想です。見えるもの・論理的に認識できるものだけを信じ、そこから導かれる自由で健全な世界観のもとに個人の幸福を目指していく価値観です。

 

この価値観において確かに私たちは大いなる自由と進歩を手に入れることができました。しかしこの自由と進歩を手に入れるために払った代償も大きなものでした。代償とは、神の追求を止めたことです。そして、かろうじて保持されていた精神性とそれに伴う倫理観も形骸化してしまい、オレンジは何を理想に生きていけばよいか分からなくなってしまったのです。否、理想から精神性という垂直の高み/深みがすっかり抜け落ちてしまい、単に「物質的・利己的な理想」が骸骨として残る「モダンフラットランド」に、オレンジは生きることになってしまったのです。

 

「モダンフラットランド」は精神性という垂直の高み/深みを失ってしまったため、お金持ちになること、安定すること、地位と名誉を築くこと、快適な生活に恵まれることなどのような皮相的なものに理想を収斂させるようになります。これはこれで人々を魅了する理想でありますが、むしろ(特にマクロのレベルでは)これらの理想は、尽きることのない欲望として顕在化し、南北問題を初めとする様々な「差別の序列」を生じさせる結果になっています。

 

オレンジでも「差別の序列」は重要な役割を演じます。「差別の序列」を駆け上がるために、人々はひたすら物資的勝利を求めて邁進します。それは弱肉強食の競争であり、他者からの戦略的収奪が効を奏する競争です。「差別の序列」は人々に強いインセンティブを与え、熾烈な競争を展開させます。逆に言えば、オレンジ的競争が維持されるためには「差別の序列」が不可欠になります。ハングリー精神とはうまく言ったもので、まさしく物質的欲求を基礎にした「差別の序列」に翻弄されている状態に他なりません。貧者は富を求め、富む者は富への尽きることのない欲求に従い、貧富の格差(あるいは知識所有の格差)といった「差別の序列」を必死に攻撃的に駆け上がります。そしてオレンジでは「神の対象化」は放棄されているため、この利己的な競争を緩和させる精神性は極めて脆弱になっています。(もっとも、オレンジでは物質的要求の実現が“神”として認識されているという言い方もできます。いずれにしても精神性が希薄であることは事実です。)

 

そしてオレンジにおいて人々が競争に疲れ果てたとき、グリーンが登場してきます。オレンジは「神の対象化」そのものを否定することで「神々の争い」を解決しようと試みました。しかし実際は精神性の脆弱化(モダンフラットランド)を招いただけで(むろんオレンジの貢献は圧倒的であったことは事実ですが)「神々の争い」の根本的解決には至りませんでした。つまり「神の対象化」の否定は、「神の対象化」の克服とはならなかったということです。

 

そこでグリーンでは別のアプローチが必要となりました。まず根本的な大きな問題として「どのようにしたら(6色間の)『神々の争い』を解決できるのか」という問題。また「オレンジの負」を克服するグリーンとしての「どのようにしたら熾烈で非人間的・物資的な競争を解消できるのか」という問題。この2つの問題を一気に解決するための価値観が「序列の否定」であったわけです。「神々の争い」の解決は、「神の対象化」の否定により可能であるとオレンジでは考えていました。しかし、どうもそうではないようでした。「神の対象化」の否定は、逆に精神性の喪失というより深刻な問題を招いてしまっただけでした。

 

「神の対象化」の否定でないとしたら何が原因なのか。パープルからオレンジまで営々と保持されてきた「序列」、これが諸悪の根元であるという考えにグリーンは至ったわけです。そして「オレンジの負」を解決するために、まず「神の対象化」の否定を撤回します。一新された精神性の回復のもとで再び、人々は神を求め始めます(もっとも依然「対象化」のスタンスは保持されます)。そして神を求め始めると同時に、序列の徹底的な否定を開始します。そしてここにおいてグリーンが、先述した2つの誤謬をもつに至ったわけです。

 

一つは、序列の徹底的な否定により、知らず知らずの内に「序列の否定は序列の肯定に勝る」という新たな序列(差別の序列)成立させてしまったのにそれに無自覚であること。そしてもう一つは「差別の序列」と「成長の序列」を見境なく全否定してしまったため、神を求めることに最も不可欠な「成長の序列」さえも否定してしまった(そしてそれに無自覚である)ということです。

 

結果として、グリーンの人々は、一見、神を求めようという姿勢や理想をいだきながら(成長の序列を否定してしまったがために)ほとんど神に近づく(この「近づく」は対象化における距離的な意味よりも対象化の克服への道程という意味合いが強い)ことができず、単に「神々の争い」を放置させているか、皮相的にパッチワークするだけに止まっているわけです。それゆえ、グリーンのポストモダン的時代状況では、様々な宗教が陳列棚にならべられて適当に味見されているか、そうかと思えば、いきなり小カルトグループが悲惨の集団自殺を起こしたり、テロを行ったりします。モダンフラットランドは精神性の平板を示すものですが、ポストモダンフラットランドとは、「成長の序列」を否定してしまったために価値が平板に相対化されてしまい、何が正しいか全くわからない事態が発生し、にもかかわらず人々は精神性を求め続ける(あるいは精神性を保持していると思っている)状況のことなのです。

 

もうかなりクリアーになったと思います。もしイエローへのリープが可能であるならば、私たちが真っ先に取り組むべきことは、「成長の序列」を回復することです。私たちは、根本的・本質的に成長する存在であり、成長への道標は序列(ヒエラルキー)によって示され、成長の道程を歩むことは、その序列を一歩一歩真摯に登って行くことです。その歩みは、内面へのコミットメントにより実現されるものであり、知識の量的増大でなく知恵の質的深化でなければなりません。なぜなら、知識の量的増大は単に「差別の序列」を形成するものである一方、知恵の質的深化は、私たちの総合的な価値判断を可能にするものであり、「成長の序列」を上昇(深化)していくものだからです。この道を歩むことで、私たちは「神の対象化」というパープルから続いた“無知”を克服することができます。この克服において「神々の争い」は根本的に解消され、環境との対立も解消されることになります。

 

「成長の序列」を歩むイエローの人々は、その鋭敏で総合的な価値判断能力により、きっぱりと各色のレベルを認識することができます。むろん、そのために6色のそれぞれに(自分を見失うことなく)自由にコミットもできるわけです。そしてまたそのために一種の優越意識・選民意識が介入する危険性もなくはありません。イエローにもむろん自意識は存在するわけですから。

 

ただ、改めて思うのですが、イエローが自意識と自我には十分に注意しつつ、真摯に「成長の序列」を歩み続けるならば、優越感の自我によりFirst Tierへ退行する可能性はかなり少ないとも思います。一方でもう一つの危険性をあげるならば、グリーンがそうであったように「差別の序列」と「成長の序列」とを混乱し、自身が歩んでいる「成長の序列」を「差別の序列」のごとく扱った場合、自我・自意識による優越感、つまり差別化が生じてしまい、イエローは、成長と権力が混乱したブルー的聖職者に退行してしまうかもしれません。

 

少し話のスケールを大きくします(笑)。ビッグバンから始まった宇宙の歴史は、単純なものから複雑ものへ複雑なものから洗練されたものへと進化してきました。無機物は単純な原子から質量の大きい原子へと複雑化してきました。この様々な原子の複雑の組み合わせによって無機物の世界が形成されました。複雑な原子はより洗練された分子を形成させます。分子の組み合わせも単純なものから複雑なものへと進化していき、高分子の世界を形成させます。高分子はより洗練されたものへと変化を繰り返し、ついに自己複製能力をもつ高分子が誕生します。DNAの基本構造の誕生です。

 

この基本構造は複雑化しそのプロセスで原始的な細胞を生み出します。細胞は自己複製能力をさらに進化させ、単細胞から多細胞へと複雑化・洗練化します。そして有機物の世界は一気に多様化します。多細胞は組織となり、組織は個体の多様性の土台となります。個体はどんどん多様化していき、多様な個体の集まりは一大生命世界を形成するに至ります。個々の個体は複雑化・多様化・洗練化を繰り返し、ちっぽけな高分子のときに獲得した自己複製能力をフル活用します。

 

自己複製能力は「かたちあるものは崩れていく」というエントロピー増大・熱力学第二法則の逆を目指す一つの大いなる意志であるといってもよいでしょう。かたちあるものが崩れていく中で自身の秩序を失う前に、自己複製能力により同じ秩序を複製として残すことができるからです。「秩序は混沌へと変化していく」という流れ(爆発)の中、自己複製能力は「混沌から秩序が生まれる」ことを教えてくれます。秩序は複雑化していくことで混沌としていきますが、その混沌がゆえに、さらに高い次元でより洗練された新たな秩序が生まれてくることができるわけです。その意味でエントロピー増大は宇宙の現象の一側面しか現していないことがわかります。宇宙は混沌化していく、しかしそれは「宇宙が次元の上昇を伴った進化をする」という大きな生成の前提であることがここで理解できます。その理解においては私たちは宇宙の意志と進化というもの感じることができるでしょう。

 

この自己複製能力が存分に発揮された後、さらに高い次元の秩序において宇宙は新たな革命的能力を得ることになります。自己認識能力です。洗練された個体は、自己を複製する能力のみならず、ついには自己を認識する能力を得るに至ります。自分は自分であるという認識を可能にする意識の誕生です。意識の誕生において始めて宇宙は自身の前に自身の姿をさらすことになります。つまり、個体が個体を認識するその意識において個体を包み込む世界・宇宙を認識するに至るわけです。個体による宇宙の認識はいうまでもなく宇宙による宇宙の認識にも他なりません。

 

もっとも、意識を持ち始めたばかりの個体はそのような高い自己意識にはなかなか至ることができません。個体の意識は「自分をみる自分」という存在を意識の中に生み出してしまうために「自分は世界から分離しているのではないか」という不安、「自分はどのように世界に関わっているのか」という疑問をいだくようになります。環境との対立が始めるわけです。言うまでもなく、このような意識は「個体の死への恐怖」や「生への意義」などに対する問いかけをもつことになります。ここで神は「対象化された神」として個体とともに環境に対立することになります。そして個体(私たち)は、自身の意識の中で世界・環境・神との関わりを問い続ける歴史(文字どおりの歴史そして意識成長の歴史)を展開することになります。それは私たちの意識が正しく私たちを意識できるようになりまで続きます。すなわち、宇宙が正しく宇宙を意識できるようになりまで続くということです。

 

「神へ向かう道」でも説明しましたが、私たちの意識が完全に私たちを認識できたとき「認識された客体の私たち」は個体であると同時に宇宙全体であることに気づき、「認識する主体の私たち」も個体であと同時に宇宙全体であることに気づくはずです。意識とは、ビッグバンから始まった生成の進化が、自己複製によるバイオスフィアの次に、獲得した次元にほかならないからです。それは「宇宙が自身を確認する鏡(宇宙の外にあるわけでありませんが)」にほかなりません。言い換えれば、完成された意識は、私たちは私たちでしかなく、主体と客体に分離さているわけではないことを気づかせてします。そしてむろん、宇宙も意識において自覚されるものの、決して分離しているわけではないのです。ここにおいて「意識」によりもたらされた私たちの(あるいは宇宙の、あるいは神の)の自己分裂(自我の問題)は「意識の完成」によって初めて解消されることになるのです。そしてこの「意識の完成」に向かう道が「成長の序列」により示されているのです。

 

 

 

 

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©2002-2003 Tsutomu Yonashiro

与那城 務

 

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