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イエローから (2002/11/14)

 

小学生のころ奈良県主催の親子写生大会というものに参加したことがありました。日曜日の早朝から家族そろってモチーフとなる風景をさがし東大寺近辺の芝生をうろうろ歩いたことを覚えています。その日一日をどのように過ごしたかは忘却の彼方に消えてしまいましたが、今でも一つ印象に残っていることがあります。父が教えてくれた水彩画の使い方です。

 

芝生や木々の輪郭を鉛筆で大まかに捉えながら、父は大きな筆で画面全体に薄くイエローをのせていきました。「芝生は緑なのにどうして黄色を使うの?」という私の質問にも気をとめない様子で、父は構図の明暗やバランスに気を配りながら全体にイエローを着色していきました。「イエローの下地」ができあがると、全体の調子に気を配りながら次は薄くブルーをのせていきました。するとブルーがあざやかなグリーンとして画面に現れてきました。レッドをのせるとあざやかなオレンジとして画面に現れてきました。

 

このような透明水彩の使い方は小学生4年生の目には新鮮な驚きでした。透明水彩は薄いカラーセロハンのように下地の色が透けて見えます。そのためパレットの上でなく画用紙の上でセロハンを重ねるように色を作っていくことができます。グリーンを現したければ、イエローをのせその上にブルーをのせます。するとイエローとブルーの重なる部分にグリーンが現れてきます。むろんグリーンの絵の具をそのまま着色することもできますが、ポイントは固有色のグリーンと画面上で合成されたグリーンとの微妙な彩度・明度の異なりです。これを巧みに表現していくと、透明水彩画のもつ独特の味わいと奥行きを醸し出すことができます。透明水彩の特質を最大限に生かすには「イエローの下地」が大きな効果を発揮します。私の中ではこのような「イエローの効力」が幼いころの記憶として沈殿してしまっているようです。

 

冒頭からこんな話をもってきた理由は他でもない、Spiral Dynamics が上述の記憶を私の中に呼び戻してくれたからです。前回はイエローの話をするところで筆をおきました。イエローを語る場合、First Tier の一色として片付けてしまえない要素が含まれていると思ったからです。First Tier は、ベージュ、パープル、レッド、ブルー、オレンジ、グリーンの6色。そして「ではグリーンの次は何?」という問いかけに対しては、単にオレンジからグリーンが生じるプロセスとは異なる複雑さがあります(その意味では「グリーンの負」が直ちにイエローを生じさせるというわけではないようです)。

 

グリーンは「オレンジの負」を克服するために生じた意識レベル。しかしイエローは「グリーンの負」を克服するためだけの意識レベルではなく、それ以上の要素を含む意識レベルです。そのため First Tier の6色とは一線を画する色・レベルとして扱われ、Second Tier と呼ばれます。では「それ以上の要素」とはいかなるものでしょうか。一言でいうとそれは「Second Tier の位置から First Tier の全6色を展望する眼差しがイエローにはある」ということです(今回の議論を基づき、私なりに図示を試みたものがあります。)

 

前回も述べましたが、First Tier 6色における特徴の一つは「6色がお互いに嫌い合っている」という点です。「6色がお互いに嫌い合っているため、世の中には争いが絶えない」という言い方さえできます。グリーンはオレンジの冷酷な合理性を嫌います。オレンジはグリーンの軟弱な相対主義を嫌います。グリーンからは「オレンジの負」が良く見え、またある意味(完全とはいえませんが)オレンジからは「グリーンの負」が見えます。残酷な「ブルーの宗教性」を克服し得たオレンジからしてみれば、グリーンの宗教肯定的な姿勢は危なっかしくて仕方がないように見えるわけです。

 

その意味でグリーンとブルーには一種の親和性があるといえます。グリーンの文化多元主義は、各民族・部族の固有文化を尊ぶ傾向があります。しかしときに尊び過ぎるあまり、民族中心主義や部族中心主義を盲目的に賞賛してしまう傾向もあります。それぞれの固有文化を尊重する多元主義的相対主義を実践し過ぎるあまり、攻撃的な民族固有性(ナチス等に代表される民族中心的国家主義やその他の人種差別・民族差別)までも「一つの認めるべき固有性」して容認してしまう無力さ(Idiot Compassion)が「グリーンの負」として顕著化してきます。文化多元性を尊ぶあまり、各グループがそれぞれ人種/民族/国家中心主義を好き勝手に唱える状態(一部とグリーンと多数のブルー)という構図が発生してしまうわけです。

 

ただし、オレンジは「グリーンの負」を嫌う以上に「ブルーの負」を嫌います。「ブルーの負」は絶対他者的な権威を超越的な位置におき、そこへの絶対服従を誓う意識レベルです。この絶対他者的権威に従うものは「善」であり、いかなる理由があろうともそれに従わないものは「悪」となります。そのため狂信性の土壌が培われます。ナチスのアーリア人崇拝、右翼的日本人の日本民族優越主義や、KKKの白人優性説などがこれにあたるでしょうか(そのほかにもたくさん具体例はあるでょう)。そこまでアグレッシブでなくとも、いわゆるキリスト教やイスラム教などの一神教的宗教にもその傾向は顕著に見られます。中世ヨーロッパにおいて教会の権威が席巻していた時代、教会が人々の生活から政治・経済までを支配しており、ブルー的意識レベルがいかに主要であったかを容易に理解することができます。長らくヨーロッパではブルー的意識レベルが主要な価値意識であったため、宗教戦争が絶えたことがなく、数限りない残酷な所業が神への忠誠のもとに行われてきました。

 

神の名による残酷な行為は当時の意識レベルでは普通のことだったのでしょう。現代の科学技術による(オレンジによる)大量殺戮が「普通」に存在しているのと同じように。そしてブルーにおけるそのような「普通の残酷さ」を普通でないと訴え始めたのがオレンジの意識レベルだったわけです。絶対他者的・超越的他者が暴君として君臨したブルーの暗黒時代に「そんな暴君に振り回されずに自由に生きるべきだ」と啓蒙し始めた意識レベルでした。これがオレンジの貢献でした。ただしその貢献が負に変容し、グリーンの必要性が生じた経緯については(前回)既述のとおりです。

 

もっとも、オレンジにより否定・克服された「ブルーの暴君(ブルーの負)」も、最初は「レッドの負」を否定・克服するために生じた意識レベルでした。レッドとは、「特定の自我」が強烈に肥大し「力の神」の位置を獲得した場合のよりどころとなった意識レベル。世界の支配は「特定の自我」が行うべきものだという価値意識の下、支配権の争奪をめぐって攻撃的かつ残酷な争いが繰り広げられました。レッドの争いは、超越的な神のためとか(ブルー)、理念的正義のためとか(グリーン)、物質的戦略的収奪とか(オレンジ)のために行われるのではなく、もっと単純に「支配そのものの欲望」のために行われました。「特定の自我」が(さらにその自我が力で支配するグループが)自らの力を誇示し、支配のさらなる拡大のために争いを繰り広げていったわけです。

 

レッドにも神は存在しました。しかしその神は「ブルー的な超越神」というよりも「グループの長が同時に神的存在であった」というべきでしょう。その意味では、ナチスにおいてヒットラーが神的存在として君臨していたならば、ナチス的意識レベルはブルーよりもレッドに近かったと言えるでしょう。またその論理ならば、第二次世界大戦当時の日本はかなりレッド的だったとも言えます。むろん、レッドの典型は古代国家に多く求めることができます。古くはファラオからアレキサンダー大王、歴代のローマ皇帝、歴代の中国皇帝などはその典型でしょう。皇帝ネロによるキリスト教徒迫害は「レッドからブルー(またはパープル)への攻撃だった」と見ることができます。聖書のなかでイエスが「神のものは神へ。カエサルのものはカエサルへ」と答えていますが、これは(政教分離云々以前に)「ブルーからレッドへの発言」と解釈することができます(注:なお、イエス自身の意識レベルをイエローかターコイズとするならば「ブルーからの発言」というのは正確ではないかもしれません。にもかかわらず、当時の大多数の信徒からはやはり「ブルーからの発言」と解釈されていたとは考えられます)。

 

その意味では、キリスト教をはじめとする一神教的宗教の出現は「レッドを克服するブルーの啓蒙だった」ということができます。つまり「ブルーの暴君」も最初は「レッドの暴君」から人々を解放する一つの意識的上昇であったわけです。神的存在を自我肥大的・暴力的・現世的人格に帰属させるのではなく、理念的・超越的・非自我的存在に帰属させることでより洗練された宗教的世界観を築くことがブルーの出現で可能になったわけです。このレベルにおいて人々は(神の民)は、神の気まぐれ(人の気まぐれ)に振り回されることなく、より安定し統制のとれたコミュニティーを実現することができました。むろんそのような安定と統制ゆえに「ブルーの暴君」が生じたことは既述のとおりです。

 

他方、ブルーとレッドは垂直的には同じレベルの意識だと捉えることもできます。つまり、上記ではブルーがレッドを克服したという言い方をしていますが、これは必ずしもブルーがレッドより優れているという意味にはなりません。むしろいずれもパープルから生じた「双子の意識」と見ることができます。たとえば旧約聖書の神はレッドとブルーの両方の性質を備えています。旧約聖書を読んでもらえればわかりますが、ヤーウェ神はブルー的超越神でありながら実に暴力的なレッド的人格神の性質も備えています。ここから、旧約聖書の神は「レッドとブルーが未分化だったパープルの意識レベルにおける神」ということができます。パープルの神とは呪術的・アニミズム的神です。むろんヤーウェはアニミズムではありませんが、生け贄と儀式を要求しそれが人々と環境との関係を左右するという意味では、アニミズム的傾向をもち、また非常に呪術的です。神が人々の環境を完全に支配しており、神がいまだ自我人格にも理念的超越にも分化していない。このような神はパープルの意識レベルにおいて保持されていると言えるでしょう。お気づきと思いますが、レッドとブルーを混ぜるとパープル。意識レベルと色の分配が非常によく考えられています。

 

環境と私たちとの関係においては2つの対応があるといわれています。エゴ的方向とエコ的方向です。前者は自我(エゴ)の拡大・肥大によって環境と対峙しようとする方向性です。後者は環境そのものに従属することで関係を保持しようとする方向性です。パープルの意識レベルではエゴとエコは未分化でした。これがあるときいずれかの方向性を選択する必要に迫られ、レッドかブルーへと分化していったのです。ただしこの「双子」はお互いの環境に対する対応が気に入りません。それゆえ、エゴとエコの対立がスパイラルに展開してきたのが人類の歴史であり、共時的には私たちの成長そのものの展開でもあり、成人人口における色の比率が人々の成長の度合いを示していると言えます。皇帝がキリスト教徒を迫害したようにレッドはブルーを嫌いましたが、結果的には、ブルーはその超越的信仰の洗練によってレッド的暴君を克服することができました(あるいはブルー的意識が私たちの中の内なるレッドを克服させます)。しかしブルーのエコ的従属は度を越し過ぎて様々なブルー的残酷性を生じさせてしまいました。

 

そしてそれを克服しようと現れてきたのがオレンジです。オレンジは進化したレッドであり、エゴ・エコの区別においてはエゴに分類されます。ただしレッドとの違いは、オレンジのエゴは科学的・合理的だという点です。科学的・合理的な自我が理性によって自然を克服・支配しようとし始めたのです。理性により自分たちの環境と対峙し、しかるに支配しようと試みる。このような意識レベルがあったからこそ、オレンジは「ブルーの暴君」を克服することができたのでしょう。ここでお気づきかと思いますが、レッドはいかにしてオレンジに成長し、自らの敵であったブルーを克服するに至ったのでしょうか。後で詳しく述べますが、レッドをオレンジにしたのがイエローなのです。レッドにイエローを混ぜるとオレンジに変わるように。

 

成長したレッド、つまりオレンジは、理性的自我により私たちと環境との関係をより洗練されたものに変えることができました。オレンジにおいて環境はもはや恐れの対象ではなくまたコントロール不能・予期不可なものではなくなりました。環境への理性的・合理的な対峙により、数々の迷信や神話の残酷性は取り除かれ、私たちを苦しめてきた数々の病にも効果的な治療法が発見・開発されました。オレンジにおいて病はもはや呪いや罪の属性ではなく、自然界の因果関係から生じる出来事の一つに過ぎなくなりました。とりわけ抗生物質等の発見と開発が私たちを「病の呪術・神話性」から解放した貢献は計り知れません。抗生物のおかげでバクテリア系の病による死者数が一気に減少し、抗菌対処による衛生条件の向上により乳幼児死亡率も一気に減少しました。それにともない人口も爆発的に増大しましたが、これも農業技術の科学的進歩に伴う生産性の飛躍的増大によりカバーすることができました。工業・農産物の流通システムも信じられないほどに発達し、私たちは人類史上はじめて世界を同時に体験することができるようになりました。情報・通信分野でも同じ状況です。世界中の物と情報が瞬時に行き交うことができ、かつては計り知れなかった環境は、すっかり私たちの生活レベルの範囲に収まったかのように見えてきました。これらはすべてオレンジの貢献だといえるでしょう。

 

繰り返しになりますが、このようなオレンジの貢献の素晴らしさに反比例するかのごとく、私たちは「オレンジの負」に直面することになります。オレンジの理性的・合理的自我はあまりに強力になりすぎ、私たちの環境をコントロールするどころか今にも破壊し尽くすかの勢いとなりました。オレンジ的自我の前には、環境は弱々しくちっぽけに見えます。オレンジ的自我をもつ人間はすっかり環境から分離してしまい、環境の外側に立ってしまい、環境を破壊してしまいそうな勢いをもつにいたりました。しかし、人が環境から完全に分離してしまうというのは一つの幻想に過ぎません。オレンジ的幻想です。

 

それゆえオレンジは、環境の破壊がすなわち自分たちを破壊する行為だという事実にそれほど敏感になることができません。オレンジ的自我は、自分たちの物質的欲望の追求が自分たちの首を絞めるという事実にあまり敏感ではありません。自然破壊が進もうが関係なく、森林が切り開かれジャングルが焼き払われました。農地は高度なバイオ化学工場になりはて、もはや自然の営みが入る余地がなくなりました。また物質的要求のためには、多くの人命と環境が失われる戦争さえ頻発しかねません。物質的欲求・企業的利益のためには、人命が危険にさらされようが一部の人々が過酷な労働に晒されようが、貧困が構造的に固定されようが気に留めることはありません。「合理的に考えればそれは仕方のないこと、避けられないこと」というのがオレンジ的自我の態度です。

 

世界はチェスボードであり、勝者が物資的幸福を享受することができ、敗者は勝者からの搾取に甘んじて身の不幸をなげくしかありません。敗者に唯一残された道は、勝者の戦略を学び、次なる試合において勝者の側に立つことです。結果として敗者(例:第三世界諸国)はなりふりかまわず勝者(先進国)の必勝法を学ぶことに奔走します。すべてが勝者を目指して熾烈な競争を展開します。すべてが物質的欲望に翻弄されながら「自由競争」を展開します。わずかに勝者から敗者へのコーチングが「戦略の教授」というかたちで「援助」されますが、全てが勝者にはなれないのがオレンジ的世界観です。また勝者の拡大は環境破壊の拡大につながるだけです。中国やインドが現在のアメリカ並み大量消費を享受し始めたら、私たちの環境はますます脆弱でちっぽけなものになってしまうでしょう。

 

オレンジにおいて強大になり過ぎた自我は、洗練されたエコによる克服が必要となります。自分たちがいかに環境に残酷な仕打ちを行なっているか、人間性に背いた理想を追求しているかが悟られたとき、そのような人々は環境にやさしいしかも畏敬にみちた眼差しを回復し始めます。すなわちグリーンによる「オレンジの負」の克服が現われ始めます。これはエゴからエコへの揺り返しでもあり、環境への畏敬の念、精神性への回帰など、一見するとブルーへの退行に見えるかもしれません。実際、「グリーンの負」として指摘されるのがブルーへの退行(場合によってはパープルへの退行)であることは前回述べたとおりです。そしてここでもお気づきかと思いますが、グリーンがブルーへ退行するのを防いでいるのが実はイエローなのです。グリーンとは別の言い方をすれば成長したブルーということができます。そしてその成長を促しているものがまさしくイエローなのです。

 

まとめてみます。レッドをオレンジに成長させたものがイエローであり、ブルーをグリーンに成長させたものもイエローであります。イエローは First Tier から自由であるため、それぞれの色に自由にポジティブな影響を与えることができます。これが「イエローが First Tier 全体への気遣いを行ない得る意識のレベルである」という理由でもあります。特定の色に固執しないため、各色同士の争いから自由になることができます。自由になるどころか、レッドをオレンジに、ブルーをグリーンにする影響力さえもつことができます。イエローは各色の間を自由に行き来し自由に関わることができ、それゆえに、パープル以来の問題であった環境との関係さえも自身の中で解決することができます。

 

パープルにおいて自然は私たちを脅かす非常な脅威でした。それため多くの迷信や呪術が発生し、アミニズム的世界観の中でしか自身の個や集団を確認することができませんでした。それが環境との関係における打開策をめぐって2つの方向へと分裂しました。エゴの方向とエコの方向です。エゴは環境に対して自我を増大し支配していこうとする方向性です。エコは環境に対して限りなく従属していき支配されようする方向性です。この二方向への分裂によりレッドとブルーが生まれ、お互いの世界観はオレンジとグリーンとの対立まで続くことになったわけです。オレンジとグリーンの対立は、レッドとブルーの対立ほど残酷には見えませんが、それでも中にレッドとブルーを包含しているがゆえに常に残酷性を顕在化させるリスクを背負います。そのリスクを回避できるのが「イエローの役割」なのです。

 

イエローは First Tier の6色を常に気遣い、各色の成長を促すことができます。私たちの社会には、パープル的な人、レッド的な人、ブルー的な人、オレンジ的な人、グリーン的な人たちが複雑に関わり合いながら存在しています。それは前回示した例で確認できたとおりです。しかしここでも問題は、たとえその人が最新の意識レベルであるグリーンであっても、他の色と正しく接することができないという点です。First Tierの6色はみな互いに憎しみ合い、互いを排除し合う傾向があるからです。むろん、グリーンは持ち前の多元主義ですべての色と接しようとします。しかしグリーンの多元主義はしばしばニヒリズムと無力さを伴い、それぞれに成長という影響を与えることができません。

 

グリーンの多元主義とは「すべてが正しい。しかるに何が正しいか分からない。あるいはすべてが正しくない(解釈に過ぎない)、私たちの多元主義以外は。」というジレンマに陥るだけなのです。いわゆるポストモダニズムです。一見、すべてへの理解を示しているようで、そこには何が正しくて正しくないかの価値基準・階層が存在しないため、みんな自分たちの価値観に基づき好きなことをすればよいという無関心に陥ってしまうわけです。あまりに「包容力」がありすぎてテロも非倫理的行為さえも「好きなことをすればよい」という中で認めてしまうことになります。

 

そこで、このグリーンの無力さを克服するものがイエローの意識ということにいなります。イエローは全ての色に関わりかつコミットしています。レッドも認め、オレンジも認めるけれども、グリーンのような「階層の否定」がないため、Idiot Compassion や ニヒリズムに陥ることがありません。「オレンジの方がレッドより優れた精神性である」ということをイエローはきっぱりと主張できます。ブルーに対してもグリーンの方が優れていることも、オレンジに対してもグリーンが優れていることもイエローはきっぱりと主張できます。そしてグリーンに対してもその無力さと誤謬性を指摘し、イエローへの導きを行なうことができます。イエローはまたエコとエゴの対立からも自由です。環境はイエローにとってもはや脅威ではないのです。それは生と死が脅威ではないということとも同義になります。

 

ここでお気づきかもしれませんが、イエローは、パープルから始まった環境との分離を Second Tierへのリープによりエゴ・エコの対立を克服し、ベージュ的な環境との一体感に再び回帰しています。このあたりの色の配置も非常に感心します。ベージュとは濁ったイエローであり、イエローとは輝くベージュとも言えます。ベージュの意識レベルにおいて人は動物のように環境と一体化しています。そのため個の意識は極めて希薄であり、生と死の苦悩もそれほど顕在化されていません。良く言えば、幼子のようなものです。そして個が意識され始めた瞬間から苦が現れてきます。知恵の実を食べた人間がエデンの園から追い出されたように、私たちは環境と対峙し始めます。パープルからグリーンにいたる苦難の道程が私たちの意識の成長とともに始まります。

 

私たちは環境との対峙において苦しみ、争いを繰り広げるのです。その苦しみと争いは歴史的にも展開され、一個人の意識的成長においても展開されます。ある人はパープルのまま一生を終えるかもしれません。またある人はオレンジとして人生をまっとうするかもしれません。あるいはグリーンかもしれません。いずれにしても私たちの生と死の苦悩が完全に克服されるには、少なくともイエローへの到達が必要となるようです。いみじくもキリストがこう言っています。「幼子のようになれなければ神の国に入ることはできない」。これはベージュに戻ることではもちろんなく、様々な苦悩や争いそして成長を経た上でのベージュ、すなわち輝いたベージュであるイエローになれという意味なのでしょう。仏教での悟りの境地もここに近いものかもしれません。私はこのようなイエローに想いをはせるとき、宮沢賢治「雨ニモマケズ」の次の部分をふと思い出したりします。

 

東ニ病気ノ子供アレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニ疲レタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ

 

集団からも個からも環境からも解放された人格(自我からの解放はまだ?)がひたすら人々に交わりながら暮らす。ここにイエローのあり方が顕在しているのではないかと思ったりします。なお、イエローの上にターコイズという色が用意されています。なぜこのような色が用意されているのでしょうか。これに関しては2つの予想を立てています。

 

一つは、イエローの短所を克服するためのターコイズ。イエローの短所としてもしあえてあげるならば、まだ自我の問題が残っているという点です。イエローのようになり得た人は、意識のある部分で「自分はイエローだ」というある種の選民意識が生じるかもしれません。自分は他の人々より優れているのだ、成長しているのだという意識は、自我から生じたものであり、非常に危険です。ややもするとその意識は人をFirst Tierに叩き落としてしまう危険性さえ持っています。その意味では、イエローにも退行が生じる可能性があり、まだ成長の余地が残る意識レベルということができます。このような(自意識の)落とし穴を克服することができれば、もはや退行のリスクさえもないレベルに到達することになります。それがターコイズなのではないかと思います。

 

もう一つの予想はこうです。このイエローというのは Second Tier の始まりに過ぎないという見方です。First Tier の始まりがベージュであったように Second Tier の始まりはイエローである。ベージュの次にパープルが生じたように、イエローの次にターコイズが生じてきた。パープルがレッドとブルーに分離したように、このターコイズも2つの方向性へ分離し、Second Tier における新たなるスパイラルを展開するのかもしれない。しかしながら、そのようなレベルの話は私たちの認識を越えていて想像することさえ困難である。このような意味ではないかとも考えています。こう考えると、私たちの意識成長の壮大さを垣間見るようで思わずため息がでます。(この議論の続きとして「成長の序列」をお読みください。)

 

このように述べると話がすっかり形而上学的になってしまいました。図示したりするとますますその感が強くなりますが、それでも一応、まとめの意味で最後に下記のように図示しておきます。

全色の文章による説明は、前回の文章に記載されています。

また、図1および図2もご参照ください。(2005/10/24追加)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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©2002-2003 Tsutomu Yonashiro

与那城 務

 

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