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スパイラルダイナミクス (2002/11/02)

 

Boomeritis』は、Ken Wilber による初めての小説形式による哲学書です。Boomeritis とはアメリカにおける「団塊世代の子供たちの世代」を総称する言葉のようです。1960年代から80年代に生まれた人々。つまり私たちのことです。この世代は、人類の歴史上はじめて多様な文化・民族・宗教・価値観・美的感覚などが混沌と入り乱れる状況を経験しているのだそうです。

 

アメリカにおいて黒人開放や少数民族の人権が尊重され始めたのは1960年代以降です。アメリカで鈴木大拙らにより仏教が本格的に紹介されたのも1960年代以降。それらがキッチュな方向へ増長し、ヒッピー文化やニューエージ運動が現われ始めたのは1970年代から80年代。文化人類学や教育学において文化相対主義や文化多元主義が主張され始めたのもそのころです。少数民族のスピリチュアリティーなどが注目され始めたのも同じ時代状況です。南北問題や新植民地主義といった議論が先鋭化されてきたのも80年代から90年代です。第三世界へのスタディーツアーが大衆化したのもこのころでしょう。Boomeritis世代が成人するに従い、彼らの(私たちの)価値意識が文化社会状況の主要となり始めてきたわけです。

 

すなわち、Boomeritis世代とは Spiral Dynamicsでいう「グリーン」の意識レベル (Green Meme)に相当します。90年代から2000年は「グリーン」が成人人口の多数となり始めた時代だそうです。

 

Boomeritis』は、「グリーン」である人々がいかに「グリーン的」であり、その「グリーン」がいかなる長所と短所をもっているのかを、アメリカ大学院生たちの生活を通して描こうとしています。主人公の「Ken」は MITでArtificial Intelligenceを研究する大学院生。彼は人間の内的意識構造を全てコンピューターにダウンロードしたいという夢をもっています。コンピューターが遺伝子の構造を解読するように、脳内物質がどのように感情をコントロールするかを解明するように、意識構造をコンピューターで読み取ることができたならば、人類のおける多くの不幸(対立や戦争など)を回避できるのではないかと彼は考えています。しかしふとしたきっかけで聴講した発達心理学の講義により、彼のそうした考えがいかに空想的かつ不毛であるかを徐々に悟るようになります。

 

少しずつ悟っていく中で、彼の典型的な意識レベルであった「オレンジ」と「グリーン」には2つの誤謬があることに気づきます。2つともフラットランド(平板な世界)という特徴で説明されます。1つは「意識とは平板で発展も成長もしないものだ」というフラットランド。もう1つは「価値はすべて相対的(平板)であり、どの価値観が別の価値観よりも優れているという階層的区分けは一切ない」というフラットランド。前者は「モダンフラットランド(オレンジフラットランド)」、後者は「ポストモダンフラットランド(グリーンフラットランド)」とも呼ばれます。

 

「モダンフラットランド」は科学主義からきた考え方です。そこでは精神的成長や人格的陶冶の意義や存在そのものが無視されます。知識の量的拡大が尊ばれ、知恵の質的深化は無視されます。そこでの幸福は「物質的に豊かになること」のみに限定されます。誰しもが富と地位と名誉と成功を追い求めます。他方、「ポストモダンフラットランド」は極端な価値相対主義・文化多元主義からきた考え方です。そこでは全ての価値観が相対化され、全てが相対化された中で対話や協調のみが求められ、何が正しいのかが曖昧になります。そのような状況では、人はいつのまにか依存・従属できる権威的価値を求めるようになり、同時にそのような「需要」を受けてカルト的宗教集団が乱立し始めます。

 

お分かりのように、「モダンフラットランド」とは「オレンジ」の短所であり、「ポストモダンフラットランド」とは「グリーン」の短所であるということができます。この2つの短所(誤謬)に気づき始めた「Ken」が「意識のダウンロード」という妄想から「本当の成長」への探求という覚醒に至ります(まだ読了してないのでわかりませんが「至る」はずだと思います)。

 

ごく大まかに説明すると以上のような話になります。ウィルバーの理論や Spiral Dynamics になじんでいる読者には非常に興味深く読める「小説」であり、また逆に言えば、読みながらウィルバーの理論的枠組みを再確認することもできます。ウィルバーは、私の論文の理論的枠組みにもたいへん影響を与えている人なので、この時期に改めてこのような「小説」を読む機会を得られたことは非常に幸運だったと思います。

 

ウィルバーの理論にしても Spiral Dynamicsにても、その前提になる見解は「意識(あるいはものごとすべて)には階層(レベル)があり、成長・発展により下から上へと、浅いところから深いところへと、後者が前者を『越えて含む』というステップを踏み、深化・上昇していく」という考え方です。これは一見特殊な見解であるように見えて実は普遍的な見方であることが、多くの哲学や心理学の理論を参照すれば確認できます。プロティノスやヘーゲルは言うに及ばず、ピアジェやコールバーグ、マズローといった心理学者たちの「発達モデル」に、容易に階層の特徴を見て取ることができます。美学においもてエリック・ニュートンやランガー、パノフスキーといった理論家たちが「美術作品における階層モデル」を論じています。なお、この「美術作品における階層モデル」は、知っていると作品鑑賞における理解度が断然違ってきます。

 

たとえば、あらゆる美術作品、特にそれが名作といわれるものであれば、次のような階層構造を包含しているといいます。

 

1) 感覚の領域

2) 実存の領域

3) 文化社会・相互主観の領域

4) 存在論の領域

5) 非二元論の領域

 

1番目は「感覚的に何が美しいか」という価値。色や構図や音色です。2番目は「作者の意図・生き方の反映」という価値。その作品にいかに作者の実存が表現されているかという価値です。3番目は「そのような作者の意図・生き方は、その者が属する文化・社会の産物である」という認識です。にもかかわらず「どの作品にも、個人の意図・文化社会の状況を超越した価値の優劣が存在する。どのような人間も・文化も・社会もいわゆる神的な存在を有する。そのような『普遍的なるもの』の作品への反映」。これが4番目の段階です。5番目は「そのようなすべての階層的区分け・言説化をすべて超越したところ」の価値です。(これは人間の意識の内面を表示するのに、Matter, Body, Mind, Soul, Spirit という5段階で表現されることにも対応します。これに関してはまた機会を見つけてお話したいと思います。)

 

作品に対峙した際、それを表面的になぞるだけでなく「作品の内面」を鑑賞しようとすれば、作品が本物であればあるほど、作品そのものが「鑑賞者からの内面への志向」に応えてくれるということです。「作品に階層構造が含まれている」ということは「作品に内面がある」ということです。よい鑑賞者とは、作品の外面ばかりでなくむしろ内面こそに目を向け、それを掘り下げることができる人ということになります。

 

そしてここで気づくことは、こういった作品鑑賞の姿勢がそのまま「人の理解」へ適応されるという点です(厳密に言えば「人の理解」が「作品鑑賞」に適応されたという順序なのでしょう)。「人を理解する」という行為は、それが真摯になればなるほど、外面ではなく内面への眼差しへと移行してきます。そして内面とは、それに触れたことがあれば分かるように階層的な奥行きがあります。人格の深みとは、すなわち「人間の意識における階層の奥行き」とも言えるかもしれません。たとえばモラルデベロップメントをモデルに説明してみましょう。モデルをごく大雑把に要約すると次のようになります。

 

1) 自我中心 (Egocentric)

2) 民族中心 (Ethnocentric)

3) 世界中心 (World-centric)

 

生まれたばかりの幼児はまだ自分と外界とを区別することできません。おもちゃをつかんだ手を前にして、手を噛むと痛いのにおもちゃを噛むと痛くのないのはどうしてなのかなかなか理解できないのが幼児です。そして少しずつ自分と外界とを区別していき、自我に目覚めるようになります。しかしこの自我は非常に自己中心的です。たとえば、5歳児に表が赤で裏が青のボードを示します。赤を5歳児の方に向けて「何色か」と尋ねると「赤」と答えます。そして「ではボードを示している私は何色を見ているか」と尋ねるとまたしても「赤」と答えます。つまり5歳児は他者の立場を考慮することができません。これが7歳児になると、他者の立場の考慮および論理的判断を経て「あなたが見ているのは青」であると正しく答えるようになります。7歳児以上(個人差はありますが)から「他者への思いやりが芽生える」と言うことができます。

 

しかしながら、その他者の範囲が“限定つき”にとどまるのが多くの人々のモラルデベロップメントなのだそうです。「民族中心」の段階で止まってしまうのです。ほとんどの人々は他者を愛することができるようになりますが、その他者とは「特定の他者(自分の気に入った人とか、自分のグループに属している人とか、自分の宗教・国籍・民族内の人とか)」に限られます。第3の「世界中心」段階へ人はなかなか到達できないといいます。実際、世界の多くの人々がこの第3段階のモラルデベロップメントに達し得たならば、世界からほとんどの戦争が消えてしまうというくらいですから。前回述べた「Love your neighbors」という聖書の言葉は「第3段階のモラルを実践しろ」というチャレンジでもあるわけです。

 

このように「作品」にしろ「人」にしろ、私たちが理解しようと対峙する様々なものが内面を持ち得るという事実があります。「内面を持ち得る」とは「意識において階層的内部構造を包含している」ということです。世界の大宗教のほとんどがこの点を指摘し、私たちに対して「内面にこそ目を向けるように」と教えています。ここではふれませんが、仏教にもヒンズー教にもキリスト教と同様、内面に対する深い洞察が説かれています。そしてこの「内面への洞察」こそ、「知識」とは異なる「知恵」への方向性であるということできます。量的増大ではなく質的深化への志向性です。

 

たとえば、円錐形の模型2つを底で合わせたような円盤状のモデルを想像してください。このモデルにおいて横幅がどんどん広がる方向、水平方向へ広がりは「知識の量的増大」ということができます。六法全書を丸暗記してもロケット工学に精通しても、円盤モデルが水平方向に拡大するだけで、垂直的深みには何の足しにもなりません。「知恵の質的深化」とは、円盤モデルでいうと、垂直方向へサイズを大きくしていくことになります。垂直方向への拡大においてこそ、内面の深みや高みへと成長していくことができます。その深みと高みにおいてこそ、私たちはいわゆる「価値判断」を下せるようになるわけです。

 

しかし科学主義がもたらした誤謬は、内面をすべて水平方向(外面)での言説化によって理解しようとしたことです。水平方向で内面を理解しようとしても、それは内面というよりもむしろ内部になってしまいます。解剖学的内部です。人間の頭の内部には脳がありますが、内面・外面という意味では脳は外面です。内部にある外面です。内面とは脳のことではなく意識のことです。

 

このあたりが誤解されてしまったために、意識を脳内物質で説明しようとしたり、人格的陶冶や基本的倫理観を全く無視するような道徳論が展開されたり、占い的な分類法で適当に性格分析が行われたりするわけです。これらに共通していることは「内面に全く目を向けていない」という点です。脳内物質も、社会システム論も、行動主義心理学も、価値相対的道徳論も、占い的パーソナリティー分析も、内面ではなく「外面(外部および内部)」における「知識の量的増大」であり「知恵の質的深化」ではありません。実際、こういった知識に精通した人が人格的に尊敬できる人なのかというと、必ずしもそのような対応関係にないという事実からも「内面と内部(外部)の誤謬」が理解できると思われます。

 

もとより人文科学とは、知識を量的に学ぶものである以上に、知恵を質的に学ぶことこそを尊び、そうした中で学ぶ者自身が成長していくべきものだったはずだと私は思います。それがいつのまにか実証科学的な方法論の影響からか(またはそのような方法論への憧憬からか)、実験対象を観察するかのごとく対象(人間)が観察され、観察により得られた知識が観察者の人格・人生に何ら影響を及ぼさないという構図が当たり前のようになってしまいました。しかし知恵の観点からみれば、人を真摯に理解することとは共有することであり、理解・観察する側とされる側との相互影響および内面的コミットメントを避けることはできないはずです。そのような関係を抜きにして理解できるものとはいったいどの程度のものなのでしょうか。

 

むろん、文化人類学も社会学も哲学も「対象との共有」という視点は常に論じられてきた課題ではあります。それでも大勢としては、私の知る限り、特に文化人類学や社会学は「自然科学的手法に学べ」という姿勢が一貫して拡大しているように感じます。いわゆる「オレンジ」の価値です。もちろん自然科学が私たちの物質生活にもたらした恩恵は圧倒的ではあります。しかしその圧倒的な貢献は、全てを自然科学的にさえ論じておればよいという理由を成立させる十分条件にはなり得ません。自然科学の恩恵を肯定しつつも、フラットランドを克服し「オレンジ」から「グリーン」そして Second Tier 「イエロー」へのリープは可能なのでしょうか。その辺りのことも今後じっくりと考えてきたいと思っています。

 

最後に Spiral Dynamics の各色(First Tier) を下にまとめてみましょう。(ウィルバーの著作 『A Theory of Everything』 からの抜粋・要訳)

 

なお、全色を私なりにまとめた図が、次回の文章の最後に示されています。

また、図1および図2もご参照ください。(2005/10/24追加)

 

 

1) ベージュ(原始的本能): 基本的生存欲求がこの意識の中心。個体に本来的に備わっている本能や慣習が無意識に駆使される。その慣習・本能の延長線上としての集団生活への欲求が存在する程度。集団生活の仲間意識も規範や理念やモラルではなく、単に本能と慣習によって維持される。食物の確保、住居の維持、生殖活動、身の安全が集団維持の動因となる。およそ数十万年前、ベージュが最も進化した意識のレベルであったと言われています。

 

例: 原始社会、幼児、痴呆老人、アルツハイマー末期、廃人化した浮浪者、餓死に瀕した集団。

成人人口の0.1%、指導階層の0%

 

 

2) パープル(呪術・アニミズム): アニミズム的・迷信的な思考が意識の中心。呪術・魔術的霊魂、運勢、呪い、呪文などが出来事を決定すると考える意識。集団が民族的部族集団へと発展する。そのため、集団維持の動因が、原始的本能ではなく、先祖代々の霊魂や親族同士の絆等に変化する。また原始的な政治形態が発生し、親族関係がその土台となる。一見「ホリスティック」しかし実際は単にアニミズム的な集団である。基本的に成員が没個性化した集団はこのレベルに属する。現代社会においても様々な集団においてこの意識レベルが確認できる。

 

例:呪い信仰、血の誓いによる儀式、先祖代々の恨み、幸運のお守り、親族儀式、呪術的・民族的信仰、民間信仰、迷信、第三世界的状況(極端な貧富の差の放置や市民社会への無関心・無責任等)、宗教的・政治的過激派、ギャング集団、ヤクザ集団の仁義、体育会的集団の伝統、会社集団および官僚的集団の没個性。

成人人口の10%、指導階層の1%

 

 

3) レッド(力の神): 民族部族的集団から初めて自我的個が出現する意識レベル。この自我は衝動的かつ英雄的な呪術神話的精神性をもつ。野獣などの神話的力への意志をもち、神々、全能の存在、全能の力が善悪を左右する世界観を保持。封建的君主が従順な民を守る構図。封建的帝国(権力と栄華)の基礎。世の中は恐怖と破壊に満ちているという意識をもつがゆえに、人生は常に戦いであるという認識にある。殺られる前に殺れという攻撃性。征服者や支配者になってこそ、幸福と満足を得られるという価値意識。

 

例: 反抗期の青年、開拓者精神、封建社会、叙事詩的英雄、アクションムービーのキャラクター、ギャングリーダー、軍隊、ニューエージーナルシズム、ロックスター。

成人人口の20%、指導階層の5%

 

 

4) ブルー(神の秩序): 人生には絶対的他者(神)に導かれた「意味、方向、目的」がある。神の命令が守るべき「絶対的規範」として示される。神の命令は善悪を指し示す唯一にして絶対なる規範。その規範を破ると過酷な罰が下される。信仰により規範に従えば、神からの祝福と導きがある。古代国家成立の基本概念。強固な社会階層と父権社会。唯一にして絶対なる視点が全てを決定する。法と秩序が人々の罪意識の隅々にまで行き渡る。いかなる解釈をもゆるさぬ具体的原理主義的信仰。秩序規範への服従。多分に慣習的かつ無批判に従順。しばしば(呪術神話的成員意識の観点から)「宗教的」・「神話的」と形容される。(自分たちの宗教から)きわめて聖的で絶対主義的である一方、(別の宗教からは)世俗的で無神論的となり得る精神性。

 

例: ピューリタン的アメリカ、儒教的中国、ディケンズ的イギリス、シンガポール的統制、全体主義、騎士道、慈善行為、宗教的原理主義(キリスト教やイスラム教)、ボーイスカウト、ガールスカウト、「モラルマジョリティー」、愛国心、教条化したマルクス主義。

成人人口の40%、指導的階層の30%

 

 

5) オレンジ(科学の達成): このレベルにおいて個は「ブルーの群集心理」から逃れることができる。真理および人生の意味を個人的・科学的に追求し始める。ここでの科学的とは、仮説演繹的、実験科学的、客観的、機械的、操作的な方法を意味する。世界は、合理的かつ自然法則によりコントロールされた精巧な機械であり、各自の目的に応じて学習、習得、操作できるものでもある。物質的利益への達成が目的となる。科学的法則が、政治、経済、その他の人間活動を左右する。世界はチェスボードであり、そこで展開されるゲームにより、勝者は卓越した成功を手にする。競争市場原理に基づき提携が結ばれる。地球上の資源は各自の戦略的獲得のためにある。「共同国家」の基礎。

 

例: 啓蒙主義、ウォール街、経済合理性、中産階級の理想、化粧品業界、トロフィーハンティング、植民地主義、新植民地主義、ファッション業界、物質消費主義、世俗的ヒューマニズム、自由主義的利己主義。

成人人口の30%、指導階層の50%

 

 

6) グリーン(敏感な自己): 共同体信奉者、人間の絆、生態環境への感受性、ネットワーキング、人間の精神は、貪欲、教義、分裂から開放されるべき。冷たい合理性に代わる感性と気遣い。大地を愛する心。階級の否定。横のつながりと絆の重視。関係を大切にする透明な自己。グループ間の調和と協調。対話と関係性の重視。「価値共同体(価値観の共有のみにより自由に加入が可能な共同体)」の基礎。和解と一致による決定機構(ネガティブサイド: 果て無しないプロセスと決定不可能性)。精神性の一新。調和と潜在性への敬意。強力な平等主義。多元的価値観。多様性、文化多元主義、相対主義的システムによる社会の構成。この世界観はしばしば多元主義・相対主義と呼ばれる。主観的、非直線的思考、この地上の全てに対する感情的な暖かみ、感受性、気遣い。

 

例: ディープエコロジー、ポストモダニズム、オランダ理想主義、ロージャ派カウンセリング、カナディアンヘルスケア、人間的心理学、解放の神学、生活共同組合、グリーンピース、動物愛護、エコフェミニズム、ポストコロニアリズム、フーコー/デリダ、人権問題一般。エコサイコロジー。

成人人口の10%、指導階層の15%

 

ここまでが First Tier と呼ばれており、現在の私たちの意識レベルはほぼこの6つでカバーされるといいます。各レベルの例示の下に「成人人口の何%云々」と記されています。これは Beckらが実際に様々な文化圏において臨床的調査を行ない割り出した数値だということです。他方で各国家においてレベルの分布にばらつきがあるという調査結果が出ています。

 

たとえば、アメリカ合衆国では「オレンジ」と「グリーン」(一部宗教的保守的地域では「ブルー」や「パープル」が多い)が主に見られる一方、(アパルトヘイトが公然化していた当時の)南アフリカ共和国では「パープル」から「ブルー」への分布の方が多かったといいます。むろん個人差はあるでしょうが、国民の多数がどの意識レベルにあるかということが国家体制や文化社会政治状況を左右し得る点は無視できないと思われます。スウェーデンなどの北欧の国ではベトナムや韓国・北朝鮮の孤児が多く養子として受け入れられているそうです。ここに北欧の人々において「グリーン」が多数を占めていると予想できるかもしれません。あるいはちょっと穿った見方をすれば、少子化高齢化社会が極端に進んだため「面倒みてくれるメイドを探しているだけ」という「パープル」の意識レベルがそこにあるかもしれません。

 

なお「グリーン」は「ブルー」や「パープル」に退化しやすい危うさをもつとウィルバーは指摘しています。同様に「オレンジ」も「レッド」に退化する危険を孕んでいます。世界貿易センタービルへのテロは「『パープル』(または『ブルー』)から『オレンジ』への攻撃だった」といわれています。このテロの報復として無差別空爆を行なうならば、それはアメリカ側の「オレンジ」から「レッド」への退化(報復は「レッド」の価値観)であると見ることもできます。

 

ここでお気づきだと思いますが、First Tier における特徴は各レベルが互いに憎しみ合っているという点です。「オレンジ」は「グリーン」の軟弱さに苛立ち、「グリーン」は「オレンジ」の冷淡な合理性を嫌悪しています。「オレンジ」は「ブルー」の盲目的信仰・狂信性を危険だと感じ、「パープル」の迷信深さを未開だと蔑みます。実際、「ブルー」と「パープル」とは一言でいうと宗教的権威性であり、その権威はしばしば残酷なかたちで顕現されてきました(魔女狩り・宗教裁判・あらゆる宗教戦争)。宗教のもつ負の部分をようやく克服できたのが「オレンジ」であり、「オレンジ」は過去の恐ろしくも残酷な宗教性の無知へ舞い戻るのはまっぴらであると考えているわけです。

 

他方、そうした啓蒙的救済として生まれてきた「オレンジ」も多くの負の部分を背負うことになります。それは20世紀に入り顕在化しました。産業革命による労働の非人間化や、2つの世界大戦による大量殺戮兵器の開発(特に核兵器や化学兵器)、大量生産・大量消費による環境破壊、産業的グローバリゼーションによる植民地主義と新植民地主義。それに伴う南北問題の先鋭化。構造的な貧困問題と人口爆発…。  教会の権威と迷信の呪縛から私たちを解放してくれた「オレンジ」が今度は自身の負の部分により私たちをさらなる深刻な問題へと陥れる結果となってしまったわけです。

 

そして20世紀後半、私たちは次なる意識レベルの登場を知ることになります。「グリーン」です。「グリーン」の最大の関心は、私たちを「オレンジ」の負から解放することです。したがって「グリーン」はあらゆる「オレンジ」の負にノーを唱えます。多国籍企業によるモノカルチャー(単一農作物の大量生産・市場流通システムの確立・徹底的な品種改良)への反対。産業的グローバリゼーションに伴う労働条件の悪化(第三世界における低賃金重労働・児童労働・市場独占・産業廃棄物の放置)等の改善への取り組み。大量生産・大量消費に伴う環境破壊への関心と改善への取り組み。経済合理性のために生じたあらゆる抑圧に対する関心と改善への取り組み。

 

お気づきのように、これらの取り組みはほとんど NGO活動のジャンルと重なります。その意味では「グリーン」とは NGO活動であると言えるほどです。そして First Tier においてこの「グリーン」は一応「最新の精神レベルである」という位置づけになっています。私たちの同時代とはすなわち「グリーン」により「『オレンジ』の負」を克服しようとしている時期であるといえるでしょう。

 

ただし、これは『Boomeritis』のメインテーマでもあるのですが、私たちはいま「『グリーン』の負」をも顕在化させ始めているといいます。「『グリーン』の負」として第一にあげられるのは、「オレンジ」を徹底的に否定するあまり「オレンジ」の貢献までも否定してしまい、結果として「ブルー」や「パープル」へ揺り戻しを起こしてしまう点です。環境保護を謳うあまりキッチュな原始的生活を実践しようしたりします。精神性を強調するあまり呪術的な迷信を過剰に賞賛したオカルトにはまったりします。全てのヒエラルキーを否定するあまり、精神や倫理の発達段階という「ヒエラルキー」までも否定してしまいます。それでいて宗教へは強迫的な関心を抱き、「グリーン的対話と協調」により様々な宗教のパッチワーク的な新興宗教を乱立させるはめに陥ります。価値を相対化させておきながら、価値への渇望はやみがたく、ブルー的(制度的)宗教とは異なる宗教小グループを設立します。このようなグループは NGO活動にも熱心であるという特徴をもちます。

 

このように例を挙げていくと明らかなように、南北問題や環境破壊といった「『オレンジ』の負」と同時に「『グリーン』の負」も私たちは背負い込むことになったのです。「『オレンジ』の負」が人間性への攻撃性や疎外といった特徴のゆえ「レッド」に揺り戻しが生じるならば、「『グリーン』の負」は精神性への渇望と価値相対化により「パープル」(または「ブルー」)へ揺り戻しを生じさせると捉えることができます。ウィルバーは、歴史上最も新しい問題である「『グリーン』の負」が更なる「イエロー」へのリープを妨げていると見ています。ただ逆に言えば、「オレンジ」から「グリーン」のときと同様、「『グリーン』の負」が更なるリープへの動因になるのではないかとも私は思います。では、Second Tier といわれる「イエロー」とはどのようなものでしょうか。

 

ちょっとした「内面への志向性」への話のみをするつもりでしたが、気が付いてみるとその志向性をさらに掘り下げた Spiral Dynamicsの話などを長々と語ってしまいました。冒頭に紹介した『Boomeritis』の読後感で知的に興奮していたからもしれません。上記、「イエロー」に関する説明をしようとしているところで筆を置きました。これは、ここから「イエロー」について語り始めるとまた数ページ費やしてしまい、きりがないと思ったからです。「イエロー」を論じるには、また稿を改めることにします。「イエロー」を語るにはもう少し「オレンジ」と「グリーン」、つまりモダニズムとポストモダニズムの功罪ついて論じる必要があるからです。次回にでも語ることができたならよいかなと考えています。

 

参考文献:

Wilber, Ken, Boomeritis: A Novel That Will Set You Free. Shambhala Publications, 2002.

Wilber, Ken. A Theory of Everytihng. Boston: Shambhala. 2000.

Wilber, Ken. Integral Psychology: Consciousness, Spirit, Psychology, Therapy. Shambhala Publications, 2000.

Beck, Don and Cowan Christopher. Spiral Dynamics: Masering Values, Leadership, and Change (Developmental Management). Blackwell Publishers, 1996.

Kohlberg, L. The Philosophy of Moral Development. San Francisco: Harper & Row, 1981.

Malsow, A. Toward Psychology of Being, 3rd Edition. John Wiley & Sons. 1998.

Newton, E. The Meaning of Beauty. London: Longmans Green and Co. 1950.

Panofsky, E. Studies in Iconology Humanistic Themes in the Art. HarperCollins. 1972.

 

 

 

 

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