日蓮正宗近代史 法道院 対 顕本法華宗との問答対決 |
高橋粛道師の御所論を取り込み、一応の校正が終わってアップし、書棚を整理していたら「法道院百年史」があった。この書籍はずいぶん前に法道院系のさる法華講員からお借りしたもので、当時掲示板で創賊がチンケな騒ぎをやっておったので必要になり無理を云ってお借りしたもので、重要なところはコピーしており、その後私はてっきりお返ししたつもりでいた。
私は慌ててその方に電話をかけて確認したところ、私のところの寺院の寺史が出来たら送ってくれるということで交換したものですから返さなくていいですよ、と云われてしまった。(汗;
ま、歳のせいかボケがまわっているようである。電話での話題に、ある資料が欲しいのでコピーしてもらえないかと云われ、もちろんふたつ返事で了解し、ようやく複写したので、札幌の代表的な石屋製菓の「白い恋人」といっしょに送ってあげよう。・・・賞味期限切れのやつを探してこようかな?。(笑)、
法華講の信徒で信心の鏡となる大信者の代表的な方に法道院の「内山ワカ」さんがいる。昭和中期から渋谷でキャバレーを経営して大繁盛したにもかかわらずある日商売を止めて信仰一筋の生き方をした方である。法道院の新築現場では自ら工事に参加し、夜になったら火事など起きないよう一人で夜回りまでやったそうである。本山では日達上人がお出かけになるときは必ず、さる坊の前で伏座してお見送りをしたらしい。
創賊が増えて塔中参道に創賊の団体が出張って日達上人を見送っていたら、ある坊の前にきたとき日達上人が「内山ワカさ〜ん」と数度お呼びになられたということである、創賊の列の後方にムシロの上に端座してお見送りをしていた内山ワカさんが、かぼそい声で「は〜い、ここにおります」と平伏して答えたということである。法華講員の鏡ともいうべき隠れた大信者である。
法道会を設立し単身帝都弘教に乗り出された日応上人は、明治時代後期に「ケンポコ宗派」と一戦交えており、応尊の大著作「辨惑観心鈔」に顕本の破折が記されている。ちなみに「御義口伝」の後加分は大聖人滅後百年頃のころに書き加えられたものと考えられている。御義口伝の後加分に、
「或はまた末代に於て経巻相承直授日蓮と申して、受持知識相承を破らんが為に、元品の大石が僧形となって、日蓮が直弟と申し狂える僻人出来し、予が掟の深密の正義を乱さんと疑する事あらん」(聖典・三七一頁)
とあるが、顕本日什が「経巻相承」の邪義を唱えだしたころと一致した時期である。明治時代の顕本法華との法論結果は顕本法華の惨敗に終わっているが、けだし当然の結末といえるであろう。
『法道院百年史より』
第三節 顕本法華宗との問答
[折伏教化戦の緒戦]
浅草時代の法道会が関係した大きな出来事のひとつは、顕本法華宗との問答である。
この間答について、当時、法道会に起居していた大石興道師は「明治三十四年本宗対顕本法華宗トノ法論起ルヤ、会ハ当時七軒町ニアリ、上人ハ時至レリト親ラ教陣二立タセラレ、後ノ日正上人日柱上人ヲ指揮サレテ、遂二最終ノ勝利ヲ結バレシ事ハ一般周知ノ事ニシテ、其時ヨリ法道会ナルモノ内外二知ラルヽニ至り、上人ノ徳二靡テ倍々信徒増加シ」(昭和十年十月、法道院落慶入仏式祝辞)と述べている。
すなわち、「顕本法華宗との法論が起こると、七軒町の法道会にいた日應上人は時至れりと感じられ、御自ら指揮をとられ勝利をおさめられた。それによって法道会の名も知られ、信徒も増えていった」(主旨)とされている。
また、「寺院寸栞」には「三十四年四月顕本法華宗本多日生師と本宗側は上人指揮のもとに阿部日正上人之と対論し大勝を博せるなど未だ世人の記憶に残る所である。此の問答に依つて同会の名漸く東都宗団の耳目を衝動せしめければ、同年八月徒弟早瀬慈雄房を幹事に、同大石興道房を理事に任命せり」とある。
顕本法華宗との問答が、法道会の折伏教化戦の緒戦であり、これにより活動のはずみがついたのである。法道会にとって極めて重要な問答であった。
[問答の始まり]
顕本法華宗は法道会が浅草小島町に移転する以前より、本多日生が中心となって日蓮主義を唱え、全国で盛んに活動していた。その中心は多くの人が集まる繁華の地で、顕本の有力寺院「慶印寺」、「妙経寺」などがある浅草であった。したがって、この方面に折伏の駒を進める富士派(法道会)との軋轢が起こるのも当然のことであった。
この顕本との論争の経緯ならびに帰結は、当時の現場を悉知する日亨上人が『富士宗学要集』第七巻に「富士と什門との問答記」と題し、七十五頁にわたって詳述されている。
『富士年表』によれば、法道院がまだ本郷西片町にあった明治三十三年十月六日、日應上人より日正上人(阿部慈照師)、日柱上人(土屋慈観師)が対顕本法華宗の全権委員を命ぜられている。このころすでに顕本との問答の前哨戦がはじまっていたのである。以後、日柱上人と顕本の田辺善知と数回の手紙のやりとりがあり、同十一月十一日、顕本の慶印寺において日正上人と顕本側委員との間で問答規約締結の会合がもたれた。
この締結にあたり、日正上人は「本宗ではすでに僧侶の三分の二以上の賛成、押印を得て、万一問答に負ければ改宗する準備ができている。顕本側も同様のことをすべきである。そうしなければ公的対論の意味がない」(主旨)と述べた。顕本側委員もこれを約束し、顕本側と十九条にわたる「討論規約書」が交わされた。
十二月十日、日應上人は法道会を本郷西片町より顕本田辺善知の住職する浅草永住町妙経寺すぐ近くの浅草小島町に移転され、さらに妙経寺から数十メートルの七軒町郵便局裏に移された。
ここに長屋住まいの富士派管長日應上人と、顕本教学の大家にして有力寺院の妙経寺に住む田辺善智が、正面きって対治することになった。日應上人のなみなみならぬ決意のあらわれであった。
締結後約一ケ月の明治三十三年十二月十五日、双方より討論準備委員が選出された。富士派からは日正上人(阿部慈照師)、日柱上人(土屋慈観師)、日満上人(秋山慈円師) の三師であった。
問答の準備はできたのであるが、顕本側は宗内與論の結集に失敗、そのうえ田辺は「顕本は一枚岩ゆえ、三分の二以上の押印は不要と阿部師に言っておいた」(主旨)などと食言をはじめた。
その後、顕本内の與論結集について、明治三十四年の正月を挟んで双方十数回の書状のやりとりがあった。このうち一月十五日には宗内の取り纏めに失敗し、周章狼狽した田辺が法道会に日應上人に面会を求めるなどしてきた。
[富士派と顕本の応酬]
同一月十七日、富士派は顕本の一本化困難により宗門としての対論を行うことが不可能と判断し、「貴宗委員は宗内三分の二以上の対論賛成者の調印を徹せざる故(中略)対論規約全部今般取消候」と対論規約の「取消状」を発送した。
顕本法宗対治・仏教大演説会の案内ビラ。 「法道会」の所見。 |
次いで、富士派は顕本側委員の無責任により問答が取消になった顛末を公衆に知らしめるため、間髪を入れず一月二十日江東伊勢平楼において大演説会を開催した。この演説会には弁士として有元広賀師(のちの大慈院日仁能化)、日正上人(阿部慈照師)、釈妙覚師(のちの法乗院日照能化)、日柱上人(土屋慈観師)が出席、討論準備委員である阿部師は対論中止の経過を報告、併せて「取消状」を発した理由を述べた。 日應上人は「顕本の者等は取消状を受け取って定めて茫然自失をしているであろう。故に彼等に研究の材料を与えるので明答せよ」と演説され、「富士派法道会員」名で「一品二半に二意あり熟れの配立を取るや」など七ケ条の質問書を印刷し、聴衆に配布した。 当日は五百余名の聴衆が集まった。そのなかに顕本の田辺などもいて大声で演説を妨害し、警官に叱られて多くの嘲笑をまねいた。富士派弁士は堂々演説し、閉会になるや参加者は「富士派万歳」を叫びながら散会した。その後、顕本側は対論の「請求書」などを出してきたが富士派は相手にしなかった。 二月十日、田辺は自妨の妙経寺において「富士派にげだし報告演説」を開いた。田辺は富士派の江羅直三郎氏に問いつめられた。また、日應上人が「法道会員」名で出した七ケ条の質問に対し論じ始めたので、出席していた日應上人は「問答を行おう」と演壇に上られた。聴衆は拍手をして「問答をしろ」と叫んだが、田辺は「身毛慄然として問答に応ぜず言を左右に托してこそこそ演壇を下りて遁走」(『日宗新報』明治三十四年二月十八日発行)した。 |
このころであろうか、大石興道師によれば、ある夜、日應上人は妙経寺の石塔の裏で田辺の帰寺を待って田辺を捕らえ、その邪義を破折されたという。 この後、日正上人(阿部慈照師)は一私人として問答を行うべく、顕本法華宗僧侶宛にその旨を書いた「印刷広告」をして配布したが、顕本側から応ずる者がなかった。 続いて、二月二十日正午より両国井生村楼において「顕本退治」と題し、顕本僧侶の質問を許す大演説会を開催するとして、顕本側に招待状を出した。弁士は釈妙覚師、日柱上人(土屋慈観師)、日正上人(阿部慈照師)などで、 |
これに対抗するために、顕本側は二月二十四日井生村楼において「顕本宗大勝利富士派敗北」という演説会を本多、田辺等が出席して開催した。当日は評語、ヤジ等を禁止する張り紙をし、質問も幹事を通じて行うなど実に臆病なものであった。日正上人(阿部慈照師)、日柱上人(土屋慈観師)は幹事を通じて質問を申し込み、また聴衆からは「質問を許せ」と叫ぶ者が方々に出たが許されず、途中で座を立つ者二百余名、きわめて低調な演説会であった。
[本多日生を引き出す]
富士派は顕本の首魁本多日生を引き出すために二月二十六日正午より、本多の住職する品川妙国寺近くの北品川町芳十亭において大演説会を開催した。場所がら顕本側は、本多以下多数の僧俗が集まった。聴衆三百有余名も九割方が顕本側の者であった。 日應上人は「私はかつて顕本の人に対して七ヶの質問を提出しているが、今に答弁がない。幸い今日は顕本の人達も多くいることであるから、これについて答弁をせよ」と促された。聴衆の手前尻込みもできない田辺は立ち上がり自説を述べたが、日應上人に破折され「このような間抜者は相手に足らず。今少し勉学して来たれ」と大喝叱責された。さすがの田辺も頻色が変わり、青菜に熱湯をかけたようになったという。 引き続き、日正上人(阿部慈照師)が「問答を望む切なる故に顕本僧侶に法義を指南す」という題で講演し、顕本側を挑発した。本多は怒りに常度を失って立ち上がり質問せんとしたが、日正上人(阿部慈照師)より「質問などと気取るより、対論をやったらどうだ」と促され、聴衆の前で引くに引かれず、三月一日に対論をすることを応諾した。また、このとき日應上人と田辺の対論も付帯して行う契約も交わされた。 ついに本多を対論に引き出すことに成功したの一てある。時間が来て閉会を告げられた本多は、怒って阿部師に突きかかり富士派幹事や警官に止められた。このことは黒岩涙香の主幹す『万朝報』に報道され、多くの人の物笑いになった。 |
翌日、双方が本所警察著に出頭し、問答実行の許可を願い出たが、不穏と認められ許されなかった。よって、相方の弁士それぞれ三十分づつ交代で演説することにして、許可を得た。
警察署に許可の願いを出したのは、明治三十三年三月公布の「治安警察法」によるものである。これには、集会に対しての制服警官の臨席(臨藍)や警官による中止、解散権が定められていた。
[伊勢平楼での公開問答]
顕本との問答が行われた両国伊勢平楼(隅田川を へだてた日本橋より望む) |
三月一日は朝早くより伊勢平楼前に聴衆が集まり始めたため、午前八時より入場を開始、九時三十分には満員になり入場を禁止した。会場は正面の一段高い所に演壇を設け、その左右には速記者席、記録者席、演壇の後方に弁士席、立会人・会主幹事席などがあり、聴衆席は場内を三分し、中央を局外者席、演壇より左側を富士派信徒席、右側を顕本信徒席とし、警官は場内各所に配列された。
対論は日正上人(阿部慈照師)と本多日生が二十分づつ交代で計十二席行い、のち日應上人と田辺が行うことに決した。本多の紫色の衣に茶錦の袈裟に対し、阿部師は如法薄墨の法衣に自五条の袈裟を付け堂々と論陣を張った。
日正上人(阿部慈照師)は本多の主張する経巻相承に対し、血脈相承の大事を論じ、道理、文証、現証の三証をもって本多を責めた。すなわち、血脈相承により富士派は日興上人以来法式にすこしも狂いがないが、顕本においては経巻相承なるゆえに本尊論、法義等、宗内の主義主張がまちまちである。この現証こそ経巻相承が邪義であることの証明であると論じた。
聴衆の本多に対しての拍手は治めから最後まで僅か一隅の人であったのに対し、日正上人(阿部慈照師)が登壇の際には「満場破るヽ計りの大喝采拍手を以て迎へられ、言々語々悉く感動を与へ言語の継ぎ目・論旨の要所に至れぼ殆んど耳を隔んずる百雷の一時に震ふ如く拍手の響き喝采の声、隅田長流の岸を隔てゝも尚聞へたりとぞ」(日亨上人の評論=『富士宗学要集・七巻三五三頁)という状況であった。
日正上人(阿部慈照師)最後の十二席目が大拍手、大歓声で終わり、聴衆が「富士派大勝利、顕本大敗北」と叫び始めたとき、本多はうろたえてもう一度演壇に登ろうとした。聴衆はこれに対し「聞くに及ばず」と叫び大騒ぎになり、臨監の警官は、午後三時、解散を命じた。したがって日應上人と田辺の問答も行われず、富士派大勝利のうちに対論は終了したのである。なお、後に予定されていた日應上人と田辺の閏答は「本尊論」であった。
[対論ののち]
対論ののち問答翌々日の三月三日、日應上人より平沢億太郎氏(のち大講頭)に対顕本法華宗法論勝利尽力につき賞状が授与された。同八月一日には由井幸吉(一乗)氏(のち総講頭)に「為対顕本宗問答勝利記念賞幹事尽力」の脇書のある日應上人御書写の板卸本尊が下付された。 この対論の三ケ月後、大石興道師から福島二本松の鈴木元助氏宛の明治三十四年六月三日付葉書に「今回本多日生等ノ一行、布教卜称シ錦地へ出向致シ候様、而シ是レ布教ト云ハンヨリ寧口弁解的名誉回復トデモ云ハン方適当ニテ、彼等ノ事ナレバ最早疾二出張致スナラント思シモ、今日迄延引致シ居リシハ、彼等如何ニ鉄面皮トテ敗北早々モ良心二恥ヂテノ故カ、甚余蘊ノ冷ムルマデ遂二今日出向致セシモノナラン」とある。 この葉書から、本多一行の二本松布教が大幅に遅れていたことがわかる。問答当事者の敗北のショックのほどがうかがわれる。なお、二本松には富士派の鈴木九兵衛氏を中心にする二本松講中があり、顕本には浅革の主要寺院慶印寺の末寺蓮華寺、本久寺があった。 |
田辺善知はのちに『日蓮聖人の本尊論』を著したが、その序に「明治三十四年十月六日、自分の住職地、東京浅草永住町妙経寺の木像式本尊を、文字式大漫茶羅に改正したことがある」と述べている。敗北の半年後、自分の寺の最も重要なものである本尊を自ら改正せざるを得なかったのである。
また、ほとぼりが冷めるのを見計らって、大正六年一月二十一日、田辺善知は性懲りもなく大崎会館において日蓮正宗の教義について批判の演説を行った。日應上人は同二月二十四日、田辺の愚妄に対する弁駁の演説会を大崎町倶楽部で開催、三月四日には荒木清勇氏主催の同様の演説会が開かれた。
教義的な正邪に加えて、この間答で富士派が大勝利した原因は、僧侶においては日應上人を中心にした諸師の臨機応変の判断の早さ、的確さ、また本多を問答に引っぱり出すなどの作戦の巧みさにあった。また、信徒においては日應上人の指導のもと篤信を常時数百名余結集して一致団結行動し、演説会などを盛り上げる実力があったことである。
日應上人の教化、指導のほどが偲ばれる。
※『法道院百年史・81頁〜90頁』