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【韓国】『日王ヒロヒトは卑怯な戦犯だ』

1 : 名無しさん: 2010/10/18(月) 1:23:43
ブックス新刊紹介
『日王ヒロヒトは卑怯な戦犯だ』
'10年10月9日3時1分
韓国 chosun.com chosun.comブックス
朝鮮日報 李漢洙(イ・ハンス)記者
http://books.chosun.com/site/data/html_dir/2010/10/09/2010100900221.html
※日本語機械訳意訳

ヒロヒト評伝

ハーバート・ビックス著/オ・ヒョンスク翻訳/サムイン/944ページ/3万5000ウォン(約2550円)

『実際は戦争に積極的・・・彼が「無力な君主」に変わったのはマッカーサー司令官の政策のため』

日王ヒロヒト(裕仁・1901〜1989)は、
第2次世界大戦が日本の敗北で終わった後も、1946年の東京戦犯裁判で起訴されなかった。
日本陸軍と海軍が主導した侵略戦争で、
彼は受動的に流されれていった無力な君主だった、というのが理由であった。
これが現在の日本人が持っている一般的な認識でもある。

しかし、米国ハーバード大学の博士で、30年以上に亘り日本史を専攻し、
日本の一橋大学の教授も務めたハーバート・ビックス(72)ニューヨーク州立大学ビンガムトン校教授は、
このような「常識」は完全な虚構だと指摘する。
彼は、満州事変から中・日戦争、
そして太平洋戦争に繋がる日本の侵略戦争の拡大過程において、ヒロヒトは戦争に同意し、
事後裁可を行い、重要な局面で積極的且つ主導的な役割をしたと主張する。

写真
http://books.chosun.com/site/data/img_dir/2010/10/09/2010100900221_0.jpg

満州事変当初はヒロヒトの裁可なしで起きた。
1931年9月18日、関東軍は、日本が運営する南満洲鉄道の路線を
わざわざ爆破する自作劇を通じ、満州侵略を本格化した。
事件直後、関東軍司令官の本庄繁は独断で攻撃命令を下し、主要戦略拠点を掌握した。
引き続き関東軍は、
朝鮮駐屯軍を増援部隊として、鴨緑江(アムノッカン)を越えさせて満州に送ってほしい、
と東京にある参謀本部に要請した。
この問題に対し、3日後に東京で内閣会議が開かれている時、
朝鮮駐屯軍司令官の林銑十郎も、やはり独断で部隊に国境を越えることを命令した。

2 : 名無しさん: 2010/10/18(月) 1:24:15
参謀総長の金谷範三は、直ちにヒロヒトに対し、
現地司令官が裁量権を発揮し、このようなことが起きたと報告した。
「大元帥」である日王の統帥権者を侵害したことに対し、ヒロヒトは
『今回は仕方ないが、今後は注意しなさい』と話した。
しかし、以後続いた戦勝の報告に鼓舞されたヒロヒトは
『もし必要であれば、私は事件が拡大することに対し、同意もし得る』と話した。
翌年には「勅語」を通じ『皇軍の威力を国内外に宣揚した』と関東軍を賞賛し、
以後数年の間、満州事変に功績がある軍人、および官吏3000人に勲章を与え、昇進させた。

中・日戦争は、ヒロヒトが積極的に主導した戦争だった。
戦争の契機になった蘆溝橋事件は、満州事変の時と同じく、現地の部隊長の独断で勃発した。
しかし、ヒロヒトはこれを事後裁可し
『中国軍を膺懲し、主要地域を安定せしむるに任せよ』という勅命を下した。
国際法で禁止された化学兵器の使用を指示したのもヒロヒトであった。
彼は1937年7月28日、化学武器使用を初めて許可し、
宮中に設置した「大本営」を通じ、毒ガス使用を375回以上許可した。

ハワイの真珠湾への空襲はヒロヒトの作品と言っても過言ではない。
ヒロヒトは1941年10月、強硬な対米戦争論者の東条英機を首相に任命した。
開戦を反対した前首相の近衛文麿は、後日このように述懐した。
『私が総理大臣として陛下に開戦の不利を申し上げると、
すぐにそれに賛成され、翌日御前に出て行くと、若干戦争に傾かれていた。
それからは、より一層戦争論側に傾かれた。
唯一の支えである陛下が、
このようにお出になったのでは、到底いかんともし得なかった』


3 : 名無しさん: 2010/10/18(月) 1:24:50
ヒロヒトが終戦後「君臨すれども統治せず」
の英国式の立憲君主のように、自らを装うことができるようになったのは、
東京に進駐した連合国総司令部(GHQ)のマッカーサー司令官の占領政策と合致したためだ。
マッカーサーは『すべての日本人は天皇を信頼しているので、
心理戦のために彼らの信頼を逆に利用しなければならない』と判断した。
マッカーサーは、ワシントンに『天皇は日本人統合の象徴だ。
彼を起訴すれば途方もない混乱が起きるだろう。
天皇を傷つければ、優に100万の軍隊が必要になり、
その軍隊を無期限に維持しなければならなくなるだろう』と報告した。

著者は、当時の文書や主要な人物の日記や回顧録など、
膨大な資料を渉猟し、断固たる評価を下した。
『ヒロヒトは日本帝国の膨張を主導し、2000万人近いアジア人、310万人を超える日本人、
そして6万人を超える連合国の人々の命を奪い取った戦争へと国家を追い遣った。
彼は、数多くの命を奪い取った侵略戦争を起こした罪を、一度も認めなかった。
彼は、近代の君主の中で最も率直になれなかった人々の仲間入りをした。』

この本と、日本の良心的知識人で、日帝の侵略戦争を強く批判しながらも、
日王はまともな戦況の報告を受けられず、受動的に流されて行ったとする、
半藤一利の「昭和史」(ルビーボックス)を比較してみるのもよいだろう。
事実(fact)に対する評価が、このように明らかに分かれるのは、
敗戦当時、日帝が戦争に関連した主要な文書をすべて廃棄したことも理由の一つであろう。
ヒロヒトは、11才の時から日記を書いていたと伝えられている。
しかし「ヒロヒト日記」は、
日本の宮内庁に非公開として所蔵されており、一度も公開されたことがない。

4 : 名無しさん: 2010/10/18(月) 6:01:51

【韓国】李奉昌義士がヒロヒト日王を爆殺しようとした義挙の現場は桜田門ではない

『イ・ボンチャン(李奉昌)義挙の現場「桜田門」ではない』
チェ・ソミョン(崔書勉/本名:崔重夏)国際韓国研究院長『警視庁の玄関先・・・日帝が歪曲』
記事登録:'10年10月10日午後7時58分17秒
記事修正:'10年10月11日午前8時39分6秒
韓国 www.hani.co.kr ハンギョレ THE HANKYOREH
東京/文・写真:キム・ギョンエ記者
http://megalodon.jp/2010-1018-0353-40/8147.teacup.com/1111/bbs?OF=0&
※日本語機械訳意訳

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イ・セヨン先生記念事業会事務局長
'10年3月29日22時44分8秒
韓国 koreatimes.com 韓国アイドットコム
インターネット韓国日報 KOREATIMES.COM イ・ワング記者
http://megalodon.jp/2010-1018-0541-03/8147.teacup.com/1111/bbs?OF=0&
※日本語機械訳意訳

5 : 名無しさん: 2010/10/22(金) 2:05:26
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【韓国】戦犯日王・・・反省表明のない汚辱の歴史

グローバル
[世界のロイヤルファミリー]戦犯日王・・・反省のない汚辱の歴史
ヒロヒト天王、「反省」の表明をしたことがない
'10年10月20日11時23分46秒
韓国 etoday.co.kr プレミアムOn-Off経済紙イートゥデイ
キム・ドンヒョ記者
http://www.etoday.co.kr/news/section/newsview.php?SM=3199&idxno=368570
※日本語機械訳意訳

日本王室の近代史は、戦犯としての汚辱の歴史だ。

帝国主義時代の戦犯 ヒロヒト日王(昭和天皇)の「反省」は相変らず論議の火種だ。

戦犯としての責任を持った、当時の王としての歩みが問題となった、
また彼が死亡した後にも、日本の王室に対する世界の疑問は相変らず弱まることはない。

ヒロヒト日王は、1901年に生まれ、124代日王に即位した後、
日本帝国主義の野心で自身の存在を表わし、
日本国民とって「神」に等しい存在として君臨した。

しかし彼は、広島と長崎に対する米国の原子爆弾投下によって、
1945年8月15日のラジオ談話を通じ、
降伏と同時に現人神としての神格を否定する人間宣言を発表する恥辱を体験する。

また、日王が暮らす新宮の前を通りながら頭を下げ、
実際に王を見たり、声を聞くことができなかった日本人たちに、
王の人間宣言をはじめとし、強大国と巧みに渡り合い、
肩を並べていた日本に対する原爆投下と降参宣言は「衝撃」であり、「破格」だった。

6 : 名無しさん: 2010/10/22(金) 2:06:20

写真
http://imgsvr.e-today.co.kr/10/10/20101020111858_sorahosi_1.jpg
▲日本の124代天王ヒロヒト。(写真提供アジアパシフィックジャーナル)

しかし、一部ではヒロヒト日王のこのようなラジオ談話の真正性に疑問を持つ者もいた。

当時、ヒロヒト日王が日本軍の統帥権を持った元帥であり、
海軍の最高指揮官の地位にあっただけに、戦争責任を負っていることにもかかわらず、
戦犯裁判にかけられることもなく、1945年8月15日発表した、
いわゆる玉音放送と呼ばれる800字の終戦の詔書(大東亜戦争終結に関わる詔書)にも、
「敗戦」への言及を見つけることができないというのがその根拠だ。

もちろん、彼が戦犯裁判にかけられることがなかったのは、
日王の戦争責任と処罰に対する論議の末、
マッカーサー将軍が、日本に王を存在させることは有利だという判断をしたためと知られている。

しかし、一部の日本専門家たちは、
日本の王室が戦犯の責任を、すべて軍部に転嫁しようとした意図のためだと主張した。

実際に、ヒロヒト日王は終戦の詔書で、
『朕は、深く世界の大勢と帝国の現状を鑑み、
非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。
朕は、帝国政府をして、米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨を通告せしめたり』とし、
『曩に米英二国に宣戦せる所以も亦、実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出て、
他国の主権を排し、領土を侵す如きは、固より朕が志にあらず』と言及している。


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