尖閣諸島の領有権問題


senkaku−note・尖閣諸島問題 V
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   4.2日本湾
支配権の検討 ――将軍の海
 現在、東支那海と呼ばれる水域(沿岸水域を除く大半)の支配権が、近代前には、日本・琉球にあったのか、ある
いは中国にあったのかを検討してみよう。比較してみて、どちらの方がより広汎に権利を行使していたかということに
なる。 
 この海がどちらの海だったのかを検証してみよう。 
 先述したように日本近海は、世界的に見ても波の荒い海であった。容易にはのりこめない海だったのである。中国
人は、琉球へは重洋を越えて行くという表現をよく使っている。重なる洋、つまり大洋である。台湾海峡以北は、荒々
しい海であった。これは西洋人も、認めている。荒々しい海のなかに琉球と日本は存在していたのである。 
  
  ☆ 日本湾
 過去のオランダの史料の中に「日本湾」がでてくるのをみかける。東支那海を指してこのようにいっているようにみ
える。この「日本湾」とは日本に属する水域を示すのであろうか。それともただの慣用的な表現なのだろうか。 
  
  ☆ 日本湾の出て来る史料 
 「日本湾」が出てくる史料を二つほどあげてみよう。 
    ☆フォールマンの航海記録 
 「和蘭風説書集成」をみてみよう。これは阿蘭陀風説書をまとめた本である。新任のオランダ商館長の報告を通詞
がききとりまとめた文書が、長崎から江戸におくられたのである。オランダ船が毎年、くるたびに、これは作成され
た。 
 集成の冒頭に紹介されている航海記録がある。1826年に、日本に来航した船長フォールマンの航海について記
録である。これはバタビヤ文書館に所蔵されている。 
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バタビヤより日本に向かふには、六月十四日より同月二十日の間を最適の時期とする。バタビヤを出づれば数千の
島嶼の散布するを見る。……マツクルス・フイールド・バンクといふ珊瑚礁に到る。これより支那海に入り、やがて台
湾海峡をすぎて、日本湾Japansche Golfに入る。この辺は六月、七月、八月のうち、時に強烈な南西風が吹き、
驟雨が西方及び西北西より来る。東北東に女島列島をみる。この島は北緯三十一度五十八分東経百二十三度四
十三分に位置し、日本の西南岸を探むるに好目標である。……(-14)−−和蘭風説書集成上巻 日欄学会法政蘭
学研究会 昭和五十二年 
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 台湾海峡をでれば、そこはJapansche Golfである。 

  ☆バタビィア城日誌(1640年分)
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「九月十五日には、ジャンク船グーデ・ホープ……日本に派遣せしが、すでに日本の湾に入りて暴風に遭い難航のロ
ーフェス島Roversにおいて難破せり。ただし乗組員及び積荷は無事なりき」(-38) 
――バタビィア城日誌2                   △ 
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 台湾海峡を越えて入った水域で遭難したのである。日本の湾というのは日本湾のことである。日本の特定の湾を
指すものではない。 
  
  ☆ シーボルトの見解
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六月の後半に於いてバタビィアより日本に赴くべき船は帆を上げて出発す。其の航路はバンカ海峡を通り、支那海に
入り、臺灣海峡を過ぎて日本の海に入り。ここにて指南のために女島列島を捜り、それより日本の海岸に舵を向け…
… 
――シーボルト日本交通貿易史  呉秀三訳注         △ 
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 シーボルトは台湾海峡を挟んで南が中国の海であるといい、北は日本の海としている。日本湾と同じ意味であると
解釈してよい。ここを日本の前庭とみなしている。 
  
  ☆ ボルトガルの地図にでてくる琉球海 
 ポルトガルの地理学者であるディエゴ・オーメンの図△をみてみよう。半島のようにかかれた日本の西方に、mare
 leucorum=琉球海と記されている。ここでは琉球海となっている。日本湾ではないが……。 
 来航したポルトガル人の報告によって作成された図と考えられている。日本の姿は曖昧だが、南西諸島の形状は
比較的正しく描かれている。日本よりもレキオ=琉球の方がポルトガルには、先によく知られていたことがわかる。オ
ーメン系の地図はこうなっていることが多い。彼の父はロポ・オーメンである。 
  
  ☆ 湾の意味 
 とくに「湾」ということには、当時、国際法上、大きな意味があった。 
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 1603年、スチュアート王朝の登場により英国沿岸海の外国人漁業排除を目標とする強硬政策が採用されたので
あった。かくして1609年の有名な漁業宣言が発せられ、英国沿海のオランダ漁業に課税する政策が推進しはじめ
られた。オランダはこの措置に対し、「国際法上国王は湾をのぞいて大砲の射程距離外の海を支配できない」と抗議
した。 
――「領海制度の研究−海洋法の歴史−第三版」 高森秀雄著△ 
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「湾」は支配できるのである。 
  
  ☆ 日本湾とはどこからどこまでか
 今日いうところの東支那海全域が日本湾なのであろうか。 
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ひがし‐シナ‐かい【東支那海・東―海】 
(East China Sea) 中国の東方、北は揚子江河口から南は台湾海峡に至り、東は日本の南西諸島に至る間の海。概
して水深二百メートル以内の浅海で、潮汐の差が大きい。東海。 
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 日本湾といういいかたをするにしても、法的に意味を持たせるためには、日本の領土で囲まれた範囲でなければな
らなかった。中国の沿岸まで含むのはいかにもまずい。オランダは擬似的に見立てたのであろう 
 当時、朝鮮を日本の保護国であるとオランダはみなしていた。半架島、尖閣諸島、南西諸島、九州、朝鮮半島など
をつなげば「弧状の湾」ができる。東支那海全域をさすのではなくて、朝鮮(ここも島なのか、あるいは半島なのかと
いうことがなかなか判然としなかった)と、九州から琉球に属する島をあわせて、湾をなすとみているようにも思えない
こともない。 
 しかしやはり厳密に定義されたものではなく、台湾海峡を越えれば、「湾状」の海が広がり、歴史的経緯から「日本
湾」と呼ばれていたと解する方が正しいように思う。 
 参考のためにノルウェー湾をみてみよう。ノルウェーの湾も日本の湾も今日では消えてしまっているのだが……。 
  
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 「13世紀末にノルウェーはグリーンランドからノルウェー海岸までの北方海域全域の領有を主張し、外国船が許可
なしにこの海域を航行するのを禁止したのであった。アイスランド、フェロエ島、シエトランド諸島、ベルゲンを結ぶ線
以北の海域であって(中略)ノルウェーの領地で取り囲まれた巨大な湾であると、古くから信じられてきたのであっ
た」――領海制度の研究―海洋法の歴史―「第三版」 高林秀雄  
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 このノルウェーの湾は、勿論、存在しない。しかし存在が長く信じられてきた。近代になるまで外国船はこの海域を
殆ど通過しなかった。だから既得権のようになり、イギリスさえ抗議せず暗黙の内に認めていた。長期に渡りノルウェ
ーの支配が容認された。湾であるから所有できるわけである。たぶんノルウェーはノルウェーの湾が実在しないこと
は知っていたであろう。しかし他国の誤解を解こうとはしなかったと思われる。ノルウェー湾はノルウェーの領土で囲
まれていると思われた水域である。日本湾という言い方をすれば、同じ意味が与えられる。 
  
  ☆ 共有の海
 ローマ法大全においては「自然法によって空気、流れる水、海および海岸はすべての人にとって共有である」とされ
ていた。ローマ法が後世に与えた影響は大きい。 
 これはローマ法に特異な考え方とすることはできない。普遍性をおびた考えだったと思われる。中国皇帝も、空気
や流れる水、そして大洋を自分の所有物だなどと考えたことはなかった。普天の下王土に非ざるはなしというのも王
化の及ぶ地についての考え方であったことはいうまでもない。 
 もっともどこの国も陸地に近い海については管轄権をもつことを自明の理としていたことも間違いない。それは陸地
の延長であるというような捉え方になるであろう。 
 海は共有であるという考え方は変化していく。 
 ポルトガルとスペインは、七つの海を、両国で分割しようとした。経度によって勢力圏を設定しようとした。ローマ法
王は、1493年、二国が世界の海を分割することを認めた。これに対してイギリスとオランダは、海洋自由の原則を訴
え、激しく反撥した。この二国は非カトリック国でもあった。この当時、経度はきちんと測定できなかったので、曖昧な
「分割」になっている。 
  
  ☆ 海洋主権論
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オランダの最高裁判所の長官バインケルスフーク(1673−1743)が18世紀初め「国の支配権は、武力の終わる
ところで終わる」と定義、沿岸国が支配し得る海の範囲を、当時の大砲の着弾距離である三カイリと主張し、これが大
勢となった。こうして「海洋自由の原則」は「公海自由の原則」に変わった。 
――海洋分割時代 −200カイリと国際新秩序 △ 
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 日本湾とオランダがいいはじめたころは領海三カイリの原則などはなかった。海洋自由の原則をとるとオランダやイ
ギリスは主張していたのである。 
  
 ☆ 略奪の世紀
    ☆ オランダの海賊行為
 17世紀初頭において平戸オランダ商館には大量の捕獲物資が運び込まれていた。これは「海賊行為」(中国沿岸
の襲撃)によって奪い取った物であるが、そのまま輸出されていた。モルッカ諸島の香料貿易を支えていた。 
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当時平戸では多数の日本人がオランダ船の水夫や兵士、下士など、戦闘要員として連合会社に雇用され、モルッカ
諸島やアンボイナ島、あるいは東インド政庁の所在地バンタン等に送られていたこと。またオランダ船の修繕や装備
の強化、鉄砲、弾丸、刀剣等の調達に日本人の手工業技術が利用され、平戸が連合会社の極東における海軍工
廠としての役割を担っていた。 
−−17世紀前半の南シナ海交易圏と平戸/異国と九州 △ 
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 今日の目からみると凶悪な「海賊」行為なのだが当時のオランダやイギリスは悪いとは思っていない。海賊行為が
収益源であった。オランダの海賊行為は猛烈なもので、これを自由に許せば、琉球が単独で行う貿易は続行が不可
能な状態においこまれただろう。オランダは容赦なく中国船を襲撃している。また中国沿岸部に対する襲撃も頻繁に
行われていた。 
  
  ☆ オランダとの条約  ――日本が支配権を主張する海域
 長崎出島オランダ商館日記1689年4月8日の条に次のように記されている。 
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「(江戸城内において)……そこからただちに大広間の下級参事官の前に導かれた。かれらは……私に古い皇帝の
命令を読み聞かせた。それは五ヶ条に分かれており、私(商館長ウィルレム・ファン・オウトホールン)は通訳を通じて
一つ一つよく理解することができた。その内容は次の通りである。(中略)……五、日本において貿易を行うシナのジ
ャンクを海上で掠奪したり、損害を与えたりしないこと。これはコレアのジャンクおよび琉球についても同様であって、
これはかれらが日本の臣下だからである」(-141) 
――東洋文庫132 朝鮮虜囚記・朝鮮国記   
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 将軍はオランダ人を引見した。そしてその際に条約を「よみ聞しむ」のが慣例となっていた。幕府は琉球船に対する
海賊行為をとくに厳しく禁止している。オランダ人だけではなく、ポルトガル人にも伝えられたであろう。 
 琉球船は一度もオランダやポルトガルからの攻撃をうけていない。これは日本が保護下におくと通告していたから
である。オランダに襲撃をやめさせることができるのは日本しかないわけである。オランダ船の襲撃から琉球船を守っ
ていたのは幕府であった。琉球船の行く航路の安全を保持しているのは後にいる幕府の力なのである。日本が禁止
しなければ、容赦なく海賊行為にさらされることになる。琉球の人的資源は限られており、毎年船が攻撃をうけ戻って
こなければ、二、三年で回復困難な打撃をうけるはずである。中国への来航は不能になるであろう。幕府が琉球船
の保護、つまりこの水域の管轄権を主張したからこそ、琉球の通商は可能となっていたのである。島津の琉球入り
がなければ、この通商は杜絶したであろう。 
  
  ☆ 拿捕の禁止
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中立水域においては、拿捕などは禁止されていた。が、ながらく拿捕の禁止は沿岸砲台の射程範囲しかも現実に存
在する砲台の範囲に限定されるのが一般的であった。 
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 拿捕の禁止水域が広範囲に広げられるのはオランダにとっては困ったことであった。幕府から日本水域以外におい
て、「海賊行為の禁止」を指示されることは容認できないのである。要請にこたえて、海賊行為をやめるのは、日本の
支配権を認めたことになると考えられる。オランダの国是としていた海洋自由の原則に反することを認めねばならなく
なる。結局、「日本湾」という言い方をすることにしたのであろう。整合性をたもって行動しなければならないのであ
る。 
  
  ☆ 湾について――グロチウスの見解・自由海論 
 「海のいかなる部分も一国民の領域と考えることはできない」と、オランダの法律学者グロチウス(1583〜1645)
は、オランダ政府の意をうけて執筆した書籍のなかで記している。しかしすぐにこう限定する。「ここで問題となってい
るのは、この大洋の湾や、海峡でも、岸から見渡せる範囲の海でもない」。「問題になっているのは外海、すなわち大
洋である」。「海の入江の部分を除いて、いかなる国家も海自体の所有権を獲得できない」。 グロチウスも、入江や
湾は所有できるとしている。しかし他者を排除することは許されないともしている。無害通行権を認めているということ
であろう。 
 グロチウスは日本湾を知っていたであろう。オランダにとっては当時、大産銀国の日本との交易は死活的に重要だ
ったからである。 
 自由海論が長らく公刊されなかった理由もここにあるのではないかと想像できる。矛盾が生じるからである。どうい
う根拠で将軍の要請を受け入れるかということである。法的整合性を保たねばならないのだが……。 
  
  ☆ 唐船の保護 
 暹羅船も唐船と日本は呼んでいた。現地に住む中国の商人が暹羅から荷を送ってくるのである。実質的には中国
人と交易しているからである。東南アジアのあちこちから唐船はやってきた。日本に向かうこれらの交易船をも攻撃し
てはならないと言渡されていた。唐船は「いつ地にて逢うとも」というようには限定されていない。どこで攻撃してはい
けないのであろうか。やはり日本湾内部での攻撃がまずいわけである。 
 次のような記載がバタビィア城日誌にある。1644年のことである。 
「スヒップ船デ・フレーデは、広南より日本に向け航海せしジャンク船一艘を捕獲せり」。この捕獲は澎湖諸島以南で
なされたことである。幕府の禁令を守る方針をとることになっていたと思われるのに、平気で拿捕するのは、日本の
水域外、つまり日本湾の外でのことだからであろう。台湾海峡より北では拿捕はしなかったと思われる。 
  
  ☆ コレアと琉球
 コレアの船を襲撃しないようにいうのはいいとしても、臣下であるというのは事実に反している。幕府がそういったの
ではないだろう。琉球の船に対してもコレアの船に対しても海賊行為を禁止し襲撃をさしとめるようにと言渡したため
に、この商館長が同列であると受け取ったのだろう。幕府の意図は善意であったろうと思われる。日本の将軍が琉球
とコレアを完全に守ったことになる。中国皇帝には守る力がないのである。言渡しは船への海賊行為の禁止だけで
はなくて、当然のことではあるが、琉球国や朝鮮沿岸への襲撃も禁止したものとなっている。 
 この「条約」はよく知られていた。 
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オランダ東インド会社の社員が1689年に日本の首都江戸に向かった時の旅行の日誌の中に、私は日本の宮廷が
会社の人々に対してコレアや琉球諸島は日本の臣下であるので、そこから来る船を襲撃したり、損害を与えるような
ことはしないようにと要求したことを発見した。……この民族が、今日でも若干日本に対して服従していることがよくわ
かる。――朝鮮国記―「北および東タルタリア誌より」―  ニコラース・ウィットセン 生田滋編訳 △ 
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 こうした記述が、これらの史料を読んだ西洋人には、コレアと琉球が日本の属領であるという認識をいだかせた。日
本の海では勝手なことができないということになっていた。 
 1713年には必要性がすでに薄れたので、幕府は禁止の対象としてコレアははずしたのであろう。オランダの海賊
行為はおさまっていたからである。 
  
  ☆ 条約を守るための対応措置――.1621年のオランダの通達
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3 陛下の領土内においては、日本船であれ、中国船であれ、またポルトガルのフレガート船であろうと、如何なる船
舶に対しても絶対に海賊行為を働いてはならずまた、これにいささかの損害も与えてはならない。 
――異国と九州 歴史における国際交流と地域形成 地方史研究協議会編 
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 1621年にオランダはこう通達していた。陛下というのは将軍のことである。陛下の領土内というのは港のなかだけ
ではない。日本周辺の海においても禁止したのである。しかしそれはどこまでなのであろうか。勿論、日本湾であろ
う。 
 これ以前に、日本の港にとまっているボトルガル船を攻撃して錨をきれとオランダの本国政府が命じたことがあった
が、インドネシアや日本にいたオランダ人は、驚愕して、実行不可能であるとこたえている。将軍を怒らせることにな
ると。当時の軍事的力関係をみると日本の方が優位にたっていた。確かにオランダの海軍は質的に日本にまさって
いたが、陸戦になれば別である。日本には何万丁の優れた鉄砲がある。それに当時は無風の状態では、船は動け
なくなる。多数の日本船と沿岸で戦うことはかなり危険であった。本国は現地の実情を知らなかったのである。アフリ
カの小王国の領域内でしたことが、日本でもできると考えていたのである。 
 そして当時日本は世界有数の産銀国であった。この銀がオランダの繁栄を支えていた。日本と通商できなくなるこ
とは致命的な大打撃となる。攻撃は絶対に出来ないのである。  

 ☆海賊禁止のためになされたイギリスの「管轄権」の主張との比較 
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1604年3月1日、英国王ジェイムズ一世は、当時進行中であったオランダ独立戦争にともなうオランダ私掠船の横
行を取り締まるために、有名なキングズ・チャンバーの宣言を発した。これは、英国沿岸の港湾、入り江、泊地、及
び、岬から岬にかけて引いた直線以内の沿岸海域において、交戦国の海上捕獲を禁止する区域を設置し、この海域
の中立維持のために、管轄権を行使することを内容としている。しかしながら、当時、この措置は決して新奇なもので
はなく、むしろ、中立国の港や沿岸海は、すくなくとも交戦国の敵対行為や海上捕獲が禁止されるという意味で、沿
岸国に属するものと考えられていたのであり、一般に承認された慣行を公式に宣言したものにすぎないとされていた
のであった。……港湾や入江など陸地に入り込んだ海域は、沿岸海より、より完全な意味で国土の一部と観念され
ていたのであった。
――「領海制度の研究−海洋法の歴史−第三版」 高森秀雄著 
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 徳川幕府が襲撃禁止を命じたなかには日本国に奉る唐船があるわけだから、日本の管轄水域をイギリスよりも広
く設定し侵害しないことを求めたことになる。これを受入れるオランダの理論的装置が日本湾であった。実際は、これ
を湾というのは無理がある。しかし湾とオランダはみなしたのである。その他の水域では、「自粛」というかたちである
程度、幕府の要請を受け入れるとオランダは考えることにしたのであろう。湾と呼んだ以上、その水域の日本の支配
権はオランダによって認められたことになる。オランダが日本湾のなかにある諸島として尖閣や半架を考えていたこと
は間違いないだろう。琉球が曖昧にしていた認識を、オランダという第三国がはっきりとさせて認めたことになる。 
 グロチウスの理論(自由海論)をオランダが取る以上、やはり東支那海(全部かあるいはその大半)を日本湾とよぶ
しかないのである。湾でないならば、日本の干渉を認めることはできないのである。主張が矛盾することになる。「湾」
のようなもの、湾に準ずるものとみなさざるを得なかったということであろう。オランダが日本近海に関する情報を秘密
主義によって隠し通す理由の一つは、ここにあったのではないか。他国に知られないようにして、湾ということで、とり
つくろうためである。 
  
  ☆ 幕府のこの水域に対する関心の強さ
 阿蘭陀風説書をみると、通詞は、オランダ人に「特に台湾近辺で異国船に遭遇したかどうか」を必ず質問したことが
わかる。そしてそれを幕府に報告している。なぜ幕府は台湾近辺にそれほど強い関心をもっているのだろうか。「日
本湾」に入ってくる異国船を警戒しているのだろう。台湾海峡をでて北上する異国船となると目標は日本か琉球かど
ちらかである。ここは日本の前庭である。外敵が侵入することを警戒しているのである。台湾近辺にことさらに強い関
心を抱く理由は、これであろう。先島は台湾島と接壌の関係にある。琉球領がそこまで延びているからである。 
 それに、この付近を航行する琉球船の安全をはかるために必要な情報であったからであろう。航路の安全を確認し
ていたのである。琉球の交易は実質的には、日本と中国の交易だったのである。だからこそ台湾近辺のことが必ず
質問されたのである。 
 江戸幕府は当初、中国との貿易再開に必死であった。琉球を通して交易をしようとしていた。しかしその後、長崎に
清国船を迎え入れ、貿易をおこなうことで、琉球の存在の重要度は低下した。琉球を経由する必要はもはやなくなっ
たからである。ただ幕府としては琉球の安全に対する配慮をしなければならなかった。ここに敵が侵攻すれば、幕府
としては戦わねばならないから、情報を手にいればならないのである。 
 
 ☆ この水域で、日中いずれが、管轄権をより広汎に行使していたか?
     ☆ 将軍の海
        ☆ 賞罰の海
 1664年に、福建に渡航していた北谷親方は梅花港で風浪のため品物を損じた。そのどさくさにまぎれて家来が進
貢物を盗みだした。その家来が仲間割れなどをして殺し合うなどした。様々な不手際をおこした。ために帰国後厳しく
糾問された。そして処刑されてしまった。島津が直接手をくだしたわけではない。ティンガナシー(琉球王)に処刑を命
じたのである。異議申立ての権利は認められていたが、王府はあらがうことなくそのまま従っている。余にも不手際
が過ぎると見たのであろう。薩摩や幕府の投資を運用して、琉球は進貢貿易を成立させていたのである。 
 また少し後の時代になるが海賊と立派に戦って、船を守ったということで、島津から直接、褒美を与えられている琉
球の役人がある。ティンガナシー(琉球王)からも褒美を与えられているが、島津が直接、褒賞もしているのである。
琉球衆の奉公がこの交易だったからである。 
 中国沿岸で起きたことについて、島津が賞罰に関係しているのである。 
 これに対して日本沿岸でおきたことについて中国皇帝が賞罰に関与したという事実はない。 
 みられるのは、中国沿岸において琉球船が、海賊から受けた被害を賠償することである。そして自国の役人を海賊
取締り不行届につき職務怠慢だとして譴責するのみである。大陸沿岸で難破した場合には救恤金が与えられてい
る。東番に漂着し、台湾島原住民から受けた被害については、救恤銀が与えられていない。また台湾府の役人が譴
責されることもない。領域外でのことだからである。 
 赤嶺誠紀は、「進貢船物語」のなかで「册封使周煌等が久米島付近で座礁したときに、王府は恤銀として二百五
十貫目を贈っている。一度引き返していた二号船がやってきたとき、彼等は、「ここに渡航して来るまでに相当苦労を
重ねたし、船も多くの損傷を受けた。その上に、洋上で二人の中国人が溺死するという事故もあつたので、せめてそ
の分だけでも補償してくれ、と言うのであった。……首里王府は改めて恤銀二百六十三貫目六百五十目を支払うこ
ととなった。」と記している。周煌の船は久米島で難破したのだから、王府が水先案内人の不都合もなしとはいえな
いとして責任を負うのはわかる。しかし久米赤島までが清国領であるならば、そこまでは福建洋である。福建の海で
起きた被害に恤銀を中国人が求めるのはおかしい。また王府がこれを与えるのもおかしなことである。つじつまがあ
わない。先述したように、周煌は、針路の条を琉球の山川のなかに書き込んでいる。渡航するのは琉球の海である
かのようである。それならば救恤銀を求めるのも、もっともであると納得できる。与えるのももっともである。 
  
  ☆ 鄭氏と幕府
 鄭氏の船が福州港外で琉球の進貢船を襲い略奪したことがある。1673年、幕府は長崎で鄭氏の貿易船から賠償
をとりたてた。島津光久を通してこの銀を琉球に渡している。鄭氏は琉球に対して強い憤激を示しているが、手出し
はできなかった。硫黄という軍事物資を琉球は清国に運んでいる。鄭氏はこれを阻止したかったのである。断ち切る
には琉球へ侵攻するのが良策である。しかし琉球は日本の保護国となっていた。鄭氏が日本と貿易を続けようとす
る限り、琉球侵攻どころか琉球船を襲撃することもできないのである。琉球を攻撃すれば、島津や幕府軍と交戦しな
ければならない。そして台湾への出兵を招く恐れさえある。鄭氏の琉球来襲を防いだのも、背後に日本の力がある
からである。明清交代期に、鄭氏が琉球入りを果すことも大いにありえた。そしてその鄭氏を清国が追撃して琉球が
戦場となることもありえた。その場合の惨禍は、島津の琉球入り程度では済まない。しかし中国勢力は日本には手
出しはできなかったのである。琉球が、幕府と良好な関係を築いていれば、安全なのである。 
 鄭氏が「台湾」(台湾島西南部)を領有したといっても、琉球船が毎年定期的に通る航路にある島々が、鄭氏の領
土になったわけではなかった。 
 台湾海峡より北の海は日本が支配する海であった。 
  
  ☆ 日本皇帝と中国国王
*************************************** 
 註 オランダの文書には、中国皇帝は国王(Coninck)日本の将軍は皇帝(Keijzer)となっている。(-46) 
――近世初期の外交 永積洋子 
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 オランダが将軍を皇帝と呼んでいることでもわかるように、オランダは日本の将軍の方を上位に置いていたのであ
る。 
 オランダは、日本湾を日本皇帝の支配する海とみなしていた。 

  ☆ 明清の制海権はどこまで及んでいるか
 明清の水軍は沿岸付近にとどまっていた。沖へはほとんど出ていかない。 
 李鼎元は出発に際して以下のように册封録に記していた。 
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時に総兵が陳都司に「小舟にのった海賊がまだ海口にいるので、出航しないがいい」と書いてよこした。私が細かく
通知書をしらべてみたが、これは淅江からの連絡によるもので、その内容はすべて推測にすぎず、根拠がない。そこ
で都司に命令した。「はたして小舟に海賊がのっているというのであれば、許総兵は、兵千人あまりをひきい、船四十
隻を配置して、海へ出て追撃せよ。なぜ何もしないので眺めているのか。……風があればただちに出航する」 
 都司から許総兵に次の命令を伝達させた。 
「……おのおの交戦準備をととのえ、三つの船団に分けて海口をでること……」 
午の刻に出航した。旧例では五虎門内で空砲をうつのであるが、賊がいるときいていたので、海口を出てからかさね
て空砲をうたせ、更にときの声をあげて賊の肝をひやすこととした。丁未の風で、潮に乗じて五虎門を出た。 
日入りに官塘尾を通過し、進士門を越えた。水深が浅く、柁を一尺ほどあげてから通過したのだが、とうとう賊は発見
できなかった。そこで護送船をひきあげさせた。 
――使琉球録 李鼎元 原田禹雄訳 
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 五虎門より内には、賊は絶対いれてはいけないわけである。その外は沿岸部にさえ清国の力は余り及んでいない
のではないか。五虎門のすぐ外にある島でさえきちんと「実効支配」しているとはいいがたい。李鼎元の册封の時に
もそうである。沿岸部でさえこうでは、琉球近くにまで力が及んでいないことはいうまでもないことである。護送艦隊を
ひきかえさせたのは、清国水軍が沖遠くまでいき作戦する能力をもたなかったからでもある。水軍は外洋船によって
構成されていない。清末までそうである。兵千人、船四十というのでは、単純に計算すると一艘あたり兵二十五人と
なる。大船と小船があることは考えにいれねばならないが、それほど大きな船は余りなかったと思われる。官塘をわ
ずかに過ぎたあたりで撤退していったのだから、ここらあたりが実質的な制海権の及ぶ果てである。つまり界といえ
る。「支配は武力の尽きるところにつきる」ということになる。官塘までが福建府志の領域図にのっている。籌海図編
の諸図において官塘より先にある島は違っていた。しかし官塘まではきちんと記載されていた。 
 中国領域を赤尾嶼あたりにまで遠く伸すのは元々無理なのである。 
  
 李鼎元を護送し福建に至った謝恩使の毛国棟一行は福建布政司をたずねて、海賊との戦いの様子を話し、海賊船
が多くて危険きわまりないから、五虎門より官塘あたりまで、琉球船を護送してくれるようにと、懇願した。やっと、官
塘まで護送船をだしてくれる始末であった。 
  
  ☆ 張学礼の出発の頃にみる清国の制海権 
 張学礼の使琉球紀をみてみよう。 
      康煕二年(1663年) 
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五月二十日 ?安鎮を過ぎ、遊撃鄭洪が、鳥船百余、兵三千を以て護送する 
      猴嶼で天妃を祭る 
六月七日  海口をでる。白洋にでて海賊船に逢い、護送の遊撃鄭洪は之と戦い、 
      賊を殺すこと百余、護送船隊は帰った。 
――近世沖縄の社会と宗教 島尻勝太郎 三一書房 1980年 
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 張学礼は福州のすぐ近くに鄭氏の勢力ががんばっているわけだから、とても渡海できるような状態であるとは思え
なかったのであろう。出発を延々と遅らせている。鄭成功の死の直後に、すきをついて渡海していることがわかる。そ
してこのときも、護送船隊はすぐに帰ってしまうのである。 
  
  ☆ 設防の範囲外 淡水の極北
 道光二十年(1840年)に、台湾道妖宝の致せし台湾十七口設防状中に「大鶏籠は淡水の極北にして東に転ずる
の境にあり、……?内水深きこと二丈有奇」とある。台湾の行政官のトップがこう述べている。淡水庁の管轄している
地で基隆がもっとも北にあると。そしてこの地の防禦について説明している。大鶏籠というのは、基隆の町を指すの
ではなくて、大鶏籠嶼を指すのだろうか。仮にそうだとすると、基隆嶼(=小鶏籠嶼)は防衛範囲の外にあるとはっき
り書いたことになる。そうではないにしても、半架諸島や尖閣諸島は防衛の対象外となっていることは明らかである。
港の入口にある社寮嶼は一々、ここにあげなくてもいいであろう。また港からあまり離れてない小鶏籠嶼(基隆嶼)も
沿岸部の防衛に含まれているからことさらにあげなくてもいいかもしれない。しかし少し離れている半架や、かなり離
れている尖閣が領域のなかにふくまれているのであれば必ずここに記されねばならない。設防状にあげないのは不
可解である。これが詩であれば脱落はあくまでも、文学的表現ということで説明できないこともない。小さな島嶼を無
視するということも許されるであろうが、設防状はそのようなものではない。領域防衛のための報告書なのである。設
防状のどこにも、尖閣諸島どころか半架諸島さえでてこない。大鶏籠が極北というのは、台湾府志の附図とまったく
同じ認識を示している。 
 一体、半架諸島や尖閣諸島はどこに帰属しているのか。半架諸島をさえ淡水庁が管轄していたことはない。 
 台湾府の役人がこれらの島を巡視したなどという記録はない。 
  
  ☆ 申報
 申報(1884年△)において、次のような記事がのっている。西洋人から、中国には海軍がないと再三いわれて不
審に思った記者は、存在すると反駁する。しかし事情を調べて納得している。中国の水師は、西洋的な意味では海
軍ではなく、基本的には内陸河川の警備艦隊であると報道されている。外海にでるためにはつくられていないと。 
  
  ☆ スペインやオランダの台湾政庁の管轄主張水域
 先述したとおり、1624年から1642年まで淡水、鶏籠などに根拠地をつくり維持していたのはスペインであった。
この時、半架や尖閣はどこの国の領土だったのか。台湾と不可分の一体というのならばスペイン領であろう。琉球の
進貢船はスペイン領の半架諸島や尖閣諸島を通り、那覇に戻ったのか。また明の最後の册封使、杜三策はスペイン
領をかすめて、册封に赴いたことになるのか。しかし半架や尖閣がスペイン領になったということはどこにも記録され
ていない。また1642年から1964年にはオランダが鶏籠淡水を確保していた。今度は半架や尖閣ははオランダ領
になったのであろうか。しかしそのような記録はない。琉球の進貢船はスペイン領の島、そしてオランダ領の島を見て
戻ってきたのだろうか。そのようにオランダ人もスペイン人も、琉球人も中国人も考えたとは思われない。 
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 理左衛門はその言に従えば、タイオワンにジャンク船を送った。しかし他の長崎からのジャンク船がしている様に、
この船は、台湾のスペイン要塞に向かったという噂が長崎では専らである。しかしこれらの場所で何も得られずにタイ
オワンに来るかもしれないので通行許可書と旗をあたえた。(-22) 
――平戸オランダ商館の日記第二  △ 
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−1631−5−16 ナイエンローデの手紙 平戸にて 
 この召使市左衛門殿は報告した。昨年、彼等がそのために通行許可書と旗とを求めたジャンク船は、……生糸を
持って、無事にシナから琉球に到着した。そこでこの奉行は非常に満足し、近日中に使者を平戸に送るつもりであ
る、と語った。これは明らかに、もう一通の通行許可書と旗とを要求するためである。(-390) 
――平戸オランダ商館の日記第二 △ 
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 市左衛門の言及したジャンク船は台湾海峡の中に進み、泉州や?州の港やタイオワンに入るのであろう。日本湾の
外にでるから通交許可書と旗が必要だったのである。福州から帰る琉球船と同じ航路をとる限り、別にそんなものは
必要なかった。寧波や福州からであれば長崎に直航すればよいことであり、わざわざ琉球に入ることはない。 
 琉球船が通交許可書や旗をオランダから貰ったことも用いたこともない。 
 スペイン人が琉球に通交許可書を与えたという記録もない。琉球の人たちがスペイン領やオランダ領である半架諸
島や尖閣諸島の沖を通って行き来していたわけではない。半架諸島や尖閣諸島が、台湾の付属島嶼の中にはいっ
ていないのは、スペインが鶏籠を支配していた時代から一貫としていた。 
  
  ☆ ヴァレンタインの台湾古図(−−伊能嘉矩「台湾志」所収) 
 1726年に成立したオランダ人宣教師ヴァレンタインの手になる台湾古図をみてみよう。台湾および付属島嶼の形状
はかなり正確になっている。この図には鶏籠嶼は描かれているようにみてとれるのだが、それより先の島は記されて
いない。半架諸島や尖閣諸島は描かれていない。 
 小琉球嶼、紅頭嶼、火焼島、亀山嶼は描かれている。そして図の右端には二つの島が記されている。与那国のあ
るあたりである。これは図の左上にあるchina本土と同じ意味であろう。台湾の一部とみなされたから記されたわけ
ではないと考えられる。琉球に対する日本の支配権をオランダは認めていたわけだから、琉球の属島を台湾の一部
であるとみなすことはない。 
 「タイオワン」(台湾島の一部)を最初に、法的に「領有」したのはオランダであった。その上、オランダは鶏籠、淡水
を「領有」していたスペインを駆逐し、台湾の北端を「支配」していた時期がある。オランダの見解は重要である。この
時期にオランダは日本の隣国となっていたのである。 
  
  ☆ 半架諸島と尖閣諸島
 これらの島をオランダ人もスペインも領域外にあるものとみなした。その海域を台湾海域とみたのであれば彼等は、
必ず通交許可書を与えようとしたに違いない。半架や尖閣は琉球の維持してきた航路沿いにある島であるから、手を
出せば幕府ともめることになる。もっともオランダやスペインには、価値のないこれらの島嶼を領有しようという気はい
ささかもなかったであろう。領土として考える国などどこにもなかったであろう。しかしこの水域は、日本(琉球)の支
配するところだったのは周知の事実だったのである。 
 オランダもスペインも琉球船の航路を把握していた。日本の領域がどこまで広がっているのか、自然、察知するで
あろう。日本がどこまでを勢力範囲とみなしているかをオランダは推定したのである。 
 オランダは1644年当時、台湾の鶏籠を支配下におさえていた。オランダは江戸幕府が自国領域であると考えて
いた範囲には、琉球諸島もふくめられると理解していたことは疑う余地がない。琉球の進貢船の通る海道にある島々
も、琉球の一部とみなしたであろうと推定できる。この海を日本の海であるとみなしたのである。 
 オランダ人が認識した台湾と琉球の境界も明らかである。 
 当時としては利用価値のない居住もできないような島は領土と考える習慣がなかったと考えられる。 
 台湾島と半架島との間の海の中は荒々しい大河が流れている。これを近いとするのは現代の感覚で地図をみるか
らである。世界は縮んだのである。小さい帆船で荒い海を渡った時代にはどう見えたか、それが問題である。当時
は、なかなかわたるのさえ難しかったのである。 
  
  ☆ 日本湾を日本の水域としてオランダは尊重していた 
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 「我々は、真直に薩摩の島に向け、進路を北東に取った。これは通常、カーボ・クンベルから真直に女島の傍を通る
様に、シナの海岸に向け北北西に進むオランダの恒例の進路とは反対であった」(-159)1628年7月13日 
――平戸オランダ商館の日記 第一 
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 これは訝しい。台湾海峡を出るあたりから、オランダ人は当時においては、実に奇妙なコースの取り方するのが通
例となっていたことがわかるのである。なぜであろうか。薩摩領である琉球の島々に近寄らないためにこうしたと思わ
れるのである。だから半架や尖閣諸島への接近も避けられたのである。そこは琉球だったから。 

   ☆ 緯度を指定するオランダの訓令
  以下の訓令をみても、「日本湾」という概念が暗示されている。 
 フランクリン号は1799年4月にバタビィアについた。そしてオランダ東インド会社と日本行傭船として契約をむすん
だ。このとき訓令が与えられている。 
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オランダ東インド会社から船長ジェームズ・デヴェロオに与えた日本到着に際しての訓令 北緯26度乃至27度に達
したら、会社船によっておこなわれると日本人が考えている作法に従って行動するための準備を整える必要がある。 
 1.入港準備のため旗を掲げて満艦飾にすること。 
 (略) 
 3.全乗組員、船客および士官の名前、地位年齢を一覧表にしてもっていること 
 4.乗組員および士官の携行する書籍とりわけ宗教書は、樽に収めて鏡板を張っておくこと。 
 6.日本が視界に入ったら、船長はオランダ船であることを示すように、正当なる場所ごとにオランダの長旗、船旗を
掲げること。 
 (以下略) 
 その他の行われるべき作法については、会社の代理人が船長に指示するであろう。 
――日蘭交通史の研究 
*************************************** 
 1797年に、ニューヨーク号のスチュワート船長に与えられた訓令には、「人々が北緯約二十五度ないし二十六度
のところに来たら以下の如く、日本の作法に従う準備に、一層多くの時間をかけなくてはならない」とある。言回しな
どに小さい違いはあるが訓令の内容はおおむね同じである。 
*************************************** 
  スチュワートの雇用契約 1797年5月23日 
 (前略)…… 
第五条 この船に乗る船長と上級船員達は、この雇用契約及びその他この航海のため別に起草されて上記の船に
与えられる筈の訓令の趣旨に従うべきものとする。 
――日蘭交通史の研究 
*************************************** 
 指定した緯度で命令を開封するようにと指示する訓令が与えられた。その遵守を船長は命じられていた。 
 開封した訓令のなかでも、次の指示は重大である。 
「4.乗組員および士官の携行する書籍とりわけ宗教書は、樽に収めて鏡板を張っておくこと」。 
 この緯度でキリスト教徒にとっては大事な聖書を、手元から離してしまうのである。だとすれば、この時点で日本国
内に入るのも同然であった。やはり日本湾である。 
 デヴェロオ船長に与えられた訓令には二六度乃至二七度とあった。スチュワートに与えられた訓令には二五度乃
至は二六度ともあった。だから二五−二七度の間であり、二六度を中心としていることがわかる。なぜ、かかる緯度
があげられるのか。オランダ船の通常の航路をみれば台湾の北東沖で到達する緯度である。二六度は半架諸島や
尖閣諸島があるあたりである。 
 「日本到達までにしなければならない入港準備は、以下の通り。前日までに絶対に完了すること」とのみ命じれば
よいはずである。訓令が指示している緯度には、日本から遠く離れたところで到達してしまう。長崎はまだ遠いにな
ぜこんなところで訓令を開封しなければならないのだろうか。やはりこういう緯度をあげているのは、そこからは日本
の勢力圏に入るという認識があるのであろう。日本本国ではないが、琉球の領土がこの近くにあるとみているからで
あろう。このあたりを毎年、定期的に動いているのは琉球船だけである。琉球に漂着したり、また緊急に避難しなけ
ればならない可能性もある。そのときになってあわてても、遅いからである。 
 開封の緯度を指定する訓令がいつから与えられはじめたのかわからない。しかし日本湾という言い方が、いつごろ
から言われ始めたかを思えば、おおよそは推測できる。 
  
  ☆ ヅーフと日本湾
 ヅーフは1803年から1819年まで商館長として出島に赴任していた。本来は一年交代であるが、戦争のためオラ
ンダ船が来航できないために滞在を続けるしかなかった。イギリス船がオランダ船に偽装して来航し、商館乗っ取り
を計ったことがあったが、そのときの巧みな応接でもわかる通り、非常にしっかりとした人物であった。長い間、長崎
で勤務することになったために、日本通となった。幕府から許可をうけて、日本人の長崎通詞とともに日本語辞書の
作成を行っているほどであった。 
 ヅーフ回想録には中立国傭船イライザ号の来航について記したところがある。 
 イライザ号は1819年に長崎に来航した。ヅーフはこう記す。 
「この船は日本国の面前並びに航海中常に和蘭国旗を掲ぐることとし……」と。訳者の金井圓は「航海中常に」とあ
るところに(まま)とルビを振っている。訓令はそうは指示していないからである。 
 ヅーフがなぜ、こう記述したのかをよく考えねばならない。この読み方は、「日本水域」を「航海中常に」とすべきで
はなかろうか。そう読めばすっきりと意味が通る。 
 ヅーフは、船長に与えられた訓令を指定された緯度から国旗をかかげる指令ととったのであろう。「日本が視界に
入ったら……」というのは日本の水域に入ったらということであると解釈したのであろう。 
 ヅーフにとっては、台湾海峡をすぎればそこは日本の湾なのである。日本の海なのである。これがわかる。 
 ヅーフは江戸参府旅行に際して 
*************************************** 
「重き行李は……日本船に積載す。此船は和蘭の会社の紋章を附けたる旗を掲げ、港に在る時は和蘭国旗を懸く」 
*************************************** 
 と回想録に記載している。日本船を雇用して「オランダ船」としていた。日本水域ではこのように旗を掲げていなけ
ればならなかった。 
 当時、船が国旗を常に掲げておく義務はなかった。この時期は交戦している敵国艦船の脅威に鑑みて、中立国籍
の船を雇入れなければならなかったほどである。オランダ船を送ることを避けているほどである。他国船にオランダ国
旗をかかげるはずはない。あぶないだけであった。かかげるとすれば船籍のあるアメリカの旗を使い、日本に入る直
前にオランダ旗に切り替えるべきである。それでも「オランダ船」として交戦国からは拿捕されうる。 
 オランダ国旗をかかげたとすれば「和蘭の船」であるということを日本に認識させたいからだとしか考えられない。そ
のために危険をおかすにしても、日本人にみられる可能性が余りないところで掲げても意味がない。だから手抜きし
て通常は甑島がみえてくる前日あたりに、オランダ国旗をかかげるようにしていたと思われる。ヅーフは、船長がこの
たびは日本水域においては厳密に和蘭国旗を常に掲げるようにせねばならないと訓令されたと思ったのであろう。 
  
  ☆ フィッセルの見解 ――日本風俗備考(1833年)   
 「日本風俗備考」(1833年)は、フィッセルが日本についての見聞を整理記録し、考察をくわえた著作である。原題
は「日本国への知識への寄与」である。当時、ヨーロッパでかなり好評であったという。幕末にすでに和訳されてい
た。 
 フィッセルは1820年6月17日にバタビィアを発し日本にやってきた。出島のオランダ商館で、一等事務官として働
き、商館長につぐ地位にまで昇進している。九年間滞日した。 
 日本風俗備考の「雑録」にはジャワから日本への旅の記録がのっている。台湾海峡が最大の難関であったことが
わかる。台湾海峡の荒れる海の大変さは多くの人によって記されている。 
 この旅の記録は日記体で記されている。ここに興味深い記述がある。 
*************************************** 
十七日 天候も風も次第に穏やかになったが、海はなおも非常に荒れ続けていた。われわれは観測により、正午緯
度24度52分を得た。バタビアから日本に渡る役人たちに授けられている訓令によれば、次の年に調査のために日
本の海岸に近づいた際に高く掲げるように、日本人が年ごとに提案する秘密の合図を、25度の地点で開くように述
べているので、船の位置を測定して後、この訓令を開く儀式が行われた。 
 予定の合図は、白、赤および白色を水平に重ねた一つの旗を、日本の視界に入ったとき、前檣に高く掲げることで
あり、また夕刻には提灯一個を掲げることであった。 
十八日 われわれは、台湾島の北の岬を、南方に認めたので、日本の領海内に入ったものと推定した。 
二十一日 ……正午緯度31度11分を得た。そこでこの好都合な機会を捉えて、日本の碇泊地に向かって走るため
のあらゆる準備を行うよう手筈を整えた。 
七月二十二日 風は南西であった。夜明けと共に甑島を見受けたが、この島は薩摩藩主の領内である。風が弱まっ
たので、われわれは潮流に乗って天草湾の方に流されていった。…… 
――日本風俗備考2 フィッセル △ 
*************************************** 
 台湾島の富貴角を南にみて「日本の領海」に入ったとフィッセルはいう。 
 秘密の合図を記す訓令を二五度で開くのは、日本湾に入る直前に開封せよということであろう。再三述べているこ
とであるが、経度は当時はまだ正しく測定することはできなかった。だから経度は訓令に書かれなかったのである。
この航路をとる限り、緯度二十五度で達する経度は、ほぼ決る。オランダ船は、このときは台湾の北の岬をみながら
東北から東北東へと進んだようである。台湾海峡を越える前に達する緯度である。 
 フィッセルが来た時には、幅をもたせずに「北緯二十五度」と明確に指定されているのは、なぜであろうか。はっきり
と、日本湾に入る前に開封せねばならないということになったことを意味している。それまでルーズにされてきた手続
を、厳密に守らねばならなくなったということであろう。 
 緯度二十五度での開封をはっきりと指示したということは、日本湾と関係があるとしか思えない。 
*************************************** 
「古典的な国際法では領海とは領土につながり、国家の領域の一部とみなされる海のことである」 
――海の政治学 
*************************************** 
 そこには琉球の島々があるから、琉球の領海が生じるのであろう。琉球と台湾の境界をフィッセルは当時こうとらえ
ていた。これは個人的な見解ではない。 
 日本側がその緯度の水域から旗を掲揚するようにと要求していたのではないと思うが、オランダが日本の領海をそ
う考えていたことは間違いない。 
 「旗合わせ」は1808年、英国軍艦フェートン号がオランダ船を装って、長崎に入港し乱暴を働いたために取られた
処置である。 
*************************************** 
「同船は常例の場所に和蘭国旗を翻すが故に毫もその蘭船なることを疑はざりき」 
――ヅーフ回想録 
*************************************** 
 和蘭国旗だけで和蘭船だと判断したために、騒動に巻込まれ長崎奉行が切腹しなければならないはめに陥った。
その対策がこうじられた。この旗あわせはオランダ船であるというあかしとなるものである。例年、秋に帰るオランダ
船にその指示を託することにした。次の年の夏にくる船がかかげる旗を決めておくことにしたのである。この秘密の合
図を日本湾に入る直前で、船長に知らせることになっていた。機密保持のためである。 
 東インド会社は1799年末に解散していた。フィッセル来日当時は、オランダの東インド政庁が貿易業務をひきつい
でいたのである。だからフィッセルは「バタビアから日本に渡る役人たち」と記しているわけである。単なる一会社の
訓令が民間人に下されたものではない。フィッセルも民間人ではない。 
 
  ☆ 日本水域の道筋を替え
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「第七七号 元禄八年(1695年)  風説書 其四 
 ……夫故日本帰帆之阿蘭陀船、海上フランス船に行逢不申ために……日本商売仕廻帰帆之節者、阿蘭陀船五
艘づれ、用心仕、道筋を替え、台湾之うしろを通り、……直にジャガタラへ参候様にと申来候、以上」 
――和蘭風説書集成 △ 
*************************************** 
 バタビィアから飛船がやってきて、オランダの出島商館長に危険を通告した。交戦中のフランスの大船がマラッカを
襲った。そして日本から帰ってくるオランダ船をまちぶせしようとしているというのである。出発の日時も一定して、コ
ースも同じでは捕捉されてしまうだろう。本来はどういうコースを通ろうが自由なはずである。幕府に通告するというこ
とはどういうことだろうか。台湾の東側にぬけるためには琉球に接近せねばならないからだろう。琉球諸島をぬけて
太平洋にでなければならない。どういう道筋を通るかをオランダ側は日本に通告していた。やはりこの水域における
日本の支配権をオランダは認めているのだ。 
  
  ☆ 日本の支配権の拡大する傾向
*************************************** 
 平戸藩主は……カロンの名前で、閣老全員に宛てて要求書を書いた。その内容は 
一.交趾支那に漂着した船と積荷を原住民に差押さえられたので、復讐したい 
二.ポルトガル船の出帆後二十日間待つことなく、我々の船は用意が出来たら直ちに出帆することを許して欲しい。 
三.. 略 
四.閣老が反対でなければ、マカオにかなりの数の船を送り、港を封鎖したい 
(-66-68) 
――近世初期の外交 永積洋子 △ 
*************************************** 
 この要求書が出されたのは、1634年である。 
 幕府は一については関与しないとのみ答えた。二の求めには応じなかった。 
 二の要求は、ポルトガル船をオランダ船が襲撃できなくするために下された幕府の命令を撤回して欲しいとするも
のである。ポルトガル船に与えられた二十日間の猶予は日本湾から外に出るために必要な日数だったと思われる。 
 四、の要求に対して、将軍は何も述べなかったと伝えられている。許しても、許さなくてものちに問題が生じるから
である。 
 これらのことについて日本側がどう考えるかを商館長が幕府に打診せよと総督は命令してきたわけである。日本か
ら抗議を受けたりしないように予防線をはっている。このようなことについてまで日本の意見を聞くということは、「臣
下」の礼をとっているといわれても仕方なかった。 
 一には関知しないと答え、四の問い合せに幕府が何も述べなかったのは、正しい態度である。 
 一や四を禁じれば、日本の力によって問題を解決してやらねばならない義務が生じかねないからである。東南アジ
アにまで、日本の支配権を及ぼさねばならないことになりかねない。マカオ攻撃にも直接、加わる必要が生じかねな
い。 
 永積洋子は「近世初期の外交」のなかで、「元和三年(1617)オランダ船がマニラの沿岸で捉えた中国のジャンク
……オランダ人は中国の船員を船外に投げ出したため二百七十人のっていたが、三十人しか残らなかった……李旦
は将軍に訴えることにした……(-21)」としている。 
 オランダ商館日記にも、このようなことをオランダがしていたことを裏付ける記載がある。 
 李旦はシナカピタンといわれたほどの人物で日本にも根拠地を置いていた半海賊、半商人の中国人であった。李
旦配下の船が襲撃されてしまったのである。マニラ沿岸で捕獲された船のことについて、李旦は中国皇帝ではなく、
将軍に訴え出たのである。 
 当時は日本人町が東南アジア全域に広がっていた。日本の船が多数、行き来するようになっていた。東アジアの
海を将軍の海として、つまり日本の海としてとらえる傾向が、生じはじめていたのである。これらの国に対しても強大
な日本の力が及ぶことになる可能性が強かった。 
 だが、鎖国の時代はすぐそこにまで迫っていた。 
 
  ☆ 「支配は武力の尽きるところにつきる」
 バインケルスフーク以来「支配は武力の尽きるところにつきる」とよくいわれてきた。
*************************************** 
 バインケルスフークの理論は、海を領有するためには領有意思と実効的支配の二つの要件をみたなさければなら
ない。……外洋の場合には、見張るために継続的な航海か艦隊の常駐が必要であるけれども、沿岸海の場合に
は、たとえ継続的に航行していなくとも陸地から支配できれば、海を見張るためにはそれでたりるというのである。(-
292) 
 領海制度の研究―海洋法の歴史―「第三版」 高林秀雄  
*************************************** 
 バインケルスフークが1702年に出した「海洋主権論」によれば、海を領有するためには、領有意思が表明されて
いなければならないとされていた。琉球にはその意思があったかどうかが問題となる。先述した羽地朝秀の中山世
鑑の記述(陳侃が、琉球人の船乗りが迎接使とともにやってきたことに大喜びしたことである。また帰国後、彼等の
働きを称賛し、それなしには琉球まで生きてたどり着けなかったと述懐するところである。)には、琉球の人々の誇り
があらわれている。指南広義の海島図にも、漠然とした領域認識があらわれている。しかしそれでは十分ではない。
明確な領有意思があったかどうかである。ただ領有意思が明確ではなかったにしても、意思以外は、領有に必要な
要件をすべてみたしていたのは、琉球側である。 
 琉球の進貢船や接貢船は、武装していた商船であった。継続的な航海を行っている琉球船がこの海を支配してい
たといってもいい。琉球の武装商船が、この航路を主として動いていたのである。明代の初期の一時期を除けばその
後はずっとそうだった。どちらがこの水域を支配してきたかといえば琉球の側である。形式的には臣下であるティンガ
ナシー(琉球王)が支配する領土も、明清の「領域」の一部ともなる。しかし実質が大事である。 
 再三いうが、この水域が琉球人の水域である決定的な証拠がある。それは出発時点で、琉球人の水先案内人
が、必ず乗込むことになっていたことである。琉球は、册封使を迎えに迎接使を福州に送った。そして册封船には、迎
接使だけでなく夥長に率いられた水夫たちをのりこませている。また琉球船が常に册封船に随伴していた。これは先
導、護衛のためである。册封船がオランダ船やポルトガル船の攻撃を回避できたのも琉球船の護衛があるからであ
ろう。攻撃可能であったとしても、随伴する琉球船を見れば、オランダ船やポルトガル船は攻撃できないわけである。
「条約」が守っているのである。琉球船が册封船の護衛につくことにも大きな意味があったのである。琉球の旗をみ
れば手がだせないのである。琉球の背後には日本の力があるからである。日本船を攻撃するのと同じことだからあ
る。 
 そもそも册封船も「我が国に奉る唐船」である。攻撃してはならないとオランダに通告してあったなかに当然、入って
いるのだから、琉球船の護衛がなくてもまずは安心であったろう。しかし琉球船が護衛につけばなお安心である。こ
の海の支配権は日本にあったのである。日本の力が支配していた海である。 
 バインケルスフークの理論は有力ではあっても、当時まだ一学説にしか過ぎなかったのは確かだが、しかし世界の
趨勢は、海も「領有」できるという方向に向っていったのは、私達も知るところである。 
*************************************** 
 「セルデンは、その著、閉鎖海論において、グロチウスの二つの論拠に反論し、海の領有可能性を肯定したのであ
る。……海には沿岸その他無数の標識になるものがあり境界付けができること」 
「自然法によって海の全範囲は、そこを先占した者に属する」 
 領海制度の研究―海洋法の歴史―「第三版」 高林秀雄 1987 有信堂高文社 ? 
*************************************** 
 セルデンの考えに従っても、尖閣は琉球の領土であることは間違いないであろう。半架諸島についてもそうであろ
う。 
 支配は武力のつきるところに尽きるというのが当時の支配的な考え方であった。 
 この海は日本の海といえるのか? 
 東支那海の支配権は、近世においては、事実上、日本・琉球にあった。大陸沿岸を除けばそうである。琉球海・日
本海と名付けるのが自然である。東中国海(東支那海)という誤った呼び方が定着したために、混乱が生じている。
あたかも中国の海であるかのような誤解を招いている。歴史的経緯をみればこれは誤りである。 
 再三いうが、ここは琉球船(武装商船)が毎年、尖閣や半架諸島を目印しとして航行している海域である。そして幕
府から琉球は保護国だから攻撃してはならないという警告をうけていた。オランダ人は半架諸島や尖閣諸島が琉球
に属すると判断しているであろう。つまり究極的には日本に属するとみなされていた。日本湾は日本の権限が及ぶ
領水であると感覚されていた。 



 




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senkaku−note・尖閣諸島問題 W