尖閣諸島の領有権問題


開拓時代の写真、そして戦後の調査時代


全体目次

(1) 開拓時代の写真
(2) 開拓時代に作られた地図
(4) 尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎のこと
(3) 戦後の調査時代
(表題をクリックして下さい。各章に移動します。第一章はこの下にあります)



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第1章  開拓時代の写真 目次

(写真を見るには表題をクリックして下さい)
01 日の丸が翻る魚釣島の古賀村
02 尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎氏
03 日の丸が翻る魚釣島の古賀村(2)
04 尖閣諸島の古賀商店従業員記念写真
−丁稚奉公の少年達も働いていた−
05 魚釣島の船着き場
06 海上保安庁の撮った事業所跡と船着場の写真
07 魚釣島事業所配置図
08 カツオブシ工場でのカツオブシ作り
09 明治三十年代の魚釣島の住人たち
10 カツオブシ工場の入り口に立つ古賀辰四郎
11 南小島にいた海鳥
12 島の斜面に咲き乱れるユリの花
13 黄尾嶋西南側古賀村の人家
14 黄尾島波止場上涯下 
15 黄尾島波止場










1.日の丸が翻る魚釣島の古賀村(1)


出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号
 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」 

写真に記された原文:「魚釣島全景 10戸あまりの家がひとかたまりになっている。」(12-13頁) 
※1 管理者:尖閣諸島では多い時には200名以上が働いていたと言われております。 











2.尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎氏










3.日の丸が翻る魚釣島の古賀村(2)


出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」  










4.尖閣諸島の古賀商店従業員記念写真


出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(14頁右下) 
原文:「当時の住民達が総出でカツオブシ工場前で記念写真をとった」  


−丁稚奉公の少年達も働いていた−
 
 写真には50名ほどlの人間が写っている。(判別しずらくおよその数である)
 
 「尖閣列島ノート」(高橋庄五郎著)にこういう記事がある。「ここに一枚の写真がある。一九七八年
五月五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島は無人 島ではなかったという「証拠の写真」を八枚掲載し
た。それは古賀善次未亡人花子さんがもっているものだが、そ のなかの一枚は筆者が一九七一年
に入手したものと全くおなじものである。筆者のもっている写真は,一九〇一年二月に黄尾島で生ま
れたという伊沢弥喜太氏の長女真伎さんのもっている明治四十年頃の写真である。そし て、おなじ
一枚の写真を古賀花子さんは魚釣島のものだといい,伊沢真伎さんは黄尾島(黄尾嶼=久場島)の
もの だという。この写真には事務所の責任者として、日の丸のポールのところに伊沢弥喜太氏がお
り、その右六人目 のところに白い着物を着て帽子をかぶり、ステッキをついているのが古賀辰四郎
氏である。」 

 雑誌の写真では分からなかっただが、スキャンして拡大したら、左端に5名ほどの子供達の姿が
見える。その横には女性が9名ほど写っている。 (女性たちはまかない婦たちであろう。何かの本で
子供たちが数名丁稚として雇われていたという文章を読んだことがあったが、どうやら事実であった
ようだ。 (ようやくその何かを見付けた。望月雅彦 「古賀辰四郎と大阪古賀商店」『南島史学』第35
号の中の「南島史学会 1990年」−古賀辰四郎年譜−」にこうあった。平成21年10月05日) 
     一九〇八年五月、恒藤博士、列島を探険す。 
     同時に宮城、福島二県より七歳十一歳の貧児十一 名を
     丁年迄の契約にて雇入れ渡島せしむ。 
とある。一九〇八年とは明治41年である。貧児とは何だったのだろう。飢饉で親を失い家を失った
子供達のことを言うのだろうか。東北の困窮は昔から長く続いていたのだ。 丁年とは二十歳のこと。

【お断り】
 現代は七歳や十一歳の子供が働くことを「何と可哀想な」と蔑視するであろう。そして古賀商店が
いたいけない子供をこき使って暴利を得ていたと批判するやも知れぬが、当時の社会状況はけっし
て現代人が今の価値観で過去を判断してはならぬものである。真実が分かるまで慎重に結論は出
すべきでない。幼き者の労働が悲劇だとなどというのは現代人の思い上がりである。私は昭和24
年生まれであるが、小学校1年から畑で家の仕事を手伝ったし、6年生になると朝牛の餌をやって学
校に行き、帰ったら一人で牛を畑に連れていって耕すことなど珍しいことではなかった。それをつらい
と思ったことはない。家の役に立てることは私の誇りであり自慢であった。父は大正14年の生まれ
であるが、尋常小学校を出て直ぐに田川の炭坑に丁稚奉公した。父も決してつらかったとは言わな
かった。父の兄弟姉妹皆そうである。いわんや明治31年のことである。決して安易な判断をしては
ならない。













5.魚釣島の船着き場
 

尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(11) 原題:船着き場  写真:(アサヒグラフ・昭和53年5月5日号) 
魚釣島の工場の平面図にはダイナマイト小屋があり、ある資料では水路をダイナマイトで作ったとあったが、 
古賀辰四郎氏の未亡人の花子さんが、「船着き場をつくるのに十年かかったそうです。機械を使わないで 
硬いサンゴ礁を砕くのですから。」と記者に語っておられると資料もある。とすれば、これが事実なのだろうか。 











6.海上保安庁の撮った事業所跡と船着場の写真















7.魚釣島事業所配置図


これは現代に作られた図面ではなく、当時のものです。生活ぶりが文字の上から読み取れるではないか。再盛期は
200名を超える人々がこの事業所で暮らしたのである。上の写真の人々がここで汗を流して働き、歩き、笑い、泣
き、悲しみ、喧嘩をして一緒に暮らしたのかと思うと地図をなでたくなるではないか。

右端に畑とあって、その下に火薬庫とある。これが船着場を作るための火薬倉庫ではなかったのだろうか。
次にこの図の下にその船着場、魚釣島唯一の港(?)がある。

これを下の航空写真と比べて頂きたい。私は「同じだ!」と感激した。同じなのは当たり前なのだが、「あー、やっぱ
り私達の祖先がここで働き額に汗し手にマメを作って働いたんだー!」という実感が皆さんの胸にも湧かないだろう
か。




上空より見た魚釣島の船着場

この写真を見て、上の事業所配置図にある船着場の形が同じであることに気が付かれたのではあるまいか。当然と
言えば当然なのだが、「あー、やっぱりここで私達の祖先が暮らしていたのだ」という感慨が湧くのを止められない。

海岸線の先の白いのはなんだろう。実はその答えらしきものが、高良鉄雄琉球大が教授の著書「沖縄の秘境を探
る」(昭和25年3月刊)に掲載されている。「魚釣島の沿岸には、第三紀砂岩やサンゴ礁が舞台状に展べ開けてい
ることは、前にも述べておいたが、その岩礁のくぼみに、いたるところに真っ白い氷のようなものが張りつめている。
遠くからながめると、白い砂たまりのように思われたが、近寄って見ると、それは全く別物であった。よく見ると、塩の
結晶なのである。私ども一同、自然界の構成に再び感心させられた。その塩の結晶の上を歩くと、ばりばりと音を立
てて割れ、手にとってなめて見ると、普通の塩よりもからいように感じた。この氷塩は、山すそからなぎさにわたって
おり、岩礁のくぼみの多い場所では、全面にくぼみの形に応じて白く縁どられている。氷塩の厚さは二〜五センチ、
その結晶は真夏の直射日光を受けてぎらぎらと輝いている。厚い板状になったものは、なかなか割れない。この氷
塩は、台風によってはこばれてきた彼のしぶきが、岩礁のくぼみにたまり、それが乾風によって水分の蒸発を早め、
濃縮された塩が積もり、さらに真夏の太陽によって自然の塩ができたようだ。それこそ、全く人手の加わっていない
真の天日製塩なのである。




8.カツオブシ工場でのカツオブシ作り


出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(15頁) 
原文:「カツオブシ工場でのカツオブシ作り」  







(9)  明治三十年代の島の住人たち
 

出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(16頁上) 


※4 管理者:中央下の猟銃を持つ人物が古賀氏ではないかと思われるが、あくまで推察である。古賀
辰四郎氏は沖縄に初めてピストルを持ち込んだと言われる。未亡人の花子さんは辰四郎氏のことを、
「大変なハイカラさん」と語っておられる。この写真の人物は腰に帯ではなく銃の弾帯をまいており、下
の 鰹節工場の入り口に立つ古賀辰四郎氏と言われる写真の帯も帯にしては小さく、白色系統の和服
に弾帯をまい ているようにも見える。また帽子は西洋のものの様である。上の「カツオブシ工場前での
記念写真」の添付した高橋氏の指摘では、「白い着物を着て帽子をかぶり、ステッキを ついているのが
古賀辰四郎氏で ある」と書いておられる。あの写真では小さくてよく分からないが、これらの情報から
写真の人物は古賀氏 の可能性は高いと言っていいだろう 。   








(10)  カツオブシ工場の入り口  立っているのは古賀辰四郎さん


出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(17頁) 
原文:「カツオブシ工場の入り口  立っているのは原辰四郎さん」とあるが、 「原」ではなく「古賀」の間違い。  
第11管区海上保安庁の写真には門が写っているが、意志の形からすると古賀氏が立っているのはその門のようで
ある。  









(11)  南小島にいた海鳥


出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」 (19ページ 下)  
原文:「南小島にいた海鳥」  
※7 海鳥とあるのはカツオドリのこと。今は絶滅や希少種に指定されている。 ひょっとしたらこれが日本で写真に撮
られたカツオドリの第一号の写真家も知れない。アホウドリ、クロアシアホウドリ、カツオドリ、アオツラカツオドリ、など
が、当時は数十万羽いたと言われている。 











(12)  島の斜面に咲き乱れるユリの花


出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号 「特報、尖閣列島波高し・無人島ではなかった」(16頁下) 
写真の原文:「島の斜面に咲き乱れるユリの花」  

管理者:九州大学・長崎大学合同調査隊報告書にもこのテッポウユリが咲き乱れていることが書いてあり、高良鉄
雄教授の調査の写真にも大きなテッポウユリを持つ教授の写真が掲載されている。魚釣島には今も百合が咲いてい
るのだろうか。 













宮島幹之助の撮影した尖閣諸島の写真



以下三点は東京地學協會編「地学雑誌」第拾貳集・  
明治33年自第百参拾参巻・至第百四拾四巻に掲載されたもので、である。  







(13)  黄尾嶋西南側古賀村の人家 

 宮島幹之助撮影  

実は当時いかなる理由からか魚釣島と久場島(黄尾島)が間違って認識されていたらしい。 
そのことは奥原氏や高橋氏らが示されている。今までの資料によると住居があった島は 
魚釣島・久場島・南小島である。 







(14)  黄尾島波止場上涯下 (日章旗が翻る)


「小屋の側に白く見ゆる日章旗の風に翻れるなり」と書いてあるが、当時の写真技術では日章旗が  
はためく瞬間を捉えることができなかったのだろうと、妙に時代の推移を実感した。  









(15)  黄尾島波止場 
























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開拓時代に作られた地図