尖閣諸島問題の概要
尖閣諸島の名前は黒岩恒(当時沖縄県師範學校博物農業教師教諭、後国頭郡組合立農学校長)の命名に由来
する。明治33年古賀辰四郎が永康丸を尖閣諸島に派遣した時に氏は校命により調査にと同行し、魚釣島の調査に あたった。この調査結果を発表した地學雑誌第140巻「尖閣列島探検記事」(明治33年)の中に次の文がある。
※2黒岩は釣魚嶼の東方に位する二小島と、数個の岩礁の総称を「尖閣諸嶼」 と名付けるに当たって、日本帝国海 軍水路部が作成した「日本水路誌」の「ピンナクル諸嶼(尖頭諸嶼)」と英海軍水路誌にある「The Pinnacle group」を 参考にしているが、北小島と南小島の二島だけでなく魚釣島・久場島などを含む列島全体を「尖閣」としたのは北小 島や南小島の様相が影響している様である。 ※3「尖頭」とは日本水路誌にあるピンナクル諸嶼(尖頭諸嶼)のこと。
今は全て無人島ですが、かつて魚釣島・久場島・南小島には鰹節工場があり、明治40年には99戸、248人が住
んでいました(奥原敏雄)。上図は明治34年出版の地学雑誌第13集(東京地学協会)に掲載された上図 「黄尾島 之図」ですがはっきりと 「古賀村」と書かれています(拡大図)。。
※注 面積などは資料によって数値が若干異なります。上図の数字は牧野清著「尖閣諸島・日本領有の正当性」1
24・125ページの「(十二)尖閣列島の諸元」1996年(平成8年)10月現在によるものです。
その中に次の記事があります。
(7)大正島を除く他の島々は近年まで古賀氏の所有であったが、現在は埼玉県の実業家栗原國起の所有です。
(8)ホアピンサは、英国サマラン号(1843〜1845年来琉)の琉球訪問記に記された島名である。
※ 島々に番地が付けられたのは一九〇二(明治三十五)年である。八重山大浜間切登野城村に編入された。
一九一四(大正三)年には石垣市登野城に改められた。
※ 最後の項目の縦横の数値は凡その大きさを推定してもらうために地図から計算したもの。従って非常に不正確
である。
中国(北京)語はこのホームページの設定では表記できないので中国名は記さなかった。
我が国政府はこういう在野の者の優れた見識や努力に報いる気持ちが少しもない。というのは尖閣諸島の地図にこ
れらの地名は何一つ記されていない。大正10年(1921年)7月25日、赤尾嶼を「国有地」編入するに際して、「大正 島」と改称します。にもかかわらず、つい最近まで国土地理院の地図に赤尾嶼とあり、久場島は沖縄の住民が昔か ら使っていた久場島ではなく、黄尾嶼と書き続けていました。
いいえ未だに民間の地図にはまだ幾らも残っています(平成15年時)。日本の領有に横やりを通しているのが中国
でなかったらいいのですが、相手が中国の場合は必ずそのスキをつかれます。たとえば下に引用した北京週報もそ うです。
今ではインターネットでは多くのサイトで、大正島・赤尾嶼、久場島・黄尾嶼、東支那海・東海、魚釣島・釣魚島と二つ
の名を並記し、その上に「領有権争いがある」と書いているものまである始末です。
私達の先人が付けた名前は誰も使用してくれません。地名で言えば魚釣島には奈良原岳(ならはらだけ)、屏風岳
(びょうぶだけ)、道安渓(どうあんだに)、大渓(おおたに)、小渓(こたに)、尾瀧渓(おたきだに)、阿蘭陀曲(おらん だまがり)、安藤岬(あんどうさき)、東岬(あがりさき)、西岬(いりさき)、北岬(きたさき)、佐藤水道(さとうすいど う)、永康礁(えいこうしょう)、和平泊(わへいどまり)、千畳岩(せんじょういわ)などがあり、北小島・南小島には、三 尊岩、イソナノセト、伊沢泊、新田の立石がありますし、久場島には千歳山、永康山、満川原、赤川原、馬追原、東 岬、西岬などがあるのです。
日本政府がいくら「領有権問題は存在しない」と言っても、世界ではどんどん中国主導の流れが強くなっています。
「自分たちの国土は犠牲を払っても守る」という覚悟と努力がなければ尖閣諸島はいずれ中国の手に落ちます。その 後で何を言っても何をやっても遅いのです。無知であったという反省が残るだけで、尖閣諸島は二度と私達の元に返 ってきません。
どうでしょうか。私がこのホームページの「初めに」の中で言っている、「尖閣諸島の政府独占は危険だ」というのが
事実だとお分かりになってもらえたでしょうか。私は日本政府に尖閣諸島は管理できないと考えています。政府が管 理すれば中国の思いのままになる。尖閣諸島は危険であると断定します。尖閣諸島を民間に開放し、日本経済に組 み込む案を在野の賢人に仰ぐべきです。そしてその構造を守る為に政府は行動すべきです。
我が国が尖閣諸島の領有意志を明確にしたのは、一八八五年(明治十八年)沖縄県知事西村拾三が、尖閣群島
を同県の所轄として国標を建設したい旨大政大臣宛に上申して以来のことです。
上申を受けた井上外務郷は、尖閣諸島が清国福建省境に近いことから、清国との間に問題の起こる事を恐れ、こ
れを退けました。中国人はこれをもって「日本は中国の領土と分かっていたから奪う機会を狙っていたのだ」と言いま す。それは邪推というもので、自分たちだったらそうする(現代の南沙諸島も尖閣諸島に対するやり方を見れば明白) から、日本人も同じだと考えているだけのことです。併し今の日本を思えば当時の日本政府が何でそういう態度に出 たのか当然理解できると思います。当時清国は大国で日本は完全な小国です。明治の日本が領有権を表だって主 張できなかったことは当然です。併しそれは尖閣諸島が清国の領土だと認めていたからではなく、あくまで当時は大 国であった清国との間に問題の起こることを恐れた結果にすぎません。
併し沖縄県では、その後も尖閣諸島近辺において漁獲や探検を試みる者があったようで、沖縄県知事は明治23
年(1890年)、明治26年(1893年)と相継いで同県の所轄方と標杭の建設を、内務および外務両大臣に上申しま した。下に引用した「久米赤島久場島及魚釣島版図編入経緯」の中にそのことが書いてあります。
明治28年(1895年)3月14日、閣議で魚釣島・久場島を沖縄県の所轄と認め、沖縄県知事の上申通りに所轄標
杭を建設することを決定(勅令十三号)し、その旨を沖縄県知事に指令しました。翌明治29年4月1日、沖縄県知事 は勅令十三号に基づき同列島を八重山郡に編入させる借置をとりました。この尖閣列島に対する国内法上の編入借 置により尖閣列島は正式に我が国の領土に編入されたのです。
日本は清国と戦争になって初めて尖閣列島領の意志を表明できたのです。それまでは清国との争いを恐れ明らか
にできませんでした。日清戦争で日本は尖閣諸島を奪い取ったと言われるのはこのためです。ですが、よく考えて下 さい。当時の世界には未発見の土地があってそれを発見した国が領土に編入した時代です。そして、いつでもどこで も本当のことが言えるというのは大国の論理です。百年後の現在も本音を言えない民族や国家が沢山あります。戦 後の敗戦小国の日本は再び三度事なかれ主義に陥り何も言えない、言わない時代が続きました。今もそうです。経 済大国となり尖閣諸島を領有している現在ですら政府は中国との争いを恐れ尖閣諸島に上陸し領土を侵犯した中国 人を中国の圧力に屈し法律で罰することなく帰国させました。こういう態度が中国や台湾につけ込まれるスキを与え てしまい、問題をこじらせてしまっているのです。
(ア) 一八九五年六 月十日付で野村靖内務大臣にだした古賀氏の「官有地拝借御願」
(改行は私がしたものです−管理人)
(イ) 古賀辰四郎の開拓事業
尖閣諸島が我が国の領土に編入された明治28年に、民間人である古賀辰四郎から魚釣島、久場島、南小島、北
小島の4島に対し国有地借用願が出されました。翌年、明治政府は同人に対しこれら4島を30年間無料で貸与する ことを許可し、島には延べ数百人の労働者が送り込まれ、桟橋、船着場、貯水場などが建設され、開拓が進められ ました。
当時、魚釣島と南小島ではカツオ節、海鳥の剥製などの製造が行われ、現在も石垣を積み上げたカツオ節工場
跡が残っています。
昭和7年(1932年)には開拓者から魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島の払い下げが申請され、有料で払い
下げられました。
現在は無人島となっていますが、昭和44年に石垣市により地籍表示のための標柱が建てられました。また不法
上陸する台湾人があったために米国民政府と相談の上米国民政府が予算を出して警告版も建てられています。
要旨は次の5点である。 (1) 釣魚島などの島嶼は昔から明代に中国の海上防衛区域のなかに含まれていた。 (2) 釣魚島などの島嶼は琉球に属するものではなく台湾の付属島嶼である。 (3) 中国と琉球との境界線は、赤尾嶼と久米島とのあいだにある。 (4) 日本政府は日清戦争を通じて釣魚島などの島嶼をかすめとった。 (5) 第2次世界大戦後日本政府は釣魚島などの島嶼をアメリカに渡し、アメリカ政府はこれらの島嶼にたいして「施 政権」をもっていると一方的に宣言したが、これはもともと不法なものである。
以下各項目ごとに論じていこう。 (1) 釣魚島などの島嶼は昔から明代に中国の海上防衛区域のなかに含まれていた。 この根拠になっているものは鄭若曾(ていじゃくそう)『籌海図編(ちゅうかいずへん)』だと思われます。鄭若曾は 井上靖氏は同書巻一の「福健沿海山沙図」をもち出して、その中に釣魚台などの見出されることをもってこれらが中 国領の島嶼とみなされていたとされる。 1.魚釣島が明国の領土であった事実はない。 「尖閣諸島は明代に中国の台湾付属島嶼であったのであろうか。『明史』では、台湾は東蕃として「外国列伝」に入 れられており、台湾北部の鶏籠山(今の基隆)も「外国列伝に含まれている。このように、明代には、尖閣諸島はもち ろんのこと、台湾の北部(基隆)や台湾北東の彭佳嶼、花瓶嶼、綿花嶼、などに中国の支配は及んでおらず、また、 中国は領有の意志も持っていなかった。台湾は、隋や元の遠征を受けたことはあったが未開の地であり、明代にな って倭寇の根拠地ができ、明末一七世紀初頭にはオランダ人が南部にゼーランジア城などを築き、スぺイン人がマ ニラから来て北部の基隆などを貿易の根拠地にしたが、間もなくスペイン人はオランダ人に追われ、約四〇年のオラ ンダ人支配が続いた。 一六四四年に明を滅ぼし北京に入城した清は一六八一年には華南も平定した。しかし、清朝に抵抗する鄭成功は 一六六一年台湾に渡ってオランダ人を駆逐し、ここを根拠にさらに続けたが、一六八三年、台湾に出兵した清軍の軍 門に降り、ここにはじめて清は台湾を中国の版図に入れ、福建省所属の台湾府を置いたのである。従って、明代に 尖閣諸島が「中国の台湾付属島嶼」であった事実はない。 芦田健太郎著「島の領有と経済水域の境界確定」第三章尖閣諸島・島の領有問題と排他的経済水域の画定 (2) 釣魚島などの島嶼は琉球に属するものではなく台湾の付属島嶼である。 (3) 中国と琉球との境界線は、赤尾嶼と久米島とのあいだにある。 (4) 日本政府は日清戦争を通じて釣魚島などの島嶼をかすめとった。 (5) 第2次世界大戦後日本政府は釣魚島などの島嶼をアメリカに渡し、アメリカ政府はこれらの島嶼にたいして「施 政権」をもっていると一方的に宣言したが、これはもともと不法なものである。
井上京大教授の尖閣諸島中国領有論
井上京大教授(日本史)の尖閣諸島中国領有論というのは、周恩来が日中国交回復の際に「尖閣列島の問題にも
ふれる必要はありません。竹入先生も関心が無かったでしょう。私も無かったが石油の問題で歴史学者が問題に し、日本でも井上清さんが熱心です。この問題は重く見る必要はありません。」と公明党の竹入委員長に発言したこ とから注目されたものです。
以来その著書「釣魚諸島の史的解明」などが大きく取り上げられることになったものである。併し既に国際法の立
場から国士舘大学の奥原敏雄教授が詳細に尖閣諸島の日本領有の正当性を証明しており、国際法関係者の中で は現在も奥原教授の論文が支持されいる。にも係わらずの奥原教授の論文等はマスコミから無視された。井上教授 (歴史学)の著書を読んで頂いたら一目で解ってもらえるが、中国共産党の「日本がアジアを侵略した、中国を侵略し た」という日本帝国主義侵略史論のイデオロギー的色彩の強いもので、今では中国共産党政府のご用学者若しくは 共産主義イデオロギー学者であることがハッキリしている。「居直り強盗とか帝国主義的強盗の論理をむき出しにし たもの、故意に歴史を無視している、佐藤軍国主義政府、反中国の日共、軍国主義と二セ愛国主義」をあおりたてる ことにやっきになっている」と罵倒し、冷静に真実の人類史を見ていないし、国家間の関係を規定する基本法である 国際法すら帝国主義理論だと否定している。
学問の人とは思えぬ暴言暴論であり、そこに真実も学問に携わる者の真摯な姿勢はどこにももない。時代錯誤の
イデオロギーの徒の罵倒の言葉である。田中邦貴氏(尖閣諸島問題)や私が日本の尖閣諸島領有に問題がないこ とを証明するサイトを始めた時、未だインターネットの世界では井上教授の「釣魚諸島の史的解明」だけが巾をきかし ていた時でした。今では井上教授の理論は全く相手にされなくなりましたが、一部の人間達は周恩来やケ小平秘録 の言葉と共に熱心に引用しています。
井上清京大教授の主張の要旨は次の通りかと思います。
(1) 歴代冊封録などの古文書には久米島と赤尾嶼(大正島)の間が中国と琉球の「界」と書かれている。
(2) 林子平の『三国通覧図説』古代地図には尖閣諸島が中国本土と同じ色に色別されている()
(3) 鄭舜功の『日本一鑑』には台湾の付属嶼として記されている(。
(4) 清朝の西太后が、釣魚台(魚釣島)を盛宣懐に下賜した記録がある。
ここには国家間の関係を規定する国際法の見地はどこにもありません。初めて読んだ時、私はこれは歴史的見地
と言うより中国人民民主主義共和国(=中共)を守る為の論理を振り回す御用学者だと感じました。今でも彼を支持 する意見は多くありますが、その殆どが間違ったイデオロギー史観を基本とする人たちです。
私が奥原敏雄国士舘大学教授(国際法)の論文を数多く引用しているのは、我が国も含め如何なる国も国際法とい
う存在を認めない限りこの世界から争いのない世界を実現することができないからです。従って我が国も中国も国際 法が出した結論には従わなくてはならない。その意味で中国政府は酷さ裁縫に従うつもりがない。その姿勢は世界 にとって非常に危険です。欧米先進国はノー天気な我が国と比べればきちんと見ているけれども、今以上に真剣に 中国の拡張主義と対決しないと、弱肉強食の帝国主義を復活させてしまうことになる。
崩れ去った論拠
つぎに、前項であげたこれら中国領有説の論拠に対する反論を要約してみよう。
(1)は、『使硫球録』(一五三四)と『重編使琉球録』(一五六一)に、「古米山(久米島)からは琉球に属する」あるい
は「赤嶼(大正島)が琉球との境界」と解される文言があることから、「従ってそれまでの島は中国領である」との判 断である。が、しかし、この論拠を証拠だてるには当然、それまでの航路上にある台湾ならびに花瓶嶼、彭佳嶼など の諸島がすべて中国領であることを前提としなければならない。ところが、清朝の古文書では、台湾が中国領になっ たのは、この二つの古文書から約百二十年ないし百五十年後の一六八三年になってからである。さらに花瓶、彭佳 などの諸島が台湾行政編入されたのは、それから約ニ百二十年後の、日清戦争以後である。
このことから、尖閣列島が当時中国領であったという論拠は成り立たなくなる。 (2)は、林子平の『三国通覧図
説』(一七八五)の中の二つの地図に、魚釣り台と中国大陸の“色”が、同色の「赤」で描かれており、従って中国領 である、との説である。しかし、この「図説」の色別は、領土を表すものではなかった。もしこれが領土を示すとしたら、 当時はすでに中国領んあっていた台湾は、朝鮮領‘黄色)となり、旧満州(緑色)は日本領でなければならなくなる。
(2)は、郭舜功の『日本一鑑』(一五五六)に、「釣魚嶼は小東(台湾)の小嶼也」とあるところから、台湾の付属島嶼
だ、とするものだが、この著者は、かつて密偵だったのが、後年失脚するなど人物に信頼性がなく、この文書も当時 の明朝の公文書でないため、記l述には信ぴょう性があまりない。 (4)は、清朝の西太后(慈禧太后)が釣り魚台な どを、盛宣懐(子孫の盛毓度氏は現在東京で中華料理店を経営)に」下賜した、と称する文書があり、同島に対する 統治行為、すなわち実効的支配の証拠だとする論があるが、その文書そのものについての裏付けもなく、信ぴょう性 にとぼしい。
以上の反論は、主として奥原敏雄国士舘大学教授の論文によった(「明代および清代における尖閣列島の法的
地位」沖縄第六三号、ならびに「尖閣列島領有権の根拠」中央公論53・7月号)。
この中華人民共和国政府の声明は、同じ年の六月十七日に、日米両国が調印した沖縄返還協定への抗議に論
点が置かれたもので、この協定を「米日両国がグルになってデッチあげたペテンだ」 と、激しく攻撃した。この中国の 主張が、歴史的な事実をわい曲したものであることは、これまで述べてきたなかでも指摘された通りである。
(1) 1943年のカイロ宣言及び1 945年のポツダム宣言には日本の主権は本州、北海道、九州、四国および主要
同盟国が決定したその他の小島だけに限られるべきと定めている。したがって琉球群島の未来の地位 は、明らかに 主要同盟国によって決定されるべきである。
1951年9月8日に締結されたサンフランシスコ対日平和条約は、すなわち上述両宣言の内容要旨に基づいたも
のであり、同条約第3条の内容によって、琉球の法律地位およびその将来の処理についてはすでに明確に規定され ている。中華民国の琉球の最終的処置に対する一貫した立場は、関係同盟国がカイロ宣言およびポツダム宣言に 基づいて協議決定すべしとするものである。この立場はもともと米国政府が熟知している。中華民国は対日交戦の 主要同盟国の一国であり、当然この協議に参加すべきである。しかるに米国はいまだにこの間題について協議せ ず、性急に琉球を日本に返還すると決定し、中華民国はきわめて不満である。
(2)釣魚台列嶼に関して−、中華民国政府は米国の釣魚台列嶼を琉球群島と一括して移管する意向の声明に
対し、とくにおどろいている。
同列嶼は台湾省に付属して、中華民国領土の一部分を構成しているものであり、地理位置、地質構造、歴史連携
ならびに台湾省住民の長期にわたる継続的使用の理由に基づき、すでに中華民国と密接につながっており、中華 民 国政府は領土保全の神聖な義務に基づき、いかなる情況下にあっても、絶対に微小領土の主権を放棄すること はで きない。
台湾の主権問題棚上げ論 [編集]
台湾の場合、尖閣諸島は台湾島に付随する諸島の一つであったが、1895年の植民地化以来、日本に領有権を奪
われており、抗弁の機会すら与えられなかったとする考えが強く、日本の植民地責任論や尖閣諸島沖の漁業権問 題も絡んでいる。中華民国(台湾)の台湾独立派の政党で李登輝率いる台湾団結連盟(台連)は、尖閣諸島は日本 固有の領土であると主張しているが、台湾では少数派にとどまっている。
ただ、台湾側は、2008年秋ころ、尖閣諸島の主権問題の棚上げ・周辺海域の共同資源開発を提案し、漁業権交渉
を優先させる方針を明らかにしている。中国の海洋調査活動について「問題を複雑化する」と牽制し、日本との間にト ラブルに対処する緊急連絡窓口を設けることで合意するなど、中国とは一線を画する立場に傾きつつある。
2009年3月、アメリカのオバマ政権は、「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本政府の施政下にある。日米安保条約
は日本の施政下にある領域に適用される」とする見解を日本政府に伝えた。だが同時に、「アメリカは尖閣諸島の領 有権(主権)については最終的に判断する立場にない、領有権問題は当事者間の平和的な解決を期待する」とし て、中立的な立場を強調している。すなわち、アメリカは、尖閣諸島に対する日本の「施政権」を認めているが「主権」 を認めたわけではない、ただ、日本の施政下にある尖閣諸島が武力攻撃を受けた場合は(日米安保条約5条に基づ き)共同防衛行動をとる、というものである。この見解は、クリントン政権時の1996年と、ブッシュ政権時の2004年 に、米政府高官が示した見解と変わらないとされる。
大正九年(1919年)の冬、魚釣島近海で中国人が遭難しているのを古賀氏が見つけて救出。八重山島庁(当 時)、石垣村役場も総出で救援活動を行い、31名を無事本国に帰還させた。このことに対して中華民国の長崎領事 が感謝状を贈った。石垣市在住の元同市助役で郷土史家牧野清氏によると感謝状は玉代勢氏のほか、石垣村長 (当時)の豊川善佐氏、古賀善次氏、与那国島出身の通訳松葉ロブナストさん計四人に贈られた。現存するのは、玉 代勢氏あてたこの一枚だけである(※注)。同氏の長男、冨田孫秀氏が石垣市に90年頃に寄贈された。
また魚釣島の所有者古賀善次氏は、「それに、中国もかつてははっきりと日本領土と認めているんです。事実もあ
りますよ。大正八年、中国福建省の漁船が、尖閣列沖合いで難破しました。そのとき、たまたま私の船がそれを発 見し、難破船と三十一人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。私だけでなく、石垣の人た ちも彼等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。翌年ですよ、中国政府から私をはじ め石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。その宛名は、日本帝国沖縄県八重山郡島尖閣列島でしたよ。い ま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になっています。個人からの手紙ではありません。政府とし ての感謝状なんです。ええ、いまでも保存してありますよ。」『現代』(講談社)第6巻第6号(1972年6月)142-147 頁、「毛さん、佐藤さん、尖閣諸島は私の所有地≠ナす」(「れっきとした証拠」持ち出し名乗りあげた地主≠フ 言い分)
この感謝状の中で中華民国長崎領事は、魚釣島のことを
「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」と
記し、救助した島民を
「日本帝国沖縄県八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君」と明記している。 「和洋島」というのは魚釣島の日本名である。(牧野清著「尖閣諸島・日本領有の正当性」124・125ページ) つまり、当時の中国政府は、魚釣島のことを日本国の八重山郡尖閣列島内和洋島(魚釣島の日本名の一つ)と間 違いなく認識していたのである。今中国を代表する政府は、中華民国政府から中華人民共和国に替わっています が、政府が替わったからと言って、この認識をなかったと否定することを国際法は認めていません。
「尖閣羣(群)島」となっている。
全ての教科書は撤去され新たにこの地図が掲載された。
「釣魚台列嶼」となっている。
中国は、尖閣諸島は日本帝国主義により掠め取られたもので、中国が歴史上ずっと尖閣諸島を自国領土としてき
たと言いますが、それは以上のことから事実とは違うと断言できます。何故なら、もしそれが事実ならば、かくの如く 「掠め取った」と、他国を盗人や泥棒の如くののしる国が、それまで放置してきた筈がないからです。はっきり言えば これは嘘です。嘘を言って力で強弁して押し切ろうとしているのです。その背景には「中華艇庫主義」の復活が懸念 されます。
(ハ) 牡丹社事件 −「日清両国間互換議定書」に書かれたこと−
明治4年(1871年)に牡丹社事件というものがありました。那覇に行った宮古島の貢納船がその帰りに暴風雨で
遭難し、台湾南部に漂着、乗員69人のうち3人が水死、残りは台湾原住民族・パイワン族の集落、牡丹社に救助を 求めたが、54人が殺害された。生き残った12人は翌年、中国・福建省を経由し那覇に命からがら帰ったという事件 です。
外務卿副島種臣は1873年に北京を訪れ、清国政府と直接交渉しましたが、清国政府は、台湾の住民は「化外の
民」で「教化の及ばぬところ」と事件に対する責任を拒否したのです。清国政府が台湾に住む部族のしたことを、我が 国の教化の及ばぬ者達が為したことであるから、自分たちに何も責任はない、我は関知しない、責任は取らぬという のです。これは台湾は我が国の領土ではないと世界に対して発言したものです。台湾の住民すら「化外の民」である と言う国が、どうして尖閣諸島を自国の領土と考えていたでしょうか。誰だって甚だ疑問があると言わざるをえませ ん。さて、この通知を受けた明治政府は1974年、自力(日本の国家主権の行使)で牡丹社を懲罰する為に「台湾出 兵」をします。
「民を保つ義挙」の民とは遭難した宮古島の者のことであり、それを日本政府との外交文書で示したということは、
宮古島の人間は日本国民であると清国政府が正式に認めたということです。つまりこの「日清両国間互換議定書」 (日清両国間互換条款?)により、清国は琉球は日本領土であると認めたのです。ここで沖縄は日本の支配する領 土だと日中間でも国際法の上でも決定したのです。
下は台湾のあるサイトの記事です。
この中に、「這是更大的損失,等於承認日本有權保護琉球」とあります。私は漢文を読めないので大体しか分かり
ませんが、およそ、「(清国政府は)大失敗をやらかしてくれた。これは日本が琉球を保護する権利があると承認した に等しい」と言っているようです。
これで、中国の中にある、「沖縄は本来清国の属国であり、尖閣諸島が沖縄に属していたとしても、琉球そのもの
が清国に属していたのだから、尖閣は当然中国のものだ」という議論は成立しません。
(ニ) 再び、中国も台湾も尖閣諸島を日本領であると認めていた
次に奥原敏雄教授(国士舘大学・国際法)の、「尖閣列島問題と井上清論文」(アジアレビュー)における指摘を引
用したいと思います。
中国と台湾はこれだけの事実を無視して、尖閣諸島は古来より我が国の領土だと強弁しているのです。彼らの領土
に対する感覚は、私達日本人とも世界の常識とも全く違います。彼らが中華思想を持つ覇権国家であることを私達は 一瞬とも忘れてはならないのです。中国を相手に、油断をしたり、相手を疑ることは良くない事だとか、善人であろうと したり、共同開発などという甘い言葉に惑わされれば、尖閣諸島は彼らに奪い取られ、永遠に我々のもとに帰らなく なるでしょう。
常設国際仲裁裁判所の判例
1928年4月4日確定
<パルマス島事件>
パルマス島は、ミアンガス島などともいう。米国のフィリピン群島に属するミンダナ島のサン・オーガスチン岬とオラン
ダ領東印度諸島に属するナヌサ群島の最北端の島との中間に位置する1つの孤島である。
米国の提督が、1906年の1月21日にそこへ訪問したことから始まる。彼は、そこが米国領土だと信じていたところ、
オランダ国旗が翻っているのを見て驚き、この旨を米国陸軍長官に報告した。そして、同年3月31日からオランダと米 国との外交交渉が、開始した。しかし、解決せず1925年1月23日に仲裁裁判所に付す旨で合意した。
<当事者の主張>
・米国は1898年の米国・スペイン間のパリ条約でスペインからフィリピンを譲り受けた。
→フィリピン群島の一部であるパラマス島も含まれるから米国のもの
そこで、その島がスペインのものであったのかを証明してみる必要がある
パルマス島は、スペインが発見
このことは、多くの地図で確認でき、また1648年のミュンスター条約で承認されている。
パルマス島は、フィリピンの地理上の一部を構成しているので隣接性の原則 により、米国の主権に属する。
・オランダは、スペインによる発見、その他の取得も立証されていないことを主張。。主要な主張は1677年からまた
は、1648年以前から今日まで主権の諸権利 を保有しかつ行使している。
<判旨>
発見による領域権原は、継続的かつ平穏に国家的機能を行使することで取得される領域権原に優先しない。また、
隣接性の原則は、領域権原にはならない。したがって、米国の主張は、退けられた。
つまり国際法は、「島の発見による領有権主張より、継続的且つ平穏に主権行為を行っ
てきた国家の領有権主張が優先される」というこきとが1928年に既に決定していたの である。
明治5年(1871)政府は琉球王国を琉球藩となし日本に組み入れました。このことに王族が反対し清国も反発しまし
た。併し日本政府は当時の東アジアの大国であり盟主である清国との関係よりも「西洋」と「万国公法」を主体とする 世界に属する道を選択しました。鎖国を解除した日本政府は自国やアジアを基本とするのではなく、世界の中のア ジアの一員として生きる道を決意したのです。これが後で日本と清国や朝鮮との紛争の火種になります。
明治12年(1879年)、明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入しました。同年中に
沖縄県を設置。沖縄も清国も反発はしましたが結局はこれを受け入れます。既に書きました様に、大正9年(1920 年)に台風で遭難した中国人を尖閣諸島で働いていた日本人が救出に当たったことに対して中華民国政府は4通の 感謝状を贈りましたが、其処には日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島和平山という文字が記載されています。遺言 書と同様に国家間の関係を定める国際法は後の証拠が優先します。従ってこれ以前の発見記載などを根拠とする 中国の領有の主張は消滅します。また中華民国から中華人民共和国に変わってもその法的根拠は次の政府に受 け継がれることを国際法は保証しています。
【沖縄編入について】
今から顧みれば問題はあったかも知れませんが、賢明な判断だったと言わざるを得ません。何故なら琉球が日本
に編入されていなければ、西洋は琉球に手を付ける可能性が高かったからです。そうなれば当時の日本も中国も琉 球を守れません。そうなると今日の東アジアが果たして存在できたかどうか疑わしいものです。柳田国男によると沖 縄の言葉は古事記や日本書紀といった大和朝廷設立以前の日本のルーツを示しておると言います。琉球国は古来 より日本語圏の国であり、琉球の日本編入は沖縄のためにも日本の為にもアジア・世界のためにも最も良かったと 判断します。但しそれは日本に組み入れられた後の沖縄に対する日本政府の治世に問題が無かったと言うのでは ありません。沖縄県民も我々も共に日本国の一員として協力し合い、尊敬し合い日本という国を形成していかねばな らないのです。
このホームページの最初に書きましたが、私は尖閣諸島の領有権問題を解決する方法は、直ちに尖閣諸島の政
府独占を排除し、尖閣諸島を広く民間に開放し、これを日本経済に組み入れることだと考えております。それも大至 急にです。これが最も優先されるべきことなのです。国際法の認める領有の意思と実体は、国民が現に居住し、生 活を営み、その国の経済に組み入れられていることに勝るものはありません。尖閣諸島を民間に開発させる行動は 既に遅きに失していますが、中国が尖閣諸島に対する支配意思を明確に示している以上、それは尖閣諸島を領有す る国家として当然なしてよいことでせあり、且つ為さねばならぬ行為なのです。そうしなければ、その領有意思と根拠 を世界から疑われます。その当然の行為をなした上で、国民の経済生活と身体と財産が中国・台湾によって脅かさ れる恐れがならば、その時に直ちに、広く世界に彼の非を唱え、堂々と国民の生命と財産を護るために自衛隊を駐 屯させればよいのです。中国政府と台湾政府が尖閣諸島の領有意思を明らかにし、尖閣に向かう国民の取り締まり をなさない現状では、その為の準備は公然と堂々と当然なされてしかるべきです。事が起きないのを頼むのではな く、事が起きたら直ちに確信をもって的確な対応ができる為の備えを為すことが、独立国のなすべき対応でありま す。 こせこせとした今の政府の態度は国内的にも国際的にも良くありません。
尖閣諸島の島々はいずれも国際法で言う島嶼であり、そこに領海と排他的経済水域を有する国際法上の島嶼であ
ります。それは国連海洋法という国際法に定められているところのものです。
併し尖閣諸島を守るものは国際法ではなく、私達の日本人としての気概です。独立国家に生きるものとしての自負
心です。それがなければ、いずれ尖閣諸島は中国のものになります。私達は尖閣諸島は当然日本の領土だから、こ れを中心として領土と排他的経済水域を東シナ海に有していると思っていますし、自分たちの考えは絶対に正しいの だから国際法と国際世界は日本の尖閣諸島領有を支持すると考えています。ところが気が付いてみると、今尖閣諸 島に対する我が国の領有権は世界的に見れば支持する国がどれだけいるでしょう。日本の国連に於ける常任理事 国入りを支持する国より少ないのが現実かも知れません。
我が国政府は怠慢に過ぎました。併しそれだけが原因ではありません。そこには国民の無知と油断もありました。
そして、何より中国の三〇数年に及ぶ飽くなき努力があったからです。このままでは我が国はとても中国に太刀打ち できません。
我々の頭の中には尖閣諸島は当然我が物という考えがあります。そこに油断があったのです。正しければ世界が
守ってくれる。仲良くしていれば必ず理解してもらえる。悪いことをしなければ憲法が守ってくれる。それが油断を生じ させたのです。中国は私達と違い、国家戦略として東シナ海を我が庭となそうとしており、尖閣諸島を日本から奪うこ とは絶対に必用であるとして、手に入れる為の方法を国内・国外に着実に実行してきました。日本を支援する国々を 離脱させるという、地道な作業を着実にこなして、日本の目に見えないところで外堀を埋めていたのです。
現行憲法は我が国の生存を、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」保持しようと決意しています。併し、
中国は我が国の平和など愛していません。世界の平和も愛していません。愛するのは、自分たちの安全と生存と発 展の為に自分を犠牲にして中国の安全と生存と発展に貢献する日本です。自分たちの考える安全と生存と発展を支 持する世界の平和です。そんなものが平和でしょうか。併し彼らはそういう平和と秩序構築を目指し、95年からの僅 か10年の間に国防費を3倍増させているのです。これは何を意味しますか。
「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的
なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」(憲 法前文)とは中国も北朝鮮も信じてなどいないのです。これでは日本が太刀打ちできる筈がありません。
日本が尖閣諸島を永遠に領有することを世界も国際法も認めますが保証はしません。況や日本のために行動して
はくれません。最後は国家間の意志のぶつかり合いです。それが現実世界です。常に努力しない者を守るほど世界 も国際法も甘くはありません。最後に自国を守るものは、世界でも、国際法でもなく、日本国政府と日本国民の自ら の国土は自ら守るという覚悟です。それがなければ世界も国際法も日本の尖閣領有を積極的に支持できないので す。私達は法的には日本の領土である筈の竹島を韓国に、北方4島をロシアに現実に奪われているではないです か。それらは未だに帰ってきていないではないですか。国際司法裁判所に訴えたくても国際司法裁判所の規定では 相手国の同意がないと裁判は開かれません。世界はそういう段階なんです。その現実を見れば我が国の為すべき 道は自ずから明らかとなります。
戦後日本の人間観・世界観が間違っているのです。我が国の憲法が正しく、世界が間違っているというのは、それ
こそが間違いです。思い上がりもいい加減にしてもらいたい。これほど日本人のむ思い上がりと無知を示すものはあ りません。憲法そのものが間違っている。この憲法は人間と日本人を侮辱するものである。それすら日本人には分か らない。私が他国の人間なら、「どうぞ日本はそのまま生きて下さい。そして憲法と共に滅んで下さい。ただし私達に 迷惑がかからないように亡国の民となってください。亡くなってから世界に救いを求めるのだけは止めて下さい」と言 うだろう。「ただし、資金援助はまだまだして下さいよ」とだけは付け加えるであろう。
即ち、憲法が間違っているだけではない、それ以上に、日本人の心根が間違っているのである。この憲法の本質
が占領基本法である。にも関わらず、平和憲法であると言うが如き日本人の心根が間違っているのである。重箱の 隅をほじくるとはこのことかと言いたくなる。重箱全体の食物が腐っているのに、必死で腐っていないご飯一粒を見い だして、「この弁当は大丈夫だ、美味しいぞ、美味しぞ」と大声で人々に叫んでいるアホな人間に日本人が思えてく る。
私達は35年前に台湾と中国と韓国が尖閣諸島の領有権を主張した時に彼らに対してハッキリと言わねばならな
かったのだ。「尖閣諸島は我が日本の領土である。これを君らが自国のものだと言うことは決して許さない。我が国 の領土を侵すが如き行動を為すならば断固たる処置を取る」と。
今からでも、遅くはない。「日本政府と日本国民は必ず尖閣諸島を守る。我が国の権益を不法に侵すことは絶対に
認めない。犯すことあらば国民の血を流してでも必ずこれは守る」と明言すべきである。それが出来ないなければ、 尖閣諸島の帰属問題は今後も揺れ動くし、時間と共に尖閣諸島の帰属は中国の意思次第という事態になっていくで あろう。 その他の事
さて、本題に戻ります。
奥原敏雄教授(国士舘大学・国際法)は、先に引用した「尖閣列島問題と井上清論文」(アジアレビュー)の中で、
明治以前の琉球国人と中国人との尖閣の認識について興味ある文章を書いておられます。
(■人とは福建省の人間のことだと考えて下さい)
注 ■は表示することの出来ない文字です。 漢字で、門の中に虫です。このホームページ制作ソフトではこの■の
漢字がコードにないらしく表されません。
辞典によると、福建省は古代■人の領域であり、戦国時代に楚に滅ぼされた越王族が■に逃げ込んだため、■越と
呼ばれるようなった。紀元前221年秦帝国に征服され、■中郡が設置されたが、秦末の動乱期に■越国として独立 した。とありますし、福建省の略称は■とあります。
私もそうであったように、これを読んでハッと気が付かれる人が多いのではあるまいか。中国人は、自分たちが尖閣
諸島を発見し命名した」のだ言っているが、真実は違うじゃないか。本当は、中国人は島の名を書き残しただけで、 実際は琉球人が案内した航路でこれを見ただけの冊封使が、報告書に勝手に釣魚嶼と書き記しただけのことで、尖 閣諸島近海は琉球人が最も知悉し、琉球人だけが往来する海であったのだ。
従って、中国の言う、「釣魚台は自分たちが発見し、命名したのであり、釣魚台は自分たちのものだ」という発言は
歴史的事実ではないのである。
既に書いたように、中国・台湾との尖閣諸島の帰属問題の処理は、この様な古い歴史にさかのぼる必用はない。
明治後の歴史だけで十二分なのである。それは国際法が1928年の判例以来、発見だけでは領有権が生じないと しているからで、しかも、歴史をさかのぼってもこの様な状況なのである。
これで分かることは、特に中国の尖閣諸島の領有権主張は、事実に基づいた主張ではなく、政治的・軍事的・経済
的必要性と欲求から主張なのである。これを世界では覇権主義と言う。古くは中華思想と言った。この様なことがま かり通るならば、世界は、特に我が国も含めて東アジア諸国は、中国との互恵平等の関係も、国家の自主独立も保 つことが出来なくなる。中国の決める平和の下での国家運営しかできなくなる。国々は自主的精神を発露できなくな る。従って、日本は決して中国の尖閣諸島領有や尖閣諸島の共同領有・共同開発、我が国の排他的経済水域での 共同開発という要求に屈したり与してはならない。妥協もしてはならない。日本政府と日本国民は中国に対してよい 子であってはならない。「彼らは普段は優しくても、道理を破ることを決して認めない」と思われなくては駄目なのであ る。そうでなくては我が国の独立は脅かされる。またアジアの国々は中国の影響圏下におかれ、自主的政策・決定 できなくなる。尖閣諸島問題・東シナ海に於ける我が国の排他的経済水域の問題はその分岐点である。
(高橋庄五郎氏著「尖閣列島ノート」より)
古賀氏の開拓事業は、一九四〇年(昭和十五年)頃まで継続されていた。
さる大戦後はアメリカの統治下に入り、群島組織方により尖閣諸島は八重山郡島に包括あれ(年表53)、また琉球
政府章典(年表55)dも尖閣諸島は琉球政府の管轄となる。
一九五五年、久場島は米軍の演習地としえ使用(年表57)。翌一九五六年には国有地大正島も米軍の演習地と
なる(年表58)。
石垣市は土地借賃安定法に従い、土地等級設定の為係員十一名を派遣調査せしめた(年表60)。一九六八年、
米軍は南小島に不法上陸の上陸四十五名に対し退去命令(年表61)また不法入域者(台湾漁船)がいるので米軍
は航空機によるパトロール、琉球政府には巡視艇による巡視実施する(年表62)。
一九六九年、石垣市は尖閣諸島の行政管轄を明示するため、各島にコンクリート製の標識を建立(年表63)。
一九七〇年、琉球政府は久場島にたいする巡検を実施。 不法入域者十四人に対し退去命令(年表64)。
同年米民政府は不法入域者に対し処罰する警告板を魚釣・久場・大正・南北小島の五島に設置(年表65)。
一九七〇年以降、中国、台湾から『尖閣列島は中国領土である』との度々の抗議に対し、日本政府は『日本固有
の領土である』と繰り返し反論した(年表参照)。
日本間の沖縄返還協定により尖閣諸島も南西諸島の一部として、他の島々とともに日本に返還された(一九七二
年五月十五日)。アメリカの沖縄統治は二十七年間も続いた(年表106)。
一九七二年、古賀善次氏は南小島・北小島を埼玉県の実業家栗原国起氏に譲渡(年表112)。
一九七八年、古賀善次氏死去。妻花子さんが資産を継承(年表113)。同年花子さんは魚釣島も栗原氏に譲渡
(年表114)。
一九七八年、中国の抗議船団約200隻が尖閣諸島海域に侵入、十数日も居すわって尖閣諸島は中国の領土で
あると抗議した。但し台風接近のため雲散霧消した(年表115)。
一九七八年十月、中国の再高実力者 ケ小平氏来日、尖閣領有の棚上げ論をのべて日本国民を唖然とせしめた。
但し合意したわけではない(年表116)
一九七九年、古賀花子さんは石垣市に対し小学資金として金一千万円を寄贈した(年表117)。
一九八八年、古賀花子さん死去。古賀家の資産は遺言により栗原国起氏に贈られることとなった(年表118)
栗原氏は古賀家の遺産をもって財団法人古賀協会を那覇市に設立。
その果実を沖縄県のスポーツ振興に寄与している。古賀善次氏がテニスの愛好家であったことが因縁のようである
(年表119)。
一九九六年一月、古賀協会(会長栗原佐代子氏)は、石垣市八島町の小公園で父子二代、生涯を絶海の無人島
開拓に捧げた稀なる業績を讃えるため『古賀辰四郎尖閣諸島開拓記念碑』を設立した(年表121)。
現在(一九九六年)尖閣諸島の固定資産税などは、一切栗原国起氏が石垣市に納めている。
「明治政府は、彼に対してこれら4島を30年間無料で貸与した。古賀氏は、これらの島々に多額の資本を投下し、棧
橋、船着場、貯水場などを建設し、また、海鳥の保護、植林、実験栽培などを行ない、開拓事業を発展させた。この 古賀辰四郎氏が1918年に亡くなった後、その子息である古賀善次郎氏は、父の開拓事業を引き継ぎ、とくに魚釣島 と南小島でカツオブシ、海鳥の剥製などの製造を行なった。昭和元年(1926年)、古賀氏に無料で貸与していたこれら の国有地4島の貸与期限が切れたために、政府はその後1年契約の有料貸与にきりかえたが、1932年、古賀氏が これら4島の払い下げを申請してきたので、これを有料で払い下げた。現在民有地となっている魚釣島、南小島、北 小島、久場島の4島を、日本政府が年間約3000万円で所有者から借り上げている」(田中邦貴氏の「尖閣諸島問 題」より)
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