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奥原敏雄国際法教授箸
−「明代および清代における尖閣列島の法的地位」より−
季節風を利用する航海技術は、日本においては、十三世紀末頃から発達し、元との通交貿易に用いられていたことがあきらかである(この頃になると日本から中国への渡航時期も大体一定し、遭難などの事故もいちじるしく減少するようになった。王輯五原・前掲書)
また後に和寇が季節風を最大限に利用し、広東、福建などの中国諸省にまで侵寇を極めた。和冦の侵入経路や時期その他については中国でも特に研究され、いくつかの海防に関する著書が公にされている。その中でも鄭若曾『籌海図編』(一五六二年)は代表的なものであるが、同書巻二「倭国事●」は、これを次のように説明している。
「大低倭船のきたる恒に清明の後前にあり。此風候常ならず屈期方に東北風ありて多変ぜざる也。五月を過ぐれば風南より来たる。倭行くに利あらず。重陽後また東北あり十月を過ぐれば風西北より来たる。また倭の利とするところに非ず。故に防春は三・四・五月をもって大?となし、九・十月をもって小?となす」
他方琉球も、十四世紀の初めには、季節風を実際に利用するにいたっていた。すなわち洪武五年(一三七二年)琉球が中国との進貢・冊封の関係を開いた最初の頃から、琉球の進貢船載貨に胡椒、蘇木、乳香といった南洋産物資が少なからず含まれていたばかりでなく、それ以前の元延裕四年(一三一七年)、すでに琉球船(宮古船)二隻、乗員六十余人がシンガポール付近で交易をおこなっていた事実を重修『温州府志』(一六〇五年)巻十八はあきらかにしている(藤田豊八『東西交渉史の研究(南海篇)』昭和十八年)。
これら南洋諸地域との交易において琉球人がその帰途に南風の季節風を利用していたことは、いくつかの古文書によっても立証されている。すなわち安里延氏は『日本南方発展史』(昭和十六年)の中で、『おもろそうし』巻十三および『歴代宝案』所収の『南洋諸国宛琉球国王咨文』をあげて、このことを指摘されている。
「南風そよそよと吹きそめ何たれば、鈴鳴丸よ、唐南蛮よりの貢物を満載して我が君に奉れよ、追手のそよそよと 吹きそめたれば」(『おもろそうし』巻十三、安里氏訳)
「来人を寛●し、蘇木、胡椒等の物を貿易し、早く風を趁ふて国に回へらしめよ」(『歴代宝案』所収「咨文」)
「仍ち煩はし、聴くらくは、今差去の人員、早に及んで打発し、風を■ひ趁ふて、迅かに国に回へらしめよ」(同上)
ところで本節の冒頭であきらかにしたように尖閣列島を経由する航路は南風の季節風を利用することによって発達したものである。そうして南風の季節風が吹く時期は、東支那海では、さきの『籌海図編』でもあきらかにされているように、旧暦五月、六月であった。陳侃以後の歴代冊封使録において冊封船の多くが五月(残余も六月)に福州を開洋し、尖閣列島を通って琉球へ赴いているのも、この航路がこの時期にしか利用しえなかったことを示している。それだけではなくこの時期を失した冊封船や琉球の進貢船などは、翌年の同時期まで出港を見合わせるのが常であった。このことは当時において福州から那覇へいたる航路がこれしかなかったことを示唆している。ただし倭船の場合は、倭寇船にかぎらず、東支那海をかなり自由に航行していたようである。むしろ倭船においては、台湾の北にある?籠嶼から東支那海を斜に横断し『その間に島嶼はない』、宝七島にいたり、さらに「南路」を北上し、薩摩にいたっていたようである(鄭舜功『日本一鑑』「桴海図経」巻一)。
したがって南風の季節風を利用して那覇へ至る場合、その出港先が福州であれ広東であれ、また南洋諸地域からであれ、常に尖閣列島を通っていたと想像される。とりわけ福州からの場合この航路はむしろ迂回するコースであったが(直行コースはその間に目標となる島嶼がまったくないために危険であり、利用されなかった。ただし那覇から福州へ至るときは、西進すれば中国沿岸のどこかに達するから、後は沿岸伝いに福州へ入港すればよいし、場合によっては最初に達した中国沿岸に上陸することもできた。したがって那覇から福州へ赴くときは尖閣列島のコースを通る必要はなかった。なお那覇から尖閣列島を通って、福州へ入港する場合、海流の流れが逆となるためかなりの日数がかかることとなる。ただし、このコースも若干使われていたようである。程順則『指南広義』―一七〇八年―の「針路条記」にはこのコースも誌されている)。南洋諸地域からの帰途の場合、この航路はまさしく最短コースであった。したがってこの航路を利用しない南洋貿易は考えられな かったともいいうるのである。
この事実および南洋諸地域と琉球との交易がすでに一三七二年以前からおこなわれていたであろうことを考慮するならば、尖閣列島およびこの航海ルートは、琉球人によってまず発見され、その後ひんぱんに利用されるようになったと思われる。
それでは琉球船は明代および清代を通じて一体どの程度この航路を利用してきたのであろうか。これをみてみたいと思う。まず進貢船の派遣回数であるが、一三七二年の琉球・中国における冊封関係の開始から一八七九年右の関係廃止までの五百七年間に、進貢船は合計二百四十一回(明代百七十三回、清代六十八回)中国へ派遣されていた。かくして進貢船は、その復路において、同じ回数尖閣列島を経由していたこととなる。次に中国からの冊封使派遣に際して琉球は答礼のため謝恩使を中国へ派遣した。この船を謝恩船という。謝恩船と冊封船の数は一致しなければならないから、冊封船と同回数の二十三回、謝恩船が福州へ赴いていたこととなる。さらに十一人目の冊封使であった陳侃以後のすべての冊封使に対して、琉球中山王府は迎接船を福州まで派遣した。結局迎接船は十四回派遣されたこととなる。これらを合計すると二七八回に達する。しかしこれだけではなくこのほか護送船(注 進貢物資の一部を積載する船)、接貢船(注 北京へ赴いた進貢船一行の帰国のため翌年迎えにくる船)賀正船、賀冬船、賀万寿節船、乞襲爵船、告訃船(琉球国王の崩御を伝える船)探索船(行方不明船の捜索を目的とするもの)などが同様に福州へ赴いた(小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』昭和十四年)。これら(進貢・謝恩・迎接の諸船を含む)の派遣回数は、記録の残されているものだけにかぎっても、洪武五年(一三七二年)から万歴十六年(一五八八年)の二百六十年間二百四十回に及んでいる(安里延・前提書)。加えて琉球から安南、シャム、スマトラ、旧港、ジャバ、マラッカなどへ派遣された勘合符船の数は一四一九年〜一五六四年の百四十五年間に、九十回を数えている(安里・前提書)。それ故少く見積っても琉球・中国と冊封関係が続いていた間の琉球船は帰途五百八十回以上も尖閣列島を通っていたこととなる(注 一五八九年以後の進貢船百四十六回、接貢船六十三回、謝恩船・迎接船計二十二回と想定して計算した。その他の諸船については推定が困難なので省略した。したがってこれらの数字の合計数より、実際の数字が下まわることはない。なお進貢船などの詳細な派遣統計表については、小葉田・前提書、また接貢船の制度などに関しては、真境名安巽・島倉竜治『沖縄一千年史』昭和二十七年)。
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