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1:御書講義 青鬼の教学室(296) 2:光線のわが友に贈る(保存版)(964) 3:みんなの広場(739) 4:自己紹介(48) 5:御義口伝講義 赤鬼の教学室(1000) 6:女性に贈ることば365日(373) 7:とkkりの教学部屋(47) 8:青鬼の教学室(1000) 9:赤鬼の教学室(1000) |
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1 / 御書講義 青鬼の教学室 (296) |
08 ふるまい・いゐしがごとく・すこしも・をづる心なかれ、わだが子となりしもの・わかさのかみが子となりし・将門 09 ・貞当が郎従等となりし者、 仏になる道には・あらねども・はぢを・をもへば命をしまぬ習いなり、なにと・なく 10 とも一度の死は一定なり、いろばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ。 だからあなた方は信心強盛に歯をくいしばって難に耐え、たゆむ心があってはならない。例えば日蓮が平左衛門尉の所で、堂々と振舞い、いい切ったように、少しも畏れるような心があってはならない。北条氏との戦さで敗れた和田氏の子、時頼と戦って敗れた若狭守泰村の子、あるいは天慶の乱の平将門の家来、前九年・後三年の役の阿倍貞当の家来となった者は、仏になる道ではなけれども恥を思うゆえに命をおしまなかった。これが武士の習いである。これということがなくても、一度は死ぬことは、しかと定まっている。したがって、卑怯な態度をとって、人に笑われてはならない。 「強盛に歯をかみしめて、弛む心なかれ」 信仰ゆえに苦境に立たされた池上兄弟に対して「断じて恐れる心、へつらう姿があってはならない。「たゆむ心があっては絶対にならない」と重ねて励まされています。 私たちの信仰の目的は、何があろうと揺るがぬ、悠然たる幸福の大境涯の確立です。 大聖人がここで池上兄弟に示そうとされたのも“どんな苦難を前にしても、少しも揺るがぬ人格を今こそ築きゆけ”との激励であったと拝されます。 日蓮仏法は師弟の宗教です。師匠が師子王であれば、師子の子である弟子もまた師子王にならなければならない。“私を見よ”“私に続け” それが師匠の厳命です。 「例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うちふるまい・いゐしがごとく」と仰せのように、“私が厳然と戦ったように、あなたがたも堂々と戦いなさい”と不二の実銭を貫くように指導されているのです。 ここで、大聖人の平左衛門尉の前で振る舞いとは、文永8年(1271)9月の竜の口の法難の際の国主諫暁そして、佐渡流罪赦免後の文永11年(1274)4月の国主諫暁を指されています。 大聖人は、竜の口の法難の際、平左衛門尉に対して師子吼されました。 「日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり」(0287−11) さらに、佐渡赦免後の諫暁でも仰せです。 「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも 心をば随えられたてまつるべからず」(0287−15)鎌倉幕府治めている地に生まれ合わせた以上は、身は幕府に随えられているようであるが、心は随えられることなど絶対にない。 まさに「恐れる心」「へつらう心」を一切振り払った、威風堂々の大宣言です。そうした師匠の戦いを“模範”として立ち上がった不ニの弟子に、恐れるものなどありえません。“私のように戦いなさい”との師の戦いに直桔することで、自身の無限の力有を引き出すことができるのです。 なお、この撰時抄の一節はユネスコが編纂した『語録人間の権利』にも収録されておいます。 さらにまた「なにと・なくとも一度の死は一定なり」と仰せです。 これは、私の半世紀以上にわたる信心のなかで深く感銘を覚えた御聖訓です。 人としてうまれてきたからには、いつかは必ず死ぬ、いかなる人間もこの道理から逃れることはできません。大切なのは、一度しかないこの命を何に使うか、ということです。 大聖人は青年・南条時光に対して「をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ」(1561−03)と述べておられます。 戸田先生は、「死は一時、生は永遠である、創価学会も同志も、いまや広宣流布の大旗を掲げて立ったのである。いまや広宣流布の秋せある。勇まなくてはならない」と、ただ一人、妙法流布の旗をもって立ち上がり75万世帯の折伏を完遂されました。 先生は「霊鷲山で、釈尊の弟子方と同座した時“末法の青年はだらしがないな”と笑われては、地涌の菩薩の肩書が泣く」とも教えられました。まさに「異驢馬悪しくして人に・わらはせ給うなよ」との御指南通りの叱咤出でありました。 15 べからず仏記し給う 我が滅後に竜樹菩薩と申す人・南天竺に出ずべし彼の人の所詮は 中論という論に有るべしと 16 仏記し給う、 随つて竜樹菩薩の流・天竺に七十家あり七十人ともに大論師なり、 彼の七十家の人人は皆中論を本 17 とす中論四巻・二十七品の肝心は 因縁所生法の四句の偈なり、 此の四句の偈は華厳・般若等の四教・三諦の法門 18 なりいまだ法華開会の三諦をば宣べ給はず 疑つて云う。インドに残っている論の中に、中国へ渡った論よりも勝れている論があるのではないだろうか。 答えて云う。竜樹菩薩の事は私が勝手な意見を述べる必要はない。釈尊が予言されていうには「我が滅後に竜樹菩薩という人が南インドにるであろう。この人の究極の法門は、中論という論に有る」と記されている。したがって竜樹菩薩を祖師とする流派がインドに七十家あり、七十人ともに大論師であるが、彼の七十家の人人は皆『中論』を本としている。『中論』四巻・二十七品の肝心は「因縁所生法」の四句の偈である。この四句の偈は華厳・般若等の四教、三諦の法門であり、いまだ法華に開会された空・仮・中の三諦の法門はのべていない。 01 疑つて云く汝がごとくに料簡せる人ありや、 答えて云く 天台云く「中論を以て相比すること莫れ」又云く「天 02 親竜樹 内鑒冷然にして外は時の宜きに適う」等云云、 妙楽云く「破会を論ぜば未だ法華に若かざる故に」云云、 03 従義の云く「竜樹天親未だ天台に若かず」云云、 問うて云く唐の末に不空三蔵一巻の論をわたす 其の名を菩提心 04 論となづく竜猛菩薩の造なり云云、 弘法大師云く「此の論は竜猛千部の中の第一肝心の論」と云云、 答えて云く 05 此の論一部七丁あり竜猛の言ならぬ事処処に多し故に 目録にも或は竜猛或は不空と両方にいまだ事定まらず、 其 06 上・此の論文は 一代を括れる論にもあらず 荒量なる事此れ多し、 先ず唯真言法中の肝心の文あやまりなり其の 07 故は文証現証ある法華経の即身成仏をばなきになして 文証も現証もあとかたもなき真言経に即身成仏を立て候 又 08 唯という唯の一字は第一のあやまりなり、 事のていを見るに不空三蔵の私につくりて候を 時の人にをもくせさせ 09 んがために事を竜猛によせたるか 其の上不空三蔵は誤る事かずをほし所謂法華経の観智の儀軌に 寿量品を阿弥陀 10 仏とかける眼の前の大僻見・陀羅尼品を神力品の次にをける属累品を経末に下せる 此等はいうかひなし、 さるか 11 とみれば 天台の大乗戒を盗んで代宗皇帝に宣旨を申し五台山の五寺に立てたり、 而も又真言の教相には天台宗を 12 すべしといえりかたがた誑惑の事どもなり、 他人の訳ならば用ゆる事もありなん 此の人の訳せる経論は信ぜられ 13 ず、総じて月支より漢土に経論をわたす人・旧訳・新訳に一百八十六人なり 羅什三蔵一人を除いてはいづれの人人 14 もアヤマらざるはなし、其の中に不空三蔵は殊に誤多き上誑惑の心顕なり、疑つて云く何をもつて知るぞや羅什三蔵 15 より外の人人は あやまりなりとは汝が禅宗・念仏・真言等の七宗を破るのみならず 漢土・日本にわたる一切の訳 16 者を用いざるかいかん、 答えて云く此の事は余が第一の秘事なり委細には向つて問うべし、 但しすこし申すべし 17 羅什三蔵の云く 我漢土の一切経を見るに皆梵語のごとくならず いかでか此の事を顕すべき、 但し一の大願あり 18 身を不浄になして妻を帯すべし 舌計り清浄になして仏法に妄語せじ 我死なば必やくべし焼かん時 舌焼けるなら 0269top 01 ば我が経をすてよと 常に高座にしてとかせ給しなり、 上一人より下万民にいたるまで願じて云く願くは羅什三蔵 02 より後に死せんと、 終に死し給う後焼きたてまつりしかば 不浄の身は皆灰となりぬ御舌計り火中に青蓮華生て其 03 の上にあり五色の光明を放ちて夜は昼のごとく 昼は日輪の御光をうばい給いき、 さてこそ一切の訳人の経経は軽 04 くなりて羅什三蔵の訳し給える経経・殊に法華経は漢土にやすやすとひろまり給いしか。 疑つて云う。汝のように考えていた人があるのか。 答えて云う。天台は「中論などとは比較にならない」といい、また「天親・竜樹は法華の実義を内心では知っていたが、口に出してはいわないで、外面は時の宜しきにかなっていた」といっている。また妙楽は「権経を破り実教に会入することを論ずるならば、法華経には及ばない」といい、従義は「竜樹・天親はいまだ天台に及ばない」等といっている。 (続く) 答えて云う。この論は一部七丁あって、竜猛のことばでないような内容が処々に多い。ゆえに目録にもあるいは竜猛といい、あるいは不空といって、いまだ決定されていない。そのうえ、この論は釈尊一代を総括した論でもなく、大雑把な見解が多い。まず肝心の文といわれている「唯真言法の中においてのみ」といっているのが誤りである。そのゆえは文証も現証も明らかな法華経の即身成仏を無視して、文証も現証もあとかたもない真言の経に即身成仏を立てているからである。また「唯真言法の中」という「唯」の字が第一の誤りである。こうしたことから見ると不空三蔵が自分勝手につくった『菩提心論』を時の人に重要なものだとみせかけるため竜猛の造ったものだといったのであろう。そのうえ不空三蔵には誤りが数多い。所謂、法華経の『観智の儀軌』に寿量品の仏を阿弥陀仏だと書いているのは目の前の大僻見であり、それから陀羅尼品を神力品の次においたり、属累品を経の末においたりするような誤りは話にならない。そうかと思えば天台の大乗戒を盗んで唐の代宗皇帝に宣旨を申し下して五台山の五寺に立てている。しかも真言の教相判釈には天台の教判を用いるべしといっている。とにかくあれこれと世間を誑惑することばかりである。他の人の訳した経なら用いることはあろうけれども、この人の訳した経論は信じられない。総じてインドから中国に経論を渡して訳した人は、旧訳と新訳で186人いるが、羅什三蔵一人を除いては、いづれの人々も誤らないものはない。その中でも不空三蔵は、ことに誤りが多いうえに、偽り惑わそうとする心が顕著である。 疑つて云う。羅什三蔵より外の人々が誤りだというのは、何をもって知ることができるのか。汝は禅宗・念仏・真言等の七宗を破るのみならず、中国・日本にわたる一切の訳者を用いないというのか。 答えて云う。此の事は余の第一の秘事である。委細には向つて問うがよい。但し今すこし述べよう。羅什三蔵は「自分が中国の一切経を見るのに、みな原本の梵語の経の通りではない。どのようにして、このことをはっきりさせようか。そこでひとつの大願がある。自分の身は妻を帯して不浄だが、舌ばかりは仏法には妄語はしないので、清浄である。自分が死んだら、必ず焼きなさい。その時に舌が焼けるならば自分が訳した経をすてなさい」と、常に高座で説法された。それを聞いて、上一人より下万民にいたるまで願っていうには「願くは羅什三蔵より後に死にたいものだ」といっていた。ついに羅什の死なれた時、いわれた通り焼き奉ったが、不浄の身は皆焼けて灰となってしまったが、御舌ばかりは火の中に青蓮華を生じて、其の上にあった。五色の光明を放って夜は昼のごとく輝き、昼は太陽の光を奪うほどであった。このようなことがあればこそ、ほかの人々の訳したいっさいの経々は軽くなり、羅什三蔵の訳された経々、殊に法華経が、やすやすと中国にひろまったのである。 06 ばアヤマリありけりとしるべしされば日本国に法相宗のはやりたりしを伝教大師責めさせ給いしには羅什三蔵は舌焼 07 けず玄奘・慈恩は舌焼けぬとせめさせ給いしかば 桓武天王は道理とをぼして天台法華宗へはうつらせ給いしなり、 08 涅槃経の第三・第九等をみまいらすれば 我が仏法は月支より他国へわたらん時、 多くの謬誤出来して衆生の得道 09 うすかるべしととかれて候、 されば妙楽大師は「並びに進退は人に在り 何ぞ聖旨に関らん」とこそあそばされて 10 候へ、今の人人いかに経のままに 後世をねがうともあやまれる経経のままにねがはば得道もあるべからず、 しか 11 ればとて仏の御とがにはあらじとかかれて候、 仏教を習ふ法には大小・権実・顕密はさてをくこれこそ第一の大事 12 にては候らめ。 疑っていう。羅什以前はそうかもしれないが、羅什以後の善無畏・不空はどうなのか。 答えて云う。羅什以後だからといっても、訳した人の舌が焼けるのを見て、誤りがあると知らなければならない。されば日本に法相宗が流行していたころ、伝教大師はこれを「羅什三蔵は舌がやけなかったのに、玄奘や慈恩は舌が焼けたではないか」と責められたので、桓武天王は伝教大師のいうのが道理だとおぼしめし、天台法華宗へ移られたのである。涅槃経の第三・第九等を見れば、釈尊の仏法はインドから他国へ渡る時に、多くの謬誤が発生して、衆生の得道も薄くなるであろうと説かれている。されば妙楽大師は「取捨は、人師のいかんによるのであり、仏の御意にはかんけいない」といわれているのである。今の世の人々がいかに経のままに後世を願うとも、過誤のある経文を信じて、願ったところで、得道ができるわけがない。得道ができるないからといって、それは仏の過失となるのではないと書かれているのである。仏教を習うには、大小・権実・顕密等の立て分けはさておいて、このことが第一の大事ではないか。 この章では、竜樹・天親等が法華の実義を述べていないことを明かされている。正像に述べていないのは、末法に必ず流布することを明かさんがためである。 彼の人の所詮は中論という論 インドの大乗教は竜樹、提婆の唱導した大乗空宗と、無著、世親の兄弟が唱導した大乗有宗とに分けられる。 竜樹は仏滅後700年ごろに出て、大品般若を釈した『大智度論』100巻、八不中道の般若思想を展開した『中論』4巻、観因縁門の十二門を以て空義に入ると説く『十二門論』1巻等がその代表的著述である。『中論』は空観の真意を明かしたものとされ、大乗教の理論的基礎を築き、以後の大乗思想に大きな影響を与えた。この大乗空宗はインドでは中観宗といい中国に伝わって三論宗と呼ばれた。竜樹の弟子としては迦那提婆がおり、中観宗、大乗空宗を唱導した。『百論』2巻が、その代表的著述である。 これに対し、無著、世親は、仏滅後900年のころ出て、大乗有宗として瑜伽論を北インドにひろめた。無著には『摂大乗論』3巻『瑜伽師地論』100巻等があり、世親は大乗500・小乗500の合わせて10000部の論師といわれた。これが中国へ渡って法相宗となった。 仏教をこのように分類してみれば、一に小乗教、二に大乗の唯心有境と唯心無境、三には法華経ということにもなる。 聖密房御書にはそのことを「仏御存知の御意は但法華経一宗なるべし小乗には二宗・十八宗・二十宗候へども但所詮の理は無常の一理なり、法相宗は唯心有境・大乗宗・無量の宗ありとも所詮は唯心有境とだにいはば但一宗なり・三論宗は唯心無境・無量の宗ありとも所詮・唯心無境ならば但一宗なり、此れは大乗の空有の一分か、華厳宗・真言宗あがらば但中・くだらば大乗の空有なるべし」(0899−13)と仰せである。 空観については、さまざまな説があり、爾前経にも処々にこれが説かれている。まず小乗の空観は色を細かく分析してみる空なので析空観といい、大乗の空間は存在そのものに空をみるので体空観といい、これは天台大師の論である。次に衆生の身は五蘊仮和合の体であって、実の我というものはないので人空であり、そして存在するものはすべて因縁によって生じたものであるから法空というのと人空・法空の立て分けもある。これは中観派の説である。 また空・仮・中の三観についても、別教の次第の三観と、円教の円融の三観等がある。次第の三観とは、仮より空に入るのが空観、空より仮に入るのが仮観、そして以上の空仮の二観を修するのを中観という。円融の三観とは法華経に明かすところの空仮中の三観であって、一諦即三諦、三諦即一諦であって、しかも、それが一心に具していると説いている。 不空三蔵一巻の論をわたす其の名を菩提心論となづく 次に弘法が『菩提心論』を竜樹の著述だといったのを破されている。『菩提心論』は、本文に仰せのように、不空が中国へ持ってきたのであるが、これは竜樹の著述ではなく、不空が勝手に偽作したものであり、とんでもない代物なのである。そして次に大聖人が羅什三蔵以外の訳は用いられない理由を明かされている。 諌暁八幡抄にも「然るに月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人なり其の中に羅什三蔵一人を除きて前後の一百八十六人は純乳に水を加へ薬に毒を入たる人人なり、此の理を弁へざる一切の人師末学等設い一切経を読誦し十二分経を胸に浮べたる様なりとも生死を離る事かたし又現在に一分のしるしある様なりとも天地の知る程の祈とは成る可からず魔王・魔民等・守護を加えて法に験の有様なりとも 終には其の身も檀那も安穏なる可からず譬ば旧医の薬に毒を雑へて・さしをけるを旧医の弟子等・或は盗み取り或は自然に取りて人の病を治せんが如しいかでか安穏なるべき」(0577−09)等と仰せられている。 このように羅什の訳した経典はじつに空前絶後の名訳であるが、それでは羅什以外の訳は全然使わないかというと、そうではない。現に日蓮大聖人も御抄にも他の人が訳した経を使われているし、法華経の開経たる無量義経は、曇摩伽耶舎が訳したものを使われている。ゆえに他人の訳でも誤謬があれば捨て、真正ならば用いる。とくに本文では不空三蔵は数多くの誤りを犯しているから、とても用いられない趣旨を述べられている。 総じて、真言宗の開祖たちは、中国の善無畏・金剛智・不空等にしても日本の弘法・慈覚等にしても、このようなごまかしが多い。不空が雨乞いをして、雨が降り出したのはよいが、暴風雨となってやまないので「結句は使をつけて追うてこそ風も・やみてありしか」(0316−17)と、報恩抄に仰せられているのも、その一例である。 仏法は現証をもって第一とすることは、三三蔵祈雨の事の「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468−16)との仰せや、顕立正意抄の「設い日蓮富楼那の弁を得て目連の通を現ずとも勘うる所当らずんば誰か之を信ぜん」(0537−04)との仰せに明らかであるが、そのほかにも、日蓮大聖人は、王法は賞罰を本としているが、仏法は勝負を先とする旨や、雨乞いのような今生の祈りがかなわないなら、大事の中の大事たる後生の成仏がかなうわけがないとか、大聖人に三度の高名があらわれたことなど、諸御抄に示されている。 このように、現証および予言の的中ということは、すべて宗教において重要な問題である。仏法においては、釈尊が、近くは3ヵ月の後の涅槃を予言して的中したこと、遠くは法華経の中に予言した「後五百歳。広宣流布」が達成されようとしていることなどがある。その仏法の中においても、末法の御本仏日蓮大聖人の御予言の的中および現証の確実さが、格段にすぐれていることはいうまでもない。聖人知三世事に「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う」(0974−01)と仰せのとおりである。ゆえに、仏教典を漢訳する際の、正邪の争いにしても「羅什三蔵は舌焼けず」という決定的事実の現証がある以上は、どうすることもできないのである。参考までにいまここに、日寛上人の伝記の中から、これに関連した予言を引いてみよう。 日寛上人伝にいわく「享保十一年二月、上人は寺檀の請に応じて一世のなごりとして観心本尊抄を講じられた。講義の終わる日には上人は、たわむれのように『羅什三蔵は舌の焼けないという現証があった。ゆえに人々はこれを信じたのである。日寛がいま、富楼那の弁を得て目連の通を現ずとも、言う所が当たらなければ信ずるに足らないであろう。もしそのとおりになったら、わが説法の一文一句においても疑いを持ってはならない』といわれた。 同年夏のころから次第に身体が衰弱しはじめられたが、上人は薬を一切飲まれないで、『色香美味の大良薬を服しているから心配はない』と仰せられていた。そうして、あるだけのお金は遺言して将来の使途を定め、すべての品物は遺品分けをなされ、御遷化の二日前には駕籠に乗られて、本堂をはじめ山内をことごとく暇乞いに回られた。 八月十八日の夜には大御本尊を床の上に掛け奉り『今夜死ぬからあわてるな。息が絶えてから諸方へ通知せよ。一両人のほかは傍にいてはならない』と仰せられ、最後の一偈と歌一首をお作りになり、待者に命じて、そばを作らせた。日寛上人はそばを七箸食べ、にっこりと笑われて『ああ、面白や寂光の都は……』と。そして、うがいをされ、大御本尊に向かい一心にお題目を唱えつつ、眠るがごとく安祥として円寂あそばされた。享保十一年八月十九日朝、辰の上刻であった。 さて、このような現証の中でも「舌焼けず」とか「おそばを食べて」等は個人的な姿である。それに対して創価学会の出現とその活動という大きな運動としての現証についてみると、日蓮大聖人の御予言を実践したのは、わが創価学会のほかに、いずこにあろうか。じつに顕仏未来記の「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508−02)との御確信、また報恩抄の「日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、」(0328−16)との御予言どおりの姿である。 |
2 / 光線のわが友に贈る(保存版) (964) |
尚、当スレの書き込みは、関係者(光線さん及び鉱泉)に限定します。 無冠の友の皆様 毎朝ありがとう! 気候の変わり目。 どうか健康第一で! 絶対無事故の日々を。 男女青年部よ勝て! 尊き婦人部よ輝け! 柱の壮年部よ頼む! 全員が師子となって 創立の月へ大行進を。 職場や家庭こそ 人間革命の本舞台! 「信心即生活」の 確かな歩みの中に 幸福の花は咲く! 誉れのブロック長 宝の白ゆり長と共に わが使命の地域に 人材の城を築きゆけ! 新たな躍進の一歩を! 希望の哲学を 勇気凛々と語ろう! 人の前を灯せば わが前も明るくなる。 地域の灯台と光れ! 風邪・流感に要注意! 規則正しい生活と 手洗い、うがいなど 「前前の用心」を! 健康こそ躍進の力だ! 真剣と誠実で 最前線へ飛び出せ! 陰徳あれば陽報あり。 地道な努力の人こそ 一番の功労者だ! |
3 / みんなの広場 (739) |
きび団子 食べたい。 しかし、人間が鬼に「きび団子」を持ってきたという古文書、まんざら嘘でもないな。 沢山って・・・・・眷属少ないのか? (^^; 味の評価も、お忘れなく v(-_^ 「きび団子」のの感想だけど、福井の「羽二重餅」にそっくりな味でした。丸いのと長いのとの違いかな。 ォらには二箱とも、同じに思えました。 しっかし「きび団子」はキビの団子でなかったのか(驚き) もうひとつ驚き。よく猿たちはあんな小さなキビ団子でよく桃太郎のお伴をしたものだ。 いずれにせよ有り難く、おいしくいただきました。 それは、よかった (^^; いやァ〜、味は「元祖」の方が昔(数十年前)良かったからと思っていたのですが、 今はどうか判らなかったから、他メ−カ−と抱き合わせにしたのです。 (^0^;ゞ ナハハハ > もうひとつ驚き。よく猿たちはあんな小さなキビ団子でよく桃太郎のお伴をしたものだ。 あははは (^0^ ♪ 自家製と商売人からの購入品との違いですよ v(^^ 自家製は金勘定しないから、デカイ! それに昔と違って、今は世知辛い世の中。値上にも限度がありますから、値上の無い分だんだんと商品が小型化してくる (^^; > しっかし「きび団子」はキビの団子でなかったのか(驚き) σ(^^ も言われて調べたが、ホンマ一切、「きび」がはいってないんだな (^^; それで、昔は「きびだんご=黍団子」と言っていたのが、今は「きびだんご=吉備団子」ってェ〜ことか! (^0^ ♪ まっ!詐欺ではないわな、漢字が違うのだから (^^; |
4 / 自己紹介 (48) |
年齢不詳 関西在住 入信歴45年です。 楽しい掲示板にしていきましょう。 とkkりと申します。 40代ではございません。 ネェネェ、トミーさん。 スレ立てさせて下さいな。 先生のスピーチ勉強するのじゃよ。 変な人が来てますよ。。 瞬香と申します。 タンポポさんに誘って頂いて、参りました。 関西女子部です。 どうぞよろしくお願いします。 タンポポさん、こちらでもお世話になります♪ 光線です。よろしくね。 沖浦さんの板のカキコ いつも見てますよ。 勇気村へも 遊びに来てね♪ 当掲示板の主催者、青鬼です。 よろしくです。 |
5 / 御義口伝講義 赤鬼の教学室 (1000) |
南無妙蓮華経 0708top 御義口伝 01 南無妙法蓮華経 02 御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、 人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経 03 に帰命し奉るなり 又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり 命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無 04 妙法蓮華経是なり、 釈に云く随縁不変一念寂照と、 又帰とは我等が色法なり 命とは我等が心法なり色心不二な 05 るを一極と云うなり、 釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、 又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語妙法蓮 06 華経は漢語なり 梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、 又云く梵語には薩達磨芬陀梨伽蘇多覧と云う 此には妙 07 法蓮華経と云うなり、薩は妙なり、 達磨は法なり、 芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり 08 九界即仏界の表示なり、 妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり 蓮華とは因果の二法 09 なり是又因果一体なり 経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、 釈に云く 声仏事を為す之を名けて経と為す 10 と、 或は三世常恒なるを経と云うなり、 法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体な 11 り能く能く之を思う可し已上。 南無妙法蓮華経について、日蓮大聖人の恩義口伝には次のように仰せである。 「南無」とは梵語であって、これを漢語に訳せば「帰命」という。その帰妙する対境・対象に「人」と「法」とがある。「人」とは文底の釈尊即人本尊たる日蓮大聖人である「法」とは末法の法華経であり、法本尊であるところの南無妙法蓮華経である。すなわち人法一箇の大御本尊に帰命することが、真実の中の真実の帰命なのである。 また「帰」というのは、迹門不変真如の理に期するのである。「命」とは本門隨縁真如の智に命くことなのである。南無妙法蓮華経は、宇宙本源の絶対真理である。ゆえに妙法と唱えることによって、宇宙の本源に合致できうるのである。したがって、不変真如の理に帰したことになる。そして、その偉大なる妙法の力がわが生命活動に、生活の上に、顕現してくるのである。これ隨縁真如の智に命いたことになるわけである。結局、帰命とは、南無妙法蓮華経のことになるのである。 釈には「隨縁不変・一念寂照」とある。隨縁真如の智も、不変真如の理も、ともに実在しているのが、生命の実体であり、本質なのである。これを妙法というのである。これすなわち、三大秘法の南無妙法蓮華経である。この御本尊に帰依することによって、絶対的幸福境涯たる成仏がかなうのである。 また「帰」とは、われわれの色法を意味する。「命」とは、われわれの心法を意味するのである。この色法すなわち肉体・物質と、心法すなわち精神・心の働きが不二であると説く、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学こそ、最高唯一の哲学なのである。この日蓮大聖人の、大宗教に帰依することによって、成仏の境涯、すなわち、色心ともに、絶対の幸福確立をなすことができるのである。 また、仰せには、南無妙法蓮華経の「南無」とは梵語であり、妙法蓮華経は漢語である。梵漢共時に南無妙法蓮華経というのである。また、妙法蓮華経とは、梵語の薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧(サダルマ・フンダリキャ・ソタラン)を翻訳したものである。薩は妙を意味し、達磨は法を意味し、芬陀梨伽は蓮華を意味し、蘇多覧は経を意味するこの薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧の九時は、八葉九尊を意味するのである。これを生命論に約していえば、九界即仏界を表しているところである。 妙法を無明・法性に約して説けば、妙は法性であり悟りである。法は無明であり迷いを示す。したがって妙法とうとき、すでに無明法性一体であることがあらわされている。蓮華とは、因果の二法を示し、因果一体、すなわち因果俱時をあらわしている。 経とは一切衆生の言語音声をいうのである。しかして、章安大師が「声仏事を為す之を名けて経と為す」といっているように、南無妙法蓮華経こそ、最高の経なのである。また、生命が、過去、現在、未来の三世にわたって、永遠に続いていくことを経というのである。所詮、大宇宙も、わが生命も、森羅万象ことごとく妙法であり、蓮華であり、経なのである。宇宙生命の根源のことを、妙法蓮華経というのである。この中で、蓮華とは、八葉九尊という形式で示されている。以上のことを、よくよく思索しなさい。 再演法華とは、復習のようなものである。全体を要約してまとめ、最後を締めくくるのである。したがって、人の一生に譬えると、最初の序品第一は、生まれ出ることであり、この勧発品第二十八は、死んでいく姿ともいえる。 この生と死を一念におさめて、妙法蓮華経と名づけたのである。 同じことは、二十八品のおのおのについてもいえる。初めの題号が生であり、各品の終わりは死である。こうして、各品ごとに、生死生死と繰り返すわけである。しかして、この生死の間の人生において、なすところの生命の振舞いが妙法蓮華経である。 すなわち、人生の根本法こそ妙法であり、誰人も、これから逃れることはできない。否定しようとしても、最後は、これを認め、戻って来ざるを得ないのである。それに目覚め、妙法にかなった振舞いであれば、その人の一生は、自在の幸福境涯となるのである。 この根本法を、バラモン教ではブラーマンと呼び、老子は自然法爾といい、孔子は仁と称した。また、西欧の人々は神の御意といい、カントは「わが心の内なる道徳法則」と呼んだ。だが、いずれも、その実体がいかなるものかを探ることは、ついにできなかったのである。もし、彼らが日蓮大聖人の南無妙法蓮華経を知ることができたとしたならば、必ずや、歓喜の叫びをあげていたに違いないと確信するものである。 如は生の義・去死の義 如とは如如といい、瞬間瞬間、縁にふれてらわれる生の生命活動であり、去とは大宇宙に冥伏した死の状態である。また、大聖人は「法界を一心に縮むるは如の義なり」とも申されている。すなわち、法界とは宇宙であり、この宇宙の物質と、宇宙の森羅万象のもつ特質、機能を集めて、生命は形成されるのである。如とは、似せる、従う等の意があり、宇宙をなぞらえ、宇宙を縮めたという意味をあらわすのである。 妙楽大師は「此の身の中に具さに天地に倣う事を知る」と述べ、人体と宇宙諸現象の関係を細かくあげていることは、三世諸仏総勘文抄に拝されるとおりである。 日蓮大聖人自身「人身の本体委く検すれば是くの如し」(0567-17)と、認められ、さらに「五行とは地水火風空なり 五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う、只一物・経経の異説なり内典・外典・名目の異名なり、今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり」(0568-01)と、説き明かされている。 礼とは不乱の義なり法界妙法なれば不乱なり ここで仰せの「作礼」とは、封建的な礼法ではなく、もっと生命の本質に密着したものである。すなわち、「作礼の言は生死の闇に成しと成す処の我等衆生の所作なり」とあるように、人生の一切の振舞いである。妙法を受持したときには、それがすべて、大宇宙のリズムに合致し、自在無碍の振舞いとなっていくのである。 三世諸仏総勘文抄にいわく「実に己心と仏心と一心なりと悟れば臨終を礙わる可き悪業も有らず生死に留まる可き妄念も有らず、一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為し儀いと儀う行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」(0569−18)と。 これこそ最高の自由である。また、封建的、君主制的な絆、束縛から解放されるというだけの消極的な自由ではなく、自ら主体性を打ち立て、過なく振舞っていけるという、積極的な自由である。 「過も無く」とは、自ら、その行動において過失がないということである。「障りも無く」とは、他からの障害がないという意である。古来、欧米において唱えられ、近代化の原動力となってきた“自由”の概念は、ようやくこの「障り無く」を意味するのみであるように思われる。 そこに今日、自由主義世界が行き詰まっている。きわめて深刻な諸問題が生じてきた。いわゆる、人間性の喪失であり、主体性と連帯感を失った大衆化の現象等である。しかして、青年不良化の問題なども、そこから出ていることは、誰も異存はあるまい。底の浅い自由を絶対と信じ込んだところ、さまざまの「過」を生み出し、多くの人々を不幸に陥れているのである。 所詮、妙法による真実の「自由」のみが、21世紀への、現代から未来にわたる人類の理想であり、世界史上空前の大革命ののろしであると訴えたい。 末法に弘通すべき日蓮大聖人の仏法は、南無妙法蓮華経であって、それ以外の才覚は無益であるとの仰せである。大聖人の弟子として、最も深く、強く、明瞭に、心に刻むべきことである。 経王殿御返事にいわく「日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124−12)と 種種御振舞御書にいわく「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(0919−16)と。 日蓮大聖人こそ、末法主師親三徳を具備せられた、御本仏であられることは明々白々である。しかして、その御説法は、ただ南無妙法蓮華経の七文字に帰着するのである。 この南無妙法蓮華経が根本であり一切の要諦であることを忘れたならば、末法の民衆救済は思いもよらず、かえって、御本仏日蓮大聖人の本意を失うこととなり、無間大城に落ちる大謗法となってしまうのである。 いま、化儀の広布の時にあたって、あらゆる文化活動が展開され、立体作戦、応用戦を繰り広げている。だがその根底は、あくまでも南無妙法蓮華経であり、信心が基盤である。「法華経に勝る兵法なし」の御金言のごとく、信心より出発し、信心に帰るのである。題目で出発し、題目に帰るのである。すなわち、第三文明の建設も、福祉社会実現も、その根底は折伏によって成し遂げられることを知らねばならない。 折伏の闘志こそ、大聖人の弟子の中の弟子であり、わが学会員は、全員、信心の英雄であっていただきたいことを心より念願するものである。 教相の立ち場では、子は地湧の菩薩であり、父とは久遠実成の釈尊であるが、大聖人の観心の立ち場では、父とは日蓮大聖人御自身であり、子とは大聖人の正義を受け継いだ弟子檀那である。ここは、師弟不二の大精神を示されているものと拝する。 仏法において、最も重要なことは、師弟相対であり、真の弟子の道を実践することである。 華菓成就御書にいわく、 「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」(0900−08) また経に「在在諸仏土常与師俱生」と。 日蓮大聖人は師匠であり、われわれは弟子である。ゆえに、大聖人が、あらゆる大難を一身に受けて、師子王のごとく振る舞われたように、師子の子として、いかなる難があっても莞爾として受けきり、生涯、永久に師匠の教えを疑わないのが師弟不二である。 また、大聖人の御精神は末法万年尽未来際まで、あらゆる民衆をわが子として、成仏せしめんとのお心である。この大聖人の御精神を、自己の精神として、一生涯、広宣流布のため、戦いきっていくことが、師弟不二である。 さらに、師匠は一人の人をとおして、全体に指導していくものである。ゆえに、師匠の指導は、自分一人で止めておいては、師の心を握りつぶす行為となる。弟子として、その師匠の心を実践し、また実現してこそ、師弟不二といえるのである。 祈祷経送状にいわく、 「法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり」(1357−05)と。 「一切法華経に其の身を任せて」とは、御本尊を絶対と信じて、微塵も疑わないことである。 「金言の如く」とは、日蓮大聖人の教えのままに、実践することである。「信心に退転無く身に詐親無く」とは仏法も世法も、また色心の二法共に、純真に、まじめに生きていくという意味である。 このような信心実践を貫いていくならば、成仏できることは間違いないし、今生においても、大功徳を受け、さらに広宣流布、全民衆救済の大願も成就できるとの御金言である。 いま、末法において、御本仏日蓮大聖人の教えを御金言どおり、如説修行しているのは、創価学会以外にはない。われらこそ、大聖人の子として、弟子の中の弟子として、誇りと襟度をもって、師子の子らしく、逞しく前進していこうではないか。 なお「世界とは日本国なり」とは、日本の国が一閻浮提広布の中心となり、基盤となる。この一国の広宣流布が規範となって、三大秘法抄の「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してフミ給うべき戒壇なり」(1022−17)と仰せのごとく、全世界の指導者が、民衆が、これを見習うようになるのである。 したがって、もとより、大乗有縁の国は日本のみである。だが、依正不二の原理で、日本の広宣流布が達成されたときには、全世界が大乗有縁となるのである。 さらに、現代の歴史の動向をながめるならば、世界が一つの運命共同体であり、緊密に結びあった一つの機構となりつつある。もはや世界から切り離してのにほんではなく、日本を論ずれば、世界にも通ずつことは、必定といえると思う。 2010:9:12 竜口法難の日に 赤鬼 |
6 / 女性に贈ることば365日 (373) |
自分は、自分自身の指命を帯びて生まれてきた。 それを、人のうわべの姿だけを見て、人と自分を比べ、あの人は幸福そうで、私は貧しいと比較する。 それは、最も愚かなことだ。 ニューヨークの「自由の女神」の顔は、 作者バルトルディのお母さんがモデルであるといわれている。 苦労して自分を育ててくれた母 彼は感謝の思いを、形にしたかったのかもしれない。 また、子どもにとって、母の顔はいちばん美しく、 尊いものなのかもしれない。 母の恩に応えたい そうした思いを、本来、誰しも、生命の奥低にもっている。 誰しも転ぶことはある。 転んだら、また立ち上がればいい。 立ち上がって、まっすぐ前を向いて進んでいくことだ。 青春に、取り返しのつかない失敗などないのだから! 病魔に負けるな! 断じて負けるな! あなたの生命のなかに太陽がある。 わが生命を最大限に充実させながら、 自身の人生を満喫し、後悔なく、 人びとへの貢献をなしゆく人は、人間らしい人間である。 ここに人間の栄光の扉が開かれるからだ。 いかに現実が多事多難であろうとも、 ここから離れて、幸運の大地はどこにもない。 ゆえに断じて、今、自分がいる場所で勝つことだ。 目先のことばかりにとらわれて、 あれこれと揺れ動く人生は、愚かである。 自分自身の胸中には、つねに充実という心の宮殿が輝いている。 そんな、はつらつたる人生でありたい。 自らが決めた道を歩めること自体、幸福なのである。 ゆえに、健康な時に労を惜しまず、働くことである。 努力することである。前進することである。 |
7 / とkkりの教学部屋 (47) |
今日はゆっくりお話しできないのが残念ですが、私が皆様に申し上げたいことは、「うんと長生きしてください」「たくさんお題目を唱えてください」ということです。 特に、大きな悩みに直面している方は、五十万遍、百万遍、二百万遍と、真剣に、着実に、祈り抜いていくことです。 (新人間革命10巻、幸風) 大切な宝「無冠の友」 学会のリーダーは、この尊き方々を、仏の如く敬っていくのです。 いつも、平和と文化の機関紙を届けていただいている。最大に感謝を捧げていくのは、当然のことです。 広布を担う新聞配達は、健康と社会勉強の道でもある。すべてにわたって、自身を磨き、勝利しゆく道である。 感謝の心を表すことは、価値を創造しゆく重要な人間学 真実の「平和」とは、「正義」と一体でなければならない。 ゆえに、正義を阻み、人々を不幸にする邪悪とは、断固、戦わねばなりません。 不正を糾し、正義が打ち勝ってこそ、晴れ晴れと、人々の幸福を護り、真の平和を実現できる可能性が生まれる。 師子は、仏法における「師匠と弟子」に通ずる。 師匠と弟子が一体の、偉大な「弟子」を目指す。これが仏法です。人生の大きな目的であり、「人間革命」です。 師子とは、「何ものも恐れない」生命、そして「絶対に負けない」生命の異名です。 師子とは、勝利者の誇り高き栄冠の象徴なのであります。 師子は怯まない。 師子は負けない。 師子は嘆かない。 師子は速い。 師子は吼える。 そして、師子は必ず勝つ 権威を振りかざす人間にも強いのが、本当の師子 ◎自分の一念が変わる時、自分のいる世界が変わる。それが仏法の変革の方程式 何のための「人生」であり、何のための「信仰」か──。 喜びに生きゆく人生。 苦しみに生きゆく人生。 悲しみに打ち砕かれていく人生。 不幸という縄に縛られて生きていく人生。 生き生きと勝ち抜いていく歓喜の人生。 人の生き方は、さまざまである。 社会が悪いからという理由もあるだろう。 一家が貧しいから、そうなってしまうということもあるにちがいない。 勝利の遊楽と、敗北の地獄の苦しみ──。 人生はさまざまである。境遇もさまざまである。 人生の成功と失敗、楽しみと苦しみの境は、いったい、何によるのか? それは複雑であり、微妙である。 しかし、南無妙法蓮華経は、「絶対勝利」の法である。 「常楽我浄」の悠然たる長者の生命となりゆく仏法なのである。 南無妙法蓮華経を持つことは、いかなる財宝を持ち、大邸宅を持つよりも、ずっとずっと裕福なのである。 南無妙法蓮華経は、大宇宙の生命であり、根源の法である。それを唱えているのだから、何の心配もない。 日蓮大聖人の仰せには、絶対に嘘はないのである。 幸福と勝利のための我らの信仰であり、信心である。 永遠唯一の御本仏であられる大聖人の仏法の実体である。 人間として生きているかぎり、最高善の実践に生きるべきである。最高の善に対して反対すれば最高の悪となり、最高の善に賛同し共に行動すれば、自らもそれに連なっていくことができるのである。 (h1.3.22) 信心の世界には、引っ込み思案や遠慮は無用である。組織上の権限や役職があるとかないとかではなく、それぞれの立場で明快に悪は悪、善は善と、言いきっていかねばならない。それが学会を、ひいては自分自身を守ることになる。 (h1.8.24) 大聖人は「瞋恚は善悪に通ずる者なり」(p584)と明快に仰せである。単に、怒ってはいけない、批判してはいけない、というのではない。瞋恚すなわち怒りは、善悪の両方に通じると教えられている。感情にまかせた私憤は、自身も他人も傷つけることが多い。しかし、正法を破り、民衆を苦しめ、信徒を蔑む大悪への怒りは、“正義の怒り”であり“大善の怒り”である。それを今、創価学会は実践している。牧口先生、戸田先生の指導通りである。大聖人の御聖訓の通りである。 (h5.11.18) まことに含蓄の深い言葉である。学会の会長が名誉職であるならともかく、会長職は、庶民の苦悩と悲哀をだれよりも理解できる人でなければつとまらない。「だれよりも苦労した。だから会長になったのだ」---この戸田先生の言葉を、幹部は、それぞれの立場で、深くかみしめていくべきである。そして人に倍する苦労を求め、苦労によって自身の信心の境涯を深めていきたい。 (1987.6.17) |
8 / 青鬼の教学室 (1000) |
御書を勉強していきます 08 て法華経の行者ををどし 或は父母の身に入つて孝養の子をせむる事あり また、第六天の魔王があるいは妻子の身に入って親や夫をたぼらかし、あるいは国王の身に入って法華経の行者をおどし、あるいは父母の身に入って孝養の子を責めたりするのである。 三障四魔を乗り越え成仏を 第六天の魔王は、「智者」だけでなく、妻子や国王、父母などの身にも入って、正法の信仰を妨げると説かれています。 「父母の身に入つて孝養の子をせむる」 池上兄弟は、この御文を身をもって実感しつつ拝したに違いありません。 兄弟に対する迫害の背景には、確かに悪鬼入其身の極楽寺良観ら、悪僧の画策もあった。その上で、実は致父・康光にも第六天の魔王が取り入り、信仰を阻まんと攻め込んできていると仰せです。ゆえに断じて従ってはならない。魔の本質を見抜けと教えられています。 「信仰」か「孝養」かの選択を迫られ、悩み苦しむ門下に対して、大聖人は、本抄や諸御抄を通して、これでもか、これでもかというほど、指導、激励を重ねらえています。真の孝養とは、最高の仏法哲理で自分が成仏し、親を三世にわたって救っていくことです。 そして兄弟は、師匠の仰せのままに信心を貫き通し、見事、障魔に打ち勝っていったのです。 今は未曾有の経済危機の中、三障四魔も盛んに競い起こっています。だからこそ、一番大事なのは、「自分自身の心に勝つこと」「唱題に徹し抜くこと」です。 「難を乗り越える信心」に生ききれば、必変毒為薬することができます。必ず宿命転換することができます。必ず、一生成仏の境涯を築くことができます。必ず広宣流布の道は大きく開かれていくのです。 さあ、深き信心に立ち、「心」で勝って「5・3」を勝ち飾り、そして一人一人第勝利の実証の姿で、明年の創立80周年を迎えていきましょう。 講義 「低い山から最高の山に登る中間には、必ず、谷がある」 ある日の会合で、恩師・戸田先生はこう語られました。 「成仏を最高の山に例えるならば、初信の功徳は低い山へ登ることだ。成仏は、それよりも高い山へ登ることである。その中間の谷間に、みなさんは迷ってはならない」 「これこそ、三障四魔が紛然として競い起こる谷であり、初信の功徳に酔うべきではない。谷間を勝ち越えゆく信心であることを深く考えて、毎日の信心を怠ってはならない」 戦後の混乱がつづくなかで、この仏法にめぐりあって入会し、初信の功徳をいただいた学会員に対するご指導です。 信心の本当の功徳は何ものにも左右されない絶対的な幸福境涯を得ることである。そして、最高の山に登るためには、必ず、仏道修行の「訓練」「鍛錬」の谷を踏み越えていかねばならない。そのことを分かりやすく教えてくださっています。 この谷間から大山の頂上へ向かう途上へ向かう途上に三障四魔が競い起こるのです。 谷を渡り、急な険路を登らなければ、山の頂上を極めることはできない。三障四魔が出来しなければ、正しい仏道修行ではありません。 草創の会員たちは、戸田先生の慈愛の思いを浮かべては、師の励ましを思い起こし、三障四魔に勇敢に挑み、崩れざる幸福境涯を確立していったのです。どこまでも、魔と戦う中に一生成仏の直道がある。これが日蓮大聖人の仏法です。 「兄弟抄」では、難に直面する池上兄弟に対して、障魔を迎え撃ち、成仏に向かう信心の要諦を教えられています。 本抄では、なぜ、法華経の信仰を持つ人々に難が競い起こるのか、この法華経ゆえの苦難の意味を、3点にわたって説明されています。 第1は、難が起こるのは、「大六天の魔王」が法華経の行者の成仏を妨げるために智者・国王・父母・妻子の身に入って法華経の行者を悩ますからです。この原理については、前回に確認しました。 2点目は、修行者自身に「宿業」があるために難を受ける。ただし法華経ゆえの難は「転重軽受の功徳」にほかならないということです。 そして、3点目に、難は諸天善神による「信心の試練」であり、成仏に向かっての「生命の鍛錬」の意味がある、という観点がしめされています。 今回は2点目と3点目を中心に学んでいきます。 03 れば過去に人を障る罪にて未来に大地獄に堕つべきが、 今生に正法を行ずる功徳・強盛なれば 未来の大苦をまね 04 ぎこして少苦に値うなり、 この経文に過去の誹謗によりて・ やうやうの果報をうくるなかに或は貧家に生れ或は 05 邪見の家に生れ或は王難に値う等云云、 この中に邪見の家と申すは誹謗正法の家なり 王難等と申すは悪王に生れ 06 あうなり、 此二つの大難は各各の身に当つてをぼへつべし、 われわれは、過去において正法を修行していた者に怨wなしたのであるが、今度は反対に自分が正法を信受することになったので、過去に人の修行を妨げた罪によって本当は未来に大地獄に堕ちるところを、今生に正法を行ずる功徳が強盛なので未来の大苦を今生に招きよこして少苦に値うのである。この経文に、過去の謗法によって、さまざまな果法を受けるなかに、あるいは貧しい家に生まれ、あるいは邪見の家に生まれ、あるいは王難に値う等と示されている。このなかに「邪見の家」というのは誹謗正法の家であり「王難等」というのは、悪王の世に生まれあわせることである。この二つの大難は、あなたがたの身にあたって感ずることであろう。 大難は「転重軽受」の証明 大聖人はここで、正法を持つ者が大難を受ける理由について、それは、「転重軽受」、すなわち宿命転換の功徳であることを明かされております。 過去世において、「正法を行ずる者を迫害した罪によって「未来に大地獄に堕つ」べきほどの報いがあるところを、今生において「正法を行ずる功徳」が強く盛んであるため、「未来の大苦」を招き起こして、現世で「少苦」として受けるのである とおおせです。 日蓮大聖人の宿命転換の仏法では、まず、あらゆる悪業の根源は、妙法に対する不信・謗法でると洞察されます。「根本の悪」が明らかになることで、「根本の善」も明確になります。根本の善悪の因果が明瞭になってこそ、本格的な宿命転換が可能になるからです。 その「根本の悪」である謗法とは、すべての人に仏性があることを信じないゆえに、「万人成仏」の教えである法華経を謗ずることです。さらには、万人の仏性を開いていく行動を続ける「法華経の行者」を誹謗することです。そして「法華経の行者」と共に、万人の仏性を否定する根源的な悪とたたかうことにほかなりません。 この「護法の功徳力」にょって、未来に受けるべき苦報を現世に軽くうけることが「転重軽受」です。「地獄の苦しみぱつときへて」(1000−04)今世で一切の「重罪をけしはてて」(0233−01)晴れやかな仏界の境涯を開いていけるのです。いわば、悪から悪への流転の境涯から、善から善への生死へと、生命の軌道の方向転換することができる。それが大聖人の宿命転換の仏法です。 したがって、転重軽受によって受ける難は、「護法の功徳力」として生じたものであり、宿命転換の証しともいえるのです。 さて「兄弟抄」に戻れば、転重軽受のゆえに、今世で受ける「少苦」の具体的な内容として、大聖人は般泥オン経に説かれる八つの難のうち、「邪見の家に生れ」「王難に値う」の二つが、池上兄弟の身に当たる難であると指摘されます。 ここで「邪見の家に生れ」とは、誹謗正法の家に生まれることです。また、「王難等と申すは悪王に生れあう」と仰せです。これは、法華経の行者を迫害する権力者、社会とともに生まれあわせることです。 このように、池上兄弟が「邪見の家に生れ」「王難に値う」ことは、大聖人とともに妙法弘通の実践をしているがゆえに生じた難であり、師弟不二の実践を貫いている証明でもあるのです。 12 たへばきずのあらわるるがごとし、 石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる あなたがた兄弟は、かなり法華経(御本尊)を信じてきたので、過去世の重罪の果報を現世に責め出しているのである。それは例えば鉄を念入りに鍛えて打てば内部の疵が表面にあらわれてくるようなものでる。石は焼けば灰となるが、金は焼けば真金となる。 宿命転換は、生命最後の錬磨 鉄を何度も熱して鍛えていくと、脆さの原因である内部の不純物がたたき出されます。それを、さらに鍛え打つことによって、鉄は一段と強靭になります。兄弟の信心が強盛であるため、過去世の重罪を責め出して今世に苦難の果報を受けているとの仰せです。 ここにある通り、転重軽受・宿命転換の道においては、苦難の意味そのものが深まり、「信心の錬磨」「生命の鍛錬」の意義を持つのです。 大聖人は「鉄は炎打てば剣となる」(0958−14)とも述べております。 私たちの信仰は、宿命と立ち向かうなかでこそ、磨かれ、強くなるのです。 悩みや苦しみという“業火”に焼かれた時、人間の真価は発揮されます。「弱き信心」であれば、灰となって崩れ散ってしまう。「強き信心」であれば、真金となって、ますます輝きを放っていくのです。 わが生命を鍛え抜き、強く磨き上げることが、仏法の大目的です。 磨かなければ人材は光らない。鍛えなければ本物は育たない。広宣流布のために徹定して戦う中で、過去世の宿業を転換し、わが人生を金剛不壊の宝剣のごとく、光り輝かせていくことができるのです。 鍛錬といえば、牧口先生と戸田先生、そして戸田先生と私の創価の師弟もまた、毎日が生命錬磨の日々でありました。 19歳で牧口先生との出会いを刻まれた戸田先生は大正9年(1920)4月、「若き日の日記」に、このように綴られています。 「国家の人材、世界の指導者としての大任を授かるべく練り、果たすべく磨かざるべからず(中略)今日の人のそしり、笑い、眼中になし、最後の目的を達せんのみ」 この折、若き戸田先生は、牧口先生が校長を務めておられた西町尋常小学校の臨時代用教員として採用されました。 偉大なる師と出会い、偉大なる目的を成就するために「練る」すなわち、人格、実力、心身を鍛練しいゆくことを深く決意されたのです。 私もまた、19歳の時に恩師・戸田先生の運命的な出会い、栄光の師弟不二の大道を歩み始めました。 戸田先生の事業が挫折し最も苦境の時にも、私は矢面に立って、一身に師を守り支えつづけました。 昭和25年(1950)12月の日記に、当時の心中を次のように記しました。 「苦闘よ、苦闘よ。 汝は、その中より、真実の人間ができるのだ。 汝は、その中より、鉄の意思が育つのだ 汝は、その中より、真実の涙を知ることができるのだ。 汝は、その中より、人間革命があることを知れ」 戸田先生に言い尽くせぬほど、お世話になった者たちが、手のひらを返したように、大恩を踏みにじり「戸田の野郎」などと罵詈罵倒して、去っていきました。 しかし、私は微動だにしませんでした。戸田先生と共に受ける苦難こそ誉れであり、鍛錬こそ勝利の道である。そして戸田先生に必ず第二代会長として、広宣流の指揮を執っていただくのだと祈り切って、悪戦苦闘を突き抜けていったのです。 13 は・ あらわれて法華経の十羅刹も守護せさせ給うべきにて候らめ、 雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり尸毘王 14 のはとは毘沙門天ぞかし、 十羅刹・心み給わんがために父母の身に入らせ給いてせめ給うこともや・あるらん このたびの難においてこそ、本当の信心があらわれて法華経の十羅刹女もあなたがたを必ず守護するにちがいない。雪山童子の前にあらわれた鬼神は帝釈であり、尸毘王に助けられた鳩は毘沙門天であった。同じく、十羅刹女が、信心を試すために、父母の身に入って、法華経を信ずる人を責めるということもあるであろう。 諸天善神が信心を試すゆえの難 つづいて大聖人は、兄弟の実践に「本当の信心」があらわれたので、法華経の行者を守護すると誓った「諸天善神」によって守られることは間違いないと仰せられます。そのうえで、帝釈天が羅刹となって雪山童子の求道心を試したように、また、毘沙門天が鳩となって尸毘王の慈悲心を試したように、諸天善神は、その人の信心が本物かどうかを試すことがあると示されています。 大聖人は、その原理を踏まえて、今回の勘当は、十羅刹女が兄弟の信心を試すために、父母の身に入って二人を責めたであろうと仰せです。 諸天善神がその人の信心を試すために難を起こす この原理について、大聖人は、他の御書で明かされます。 例えば、熱原の法難の折に、農民信徒たちが平左衛門尉頼綱によって理不尽な尋問を受けたことがあります。しかし、一人として退転する者はなかった。彼らは権力者の弾圧を受けても恐れる心なく題目を唱え続けました。 直ちにこの報告を聞かれた大聖人は、即座に記されました。 「定めて平金吾の身に十羅刹入り易りて法華経の行者を試みたもうか、例せば雪山童子・尸毘王等の如し将た又悪鬼其の身に入る者か」(1455−02) 大聖人は、平左衛門尉の身に十羅刹が入ったか、あるいは悪鬼が入ったか、あるいは悪鬼が入ったかと仰せです。 悪鬼が入って法華経の行者を迫害することは、前回、第六天の魔王が智者や国主、父母の身に入って迫害を加える原理として学んだ通りです。 しかし、諸天善神が平左衛門尉の身に入って熱原の農民信徒の信心を試したとは、いかなることでしょうか。 それは、「不退転の信心」こそが「成仏の因」となるからです。もとより難を受けるのは、正法である法華経を持つたゆえです。問題は大難を受けた時に、臆病な心が出来して退転してしまうか、勇気の心を奮い起して不退転を貫くかどうかです。 自分の心の弱さゆえに退転してしまえば、それは第六天の魔王に責め苦に敗れたことになります。反対に、自分の心が固いゆえに 不退転を貫けば、それは諸天の試練に打ち勝つたと振り返ることができます。 要するに、どこまでいっても自分の「心」で決まるのです。諸天善神の加護といっても、本質は、自分の信心の力です。 戸田先生は師子吼されました。 「大聖人をいじめ抜いた、極悪の仏敵である平左衛門尉に対して、御書には、“彼は、自分にとっては善知識だ”と仰せになっておられる。 敵など断じて恐れるな!全部自分自身を完成させて、仏にしてくれる、闇の列風に過ぎない」 これが、日蓮仏法の師子王の魂です。大事なことは、恐れない「心」です「一念」です。 大聖人は、幾度となく妙楽大師の「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」との一節を引用されています。信心が本物であれば、諸天善神は必ず法華経の行者を守護することは間違いありません。 先ほどの御文の続きでも、大聖人は、釈迦・多宝・十方の諸仏、諸天の加護は、法華経の会座での誓いであり、絶対に破られることはない。変毒為薬の原理から、たちまちに「賞罰」が厳然とあることも確かなことであるとおおせられています。 「心こそ大切」です。自分の信心いかんで未来の勝利は決まるのです。 「自分の運命をになう勇気をもつ人だけが、英雄である」というヘッセの箴言があります。 一切が自分の生命の変革から始まると確信した者が、真の勇者であり、永遠の幸福を築くことができるのです。 15 れに・つけても、心あさからん事は後悔あるべし、 又前車のくつがへすは後車のいましめぞかし、今の世には・な 16 にとなくとも道心をこりぬべし、 此の世のありさま厭うともよも厭われじ 日本の人人定んで大苦に値いぬと見へ 17 て候・眼前の事ぞかし それにつけても信心が弱くては、必ず後悔するにちがいない。前車が覆えったのは、後車の誡しめである。 今の乱れた世にあっては、これということがなくとも仏道を求める心が起こるのは当然である。この世の有様をみて厭うといっても、よもや厭うことはできない。日本の人々は、定めて大苦に値うことは目に見えており、まさに眼前のことである。 「まことの時」に不退の信心で 「それに・つけても、心あさからん事は後悔あるべし」 これは、すべての門下に送られた言葉と拝されます。 「法華経を経のごとく説く人」に巡り合うことができた。この“師と時を同じくして戦える福徳”をいかに自覚するか。せっかく大事な時に、心が浅ければ、永遠に後悔を残してしまう。 難にあっている時は、実は、自分の成仏の門を永遠に開いていけるか、それとも退転によって幸福の道を閉ざしてしまうか。その最大の岐路であり、最も「大事な時」となります。 いついかなる時も、私たちは大難の時こそ「開目抄」の一節を拝して戦い抜きたい。 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(0234−07) この御文の身読が、創価学会の永遠の生命線です。常にこの御文に立ち戻り、前進していけば、私たちの信仰は不滅の輝きを放つからです。 この御文の精神に照らせば、私たちが難に直面した時は、すべて「まことの時」です。三障四魔が競い起こった時も、自分の宿命転換の時も、広宣流布の活動の“剣が峰”の時も「まことの時」に反転攻勢できる信心が不可欠です。その信心を私たちは、日々、大聖人から教わっているという自覚に立つことです。断じて「つたなき者」になってはならない。 「心あさからん事「つたなき者」 それは生きる根本目的を持たずに浮き草のように漂う人生になってしまいます。 人間は「生きる意味」を求める動物です。 そして真剣に、その意味を探求し貫いていけば、おおずといくらでも深まっていく。学会員は、人生の意味と信仰とを常に深めていくことができます。皆、人生の哲学博士なのです。 「今の世には・なにとなくとも道心をこりぬべし」とは、当時の不安に満ちた社会事情を踏まえての仰せです。 大聖人の御在世当時は、度重なる飢饉や疫病、天変地異が相次ぐ時代でした。そうした時代だからこそ、本来であれば、人々に「道心」が芽生えるはずです。混迷の度をますほどに、深い哲学が求められます。日蓮仏法は、まさしく悪世末法の時代の闇を照らす「太陽の宗教」なのです。 ところが、日本は、その大聖人を正しく愚うするどころか迫害した国です。結果として大聖人が予言された内乱と侵略の警告が的中し、なすすべがなくなってしまった。避けることのできない悲惨と苦悩に直面したのが総罰の姿です。大聖人は二月騒動と蒙古襲来という「眼前の事」を見れば、そのことが明瞭ではないかと喝破されています。 特に文永11年の「文永の役」のあとは、日本一国をあげて、近々あるであろう再度の蒙古襲来に備えている最中であり、人々の間には大きな不安が広まっていました。 「蒙古討伐に向かった人々は、年老いた親、幼い子、若い妻、そして大切な住み家を捨てて、ゆかりのない海を守り、雲が見えれば敵の旗かと疑い、釣舟が見えれば兵船ではないかと肝をつぶす」 戦争による嘆きは、いつの時代も変わりません。愛する家族との辛い別れ、いつ命が果てても不思議ではないという、死と隣り合わせの日々、いつの時代も苦しむのは庶民です。ゆえに、絶対に戦争を起こしてはならない。これは仏法者の永遠の叫びであります。 (続く) いずれにしても、民衆が苦しむ事態を招いたのは邪悪に加担して最大の正義の大聖人を迫害した為政者の責任です。大聖人は、池上兄弟が今、父親から責められているのも、結局は、国主が悪僧らにそそのかされて「法華経の敵」となってしまったからであると洞察されています。 仏法は勝負です。大聖人は「法華経の御利生心みさせ給え、日蓮も又強盛に申し上げ候なり」と仰せです。 師弟一体の祈りと団結で、正邪を必ず満天下にしめしていこうと、最愛の弟子へ力強くよびかけられています。 大聖人が池上兄弟に教えられている行き方は、一貫して、魔性に対して堂々と立ち向かっていく「攻めの姿勢」です。受け身になったり、弱気になれば魔は増長します。「絶対に臆してはならない」と御指導されているのです。 戸田先生は烈々と語られました。 「困難を避けるような弱虫に、何ができるか。そんな人間は、この戸田のもとには、いないはずです」 「学会は師子の団体だ、師子の集まりだ。臆病ものはいらぬ!」 (新年度より新スレに続く) |
9 / 赤鬼の教学室 (1000) |
元朝より始めた法華経の研究は、これにて終了します。 従いまして当スレの書き込み規制も解除します。 皆様の教学研鑽にご利用いただければ甚幸せです。 赤鬼 |