トップページへtop
日蓮大聖人御書講義 21巻
1079~1089兄弟抄
1079~1089兄弟抄2009:4・5・6月号大白蓮華より。先生の講義
1089~1090兵衛志殿御返事(鎌足造仏事)
1090~1093兵衛志殿御返事(三障四魔事)
1094 兵衛志殿女房御書(儒童菩薩御書)
1095~1096兵衛志殿御書(親父入信御書)
1097 兵衛志殿女房御返事(銅器供養抄)
1097 兵衛志殿御返事
1098~1099兵衛志殿御返事(厳冬深山御書)
1100 孝子御書
1101 両人御中御書
1102 右衛門太夫殿御返事(斯人行世間事)
1103~1104大夫志殿御返事(付法蔵列記)
1104 兵衛志殿御返事
1105 大夫志殿御返事
1105~1107八幡宮造営事
1108 兵衛志殿女房御返事
1108 兵衛志殿御返事(兄弟同心御書)
序講
本書に収められた1編の御抄は、池上兄弟ならびにその一族に与えられたものである。各抄の講義に入るにあたり、まず池上兄弟についてふれておきたい。
池上兄弟は、数多くの大聖人門下のなかでも、とくに四条金吾、富木常忍、南条時光などと並び称される模範的な信徒である。それは有名な「兄弟抄」を初めとする、これら17編の御抄に如実にしのぶことができる。御書に残された大聖人の指導は、ある時は、百雷が一時に落ちるような厳しい御𠮟責であったり、またある時には、さながらわが子に対するような暖かい慈愛にみちた激励であったりする。その大聖人の、心を尽くしての指導を、池上兄弟は終始一貫して忠実にまもり、見事、数々の難を克服していったのである。
なかんずく兄弟抄の「魔競はずは正法と知るべからず」(1087-16)との御金言は、末法の御本仏たる日蓮大聖人がわれら門弟に示された信心の永遠の指針である。正しく日蓮大聖人の御一生それ自体、想像を絶する三障四魔との闘争の連続であった。
また、大聖人のお弟子方も、数々の三障四魔を乗り越え、それぞれ幸福境涯を確立している。なかでも、20余年間、あらゆる困難や三障四魔と戦いぬいて、宿命を打開し、遂に一家の革命をなし遂げた池上兄弟の姿は、700余年間の隔たりをこえて、現在もなお、信心の鏡として輝いているのである。
第一 池上家について
池上家の由来については、定かではないが、その本来の姓は、藤原氏であることが、一般の説のようである。その一説によれば、摂政藤原忠平を父に、源能有の娘を母に持つ、藤原忠方に始まるという。すなわち、忠方は、天慶3年(0940)の平将門の乱平定のために、京都より下向し、戦功を立て、武蔵国千束池のほとりに住居をかまえ、池上の名をもって氏としたというのである。
池上兄弟の父左衛門大夫康光は、鎌倉幕府の作事奉行として、この武蔵国池上にある千束の郷を賜っていた。康光の名は「吾妻鏡」の中に、暦仁元年(1238)6月、将軍頼経の春日神社の社参の衛兵の一人、「池上藤兵衛康光」として記されている。また御書の中にも「さえもんの大夫殿」とあり、当時の慣例に従って「兵衛尉」より「衛門尉」に転じたと思われる。
また、兄弟もそれぞれ御書には「右衛門の大夫志宗仲」「兵衛志宗長」と呼ばれている。この「大夫」という呼称からみると、父子ともに五位に叙爵されていたことがわかる。また、当時の通例として、父を左衛門大夫といい、子を右衛門の大夫の志、兵衛の志といっていたようである。
次に「志」は兵衛府・衛門府の第四等の官名である。
長官を督、二等を佐、三等を、そして四等を志というのである。「職原抄」によれば、衛門志は六位官である。六位の担当官であって、五位となるので「右衛門大夫志」あるいは「大夫志」と呼ぶのである。当時、位階が実質的なものではなくなってきたとはいえ、執権すら四位五位を上らなかったことを思えば、鎌倉時代にあっては、相当な身分であったといえる。なお、池上左衛門康光が鎌倉幕府の作事奉行であったことは前述したが、同奉行は、引付方に属する十三奉行の一つで、殿舎の造営や修理などの建築、土木をつかさどっていた。
第二 日蓮大聖人と池上兄弟
(一)兄弟の入信
池上右衛門大夫宗仲の入信は、日蓮大聖人が立宗を宣言された建長五年から三年目、建長八年(1256)ごろと伝えられている。一説によると、宗仲が34歳の時であった。同じ年、当時27歳であった四条金吾も入信したと伝えられている。続いて、弟兵衛志宗長も入信した。池上兄弟は建長5年11月に大聖人に帰依して、門下となっていた弁阿闍梨日昭の甥であったから、その関係で入信したともいわれている。
このころは、先の四条金吾をはじめとして、安房の国、長狭郷天津の豪族、工藤左近尉吉隆、進士善春、また池上家の縁にあたるといわれる荏原義宗などの青年武士が続々と入信し、松葉ヶ谷の庵室は、草創期の息吹に満ちていたのであった。
一方、池上兄弟の父康光は、兄弟の信心には猛反対であった。それは康光が、律・念仏の極楽寺良観の熱心な信者であったためである。実に、弘安元年、父康光が入信するまで20余年にわたる反対であった。
入信当時から文永十二年(1275)の兄宗仲の勘当に至るまで、約20年間は、池上兄弟に関する資料は全くない。しかし、その間、大聖人の門下に対して三障四魔の嵐が吹き荒れたなかで、兄弟が純真に信心を貫いたことは、あとに述べる御書の指導からも想像に難くない。
(二)第一回の勘当
(1)三障四魔との戦い
建長8年ごろ入信した池上宗仲、宗長の兄弟は外には天変地夭、蒙古襲来、物情騒然たる世相であり内には日蓮大聖人およびその門下に対する激しい迫害のあったなかで、以来20年間にわたる信心を貫いたのであった。したがって、その間も決して平坦な道でなかったことは、容易に推察されるところであるが、資料がないので詳しいことはわからない。
文永8年(1271)、雨祈に敗れて以来、怨みに燃え、日蓮大聖人を讒訴して首の座にすえ、さらには佐渡へ流罪する等の卑劣な行動に出ていた良観等は、大聖人に対する弾圧が成功しないと見ると、今度は日蓮大聖人の一門を内から切り崩すために、弟子檀那に対してその信心を妨害する妄道を始めたのであった。
池上宗中を父・康光が勘当したことも、そうした良観の策謀の一つであった。兄弟の勘当以後の数年間は、二人にとって大きな宿命転換の戦いであり、信心は魔との戦いであることを、身をもってしめしたものであった。そのゆえに、日蓮大聖人は、兄弟抄で次のように仰せである。「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず 之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」(1087-15)
正法を修行するゆえの難である。また二人の信心の境涯が進んできたゆえの難である。父康光の勘当に負けず、畏れず戦い切りなさいと指導されたのであった。
三障死魔紛然の文は日蓮大聖人御自身も身で読まれた、また門下一同が、信心の明鏡とすべきものであるがゆえに、兄弟二人が、まずこの文を身をもって読み切り、未来の門下の先駆けとなりなさいとの激励でもあった。池上兄弟は、日蓮大聖人から、慈愛あふれる指導をうけて、おおいに奮起したのである。
兄弟のちち・康光は、念仏の強信者であり、良観の熱烈な信奉者であった。したがって、念仏無間と破折し良観を「僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せん」(0174-05)と断言される日蓮大聖人を憎み、兄弟二人が大聖人に帰依したことに対して、何とか心を翻させようと考えたことは想像にかたくない。康光が宗仲を勘当するというような事件も、起こって当然であると考えられるであろう。しかし、それは、仏法の眼からみればさらに明瞭たるものがある。
「正法を修行して、なぜ、父に勘当されるような難をうけるであろうか」日蓮大聖人は、その疑問に対して、兄弟抄に二つの理由をあげて指導されたのせある。
(2)悪知識による難
難を受ける一つは悪知識によるのである。昔、舎利弗が、六十劫という長期間、法華経の修行をしながら、退転したのも、乞眼の婆羅門となって現われた魔に負けてしまったがためである。この婆羅門が舎利弗にとっては悪知識であった。いま、池上兄弟にとっては、父・康光が、悪知識として二人の信心を妨げんとしているのである。したがって、康光の言葉にのったり、情にひきずられて退転したならば、、兄弟二人とも地獄に堕ちてしまう。そこで大聖人は、次のように、悪知識を恐れよと指導されたのである。
「天台大師釈して云く「若し悪友に値えば則ち本心を失う」云云、本心と申すは法華経を信ずる心なり」(1081-10)「されば法華経を信ずる人の.をそるべきものは賊人・強盗・夜打ち・虎狼.師子等よりも当時の蒙古のせめよりも法華経の行者をなやます人人なり」(1081-14)
法華経を信ずる者が、もっとも恐れ、心していくべきものは、強盗や夜打ち、虎や狼のような猛獣、また蒙古の襲来等ではなく、信心を妨げようとする人々である。強盗、夜打によって盗られるものは金銭や物品であり、虎狼や合戦においても、現在の生命を失うにすぎない。しかし、悪知識は信心を破って、その人の永遠の幸福を破壊し、無間地獄に堕とす地獄の使いだからである。では、兄弟にとっては、父である康光が、悪知識となって、信仰を妨げるとは、どういうことであろうか。
大聖人は、この世界は第六天の魔王の所領であり、仏道修行をしている者をみると、第六天の魔王は、自分の眷属の減るのを恐れて、父母等の身に入って信心を邪魔しようと計るのであると教えられている。
「第六天の魔王或は妻子の身に入つて親や夫をたぼらかし或は国王の身に入つて法華経の行者ををどし或は父母の身に入つて孝養の子をせむる事あり」(1082-07)
釈迦仏ですら、出家する時に第六天の魔王が邪魔をした。いま池上宗仲・宗長の場合も、兄弟の信心が強盛になってきたのを見て、第六天の魔王が、康道の身にはいって、せめているのである。
「父母の身に入って孝養の子をせむることあり」とは、とくにこの時の二人の身についていわれたものである。池上兄弟二人にとって、辛いことは、高齢の父を裏切ることであったに違いない。第六天の魔王は、それを知って、父、康光の身に入りかわって兄弟を苦しめ、兄弟を退転させようと図ったのであった。
今度の池上兄弟に対する難は直接には念仏者である父康光によって惹き起こされているように見えるが、それは表面だけの姿であり、その裏には、極楽寺良観等の策謀があった。それは「良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はんとせしに」(1095-05)と述べられている通りである。
大聖人の門下のなかにも少輔房等のように初めは信心修行に励んだが、途中で退転して、もとから誹謗していた者よりも、かえって激しく大聖人を非難した者もあった。それらもすべて、この魔王のついた悪知識の働きにまけたのであった。そこで日蓮大聖人は、兄弟に法華経を捨てる恐ろしさを次のように説かれ、深く退転を戒められたのである。
「さればこの法華経は一切の諸仏の眼目教主釈尊の本師なり、一字一点もすつる人あれば千万の父母を殺せる罪にもすぎ十方の仏の身より血を出す罪にもこへて候けるゆへに三五の塵点をば経候けるなり」(1080-15)
しかし、このように恐るべき悪知識も、修行者の一念によって、善知識に転ずるのである。日蓮大聖人においても、北条時宗、平佐衛門尉ら大聖人に迫害を加えたものを、善知識としてられる。種種御振舞御書に「」(0916-)とわれているのがそれである。
池上兄弟にとっては、父・康光は、宗仲を勘当して、信心を妨げようしたのであるから悪知識というべきであるが、結果的には、二人の信心を強盛にし、二人の宿命転換を成し遂げただけでなく、自らも入信することとなったがゆえに、善知識といえるのである。
(3)過去世の業因による難
難を受ける第二番目の原因は、過去世における正法誹謗の罪によるのである。池上兄弟が、康光のような念仏の強信者のもとに生まれ、強い迫害に値わねばならぬ原因は、過去世にあったといえる。
「今又日蓮が弟子檀那等は此にあたれり、法華経には「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」涅槃経に云く「横に死殃に羅り訶.罵辱.鞭杖・閉繋・飢餓・困苦・是くの如き等の現世の軽報を受けて地獄に堕ちず」等云云、般泥オン経に云く「衣服不足にして飲食ソ疎なり財を求めるに利あらず貧賤の家及び邪見の家に生れ 或いは王難及び余の種種の人間の苦報に遭う現世に軽く受くるは 斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云、文の心は我等過去に正法を行じける者に・あだをなして・ありけるが今かへりて信受すれば過去に人を障る罪にて未来に大地獄に堕つべきが、今生に正法を行ずる功徳・強盛なれば未来の大苦をまねぎこして少苦に値うなり」
般泥オン経の「邪見の家に生れ」とは、兄弟が念仏信者の康光の子として生まれたことであり、「浅い王難」とは、法華経の行者を迫害する悪王の国に生まれたことを指すのである。こうした困難に遭うのは、過去世において、正法を行じていた者に反対した結果である。この正法誹謗の罪によって、未来に地獄に堕ちる筈であるのに、今生にその罪障を招き出すことができたのは、法華経を信じた功徳によるのである。この日蓮大聖人の指導にしたがって考えれば、いま兄弟が、康光からせめられていること自体が大きな宿命転換であり、大功徳なのである。池上兄弟は、このように、大聖人より仏法の因果律の上から、明快な指導を受けて腹を決めて戦ったのである。
(4)真実の孝養
兄弟にとって、最大の悩みは、法華経につくか親につくかであったであろう。日蓮大聖人は、その兄弟の心を知り、「真の孝養とはなにか」ということについて、明確な指導を成されたのである。
「一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候」(1085-07)
世間的に考えれば、すべては親に随うべきである。しかし、成仏の道は、親がそれを妨げる時には随わないのが、孝養の本である。なぜなら、仏道修行によって、自分自身が仏の境涯を得てこそ、親をも根本的に救うことができ、真実に親の恩を報ずる者となるからである。この「仏道修行こそ孝養の道である」という指導は、池上兄弟の信心に対する深いくさびとなった。いずれにしても、このような三障四魔を呼び起こしたというこは、兄弟二人が、信心の関所にさしかかっていたことを示すものであり、宿命転換の大事な時点であたことを証拠づけるものであった。
(5)当時の勘当と兄弟の団結
さて、当時の勘当は、単に父と兄弟という関係だけでなく、兄弟二人の仲を裂くという要素も含まれていた。さらに鎌倉時代における勘当は、現代と違って、重大な意味をもっていた。それは血縁関係の断絶だけではなく、経済的保証を奪い取ることでもあり、また社会的な破滅をも意味するものであった。したがって、家督相続権を、兄宗仲から剥奪し、弟の宗長に与えるということは、弟にとっては、大きな魅力であったであろう。
日蓮大聖人はそれを心配され、弟宗長の信心がゆらぐことを心配しておられた。それゆえ、兄弟抄も別して兵衛志宗長に与えておられるのである。ところが、この災難に対し、宗長は兄について、二人は心を合わせて戦った。それを大聖人は大変喜ばれ「賢王のなかにも・兄弟をだやかならぬれいもあるぞかし・いかなるちぎりにて兄弟かくは・をはするぞ浄蔵・浄眼の二人の太子の生れかはりて・をはするか・薬王・薬上の二人か、大夫志殿の御をやの御勘気はうけ給わりしかどもひやうへの志殿の事は今度は・よも・あにには・つかせ給はじ・さるにては・いよいよ大夫志殿のをやの御不審は.をぼろげにては・ゆりじなんど・をもつて候へば・このわらわの申し候は.まことにてや候らん、御同心と申し候へば・あまりの・ふしぎさに別の御文をまいらせ候、未来までの・ものがたりなに事か・これにすぎ候べき」(1086-04)とおほめになっている。
そして、故事を例にあげて兄弟仲よくしなさいと指導され「今二人の人人は隠士と烈士とのごとし一もかけなば成ずべからず、譬えば鳥の二つの羽人の両眼の如し」(1088-07)と二人の団結を強調されている。さらに大聖人は、兄弟の油断を戒められている。
「一生が間・賢なりし人も一言に身をほろぼすにや、各各も御心の内はしらず候へば・をぼつかなし・をぼつかなし」(085-04)
「設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入つて法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり、何に況んや其の已下の人人にをいてをや」(1082-06)仏の境涯に等しいところまで昇った菩薩ですら、元品の無明という悪鬼に惑わされて、妙覚の位に入ることができない。まして、それより劣る人々においては、この元品の無明を断ち切ることは、まことに困難である。池上兄弟は、この時、既に20年にわたって信心を貫いていた。しかし、その信心の年功も、ひとたび第六天の魔王に従う心を起こしたときには一瞬にして水泡に帰してしまうのである。
また、当時は、自界叛逆、他国侵逼の両難が並び起こり、文永9年(1272)2月には、評定衆、名越時章、教時とそれに呼応した六波羅南探題、北条時輔の内乱等があり、文永11年には、蒙古の大軍が壱岐、対馬に攻め寄せた。この自界叛逆、他国侵逼の両難によって、日本国全体が、戦乱の恐怖の渦にまきこまれていた。そして、上は国王から、下は民衆に至るまで、全てが修羅道に堕ちていた時であった。
「各各のせめられさせ給う事も詮するところは国主の法華経の・かたきと・なれるゆへなり、国主のかたきと・なる事は持斎等・念仏・真言師等が謗法よりをこれり、今度ねうしくらして法華経の御利生心みさせ給へ、日蓮も又強盛に天に申し上げ候なり、いよいよ・をづる心ねすがた・をはすべからず」(1084-03)
二人の受けた迫害も日本国の受難も、全て謗法によって起こったものである。したがって、この謗法を対治しなければ、災難を除くことはできない。だから決して恐れる態度や姿があってはならない。大聖人と共にじっと歯をくいしばって謗法と戦い、御本尊の大功徳を証明しなさいとの指導である。
「なにと・なくとも一度の死は一定なり」(1084-09)
「設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし」(1088-16)池上宗仲・宗長の兄弟は、大聖人の偉大な慈悲に感激し、団結して難と戦ったことであろう。しかし、勘当は簡単に許されなかった。
「各各は二人は・すでにとこそ人はみしかども・かくいみじくみへさせ給うは・ひとえに釈迦仏・法華経の御力なりと・をぼすらむ、又此れにもをもひ候、後生のたのもしさ申すばかりなし、此れより後も・いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし、設ひ命に及ぶともすこしも・ひるむ事なかれ」(1089-09)と。兄弟抄と同じ年に書かれた建治元年8月のお手紙である。
世間の人々はみな、兄弟がもう退転するだろうと思っていたが、あらゆる迫害に負けず二人はがんばった。
その戦いを、大聖人は殊勝であると喜ばれさらに「弛むことなく、謗法を責め、命に及んでも魔に負けてはならない」と厳しく叱咤激励をなされたのである。そして、日蓮大聖人の厳しくもまた慈愛溢れる指導と、兄弟二人の弛みなき戦いによって、建治2年(1276)7月、ついに兄宗仲の勘当を解くことができたのである。
(6)兄弟の妻たち
この三障四魔の戦いのなかで、見逃してはならないのは、宗仲、宗長兄弟の夫人たちの信心である。
大聖人は「定んで女人は心よはく・をはすれば・ごぜたちは心ひるがへりてや・をはすらん」(1084-06)と夫人たちの信心を危ぶんでおられた。そして、いかなる問題にも夫人の信心如何が、大きく結果を左右することを知っておられたがために、二人の夫人にもまた厳格なる指導を与えられたのである。
「又二人の御前達は此の人人の檀那ぞかし女人となる事は物に随つて物を随える身なり夫たのしくば妻もさかふべし夫盗人ならば妻も盗人なるべし、是れ偏に今生計りの事にはあらず世世・生生に影と身と華と果と根と葉との如くにておはするぞかし」(1088-07)
二人の夫人は宗仲・宗長に従って、苦楽を共にする身である。夫と妻は、影と身、華と果、根と葉のごとく一体不二であるり、夫の信心も決定し、また妻の信心によって夫の信心も決定する。
だから、宗長、宗長と心を合わせて、団結してこの難と戦いなさいと指導されている。
そして、もし、夫の信心に弛みが見えたならば、夫の心を諌めなさいと、励まされたのである。
「夫と妻とは是くの如し此の法門のゆへには設ひ夫に害せらるるとも悔ゆる事なかれ、一同して夫の心をいさめば竜女が跡をつぎ末代悪世の女人の成仏の手本と成り給うべし、此くの如くおはさば設ひいかなる事ありとも日蓮が二聖・二天・十羅刹・釈迦・多宝に申して順次生に仏になし・たてまつるべし、心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり」(1088-12)法華経のゆえには、たとえ夫に害されても、悔いることなく、二人で夫の心を諌めるならば、竜女の跡を継いで、末代悪世の女人成仏の手本となることが出来るとの指導である。また「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」と、あくまでも信心第一に、難と戦いなさいと強調されたのである。
二人の夫人もまた、この大聖人の指導を忠実に守り、あるいは、さまざまな御供養をし、日蓮大聖人について信心に励んだ、宗仲、宗長の兄弟が難に勝ちきった影には、この夫人たちの、信心が大きくあずかったことは疑いない。
(三)第二回の勘当
(1)弟・宗長の動揺
ところが三障四魔の戦いはこれで終わらなかった。建治2年(1267)最初の勘当が許されたのも束の間、翌建治3年の11月、宗仲は、再び父の勘当を受けた。
この再び襲った三障四魔に対して、兄宗仲は毅然として揺るがず、日蓮大聖人の門下として信心を貫く決意を示したが、弟宗長の方には、信心の動揺が見えたようである。第二回の勘当については、すでに大聖人は予測されていた。それ以前に大聖人のもとを訪れた宗長の妻に大聖人がはっきりそのことを申されていたのである。
「このたびゑもんの志どのかさねて親のかんだうあり・とのの御前にこれにて申せしがごとく一定かんだうあるべし・ひやうへの志殿をぼつかなしごぜんかま経て御心へあるべしと」(1090-11)大聖人は、池上家の内情を女房から聞かれて、遠からず宗仲の勘当のあることを予測されていたのである。また、宗長の信心状態を考えられ、宗仲の勘当によって、信心がぐらつくのではないかと心配され、くれぐれもしっかりするよういっておられたのである。
この大聖人の予測どうり、再び宗仲の勘当が起こり、宗長の動揺も現実になるに及び、日蓮大聖人は、兵衛志宗長に対して厳しい指導の手紙を送られた。建治3年11月の「兵衛志殿御返事」がそれである。御書では「建治元年」となっているが、恐らく「建治3年」の御作であろうと思われる。ここで大聖人は、親に対する孝養と信心、家督相続の問題と信心のあり方の二点から厳しく指導された。
「さえもんの大夫殿は今度・法華経のかたきに・なりさだまり給うとみへて候、えもんのたいうの志殿は今度法華経の行者になり候はんずらん、とのは現前の計なれば親につき給はんずらむ」(1091-02)父左衛門太夫康光は法華経を信ずる宗仲を勘当して、その信心を妨げようとしたのであるから法華経のかたきとなり定まった。右衛門大夫宗仲は、法華経を信ずるゆえに難を受け、その難に負けず信心を貫いているゆえに、親につき随うであろう。気違いじみた人々は、あなたの行動を讃めるかもしれないが、それは真の親孝行ではないと、大聖人は厳しくもまた、じゅんじゅんと孝養について説かれている。
(2)親に対する孝養と信心
治承元年(1177)後白河法皇が平氏打倒の計をめぐらした時、平清盛は、後白河法皇を幽閉ちょうとした。だが、息子の重盛に諫められて思いとどまった。しかし、治承3年(1179)重盛が死ぬと、清盛は法皇を幽閉し、完全な独裁権を握ったが、その事がのちに源氏に滅ぼされる原因ともなった。清盛の二子宗盛は親に従って事に加担したが、源氏に敗れて近江の篠原で殺された。
100年前の事件を引いて、日蓮大聖人は、親を諌めた重盛と親の悪事に従った宗盛のいずれが孝子であるかと、宗長を諌められた。宗仲の方は信心強盛で、性格も剛直であったが、弟の宗長は、90に近い父・康光の親の情に絆されやすい面を持っていたのだった。それゆえ、ともすると、諸僧の策動によって康光がうごかされているということを見抜けず、父に従うような気配をみせたとも考えられる。
こうした宗長であったから、日蓮大聖人は厳しい言葉で、兄について信心を貫くよう励まし、指導されたのである。
「百に一つ千に一つも日蓮が義につかんと・をぼさば親に向つていい切り給へ親なれば・いかにも順いまいらせ候べきが法華経の御かたきになり給へば・つきまいらせては不孝の身となりぬべく候へば・すてまいらせて兄につき候なり、兄をすてられ候わば兄と一同とをぼすべしと申し切り給へ、すこしも・をそるる心なかれ・過去遠遠劫より法華経を信ぜしかども仏にならぬ事これなり、しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091-11)
この御抄の最初に、御供養の品をいただいたと述べておられるが、宗長がそのように使いをもって御供養してうるということは、まだ退転していないことであろう。少しは信心があるのであろうと大聖人は考えられ、万一、大聖人の教えに従おうという気があるならば、このように親に向かっていい切りなさいと、教えられたのである。
また、浄蔵、浄眼が、外道に執着する父妙荘厳王を救ったのと同じように、兄弟二人は団結して父・康光を折伏しなさいと励まされ、昔と今は、時は変わっても、法華経の道理は変わらないことを示されたのであった。
(3)財産と信心
また大聖人は、康光が家督を宗長に譲ろうとしたことに対しても、わずかの所領や財産に目をくらませて、仏道修行を捨てるのは、堕悪道の行為である。執権の北条時頼ですら、30歳で家督を嫡子時宗に譲り、池上家には較ぶるもない、多大な所領や家来を捨てたではないかと、現世の財産や名誉に執着する心を打ち破っておられる。そして「かえすがえす今度とのは堕べしとぼうるなり」と、重ねて退転を戒められ、このように厳しくいうのも、いままで、純真に信心を貫いてきたのに、ここで退転して三悪道に堕ちることが、かわいそうであるがゆえにいうのだと諭されている。「今度はとのは一定をち給いぬべしとをぼうるなりをち給はんをいかにと申す事はゆめゆめ候はず但地獄にて日蓮をうらみ給う事なかれしり候まじきなり」(1090-12)
宗長はきっと退転するだろう。退転することをとやかくいうつもりは、さらされないが、ただ地獄に堕ちてから怨んでも知らないぞと、まるで、突きはすような厳しいお言葉である。だが、その底には、地獄へおちることがないように、その禍根を断ち切っておられる。厳父の慈悲がひしひしと感じられるではないか。
(4)宿命転換の時
いずれにしても、この第二回の難は、兄弟にとっては大きく信心の成長を期すべき時であり、一家にあっては、家庭革命をなし遂げる時がきた証拠であった。
「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091-15)過去遠々劫から、法華経を信心していても、いまだ成仏を遂げることがべきなかったのは、魔に値って退転してしまったからである。
潮の干満、月の出と月の入り、あるいは夏と秋、冬と春のような、自然の境目にも変調がある。信心修行の上においても、凡夫が仏になる時には、かならず三障四魔の嵐が出てくる。したがって、三障四魔が競うのをもって、己の宿命転換をして成仏を遂げる時であると知るがゆえに、賢者は喜んで、この難と戦うのである。しかし、愚者はそれを知らず、三障四魔の表面的な恐ろしさに驚いて退転してしまうのである。
このように日蓮大聖人は、二人が20年の信心を経て、いよいよ成仏を遂げる時が近づいたことを教えられて、喜んでこの難と戦いなさいと指導されている。
「仏になり候事は此の須弥山にはりをたてて彼の須弥山よりいとをはなちて、そのいとの・すぐにわたりて・はりのあなに入るよりもかたし、いわうや・さかさまに大風のふきむかへたらんは・いよいよかたき事ぞかし」(1092-01)
更に、成仏の難しいこと、法華経に値い難いことを常不軽品の文を挙げて述べられている。
「されば父母はまうけやすし法華経はあひがたし、今度あひやすき父母のことばを・そむきて・あひがたき法華経のともにはなれずば我が身・仏になるのみならず・そむきしをやをもみちびきなん」(1092-14)
康光の迫害や感情に負けず、その命に背いて、法華経の友、すなわち、日蓮大聖人につき従うならば、自分の成仏だけでなく、法華経に背いた親をも救うことができるのであると激励されている。
そして最後に兵衛志に対して、兄の跡を譲られたとしても、千万年も繁栄していけるものではない。目先のはかない利益に迷うのではなく、永遠の幸福という最高の目的に生きなさいと念を押されている。
(四)父康光の入信
「良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに二のわの車をたすけ二の足の人を・になへるが如く二の羽のとぶが如く日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給いぬる御計らい偏に貴辺の御身にあり」(1095-06)
20余年にわたって信仰に反対しつづけた父、康光も、日蓮大聖人の慈悲溢れる指導のもとに、宗仲、宗長二人が団結してきたことによって、弘安元年(1278)ついに法華経に帰依するにいたったのである。
第一回の勘当から三年目のことであった。「兄弟抄」や「兵衛志殿御返事」におて、厳格な指導をされた大聖人も、二人が車の二輪のごとく、二つの足の如く、二つの羽の如く団結して、父左衛門康光を入信させたことを大変喜ばれて、その長い労をねぎらわれている。
とくに、動揺を見せて、大聖人より熱鉄の如き指導を賜った弟宗長に対して「このように親を入信させることができたのはひとえにあなたの信心の力よる」と、その信心をめでられている。
そして弘安二年(1279)に、父、康光は題目を唱えつつ安らかに息をひきとった。この時、兄弟は大聖人から、孝子であると次のような言葉をいただいた。
「案にたがふ事なく親父より度度の御かんだうをかうほらせ給ひしかども兄弟ともに浄蔵・浄眼の後身か 将た又薬王薬上の御計らいかのゆへに・ついに事ゆへなく親父に御かんきを・ ゆりさせ給いて前に・たてまいらせし御孝養心に任せさせ給いぬるはあに孝子にあらずや、定めて天よりも悦びをあたへ法華経十羅刹も御納受あるべし」(1100-02)
兄弟に与えられた御抄において、大聖人は孝養の道について度々論じられ、仏法については、親に背いても信心を全うし、ひるがえって、親を折伏し、法華経に入信させることが、最高の孝行であると教えられていた。兄弟二人は、その指導を身をもって実銭し、父を入信させた。大聖人は、兄弟二人は浄蔵・浄眼の後身か、あるいは薬王・薬上の御計らいであろうかといわれ、「あに孝子にあらずや」とよろこばれたのであった。
(五)父の亡き後の池上兄弟
(1)八幡宮造営事件
池上兄弟は、父・康光の亡きあと、兄・宗仲が家督を継いで、作事奉行の任に当たつた。そして、いままでにもまして信心修行に励んでいた。弘安4年、鎌倉の鶴岡八幡宮が前年に焼け、その再建造営の仕事を池上兄弟が請け負うことになっていたのが、人の讒言によってそれをはずされるという事件が起こった。この時、日蓮大聖人は、二人に「八幡宮造営事」を送られ、懇切に指導されている。
「さては八幡宮の御造営につきて一定さむそうや有らんずらむと疑いまいらせ候なり、をやと云ひ我が身と申し二代が間きみに・めしつかはれ奉りてあくまで御恩のみなり、設一事相違すとも・なむのあらみかあるべき、わがみ賢人ならば設上より・つかまつるべきよし仰せ下さるるとも一往はなに事につけても 辞退すべき事ぞかし、」(1106-01)
ここでは世法の上から指導されている。すなわち、二代にわたって主君に召しつかわれて御恩のある身である。たとえ、一度ぐらい約束の違うことがあっても、どうして主君をいい加減に思ってよいことがあろうか。また賢人ならば、仰せにつけられても一応辞退すべきものである等と諭されている。
またつづいて仏法の立場から次のようにいわれている。「八幡大菩薩は本地は阿弥陀ほとけにまします、衛門の大夫は念仏無間地獄と申す阿弥陀仏をば火に入れ水に入れ其の堂をやきはらひ念仏者のくびを切れと申す者なり、かかる者の弟子檀那と成りて候が八幡宮を造りて候へども八幡大菩薩用いさせ給はぬゆへに此の国はせめらるるなりと申さむ時はいかがすべき、然るに天かねて此の事をしろしめすゆへに御造営の大ばんしやうを・はづされたるにやあるらむ神宮寺の事のはづるるも天の御計いか」(1106-15)
すなわち、八幡大菩薩の本地は阿弥陀仏であり、無間地獄といって阿弥陀仏を攻撃する日蓮大聖人の檀那となっている衛門大夫が八幡宮を造営しても、八幡大菩薩はそれを用いないので、日本は蒙古に攻められるような結果になったのだと、世間の人々は悪口するに決まっている。
それを天がかねて御存知であったので、あなたをこの度の御造営の棟梁からはずされたのであろう。それも諸天善神の計らいによる功徳ではないかと。
またそのほかのも、兄弟は、たびたび信心の団結を強調された御書をいただいている。
兵衛志殿御返事に「我が法華経も本迹和合して利益を無量にあらはす、各各二人又かくのごとし二人同心して大御所.守殿.法華堂・八幡等つくりまいらせ給うならば此れは法華経の御利生とをもわせ給わざるべき、二人一同の儀は車の二つのわの如し鳥の二つの羽のごとし、設い妻子等の中のたがわせ給うとも二人の御中・不和なるべからず、恐れ候へども日蓮をたいとしとをもひあわせ給へ、もし中不和にならせ給うならば二人の冥加いかんがあるべかるらめと思しめせ、あなかしこあなかしこ、各各みわきかたきもたせ給いたる人人なり、内より論出来れば鷸蚌の相扼も漁夫のをそれ有るべし、南無妙法蓮華経と御唱えつつしむべし・つつしむべし、恐恐」(1108-)と。
法華経は本門・迹門が和合して大利益を顕すのである。
あなたがた二人も異体同心で仕事に励みなさい、たとえ、妻子等が不和になっても、二人の仲が不和になってはいけない。外に敵を持つ身であるから、内から団結を破れば、敵に打ち破られてしまうであろうと、二人の団結を強調されている。
兄弟は、いったんは父の反対という難を乗り越えて宿命を転換したとはいうものの、まだまわりにはたくさんの敵がいる。決して油断することなく、最後まで、兄弟が団結して一生涯戦いなさいとの大聖人の御こころであると拝される。
(六)大聖人の入滅後
ほとんど全生涯を大難の連続のなかにすごされてきたため、かなり健康を損われていた大聖人は、弘安4年になると、次第にお体の具合も思わしくなくなってきた。
弘安4年の御書、八幡宮造営事では「此の法門申し候事すでに廿九年なり、日日の論義・月月の難・両度の流罪に身つかれ心いたみ候いし故にや此の七八年間が間・年年に衰病をこり候いつれどもなのめにて候いつるが、今年は正月より其の気分出来して既に一期をわりになりぬべし、其の上齢既に六十にみちぬ、たとひ十に一・今年はすぎ候とも一二をばいかでか・すぎ候べき」(1105-01)と、その後入滅が近いことを記されている。
かくして、翌弘安5年夏も過ぎた9月、人々のすすめで、常陸の湯治においでになることになり、それに先立つて、日興上人に一切の仏法を御相承あそばされた。これが、日蓮一期弘法付嘱書といわれる総付嘱書である。
大聖人は9月8日、御弟子たちに護られて身延を発たれ、9月18日正午ごろ、池上右衛門大夫宗仲の邸に到着された。この池上の地で大聖人は、ほぼ一か月をすごされた。10月8日、主な御弟子を集められ、本弟子六老僧を定められた。また、この時期に、日蓮大聖人は、御弟子方に最後の御講として「立正安国論」を講じられたことが伝えられている。
動13日、いよいよ後入滅の時も迫り、別付嘱書が認められた。日興上人を嗣法と定められ、弟子檀那に異議もち、これに背く者は非法の衆であると、かたく戒められたのである。
かくして10月13日辰の刻に、日蓮大聖人は後入滅あそばされたのである。この時大地が震動したと「御遷化記録」に記されている。葬儀については、翌14日の戌の刻に御入棺され、同日子の刻に御葬儀が施行された。
「御遷化記録」によると、宗仲・宗長兄弟も御葬送の列に加わり、兄・宗仲は、四条金吾とともに幡をにない、弟の宗長は、御太刀をもって、身延までお供申し上げた。この時、20数年間にわたって、ある時は慈父のごとく、ある時は厳格な師として、数々の教えを受けた日蓮大聖人を霊山にお送りした池上兄弟の気持ちはいかばかりであったろう。
大聖人滅後の池上兄弟がどうであったかは、当時の詳しい史書はないので、はっきりした事はわからない。ただ「日蓮正宗富士年表」によると、二人の没年は宗仲が永仁元年(1293)宗長が弘安6年(1283)である。
兄弟抄 文永十二年四月 五十四歳御作 与池上兄弟 於身延
第一章 法華経は仏法の真髄
法華経というのは、八万法蔵の肝心であり、十二部経の骨髄である。三世の諸仏は、法華経を師として正覚を成就し、十方世界の仏は、一乗仏である法華経を眼目として、衆生を導たのである。今、現実に経蔵に入って一切経を見てみると、中国に仏法が渡った後漢の永平年間から唐の末にいたるまでの約八百五十年間に、中国に渡って来た一切経論に二本ある。いわゆる羅什釈等の旧釈の経は五千四十八巻であり、玄奘等の新訳の経は七千三百九十九巻である。それらの一切経はそれぞれ分云々に随って「われこそ第一なり」と名乗りを上げてる。しかるに、法華経とそれらの経々を引き比べてみると、その勝劣は天地の差であり、高下は雲泥の相違である。それらの経云は多くの星のようなものであり、法華経は月のようなものである。また、かの経々は燈炬や星月の光のようなものであり、法華経は太陽のようなものである。これは、法華経と諸経とを総じて比較した場合である。 |
講義
本章は、仏法にはさまざまな流派があるが、そのなかで法華経が最第一であり、三大秘法の南無妙法蓮華経が最高の教えであることを述べている。
夫れ法華経と申すは八万法蔵の肝心十二部経の骨髄なり。
ここでいう法華経は、一往、釈尊出世の本懐である二十八品である。八万法蔵とは、釈尊一代五十年の説法が多数であるという意味でこのようにいう。
釈尊の五十年にわたる説法は膨大である。五十年間というもの、実にさまざまな教えを説いた。戒律も説いている。禅定の法門も説いている。種々の譬え話で衆生を誘引もした。だが、それらは衆生の機根を整え、最後の法華経を理解させるための方便であった。あくまでも生命の究極を説いた法華経をもって肝心とし、骨髄としなければならない。
もし釈尊が法華経を説かず、たとえば小乗などの戒律のみしか説かなかったら、釈尊の説法は、単なる道徳論にすぎず、特筆すべき価値はなかったといっても過言ではない。また、たとえ権大乗を説いたとしても、それのみであれば二乗の成仏はない。女人も差別を受けたままである。悪人は地獄に堕ちるのみである。衆生の生命は一念三千の輝ける当体ではない。気の遠くなるほどの歴劫修行をしなければならない。そして真の永遠の生命を知り、三身常住、三諦円融の理を悟ることはできない。
まさに法華経の説法がなければ、四十二年間の説法も、砂上の楼閣であり、一瞬の夢のごときであったろう。法華経の仏法哲理があればこそ、その高低浅深が決まる。他の枝葉末節は、いかに、荘厳されていようとも、根本の思想が貧弱ならば、価値はない。釈尊の八万宝蔵といっても、法華経が骨髄となって、存在意義があるのである。
釈尊は自ら、一切経の勝劣を法華経法師品第十で判じている。「わが説く所の経典は、実に無量千万億であって、已に説いた経(爾前経)、今説いた経(無量義経)、当に説かんとする経(涅槃経)等、まことに多くの経典があるが、それらを超越して、この法華経こそ、最も難信難解であり、最高の法門である」と。これに対して、諸経の文にも「秘密経は一切経の中に勝れたり」「是の経(大雲経)は即是諸経の転輪聖王なり」「今に世尊が転じ給う所の法輪(解深密経)・無上無容にして是れ真の了義なり」というように、他に勝っているが、これはまだその経が説かれるまでの経との比較である。法華経のように已今当説のなかで第一とはいわないのである。
さて、以上のように法華経二十八品が八万法蔵の肝心であるというのは一往の義である。再往は、法華経とは南無妙法蓮華経の五字七字の法華経であり、三大秘法の大御本尊である。法華経が尊いというのも妙法を秘沈しているゆえであり、南無妙法蓮華経が、肝心中の肝心であり、骨髄である。
三大秘法抄にいわく「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023-13)と。
したがって、三世十方の諸仏といえども、全て妙法蓮華経の五字七字の題目を骨髄とし、修行して仏になったのである。秋元御書「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-05)と。われらの持つ三大秘法の御本尊が、八万宝蔵の究極であり、生命と宇宙の本源を説いた、大哲理の具現であると確信すべきである。
第二章 三千塵点劫を挙げて生命の流転を説く
次に、別して法華経の経文についてみるならば、一切経より勝れた二十の大事な法門がある。そのなかで、第一、第二の大事は五三千塵点劫、五百塵点劫という二つの法門である。その三千塵点劫という法門は第三の巻・化城喩品というところに出ている。この三千大千世界をすりつぶして微塵となし、東の方に向かって、千の三千大千世界を過ぎてその一つの塵を落とし、また千の三千大千世界を過ぎて一つの塵を落とし、このようにして三千大千世界の塵をことごとく落とし果たした。さて、その後、塵を落とした三千大千世界と、落とさない三千大千世界とを一緒に束ねて塵となし、この諸の塵をもって並べて一塵を一劫として経尽くしては、また同じように始め、終わればまた始めるというように劫を重ねていき、このようにして以上の無数の塵の数だけの劫を尽くしたとき、これを三千塵点劫というのである。今、三周の声聞といって舎利弗・迦葉・阿難・羅云(羅ゴ羅)などという人は、過去遠々劫の三千塵点劫のその昔に大通智勝仏という仏の十六番の王子である菩薩(釈尊)がおられた。三周の声聞たちはその菩薩より法華経を習ったのであるが、途中、悪縁にだまされて法華経を捨てる心を起こしてしまった。このようにしてあるいは華厳経へ堕ちあるいは般若経に堕ち、あるいは大集経へ堕ち、あるいは涅槃経に堕ち、あるいは大日経、あるいは深密経、あるいは観無量義経へ堕ち、あるいは小阿含経へ堕ちるなどしているうちに次第に堕ちていって、後には人界・天界の善根に堕ち、さらには、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣に堕ちてしまったのである。このようにして堕ちていくうちに、三千塵点劫の間、多くの無間地獄に生じ、少しは他の七大地獄に生じ、ときたまは一百余の地獄、まれには餓鬼・畜生・修羅などに生まれ、大塵点劫などの長い期間を過ぎてまた人界・天界にうまれたのである。 |
講義
本章は、法華経の大事な法門である三千塵点劫について略述し、その三千塵点劫の昔に法華経の下種を受けながら、退転していった三周の声聞の生命の流転を説いたところである。
三千塵点劫・五百塵点劫
三千塵点劫という法門は、法華経化城喩品第七に説かれた法門であり、天台大師によれば「化導の始終」が明かされたところである。すなわち、三千塵点劫という、考えられないほどの遠い昔に、大通智勝仏という仏がいて、その十六番目の王子であった現在の釈迦如来が、このとき大通智勝仏の法華経を覆講した。そのとき下種を受けた衆生が在世今日の二乗であり、今その下種が熟して得脱の時が来たと、化導の始まりから終わりまでを明かすのである。これに対して、五百塵点劫は寿量品第十六に明かされた法門であり、天台大師は「師弟の遠近」を説いた段であるとしている。五百塵点劫に比べれば三千塵点劫は昨日の如きものといわれる位、五百塵点劫は遠い過去である。釈迦仏は今日初めて悟った仏ではなく、五百塵点劫という久遠に成道した仏であり、弟子もまたそれ以来の長遠の生命をもつことを明かしたものである。
このように、三千塵点劫・五百塵点劫という二つの法門は法華経の中でも最も重要なものであり、さまざまな角度から論じられているが、ここでは生命の流転という立ち場から説かれている。
開目抄下にいわく「久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり」(0232-02)と。
五百塵点劫に久遠実成本果の釈尊に結縁し下種を受けたものが、いずれも菩薩の行を退転し、その下種を忘失して、今日のインド応誕の釈尊に値遇するまで、測り知れないほどの長い間流転の人生をさまよったのである。その原因は何か、それは悪知識に惑わされて法華経を捨て、他の経へ移ったが故である。三世の諸仏の能生の根源であり、眼目である法華経から退転する罪は何よりも重いのである。
現在、われわれの信心に約するならば、「法華経」とは御本尊であり、「悪縁」「悪知識」とはわれらに退転を迫ったり、誘いかけるいろいろな働きである。これらの策謀にひっかかって御本尊から離れるならば長い長い苦悩の人生を歩まなければならないということである。
また文底からいえば「三五の下種」とは久遠元初の下種となり、とりも直さずわれらの己心の仏種である「三五の塵をふる」とは、われわれが自己の生命の本源を忘れ、九界の迷いの世界を漂っていくことである。現在の瞬間の生命のなかに迷悟の二法を具しており、この一念の働きによって、流転の人生ともなり、本源的な幸福の人生ともなるのである。御本尊への絶対の信仰を燃やし、一瞬一瞬の魔との戦いに打ち勝っていくならば、われらの生命は「久遠の下種」に立ちかえり、永遠の幸福境涯を築いていくことができる。反対に、この魔に負けて疑いを起こせば、「三五の塵をふる」人生、輪廻生死の人生を暮らさねばならないのである。
第三章 法華謗法の罪を説く
|
講義
常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く余の悪道に在ること己が舎宅の如し
これは譬喩品第三の文である。不幸の中に呻吟しながら、解決するすべも知らず、また打開しようとする気力さえ失った。惰性に安住する人々の姿を述べたものである。さらには現代の悲惨な世界、深刻に憂うべき状態にありながら、それを不幸とも、憂慮すべきであるとも感じない現代人の姿を如実に物語っているともいえる。
人類数千年の歴史は、いうなれば、たえまない戦乱の悲劇によって綴られてきた。その長い歴史の間に人々は、戦争は人間の本然的なものであり、されは永久になくなるものではないかと考えるようになってしまった。戦争ほど悲惨な地獄絵図はない。しかし、その地獄絵図を、人間に本然的なもので、避けられないものとするのは、「地獄に処すること園観に遊ぶが如し」の通りの考え方ではなかろうか。なかには、人を殺し合うなかに、残忍な喜びを見いだしたり、それによって名誉を得ようとしたり、誇りを感じたりする。それは地獄の園観であっても、人間性の花園ではない。
もはや人類はこの戦争の世紀に決別を告げなければならない時を迎えているのである。核戦争の危機は、如実にこれを示している。それは、もはや、誰びとにとっても何らの園観でもない。だが人々は、どれだけ戦争絶滅のために、信念と勇気をもって戦っているであろうか。残念ながら、今なお旧来の体制のなかに安住し、消極的に、ただ時代の波にもまれていくのみの、無気力な人々の姿を見るのである。
また「有名」の二字にあこがれ、そこに生きがいを求めて汲々している人、貪欲に地位を得ることが人生の目的であると考える片寄った出世主義者、一方では毫も社会を変革しようなどとは考えてはいないが、終始、飢えた獣のように、現状に満足せず、不平不満にあけくれる人、自己の小さな目的のために汲々として過ごす人等は、餓鬼道が自分の住み家となっている者といえよう。
さらに、肉親の兄弟、親子の間でありながら、美しい人間関係を忘れ、些細なことでいがみ合う、無智に支配された人生。強者が弱者をおどし、弱き者はつねに事無かれ主義で、長いものにはまかれろといった姿、人生の大道を闊歩するのではなく、事があれば、それを逃避し、刹那的な亨楽に溺れてしまう姿勢は、畜生道をわが舎宅としている者の姿である。さらに、過去の革命にとりつかれて、現代社会の矛盾を、暴力によってのみ解決しようとする者は、修羅界をわが舎宅としている人生である。かくして現代人は、そのいずれかを是としているのである。この姿こそ「余の悪道に在ること已に舎宅の如し」の御文のままではあるまいか。
このように、われらは経文の明鏡に照らしてみるときに、現代社会の病巣、不幸の実態を見ることができるのである。
師子を吠る犬は腸くさる
御本仏日蓮大聖人を百獸の王たる師子にたとえ、大聖人に怨をなす諸宗の僧侶、正法を誹謗する大衆、平左衛門尉を始めとする権力者等を、犬にたとえられたのである。 神国王御書にいわく。「若し百千にも一つ日蓮法華経の行者にて候ならば日本国の諸人・後生の無間地獄はしばらくをく、現身には国を失い他国に取られん(中略)日月を射奉る修羅は其の矢還つて我が眼に立ち師子王を吼る狗犬は我が腹をやぶる釈子を殺せし波琉璃王は水中の大火に入り仏の御身より血を出だせし提婆達多は現身に阿鼻の炎を感ぜり金銅の釈尊をやきし守屋は四天王の矢にあたり東大寺興福寺を焼きし清盛入道は現身に其身もうる病をうけにき彼等は皆大事なれども日蓮が事に合すれば小事なり小事すら猶しるしあり大事いかでか現罰なからむ」(1524-17)と。
この文のとおり、大聖人に怨をなした人々は、正法誹謗の罪により、後生は無間地獄に堕ち、現身には重病になる等の現罰があらわれたのである。平左衛門尉の最後も、まさに、この御文のごとく悲惨であった。さらに大聖人に怨をなした大衆は、自界叛逆、他国侵逼の両難により塗炭の苦しみに沈んだことは歴史の示すところである。
一つの運動を起こす場合に、波紋が起こる。運動には反対の動きが起こるのは、作用・反作用の原理を挙げるまでもなく、世の常といってもよい。批判する側にしてみれば、それなりの理由と根拠があろう。言論は自由である。したがって、批判することも当然、自由である。
だが、もしも、権力をかさにきて、ただ感情的に創価学会を誹謗するだけの批判であれば、それは「師子を吠える犬」の姿に似ているわけである。一方、真実の批判に対しては、どこまでも真摯に受けとめていきたい。誤りは、ただちに正していかなければならないことは当然である。
ところで、妙法という法それ自体は、末法の御本仏日蓮大聖人が悟達し具現化されたものであり、完全無欠である。この妙法に対して、あまり深い思索も高次元の認識および判断力もなくして、ただ感情的に批判を加えるならば、その結果、自己の誤りをさらすことになろう。そのことを大聖人は「腸くさる」と具体的な形を通して教えられているわけである。
ともあれ、もっとも尊き妙法を根本に、批判に対しては、大慈悲の心で受けとめ、師子のごとく仏法流布を進めていきたいものである。
所対によりて罪の軽重はありけるあり
この御文は価値観を論じたところである。例えば、同じ殺人でも、やむを得ない事情で悪人を殺した場合は情状酌量の余地があり、罪は軽くなる。だが善人を殺せば、全く逆で罪は重い。また、他人を殺す罪よりも親兄弟を殺す罪の方が重い。同じ行為であっても、このように罪の軽重があるのである。相手、対象によって、同一行為も千差万別の結果を生み出すのである。されば、大善に反対するものは大悪となる。至高善に反対するのは極大悪となるのである。
ここに何が善か悪か、また善のなかでも、至高の善とは何かを明確に見極めなくてはならない。むろん善悪の基準は社会にゆだねられている。ある社会で善となることが、別の社会では悪になる場合もある。時代の制約を受けることも当然のことである。しかし、これらは、相対的な善である。
しからば、社会、時代の制約を越えた絶対的な善というのもがあるであろうか。それには、人間の本性について、究明しなくてはなるまい。その究明の結果、万人共通の至高善、絶対的な善というものを、われわれは、仏法のなかに見いだすのである。
生命の尊厳を第一義として、人々に、永遠の幸福を開いていく仏法は、万人共通の至高善である。いな、これが、万人に至高善と確立されなければ、人類にとって何が善か、何が悪かということは見抜けず、善悪の逆転さえあり得るのである。時には何百万人の人を殺しても、英雄扱いを受けることすらある。さらば、至高善への向背は、そのまま人類全体の向背に道ずるとしるべきであろう。
この法華経は一切の諸仏の眼目教主釈尊の本師なり
この文は末法の法華経こそ、いっさいの思想、哲学の眼目であり、これらを指導しきる本源の師であるとの仰せと拝することができる。
この文の「法華経」とは文上の法華経をいうのではなく、文底の法華経をいうのである。すなわち、末法の法華経は、五字七字の南無妙法蓮華経であり、三大秘法の大御本尊をさすのである。さて、この法華経こそ三世十方のいっさいの諸仏の師匠であり、釈尊の本師である。全宇宙の諸仏、ならびに釈尊も、ことごとく文底の法華経、三大秘法の御本尊を本師として、成仏し得たのである。
これを現代に即していえば、この「法華経」の仏法哲理は、仏質と精神とを融合、包含、止揚し、かつ説き尽くしたのである。それゆえ、全ての既存の哲学、思想の本源をなし、一切の哲学を包含し得る哲理であるといえよう。
古今東西を問わず、いかなる思想、哲学といえども、すべての問題の核心は生命である。だが、生命を本質的に解明している哲学、思想は、皆無に等しい。近代日本で初めて生まれた独創的哲学といわれる西田哲学にしても、その代表的な著「善の研究」にみられるとおり、念仏などの権大乗の言句を用いて、ベルクリン、カントの思想を取り入れ、両者の融合をめざしたものである。だが、それは、西洋哲学の物の論理に対して、心の論理を強調したものにすぎず、観念論に陥ってしまっている。したがって大聖人仏法哲学からいえば、その一面観にしか至っていないといえる。西田哲学に並ぶ三木哲学にしても、たしかに特異な存在ではあるが、思想の解釈にとどまっており、現代を抜本的に変革しゆく指導原理ではない。
西洋に眼を転じても、全く同様である「純粋理性批判」「実践理性批判」を著したカント哲学についてみると、実践理性批判の結論に「静かに深く思索すればするほどますます常に新たに、そして高まりくる感嘆と崇敬の念をもって心をみたすのが二つある。わがうえなる星の輝く空と、わが内なる道徳律とである」との文章がある。これを大聖人の仏法からみれば「わがうえなる星の輝く空」は大宇宙であり、「内なる道徳律」は心であり、生命をさすといえよう。してみると、宇宙即我の原理を志向しているといえるかもしれない。だが、「わが内なる道徳律」では、抽象論の域を越えない。それは、まだ生命の本性への出発点に立ったbかりであり、ここからさらに、生命を論及してこそ、初めて意義をもつのである。
弁証法で名高いヘーゲル哲学も、哲学的にみて「生命とは何か」との問いに答えたものではない。そののちにあらわれたショーペンハアーにしても、ヘーゲル哲学の批判者であるフォイエルバッハにしても、精神あるいは部分観にすぎない、また、ハイデッガー、サルトルの実存主義哲学をみると、彼らがヨーロッパの精神であるキリスト教、観念論哲学、実証主義哲学に対決し、従来の唯心、唯物の両哲学から脱して新しい価値観を築こうとしていることは事実であろう。だが対決の土台がなお精神と仏質を包含し止揚した生命の次元からものではないゆえに、この最も大事な生命の解明がなされていない。これが西欧近代哲学の限界であるといえまいか。
翻って、今日、人間疎外、主体性の喪失といった社会現象は、生命の存在を忘れたことによるものであり、それがために起こった弊害であることを知るのである。その「生命」の存在の在り方を事の一念三千の法門として説き明したのが、日蓮大聖人の仏法哲学である。ソクラテスの言葉を借りていえば「汝自身」すなわち、自己自身の生命を知らずして、真の哲学、思想とはいえない。したがって、真の教育も、政治も、芸術も、文化もありえない。汝自身の「生命」を説き明した仏法哲理が、一切の師であり、眼目である。
此の経のごとくにとく人に値うことは難にて候
ここは、先に「この法華経は一切の諸仏の眼目教主釈尊の本師なり」と、法に約して述べられたのに続いて、人に約して述べられているところである。
「此の経」とは、末法の法華経たる御本尊である。「経のごとくにとく人」とは、法華経の肝心を明らかにし、その本意を説く人であり、また、身をもって実践する如説修行の行者をさすのである。
法華経の究極は一念三千の法門であり、一念三千の法門は法華経にしか説かれていない。それを正しく説く人が、経のごとくに説く人である。それを大日経や華厳経にも一念三千の法門が説かれているといったり、法華経の仏所護念とは、先祖がわれわれを守ることだと説くのは経のごとく説く人ではない。これを尊きを摧いて卑しきに入れる人であり、たとえ敬っているようでも「あしくうやまう」大謗法の行為である。
また、法華経迹門を究極とし、本門を裏として、事を廃し理を存する天台の行き方も、末法今時においては法華経を経のごとくに説く人とはいえない。さらに、法華経本門を説いたといっても、白法隠没の末法においては功力はないのであり、本門文上を説くことは釈尊の本意ではない。したがって文上の法華経を説く人も経のごとくに説く人ではないのである。
末法においては、法華経本門寿量品の文底に秘し沈められた南無妙法蓮華経の題目を明らかに説く人が、経のごとくに説く人である。これ末法の御本仏日蓮大聖人以外に断じてありえないのである。末法の御本仏こそ、仏法の本流を教えられた値いがたき大導師であらせられることを、示されたのがこの御文である。
第四章 悪知識ににより本心を失うを明かす
それ故、慈恩大師という人は玄奘三蔵のでしであり、唐の太宗皇帝の師である。梵語・漢語の書を空にうかべ、一切経を胸に湛え、仏舎利の筆のさきから雨の如く降らし、説法の時は牙から光を放った聖人である。当時の人も慈恩大師を日月の如く恭敬し、後世の人も眼目として渇仰したが、伝教大師はこの慈恩大師を責めて「法華経を讃めるといえども、還って法華の心を死す」等と破折した。この言葉の意味は慈恩大師は、自分では法華経を讃えていると思っているが、善無畏三蔵は月氏の鳥仗那国の国王である。位をすてて出家してインドの五十余の国々を修行して顕教・密教の二道をきわめ、のちには漢土に渡って玄宗皇帝の師となった人である。中国・日本の真言師は、誰一人この善無畏三蔵の流れを汲んでいないものはいない。このような尊い人ではあるが、ある時に頓死(急死)して閻魔の責めに会ったのである。なぜこのように急死して、閻魔の責めにあったのか、その理由を誰も知らない。
日蓮これを考えてみたところ、善無畏三蔵はもともと法華経の行者であったが、大日経を見て、法華経より勝れるといったことがその原因である。したがって舎利弗・目連等の二乗が悪道に堕して、三千塵点。五百塵点の長期を経たことは、十悪や五逆の罪でもなく、謀叛・八虐の反逆でもなく、ただ悪知識に値って、法華経の信心を破って権経に移ったゆえである。天台大師が解釈していわく「もし悪友に値えば本心を失ってしまう」と。この文の本心というのは法華経を信ずる心である。失うというのは法華経の信心を翻って、余経へ移る心である。それゆえ法華経のの寿量品にいわく「然も良薬を与えるのに、肯て服さない」等と。この経文を天台は「法華経を信ずる心を失う者は、良薬を与えても、服することなく、生死の苦しみのなかに流浪し、他国へ逃げていく」と釈している。 |
講義
雖讃法華経・還死法華心
法相宗の開祖・慈恩大師が法華経をたたえる十巻の疏釈「法華玄賛」を著わした。だが慈恩大師の書は法華経を第一としないゆえに伝教大師はこれを法華秀句で責めた。その文が、この「法華経を讃むるとえども、還って法華の心を死す」とう文である。
慈恩大師は深密経・唯識論を根本の哲理として法華経を讃めた。また、この他にも、中国の三論宗疏の開祖・嘉祥大師は般若経、中論を根幹にして、十巻の疏釈、「法華玄論」を著わし、法華経をたたえている。さらに、中国華厳宗の祖・杜順、法蔵等の諸師は疏華厳経、十住毘婆沙論をもとに、真言宗の善無畏・金剛智・不空の三三蔵は大日経を根幹として、それぞれ法華経を読んだのである。
だが、それらの諸宗の祖師は、いかに法華経を讃歎するように見せかけても、己れの教義に執着し、法華経の真意を知らないがゆえに、法華経を諸教と同等あるいは下して讃めているにすぎない。したがって、ことごとくが「法華経の心を死し」ているのである。
法華経は、釈尊一代仏教の骨髄である。法華経以前の経々は権教である。権とは「かり」ということであり、方便としての立場のものである。法華経と権教とは、比較にならない相違である。譬えていえば、ゼロと千との相違のようなものである。それを、同等、もしくは、他の経よりも低く下して、どんなに讃嘆しても、それは、一代仏教の骨髄をくだくことになるのである。
さらに、一重立ち入ってこの文を考えれば、どんなに法華経が、一代仏教のうち最高の教えであると賛嘆しても、法華経の文底に秘沈された三大秘法を知らなければ、同じく「還って法華の心を死す」ことになる。
「法華の心」とは何か。それは、諸御書に、法華経の肝心、肝要、また文底と仰せられているのと同じ意である。法華経一部八巻き二十八品、ことごとく、南無妙法蓮華経の一法に帰着する。この一法なくば、法華経は無に等しい。されば、どんなに法華経を読誦しようとも、法華経の生命を断ってしまうことになる。
これはまた、末法の法華経たる日蓮大聖人の仏法においても、同じ原理である。世に、南無妙法蓮華経と唱える人は多い。また、日蓮大聖人とたたえる人も多い。だが、大御本尊を信ぜず、大聖人の教えに背くならば、文底の仏法の生命を断つことになる。四菩薩造立抄にいわく「私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし、此の法門は年来貴辺に申し含めたる様に人人にも披露あるべき者なり総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」(0989-09)と、種種御振舞御書にいわく「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(0919-09)と。
さらに大御本尊を持つたとしても、他の目的のために信心を利用することがあれば、同じく「法華の心を殺す」ことになる。以上さまざまな角度から、この文は読んでいけるのである。
慈恩・善無畏の謗法について
御文にあるがごとく、慈恩にせよ善無畏にせよ、世間ではあたかも仏の再来のごとく思われた人である。だが実は、全く仏法を壊乱する謗法の元凶であったのである。
仏法は、世間的な名声、地位等には一切関係がない。大事なのは、その人のもっている法自体である。小乗仏法を根本とした人は、小乗の人である。権教を根本とした人は、権教の世界に住する人である。
慈恩・善無畏ほどの人が、なぜ仏法上の大なる誤りを犯したのか。それは、自己の低い思想から法華経を見ようとしたからである。高い思想から、低い思想は見えるが、低い思想・哲理からは、仏法の最高峰は見えない。小さな殻の中に閉じこもっていては仏法の大海は見えないのである。現代における慈恩・善無畏もまた、偉大な仏法哲理が見えず、自己の狭い世界を徘徊している姿がときとして見受けられる。
若し悪友に値えば即ち本心を失う
本心とは、法華経を信ずる心である。換言すれば、根本の下種の意であり、南無妙法蓮華経である。「本心を失う」とは、この生命の至宝である妙法をいたずらに捨て去ってしまうことである。本心を失った人は、舵を失った船のごとく根無し草のごとく、主体性なき流転の人生を送らざるをえない。
誰人といえども、宇宙のリズムに合致した、自在の生命活動をしきってきたいというのが本然の願いである。されは、意識すると、しないとにかかわらず、生命本来の要求なのである。これ、いつわりのない、人間性の究極の本心である。
されば、本心とは、妙法であると共に、妙法に向かう心であり、信心である。信心は、特定の人のものではない。万人が、瑞々しい力強い活力を生み出していく、生命のオアシスであるとえよう。
だが、現実には、多くの人々が、この「本心」を失ってしまっている。日蓮大聖人は、この根本原因が誤った宗教、思想にあると断定されているのである。宗教・思想ほど偉大なものはない。また、宗教・思想ほど恐ろしいものはない。一片の思想が何千万、何億の狂気をもたらし、幾世紀にもわたって、社会を毒していくこともある。事実、歴史は、その流転を続けてきたのである。その狂気の到達点が現代の核兵器の時代であるといっても過言ではなかろう。人間は、再び本心に戻らねばならない。
第五章 第六天の魔王の姿を述ぶ
それゆえ、法華経を信ずる人が、畏れなかればならないものは、賊人、強盗、夜打ち、虎狼、師子等よりも、現在の蒙古の責めよりも、法華経の行者の修行を妨げ悩ます人々である。われわれの住む娑婆世界は、第六天の魔王の眷属である。魔王は六道のなかに二十五有という牢を構えて、一切衆生を入れるばかりでなく妻子という絆を打ち、父母主君という網を空にはり、貧瞋癡の酒をのませて、一切衆生の仏性の本心をたぼらかす。そして、悪の肴ばかりをすすめて三悪道の大地に伏臥させる。衆生にたまたまの善心があれば邪魔をするのである。
たとえ等覚の菩薩であっても、元品の無明という大悪鬼がその身に入って、法華経という妙覚の功徳を妨げるのである。まして、それ以下の人々においては、なおさらのことである。また、第六天の魔王があるいは妻子の身に入って親や夫をたぼらかし、あるいは国王の身に入って法華経の行者をおどし、あるいは父母の身に入って孝養の子を責めたりするのである。 |
講義
此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり
人類が、悲惨の歴史を歩んできた。その根本原因を喝破された御文である。「此の世界」とは我等の住む娑婆世界である。欲望と欲望のぶつかりあう世界であり、殺戮の繰り返される世界である。幸福を追い求めながら、かえって果てしなき抗争の泥沼に人類は落ち込まねばならなかったのはなぜか。それは無発始已来、第六天の魔王に支配されてきたからであると教えられているのである。
魔とは成仏を妨げる働きをいう。人々の幸福を妨げる働きである。モータオボートが猛スピードで、前へ進めば強い向かい風を受ける。作用があれば反作用がある。と同じように、生命それ自体が幸福に向かって前進しているとき、これを妨げる働きが本然的にあらわれてくる。これは変わらぬ道理である。この働きを魔と名づけるのである。
魔とは観念ではない。生命自体の一実相であり、さまざまな現象となってあらわれてうるものである。幸福への反作用である以上、魔はあらゆる姿で仏道を求める者を妨害しようとするのである。
欲望に支配され、富を得るためにのみ奔走する人生もあろう。名誉地位を得るのに汲々としている人も多かろう。知識を追求し、自らのカラの中で知識欲を満たすだけの人生に満足する利己主義の人もいる。また、人生の目的さえも考えずに過ごしている人もなんと多いことか。これらは魔におもうがままにほんろうされている人生である。だが人々は、その魔に気づかないでいる。
しかし、ひとたび仏法の目ざめ、低級な人生観の世界から、崇高な目標に向かって、自己自身の変革と社会の建設に進むとき、魔はその姿をあらわしてくる。
周囲の人の悪口・冷笑の姿をとることもある。会社の上司が仕事と信心を混同してくることもあろう。これらは、はっきりと魔たることがわかる。なかには味方のような顔をした魔もある。むしろ、魔はその姿を隠して人を欺くのが本領とあるともいえる。友人・先輩達が真心から忠告すると見せかけて信心を妨げるかもしれない。妻子・父母の肉親の愛情という武器で攻めてくることも多い。池上兄弟の場合はまさにそれであった。
これらの魔は自分の外にある魔である。しかし、己心の魔ほど恐ろしいものはない。知らぬ間に、自分自身がこの魔に征服されて、魔の声を自分の心の声と聞いてしまう。自分の心は弱いものである。安逸に流れ、妥協しようとする心、これすべて己心の魔である。
人はこれらの魔にたぶらかされ、仏道修行を成就せずして、悔い多き人生に終始してきたのであった。これらの魔を根底から破るものはなにか。それはしょせん信心の二字以外にありえない。強盛な信心の二字以外にありえない。強盛な信心の一念によってみがきぬかれた鏡の前には、魔は正体を現わしてしまうのである。とぎすまされた“信”の利剣で一切の魔を断破していかねばならない。
今まで述べてきた種々の魔の働きは、すべて、第六天の魔王の指図によるものといってよい。他化自在天とは、他の人を自分の思うままに動かし操ることを喜びとする故にかくいう。それは、今日的にみれば、権力による支配といえまいか。権力は本来は善の働きをすべきものであるが、一歩誤れば、恐るべき魔の存在となる。これを第六天の魔王とう姿であらわしたのであろう。衆生は第六天の魔王の張り巡らした網の中で苦しみあえぎ、二十五有の牢の中で呻吟してきたのであった。
今、全世界へ妙法の燦たる曙光が輝き渡ろうとしている。このときこそ、第六天の魔王は、その全力をあげて広布を妨害してくるのである。時代の先駆者は、常に旧体制による弾圧と戦ってきた。今、未曾有の仏法流布をなさんとするにあたって、第六天の魔王は、その一切の軍勢を率い、一切の謀略を凝らして襲いかかってくることは疑いないのである。国家権力によって弾圧を加えてくることもあろう。また世間に阿諛して名声を得た者等が、批判してくることもあるだろう。自己の利益のために攻撃する者もあろう。逆に、こびへつらって油断させ、内部から崩そうとする輩もいるかもしれない。これらはすべて、仏法の上から見ていくならば、第六天の魔王のしわざであるといえよう。
御義口伝下にいわく「凡有所見の菩薩を無智と云う事は第六天の魔王の所為なり」(0765-第九言是無智比丘の事)と。「凡夫所見の菩薩」とは、全民衆の中にある仏界を開いてこうとする地涌の菩薩であり、それを無智と誹謗する者の本性は、第六天の魔王であると断言された御文である。われらはこの第六天の魔王との熾烈な戦いを繰り広げていかなければならない。中傷におびえず、諂佞におごらず、広布の大道をまっしぐらに進まねばならない。
さらに、第六天の魔王とは、生命の尊厳を脅かす働きである。それ故に「能奪命」(能く命を奪うもの)と訳されるのである。現代の世界には、地球上の人類を一瞬にして破壊させる核兵器が存在する。核戦争がもし勃発すれば、歴史上未曾有の地獄絵図が出現することは疑いない。いな、人類自体の絶滅すら考えられる。これこそ人間に対する最大の冒瀆であり、人類の生存を真っ向から否定する大罪悪である。これを魔といわずして、何を魔といおうか。
池田先生は、核兵器の問題について、次のように喝破している。
「原水爆の引き金を引く者は、国際間の軋轢や、民族の利害の衝突や、一国の野望によるものとみえようとも、これことごとく魔の仕業である」
「原水爆を使用する主体者としての、指導者と民衆の生命に潜む魔性を断ち切り、ここに人間性の尊極の思想の流れをつくるとき、初めて恒久平和への盤石な基盤が築かれていくと信ずるのである。
核兵器を人類に使用せんとする者は、いかなる理由であれ、どのように偽装しようと、第六天の魔王である。大宇宙の中で最も尊いものは、人間であり、人間の生命である。これこそ何ものにもまして優先されねばならない価値の本源である。したがって、一国の国家的利益よりも、一個人の生命の方が尊重されねばならないことも当然であり、いかなる大義名分のもとであれ、核兵器のような大量殺戮兵器の使用は、断じて許されるはずがない。
いまや人類は、原水爆を使用する指導者を魔王と弾劾し、人間の生命に潜む魔性を断つことによって、真の恒久平和を勝ち取るべきである。
今まで全世界の民衆を思うがままにし、悪道に堕うことを喜びとして、傲然として世界を手中に収めてきた第六天の魔王を断固として駆逐せねばならない。仏法を全世界に流布し、一人一人の生命を浄化する戦いを断固として遂行していくことが、人類の生命を奪う魔王を退治する唯一の方法なのである。
法華経譬喩品第三に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり、其の中の衆生は悉く吾が子なり」と。すなわち、この世界は、再往は仏の世界であるとの意味である。御本仏の懐にいだかれて遊楽の人生を送る世界こそ、本来の人間世界の姿である。
辦殿尼御前御書にいわく「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして.法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」(1224-03と。日蓮大聖人は一人であっても、己心の仏の大軍勢を起こして、第六天の魔王と戦われたのである。
われらもまた今まさに、未曾有の寂光土を築くために、第六天の魔王との前代未聞の闘争を展開している。さればこの地上から悲惨の二字を追放し、全ての人々が幸せを満喫できる世界とするまで、平和の戦士として、勇敢に前進を続けていかなくてはならない。
設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入つて法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり
信心修行における油断の恐ろしさを説かれたところである。
釈迦仏法において、別教では菩薩の修行を五十一位、四十一位にし、菩薩の位はその最高の位であって、妙覚を眼前にした仏の補処である。このように、ほとんど仏に等しい境地に達した等覚の菩薩にも、魔は競うとの仰せである。等覚という最高位の菩薩には魔は出来しないと思われているかも知れない。しかし、障魔は、この等覚の菩薩をさえ悩ませるほど、その威力は激しいと教えられているのである。成仏という目標にあと一歩と迫っても、そこで疑いを起こせば長い長い歴劫修行の辛労も福運もすべて無に帰するのである。菩薩道の修行の目的は成仏にある。もし、この目的に到達しなかったならば、等覚の位に至って退転した者も、未発心のものも差はない。最後の最後まで、一瞬の油断もなく、魔と戦い抜いていくことが最も大切なのである。
今、私達が一生成仏を目指して戦う場合にもこれはあてはまる。等覚とは、いうなれば一生成仏と広宣流布をめざして同じ陣列で進む菩薩の一分といえる。一念三千の当体であるわが生命の上に、仏界を湧現し、その逞しい生命力で人生を切り拓いていく戦いに終わりはない。常に己心の魔と激しく対決し、目標に向かって精進していかねばならない。
故に、われらの戦いには、これでいいということはありえない。最後まで建設の戦いである。「設ひ等覚の菩薩なれども」とは、どんなに長く信心をしてこようとも、どんなに多くの戦いの経験を積んでこようとも、どんなに立ち場が変化しても、と拝すべきである。いかなる人であれ「これでよし」と思う油断のなかに破滅の因を作ってしまう。むしろ、先輩として多くの後輩から手本とされる立ち場であればこそ、なおさら、堕性を恐れ、燃え上がる求道心と前進の息吹をもって進まねばならない。
元品の無明とは生命自体にはそむ魔性である。この魔性を打ち破るものは、仏の生命しかない。しかしてそれを顕現していくのは信心なおである。
されば、元品の無明を破る利剣はまさしく「信心」なのである。
御義口伝上にいわく「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し」(0751-15)と。すなわち、微塵の疑いもはさまない、御本尊に対する絶対の確信のみが、この無明惑を打破する利剣であるとの仰せである。したがって、われわれの信心とは瞬間瞬間の己心の第六天の魔王との厳しい戦いであり、これを打ち破って勝ち抜いていかなければならないのである。
第六章 転重軽受を明かす
今また日蓮の弟子檀那等は、この事にあたっている。法華経の法師品には「如来のおられる時でさえ猶怨嫉が多い、まして滅度の後においてはなおさらのことである」と説かれ、また安楽行品には「一切世間の人は、仏に怨をなすものが多い」等と説かれて、涅槃経には「横死の殃に罹り呵責を受け、罵られて辱しめられ、鞭や杖で打たれ、監禁され、飢餓、困難を味わう。このような現世の軽い報いを受けることによって未来には地獄に堕ちない」等と説かれている。また般泥オン経にいうには「衣服は不足し飲食は粗末で少ない。財を求めても得られず、貧賎の家および邪見の家に生まれ、或は王難およびその他の種々の人間社会の苦報にあうが、現世に軽く受けるのは、これ仏法を護る功徳力に由る故である」とある。経文の意味は、われわれは、過去において正法を修行していた者に怨wなしたのであるが、今度は反対に自分が正法を信受することになったので、過去に人の修行を妨げた罪によって本当は未来に大地獄に堕ちるところを、今生に正法を行ずる功徳が強盛なので未来の大苦を今生に招きよこして少苦に値うのである。この経文に、過去の謗法によって、さまざまな果法を受けるなかに、あるいは貧しい家に生まれ、あるいは邪見の家に生まれ、あるいは王難に値う等と示されている。このなかに「邪見の家」というのは誹謗正法の家であり「王難等」というのは、悪王の世に生まれあわせることである。この二つの大難は、あなたがたの身にあたって感ずることであろう。過去の謗法の罪を滅しようとして今邪見の父母に責められているのである。また法華経の行者をあだむ国主に生まれあっている。経文には明々であり、赫々である。ゆえにわが身が過去に謗法のものであったことは疑ってはならない。これを疑って現世の軽苦が忍びがたく慈父の責めにあってこれに随い、おもいのほか法華経を捨てることがあれば、自分が地獄に堕ちるばかりでなく、悲母も慈父も大阿鼻地獄に堕ちて、共に悲しむことはうたがいないことである。大道心というのはこのように大目的観にたって信心をまっとうすることをいうのである。 |
講義
本章は、法華経を信ずる者がなぜ難にあうのかを説かれ、転重軽受の法門を明示された段である。
転重軽受とは、過去世の大謗法が原因となり、未来永劫に苦果受けなければならないところを、正法を護持した功徳力により転じて、今世に軽うけるということである。 この原理は、当然、永遠の生命観に立脚した因果の理法である。目には見えずとも、厳然たる因果の理法が貫かれている。宿命というのも、福運というのも、すべてこの内在する因果の法が、それでる。そればかりは、どこに逃げようが、どのように表面を装っても、絶対にのがれることも、消し去ることもできない。生命自体の法則である。
だが仏法は、この生命自体の転換をはかるのである。過去遠々劫よりの、悪因悪果の生命の流転を、現世でたたき破って、幸福の方向へと向かわしめるのである。いわは、過去遠々劫より、未来永劫への瞬時の転換をはかることに、仏法の真意があるといえる。だが釈迦仏法は、いまだ歴劫修行の域にとどまり、何生にもわたって、この転換をはかるという説き方がなされていた。
しかし、日蓮大聖人は、この現世において不幸への因果の鎖を断ち切り、現在と未来にわたって幸福な生活を建設していく道を明確に示された。日蓮大聖人の仏法は本因妙の仏法である。
現在の瞬間の生命のなかに、過去世のいっさいの宿業を打破し、未来永遠の幸福の因を開いていくのである。もはやその人生は過去の因果に支配される人生ではなく、未来に向かって雄大に建設していける人生なのである。そのために、大切なのは、現在の決意であり、実践である。今が宿命転換の時であるという発心が実践となってあらわれて全てを変えていくのである。この発心と逞しい実践があるとき、自分の過去の罪障を責め出し、転重軽受していうことができる。
されば、信心とは瞬時の大転換の要諦である。この大転換の戦いに苦難があるのは当然である。むしろ「現世の軽報」は自身の一生成仏の証と確信すべきである。
大道心について
大道道とは、仏法を修め、悟りを求める最大の心である。最大の菩提心である。法華経の行者として、王難や諸難にあうことは経文に記す通りである。そうした難を忍び妙法を求め、生涯妙法を行ずる心を持ち続けていくことが、大道心であるといえる。したがって、一生成仏と広宣流布を進めてゆく目的観、使命感が大道心であるといえよう。大道心に立った人ほど強い人はなく、その人生ほど光輝に満ちたものはない。人間は、いうなれば、パルカスの葦の喩えのごとく、一個の弱い存在にすぎぬかもしれない。しかし、その弱い存在も、目的観をもち、使命に生きぬくとき、最も強い存在となる。
惰性と安逸のなかに生きるのも人生である。大道心に生きぬくのも人生であるしかも誰の人生でもない。汝自身の人生であり、選択はその胸中の一念にある。
小さな、目前の利益を求めるか、遠大な目的に生き抜くか、虚栄、幻影を追うか、真実の宗教、思想を奉じてゆくか、同じ一個の人間でありながら、その奥底の一念が人生を決定づけていくのである。
顕仏未来記に、伝教の言葉を引いていわく「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」(0509-08)と。わが一念に、信心の大道を闊歩するとき、無量の感動が、胸中に高鳴るのである。
第七章 難に当っての信心を示す
あなたがた兄弟は、かなり法華経(御本尊)を信じてきたので、過去世の重罪の果報を現世に責め出しているのである。それは例えば鉄を念入りに鍛えて打てば内部の疵が表面にあらわれてくるようなものでる。石は焼けば灰となるが、金は焼けば真金となる。このたびの難においてこそ、本当の信心があらわれて法華経の十羅刹女もあなたがたを必ず守護するにちがいない。雪山童子の前にあらわれた鬼神は帝釈であり、尸毘王に助けられた鳩は毘沙門天であった。同じく、十羅刹女が、信心を試すために、父母の身に入って、法華経を信ずる人を責めるということもあるであろう。それにつけても信心が弱くては、必ず後悔するにちがいない。前車が覆えったのは、後車の誡しめである。 |
講義
本章は、難にあったときの信心について指導されているところである。すなわち、難の起こったときこそ、本当の信心があらわれるのである。世間の人は、蒙古の責め苦にあって歎き悲しんでいる。兄弟が責め苦にあっているのは、法華経を信ずる故である。
したがって、夫人共々に、どんな難が起ころうとも歯をくいしばって耐えぬくように、かっての武士の姿をとおして激励されている。
石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる
真の人材は、難にあうことによって、ますます輝いてうるものである。難に対する心構えのできていない人は、難にあった時に破れ、堕ちていくのである。
いざという時に、自分の本来の姿があらわれるものである。困難にぶつかったとき、自分の本当の力が試されるのである。信心においても同じである。いかなる困難にも、これを試練として耐え抜いていくのが、本当の信心である。少しばかり難や障害にあったからといって、退転してしまうような信心であってはならない。むしろ、いっさいを試練として自己を鍛え、それを成長の糧としていく逞しさがなければならない。
「石」でるか、「金」であるかは、生まれつき決まっているものではない。妙法の信心それ自体が「金」である。あとは勇気であり、忍耐であり、苦難に対して戦う意欲があるか否かである。戦う意欲に燃えている者にとっては、どんな困難があっても、それはすべて自己を鍛える槌となる。すなわち焼けば焼くほど真金の輝きを増していく。
自己の実力を向上させ、本物の力をつけるには鍛錬が大事である。マラソンにせよ、剣道、柔道にせよ、一流の力をつけるには、たゆまぬいびしい訓練が必要である。頭を鍛えるには、読書と思考が必要である。自己の生命そのものを鍛練するのは妙法である。
われわれの生命は鍛えなければ闇鏡のようなものである。迷いの生命、流転の人生となってしまう。しかし日々精進してこの鏡を磨きぬいていけば、曇りなき法性の明鏡となっていく。
一生成仏抄にわく「深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」(0384-05)と。
雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり尸毘王のはとは毘沙門天ぞかし
これは、帝釈や毘沙門天が羅刹、鳩の姿となってあらわれ、雪山童子、尸毘王の信心を試した譬えである。だが、再往は、雪山童子の例でいえば、いかなる大難、迫害にも屈することなく、強い信心をもって戦っていくならば、必ず、魔の張本人といえども、味方に変えていくことができるとの原理である。
また、鳩が毘沙門天に変わったという譬えは、無力にすぎなかった人が、尸毘王力強い民衆の指導者へと成長し、人間革命していくこととも推せよう。それを可能にするものは、弱い者に対する限りない慈愛である。
経文によれば、尸毘王は、鳩を救うために鳩と同じ重さだけ、自分の肉をとって鷹に与えたという。真実の慈愛とは、そのように真剣であり、深いものである。この慈愛をもって臨んだときこそ、真実の人材を育てていくことができることを知らなければならない。
今の世には・なにとなくとも道心をこりぬべし
人は、自己の無力を知ったとき、なにかにすがりつきたい気持ちにおそわれる。たしかに、これも、宗教の一つの基盤である。それをもって、現代人のなかには、宗教とは弱い者のやることだと、バカにしてかかる風潮がある。だが、これはあまりにも傲慢であり、無知であるといわざるを得ない。
人間の力で、なんでもできるなどと思うのは、自分を知らない傲慢そのものである。現実には、人間は、自分自身をすら思うままに支配できない無力な存在なのである。大科学者といえども、自分の生んだ子の不良化を阻止することさえできなかったという例は、よく見聞されるところである。
愚かなのは、無力な人間ではなく、無力さを知らない人間である。人によって、力のある人、ない人の差はあっても、宇宙、自然から見れば、その差はまさに紙一重に過ぎないのである。むしろ、自分を知る人が、賢明な人というべきである。
さらに、人が宗教心を起こすことの基盤には、もう一つの面がある。それは、自己の力以上の何かをめざすとき、そこに宗教心が起きる。
もし、自分の力の限界は知っているが、所詮、それ以上のことはできないのだと諦めて、目的観もなく、向上の意欲もなく、ただ、その場その場を無事に過ごしていければよいというのは、すでに保守であり、要領主義あり、停滞である。
いっさいの進歩の原動力は、この前進、成長の意欲である。自己自身の変革と成長によって大目的を成就していこうというのが仏法の原理であり、精神である。道心とは、これをいうのである。
なにと・なくとも一度の死は一定なり、いろばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ
生きとし生けるものが、もっとも恐れるのは死である。これは、あらゆる生物の、生存本能ともいえよう。
だが、いかなる人も、動物も、虫も、さらには植物も、永遠に死なないものは絶対にない。したがって、大事なことは、死から逃れようと努力することよりも、いかに人生を生きて死を迎えるかということである。
この、人生いかに生くべきかの根本問題に明快な答えを出したものが仏法である。ゆえに最高哲理の妙法を受持し、一歩も退くことなく、妙法の信心を貫き通した人生が、最高に意義ある人生であるといいたい。
むしろ、死を賭し、生涯をかけて求めるべきものが妙法であり、過去の真実の哲人、賢人が求め抜いたものも、また、妙法である。この、折角の妙法の珠を抱きながら、目先の利益や命の惜しさに負けて、妙法の珠を捨てることは、本末転倒であり、愚かしい行為といえよう。これを「いろばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ」と申されているのである。
第八章 白夷・叔斉の例を引く
余りに心配なので、大事な物語を一つお話し申しあげよう。 |
講義
これまでのところ、大道心を奮い起して強盛な信心に励むよう、指導されてきたが、この第八章から第十一章にかけて、白夷・叔斉の故事、釈尊の出世のときの事、仁徳・宇治両皇子の事、施鹿林の隠士の事などの物語を次々と引かれて、兄弟二人の信心を激励されている。
この章のはじめに「あまりに・をぼつかなく候へば」と仰せられていることからして、信心の強い兄のほうはともかく、弟の宗長は、いつ離れてしまうかも知れず、大聖人はたくさんの例を引いて兄弟二人は団結してがんばりぬくよう、励まされたのである。
この白夷・叔斉の例は、昔から忠孝の手本として伝えられてきたものである。あらゆる苦難にたえて兄弟二人が団結して徳に生きてきたが、最後に弟が不用意にもらした一言によって身を亡ぼしてしまった。「一生が間・賢なりし人も一言に身をほろぼすにや」の一節は、大事な教訓である。
どんなに長年のあいだ努力してきたとしても、最後の一言で失敗してしまったならば、それまでの功は全て水泡に帰してしまう。
十字御書にいわく「わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心よりいでて我をかざる。」(1492-04)と。
信心もまた、最後の最後まで貫き通すことが大事である。ここまでやったのだから、もう充分だということはない。本果妙ではなく本因妙の仏法である。結局、奥底の一念が信心から離れたとき、退転があり、堕落があるといえよう。
第九章 真実の孝養を説く
釈迦如来が、太子であられたとき、父の浄飯王は太子を惜しんで出家を許されなかった。そして城の四方の門に二千人の兵士を配置して、守らせたけれども、釈迦如来は、ついに王の心にそむいて、家を出られたのである。いっさいのことは親に随うべきではあるが、成仏の道だけは、親に随わないことが孝養の根本といえるであろう。 |
講義
一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か
真実の孝養を明かされた文である。一般には親の意に随うことが孝養であると思われている。だが、仏になる道は、親が信心を妨げるとき、親に随わず、仏道を行ずることが仏となる道であり、真実の孝養であるとの教えである。なぜかならば、最高の仏法によって、自分自身の一生成仏とともに、親の成仏も決定していくことができるからである。
親孝義行については、古くからの内典、外典ともに説かれてきた。外典では三皇・五帝・孔子・老子・顔回等の古の賢人が四徳を修せよと説いている。四徳とは、一には父母に孝あるべし・二には主に忠あるべし・三には友に会いて礼あるべし・四には劣れるに逢いて慈悲あれの四つである。
内典、すなわち、仏教では四恩を報ぜよと説いている。心地観経には、四恩を、一には父母の恩、二には国主の恩、三には一切衆生の恩、四には三宝の恩の四つであると説かれている。
すなわち、外典の四徳、仏典の四恩、ともに、その第一に「父母の孝養」が説かれているのである。
だが、第一にかかげているとはいえ外典の父母の孝養については大聖人も「たとひ親はものに覚えずとも・悪さまなる事を云うとも・聊かも腹も立てず誤る顔を見せず・親の云う事に一分も違へず・親によき物を与へんと思いてせめてする事なくば一日に二三度えみて向へとなり」(1527-01)と述べているごとく、親に衣服を与えること、あるいは親の意に違わないことといった道徳的な一面のみを説いているにすぎない。なぜ親に孝養するのかという究極も説かず、その孝養の方法についても、表面的・形式的な人生論しか示していないのである。
さらに、仏法で説く四恩についても「華厳経を尋ぬれば経も大乗・仏も報身如来にて坐ます間・二乗等は昼の梟・夜の鷹の如くして・かれを聞くといへども・耳しゐ・目しゐの如し、然る間・四恩を報ずべきかと思ふに女人をきらはれたる間・母の恩報じがたし、次に仏・阿含・小乗経を説き給いし事・十二年・是こそ小乗なれば我等が機にしたがふべきかと思へば・男は五戒・女は十戒・法師は二百五十戒・尼は五百戒を持ちて三千の威儀を具すべしと説きたれば・末代の我等かなふべしとも・おぼえねば母の恩報じがたし」(1527-18)とあるように、釈尊の説いた五十年の説法のうち、四十二年の経々には、女人は夜叉の如しと嫌われたり、二乗の成仏はかなわぬとして、全てのものに平等に成仏がゆるされてはいなかった。したがって、真実の父母の恩を報ずることはできなかった。
釈尊は一代聖教の最後に法華経を説き、この法が、全ての人を救い、父や母をも救うことができると、真実の孝養の道を示されたのである。
上野殿御消息にいわく「法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり」(1528-09)と。
さらに日寬上人は「当流即ち日蓮正宗以外の他宗門のごときはたとい一代聖教を胸に浮かべたとしても、決して仏法を習いいきわめたとはいえない。これ、三重秘伝を知らず、権実、本迹、種脱に混迷しているからである。しかるに当流、日蓮正宗の学者は、じつに一迷先達の日蓮大聖人の恩跡を忍ぶがゆえに、初からこのことを知るゆえに、その義、仏法を習いきわめたことになるのである…無智の男女は、ただ本門の大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉るのが、じつにこの大恩を奉ずることになるのである」と述べられている。このように、真実の父母への孝養は、三大秘法の仏法を信じ、その力によって、自分ともども父母を救っていくことになるのである。(付記 上記の日寬上人の「日蓮正宗」なる語は、現在の謗法の山と化した日蓮正宗でないことは明白であろう。ここは「創価学会」と訳して読むべきではなかろうか)
また仏法においては、親孝行について、下品・中品・上品の孝養を説いている。
「孝養に三種あり、衣食を施すを下品とし、父母の意に違はざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」と。
三大秘法の大仏法を持ち、親を折伏して正法に帰依させ、また亡き親に対しても、朝に晩に正法をもって回向するのが最高の親孝行といえるのである。
父母は尊ぶべきであっても、凡夫であることに変わりはない。したがって、父母の意をすべて真であるとすることはできないのである。仏法という偉大な宗教を持ち、それによって父母を導き、幸せにしていくことが、真実の親孝行である。
また、親に反対されたり、家族に反対のものがあっても、はじめに信心したものが、しっかり信心に励み、自分の生活に御本尊の功徳を証明していくならば、反対の家族や親も、ともに信仰できるようになり、最高に幸福な家庭を建設することができる。これが最高の親孝行である。
池上兄弟も、幾多の迫害、兄宗仲の二度にわたる勘当にもめげず、二十余年にわたる反対の父康光を、弘安元年(1278)に入信させたことは、この大聖人の「仏道修行こそ孝養の道」の指導を見事に実践しきった姿といえる。
第十章 故事を引いて兄弟の同心を励ます
白夷・叔斉の因縁故事は、先に書いた。また、この他にも大切な因縁故事がある。日本国の第十六代に応神天皇という王がいた。今の八幡大菩薩がこの王である。この王に御子が二人あり、嫡子を仁徳、次子を宇治の王子といった。ところが天皇は第二子の宇治の王子に位を譲られたのである。しかし、天皇が崩御されたのち、宇治の王子は「兄君が位につかれるべきである」といった。しかし兄の仁徳は「どうして親の決められた譲位をうけないのか」といって辞退した。このように互いに譲り合って、三年間の間、国位に天皇はいなかったのである。万民の嘆きは、いいようもなく大きく、天下の災禍となってしまった。そのとき宇治の王子は「私が生きているから、兄君が位につかれない」といって、亡くなられたのである。兄の仁徳はこれを嘆かれ、うち沈んでおられたので、宇治の王子が生きかえって、兄が位に即くようにいろいろと言い置かれて、また息をひきとられた。そののち、仁徳が天皇に即かれたので、国内は穏やかになった上、新羅、百済、高句麗も日本国に従って、年貢を八十艘の船にそなえて貢いだと記録にみえている。 |
講義
本章もまた、過去に兄弟が団結して戦った例をあげて、二人を激励されたところである。まず、前半で、応神天皇、二人の王子兄弟愛により一国が平和に治まり、外国にまでその権威が響いたことを説かれている。これは、王法の例をもって、兄弟の固い団結が最も大事であることを示されたものであろう。
後半では、池上兄弟の異体同心の戦いを賞でられるとともに、その宿縁の深さについて説かれている。「淨蔵・淨眼の二人の太子の生まれかいて・をはするか」と仰せられて、過去に淨蔵・淨眼の兄弟が団結して父・妙荘厳王を救ったごとく、あなたがた兄弟二人も、しっかり団結して、父康光を救っていきなさい、と激励されたのである。
すでに、何回も述べてきたように、弟の宗長は、信心が弱かったので、いつ退転するかわからない状態であった。兄の宗仲と父・康光との間がどうやらおさまっていた時ならともかく、勘当という最悪の状態となって、もはや弟の信心もくずれてしまうだろうと、大聖人が心配していた時、予想に反して、その勘当後も、兄弟団結して戦っている旨を聞き、大聖人のお喜びは大きかったのであろう。
「このわらわの申し候は.まことにてや候らん、御同心と申し候へば・あまりの・ふしぎさに別の御文をまいらせ候、未来までの・ものがたりなに事か・これにすぎ候べき」の一節は、大聖人が弟・宗長のふるまいを心から喜ばれ、さらにがんばり抜くよう全魂こめて励まされたところである。かく激励された宗長の感激もひとしおであったろう。ここ一番という大事な時に、御本尊を信じ、大勇猛心をふるいおこして三類の強敵、三障四魔と対決し、それを乗りこえていく人が、真の勇者であるといいたい。
第十一章 隠士・烈士の故事を引く
大唐西域記という本に次のように書いてある。インドの婆羅ナツ斯国・施鹿林とうところに、一人の隠士がいた。この隠士は仙の法を成就しようと考えていた。すでに瓦礫を変えて宝となし、人畜の形を変える力を持つにいたったのであるが、まだ風雲に乗って仙宮に遊ぶことはできなかった。そこで、このことを成しとげるために、一人の烈士を説いて協力を得、これに長刀を持たせて、壇の隅に立たせ、息をひそめ、言葉を断った。 |
講義
隠士・烈士について
これは仙の法を成就しようとした隠士と烈士の物語である。日蓮大聖人がこの物語を引かれたことについては二つの意味が拝される。
その一つは、このような外道の修行にさえ魔が競う。まして、最高の哲理である妙法を持つならば大難が起こるのは当然であるということ。その二は、仏道修行は最後までやりきらなければ、なんの意味もないということである。
われわれが何か目標を立てて、それを成し遂げようとする時、そこには自己自身との戦いがある。前進、成長への強い実践を妨げようとする煩悩が常に心の中に起こってくるのだ。
例えば、ある大学の受験を決意したとする。そして、この人はその大学に合格することを目標として勉強を始める。この時、必ず勉強を妨げるさまざまな困難がこの人を襲うに違いない。眠い、疲れたなどとの単純な問題から、スランプ、体調の不振、思わぬ事故、あるいは「自分は能力がないのではないか」等の自己の力への疑惑等と。これと最後の瞬間まで戦っていかなくては、その目標は成就しない。
別に大学受験に限らず、このようなかとは、日常に多く経験されていることである。いや、人生は全て、根本的には常に自己の成長を阻む魔との対決のなかにあるといっても過言ではない。そしてここに人生の勝利と破北との分れ道がある。いわんや、仏法は、根本的人間革命の法である。魔が競い起こらないわけがない。
しかしまた、一つのことも最後までやりきってはじめて成就したといえるのである。われわれは目標の六〇パーセントぐらいできると、これ位でいいのではないかと自己満足することがある。だが、六〇の成就というのはありえない。一〇〇パーセントやりきって初めて成就したといえよう。むらん、どのような戦いにも、最終的な目標とその目標を達成するために中途に設けられた中小目標がある。山登りでいえば、最初の拠点となるベースキャンプと、頂上までの間にいくつか設けるキャンプがそれである。一挙に登頂ができない場合には、途中のキャンプが必要であるが、そのキャンプをいくら作っても頂上をきわめない限り、登頂成功とはいえない。
建設中の家には住めないし、住めないような家は末だ家とはいえない。たんに、家のかっこうをしたものにすぎない。成仏も同じであり、半分成仏したとか、成仏しかけたなどということはりえない。瞬間瞬間の生命が仏界を湧現しているか、そうでないかのいずれかであり、中途半端はない。したがって、仏道修行は一生が勝負であり、信心は全うしきらなければ意味がない。
ともあれ、中小目的で満足し、大目的を忘れ去ることは、岩壁の下まで来て、そこで力尽き、自己満足して帰ってしまうようなものでる。大目的は広宣流布達成であり、それ以外の目標はこれを成就するための中小目的と定めて、広宣流布と一生成仏の大願成就を目指しての人生であrたいものである。
第十二章 三障四魔出来の原理を明かす
それ故、天台大師の摩訶止観という書は、天台大師一生の大事、釈尊一代聖教の肝心を述べたものである。仏法が漢土に渡って五百余年、当時の南三北七の十師達は、智は日月に等しくたとえられ、徳は四海に響いていたけれども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第について迷っていたのを、天台智者大師が五時八教の判釈をもってふたたび仏教を明確にされたばかりでなく、妙法蓮華経の五時の蔵の中から、一念三千の如意宝珠を取り出して、インド・中国・日本の一切衆生に広く与えられたのである。この天台の法門は、漢土に始まるばかりでなく、インドの論師さえ明かさなかったのである。それ故、章安大師は止観を釈していうには「摩訶止観ほど明らかで誤りのない法門は、前代にいまだ聞いたことがない」また「インドの大論も、なおその比較の対象にならない」等といっている。そのうえ、摩訶止観の第五の巻に説かれる一念三千は、今一重立ち入った法門である。故に、この法門を説くならば、必ず魔があらわれるのである。魔が競い起こらないならば、その法が正法であるとはいえない。止観の第五の巻きには「仏法を持ち、行解が進んできたときには、三障四魔が紛然として競い起こる(乃至)だが三障四魔に決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」等と書かれている。止観のこの釈は、日蓮が身にあてはまるばかりでなく、門家一同の明鏡である。謹んで習い伝えて、未来永久に信心修行の糧とすべきである。 この釈に三障というのは煩悩障・業障・報障のことである。煩悩障というのは、おのおのの生命にある貧・瞋・癡等によって、仏道修行の障礙があらわれるのである。業障というのは、妻や子等が仏道の障礙とあらわれることである。報障というのは、億王や父母等が障礙とあらわれるのである。また四魔のなかで、天子魔というのもこの報障と同様である。今、日本国には、われも止観を体得した、われも止観体得したという人々のうち、誰に一体三障四魔が競い起こっているであろうか。止観のなかに、「三障四魔に随うならば、まさに人を悪道に向かわせる」というのは、ただ三悪道ばかいでなく、人界・天界、そして九界を皆悪道と書かれているのである。それ故、法華経を除いて、華厳・阿含・方等・般若・大日経等は皆、人を悪道に向かわせる法である。天台宗を除いて、ほかの七宗の人々は人を悪道に向かわす獄卒である。だが天台宗の人人の中にも法華経を信ずるようでいて実際は人を爾前の教えへ向かわせる者は人を悪道に行かせる獄卒である。 |
講義
本章は、仏道修行の根本指針を示された段であり、この「兄弟抄」の中でも、とくに重要な中核をなす部分である。一往、天台仏法に例を借りて説かれているが、末法の正意であられたことは「門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」と仰せによっても疑う余地がない。
天台大師は、五時八教の教判を明らかにし、釈尊一代仏教の中で、法華経が最第一であることを宣揚した。これによって、当時、中国にはびこり、おのおの勝手な義を唱えていた南三北七の各流派は、ことごとくその立義を打ち破られたのである。
さらに、天台大師は、この釈迦一代仏教の肝心たる法華経の中から、百界千如・一念三千の法門を取り出し、像法の時にかなった修行として、一心三観・一念三千の観念観法を打ち立てた。天台大師が、薬王の再誕といわれ、像法の正師、小釈迦と称えられるのは、まさに、この一念三千の法門ゆえである。
客観的にみても、生命について、これほど厳密に、鋭く、深く分析し、その相貌を明らかにし、しかして壮大な理論体系を打ち立てたものは、他に例がない。
だが、天台の一念三千といっても、あくまでも、それは観念観法によって己心に描くのである。その一念三千の相貌は、末法に入って、日蓮大聖人が御出現になることにより、はじめて樹立されるのである。
観心本尊抄にいわく「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(0254-18)と。ここに「仏」とは末法の御本仏たる日蓮大聖人御自身であり、「五字」とは三大秘法の御本尊である。
したがって「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずば正法と知るべからず」と仰せの「此の法門」とは、事の一念三千たる三大秘法の大白法をさす。事実、天台大師自身も、天台の正義を受け継いだ妙楽や伝教等も、三障四魔を身に受けていない。まさに、三障四魔紛然の言葉を、事実の上に読まれたのは、日蓮大聖人にほかならないのである。
いま本文に「此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり」と申されていることもこのことを述べられているのである。師たる日蓮大聖人の御生涯が三障四魔との激闘の連続であったように、大聖人の弟子として、末法の大仏法を受持した門家一同も、また、三障四魔との戦いの人生であることは、当然、覚悟の上でなくてはなるまい。
兵衛志殿御返事にいわく「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091-15)と。
魔競はずば正法と知るべからず
この文は「魔が競わなければ、その法が正法であることを知ることはできない」の意ともとれるが、むしろ、前文の「この法門を申すには必ず魔出来すべし」を受けて「魔が競うようでなければ正法と思ってはならない」という、強い意味が含まれていると拝すべきである。
三障四魔については、本章で詳しく明かされている通りであるが、三沢抄には「仏にならむとする時には・かならず影の身にそうがごとく・雨に雲のあるがごとく・三障四魔と申して七の大事出現す、設ひ・からくして六は・すぐれども第七にやぶられぬれば仏になる事かたし、其の六は且くをく第七の大難は天子魔と申す物なり」(1487-09)とあり、三障四魔のなかでも、天子魔がもっとも強い魔であると示されている。この天子魔は第六天の魔王より起こるものである。
では、魔はどのようなものであるのか。魔の本性とはなにか、これはすでに論じたので、ここでは、仏法の上から簡単にふれておきたい。治病大小権実違目には「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-07)とある。また祈祷抄には「元品の無明と申す第六天の魔王が一切衆生の身に入つて、仏をあだみて説かせまいらせじとせしなり」(1346-02)と説かれている。
われわれの生命にはもとももと、法性(悟り)と無明(迷い)とが内在している。むしろ、法性も無明も一体であり、生命それ自体のあらわれ方の違いなのである。この根本の迷いである元品の無明が、第六天の魔王の働きとなって顕われるのである。
所詮、魔といえども、どこか他の世界からやってくるのではなく、信心修行する者の生命自体の働きによるのである。信心して幸福になっていこうという生命の働きと、一方において、これを妨げる魔の働きとが絶えず争ってあるのである。
また、魔というのは、前にも述べたごとく向かい風にたとえられよう。一般的にも、運動する物体には必ず、その運動を阻止しようとする抵抗力の働くのは当然の道理である。運動力学では、その抵抗力は速度に比例するものとして表している。無風状態のとき、ただ歩いても何も感じないが、自転車に乗って走ると空気の抵抗を身体で感じ取ることができる。さらに、音速に近いジエット機などの場合は、いわゆる「音速の壁」という巨大な抵抗のショックがあるとう。
これと同じように、三大秘法の御本尊を受持したときに、必ず魔が競ってくるというのは、まさしく、われらが一路、幸福境涯へとまっしぐらに進まんとするがゆえに、その前進を阻もうとする抵抗力であり、反作用ともいえる。したがって、こうした働きがあること自体、仏法の正しさを証明しているのである。所詮、魔があるということは、幸福へ向かって、邁進している証拠ともいえる。大事なのは、魔を打ち破るだけの、強い信心に立つことである。
御義口伝には「此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し」(0751-15)とある。
人をして悪道に向わしむと申すは只三悪道のみならず人天・九界を皆悪道とかけり
人界のなかで、真実の善道は仏界以外にないということである。所詮、九界は迷いの境涯であり、理想的な人格の完成、一切を見とおした智慧の獲得にはるかに遠い。
したがって、十界のなかで、悪道を地獄・餓鬼・畜生の三悪道、修羅を加えて四悪趣と限り、他の善道とするのは、仏道哲学の立ち場から浅い見方にすぎない。また、人天までを六道輪廻の迷いの境涯とし、声聞・縁覚以上を四聖と称するのも、小乗教の低い生命観である。
声聞・縁覚・菩薩といっても、まだ煩悩を打ち破ってはいない。これらを現代的に考えると、声聞とは、仏法の導師について修行で得た喜びであり、縁覚とは、自らが仏道を修めて真実を究めたときの幸福観でもある。また菩薩とは、仏法根本に人を助け、社会に貢献することによって得られる満足感ともいえる。
しかし、こうした声聞・縁覚・菩薩の幸福は、それ自体、まだ微弱なものであり、その基盤ももろい。
自分はただ、人の身を思って善行をしたつもりでも、世間からは、売名のためだと悪口をいわれることもあろう。助けてあげた相手に裏切られることもあるかもしれない。幸福は一転して、失意と絶望と憤りに、変わってしまう。
このように、九界の範疇にとどまる限り、その幸福は、外部の条件によって左右される一時的な幸福であり、流動的で、千差万別に変化していくのである。したがって、そこに向かわせるものは、それ自体が悪であり、魔の所為にほかならない。
自己自身の完成による。したがって、外部の条件によって変えられることのない、絶対的に崩れない幸福境涯を仏界というのである。これを明かしたのが法華経の開三顕一であり、この仏界を会得する法が本門文底の三大秘法である。
ゆえに、三大秘法の仏法を持つことを妨げ、成仏の直道を断とうとするのが、「悪道に人をつかはす獄卒」であることを知らねばならない。反対に、三大秘法の仏法を人に持たせ、成仏の直道に入らしめる人は、仏の使いである。
第十三章 兄弟とその夫人たちの信心を激励する
今、宗仲、宗長の兄弟は隠士・烈士二人のようなものです。どちらか一人が欠けるならば、仏道を成就することはできない。譬えば、鳥の二つの羽、人の両眼のようなものです。また二人の夫人たちはこの兄弟の二人にとっては大事な支えです。女性というものは物に随って、物を随える」みであります。夫が楽しめば、妻も栄えることができ、反対に夫が盗人ならば、妻も盗人となるのです。これはひとえに、今生だけのことではない。世世・生生に、影と身と、花と果実と、根と葉のように相添うものなのです。木に住む虫は木を食べる。水中に住む魚は水をのむ。芝が枯れれば蘭が泣き、松がさかえれば柏は悦ぶ。草木でさえ、このように互いに助け合うのです。比翼という鳥は、身は一つで、頭が二つあり、二つの口から別々に入った食物が、同じ一つの身を養う。比目という魚は、雄雌一目づつあるゆえに、一生の間離れることはない。夫と妻とは、このようなものです。この法門(御本尊)のためには、たとえ夫から殺害されるようなことがあっても後悔してはなりません。婦人たちが力を合わせて夫の信心を諌めるならば、竜女の跡を継ぎ、悪世末法の女人成仏の手本となられることでしょう。このように、信心強盛であるならば、たとえどのようなことがあろうとも、日蓮が二聖・二天・十羅刹女・釈迦・多宝にいって、あなたが未来順次に生まれるたびに、必ず成仏してさせてあげましょう。「心の師とはなっても、自分の心を師とするな」とは六波羅密経の文である。 |
講義
本抄をしたためるにあたり、これまで宗仲・宗長の二人に種々指導してきたが、最後に、それぞれの夫人に対して指導し、兄弟、夫婦相和してがんばりぬくよう激励されたのである。このように夫人に対する激励で本抄をむすばれたのは、婦人の信心がきわめて重要であるからであると思う。
女人となる事は物に随って物を随える身なり。
女性は「随って随える身」との仰せである。この生き方が、女性の生き方であり、女性の特性をいかんなく発揮することになるのである。日蓮大聖人は、この兄弟抄のほか、諸御書の中でこのことを教えられている。「随う」「随える」というこの相反する一念の御作用は、本来本有のものであり、個人によって差はあるにしても、全ての女性に内在しているものである。フランスの詩人ミュッセが「女は服従するように見せかければ見せかけるほど、主権を握れることをよくわきまえている」と語っているのは、このことが洋の東西を問わない不変の真理であることを物語っているといえよう。
四条金吾殿女房御返事にいわく「女と申す文字をば・かかるとよみ候、藤の松にかかり女の男にかかる」(1135-12)と。富木殿御返事にいわく「やのはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり」(0975-01)と。
男をたて、男にしたがうゆえに「随う」であり、男の行く手を誤らないようにし、しっかりと応援し、また家庭を守り、子供を生み・育てる母なるゆえに「随える」となるのである。女性が、女性の特性をいかんなく発揮するこの生き方が、女性の生き方である。
このように男性と女性との立場の違いを述べると、男女同権の原理に反し、時代に逆行する考え方であるかのように思う人も多いかも知れない。だが、それは、男女の両性がそれぞれ本然的に持っている特質を無視した錯覚といわねばならない。
もとより、法律上、あるいは体制の上で、男女の同権を保証することは、当然、そうあるべきである。本来持っている力を思う存分に発揮させないような、人間性抑圧は、あってはならない。仏法で説く男女の差は、決して法律的、社会機構上の差別ではなく、男女の本性に根ざした人生の生き方の問題なのである。
もし、同権だから、平等だからといって、女性も男性のようになり、男性が女性の仕事もしなければならないとなったら、はたして幸福といえるであろうか。男女とも、かえって不幸を感ずるであろう。それは、男性が子供を生めないのと同じに、本然的なものがあるからである。
家庭の中はもとよりのこと、社会にあっても、男性の特質と女性の特質とが、それぞれ存分に発揮され、両者の調和が具現されたときに、理想的な運営と発展がもたらされるのである。
このことについて御義口伝講義下に「求女とは世間の果報・求男とは出世の果報」の文を引いて、「男女それぞれの幸福に対する考え方の、本質的な違いがここに明確である。女性は現世の、また、現在、自分が置かれている立ち場での、安穏な幸福を求める。保守であり、消極的である(中略)受身である。男性は、現状に甘んずるのではなく、未来を考え、枠を破って切り開いていく、進取であり、積極的である。また、能動的な生き方がその特質である」と、男女の違いを指摘して、さらに、「この両法が調和されたときに、理想的な家庭生活が営まれるのである。男が信心を全うし、世間に出て働き、その福運を家庭に与える。それをしっかり守り、さらに豊かに育てていくのは女である。男がリードしていくのが、本来のあり方といえる」と、生活の場における男女の果たすべき役割を明確に教示している。
しかして、本文に戻って、この文のあとに、大聖人は「此の法門のふへには設い害さらるるとも悔ゆる事なかれ」と仰せである。この御本尊を信仰していくために受ける迫害であるならば、たとい夫に殺されるようなことがあっても、少しも悔いることなく、信心を貫かなくてはいけないとの教えである。正しいと信じたことのためには、主体性をもって生きていくことが、正しい女性の生き方であるとの教えであり、決して大聖人のお心は何でも夫に従わなければならないといったものではないことが知られよう。
心の師とは・なるとも心を師とせざれ
ここにいう「心」とは、凡夫としての自己の主観であり、見解であり、ときには感情である。「心の師となる」とは、仏教の教え、したがって、仏の心を根本にして、弱々しい、自己の迷妄の心との戦い、これをリードしていくことである。「心を師とする」とは、反対に、自己の迷妄の心に負け、これに従っていく姿である。
仏道修行においては、仏の教えを根本にして、弱い自己の心を指導していくことが肝要である。迷妄の心は、航路を知らない船頭であり、道を知らない案内人である。一寸先もわからない凡智が、どうして幸福へのリーダーとなりえようか。
一切を悟り究めた仏の智慧が、人生・社会の師であり、仏の教えのごとく実践していくこと、すなわち「如説修行」が、「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」の御金言の具現化にほかならない。
人類の歴史は、さまざまなものを心の師としてきた。
だが、それらは、抽象的な観念が、あるいは、凡夫の心の所産であったといえよう。このゆえに、決局は「心を師とする」ことをまぬかれなかったのである。
とくに、合理主義が時代の風潮になっている現在に現在においては、自分の心で合理的に割り切れるもの以外は認められなくなっているのが実態である。自分の心以外の師を失ってしまっているのが、現代人の一般的傾向といえるかも知れない。一切の行き詰りの根源はここにあるからだ。
かって、インドのパール博士は、カルカッタ大学の集会で若き卒業生たちに、
「激動する世界の現状は、新しい思考方法を求める。この新しい思考方法は、ただ古い思考方法の線にそって進むことを意味するものでもなければ、科学的技術の方向をも、政治的目的の方向をも言意味しない。もし人類全体の存在が問題ならば、それに対する回答は、人間の心髄をもって行なわなければならない。諸君よ、無思慮な血気に駆けられることを避けるように、そして超絶の実在が、つねに諸君の人生の指針であるように…」と説いた。
彼は、現代世界の危機に際して、東洋的直観と智慧から、今後の人類の存亡は、政治革命でもなく、科学技術の開発でもなく、何か新しい思考法、哲学を求める以外にないと結論づけたのである。さらに彼は、その解答として人間の心とも精神ともいわず人間の「心髄」という言葉で表現した。そして「越絶の実在」を師針(心の師)としていかなければならないとした。しかし、彼も明確な実在を指してはいない。
彼が「心髄」と表現したものは、いま、仏法の眼よりみるならば、日蓮大聖人が解明された「妙法」を志向したものとみることができよう。
また、アインシュタインも「宗教なき科学は盲目である」と科学を指導する眼(心の師)を宗教に求め汎ヨーロッパ主義の提唱者であるクーデンホ―フ・カレルギー伯も、これからの時代を指導する心の師を高級宗教に求めている。これらの事実は、現代、時代が心の底からもとめているものが、偉大なる宗教であり、日蓮大聖人の三大秘法の仏法であることを示すものである。
設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし
たとえ、どのようなことがあろうとも、信心第一、御本尊第一でふるまっていきなさいとの教えである。どのような悩み、苦しみをかかえていようと、自己の些細なことのみに引きずられた人生は、小さな自己の境涯を一歩も歩み出ることはできない。逆に、国家のこと、社会のことなど、大言壮語してみても、自分の生活をかえりみず、自己を犠牲しているのであるならば、それは幸福な人生とはいえない。
この現実をみつめ、大地にしっかり根を下ろし、個人の幸福と社会の繁栄の一致をめざす広宣流布への人生こそ、最高に力強く崇高な人生である。考えてみれば、広宣流布をいかにして達成するか、という悩みは、一切の悩みの中で、最高のものであり、これ以上の悩みはない。
この悩みに徹した人生ならば、もはや自己の小さな悩みなど、風の前のちりのごときものであり、大願を一歩一歩成就していった時には、自己の問題も悠々と解決していけるのである。
御義口伝下にいわく「一念の妄心の外に仏心無し九界の生死が真如なれば即ち自在なり」(0789-法師品)と。ここでいう「一念の妄心」とは単なる自分の小さなカラの中での悩みである。この大煩悩を燃やす以外に「仏心」すなわち、真実の幸福はない。そして、九界の生死が「真如」すなわち、信心を根幹にしたものであれば、悠々たる自在の人生を送ることができるとの教えである。心して、この大確信、大煩悩に立った人生を歩んでいきたいものである。
日蓮が法門は古へこそ信じかたかりしが今は前前いひをきし事既にあひぬればよしなく謗ぜし人人も悔る心あるべし
「前前いひおきし事既にあひぬ」とは、立正安国論で予言された自界叛逆難・他国侵逼難の敵中である。この事実をみて、大聖人に対して、それまで敵意を抱いたり、迫害してきた人もおどろき、大聖人の偉大さにあらためて注目する人も少なくなかった。
大聖人が佐渡流罪をゆるされたのも、あまりに、予言が的中したためであり、鎌倉にもどられた大聖人に接する鎌倉幕府の態度も百八十度変わったと、御書にしたためられている。
現在においても、まったく同様である。かっては、理由もなく、感情にまかせて御本尊を謗じていた人も、過去の誹謗を悔いている人も多い。いかなる過去の運動といえども、苦闘、曲折なくして成就したものはない。現実に人々に力強い人生の指針を与え、幸福をもたらしていく仏法は必ず人々を納得させずにはおかない。しかして、それが正しいものと、民衆から賛同を得たときには、もはや、その奔流をとめることはできないといえよう。
すべての面に行き詰った、この二十一世紀文明を、人々は何とかして打開したいと願いつつも、その方途をいずこに求めたらよいのか迷っているのが、現代の世界の実相である。この生き詰りを根本から解決する大仏法が、いま、その雄飛の時を静かに待っているのである。否、すでに、その時が到来したというべきであろか。二十世紀の残り四半世紀(この書の発刊は1969)、そしてきたるべき二十一世紀は、日蓮大聖人の大仏法哲理が、全世界の民衆を幸せにしきっていく世紀であるといいたい。
|
兵衛志殿御返事(鎌足造仏事) 建治元年八月 五十四歳御作 於身延
八月二十一日 日 蓮 花 押 兵衛志殿御返事 |
講義
本抄は蘇我一族の亡んだ例を挙げて、蒙古に責められているのは法華経と教主釈尊を全ての根本におかなければならないという最重要事を忘れていることから起きていること、また、あなたがた二人が今日まで退転することなく信心を貫いてこられたのも、ひとえに御本尊の力である。したがって、今後ともいよいよ身命を賭して、折伏に励んでいくべきであるとの心構えを指導された御書である。
設ひ命に及ぶともすこしも・ひるむ事なかれ
この御文は、池上兄弟に限らず、われら末弟に不自惜身命のご精神を説かれたものである。
日蓮大聖人の御一生は、不自惜身命の戦いの連続であられた。伊豆の流罪、小松原の法難しかり、竜の口の首の座、佐渡の流罪等々、御門下もまた、小松原の法難では、鏡忍房、工藤吉隆、熱原の法難では神四郎、弥五郎、弥六郎が妙法流布の途上に殉じた。第二祖日興上人の一生も、本門弘通のために命をかけて戦われた。近くは創価学会の歴史も全く同じである。初代牧口会長は官憲に捕えられて牢死なされ、二代戸田会長は牢獄より立ち上がったのである。
現在は化儀の広宣流布、順縁広布の時代である。それゆえ、かってのごとき身命に及ぶ迫害はない。だが、多くの人を妙法によって救うために、たとえいかなる反対も、迫害も、ものとせず、妙法流布をしていくという、不惜身命の根本精神は少しも変わるものではない。いかにして広宣流布を達性するかを考え、仏道修行に励むことが不自惜身命である。
悪口をいわれたり、多少のはくがいの有ることなど「設ひ命に及ぶとも」の大聖人の教えからみれば全然、問題ではない。命を奪われるほどの難にあおうとも、少しも退転することなく突き進んでいった時、われわれの前途は、栄光に輝く人生となることを、深く銘記すべきである。
兵衛志殿御返事(三障四魔事) 建治元年十一月 五十四歳御作 於身延
第一章 末法の相を示す
|
末法になり候へば人のとんよくやうやくすぎ候て主と臣と親と子と兄と弟と諍論ひまなし、まして他人は申すに及ばず
「正法・像法の時は世もいまだをとろへず聖人・賢人も・つづき生れ候き天も人をまほり給いき」に相対して末法の時代相を述べられたところである。
聖人・賢人とは、今日でいえば、立派な指導者のことである。社会の実相というものは、必ず指導者に端的にあらわれる。勝れた指導者が続出してゆくことは、社会自体の福運であり、社会自体が溌剌たる息吹にみなぎっているからにほかならない。さらに興隆しゆく時代の機運、衰微していく時代の風潮 これもまた指導者のなかに集約されるといっても過言ではない。
「天もひとをまほり」とは、社会の機運自体が正しい人を守り、賢明な指導者を育んでいく姿勢にあることともいえる。いわば、指導者は民衆の姿を映し出す鏡のごときものではなかろうか。
だが、末法の時代に入り、人々は私利私欲にふけり、頭は鋭く研かれても、その鋭利な頭脳は、私利私欲の生命に駆使されて、ますます濁乱の社会を生み出していくのである。正しい指導者は絶え、腐敗と混濁に満ちた社会を反映した指導者が、横行するに至る。
正像時代は、たしかに人々の心は単純であり、あるいは無智とさえいえたかもしれない。しかし、そこには、大らかで、人間性にあふれた、家族的な姿があった、末法においては、無智というより邪智であり、人間関係は、親子兄弟でさえ、花火を散らす反目と葛藤の醜い実相をさらけ出している。社会は、未来、それを構成する人々に幸福と繁栄をもたらす共通の場であるはずであった。しかるに、それはnいまや私利と私欲の激突の場であり、醜悪な修羅場と化してしまった。
もはやこのような時代にあっては、旧来の秩序や、体制を支えてきた過去の哲学、思想ではどうすることもできない。その根源は、深く人間生命に発しているからである。ここに日蓮大聖人は、社会の根底にある「人間」自身に、解決の出発点を置かれたのである。
第二章 兵衛志の信心を誡め励ます
ただこのたび、右衛門志殿が勘当されたそうで、そのことに関してはあなたの奥さんにここ身延で言っておいたとおりです。すなわち、その時に「右衛門志殿は、また必ず勘当されるでしょう。そのとき兵衛志殿が気がかりです。そのときに、あなたがしっかりしなくてはいけません」と言っておいたのです。今度はあなたは必ず退転されると思うのです、退転するのを、どうこうというつもりは毛頭ありませんが、ただ、地獄に堕ちてから日蓮を怨んではなりません。その時は知りませんよ。千年間もたった苅茅も一時に灰となってしまい、百年の功も一言で破れるというのは、物事の道理です。
これまで、長い間信心してきたのにひきかえて、今、悪道に堕ちるのはかわいそうだというのです。百に一つ、千に一つでも日蓮の教えを信じようと思うならば、親に向かって言いきりなさい。「親であるから、いかにもその言葉に従うのは当然ですが、親が法華経の敵になってしまいましたので、つき従ってはかえって不幸の身となってしまうので、私は親を捨てて兄につきます。兄を勘当されるのならば、私も兄と同じだと思ってください」と言いきりなさい。少しも恐れる心があってはならない。過去遠遠劫より法華経を信じたけれど、仏になれなあったのは、これによるのです。潮が干るときと満るときと、月の出るときと入るとき、また、夏・秋・冬・春の四季が変わる時には、必ず普段と異なることがあります。凡夫が仏になるときもまた同じです。すなわち、仏になるときには、必ず三障四魔という障害がでて来るので、賢者は喜び、愚者はひるんで退くのです。このことは、こちらから使いを立ててでもってあげたいと思い、またついでがあればと思っていたところにお使いを下さりありがたく思います。あなたが退転してしまうものならば、よおやこのお使いがあるわけではないと思いますので、もしかしたらあなたも信心を全うできるかもしれないと思っているのです。 |
千年のかるかやも一時にはひとなる 百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり
これは仏法の要諦を説かれたものである。千年もたった刈茅でも、いったん火にあえば、一時に灰となり、百年かかってたてた功労も、わずか一言で徒労に帰してしまう。なにごとにおいても、一つのことを成就するたけには、最後まで全うしなければ意味がない。家を建てる場合でも、九分通りまでつくっても、壁を塗るとか畳を入れるとか、最後の仕上げをしなければ人は住めない。
いわんや、仏法は、一生成仏という、人生の根本的建設の戦いである。建設中の途上において、それをやめたならば、それまでの努力は水泡に帰す以外にない。
仏法は勝負である。その勝負は最後で決まる。それが、仏法の厳しさであり、人生のきびしさでもある。たとえ、百のうち九十二まで力を注いでも、あと八を手を抜き、あるいは逃避していくならば、それは仏法の実銭とはいえないのである。そこに着目し、最後の画竜点晴に総力を注ぐとき必ずや、常に新しい光輝ある未来を開拓していけることは必定である。
昔と今はかわるとも法華経のことわりは・たがうべからず
たとえ、時代がいかに異なろうが、生命の奥底を説いた法華経の哲理は変わることがないとの仰せである。時代の制約を受けるのも当然である。いや、あらゆるものが時代の制約をまぬかれないかにみえる。だが、それにもかかわらず、時代を超え、民衆を越えた何かがある。それが生命の究極にある「生命」そのものである。この生命に洞察眼を開いたがゆえに、法華経は不変の力が寄与されたのである。
いま、ここで述べられていることは妙荘厳王・浄蔵・浄眼・浄徳夫人によって繰り広げられた家庭の在り方は、末法今時においても全くおなじであるということである。 妙法を持った人が、太陽のごとき存在となり、つねに一家を、幸福の方向へ、建設の方向へと変えていこうとするとき、一家は、新しい鼓動を開始したというべきであろう。経文には浄蔵・浄眼が父王を救う浄蔵・浄眼ため、さまざまな神通力を現じたとあるが、この神通力とは、今日、旺盛な生命力で、自己を変え、力強い人生を歩んでいくことをも意味する。実相にまさる力はない。わが家を幸福に導く根本は、ここにあると銘記すべきである。
しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび 愚者は退くこれなり
潮の干満の境目、月の出入りの境目、夏と秋と冬と春の季節の変わり目には、必ず違った現象が起こる。それと同じように、凡夫がそれと同じように、凡夫が仏にならんとする境目には、必ず三障四魔が競い起こってくるとの仰せである。
仏道修行それ自体が、即、魔との戦いである。魔とは人間生命を根本的に破壊し、その活動を狂わしめていく、大宇宙に瀰慢し、また生命それ自体に内在する作用、働きである。かって人類の歴史において、この魔と対決し魔を摧破するという戦いはなかった。われらの実践は、この魔と対決し、これを打ち破っていく戦いであるがゆえに、最も本源的なものなのである。
「賢者はよろこび愚者は退く」とは、仏法の深い原理を知っている賢明な人は、難にあってもくじけず、むしろ喜び勇んで、この魔と戦い、これを打ち破っていく。逆に、これを知らず、目先にとらわれていた愚者は、難を逃避してしまうことである。
三障四魔が出来したことは、仏法を修める者にとって、絶好のチャンスを迎えたわけである。難があればあるほど、ますます旺盛な生命力をもって、莞爾として戦っていきたいものである。
同じく、現代は人類全体にとって未曾有の危機の時代である。いよいよ魔の実態が明確になったとえる。この時こそ、人類の運命を転換する、重大な時であることを知らねばならない。
第三章 法華経に値い難きを示す
仏になることは、かりに二つの須弥山が二つ並んでそびえているとして、こちらの須弥山に針を立てて、あちらの須弥山より糸を放つて、その糸がまっすぐに渡って針の穴に入るよりも難しいのです。いわんや、逆向きに大風が吹いてきたならば、いよいよ難しいことです。
涅槃経には「無数無量劫の昔より以来、衆生はつねに苦悩をうけてきた。一人一人の衆生はそのただ一つの劫の間だけでも、数えきれないほど何回も生を受けてきており、その間に積んだところの骨は王舎城の毘富羅山のようになる。また、飲んだところの乳汁は四海の水のようであり、身より出した血は四海の水よりも多く、父母兄弟妻子眷属の命終に哭泣して流したところの涙は四大海の水よりも多く、大地の草木の全てを四寸の籌として、それによって、父母の数を数えてもなお数えることはできない」と。この経文は、釈尊が最後に雙林の下で臥して説かれた経であり、雙林最も心をとどめなければなりません。無量劫より、以来、自分を生んでくれた父母は十方世界の大地の草木を四寸に切って、一人一人にあてて数えても数えたりないという経文です。 |
宝塔品より嘱累品にいたるまでの十二品
これは、法華経の虚空会の儀式をさし、二処三会の一つである。法華経をはじめに霊鷲山、それから虚空会、最後に再び霊鷲山というように、霊鷲山と虚空のニ処で三回にわたって説法が行われた。これが、二処三会である。そのうち、重要な説法が行われたのがこの虚空会である。それゆえ「殊に重きが中の重きなり」と説かれているのである。
御義口伝下に「惣じて妙法蓮華経を上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り.寿量品の時事顕れ.神力属累の時事竟るなり」(0770)とある。虚空会の儀式が重要なのは、従地涌出品において、上行菩薩を上首とした地涌の菩薩が大地より涌出し、寿量品が説かれ、神力品において、三大秘法の大法が付嘱され、嘱累品において迹化の菩薩および梵天帝釈に付嘱されるという、重要にして荘厳な儀式がおこなわれたからである。
では、一体、法華経の会座に、宝塔が湧現したということはなにを意味するのか。また虚空会の儀式およびニ処三会の儀式とはなにか。これを大聖人の仏法、生命論から論ずるとき、まことに深遠な哲理を含んでいる。戸田前会長は、次のごとく虚空会の儀式について思索されている。
「迹門流通分たる見宝塔品において、多宝塔が虚空に起ち、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中に並座し十方分身の諸仏・迹化他方の大菩薩・二乗・人天等がこれにつらなるいわゆる虚空会の儀式が説かれている。これは甚だ非科学的のように思われるが如何。しかし、仏法の奥底よりこれを見るならば、極めて自然の儀式である。もしこれを疑うなら序品の時に既に大不思議がある。数十万の菩薩や声聞や十界の衆生が悉く集まって釈迦仏の説法を聞くようになっているが、そんなことができるかどうか。拡声機もなければ、またそんな大きな声が出るわけがない。况して八年間もそれが続けられるわけがない。すなわち、これは釈迦己心の十界であるから何十万集まったといって不思議ではない。されば宝塔品の儀式も観心の上に展開された儀式なのである。われわれの生命には仏界という大不思議の生命が冥伏している。この生命の力および状態は想像もおよばなければ筆舌にも尽くせない。しかし、これをわれわれの生命の上に具現することはできる。現実にわれわれの生命それ自体に冥福せる仏界を具現することができるのだと説きしめしたのが、この宝塔品の儀式である。すなわち、釈迦は宝塔の儀式を以て己心の十界互具一念三千を表わしているのである。日蓮大聖人は、同じく宝塔の儀式を借りて寿量文底下種の法門を一幅の御本尊として建立されたのである。されば御本尊は釈迦仏の宝塔の儀式を借りてこそ、大聖人の己心の十界互具一念三千 本仏の御生命であらせられる。この御本尊は御本仏の永遠の生命を御図顕遊ばされたので、末法唯一無二の即身成仏の大御本尊であらせられる。末法の民衆は、この御本尊によってのみ救済されるのである」
さらにこれをすすめて、御義口伝下によれば、次のように意義づけることができる。すなわち、宝塔品第十一より虚空会の儀式が始まるのであるが、まだ地涌の菩薩の出現もなければ、常住の生命も説かれていない。涌出品第十五を説き進み、寿量品十六にいたって、虚空会の儀式は完璧に整うのである。すなわち寿量品の儀式が、釈尊一代五十年の最高の儀式であり、生命の真実の姿を説き明かしたものである。しかし、寿量品において、釈尊己心の十界三千の生命が厳然と説き明かされたけれども、いまなお文上の範囲ないであり、五百塵点劫の色相荘厳の釈尊の心具の十界三千である。日蓮大聖人御図顕された大御本尊は、文底に説き明された、久遠元初自受用身の一念の心法即南無妙法蓮華経が根本となり、したがって、左右の十界三千は一往、寿量品第十六の儀式は借りてはいるが、久遠元初自受用報身如来の一念の心法に具備する十界三千であり、御本仏の生命それ自体である。
要するに。虚空会の儀式は釈尊が、大宇宙に、また己心に御本尊の姿を描いたものであある。しかしながら「南無妙法蓮華経 日蓮」という根本がない。それゆえ、それは十界三千の姿を描いたに過ぎない。つまり、その根源である南無妙法蓮華経からあらわれた働き、現象を説明したに過ぎないのである。所詮、霊鷲山、虚空のニ処三会の儀式は、ことごとく大御本尊におさまり、一法も余すことがないのである。
釈にいわく「霊山一会ゲン然未散」と。霊山一会とは、法華経が説かれた霊鷲山の会座であり、二所三会の儀式である。その儀式は、大宇宙の実相であり、全て、末法出現の大御本尊に包含され、永遠に常住するということである。
第四章 邪法の現証を示し重ねて激励する
親という親で、世の中を捨てて仏になれとすすめる親は一人もないものです。これは、なにかと、ことによせて持斎・念仏者たちがさまざまに画策してあなたたちを退転させるために、まず親をそそのかして悪道に堕としているのです。両火房は百万弁の念仏称名をすすめ、人々の仲を裂いて法華経の仏種を断とうと謀っているときいております。
あなたが兄を捨てて、兄が勘当になったその跡を譲られたとしても、千万年も栄えることは難しいのです。わずかの間に滅びてしまうかもしれない。どうしてこの世の内にほろびないという保証がありましょうか。よくよく思い切ってひたすら後世を頼みなさい。 |
講義
大聖人はここで、極楽寺良と結んで、大聖人を迫害して悲惨な罰の現証をうけた北条重時の例を引かれ、仏法の厳しさを示されている。
北条重時は康元年(1256)入道して、極楽寺の別荘に住んでいたので極楽寺入道と呼ばれていた。強盛名念仏信者であった重時は、立正安国論によって念仏を「この一凶」と断じて破折された大聖人を憎むこと絶大であった。文応元年(1260)松葉ヶ谷の襲撃の際にも暴徒を黙認し、伊豆・伊東の流罪に際しては、重時の子・長時等が中心になって策謀したのである。表面には出なかったが裏で陰謀をめぐらし、大聖人を迫害していたのが、重時であることは明らかである。
重時は大聖人の伊豆流罪の一か月後、急に病気になり、苦しみの末、死んだ。重時だけでなく重時の長男為時は早死、次男・長時は35歳、三男・時茂は30歳、四男・義政は39歳で、それぞれ夭折している。ただ5男・業時だけが越後守に任ぜられていた。大聖人は正法誹謗の厳罰を宗長に教えられたのである。
権力の弾圧
日蓮大聖人を、当時の権力者・北条氏および鎌倉幕府と決託して陰に陽に迫害しつづけた元凶が、本抄にも述べられているところの、極楽寺良観等の念仏者であった。
正しい仏法のあるところ、あたかもそれを証明するがごとく、邪な宗教があり、権力と結びついて、弾圧を加えるようである。
涅槃経に「爾の時に無量の外道有って和合して共に摩訶陀の王、阿闍世の所に往き、今は唯一の大悪人有り瞿曇沙門なり、一切世間の悪人利養の為の故に其の所に往集して眷属と為って能く善を修せず、呪術の力の故に迦葉及び舎利弗、目ケン連を調伏す」とある。
すなわち、釈尊在世の邪教外道が寄り集まって、当時の国主 権力者のもとにいって、瞿曇沙門(釈迦)は大悪人であると悪口をいって、釈尊を迫害しようとしたのである。
ひるがえって、20世紀の今日、太平洋戦争中において、大きくは神道と国家権力の結託があり、また身延派がやはり国家権力にとりいって創価学会を滅ぼそうとした事実があった。
だがこれらの宗教と権力者瞿曇沙門とが結託し、正法を断圧した時には、立正安国論に仁王経の「仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」(0021-03)の文をひかれ、大聖人が述べているがごとく、必ず一国滅亡の結果が出ているのである。
兵衛志殿女房御書(儒童菩薩御書) 建治三年三月 五十六歳御作 与兵衛志殿女房
先日は仏器を御供養なさいましたが、このたびは、この尼御前が登山されるにあたって大事な御馬に乗せてくださったとうかがいました。過分の供養と思います。これは兵衛志殿のお志はいうまでもありませんが、むしろ女房殿のお心づかいであろうかと思います。 |
講義
宗仲・宗長兄弟の三障四魔との戦いのなかで、それぞれの夫人たちの信心が、大きくあずかったということは、いうまでもない。大聖人は、夫人の信心いかんで、兄弟二人に大きく左右されることを心配されて、夫人にも厳格な指導をされている。なかでも、弟の宗長は信心も弱く、ともすると動揺しがちだったので、宗長の夫人に対しては、特につかわれていたことがうかがえる。
「ただこのたびゑもんの志どのかさねて親のかんだうあり・とのの御前にこれにて申せしがごとく一定かんだうあるべし・ひやうへの志殿をぼつかなしごぜんかまへて御心へあるべし」(1090-)と。
したがって本抄では、先頃の大聖人への仏器の供養、また今回、尼御前を馬に乗せて遣わされたことなどの御供養につて「兵衛志殿のお志はいうまでもありませんが、むしろ女房殿のお心づかいであろうかと」と、宗長の夫人の信心を激励されているのである。
兄弟二人のお手紙と異なり、夫人の純真の信心、細やかな心づかいを喜ばれ、このようにしっかり信心に励んでいけば、大功徳を得て、百二十までも長生きし、さらに、今回遣わされた馬に乗って、霊山浄土までくることができるとほめられたのである。兄弟のことを心配されて一字一句に全魂をこめて激励されている大聖人のお心を知らなければならない。
兵衛志殿御書(親父入信御書) 建治三年九月 五六歳御作 於身延
第一章 兄弟の団結を讃め親父の入信を喜ぶ
長い間、便りもありませんでしたので、非常に心配しておりました。しかし、なんといっても、尊く不思議なことは、お兄さんの大夫志殿とあなたの仲のことで、本当に不思議に思っております。 |
講義
本抄は、池上宗仲・宗長兄弟が、力を合わせて信心を貫き、ついに父の左衛門大夫康光を正法に帰依せしめたことを心から喜ばれている。とくに、兵衛志宗長は、兄宗仲に比べると信心が弱かったので、かねてから懇切に信心をつづけてこられたのであるが、ついに家庭革命をなしとげることができたいま、よく大聖人の御指導どおり頑張った宗長に対して、あたたかい祝福を与えられている。
しかしながら、本抄の末尾に「此の文は別しては兵衛の志殿へ、総じては我が一門の人人御覧有るべし、他人に聞かせ給うな」と仰せのように、重大な内容を含んでいる。
前半においては、末法濁悪の姿と、そのような世に大聖人すなわち末法の御本仏が出現することを示されている。そして、後半では、そのような濁乱の根源をなすものとして、真言の大悪法をあげられている。しかも、この大悪法に気づかず、御本仏たる大聖人を迫害したことによって、大罰をうけるであろうと断言されているのである。
常さまには世末になり候へば聖人.賢人も皆かくれ
末法の世相を明確に示された御文である。「聖人・賢人」とは、別していえば天台・伝教等の正法の持者であるが、総じては正しく仏法を持った、勝れた指導者である。
すでに、釈迦仏法はその力を失い、したがって、釈迦仏法を持った聖人・賢人といわれる人も、みな、かくれてしまった。
さらに、仏法の衰滅は、それを根底とした政治、経済、文化等の各分野にも、衰滅を惹き起こしていく。かくして、あらゆる分野において、旧来の思想、理念による旧来の指導者は、かくれていってしまうのである。
本来、指導者としての資格のある人が占めるべき地位は、互いに、謗り合い、権謀術数に明け暮れる、邪悪な人々によって奪われる。いわゆる王道は没し、覇道の世となり、戦国乱世を迎えるに至るのである。
又真実の経の御ことはりを代末になりて仏法あながちに・みだれば大聖人世に出ずべしと見へて候
大聖人とは、前に「聖人・賢人」といわれたのに対し、それよりはるかに偉大な力であることを示されている。すなわち、釈迦仏法の正義が没し、いわゆる闘諍堅固、白法隠没の時代となったとき、苦悩のどん底にあえぐ一切衆生を救うため、偉大なる仏法の指導者が出現される。これが末法の御本仏である。
「真実の経の御ことはり」といわれているのは、法華経神力品の末法弘通の付嘱の儀式をさすのである。その儀式で地涌の菩薩として付嘱を受けられた日蓮大聖人が、末法の御本仏として出現されることは、明々白々だからである。
なおこの文のあとに「喩へば松のしもの後に木の王と見へ」云々、と譬を説き「代のおさまれるには賢人見えず代の乱れたるにこそ聖人愚人は顕れ候へ」と申されているのは、釈迦仏法がことごとく衰えてしまったあとに、ただ、末法の正法たる日蓮大聖人の大仏法のみが栄えていくさまを示されているのである。
濁乱の世には、たとえ、正しい心をもっていても、既成の理念、既存の権威による指導者は、奸智にたけた邪悪な人々に押しのけられて、姿を消していく。こうして邪悪な指導者のもとにあって、民衆は塗炭の苦しみを味わうことになる。
これを救うものは、ただ過去の理念、思想よりもはるかに高い哲学、時代に相応した力ある理念による、新しい指導者以外にない。これは、そうした時代の転換、歴史の発展法則を示された御文と拝することもできよう。この御文は、全く現代の社会を映し出しているといえよう。
またこの御文は、人生、社会における深い指針でもある。
個人の人生にあっては、苦難にあったときが、大きく生長し、人間形成をなしていくチャンスである。社会にあっては、みんなが苦しんでいるとき、行き詰ったとき、真剣に人々の幸福と、その社会の発展のために立ち上がっていく人が、真実の人材であり、指導者であるといえよう。
ともあれ、末法の御本仏日蓮大聖人を大導師と仰ぎ、いかなるときも妙法を根本に、広宣流布を目指すことが肝要である。
第二章 還著於本人の現証を示す
人王八十一代の安徳天皇という大王は、天台の座主・明雲らの真言師たち数百人に命じて、源右大将頼朝を調伏する祈祷をあせたところ、還著於本人の経文のとおり、祈った明雲自身が木曾義仲に首を斬られ、安徳天皇は壇浦の戦いにおいて西海に沈まれました。 |
講義
承久の乱を例に挙げられ還著於本人の原理を示されるとともに、末法の仏たる日蓮大聖人およびその門下を迫害している日本国の人々が、いかなる大罰を未来に受けるかを厳然と断定されている。
亡国の大悪法たる真言に祈ることによって、源平の代には安徳天皇が、承久の乱のときには後鳥羽、土御門、順徳そして仲恭の四人の天皇・上皇が、あるいは死に、あるいは流罪になり、あるいは廃位の憂き目にあわれたのである。「今生には国と身とをほろぼし後生には無間地獄に堕ち給いぬ」とは、まことに厳しい教えである。
だが、仏法の原理は、いわば宇宙の法理であり、身分の上下、学問の有無、力の強弱には関係なくあらわれてくるものである。誰びとも、仏法に違背して無事でいられるということは、あり得ない。「国と身をほろぼした」ということは、厳然たる事実である。「無間地獄に堕ち」ということは仏法の道理である。大聖人は仏眼をもってこれを看破し、後世の戒めとして、大慈悲をもって示されたのである。
たしかに無間地獄に堕ちたかどうかは、凡夫の眼をもってしては、見ることができない。だが、仏法には、正法を誹謗し、あるいは正法誹謗の邪法を信ずるならば、今世には身を滅ぼし無間地獄は疑いないと説かれている。今世に国を滅ぼした事実を知るならば、死後、無間地獄に堕ちているということも、間違いない事実と確信するのは道理ではなかろうか
兵衛志殿女房御返事(銅器供養抄) 建治三年十一月 五十六歳御作 於身延
銅の御器を二ついただきました。釈尊が三十歳で仏の悟りを開こうとしておられたときに、牛飼いであることから牧牛女といわれていた女人が、乳の粥を煮て仏に供養しようとしたところ、それを入れてさしあげるべき器がなかった。時に毘沙門天王等の四天王が四つの鉢を仏にさしあげられたのです。牧牛女はその鉢を重ねて、なかに粥を入れて供養したところ、牧牛女釈尊は仏にあられました。 |
講義
釈尊が十九歳で出家して求道の旅にでたとき、最初は婆羅門の師について、その学理と禅定を修めた。しかし、波羅門哲学は真実の悟りの法ではないことを知り、自力で悟りの道を開拓しようとした。そのとき、まず釈尊が行ったのは難行苦行であった。すなわち、伽耶城付近の林において、日に一食あるいは二日ないし七日に一食しか食べず、思惟に努めたのである。この修行は六年間に及び、阿若キョウ陳如等の五人の待者もこれに加わった。しかし、苦行は肉体を激しく消耗し、かろうじて露命をつないでいるだけという状態となっていったのである。心の平穏を保つどころか、身心ともに苦労するばかりであった。そこで、釈尊が得た結論は壮健な身心であってこそ解脱が得られるということであった。
ここに至って釈尊は六年間の修行を決然として捨て去り、尼連禅河に入って身を浄め、牧牛女のささげた乳の粥を飲んで、身心のさわやかになるのをおぼえた。これを見た待者たちは、釈尊が堕落したものと思い、釈尊のもとから去っていったのである。しかし、やがて釈尊は魔を降して悟りを成ずることができた。
苦しみの根源は煩悩や肉体にあると考え、従って人生の苦悩を解決するには、肉体をいためつけ、煩悩を押し殺さなければならないというのが、当時の修行に対する考えであった。ところが釈尊が戒律を破って乳を飲み、苦行によることなく成道し得たということは、このような一般的風潮に真っ向から対立するものであった。
煩悩を断尽するところに菩提があるという考え方は、小乗教のなかにも残っているが、それは方便の教えであるということは、実に釈尊の修行自体が物語っているのである。にもかかわらず、欲望を抑えつけ、他人にできないような苦行をやることが仏道修行であるという風潮は、いまだに続いている。断食を何十日とやった者が聖者と思われたり、山岳にこもって修行した者が位を貰ったりということが今も行われている。
これは日本に限ったことではなく、西洋においても、古代ではストア哲学などが禁欲主義をとなえ、欲望を離れることによって幸福が得られるとした。またキリスト教の修道生活なども欲望を離れることによって神の国へ近づきうるという思想によるものであったといえよう。また、中国でも、神仙思想などは、世俗的欲望を軽蔑した極端な例であろう。かくして洋の東西を問わず、霞を食って生きているような人間が偉く、汗水たらして働く人間が低級であるといった奇妙な風潮が長く支配してきたのである。 煩悩とは人間の欲望である。煩悩を抑えるとうことは、欲望という人間の本然的な活動を抑制することである。それはすなわち生命活動を縮小することを意味しひいては生命全体を否定することにつながる。
われわれの身近な生活においても睡眠や食物を断てば、当然元気が衰える。そのような弱々しい生命力でなにかを考え、なにかを行ってもうまくいくわけがない。さらに幸福になりたという欲望、学業に立派な成績を残したい、企業を発展させたい等々の欲望を否定するならば、目的を失った無気力な存在に陥るだけであろう。むしろ、煩悩を燃やして活動し、それを成就していうことが自然な生き方である。
確かに、煩悩には次元の低い煩悩もあれば、高次元の煩悩もある。たんなる享楽的な人生観でよいというのではない。利己的な欲望やその場かぎりの刹那的な欲望だけでもようというものでもない。しかし、それは煩悩それ自体を否定するという生き方ではなく、よりよき方向へ煩悩を導いていくことを目指すべきである。
歪んだ欲望に支配されることは生命自体の歪みを示すものであり、むしろその偏頗な生命を変革すべきである。そこに人間形成の哲理が必要であり、妙法の原理が必要である。低い煩悩から一生成仏や世界平和を願う大煩悩の転換は妙法によって可能であり、妙法を根底にした人生が、いっさいの煩悩を菩提に変え、人間性の自由な発見が即自己の幸福、そして世界平和への建設につながる人生となるのである
兵衛志殿御返事 弘安元年 五十七歳御作 於身延
六月廿六日 日 蓮 花 押 兵衛志殿御返事 |
講義
本抄は日蓮大聖人が下痢で病まれ、四条金吾の薬で治されたことを述べていられる。
日蓮大聖人の仏法は、合理性を持った宗教であって医学を否定するものでは決してない。されば、釈尊の大信者には耆婆が、また大聖人の御弟子には四条金吾がいたのである。だが、医学は、あくまでも生命力回復の補助手段である。今日、医学はあたかも万能であるかのごとく信じている人は実に多い。しかし、少しでも医学の現状を知るならば、医学が万能でないことは、明確に理解せきよう。健康な体力は健全な生命力によって保たれるのである。この生命力が弱まったり、不調和になったとき、病気は起こるのである、直接の他縁は、外部から与えられた状況の急変や、悪質な細菌の働きによることは事実である。だが根本の原因をたどっていくと、結局、生命力の減退にある。
たとえば、細菌が体内に入ったからといって、必ず病気になるとは限らない。もし、そうであるなら、われわれは年じゅう病気をしていなければならないはずである。また同じ条件でありながら、病気をする人もあれば、元気で生活していける人もいる。それは、その人の生命力の違いによるのである。それゆえ、根本の治療法は、病気の軽重を問わず、内からの生命力を引き出すことである。それは医学の力ではなく、自然の治癒力、生命力の回復にほかならないのである。この生命力の根源回復は、三大秘法の大御本尊を信ずることにあるといいたい。
兵衛志殿御返事(厳冬深山御書) 弘安元年十一月 五十七歳御作 於身延
第一章 御供養の志を称える
銭六貫文、そのうち一貫文は次郎殿のぶんとして、また白厚綿小袖一揃いをいただきました。 |
講義
兵衛志殿から御供養をいただいたことに対して、その真心な信心を眼出られると共に、御供養の精神を教えられたところである。この御手紙は、弘安元年11月、身延からのものである。11月の身延といえば、普段のとしでさえ、寒さが厳しいのに、この年は、後にも詳しく述べておられるように、例年になく、早くも大雪に見舞われ、厳しい寒さにおそわれている。その山中におられる大聖人のことを思って、兵衛志殿は白厚綿の小袖をお届けしたのであろう。この真心を大聖人は心から称えられたのである。
御供養は、どこまでも信心のほどばしりから差し上げるものである。御供養の大小、金額の多少は問題ではない。頻婆娑羅王の五百輌の食糧、阿育大王の沙金よりも、兵衛志殿が真心こめて届けてくれた厚綿の小袖の方が、どれほどすばらしい御供養であるか知れない、とほめられたのである。
第二章 身延の厳冬の様子を述ぶ
そのうえ、今年はいつもの年と異なる事情があります。冬はいつの冬も寒く、夏はいつの夏も暑いことは決まっています。しかし、今年は、他国はどうかは知りませんが、この身延の波木井の地方は異常なほど寒いのです。この地に古くから住んでいる老人たちに聞いてみますと、80・90・100歳になる人たちも、みなこれほど寒いことは、かってなかったといっております。
庵室はまだ半分作りかけの状態で、風雪を防ぐこともせきず、敷物もあありません。水をとりに表に出る者もいないから、火も焚きません。古い垢のついた小袖一枚くらい着た者は、その肌の色が、厳寒のために紅蓮・大紅蓮のようです。 |
講義
身延山ひおける大聖人の御生活が、いかに大変なものであったかを、この章から拝察することができる。
文永11年(1274)5月17日、日興上人の御案内で身延に入られた大聖人は、まず庵室を作られた。庵室とってもわずかに三間(5m)四方の茅葺屋根の小屋であった。そのうえ、「坊ははんさくにてかぜゆきたまらず」とあるごとく、坊は、中途までで、まだ出来上がっていなかった。
当時天変地夭が盛んに起こり、とくに建治年間から弘安の初期にかけては、気候が不順で、大雪、大雨にたびたび見舞われ、身延山中における大聖人の生活は、言語に絶する厳しいものであった。
「ただなる時だにも・するがと・かいとのさかひは山たかく河ふかく・石おほくみちせばし、いわうや・たうじは・あめはしのをたてて三月におよび・かわはまさりて九十日、やまくづれ・みちふさがり・人もかよはず・かつてもたえて・いのちかうにて候」(1548-18)
「今年は正月より日日に雨ふり・ことに七月より大雨ひまなし、このところは山中なる上・南は波木井河・北は早河・東は富士河.西は深山なれば長雨・大雨・時時日日につづく間.山さけて谷をうづみ・石ながれて道をふせぐ・河たけくして船わたらず」(1551-04)
これらは本抄と同じ、弘安元年7月ならびに9月にお認めの御書の一節である。この年は、正月から大雨が降り続き、さらに、本文でもみられるように、11月に早くも寒波に見舞われ、大雪が降ったため、人里から身延山の路はたたれてしまい、訪れる人もなく、衣服の貯えとてない。山中でのご生活は極度の困窮に陥られたのである。衣食に事欠き、風雪の吹きつける住居 厳寒の冬を安穏に過ごせるはずはない。
「ふるきあかづきなんどして候こそで一なんど・きたるものは其身のいろ紅蓮大紅蓮のごとし」との一節は、当時の緊迫したご様子を映しだしてあまりある。
しかも、大聖人は長年にわたる弘教で、健康であったお身体も、身延入山後は衰え、御病気がちのご様子であった。
だが、このようななかで、大聖人は隠棲の身とはいえ、一刻として休むいとまなく、各地に門下の弟子を配して折伏弘教の指揮をとられ、弟子方の育成に励まれた。すなわち、上総方面には日向、下総には三位房・日頂・富木・曾谷・太田、相模には日朗・日昭等、そして駿河、甲斐には日興上人を大将とする南条・高橋・松野等々の教陣をはられていたのである。
さらに、身延入山後の大聖人は、著述の面においても激しい戦いを展開されている。すなわち、入山後の文永11年5月にはさっそく「法華取要抄」を認められて富木常忍に宛てて送られたのをはじめ、今日に伝わる御書400余通のうち半数以上が身延の9ヵ年にお書きになったものである。この大聖人の御述作のあとを辿るなら、そこには寸暇を惜しまれての振る舞いの跡がしのぶことができるのである。
とくに、日興上人を法将としての駿河・甲斐の弘教活動は、燎原の火のような勢いがあり、たまりかねた謗法の者はこれをとりおさえようと謀った。まず四十九院、実相寺、竜泉寺から迫害の火の手があがり、いわゆる熱原の法難へと発展する。この熱原の法難にさいしても、大聖人は身延山中にあって、人を遣わし、手紙を送られる等、全魂を傾けての指揮をとられたのである。
さらに日蓮聖人年譜に「身延蟄居の後御弟子衆の請いにより法華経の御講釈あり、日興度々聞き集め部帙をなして御義口伝と名づく、亦日興記と号するなり」と、山中にあって、法華経を講義された御様子が記されている。この講義はいつから始められたのかは明らかではないが、弘安元年正月には、日興上人が「御義口伝」として執筆されているところから、建治年間に講義をなされたものと思われる。なお、弘安2年の8月の曾谷殿御返事に「抑貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目其の数有りしかば今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候」(1065-06)とあるように、弘安年間にはいっても、講義が続けられていたことは明らかである。
これらのことから、身延における大聖人のご生活は、令法久住のために夜を日につぐ止暇断眠の日々であったことが拝察されるのである。
第三章 身延での御生活とその所感
そのうえ、衣服のみならず、あなたがた兄弟といい、右近尉からのことといい、食料も相ついで到着しました。この庵室は、人が少ないときでも40人、多いときには60人にもなる。いくら断っても、ここにいる人の兄といってきたり、舎弟といって尋ねてきては腰をおちつけるので、気がねして何ともいえずにおります。 |
講義
すで第二章まででくわしく述べてきたが身延の庵室がいかに山中奥深くあったとはいえ、多くの人が訪れて、活気にみちあふれていたかを、本抄で知ることができる。
「人はなき時は四十人ある時は六十人」との一節は、狭い庵室が、大聖人を中心としてゆれ動いていた様子が如実に物語っている。
文中「としあけ候わば・いでくへもにげんと存じ候ぞ」等とあるのも、本来ならば、世間の人と同じように、静かに余生を送りたいというのが、人間の心情であろうが、それができない大聖人の立場がにじみ出ている。令法久住のために、弟子を養成する責任、末法万年尽未来際にわたって一切の人々を救わなければならない責任、大聖人の肩にかかるものは、あまりにも重く、あまりにも大きい。
大聖人の身延での御生活は、決して、世間でいような人里離れた隠居生活ではなく、最後の一瞬まで広宣流布をめざしての戦いの連続であったことを知るめきである。大聖人の門下たる者、生涯、この姿を手本として、広布に邁進していかなければならない。
孝子御書 弘安二年二月 五十八歳御作 於身延
あなたと大夫志殿のことは、世は末法に入って、しかも生を辺土日本にうけて、法華の大法すなわち大御本尊を信心されたのであるから、悪鬼が必ず国主と父母等の身に入り代わって、あなたがた兄弟に怨をなすことは疑いないところだったが、案に相違することなく、御神父よりたびたびの御勘当を蒙ったけれども、兄弟ともに妙荘厳王を仏法に帰依させた浄蔵・浄眼の後身か、はたまた薬王菩薩・薬上菩薩の御計らいのゆえであろうか、ついに無事に御神父の御勘気もゆるされて、以前に尽くしていたように御孝養心にまかせて、御神父につくすことができたのは、真実の孝子ではないか。定めし、諸天も喜びを与え、御本尊もその志を納受されるであろう。 その上、あなたの事については、心の内に深く感じ思うことがある。この法門すなわち三大秘法が法華経に予言されているがごとく弘まっていくならば、あなたにお悦びを申すせあろう。あなかしこ、あなかしこ。 あなたがた兄弟の仲は、決して不和であってはならない。兄大夫殿への手紙にくわしく書いておいたから、よくよく聞きなさい。恐恐謹言。 弘安二年二月二十一日 日 蓮 花 押 |
講義
本抄は、長年、信心に反対してきた父康光を、兄弟が力を合わせて入信させたことを心から喜ばれ、二人の兄弟を、真実の孝子であるとほめたたえられた御書である。
信仰のゆえに、我が子を二度まで勘当した。頑迷な父親も、結局は入信にふみきったのである。大聖人の慈悲あふれる御指導の数々、兄弟の、父親を思う真心と団結は、固く閉ざされた心の扉をひらいたのである。
こうしたことは、今日においても全く同じである。父親というものは、とかく、古い世界のなかに生きてきた自分の感覚で子供を規制し、そのなかで偉くしようとするものである。しかし、時代はつねに変化し、子供は親の経験した世界を脱皮し、新しい世界に呼吸しているのである。そのために、世代間の断絶は、親子の衝突のなかによくあらわれるのである。いわんや、日蓮大聖人の仏法は最高に革新のほうであり、旧来の宗教のなかに安住していた人々が、これに反するのは当然である。しかし、いつまでも人の心は同じではない。頑迷な心も、いつか春の陽光を浴びて、氷解していくのである。それは一家においても、社会においても同様である。
康光の入信は、一つの事実である。しかし、たんなる一つの事実ではない。現代においても、数多くの康光が入信している。のみならず、社会という「康光」も、いまや大きく変わりつつあることを知るのである。必ずや700年前の一つの事実は本末究竟して等しく、現代においても、不滅の原理として展開されていることを確信したい。
孝養の現代的意義
いわゆる孝というのは、人倫の大きな徳目として讃えられてきたのである。そこでいう孝とは、子の親に対する恭順を意味しており、特にこれを徳目として強調したのは、中国の孔子であった。孔子の「孝」についての思想は「孝経」という書に示されており、原典となっている。とくに、漢の時代に儒教が国教になってからは孝はますます重んじられ、遂に諸道徳の根本を成すものとしての地位を得るようになった。
しかも、それは単に観念や道徳的規範にとどまることなく、広く、社会生活を律する徳義として、中国人の物の考え方、生活に大きな影響を与えてきたのである。わが国でも、中国からの儒教が伝来し、武家の生活、庶民の風習に溶け込むにつれて、孝養ということが重視され、いわゆる偉人、立志伝中の人物の伝記倫などには、必ずといってよいほど親孝行のエピソードが加えられるまでになっている。
こうした子供の親に対する孝養の概念とは、家族が縦の関係によって構成する、家中心の大家族制度に支えられて、典型的な形で養われてきたのである。すなわち、家父長権の強い大家族のなかでは、親子の関係が尊卑の関係として捉えられ、子供は親の権威のもとに従属すべきものであり、親に従うことは当然の義務であるという考え方が支配的であった。また、それが家父長制を支える大事な柱でもあった。
これは、たんに中国や日本だけに限られた問題ではない。ヨーロッパでも、古くは父権がきわめて強く、子供は常に親を敬うべきであるとされ、親の許しが出るまでは床にひざまずいて非を詫びるということが当然の態度であったといえよう。
このような封建体制の維持に利用されてきた過去の姿をふりかえってもると、孝行というものが、子の人権を無視した、いかにも時代に固有な考え方のように思えるかもしれない。
しかしながら、親孝行の概念は、決して封建体制自体に特有な現象なものではなく、本来、深く人間性に根ざしたものである。それは封建時代には、歪められた形で利用されたが、むしろ民主主義の時代に、最もうるわしい人間関係として発揮されるものではなかろうか。封建時代においては、親孝行という人間性を体制維持の手段として用いたのである。人間性は、それ自体目的であり、手段としてはならないものである。
もともと、親が子を愛し、子供が親に対して心配をかけないよう努力し真心こめて接するのは人倫の当然のことである。それが時代の推移とともに、旧時代の観念とされるよいなった原因はどこにあるのだろうか。
それは、子供を親の所有物とし、親孝行を子供の義務として強制するという形式的な“道徳”または“修身”に対する反発であったといえまいか。個人の尊重を第一義とする民主主義の思想的基盤が定着するにつれて、子供が親のために犠牲とされることに強い批判が起こり、子供といっても、一個の人格であり、自らの責任ある判断と行動で、独立自尊の道を選んでいくことが当然のことになってきた。そして、これは、大家族制が崩壊し、都市への人口集中、核家族化によって、ますます顕著になってきたのである。
もはや押しつけの道徳観の奨励は、旧時代の遺物であり、むしろそれこそが、親孝行を空疎にしてしまう元凶であるといわねばなるまい。時代は進展していくものである。親が古き考えのみにとらわれていては、新しい世代に生きる子供との間に断絶が起こり、子供から尊敬を得ることはできない。親の頑迷さそれ自体が、孝養の道義を空虚なものにし、子供に“孝”を軽蔑させてしまうのである。親も、子供に尊敬されるに値する人間たるべく努力しなければならない。新しい時代には新しい親子の関係が築かれなくてはならない。しかもそれは、冷たい、権利、義務といった考え方ではなく、親と子が互いの信頼と愛情をもとに理解し合い、尊重し合うなかでの、人間性の発露としての親孝行でなければならない。
たとえば巷間「教育ママ」なる存在がよく話題にのぼる。学校というより、試験の点数におだわり、子供の能力、適性を無視して、過分な期待をかけ、それがかえって子供を追いつめる結果になって、問題にされることが多い。そこでは、子供の自主性を伸ばしていくことよりは、そして親の望みが中心になっている。子供はその手段であり、親は自分のできなかった希望を果たすため、子供を勉強に駆り立て、そして、ひいては立身出世コースに無理矢理のせているのである。親は全てそれを「子供のため」と思っているにちがいない。しかし、それは実の子供ではなく、かえって子供の個性を圧し殺し、歪め、苦しんでいる場合がある。
このような親のもとで、子供にとって最大の親孝行といえば、親の期待するような成績を収め、親のいうことに対して従順に行動していくこと以外になくなってしまう。それが、どのように子供の生活を灰色にし、人格をゆがめているかを考えるべきである。子供は、全てを、与えられたものとして受けとめるだけで、ただ受け身の生活態度におちいっていく。個性の強い子供の場合は、こうした枠にはめられていることに反抗し、いわゆる非行化していくことも少なくない。したがって親孝行といっても、単に親を喜ばせる行動でありさえすればよい。子供が親の望んだ行為を取ればよいという考えは、決して正しくはないし、むしろ色々な意味であつれきを生じることにもなろう。
親孝行は親と子という、いわば私的な関係にありながらも、なお社会という公的な場を無視しては、究明できるものではない。それは、泥棒である親が盗みを働く際に、子供が甲斐甲斐しく手伝うからといって、その子供を孝行者であるとほめ讃えるべきでないし、親をよろこばせたいあまり罪を犯してもよいという理論が成り立たないことでも、容易に納得されよう。親孝行を信じてやったことであっても、社会的正義に反する行動であっては、かえって不幸である。要は親孝行が狭い視野のもとにとどまることなく、社会的な広がりのあるものでなくてはならないのである。
この点は、家庭と社会との関係が、より重要になった現代においては、特に注目され、強調されなければならない。というのは、かえって大家族制のもとでは、家は、それ自体が社会であり、社会生活の大きな部分を占めていた。それに比べ、近代では、マスコミの発達、交通機関の進歩、社会構造の拡大・多様化が急速に進み、いわゆる家庭から外に出た社会生活の部面が圧倒的に比重を増してきている。それだけ家庭での生活もまた、これまでにない意味を持つようになってきていえるともいえる。
現代社会の巨大な組織体のなかでは、人間は一つの部品となることすら要求される。複雑に織りなす人間関係、膨大な情報の渦中で、始終緊張していかなければならない。それでいて無味乾燥な人間的連帯の絆、こうした病弊がつのればつのるほど、憩いの場であり、明日への再生産の場であり、お互いが、心おきなく接触し、人間的成長を図れる、いわば人間生活のベース・キャンプともいうべき家庭のもつ意味が大きくクローズアップされてくる。
ここに、家庭での人間関係を正常に保ち、社会に進出する飛躍台を盤石に築きあげることが必要となる。すなわち、家庭内でお互いが信じ合えず、傷つけ合ったり、利害にからんでの押しつけや、それによって犠牲を強いられるようなことがあっては決してならないのである。特に子供にとって、家庭は人格形成のために、学校教育以前の、また学校教育を並行する、大事な教育の場である。それだけに、親は孝行という名のもとに、一定の行動や、養育に対する見返りを無視した要求をしたりすることがあってはならない。親子の互いの信頼関係の中から、自然の形であらわれる子供の親に対する思いやりが、真の親孝行といえよう。
こうした観点から、親孝行をあらためて考えなおしてみると、そこには、積極的な意味と意義があることに気づくはずである。
しょせん、孝養は、親が子をいつくしみ、子が親を敬うという温かい人間性を基盤として、共々に幸福な家庭生活を実現し、平和な社会を築いていくことを目的としたものでなければならない親と子は向き合った関係、すなわち閉ざされた関係であるべきではない。ともに啓発し合い、励まし合い、想像していく、開かれた人間関係でなくてはならない。建設を離れた孝養は、それ自体、無意味であるといっても過言ではない。親も子も、ともに最高の人生観をもち、さらには社会に向かって、力強く働きかけていく姿のなかにこそ、いかなるものによっても壊れない強固な人間関係が生み出されるのである。そのなかに、孝養の真の意義があるとはいえないだろうか。ここに仏法で説く孝養が、真に建設的な、また価値を想像するものであると主張するゆえんがある。仏法の孝養こそ、真正面からこの問題を説いているからである。
仏法で説く孝養
さて、仏法では上中下品の孝養を説いている。
十王讃歎抄にいわく「孝養に三種あり、衣食を施すを下品とし、父母の意に違わざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」と。
すなわち、親に物を与えるのが下品の孝養であり、親のいう通りにするのが中品の孝養であり、自ら仏道修行で得た功徳を親に転じるのが最高の孝養であるとの意である。
親の、辛労をいとわぬ教育と庇護によって成長した子が、今度は老後の父母の面倒を見る。衣食等、物質的に困らないようにしてあげる。これも報恩であり、尊いことである。しかし、物を与える孝養は、物で孝養を買っているにすぎない。報恩への何の一念もない義理の孝養かもしれないのである。これはまだまだ低い段階である。しかし、それさえも、現今においてはいかに少なくなっていることか。
中品の孝養には精神があり、真心がある。下品のそれに比べて、はるかに尊いことはいうまでもない。
しかし、この孝養は、その行為においては強烈な純粋さをもつが、また、これほど危険なものもないといえる。それは、いっさいの親の人格に依存するからである。卑近な例でいえば、親が悪人なら、その言に違わないのは悪の行為である。悪人の親に経済的な援助をする下品の親孝行の悪よりも、さらに悪い行為となることは明らかである。そこまでいかなくても、親の理想を出るものでないことはいなめない。儒教で説く孝、フィヒテ等の西洋哲学でゆう孝も、この下品。中品の孝養を出ないのである。
上品の孝養は、前二者と全く次元を異にするものであり、これこそ仏法の孝養の究極である。下品・中品のそれは、一貫して子が親に従っている。しかし上品の孝養は、子が偉大な生命観に立って、親を導くものである。功徳を回向するとは、大聖人の仏法をもって、最高の仏法哲理を知った子が、親に仏法を教え、永遠の幸福感に立脚させていくことである。その意味において、子は親を出ているのである。下品、中品の孝養においては、その思想・人生観が親のそれに包こまれている。親の世界に閉じ込められた姿である。その意味で、子は愚子である。上品の孝養においては、子は最高の仏法哲理を知り、それをもって、親を導こうとするものである。親が誤っている場合には、その迷妄を開き、絶対の幸福の境地に住せしめていく これこそ最高の孝養ではなかろうか。
「一切は・をやに随うべきにてこそ候へども・仏になる道は随わぬが孝養の本にて候か」(1085-07)と教えられたが、「一切は・をやに随うべき」は中品の孝養であり「仏になる道は随わぬ」が上品の孝養である。兄弟はこの上品の孝養を最後まで貫いた、途中には親子の情愛にほだされそうになったこともあるであろう。弟の宗長には、親の意見に従えば、家の跡を継げるという誘惑も働いたにちがいない。しかし、最後まで二人はそうした誘惑にも負けることなく仏法を持ち続け親を入信させたのである。大聖人の「兄弟ともに浄蔵・浄眼の後身か」との激励こそ、二人が最高の人であるという御断定であるといえよう。
現在も、親に信心への理会がなくて悩んでいる人は多くいよう。しかし、大御本尊を持っている自分以外に家庭に幸いをもたらす人はいないことに気づかなければならない。親を信仰させる以外に、親子ともども最高の人生を歩むことはできない。上品の孝養をすることはできないのである。ゆえに、厳然と一人立ち、上品の孝養を貫くべきである。
それは、親に反対せよということでは決してない。妙法の偉大さを、我が身の生命のうえに顕現させることである。自己の境涯を開いていけば、親は命で感じ取っていくのである。そして、子の決意が、やがては親をも納得させ、永遠に崩れぬ、理想の家庭を築くであろう。これこそ無上の孝養を実現した姿である。そのとき、孝養は、現代の冷たい機械文明のなかで、まさに春風のごとき暖かさをもって、人生を、日々の生活を潤し、幸福に満ちみちた世界を現出せしめていくに違いない。
両人御中御書 弘安二年 五十八歳御作 於身延
大国阿闍梨日朗、右衛門大夫志宗仲殿等に申し上げる。 |
講義
本抄は大聖人の弟子であった大進阿闍梨が死去し、その坊が空家になったので、日朗等に対して早く日昭の坊と合併して広くするように仰せになったお手紙である。 この御抄の背景はよくわからないが、御文から大進阿闍梨が池上氏の請いによって、その地に坊を建立していたと思われる。
大進阿闍梨は大聖人門下の長老であり、日蓮大聖人の佐渡流罪中は鎌倉方面の信徒の指導激励にあたり、日昭とよく連絡を保っていたと思われる。その後、自分の坊を、日昭に託すという譲状をしたためていたようである。
日蓮大聖人は、故人の譲状によって、日朗等に、早く日昭の坊と合併して、それを広布の牙城にすべき旨を指導されている。御文に「諸人の御ために御たから」と仰せられていることからも、それほど、僧坊を大事に阿闍梨されていたかがわかる。また、こうすることが、死亡した大進阿闍梨を救うことにもなると考えられたのでは阿闍梨なかろうか。
さらに「ふゆはせうもうしげし、もしやけなばそむと申し人もわらいなん」との仰せに、建て物の焼けることの多い冬をひかえての、細かい心づかいを拝するとともに、建て物一つにも、世間の心を敏感にとらえた、戦いがあることを教えられていると知るのである。
右衛門太夫殿御返事(斯人行世間事) 弘安二年十二月 五十八歳御作 於身延
そもそも久しくお便りを承らなかったところにお手紙がまいりました。そのうえに青い裏のついた小袖一つ・帽子一つ・帯一すじ・銭一貫文・栗一籠等種々の御供養もたしかに受けとりました。 |
講義
本抄は短い御書でるが、極めて重要な法門を示されている。池上兄弟のうちでも、弟の兵衛志宗長のほうは信心が弱く、退転するのではないかと大聖人もしんぱいされ、激励される御書が多い。
だが、兄の右衛門大夫宗仲のほうは信心が強盛であった。大聖人が御入滅になり、ご葬送のときにも、四条金吾と宗仲が幡をもって、お供をしている。したがって、弟の兵衛志に比べて賜わった御書の数は少ないが、重要な法門を示された御書を賜わっている。本抄もその一つで、大聖人が上行菩薩の再誕であることをはっきりと示されている。
当今は末法の始の五百年に当りて候
法華経薬王品にいわく「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃茶等に、其の便りを得せしむること無けん」と。この「後の五百歳」が本抄にある「末法の始の五百年」である。
天台大師が法華文句で「後の五百歳遠く妙道に沾わん」といい、妙楽大師はこれをうけて「しかるに五五百、且く一往に従う、末法の初め冥利なきにあらず、且く大乗の流布すべき時に拠る、ゆえに五百という」といったのも、末法の始めの五百年に妙法が流布することを指している。伝教大師も守護章に「正像稍過ぎおわって末法太だ近きにあり」と。また末法灯明記に自分の時代を「像法最末の時なり」といっており、仏滅後二千年過ぎて末法に入ることを述べて、末法を恋い慕っている。
末法という時代について
釈尊滅後、最初の千年が正法時代であり、次の千年が像法時代である。像とは“似る”また“かたち”ということであり、この時代には釈迦仏法が形骸化することを示している。
そして二千年が終わると末法に入るのである。ここでは釈迦仏法は完全に力を失い、闘諍が盛んに起こるのである。これは大集経で予言されていることであり、現実に日本では武士の台頭、僧兵の出現等があった。保元・平治の乱をはじめとする戦乱、富士山の噴火(1082)地震や干ばつ等の天変地夭・飢饉・伝染病が相次いで起きたのである。
これらの苦しみのなかで、当時の人々が「末の世」という考え方をいだしたのも当然かもしれない。人々のなかには、危機を感じ、念仏等の教えを信じて厭世思想にとりつかれた者も多かったのである。貴族なども、専制的支配体系の崩壊をどうすることもできず、武士の跳梁に、特に「末法」を感じていたようである。当時の貴族の日記などには、仏法、王法の乱れを嘆く文が多い。念仏宗がはびこった結果、自殺者も多く出、末世感をいよいよ高めていったのである。
だが、仏法の本義に立ってみると、末法とは「釈迦仏法の末の世」を指しており、さらに、大聖人の仏法より観ずれば、末法は全然、別の意義を持つのである。
すなわち、末法は釈尊の仏法が隠没し、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法の仏法が出現し、流布する時代なのである。その故に、法華経の会座で地涌の菩薩の出現があり、神力・嘱累両品での付嘱がある。もし、末法に仏法の力が全然無力となり、いっさいが終わりになってしまうのであるならば、神力・嘱累両品での付嘱が行われるわけがないし、地涌の菩薩が出現するわけもなかったであろう。釈尊は地涌の菩薩に付嘱をするために、迹化の菩薩を押しとどめて地涌の菩薩を呼び出したのである。もし、地涌の菩薩の出現がないならは、虚空会の儀式は全く意味はなくなるし、したがって、法華経説法の意義もなくなってしまう。釈尊は法華経を説いて出世の本懐を遂げたのであるから、法華経の意義がなくなれば釈尊の出世の意義もなくなってしまうのである。すなわち、釈尊の出世も法華経の説法も、全て末法を望んでいるのであり、地涌の菩薩に末法を託すことによって、その義が成就されるのである。
報恩抄にいわく「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(0329-03)と。この御文のごとく、三大秘法が末法に弘まることは明らかである。
したがって、末法とは恐れおののくべき時代でもなければ、忌み嫌う時代でもない。大聖人の仏法が、燦然と光り輝く時代なのである。
天台大師や伝教大師が末法を恋慕したことはすでに述べたが、大聖人も末法について、顕仏未来記には「予一たびは歎いて云く仏滅後既に二千二百二十余年を隔つ 何なる罪業に依つて仏の在世に生れず正法の四依・像法の中の天台・伝教等にも値わざるやと、亦一たびは喜んで云く何なる幸あつて後五百歳に生れて此の真文を拝見することぞや、在世も無益なり前四味の人は未だ法華経を聞かず正像も又由し無し南三北七並びに華厳真言等の学者は法華経を信ぜず、天台大師云く「後の五百歳遠く妙道に沾おわん」等云云 広宣流布の時を指すか、伝教大師云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り」等云云末法の始を願楽するの言なり、時代を以て果報を論ずれば竜樹・天親に超過し天台・伝教にも勝るるなり」(0505-)と。末法に生まれる果報を述べられている。
ゆえに、末法到来の現証として恐れられた天変地夭等も、大聖人の眼には、謗法のゆえであると同時に、大法が興隆する瑞相と映じたのである。顕仏未来記に「去ぬる正嘉年中より今年に至るまで或は大地震・或は大天変・宛かも仏陀の生滅の時の如し、当に知るべし仏の如き聖人生れたまわんか、大虚に亘つて大彗星出づ誰の王臣を以て之に対せん、当瑞大地を傾動して三たび振裂す何れの聖賢を以て之に課せん、当に知るべし通途世間の吉凶の大瑞には非ざるべし惟れ偏に此の大法興廃の大瑞なり」(0508-15)と。われわれは新池御書に「うれしきかな末法流布に生れあへる我等」(1439-01)とあるがごとく、末法値遇の喜びをもって、妙法流布に邁進すべきである。
かかる時刻に上行菩薩・御出現あつて南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切衆生にさづけ給うべきよし経文分明なり
「かかる時刻」とは末法の始めである。南無妙法蓮華経の五字は、釈迦仏法ではなく、末法に弘まるべき大法であることを示している。「日本国」とは一往の義であり、薬王品や勧発品等に「閻浮提」とあるごとく、全世界を含むことは明らかである。
したがってこの御文は、末法に上行菩薩が出現して、三大秘法を、日本をはじめとする全世界に授けられるとの意であり、そのことが分明に説かれている経文とは、神力品第21の、上行等の地涌の菩薩の結要付嘱等の文なのである。
流罪死罪に行わるべきよし明かなり
法華経勧持品の「数数見擯出」「及加刀杖」等の文である。流罪については、弘長元年五月の伊豆伊東への流罪、文永八年九月の竜の口法難に続く佐渡流罪によて「数数」の二字を身で読まれている。死罪は竜の口の法難である。
勧持品には、末法に正法を弘める上行等の地涌の菩薩が三類の強敵にあい、流罪等にあうことが予言されているが、この釈尊の予言を事実のうえに読まれたのは大聖人お一人であり、その前後には絶えてない。天台・伝教等が法華経を持ったといっても、そのために受けた難というのは、せいぜい「拙いかな智公」といわれたぐらいのものである。とても難を受けたとはいえない。ところが大聖人は予言の、それこそ一字一句を身で読まれている。経文をねじ曲げたものでもなければ事実を歪曲したものでもない。しかも、大聖人以後、法華経のために、それだけの難を受けた人もまた皆無である。されば、大聖人お一人があってこそ、釈尊の予言はよみがえり、それゆえに、釈尊のいっさいの教え、なかんずく出世の本懐である法華経が光り輝いてくるのである。
大聖人は諸御抄で、自分は到底上行再誕の器ではないとか、智解は天台等に及ばないというような表現をされ、謙遜されているが、必ずあとで経文等を出されて、事実のうえで、御自分の振舞いが上行菩薩の振舞いに、寸分も違っていないことを、大確信をもって、示されている。
仏法は証拠であり、事実によって証明されていくものである。いくら口でうまいことをいっても、事実の裏付けがなければ虚言にすぎない。厳然たる実銭、実証のうえに立つ言論こそ、最後には、いっさいを動かしていくことができるものである。われわれも大聖人と同じく、あらゆる難に負けずに折伏を貫いてこそ、初めて事実のうえで、大聖人の末弟たる資格をもつものであることを銘記したい。
大夫志殿御返事(付法蔵列記) 弘安三年 五十九歳御作 於身延
第一章 天台の位と仏の使いを示す
小袖一つ、直垂の袴の上下腰三具等たしかに受けとりました。小袖は金子七貫文、直垂と袴の三具は十貫文であるから、以上合わせて十七貫目に相当するものです。 |
講義
本抄では仏の使いがだれかを論じられ、天台大師によせて説かれている。
仏の使いについて、まず天台が仏の使いであると述べられたあと、付法蔵の24人の名をあげて検討されている。これらの人々は、たしかに、仏の予言通りに出現して時にかなった法を弘め、衆生を救ったのであった。しかし、これらの人々は正法の前500年においては小乗教、後500年においては権大乗教を弘めたのであって、法華経を弘めてはいない。竜樹なども一念三千の法門がすばらしいおとは知っていたが、それを外に向かって説くことはなかった。したがって、この付法蔵の24人は法華経の使いとはいえない。
法華経法師品第13にいわく「若し善男子、善女人、我が滅度の後、能く密かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として、如来の事を行ずるなり」と。すなわち、法華経を説く人が仏の使いであるとの意である。しからは、付法蔵の24人は仏の使いとはいいがたい。法華経を宣揚した天台が仏の使いであるということができよう。
それでは、仏の使いとして天台大師が果たしたものはなにか。それは、法華経が唯一最高の哲理であることを顕掦し、もって末法御本仏日蓮大聖人御出現の準備をしたのである。
日蓮大聖人もまた、御自身を仏の使いと断言されている。御義口伝上には「法華の行者は如来の使に来れり、如来とは釈迦.如来事とは南無妙法蓮華経なり.如来とは十界三千の衆生の事なり今日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは真実の御使なり」(0763-第三如来所遣行如来事の事)と。だが日蓮大聖人を仏の使いといっても、再往、この仏とは、久遠元初の自受用如来のことである。日蓮大聖人を、久遠元初の自受用身の再誕として、末法の民衆を救済されることが、仏の使いの真意である。この文に「如来事とは南無妙法蓮華経」また「如来とは十界三千の衆生の事」と如来とは十界三千の衆生の事あることをもって、如来とは、色相荘厳の釈迦仏ではないと知るべきである。
しかして、われらは、末法の御本仏日蓮大聖人の使いである。およそ使いとは、仏の法、仏の遺命そのまま果たすのが使いである。仏の法とは、大御本尊であり、仏の遺命とは、広宣流布のことである。
されば、われらは、全人類の幸福をもたらす、地涌の使者であり、この死者をば、どんなにか全民衆は渇仰していたことであろう。破壊と殺戮の魔の使者が横行するなかに、真実の仏の使者として戦うわれらの責務に奮い立つべきであると思う。
現在の四信・滅後の五品
天台が五品の位に居しているというのは、どういうことであろうか。法華経分別功徳品第17には、仏の在世及び滅後において、法華経を修行する者の功徳を校量するのに、四段階の信心状態と五種の品に分けている。これが四信五品である。四信は釈尊在世の行者の位であり、五品は滅後の行者の修行の位である。ここでは現在の四信・滅後の五品とはどういう、またわれわれにおいてはなにが肝要かを考えてみたい。
現在の四信とは、①一念信解②略解言趣③広為他説④深信観成の四つである。
①一念信解とは、法華経で釈尊が発迹顕本し、五百塵点劫の昔から三身常住の仏であることを明かしたいのを聞いて、ただ一念に信解する瞬間の働きをいう。
②略解言趣とは、一念の信心が進んで、教えの内容をほぼ理解するのをいう。
③広為他説とは、教えの内容がわかったことにより、心に歓喜を生じて、広く他のために説くことをいう。
④深信観成とは、深く信心が透徹して、仏と同じ境涯をえていくようになることである。
次に五品とは①初隨喜品②読誦品③説法品④兼行六度品⑤正行六度品である。
①初隨喜品とは法を聞いて隨喜の心を起こすことである。
②読誦品とは経典を読誦すること。
③説法品とは他人に向かって法を説くことである。
④兼行六度品とは自他共の六度の修行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を心がけること。
⑤正行六度修行とは、まさしく、この六度の修行を行ずることである。
すなわち天台は法を聞いて隨喜し、読誦し、説法し、六度を行ずるよう心がけ、六度を行じたのであって、このゆえに仏の使いであるというのである。
さて、日蓮大聖人はこの現在の四信・滅後の五品について、次のように説かれている。
四信五品抄にいわく「分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの大要・在世・滅後の亀鏡なり。ケイ谿の云く「一念信解とは即ち是れ本門立行の首なり」と云云、 其の中に現在の四信の初の一念信解と滅後の五品の第一の初随喜と此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋・十方三世の諸仏の出る門なり」(0338-08)と。また御義口伝下にいわく「分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの大要・在世・滅後の亀鏡なり。ケイ谿の云く「一念信解とは即ち是れ本門立行の首なり」と云云、其の中に現在の四信の初の一念信解と滅後の五品の第一の初随喜と此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋・十方三世の諸仏の出る門なり此の事理の顕本を一念に信解するなり、一念とは無作本有の一念なり、此くの如く信解する人の功徳は限量有る事有る可からざるなり、信の処に解あり解の処に信あり然りと雖も信を以て成仏を決定するなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり」(0760-第一其有衆生聞仏寿命長遠如是乃至能生一念信解所得功徳無有限量の事)と。すなわち天台仏法においては、一念信解から略解言趣、さらには広為他説、深信観成と登り、滅後の五品についても初隨喜から読誦、説法、そして兼行六度、正行六度と段階を踏んでいくわけだが、大聖人の仏法においては、これらの段階を踏む必要はないのである。すなわち、四信のなかの最初の一念信解、五品の最初である初隨喜が大切であると説かれているのである。
これらの一念信解、初隨喜品が他に比べ重要であるからとか、最初の出発だから重要だというのではない。一念信解のなかに、すでに正行六度にまでいたる五品が摂入されていることを示されている。
日寬上人の三重秘伝抄に「三惑を断ずるを名づけて成仏と為す」とあるように、成仏とは三惑を断ずることである。この三惑のなかで最も大きな、最後の惑は中道障無明の惑である。この無明惑について、円教では四十二品を立てるが、そのうちの最後を元品の無明という。これを断破するのは信の一字であり、妙法に値遇した隨喜の一念なのである。したがって、他の三信、四品の修行を改めて立てることは、全く必要ないのであり、一念信解、初隨喜品にいっさいを含むと説いているのが大聖人の仏法である。
すなわち、大聖人が一念信解、初隨喜品を末法の衆生に教えられたのは、信心の要諦を明かされるためであったといえよう。
今ここで、四信五品を大聖人の仏法を信ずる者の立場にあてはめて考えてみよう。
まず一念信解とは御本尊を、ただ一念に直ちに信じ奉ることである。略解言趣とは、大聖人の仏法を学び、その偉大さをほぼ知ることにあたるといえよう。広為他説とは折伏である。そして深信観成とは御本尊への絶対の確信であると共に、御本尊即大聖人と観じ、わが身のなかに、その仏界の生命を湧現していくことであるとうえる。しかして、これらは御本尊を信ずる一念より発することは明らかであろう。
また五品についていえば、初隨喜品とは御本尊をおあいして歓喜することである。読誦品とは御本尊に向かって勤行・唱題すること、説法品とは折伏、兼行六度品および正行六度品とは、まさしくこれらを行じ、立派な人格を備えている姿ともいえよう。もちろんここにおいても、これらの段階を経ることなく、生命の奥底においては、初隨喜の瞬間にすべて含まれているのである。
四品五品抄にいわく「檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり」(0340-09)と。ただ御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることこそ、末法の仏道修行の要諦であり、これ以外の修行を求める必要もなければ、また、ありえないのである。
最後に一念信解と初隨喜品の関係について考えてみよう。
御本尊を信ずることは、一点の疑いもさしはさまないことである。隨喜とは表面的に隨喜の姿を見ることはできない。
御本尊の偉大さに歓喜することは、御本尊を信ずる故である。御本尊を信ぜずして歓喜の生命は起こり得ない。御本尊を信ずることによって、師子王のごとき偉大な生命力が湧現する。これが隨喜であり、すなわち信のなかに隨喜を含むのである。すなわち、隨喜とは信心であり、信とは隨喜である。
かように考えれば、一念信解といい、初隨喜品といい、二にして二にあらず、全く等しいことがわかる。われわれの仏道修行においても、この信、そして隨喜の心を瞬時も忘れてはならない。
此の二十四人は金口の記する所の付法蔵経に載す、但し小乗・権大乗経の御使なりいまだ法華経の御使にはあらず
付法蔵の24人は釈尊の付嘱をうけて正法時代に出現し、小乗・権大乗を弘めた人々である。大集経によれば、正法の前半は解脱堅固であり、後半は禅定堅固である。解脱堅固の時には小乗、禅定堅固の時には権大乗が衆生の機根にかなった教えであり、付法蔵の24人は、時にかなった教えを弘通したのである。
仏の使いは、必ずその付嘱の法を弘通する。もし付嘱をうけていなければ、法を弘むことができないのである。たとえば迦葉、阿難は大乗を弘めなかった理由を曾谷入道殿許御書には「一には自身堪えざるが故に二には所被の機無きが故に三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来らざるが故なり」(1028-16)と、仏から付嘱のない場合は、たとえ正法を知っていても弘めないことが明らかにされている。竜樹、天親が法華経を弘めなかったのも、天台・伝教が下種仏法を弘めなかったのも同じ理由だからである。
さて付法蔵24人は真実の仏の使いではないと仰せになっている。されはなぜだろいか。
それは真実の仏の使いとは、法華経を弘通する人でなければならない故である。釈尊の出世の本懐はなにか。それは法華経を説くことにあった。爾前の教えは、法華真実の教えを説くための権の教えだったのである。その故に、法華経を弘めなければ、仏の真実の使いではないのである。
付法蔵24人が小乗あるいは大乗をひろめて、当時の衆生を救ったといっても、教行証御書等によれば、在世法華経に縁をむすびながら、機根が熟していないために、正法時代に生まれてきて、小乗や権大乗を持って法華経の教えを悟って得道していったのである。あくまでも正法は法華経にあるのである。
したがて、付法蔵の24人は、一往、釈尊が付嘱をうけて法を弘めた人達ではあるが、再往からいえば法華経の使いではない故に、本抄の論議では、はずしておられるのでる。
第二章 仏の使いに供養する福徳を説く
日蓮がこれを勘えてみるに、このうち三論、法相、真言等の人々は全く仏の使いではない。また大乗・小乗の使いでもない。このような人々を供養すれば、かえって災いを招き、逆にこれを謗ずれば福を得るのである。 |
日蓮之を勘えて云く全く仏の使に非ず全く大小乗の使にも非ず、之を供養せば災を招き之を謗ぜば福を至さん
三論・法相・華厳、そして真言等が、それぞれ自宗の開祖達が「仏の使い」であるなど宣伝しているのに対して、厳しく破折されたところである。彼らは一往、権大乗を弘めているかににえる。しかし、仏に敵対し法華経をさげずむ彼等は仏の使いどころか大小乗の使いでもない。その本性は魔の使いである。ゆえに故に「之を供養せば災を招き」と仰せになっているのである。
「之を謗ぜば福を至さん」とあるのは、邪義を破折することが正法を護ることであり、絶対の功徳があるとの道理を示されたものである。涅槃経にいわく「若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駆遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」と。謗法の者に対しては、その罪を指摘し、責め、追い払ってこそ、真の仏弟子であるとの意であり、彼らを謗ずることが、すなわち「福を至さん」行為になるとの仰せである。
この大聖人の教え、仏法の根本精神は永久に忘れてはならない。いかなる時代が来ようとも、仏法を破壊する動きに対しては戦いを挑まねばならぬ。非難・中傷、不当なる国家権力による干渉・弾圧、そして、ひそかに内部から組織を乱そうとする動きも看板もなくしてはならない。それが即、民衆に幸福をもたらす源泉であり、また、法をして久住せしめる根源である。
三千大千世界について
文中、天台大師への供養の功徳を示すにあたって、三千大千世界という宇宙観を示され、四百万億那由佗の三千大千世界の衆生を80年間養うよりも、比較にならないほど功徳が大きいことを示されている。ここで三千大千世界という宇宙観について考えてみたい。仏法では、須弥山を中心に日月を配し、人間が住んでいる世界を一つの単位とし、これが百億集まったものを一小千世界という。一小千世界が千集まったものを中千世界、中千世界が千集まったものを大千世界、または三千大千世界という。一四天下、または一世界は、現代でいえば一つの恒星系と考えれば、一つの三千大千世界には10兆の恒星系があることになる。
現代の天文学では、次のようなことが明らかになっている。一つの恒星系とは太陽やアルファ・ケンタウリなどの恒星、そのまわりを回る惑星、衛星を含むものである。この太陽系などの恒星が千億個二千億個ほど集まって構成しているのが島宇宙といわれるもので、われわれの太陽系のある銀河系宇宙やアンドロメダ大星雲などがこれにあたる。そしてこの島宇宙が観測可能な範囲においても数千億個あるといわれているのである。実に壮大な宇宙である。
ここで仏法における宇宙観と、現代天文学のそれとが極めて似かよっていることに気づくであろう。本抄でも、三千大千世界が四百万億那由佗以上あることが説かれている。法華経寿量品に説かれている宇宙観はさらに広大であり「五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を抹して微塵となして」と説いているのは、そのような宇宙観を前提としていると考えられまいか。数値そのものは違っても、考え方、すなわち恒星系から島宇宙、島宇宙から大宇宙という展開と、小世界から小千世界、小千世界から中千世界、中千世界から大千世界、あるいは三千大千世界へ、という展開の図式は全く同じである。この「累乗」的な把握は現代天文学の発想と似かよっている。科学による実証などなにもない三千年の昔に、このような大胆な、しかも極めて的確な宇宙観が展開されていたことは、実に驚嘆すべき事実といわねばならない。古代の同じころの他の諸民族では、たとえばカルデア人は宇宙は釣り鐘のような形をしていて、昼は太陽、夜は星が光ると考え、エジプト人は天が世界を覆い、天井から星がつるされていると信じていた。ギリシァ人ですら、その宇宙観は円盤である大地を囲んでいる大河に星がちりばめられているといったものであった。これに比べ合わせると、いかに仏教に示されている古代インド人の宇宙観がすぐれていたかがわかろう。
受持の意義
さらに本抄では四百万億那由佗の三千大千世界のなかの衆生を80年間養い、法華経よりほかの経を読誦させて阿羅漢、辟支仏・等覚の菩薩とする人と、法華経の一字一句を持つ人との功徳を比較するなら、法華経を持つ人が百千万億倍、大きいことを示され、天台は第五品の位に居する故に、天台を供養する人はその五倍の功徳があると仰せになっている。
受持とは受領憶持の義で、正法をよく信じ持って、どんなことがあっても退転しないということである。代智度論には「信力の故に受け、念力の故に持つ」とある。受持・読・誦・解脱・書写の五種の妙行も受持の一行のなかに含まれるのであり、これを総体の受持という。これに対し、五種の妙行のなかの一つである受持を別体の受持という。
さて、末法のわれらにおいては、妙法を受持することが、信心修行の究極であることを「観心本尊抄」で次のように示されている。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)釈尊が仏になるために修行した因位の万行、そして得た果位の万徳、これらは全て五字七字の南無妙法蓮華経に含まれているのであり、妙法を受持することによって、そのまま、かの釈尊の因果の万徳を我が身に備えることができるとの意である。
南無妙法蓮華経は宇宙のいっさいの法則の本源であり、宇宙のリズムそれ自体ともいえる。したがって、この妙法を受持するということは、そのままわが身が宇宙のリズムに合致するということを意味するといえる。故に、わが一念は大宇宙に遍満して、我即宇宙、宇宙即我の大なる当体と顕われることができるのである。
受持とは、文字通り受け持つことである。生命それ自体は、様々なものを受け入れ、それを持続させてく働きを持っている。誰しも何らかのものを受持して生活している。しかも、その受持したものが、生命の奥深く定着していけばいくほど、その人間の行動と人格がにじみ出てくるのである。
例えば、子供にとって、母親は受持の対境である。しかして、その母体の生命は、子供の人間形成にとって、甚大な影響がある。
されば、何を受持するかが大事である。魔の生命の波動を強く受け、それを持続していけば、魔に支配された生命を形成していく。その生命は、さらに外に働きかけ、周囲の人々を不幸におとしいれていくのである。
いま、受持即観心の受持とは、妙法を生命それ自体に受けていくことである。大御本尊という偉大な正境に向かうとき、自身の生命のなかにも、妙法が顕われてくる。その対境に強く縁するほど、妙法は、その人自身の本性を形成していく。そしてそれは、その人格に、生活に、強く、はっきりとにじみ出てくるのである。
しかして、受とは信である。信ずることによって対境の生命の力、福徳、智慧をうけることができる。またそれを持続させていく力は、その人自身の、決意であり、常に念うて忘れぬ、汝自身の戦いである。「信力の故に受け、念力のゆえに持つ」とは、このことである。
よく人は、信念が大切であることを強調する。この信念というのは、もよもと仏法用語である。しかし、ほとんどの場合、何を信じ、何を念ずるかは少しも明確でない。信ずるに足るものを知らないがゆえである。真実最高の信念とは、妙法受持の信念であり、この信念こそ、人生を、最も力強く、清浄な、光輝に満ちたものとすることができるのである。
なお、本抄は一貫して、天台大師の徳を賞揚されているがゆえに、あたかも、天台その人を賛嘆されているように拝せられる。一応は、三論、法相、華厳、真言等の邪師に対して、仏法の正統である天台を宣揚されたものといえる。
だがその奥底のお心は、ではなぜ天台がすぐれているかといえば、それは、伝教の釈にもあるように「法華経を説き法華経を釈す」がゆえであり、また「法華経の御使」なるがゆえである。すなわち「妙法なるが故に人貴し」の原理に立って申されているわけである。
このことは、本抄の元意が、決して天台個人を賛嘆することにあたるのではなく、法華経を受持し、法華経を弘めることを宣揚することにあると拝すべきである。
兵衛志殿御返事 弘安四年六月 六十歳御作 於身延
六月十八日 日 蓮 花 押 兵衛志殿御返事 |
講義
青鳧五貫文について
弟子檀那が真心から御供養した品々のなかに銭がある。本抄の「青鳧五貫文」もそれである。銭を「鵞目」「鵞眼」「鳥目」などと御書の中に書かれているのは、当時の銭が、みな穴あき銭で、形が鵞目に似ていた故に、こう呼ばれたのである。「青鳧」とは、銅銭の一種であろう。では銭五貫文はどれくらいの価値があったのか。当時は、まだ小判や金・銀貨はなく、それも天徳二年(0958)の乾元大宝を最後に、わが国では鋳造されず、中国から渡ってきた宋銭が主な通貨として流通していたようである。 一貫文は銭千枚、五貫文当時の記録では一貫文で米150㎏買えたとされる。
さて、当時は、まだ全国的にこうした銭による貨幣経済がいきわたっていたわけでなく、地方ではまだ物々交換が主で、布、絹、馬などが金銭のかわりに使われていた。たまたま、地方の豪族などが、土地産物を、京や鎌倉からきた商人に売って銭に替えることはあったが、それは銭を珍重して集めることが多かったといわれる。また問い問い丸(荘園の年貢や物資の管理・中継業務に従事した商人)や市場があったのは、京、鎌倉の他はわずかに宿場がだけだったから、人々は品物を自由に売買することなく、ほとんどが自給自足であった。
だが、文永・弘安の役以後においては、国内の通過流通が著しく促進させる結果となった。その大きな要因は、蒙古襲来に備えて、全国的に人と物資とが動員されたが、そのためには銭がなんといっても持ち運びに便利であったからである。九州の太宰府から鎌倉に往来するのにも銭がもっとも効果を上げたのである。こうした結果、年貢も旧来の現物納から代銭納へと移った例もあったほどであった。このことは弟子檀那の大聖人の御供養が、遠方より身延へ訪れる者は、銭かあるいは軽い品物の供養が多く、近在に住む者は、日常の食料等を多くお持ちしたことからもうかがわれる。
大聖人は、御門下の御供養を分け隔てなく大層喜ばれ、弟子の方々が折伏へ各地へ赴いたときの旅費や、令法久住のため身延で弟子を育成されるための費用にあてられたのである。
当時の社会が、あいつぐ飢饉・疫病・大地震等によって、いかに苦悩のどん底にあったかを考えてみても、ご門下の人達の生活もまた、決して楽ではなかったことは容易に察しがつく。しかも、信仰を理由に、さまざまな弾圧と迫害の渦中にあって、一家を守ること自体、大変な苦労であった。
それでも、なおかつ、ひたすら大聖人の御身を案じ、護法のため、真心の御供養を申し上げている当時の信徒の姿は、実に偉大なことといわなければならない。
大夫志殿御返事 弘安四年十二月 六十歳御作 於身延
清酒一筒、味噌一桶、生和布一籠をいただきました。清酒と味噌はさておいて、生若布はこのたびはじめていただきました。 |
講義
弘安四年(1281)12月11日の御述作である本抄は、供養によせた大夫志宗仲の信心をたたえられている。
このころ、大聖人は内臓疾患のゆえであろうと推察されるが、食事もあまり進まず、下痢も起こされるという状態であられた。このことを聞いた宗仲が即刻、御供養を申し上げたのである。清酒・みそ・生ワカメなど、いずれも大聖人のお体を考えての御供養であり、なかでも生ワカメは初めてだと大聖人も喜ばれているが、山奥におられる大聖人に生ワカメは貴重な御供養だったであろう。ヨード、カルシウムなどの栄養を含んで消化もよく、当時は貴重なものだった。「不日に此の物して御使をもって脚力につかわされて候」とあるように、大聖人の御病状をきくやいなや、すぐさまにこれだけのものを御供養した宗仲の信心の深さがしのばれる。
心ざし大海より深く善根は大地より厚し
心ざしとは普通、志、好意等の意があるが、ここでは供養をした好意をほめられているというよりも、信心を指しておられると拝すべきである。宗仲の信心は大海よりも深く、その善根は大地よりも厚いとの仰せである。総じて大聖人がお手紙のなかで「心ざし」といわれているのは、四条金吾殿御返事にも「日蓮をたすけんと志す人人・少少ありといへども或は心ざしうすし・或は心ざしは・あつけれども身がうごせず・やうやうにをはするに御辺は其の一分なり・心ざし人にすぐれて」(1149-13)とあるように、信心を指されていることが多い。本抄の場合も、一往は真心からの御供養のことであろうが、再往は信心をほめられているのである。
結論からいえば、信心から発するいっさいの活動が善根となるのである。一生成仏抄にいわく「仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」(0383-14)と。
すなわち勤行・唱題し、シキミをそなえ、香をたくことにいたるまで、いっさいが善根となって自分の一念におさまると仰せにあっている。したがって、大聖人に信心の真心から御供養したとき、その善根がいかに厚いかは、いうまでもない。
たとえ、いかなる活動といえども、広宣流布をめざしての活動であるならば、決して無駄はないし、徒労に帰すことはない。たとえ、縁の下の力持ちのような目立たない役目でも、その志が信心から発しているならば、桧舞台で活躍する人と、大御本尊の功徳がみじんも変わるものではない。大御本尊の前では、その人の善根は光リ輝くものとなるのである。逆に、たとえ形式だけ修行しているような人であれば、厳しくいえばその人は善根を積んでいるとはいえない。要は奥底の一念がどこにあるかなのである。
さらに根本的にいうならば、善根とは題目であるといえる。御義口伝下にいわく「不種善根とは善根は題目なり不種とは未だ持たざる者なり」(0754-第五若仏久住於世薄徳之人不種善根貧窮下賎貪著五欲入於憶想妄見網中の事)と。しかして、唱題、折伏に励む人が、末法今時の最高の善根を積んでいる人なのである。
八幡宮造営事 弘安四年五月 六十歳御作 於身延
第一章 病苦を忍んで認む
この法門を、弘通しはじめてすでに29年になります。日々の論議折伏、月々に受けた難、それのみか伊豆、佐渡と両度の流罪で、身も疲れ、こころもいたんだ故でありましょうか。この七、八年の間、年毎に衰え病気がちになってきましたが、大事にはいたりませんでした。ところが、今年の正月より体が衰弱してきて、すでに一生も終わりになったように思われます。そのうえ、年齢もすでに60に満ちました。たとえ十のうち一つ今年は生きながらえても、あと一・二年どうして過ごすことができましようか。「忠言は耳に逆らい、良薬は口に苦い」とは、昔の賢人の言葉である。病身のものは、自からの生命を嫌う。人の諫めを用いないといわれています。 |
講義
本抄は弘安4年5月のご述作で、御入滅の一年半前にあたる。弘安2年10月12日、一閻浮提総与の大御本尊を御図顕になり、出世の本懐を遂げられた大聖人は、このころにはかなり重い病気にかかっておられた。その中で弟子を指導され、偉大な凡夫そのままのお姿を示されたことが、本抄をはじめ諸御抄にみられる。
大聖人の御病気は諸御抄から拝すると、下痢などを起こされているから、内臓の疾患があられたと想像される。弘安元年の中務左衛門尉殿御返事に「日蓮下痢去年十二月卅日事起り今年六月三日四日日日に度をまし月月に倍増す定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来日日月月に減じて今百分の一となれり」(1179-11)とあり、弘安4年の本抄や上野殿母御前御返事に「八年が間やせやまい」(1583-03)とある。また建治3年の阿仏房御返事に「正月より今月六月一日に至り連連此の病息むこと無し」(1317-02)とあるところなどから拝すると、建治のころからたびたび病気になられ、建治三年の末からひどくなられたが、四条金吾の治療によって、一時、小康をたもたれ、弘安四年にいたって、また発病されたようである。
本抄に「たとひ十に一・今年はすぎ候とも一二をばいかでか・すぎ候べき」とあるように、翌弘安5年10月13日、大聖人は入滅になるが、そうしたご病気のなかでも、本抄のように懇切丁寧な指導をなされているのである。大聖人の弟子を思われる慈悲が、そくそくとして胸を打つ御抄である。
第二章 八幡宮造営の件について教示する
さて、八幡宮の御造営の事については、必ず、あなた方を讒奏する者があるであろうと心配しておりました。あなたがたの親といい、あなたがたじしんといい、親子二代にわたって主君につかえられていることであり、あくまでも、御恩を受けている身であります。
日本国の4,589,659人の一切衆生が、釈迦・多宝・十方世界の分身の諸仏や、地涌の菩薩や、娑婆世界と他方世界の諸菩薩や、十方世界の梵天・帝釈・日天・月天・四天王に捨てられてしまうほどのことであるならば、どうしてわずかな日本国の小神たる天照大神や八幡大菩薩の力が及ぶことがありましょうか。 |
講義
池上兄弟の父である池上左衛門大夫康光は鎌倉幕府の作事奉行をしていた。作事奉行というのは造営、修膳、土木などの工事を監督する職名で、康光が弘安2年に亡くなってからは、宗仲、宗長兄弟がその任に当たっていた。弘安3年10月28日と11月14日の二度にわたって、鶴岡八幡宮が炎上したので、その復旧工事が行われることになり、兄弟が担当することになっていたが、讒言によって役目からはずされてしまったのである。それを不満に思う兄弟に対して懇切丁寧に指導をされている。指導の骨子は、最初に世間のことによせて、何事につけても、一旦は、辞退すべきことであるから、そうなったのはむしろ喜ぶべきだといわれている。そして仏法上においては、八幡宮の炎上は、日本国が謗法の罪によって諸天善神に捨てられた姿であるから、根本の謗法を改めずに造営しても意味がないこと、また蒙古が攻めてきたときに、世間の人達が、大聖人の弟子である池上兄弟が建てたから諸天善神が用いず、難をうけるのだと非難するに違いない。天がそれを知って、造営をはずされたのだから、むしろ喜ぶべきだといわれているのである。
神天上の法門
仏法が乱れ、正法が衰えて、諸天善神が法味に飢えて守護の本土を見捨て、天界の本地へ去ってしまう。そのあと、神社・仏閣には悪鬼魔神が乱入し、その故に災難が起こるというのが神天上の法門である。このことは、大聖人が立正安国論で述べられている。「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。」(0017-12)
このことはどのようなことを意味しているのだろうか。法華経安楽行品第十四には「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。すなわち、神とは正法を持つ者を守護する働きこれ自体をいうのである。しかして、精霊・霊魂のような、非科学的な擬人化されたものでなければ、観念的なものでもない。われわれの生命に備わった働きをいうのである。治大小権実違目にいわく「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997-07)と。一念三千の生命のなかに諸天善神も第六天の魔王等の悪鬼も備わっているのである。
正法に背き、悪法に帰すということは、広くいえば、宇宙のリズムに逆らうことである。一国謗法とは、したがって一国全体が妙法を中心とした宇宙のリズムに逆らうことである。そのような時は生命の中に備わっている諸天善神の生命は湧現するはずがない。これ「善神は国を捨てて相去り」等の意である。さらに、不幸をもたらす働きのみが湧現することになる。これは「魔来り鬼来り」のことといえよう。宇宙のリズムに逆らう故に災難が起こるのは、けだし当然といえよう。したがって、神天上の法門といえども、仏法の道理を示していることが明らかである。
大聖人はこの神天上の法門によって、三災七難のうち、まだ起こっていない一災二難、すなわち兵革災、自界叛逆難、他国侵逼難が起こることを予言されたのである。自界叛逆難は文永9年、北条時輔の反乱によって事実となり、他国侵逼難は、文永11年10月の元寇、さらに本抄にも「他国よりせめ来る大難は脱るべしとも見え候はぬ」とあるように、本抄御執筆の五日前、21日から再度元寇が起こって、事実となったのであった。
天照大神・八幡大菩薩について
天照大神はイザナギのみことの第一の御子で、日本民族の祖先神とされる。八幡大菩薩は八幡宮の祭神・応神天皇をいう。共に日本を守る神としてあがめられていきたが、仏法上においては、妙法を持つ者を守護する神をいうのである。
したがって天照大神を、一往は日本を守護する神のように説かれている御文もあるが、それも本抄のように、梵天・帝釈が全世界の民衆を守護していく神であるのに対して「はづかなる日本国の小神天照大神・八幡大菩薩」ろいわれている。
しかも再往は両神とも本地は釈尊である。日眼女造立釈迦仏供養事にいわく「天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり」(1187-05)と。また一代五字継図にいわく「天照大神天照神」(0690-11)と。
したがって、日本民族の祖先や応神天皇によせて天照大神・八幡大菩薩を論じられているが、全て本地は釈尊であって、正法を護持する者に対して、釈尊が垂迹の姿で善神となって現われ、守護するのである。故に、日本一国に留まるものでないことがわかるであろう。まして梵天・帝釈・日月・四天となれば一閻浮提の衆生を救うことが明らかである。
なお、これらの諸天善神は、あくまでも妙法を持つ者を守護するのが本来の姿であって、拝む対象では決してない。大聖人の仏法を持つわれわれが、諸天善神を拝めば主客転倒してしまうのである。すなわち、天照大神・八幡大菩薩と名前は同じであっても、一般にそれをうと、大聖人の仏法におけるおれたは、天地の差異ががあえうことを知ねばらない。
第三章 兄弟のとるべき態度を指南
その故は、去る文永11年4月12日に大風が吹いたが、これは、その年に他国より攻めてくるべき前兆であった。風はこれ天地の使いであり、国の政治が粗雑にならば、暴風が吹くというのはこのことです。また今年4月28日を迎えて大風が吹き荒れた。しかるに、4月26日は八幡宮の棟上げであったとうかがっている。3日の内に大風が吹いたことは疑いないことである。もし蒙古の使者であるかのようにいわれるあなたが、八幡宮を造って、この大風が吹いたのであったならば、世人は笑い、また必ずとやかく言ったであろう。
かえすがえすにも、今は穏やかな態度をして、造営の工事をはずされたことをあだんで、うらむような様子もなく、身なりも目だたないようにし、召使いなどもつれず、よい馬にも乗らないで、のこぎり、かなづちを手にもち腰につけて、常ににこやかな姿をしていきなさい。もし、この事を一事でもたがえられるならば、今年には身を亡ぼし、未来世には悪道に堕ちるでしょう。かえすがえすも申し上げておきますが、わずかのことで法華経をうらんではなりません。恐恐。 |
講義
去ぬる文永十一年四月十二日に大風ふきて其の年の他国よりおそひ来るべき前相なり
文永11年4月12日に吹き荒れた大風は、その年の10月に、蒙古軍が攻め寄せてきたことの前兆であると仰せられたのである。日蓮大聖人は立正安国論をもって、第一回の国主諫暁をされて以来、一貫して大聖人の言を用いなかったならば、必ず自界叛逆難と他国侵逼難がおこるであろうと予言されてきた。
文永8年9月の第二回国主諫暁の時も、平左衛門を相手に烈々たる気迫をもって、その非を責め、正法につかせようとされたのである。その後起こった文永11年4月の大風、同10月の蒙古の攻めは、いずれも、この第二回国主諫暁のときに、厳然と大聖人が予言されていたものである。
報恩抄にいわく「去ぬる文永八年九月十二日に平の左衛門並びに数百人に向て云く日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ等云云、此の経文に智人を国主等・若は悪僧等がざんげんにより若は諸人の悪口によつて失にあつるならば、にはかに・いくさをこり又大風吹き他国よりせめらるべし等云云、去ぬる文永九年二月のどしいくさ同じき十一年の四月の大風同じき十月に大蒙古の来りしは偏に日蓮が・ゆへにあらずや、いわうや前よりこれを・かんがへたり誰の人か疑うべき」(0321-10)
日蓮大聖人の御予言は全て的中かた。大聖人は、これらの現証をもって、南無妙法蓮華経が、末法唯一の正法であることを断定されたのである。大聖人の予言が、あまりにも見事に的中する姿を見て、世間の人々は、大聖人は蒙古の国に通じた者ではなかったと疑った。「蒙古の使者の貴辺」云云は、池上兄弟も、大聖人の門下であるがゆえに、同じく蒙古の使いではないのかとの、世間の人々の池上兄弟に対する気持ちを指摘されたのである。
兵衛志殿女房御返事
兵衛志殿女房より御供養の絹の片裏をいただきました。このお志は法華経の御宝前に申し上げておきました。 |
講義
本抄は兵衛志殿の女房に対して与えられたお手紙である。女房は子供がなかったので、世の中をはかなんでいたという。そのことを聞いた弟子が大聖人に申し上げた。それを聞かれて、子供がいないのは嘆かわしいことだけれども、だからといって世の中をはかなむようではいけないと仰せになっているのである。絹片裏の御供養に対する返事の際に、ちょつと、そのことにふれられているのである。
女性にとって子供のないことは寂しいことである。しかし、そのようなことで信心を失ってしまうことのないよう、大聖人がさりげなく指導されている。この短いお手紙の中にも、女性の気持ちをよく知り、細かい配慮をされている大聖人の慈悲が込められていることが拝せられよう。
兵衛志殿御返事(兄弟同心御書)
私がよむところの法華経も本門と迹門とが和合して、功徳を無料に顕わすのである。あなた方二人もまたこのように、兄弟二人が心を合わせて大御所・北条時宗の館・法華堂・八幡宮などを造営さられたなら、これは全く法華経の大功徳と確信しきっていきなさい。 |
講義
団結が大事であることを示された御書である。妙法の功徳を湧現していく源泉は、異体同心であり、互いに憎みあい、怨嫉しあっているところにはくどくがない。したがって、たとい、妻子同士が仲違いして憎しみあうようなことがあっても、兄弟二人は絶対に不和になってはいけないと戒められているのである。
では、その団結の絆はどこから生まれるのか、大聖人は、それを「日蓮をたいとしとおもひあわせ給へ」と、あくまでも、大聖人に対する信心であることを教えられている。
これは、池上兄弟の場合のみに限らない。いっさいの団結の原理といえよう。人は利己心にとらわれたときには、もはや団結できるものではない。また、互いに、感情的に相手をきずつけるために欠点を指摘しあうときには、反目の割れ目を、ますます深くするばかりであろう。
真実の団結は、共に一つの理想、一つの目的に向かって進むことによって初めて生まれるのである。それがすなわち“同志愛”である。大目的のもとに結ばれた人間関係は、共に前進に、成長していく姿であり、行きつまりがない。互いの欠陥や短所も、補い合い、助け合っていくための絆となっていく。この目的観を喪失したところに、醜い争いと反目が始まることをしるべきである。
とくに池上兄弟の場合、まわりは、すべて極楽寺良観などの息のかかった人々であり、すきあらば、つけこんで退転させようと狙っていたから、決して二人が仲違いするようなことがあってはならないと厳しく戒められているのである。
だが、これもまた、なにも池上兄弟のみの問題ではない。信心とは魔との闘争であり、信心のゆるみ、団結の絆がきれたときには、必ず、魔につけこまれ、身の破滅を招くことをしらねばならない。
我が法華経も本迹和合して利益を無量にあらはす
ここで申されている本迹和合とは、本門も迹門も、互いにその力を発揮して、その利益を測り知れないほど及ぼすとの意である。決して本門も迹文も同じということではないのである。
ここでは本迹一致派の唱える邪義を破折して、本迹の違いを明らかにしておきたい。
一致派では大聖人は一部八教二十八品を読誦されたといい、それは本迹一致の証拠だという。しかしこれは修行と法体を混同した邪見である。しかも、四信五品抄には「一経の読誦だも許さず」(0341-04)とあり、大聖人は一経読を許さなかったことは明らかである。このほか、転重法門の「日蓮・法華経一部よみて候」(1001-09)の文をあげて、大聖人が一経読誦をされたかのごとくいっているが、この御文の意味は身業読誦であって、口業読誦ではない。
また三世諸仏総勘文抄の「今は迹門を開して本門に摂めて一の妙法と成す」(0571-11)や、十法界事「本門顕れ已りぬれば迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に天月水月本有の法と成りて 本迹倶に三世常住と顕るるなり」(0432-11)の文を引いて本迹一致の証文としている。
しかし総勘文抄の御文は迹文に本門が会入されていることを示しており、むしろ、本迹勝劣を明らかに示しているのである。そして会入されたからといって本迹一致とはならない。体内の迹は、体内の本にはおよばないのである。十法界事の御文も本門が天月、迹門が水月であることを明かしているのであり、次下の御文にも「是くの如く法門を談ずるの時迹門・爾前は若し本門顕れずんば六道を出でず何ぞ九界を出でんや。」(0432-13)と本迹勝劣を申されているのである。
次に天台の玄義第七にある「本迹殊なりと雖も不思議一なり」の門について説明しておく。
この文は迹門と本門とは法門の内容においては天地の相違があるが、本門をもって迹門を開会してみれば、ともに妙理を説く故に一であろうということである。天台は本門の十妙を明かすなかで本迹を六義に立て分けて説いている。すなわち理事、理教、教行、体用、実権、今已の六義に約して本迹を論じ、結論として「本迹殊なりと雖も不思議一なり」と述べているのである。しかし、この「不思議一」という言葉は本迹一致ということを意味しているのではない。
例えば天月と水月が異なるといっても、しょせんは水月は天月に帰一することを示すのであって、天月と水月が同じであることを示すものではない。ゆえに妙楽も「本迹雖殊不思議一」の文について文句記で「本迹殊なりと雖も不思議一なり、一なりと雖も而も本迹宛然なり。故に居而二不二という」と。その違いがはっきりしていることを明言しているのである。
日蓮大聖人の仏法からみれば本因妙抄に「迹と云う名ありといえども有名無実・本無今有の迹門なり、実に不思議の妙法は唯寿量品に限る故に不思議一と釈するなり、迹門の妙法蓮華経の題号は本門に似ると雖も義理・天地を隔つ成仏亦水火の不同なり、久遠名字の妙法蓮華経の朽木書なる故を顕さんが為に一と釈するなり末学疑網を残すこと勿れ」(0874-14)とある。
さらに百六箇抄に「本迹殊なりと雖も不思議一云云、本因妙の外に並に迹とて別して之無し故に一と釈する者なり、真実の勝劣の手本の義なり云云」(0864-06)とあるように、大聖人の独一本門からみれば、釈尊の本迹ともに迹となり、独一本門の絶対妙の立場から開会すれば南無妙法蓮華経の一法に摂せられるゆえに、不思議一というのである。しょせん、釈尊の法華経は大御本尊の説明書であり、大御本尊と無関係な別個の法ではないのである。このように、不思議一とは本迹一致でなく、日蓮大聖人の仏法の偉大さを示した本迹勝劣の手本の義なのである。
このほか本迹一致派では「教相勝劣・観心一到」などともいっているが、これも教相すでに異なれば観心も異なることを知らない誤義である。本門と迹門は天地の相違があり、さらに大聖人の仏法と釈迦仏法の間にはそれ以上の相違があることは四重興廃、五重相対に明らかである。
治大小権実違目にいわく「法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり爾前と迹門とは相違ありといへども 相似の辺も有りぬべし、所説に八教あり爾前の円と迹門の円は相似せり爾前の仏と迹門の仏は劣応・勝応・報身・法身異れども始成の辺は同じきぞかし、今本門と迹門とは教主已に久始のかわりめ百歳のをきなと一歳の幼子のごとし、弟子又水火なり土の先後いうばかりなし、而るを本迹を混合すれば 水火を弁えざる者なり」(0996-07)と。本迹一致を唱える者こそ、水火をわきまえない、仏法に違背する者であることを知るべきである。
本門は事の一念三千、迹門は理の一念三千を明かしたものである。この両者が相まって法華経二十八品を構成し、釈尊在世の衆生を救い、滅後二千年の間、光り輝いたのであった。
今、末法に入って、日蓮大聖人の独一本門の仏法のみ、永遠に栄えゆくのであり、釈尊の本迹二門とも迹門となるのである。
しかし、大聖人は所破・借文のため方便品を読まれ、所破・所用のために寿量品を読まれ、これを助行とされ、正行の題目を助けられている。
また本門においても迹門たる法華経を用いて、いよいよ大聖人の仏法の偉大さを示されているのである。これ、大聖人の仏法からみた「本迹和合して利益を無量にあらはす」の姿といえよう。
鷸蚌の相扼も漁夫のをそれ有るべし
これは当時者同士が争っているあいだに、第三者に利益を横取りされて、共倒れになることを譬えた話で「鷸蚌の争い」として古来、よく使われる故事である。鷸とはキジ、またはカワセミのことで、小さな魚や貝類、または虫などを食べる鳥である。蚌はカラス貝、ドブ貝、ハマグリなどに相当する貝で浅瀬に生息する。中国の故事には次のような話がある。昔、趙の恵王が燕を攻めようとしていた。そのとき、臣の蘇代がいうのには「きょう、易水を通ったとき蚌が砂の上に出ていました。そこへ鷸が飛んできて、その肉をつついたのです。蚌も負けずに殻を閉じて、鷸のクチバシをはさみました。『二・三日、雨が降らなければおまえは死ぬだろう』と鷸がいうと『二・三日、このままでいれば、そっちこそ死ぬだろう』と蚌がいって、両者とも譲ろうとしなかったのですが、そこへ魚師がきて両方とも捕えてしまったのです」と。
すなわち趙が燕を攻めれば両者が争っている間に、スキに乗じた秦が“魚師の利”を得てしまう恐れがあるといって、恵王に燕攻撃を思いとどませたのである。
大聖人は、ここで池上宗仲・宗長の兄弟が仲良く団結していくべきことを教えるため、この譬えを引用されたのである。
魚夫とは本文のなかにも池上兄弟を「みわきかたきもたせ給いたる人人」と仰せのごとく、つね日頃から兄弟のことをよく思っていない周囲の人々のことである。もし二人が争うようなことがあったならば、それは全くそれらの人々の思うツボであるから、決して二人が仲違いをしてはならないことを教えられたのである。