【萬物相】蒋介石の日記
韓国の独立運動家、金九(キム・グ)=1876-1949=の足跡をつづった『白凡日誌』には、金九が上海にあった大韓民国臨時政府の主席として、中国国民党の蒋介石主席と初めて会談した場面の描写がある。金九が「日帝の侵略の魔の手について、筆談でお話したい」と述べると、蒋介石は「分かった」と答えた。そして、金九が「先生が多額の資金を割いてくだされば、日本、朝鮮、満州で暴動を起こし、侵略ルートを断とうと思うがどうか」と持ち掛けると、蒋介石は「詳細な計画書を示してほしい」と答えた。1932年8月のことだった。
蒋介石は資金援助の要請を受け入れなかった。代わりに長期的な独立戦争に備えさせるため、河南省洛陽市の軍官学校に韓国人向けの特別班を設置するのはどうかと提案した。金九は「願ったりかなったりだ」と答えた。国民党政権はそれまで臨時政府がいくら支援を要求しても耳を貸さなかった。ところが、32年4月29日に尹奉吉(ユン・ボンギル)が上海の虹口公園で爆弾を投げ、上海派遣軍の白川義則司令官らを爆死させたことで状況が変わった。蒋介石は「恥ずかしい思いだ。4億の中国人ができないことを、一人の韓国人がやり遂げた」と感嘆した。
蒋介石は、慣れない土地で、満足に食事も取れなかった臨時政府の要人に生活補助金を支給した。韓国の青年にはスパイ活動の訓練をさせ、対日作戦に参加させた。40年に光復軍が創設された際には、蒋介石夫人の宋美齢が10万元を寄付したという。
蒋介石は43年、カイロ会談でルーズベルト米大統領とチャーチル英首相を説得し、「日本が敗戦したら、韓国を独立させる」という宣言を引き出した。当時大韓民国は国際社会の承認を受けられず、誰もその将来を気に掛けてはいなかった。大国の間では、韓国を信託統治する案もあった。カイロ宣言は、第2次世界大戦後の韓国の運命を決める唯一の国際法的根拠となり、韓国を独立の道へと導いた。
イ・サンチョル琉球大教授は、蒋介石が1915年から72年までの57年間書き続けた日記から、韓国に関する部分を探し出して公開した。蒋介石は韓国が光復(植民地支配からの解放)を迎え、1945年11月4日には帰国する金九らのために送別会を開き、1億5000万フランと20万ドルの資金を手渡した。当時のことについて、蒋介石は「中国政府が貧しいとはいっても、韓国には手厚く接しないわけにはいかない」と書いた。韓国の現在を支えた多くの人々が今、忘れ去られようとしている。蒋介石もしかり、蒋介石を動かした先人の熱い独立の志もしかりだ。
金泰翼(キム・テイク)論説委員