「昭和天皇はひきょうな戦犯だ」(下)

 ハワイ真珠湾の空襲は、昭和天皇の作品と言っても過言ではない。昭和天皇は41年10月、強硬な対米戦争論者だった東条英機を首相に任命した。海戦に反対していた前首相の近衛文麿は後日、次のように述懐した。「わたしが総理大臣として陛下に開戦の不利さを申し上げると、それに賛成なさったが、翌日御前に出たところ、やや戦争の方に傾かれていた。その次には、さらに戦争論の側に傾かれていた。唯一の支えであった陛下がこのようにお出になったのでは、到底いかんともし得なかった」

 昭和天皇が終戦後、「君臨すれども統治せず」というイギリス式の立憲君主のように自らを装うことができたのは、東京に進駐した連合国軍総司令部(GHQ)マッカーサー将軍の占領政策とぴったりかみ合ったからだ。マッカーサー将軍は、「すべての日本人は天皇を信頼しているため、心理戦でその信頼を逆に利用しなければならない」と判断した。マッカーサー将軍はワシントンに、「天皇は日本人統合の象徴だ。天皇を起訴したら大きな混乱が起こるだろう。天皇を傷つければ、すぐに100万の軍隊が必要になり、その軍隊を無期限に維持しなければならない」と報告した。

 著者は、当時の文献や主な人物の日記や回顧録など、莫大(ばくだい)な資料を読みあさり、断固とした評価を下した。「昭和天皇は、日本帝国の膨張を主導し、2000万人近いアジア人、310万人を超える日本人、そして6万人を超える連合国の人々の命を奪った戦争へと国家を追いやった。昭和天皇は、多くの命を奪い去った侵略戦争を起こした罪を、一度も認めていない。昭和天皇は、近代の君主の中では最も素直ならざる人物の側に挙げられた」

 本書は、半藤一利の『昭和史』(ルビーボックス社)と比較してみるのも面白い。半藤一利は日本の良心的な知識人で、日帝の侵略戦争を強く批判しながらも、天皇は戦争の状況についてきちんと報告を受けておらず、受動的に引きずられた-とみている。事実に対する評価がこうも明瞭(めいりょう)に異なるのは、日帝が敗戦したとき、戦争関連の主な文献をすべて廃棄したことも、その理由の一つだ。昭和天皇は、11歳のときから日記を書いていたといわれている。ところが『裕仁日記』は、宮内庁に非公開のまま所蔵されており、一度も公開されたことはない。944ページ、3万5000ウォン(約2550円)。

李漢洙(イ・ハンス)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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