「昭和天皇はひきょうな戦犯だ」(上)

【新刊】ハーバート・ビックス著、オ・ヒョンスク訳『若き日の天皇裕仁 裕仁評伝』(サムイン社)

「実際は戦争に積極的…昭和天皇が“無力な君主”に変わったのは、マッカーサー将軍の政策の結果」

 昭和天皇(1901-89)は第2次世界大戦が日本の敗戦で終結した後も、46年の極東国際軍事裁判で起訴されなかった。日本陸軍と海軍が主導した侵略戦争であり、昭和天皇は受動的に引きずられた無力な君主にすぎなかった-というのが不起訴の理由だった。これが現在、日本人が持っている一般的な認識でもある。

 しかし、米国ハーバード大の博士として30年以上日本史を専攻し、一橋大の教授も務め、現在はニューヨーク州立大ビンガムトン校で教壇に立つハーバート・ビックス教授(72)は、こうした「常識」は完全な虚構だと指摘する。ビックス教授は、満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へと至る日本の侵略戦争拡大の過程で、昭和天皇は戦争に同意し、事後裁可を行い、また重要局面で積極的かつ主導的な役割を果たしたと主張する。

 満州事変は、当初は昭和天皇の裁可なしに起きた。31年9月18日、関東軍は、日本が運営する南満州鉄道の線路をわざと爆破する自作劇を行い、満州侵略を本格化した。事件直後、関東軍司令官の本庄繁は独断で攻撃命令を下し、主要な戦略拠点を掌握した。続いて関東軍は、朝鮮軍に鴨緑江を渡らせて満州に増援部隊を送ってほしい、と東京の参謀本部に要請した。この問題について、三日後に東京で閣議が行われていたとき、朝鮮軍司令官の林銑十郎もまた、独断で部隊を越境させる命令を下した。参謀総長の金谷範三は、直ちに昭和天皇に対し、現地司令官が裁量権を発揮し、こうしたことが起こったと上奏した。「大元帥」である天皇の統帥権を侵害したことについて、昭和天皇は「今回はどうすることもできないが、今後は注意せよ」と語った。しかしその後、相次ぐ戦勝の報告に鼓舞された昭和天皇は、「もし必要とあらば、わたしは事件が拡大することに同意し得る」と語った。翌年には「勅語」を通じ、「皇軍の威力を国内外に宣揚した」と関東軍を称賛し、その後数年間、満州事変で功績があった軍人や官吏およそ3000人に勲章を授与し、昇進させた。

 日中戦争は、昭和天皇が積極的に主導した戦争だ。戦争の契機となった蘆溝橋事件は、満州事変のときと同じく、現地の部隊長の独断によって起きた。しかし昭和天皇は、これを事後裁可し、「中国軍を膺懲(ようちょう)し、主要地域を安定せしむるに任せよ」という勅命を下した。国際法で禁止された化学兵器の使用を指示したのも昭和天皇だった。昭和天皇は37年7月28日、化学兵器の使用を初めて許可し、宮中に設置した「大本営」を通じ、毒ガス使用を375回以上も許可した。

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

このページのトップに戻る