2008年10月14日

山中潤氏の語る「ガロ」・4

ガロ30周年号『ガロ』の売り上げが落ち込み、経営危機に陥った青林堂だが、
山中さんが編集長になり、サブカルチャー総合誌的な性格が強くなってから、
徐々に売り上げが伸びて行った。 

そして、社の生命線と言える単行本のヒットもあって、
青林堂は経営危機を脱する。

この頃の最大のヒット作。
それが内田春菊『南くんの恋人』(注1)だ。
作品はドラマ化の影響もあって、かなり売れたそうだ。


「『南くんの恋人』がドラマ化されるって事なんで、本の帯にドラマ主演の二人、
 武田真治さんと高橋由美子さんを使わせてほしいって頼んだんですが、
 OKがでませんでした。それでもコンビニで大々的に販売したい。
 だから目立たせようと主人公の『ちよみ』の人形(フィギュア)を作ってもらって、
 それを撮影した写真を本の表紙に使ってみました。
 そして従来の青林堂の単行本のA5サイズよりも一回り小さいサイズにして、
 手に取りやすくしました。
 売り上げはすごく良くって、一日で増刷が決定して、
 最終的には15万部以上売れました」

もう一作、青林堂の単行本で映像化された『おもひでぽろぽろ』について

「『おもひでぽろぽろ』はジブリ映画なので、
 権利はほとんど徳間書店にもってかれちゃいました。
 プロデューサーの鈴木敏夫さん(現スタジオジブリ取締役プロデューサー) 
 にもお会いしました。
 キャラクタービジネスの話を語っていたのが印象深かったです。
 徳間の関連本ばかり売れて、単行本はあまりうれませんでしたね」

そして、94年に山中さんは念願の映画製作にとりかかる。
鈴木翁二の原作を、あがた森魚が監督した『オートバイ少女』
ガロ創刊30周年を記念して製作された作品だ。

山中さんはプロデューサーだったが、
プロデュースだけでなく、撮影・録音・編集と作品に深くかかわっている。

オートバイ少女
オートバイ少女


「映画は前から撮りたかったですからね。原作は鈴木翁二さんで行こうと決めてました。
 で、鈴木翁二作品の中の短編『オートバイ少女』を原作にして、
 あがた森魚さんに監督をお願いしました。
 イカ天に出た『マサコさん』ってバンドのキーボードやってた、
 田中さんが借りていた部屋に機材をおいて、
 そしたらそこにあがたさんが住み始めて、そのままそこが『オートバイ少女』の
 製作ルームになっていきました。
 主役の石堂夏央(注2)はオーディションで存在感があったので、
 彼女を主役の『みのる』に選びました」

山中さんは後にこの映画を観た人から言われたある言葉が印象に残っている。

「この『オートバイ少女』を観たことで、
 『今までずっと会わないままでいた父に今度会ってみようって思います』
 と、いってくれたコがいた。
 それを聞いただけで、ああ、この映画作って本当に良かったと思えました」

この時期のガロは明るい話題が多かったが、悲しい出来事もあった。
それが当時ガロで多くの作品を執筆していた漫画家・山田花子(注3)の自殺の件だ。

自殺直前日記 完全版 (QJブックス)
自殺直前日記 完全版 (QJブックス)


「当時山田花子は鬱病で入院していました。
 僕は、その時期に彼女の作品『魂のアソコ』を単行本にして売ろうとした。
 だけど、それを副編集長の手塚(能理子)さんに反対されたんです。
 『鬱で入院してる時に、自分が鬱の時に描いた作品が世に出るのを知ったら、彼女が悲しみます』
 というのが手塚さんの言い分でした。
 だけど僕は逆にそういった状態だからこそ、自分の作品を出す事で、励みになって、
 少しは前向きになってくれるという思いがあったんです。
 かなり手塚さんとはモメましたが、結局単行本化は実現しなかった。
 これで山田花子からしてみたら、最後の自分と世間との繋がりが絶たれた・・・
 と、そう感じたんじゃないか?と、僕は思うんです。
 もしかしたら、あそこで本を出してたら彼女は自殺しなかったかもしれない。
 けど、これは今でもどっちが正しかったかはわかりませんけどね」

もう一人自殺した作家ねこぢる(注4)については・・・

「チヨミちゃん(ねこぢるの本名)は夫の山野一(注5)さんのアシやってたんですよね。
 『おもひでぽろぽろ』で出来なかったキャラクタービジネスとか、
 そういう権利関係をしっかりと、ねこぢるでやろうと思って、
 話し合った事があります。自殺した時、僕はもう青林堂にいなかったので、
 詳しくはわかりません」

ガロの売り上げが伸びてきた・・・と、書きましたが、
それで気になるのは、やはりガロの最大の伝説というか、
もうトレードマークやキャッチフレーズ化しているアレ。

"原稿料ゼロ"

失礼とは思いながらもその事についても山中さんに伺った。

「ガロも売り上げがのびてきたんで、原稿料を1ページ2000円払ってました。
 だけどそれもまた払えなくなってしまったんですけど・・・
 何しろタダで描くのは大変です。
 やはりキチンとお金を貰えるからこそ漫画を描く意味がありますから。
 だけど、原稿料ゼロだからこそ、『タダでもいいから載せて欲しい』
 といった"本当に描きたいもの"を描く作家さんが出てきます。
 それで産まれてくるモノだってあるんです。
 けどもちろん原稿料払えないのはこちらが悪いんですし、
 それは甘えみたいなモノなんですけどね」

その原稿料を払えない事を新聞に強調されて報道された事があった。

「どこの新聞かはハッキリとは覚えてないんですが、
 確か東京新聞から取材うけた時、見出しに『作家はタダでも描く』
 って書かれました。もちろん僕はそんな事は言ってません。
 だけど『山中がこんな事いってるのか!』と、
 ガロの関係者の方からかなり怒られました。
 結局、後で記事を書いた記者の上司の方から謝罪されましたが、
 頼んだ謝罪広告とか訂正記事は載らなかったですね」

私はガロに設けられた新人賞『長井勝一賞』は原稿料払えないかわりに、
賞を設けて、その賞金を原稿料がわりにしてたのですか?と質問してみた。

「そういうワケじゃありません。
 なにしろガロには投稿原稿がたくさんきてましたから。
 古屋兎丸(注6)さんなんて最初から完成されていて、
 ズバぬけていましたけれど、そんな作品は一握り。
 あとはほとんどが埋もれていってますね」

そして青林堂は長年住み慣れた材木屋の二階を引っ越した。

「最初は近くのソバ屋の二階に編集部をうつして、
 それからツァイトの入ってる初台のビルの八階に転居しました。
 なにしろ僕が初台から神保町行くのに時間がかかるし、
 駐禁とられる事も多かったので、行き来するのがラクだからと、
 ビルの部屋があいた事もあって引っ越したんです」

1996年には青林堂会長で創業者、長井勝一氏が亡くなった。

「その時に僕はフランスにいってたので、対応はすべて他の社員がやってくれました。
 フランスに行く前に入院している病院にお見舞いに行ったのが最期の別れでした」

そして1997年。ガロ休刊騒動のあった年。
話は核心に迫ります。


・・・その5につづく。
追記は注釈解説。

文責・構成
原田 高夕己






 



 


注1・・・南くんの恋人
  86〜87年にガロに連載された、内田春菊のラブコメ作品。
  身体が人形の様に縮んだ彼女と、その秘密を知る彼氏との同棲生活を描く、
  いわゆる『小女子(こおなご)』ジャンルの先駆的作品として有名。
  94年に高橋由美子&武田真治コンビでドラマ化。
  2004年にも、深田恭子&二宮和也コンビでリメイクされる。

注2・・・石堂夏央(いしどう・なつお)
  1973年愛知生まれ。『オートバイ少女』で女優デビュー。
  以後、ドラマ・映画・CMに多数出演。
  現在は演技を武器にして競い合うコンセプトの
  『アクトリーグ』(関東)にカルツのメンバーで参戦している。

注3・・・山田花子(やまだ・はなこ)
  吉本のお笑いタレントとは無関係。
  1967年東京生まれの漫画家。本名・高市由美(たかいち・ゆみ)
  87年ちばてつや賞受賞後、88年にヤングマガジンで『神の悪フザケ』連載。
  その後活躍の場所をガロに移す。
  92年統合失調症で入院。退院の翌日5月24日、団地から飛び降り命を絶つ。
  享年24歳。死後残された日記がまとめられ『自殺直前日記』として刊行。
  話題を呼ぶも、近年はお笑いの山田花子との混同が多くみられる。

注4・・・ねこぢる
  本名・橋口千代美(はしぐち・ちよみ)1967年生まれ。
  山野一のファンが高じて、押し掛け女房みたいな形で山野と結婚。
  夫の作品のアシスタントをするうちに自作を書き始めて、
  90年ガロにて『ねこぢるうどん』でデビュー。
  猫のキャラを使用し、子供時代特有の残酷さをギャグにし、
  多くのファンを獲得。各種雑誌で多数の連載を持つに至り、
  作品も映像化される人気絶頂の中、1998年自殺。享年31歳。

注5・・・山野一(やまの・はじめ)
  1961年福岡生まれ。幼少期は三重県四日市。高校から千葉に移る。
  83年ガロにて『ハピネスインビニール』でデビュー。
  主に社会的マイノリティや低所得層の人物を主人公にし、
  不幸や欲望をテーマとした作品を、製図ペンを使用した、
  端正なタッチで描き、カルト的な人気を得る。
  代表作『四丁目の夕日』等。妻は同じく漫画家のねこぢる。
  妻の死去後、ねこのキャラを継承し『ねこぢるy』名義で作品を描く。

注6・・・古屋兎丸(ふるや・うさまる)
  1968年東京生まれ。多摩美大卒業後、美術教師の傍ら漫画を描き、
  95年ガロにて『palepori』(パレポリ)でデビュー。
  美術教師らしい余りにも精密な絵柄と、ベタなギャグとのギャップで
  衝撃を与え、その後はヤングサンデーでメジャーデビュー。
  スピリッツにて『π』(パイ)の連載を開始するのと前後しフリーになる。
  乙一の『ZOO』の一編を原作にした『陽だまりの詩』映像化の際、
  脚本・絵コンテ・キャラデザインを担当する。
  短編『いちばんきれいな水』は2006年に映画化。




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