2008年10月13日
山中潤氏の語る「ガロ」・3
山中さんは自身が関わる前の『ガロ』の歴史や、
そのエピソードについても色々と語ってくれた。
まずはじめに、『ガロ』及び『青林堂』創業者であり、
初代社長・長井勝一氏の話から・・・
と、その前に長井勝一という人物の来歴を説明します。
長井勝一(ながい・かついち)
1921年、宮城県塩釜市出身。東京都南千住育ち。
山師にあこがれ、早稲田工手学校採鉱冶金部の夜間部に入学。
通学しながら、昭和鉱業の調査部に勤める。
その後、満州(現・中国東北地方)に渡り、満州鉱山等で働く。終戦直前の1945年2月帰国。
戦後特価本の卸しをする傍ら、『足立文庫』『日本漫画社』で漫画出版に関わり、
結核療養中の1962年青林堂設立。64年『ガロ』創刊。
以来、長きにわたり、社長・編集長として、数多くの漫画家を輩出した。
1995年・日本漫画家協会選考委員特別賞受賞。
翌1996年。死去。享年74。

「ガロ」編集長 (ちくま文庫)
『ガロ』という奇妙な雑誌名の由来は、白土三平の作品『やませ』等に登場する、
『大摩のガロ』というキャラクターの名前からとっている。
その事からわかるように、白土三平の作品を、『カムイ伝』を載せる為に創刊した。
山中さんは創刊時のエピソードを語る。
もちろん当時は青林堂に関わっていたわけでは無いので、
聞きづての話ですが。
「長井さんは創刊号にカムイ伝を載せたかったけれど結局間に合わないので、
白土三平さんの過去の作品を再録した。
その他、当時は執筆者が7人以上いないと雑誌が出せない決まりがあったから、
水木しげるさんに何個かペンネームを変えて描いてもらい、
無理矢理7人以上の執筆者がいる様にみせて創刊したんです」
創刊早々すでに『ガロ』はギリギリの状態だった訳だ。
「長井さんに『なんでガロを創刊したんですか?』って尋ねた事があるんですが、
そうしたら『差別を無くすためだよぉ〜』って言われた。
それが本気だったか冗談だったのかわからないですけど、
そのわりには朝鮮人の悪口をうれしそうに言ってました。
だけど、悪気があるとか、差別しているという感じでは全然なかったですね」
長井氏の著作『ガロ編集長』には満州時代に呉君という朝鮮の人と仲良くしていたというエピソードが載っている。
現在ネットで騒がれてるような"嫌韓"
あるいはその逆の"韓流ブーム"みたいなのとは全く次元の違う話だ。
長井氏は実際に朝鮮半島の人たちと深くつきあって、
『何でもいいあえる仲』になったのだろうと思う。
もっとも相手がどう思うかはわからないが・・・閑話休題。
「ただ、長井さんは思想的に右も左も関係なかったですね。
愛読書は『ニューズウィーク』新聞はたしか朝日をよんでいたと思う。
あと、趣味で株もやっていました」
次は『ガロ』の生みの親の一人、白土三平さんの話に入る。
「白土さんも父親がプロレタリアの画家(岡本唐貴)でしたけど、
本人は長井さんと同じ様に思想的に右も左も関係なかったと思います。
ただ"闘争のエネルギー"というのをテーマに作品を描いてました。
忍者武芸帳の影丸とか、リーダーが代替わりする事に、
当時の学生運動家たちは衝撃を受けましたからね」
山中さんもファンである、つげ義春については、
「つげ先生は当時所在不明だったから、ガロに尋ね人の広告だして連絡とったんですよね。
最初は時代劇で、後の作風とは違った雰囲気の作品を発表していました。
その頃に水木しげる先生が『テレビくん』で講談社漫画賞受賞した事から、
仕事量も増えて忙しくなってきたので、つげ先生が水木プロのアシになって、
そこで収入の余裕もでてきた位から、『沼』や『チーコ』といった私小説風の作品を
ガロに載せて行く様になったんです」
そんなつげ義春の世界に魅了されたのが高野慎三氏(注1)で、
つげファンが高じて青林堂に入社している。
「『ねじ式』に対して長井さんは『こんなの載せないでいいよ』って言ってたそうです。
漫画として認めてなかったんでしょう。
だから結局ガロ本誌には載らず、増刊のつげ義春特集号に掲載されました。
けど、それから一年間は何の反響もありませんでした。
後に高野慎三さんの働きかけで漫画評論家に感想を求めるうちに、
少しずつ『この作品は芸術だ』と騒がれ出しました。
『漫画で芸術が出来る』というのは、はっぴいえんどの『日本語でロックが出来る』
というのと同じ様に、既成概念を壊す、まさに衝撃的な出来事でした」
ちなみに『ねじ式』の"メメクラゲ"は本当は××クラゲ(バツバツクラゲ)と書いたのを、
高野氏が誤植したのだが、後につげ先生本人が「こっちのほうがいいね」と言って、
そのまま定着したというエピソードがある。
次は林静一の話。
「林静一さんの『赤色エレジー』を無断で曲にしたあがた森魚さんは、
はじめて林さんに会った時、どこかの店の中にいたそうですが、
あがたさんは『赤色エレジーの歌を作ったんです!』というや、
突然ギターをもちだし、頼まれてないのに『赤色エレジー』を熱唱したそうです(笑)
まわりのお客さんの目も気にせずに。みんな何事かと思ったでしょうね。
そういえば、『同棲時代』を描く前に、上村一夫(注2)さんは林さんの所に訪れて、
『今度、赤色エレジーと同じテーマの作品を描くのですが、よろしいでしょうか?』
って許可をとりに来て、承諾を得たそうです」
仁義を感じさせるエピソードだ。
「その他、ガロには色々な作家が登場して、衝撃を与えつづけてました。
佐々木マキ(注3)さんは難解で僕にはよく理解できなかったけれど、
他にも、安部慎一(注4)鈴木翁二(注5)古川益三(注6)さんら、
ガロ三羽ガラスと呼ばれた作家達や、なんと言っても看板作品の『カムイ伝』
ガロの黄金時代ですね」
時代は学生運動華やかな頃。
当時の運動家や大学生にとってカムイ伝はバイブル的な存在だった。
「当時大学生は『右手に朝日ジャーナル左手に少年マガジン』を携えてると、
よく言われてましたが、なんでガロがその中に入ってないんだろうと思いましたよ。
マガジンよりもガロのほうが運動家や大学生に支持されていたハズなんですがね」
そんな全共闘の時代もあさま山荘事件をキッカケに一気に下火になっていった。
そして、カムイ伝が終了するとガロの売れ行きも一気に下がって行った。
「そんな中、編集部に在籍していた南伸坊(注7)さんやナベゾ(渡辺和博)さんが、
面白ければ漫画という枠に関係なく雑誌にのせる"面白主義"を提唱します。
この二人は編集長になりましたが、確か名目上だけで正式な編集長でなかったハズ。
だから編集長はずっと長井さん。青林堂は長井さんの個人会社ですからね」
そして、この"面白主義"時代を象徴する作品が発表される。
糸井重里と湯村輝彦(注8)合作の『ペンギンごはん』だ。
「これがキッカケでヘタウマブームがおきたんですよね。
糸井さんはコピーライターとしても西武の『おいしい生活』
などで衝撃を与えてた頃です」
それでもガロの売り上げは不振のまま。
この頃は2月号と3月号が2・3合併号として売り出され、年11回の刊行だった。
それはやはり経営が苦しかったせいなのか?と、山中さんに聞いてみた。
「それはただ単に年末進行がしんどいんで、長井さんが、
『ガロにあまりお金かけるのはダメだ。雑誌は儲からないんだから、単行本で儲けなさい。とにかく雑誌は続けていければいいんだ』
ってコトで2・3月は合併号にしていました」
合併号は後に廃止され、キチンと毎月、年12回刊行する様になる。
・・・その4に続く。
追記は注釈解説。
文責・構成
原田 高夕己
そのエピソードについても色々と語ってくれた。
まずはじめに、『ガロ』及び『青林堂』創業者であり、
初代社長・長井勝一氏の話から・・・
と、その前に長井勝一という人物の来歴を説明します。
長井勝一(ながい・かついち)
1921年、宮城県塩釜市出身。東京都南千住育ち。
山師にあこがれ、早稲田工手学校採鉱冶金部の夜間部に入学。
通学しながら、昭和鉱業の調査部に勤める。
その後、満州(現・中国東北地方)に渡り、満州鉱山等で働く。終戦直前の1945年2月帰国。
戦後特価本の卸しをする傍ら、『足立文庫』『日本漫画社』で漫画出版に関わり、
結核療養中の1962年青林堂設立。64年『ガロ』創刊。
以来、長きにわたり、社長・編集長として、数多くの漫画家を輩出した。
1995年・日本漫画家協会選考委員特別賞受賞。
翌1996年。死去。享年74。
「ガロ」編集長 (ちくま文庫)
『ガロ』という奇妙な雑誌名の由来は、白土三平の作品『やませ』等に登場する、
『大摩のガロ』というキャラクターの名前からとっている。
その事からわかるように、白土三平の作品を、『カムイ伝』を載せる為に創刊した。
山中さんは創刊時のエピソードを語る。
もちろん当時は青林堂に関わっていたわけでは無いので、
聞きづての話ですが。
「長井さんは創刊号にカムイ伝を載せたかったけれど結局間に合わないので、
白土三平さんの過去の作品を再録した。
その他、当時は執筆者が7人以上いないと雑誌が出せない決まりがあったから、
水木しげるさんに何個かペンネームを変えて描いてもらい、
無理矢理7人以上の執筆者がいる様にみせて創刊したんです」
創刊早々すでに『ガロ』はギリギリの状態だった訳だ。
「長井さんに『なんでガロを創刊したんですか?』って尋ねた事があるんですが、
そうしたら『差別を無くすためだよぉ〜』って言われた。
それが本気だったか冗談だったのかわからないですけど、
そのわりには朝鮮人の悪口をうれしそうに言ってました。
だけど、悪気があるとか、差別しているという感じでは全然なかったですね」
長井氏の著作『ガロ編集長』には満州時代に呉君という朝鮮の人と仲良くしていたというエピソードが載っている。
現在ネットで騒がれてるような"嫌韓"
あるいはその逆の"韓流ブーム"みたいなのとは全く次元の違う話だ。
長井氏は実際に朝鮮半島の人たちと深くつきあって、
『何でもいいあえる仲』になったのだろうと思う。
もっとも相手がどう思うかはわからないが・・・閑話休題。
「ただ、長井さんは思想的に右も左も関係なかったですね。
愛読書は『ニューズウィーク』新聞はたしか朝日をよんでいたと思う。
あと、趣味で株もやっていました」
次は『ガロ』の生みの親の一人、白土三平さんの話に入る。
「白土さんも父親がプロレタリアの画家(岡本唐貴)でしたけど、
本人は長井さんと同じ様に思想的に右も左も関係なかったと思います。
ただ"闘争のエネルギー"というのをテーマに作品を描いてました。
忍者武芸帳の影丸とか、リーダーが代替わりする事に、
当時の学生運動家たちは衝撃を受けましたからね」
山中さんもファンである、つげ義春については、
「つげ先生は当時所在不明だったから、ガロに尋ね人の広告だして連絡とったんですよね。
最初は時代劇で、後の作風とは違った雰囲気の作品を発表していました。
その頃に水木しげる先生が『テレビくん』で講談社漫画賞受賞した事から、
仕事量も増えて忙しくなってきたので、つげ先生が水木プロのアシになって、
そこで収入の余裕もでてきた位から、『沼』や『チーコ』といった私小説風の作品を
ガロに載せて行く様になったんです」
そんなつげ義春の世界に魅了されたのが高野慎三氏(注1)で、
つげファンが高じて青林堂に入社している。
「『ねじ式』に対して長井さんは『こんなの載せないでいいよ』って言ってたそうです。
漫画として認めてなかったんでしょう。
だから結局ガロ本誌には載らず、増刊のつげ義春特集号に掲載されました。
けど、それから一年間は何の反響もありませんでした。
後に高野慎三さんの働きかけで漫画評論家に感想を求めるうちに、
少しずつ『この作品は芸術だ』と騒がれ出しました。
『漫画で芸術が出来る』というのは、はっぴいえんどの『日本語でロックが出来る』
というのと同じ様に、既成概念を壊す、まさに衝撃的な出来事でした」
ちなみに『ねじ式』の"メメクラゲ"は本当は××クラゲ(バツバツクラゲ)と書いたのを、
高野氏が誤植したのだが、後につげ先生本人が「こっちのほうがいいね」と言って、
そのまま定着したというエピソードがある。
次は林静一の話。
「林静一さんの『赤色エレジー』を無断で曲にしたあがた森魚さんは、
はじめて林さんに会った時、どこかの店の中にいたそうですが、
あがたさんは『赤色エレジーの歌を作ったんです!』というや、
突然ギターをもちだし、頼まれてないのに『赤色エレジー』を熱唱したそうです(笑)
まわりのお客さんの目も気にせずに。みんな何事かと思ったでしょうね。
そういえば、『同棲時代』を描く前に、上村一夫(注2)さんは林さんの所に訪れて、
『今度、赤色エレジーと同じテーマの作品を描くのですが、よろしいでしょうか?』
って許可をとりに来て、承諾を得たそうです」
仁義を感じさせるエピソードだ。
「その他、ガロには色々な作家が登場して、衝撃を与えつづけてました。
佐々木マキ(注3)さんは難解で僕にはよく理解できなかったけれど、
他にも、安部慎一(注4)鈴木翁二(注5)古川益三(注6)さんら、
ガロ三羽ガラスと呼ばれた作家達や、なんと言っても看板作品の『カムイ伝』
ガロの黄金時代ですね」
時代は学生運動華やかな頃。
当時の運動家や大学生にとってカムイ伝はバイブル的な存在だった。
「当時大学生は『右手に朝日ジャーナル左手に少年マガジン』を携えてると、
よく言われてましたが、なんでガロがその中に入ってないんだろうと思いましたよ。
マガジンよりもガロのほうが運動家や大学生に支持されていたハズなんですがね」
そんな全共闘の時代もあさま山荘事件をキッカケに一気に下火になっていった。
そして、カムイ伝が終了するとガロの売れ行きも一気に下がって行った。
「そんな中、編集部に在籍していた南伸坊(注7)さんやナベゾ(渡辺和博)さんが、
面白ければ漫画という枠に関係なく雑誌にのせる"面白主義"を提唱します。
この二人は編集長になりましたが、確か名目上だけで正式な編集長でなかったハズ。
だから編集長はずっと長井さん。青林堂は長井さんの個人会社ですからね」
そして、この"面白主義"時代を象徴する作品が発表される。
糸井重里と湯村輝彦(注8)合作の『ペンギンごはん』だ。
「これがキッカケでヘタウマブームがおきたんですよね。
糸井さんはコピーライターとしても西武の『おいしい生活』
などで衝撃を与えてた頃です」
それでもガロの売り上げは不振のまま。
この頃は2月号と3月号が2・3合併号として売り出され、年11回の刊行だった。
それはやはり経営が苦しかったせいなのか?と、山中さんに聞いてみた。
「それはただ単に年末進行がしんどいんで、長井さんが、
『ガロにあまりお金かけるのはダメだ。雑誌は儲からないんだから、単行本で儲けなさい。とにかく雑誌は続けていければいいんだ』
ってコトで2・3月は合併号にしていました」
合併号は後に廃止され、キチンと毎月、年12回刊行する様になる。
・・・その4に続く。
追記は注釈解説。
文責・構成
原田 高夕己
注1・・・高野慎三(たかの・しんぞう)
東京生まれ。権藤晋の名前で主につげ義春作品の評論本の著作がある。
元青林堂社員。退社後72年、北冬書房を興す。
つげ義春の理解者として知られる。
注2・・・上村一夫(かみむら・かずお)
1940年神奈川生まれ。昭和の絵師と評された漫画家。
イラストレーターを経て、漫画家になる。代表作は『同棲時代』
1986年死去。アシスタントに谷口ジローや岩明均らがいる。
注3・・・佐々木マキ(ささき・まき)
1946年神戸生まれ。66年にガロでデビュー。
ガロ・朝日ジャーナルにて独特な従来の漫画にみられなかった斬新な表現や、
その個性的な絵柄の漫画を発表して衝撃を与える。
現在は主に絵本作家として活躍。
注4・・・安部慎一(あべ・しんいち)
1950年生まれ。代表作は自分の妻をモデルにした『美代子・阿佐ヶ谷気分』
つげ義春・林静一らの影響をうけた作風だが、年々シュールになっていく。
現在は主に小説執筆に重きをおいている。
注5・・・鈴木翁二(すずき・おうじ)
1949年愛知生まれ。つげ義春の影響をうけた『庄助あたりで』で69年ガロデビュー。
主に少年を主人公にした叙情的な作風で知られる。
『マッチ一本の話』は友部正人『一本道』の歌詞に影響を与える。
『オートバイ少女』は、あがた森魚の監督で映画化された。
ミュージシャンとしての活動もあり、
代表曲『ひとさらいの唄』はあがた森魚にカバーされている。
注6・・・古川益三(ふるかわ・ますぞう)
1950年滋賀生まれ。69年『野風呂』でガロデビュー。
水木プロのアシスタントと、並行してガロに作品を発表する。
後に貸本屋アルバイトを経て、古本屋・憂都離夜を開店。
80年、中野ブロードウェイに古本屋まんだらけを開店。
それからは株式会社『まんだらけ』の社長や、漫画古書の鑑定などで活躍。
2000年に東証マザーズ上場をはたしたことは話題になった。
注7・・・南伸坊(みなみ・しんぼう)
1947年東京生まれ。72年に青林堂に入社。
編集長として"面白主義"を渡辺和博と共に提唱する。
79年退社後はイラストレーターやエッセイストとして活躍。
ゲームソフト『マザー』のキャラクターデザインでも知られる。
注8・・・湯村輝彦(ゆむら・てるひこ)
1942年東京都新宿生まれ。ポップアートを思わせるイラストで有名な、
日本のグラフィック界を代表するイラストレーター。
ヘタウマブームの先駆者として、糸井重里との合作「ペンギンごはん」を発表。
フラミンゴスタジオ代表。著書多数。
東京生まれ。権藤晋の名前で主につげ義春作品の評論本の著作がある。
元青林堂社員。退社後72年、北冬書房を興す。
つげ義春の理解者として知られる。
注2・・・上村一夫(かみむら・かずお)
1940年神奈川生まれ。昭和の絵師と評された漫画家。
イラストレーターを経て、漫画家になる。代表作は『同棲時代』
1986年死去。アシスタントに谷口ジローや岩明均らがいる。
注3・・・佐々木マキ(ささき・まき)
1946年神戸生まれ。66年にガロでデビュー。
ガロ・朝日ジャーナルにて独特な従来の漫画にみられなかった斬新な表現や、
その個性的な絵柄の漫画を発表して衝撃を与える。
現在は主に絵本作家として活躍。
注4・・・安部慎一(あべ・しんいち)
1950年生まれ。代表作は自分の妻をモデルにした『美代子・阿佐ヶ谷気分』
つげ義春・林静一らの影響をうけた作風だが、年々シュールになっていく。
現在は主に小説執筆に重きをおいている。
注5・・・鈴木翁二(すずき・おうじ)
1949年愛知生まれ。つげ義春の影響をうけた『庄助あたりで』で69年ガロデビュー。
主に少年を主人公にした叙情的な作風で知られる。
『マッチ一本の話』は友部正人『一本道』の歌詞に影響を与える。
『オートバイ少女』は、あがた森魚の監督で映画化された。
ミュージシャンとしての活動もあり、
代表曲『ひとさらいの唄』はあがた森魚にカバーされている。
注6・・・古川益三(ふるかわ・ますぞう)
1950年滋賀生まれ。69年『野風呂』でガロデビュー。
水木プロのアシスタントと、並行してガロに作品を発表する。
後に貸本屋アルバイトを経て、古本屋・憂都離夜を開店。
80年、中野ブロードウェイに古本屋まんだらけを開店。
それからは株式会社『まんだらけ』の社長や、漫画古書の鑑定などで活躍。
2000年に東証マザーズ上場をはたしたことは話題になった。
注7・・・南伸坊(みなみ・しんぼう)
1947年東京生まれ。72年に青林堂に入社。
編集長として"面白主義"を渡辺和博と共に提唱する。
79年退社後はイラストレーターやエッセイストとして活躍。
ゲームソフト『マザー』のキャラクターデザインでも知られる。
注8・・・湯村輝彦(ゆむら・てるひこ)
1942年東京都新宿生まれ。ポップアートを思わせるイラストで有名な、
日本のグラフィック界を代表するイラストレーター。
ヘタウマブームの先駆者として、糸井重里との合作「ペンギンごはん」を発表。
フラミンゴスタジオ代表。著書多数。