2008年10月12日
山中潤氏の語る「ガロ」・2
さて、『ねじ式』のゲームを制作した山中さんは、
この頃に原マスミ(注1)のマネージャーをしていたという、
松沢呉一氏(注2)と出会う。
「松沢さんの紹介で『ガロ』に広告を出すんだけど、結局当時の『ガロ』読者は、
ゲームやる人が少なかったので、全く広告効果はありませんでした。
この時にはじめて長井さん(青林堂創立者・長井勝一)と会いました。
青林堂に行ったら、ちょうど材木屋の二階にある編集部から階段をおりてきました」
有名な話だが、当時の青林堂は神田神保町の材木屋の二階にあった。
そしてこの頃の『ガロ』の部数は深刻なまでに落ち込んでいた。
当然青林堂の経営状態も悪化。
そこで長井氏は会社を第三者に身売りする決断をした。
「長井さんは赤瀬川原平(注3)さんに相談して、
それで京都の某出版社が5000万円でひきとるという話になりました。
だけど、ひきとるのは雑誌、つまりガロだけで、
編集部員は全員解雇するという厳しい条件でした。
そこで編集部員の谷田部さんが何とかならないかと、松沢さんに相談をしたら、
『ならツァイトの山中にかってもらったらどうだ?』という話になった」
そして、山中さんは長井氏と話し合いの席についた。
「たしか神保町の『リリカ』とかいう名前の喫茶店で会う事になって、
僕が『同じ5000万を出して、編集部員もそのまま働いてもらうという形で青林堂をひきとりたいんです』
と、いったら、長井さんはあっさりと『あぁ〜いぃよ〜』って言ってくれて、
ほんの30分くらいで話し合いは終わっちゃいました」
何だか長井勝一らしいエピソードといえます。
私は長井氏に会った事はありませんが、ガロの作家達の語る人物像がほぼ一致しているので、
何となくですが、こういうおおらかな行動するだろうなというイメージをもっています。
その長井氏のトレードマークに、特徴的なしわがれ声があるのですが、
当然私はそれを聴いた事がありません。
ただ、山中さんがサービス精神旺盛に長井氏の台詞の所で、
長井氏のしわがれ声の真似をしてくれたので、多分そういった声色だったろうなと推測できました。
それにしてもゲーム業界にいた山中さんが異業種である出版業界にのりだす事に不安はなかったのだろうか?
「あの頃はバブルで景気も良かったので特に不安はありませんでした。
アスキーが自社用の飛行機を所持するために自前の飛行場をつくるって計画があった時代。
何でもすでに飛行場の土地も、アメリカでだいたい目星ついてたらしいですよ。
そのアスキーから僕に社員にならないかって誘いもあったし、
ツァイトの株も買いたいって話もあったり、お金の余裕があった」
そして箱根で青林堂の株主総会があり、青林堂は正式にツァイト傘下に、
山中さんは青林堂の社長に就任し、長井氏は会長職に就く。
それが1990年9月の出来事だ。
「資本金は1000万ほどだったけど、それから増資し、
3000万くらいまでいったと思います」
さて、ツァイト傘下となって再出発することになった青林堂とガロに対し、
山中さんはまず『特集』を組む事から改革を始める。
「参考にした雑誌は『サライ』『鳩よ!』『芸術新潮』et・・・
漫画雑誌という枠にとらわれない誌面づくりを考えた。
『月刊誌』というモノには特集が必要。
それも資料的な価値のあるモノがないとなりたたないと考えていました。
元々ガロの特徴はつげ義春や林静一の様な、他ジャンルに影響を与えた作品が多い事。
僕は、あがた森魚(注4)やムーンライダース(注5)などのミュージシャンや、
アラーキー・荒木経惟(注6)や沼田元氣(注7)らの写真家、他演劇関係者とか、
そういう人たちが行き来してガロがつくられていくと思い込んでいた。
けど、入ってみたらガロはあくまで漫画雑誌でした。
ねらったのではなく、自然に漫画以外の才能が集っていたというワケですね」
92年には長井氏が編集長を辞し、山中さんが社長兼任の編集長に就任する。
「まずガロという雑誌の権威づけのために『名作劇場』という企画をたてて、
過去の作品を再録しました。第一回はつげ義春、第二回は水木しげる等・・・
毎号作家のインタビューものせていました。
もっとも作家のインタビュー自体はナベゾ(渡辺和博・注8)編集長時代からありましたが」
漫画復刻本ブームが本格的に来る前の話だ。
「写真の特集は沼田元気さんに五万だけの予算を出して、
ヌードグラビアを載せて、月に一度アラーキーが登場するといったかんじ。
特集ページは多い時には70ページ以上ありましたね」
ただの漫画雑誌でなく、サブカルチャー情報誌という性格が強くなったのは、
やはり山中さんの明確な編集方針にあったようだ。
「けど、編集部員は特集を嫌がってましたよ。対立する事もあった。
元々みんなは漫画だけを載せて行きたいという気持ちが強かったってのもあるけど、
とにかく特集ページは作業が面倒というのも嫌がる理由でした」
材木屋の二階にいた当時の編集作業は、まず特集の原稿をもらう、
そしてネガができて、それを白黒反転する。
そのあとは編集部員がわざわざトレース台を使って、
細かいゴミとかの汚れをいちいち修正していたのだという。
それから職人さんが写植を貼る。
白黒ページならまだしも2色ページの時は特に手間がかかったという。
「後にDTPを導入したのでそういう事もなくなりましたけどね。
ちなみにガロに台割は無くて、漫画は出来上がったモノから順に載せて行きました。
なにしろ原稿のゴミとり作業に時間がかかってましたから・・・
そういえばこの頃は編集部にコピー機すらありませんでした。
コピーが必要なときは、経理から小銭もらって、外でとりに行ってました」
ガロおよび青林堂の貧乏伝説は噂にはきいていたが、
コピー機も無い環境で編集していたとは正直驚きました。
当然、後にキチンとコピー機も導入する。
「編集部員の給料も当時10万ほどでした。
だけど、青林堂は残業がほとんどなく、9時〜5時で終わっていました。
それでも追い込み作業で夜おそくまで残業する事はあって、
そんなある日の夜中ファックスが僕の自宅に編集部員から送られてきた事があります。
『お前は今頃オンナと一緒に寝てる頃だろーなー』ってな(笑)
青林堂では夜6時すぎたら、仕事中でも酒を飲む事が許されていたんですよ。
だから酔っぱらってそういうファックスを送ったんですね」
それもまたガロらしい、おおらかなエピソードだ。
・・・その3に続く。
文責・構成
原田 高夕己
注釈解説は追記にて。
ガロ曼陀羅
木造モルタルの王国―ガロ20年史
この頃に原マスミ(注1)のマネージャーをしていたという、
松沢呉一氏(注2)と出会う。
「松沢さんの紹介で『ガロ』に広告を出すんだけど、結局当時の『ガロ』読者は、
ゲームやる人が少なかったので、全く広告効果はありませんでした。
この時にはじめて長井さん(青林堂創立者・長井勝一)と会いました。
青林堂に行ったら、ちょうど材木屋の二階にある編集部から階段をおりてきました」
有名な話だが、当時の青林堂は神田神保町の材木屋の二階にあった。
そしてこの頃の『ガロ』の部数は深刻なまでに落ち込んでいた。
当然青林堂の経営状態も悪化。
そこで長井氏は会社を第三者に身売りする決断をした。
「長井さんは赤瀬川原平(注3)さんに相談して、
それで京都の某出版社が5000万円でひきとるという話になりました。
だけど、ひきとるのは雑誌、つまりガロだけで、
編集部員は全員解雇するという厳しい条件でした。
そこで編集部員の谷田部さんが何とかならないかと、松沢さんに相談をしたら、
『ならツァイトの山中にかってもらったらどうだ?』という話になった」
そして、山中さんは長井氏と話し合いの席についた。
「たしか神保町の『リリカ』とかいう名前の喫茶店で会う事になって、
僕が『同じ5000万を出して、編集部員もそのまま働いてもらうという形で青林堂をひきとりたいんです』
と、いったら、長井さんはあっさりと『あぁ〜いぃよ〜』って言ってくれて、
ほんの30分くらいで話し合いは終わっちゃいました」
何だか長井勝一らしいエピソードといえます。
私は長井氏に会った事はありませんが、ガロの作家達の語る人物像がほぼ一致しているので、
何となくですが、こういうおおらかな行動するだろうなというイメージをもっています。
その長井氏のトレードマークに、特徴的なしわがれ声があるのですが、
当然私はそれを聴いた事がありません。
ただ、山中さんがサービス精神旺盛に長井氏の台詞の所で、
長井氏のしわがれ声の真似をしてくれたので、多分そういった声色だったろうなと推測できました。
それにしてもゲーム業界にいた山中さんが異業種である出版業界にのりだす事に不安はなかったのだろうか?
「あの頃はバブルで景気も良かったので特に不安はありませんでした。
アスキーが自社用の飛行機を所持するために自前の飛行場をつくるって計画があった時代。
何でもすでに飛行場の土地も、アメリカでだいたい目星ついてたらしいですよ。
そのアスキーから僕に社員にならないかって誘いもあったし、
ツァイトの株も買いたいって話もあったり、お金の余裕があった」
そして箱根で青林堂の株主総会があり、青林堂は正式にツァイト傘下に、
山中さんは青林堂の社長に就任し、長井氏は会長職に就く。
それが1990年9月の出来事だ。
「資本金は1000万ほどだったけど、それから増資し、
3000万くらいまでいったと思います」
さて、ツァイト傘下となって再出発することになった青林堂とガロに対し、
山中さんはまず『特集』を組む事から改革を始める。
「参考にした雑誌は『サライ』『鳩よ!』『芸術新潮』et・・・
漫画雑誌という枠にとらわれない誌面づくりを考えた。
『月刊誌』というモノには特集が必要。
それも資料的な価値のあるモノがないとなりたたないと考えていました。
元々ガロの特徴はつげ義春や林静一の様な、他ジャンルに影響を与えた作品が多い事。
僕は、あがた森魚(注4)やムーンライダース(注5)などのミュージシャンや、
アラーキー・荒木経惟(注6)や沼田元氣(注7)らの写真家、他演劇関係者とか、
そういう人たちが行き来してガロがつくられていくと思い込んでいた。
けど、入ってみたらガロはあくまで漫画雑誌でした。
ねらったのではなく、自然に漫画以外の才能が集っていたというワケですね」
92年には長井氏が編集長を辞し、山中さんが社長兼任の編集長に就任する。
「まずガロという雑誌の権威づけのために『名作劇場』という企画をたてて、
過去の作品を再録しました。第一回はつげ義春、第二回は水木しげる等・・・
毎号作家のインタビューものせていました。
もっとも作家のインタビュー自体はナベゾ(渡辺和博・注8)編集長時代からありましたが」
漫画復刻本ブームが本格的に来る前の話だ。
「写真の特集は沼田元気さんに五万だけの予算を出して、
ヌードグラビアを載せて、月に一度アラーキーが登場するといったかんじ。
特集ページは多い時には70ページ以上ありましたね」
ただの漫画雑誌でなく、サブカルチャー情報誌という性格が強くなったのは、
やはり山中さんの明確な編集方針にあったようだ。
「けど、編集部員は特集を嫌がってましたよ。対立する事もあった。
元々みんなは漫画だけを載せて行きたいという気持ちが強かったってのもあるけど、
とにかく特集ページは作業が面倒というのも嫌がる理由でした」
材木屋の二階にいた当時の編集作業は、まず特集の原稿をもらう、
そしてネガができて、それを白黒反転する。
そのあとは編集部員がわざわざトレース台を使って、
細かいゴミとかの汚れをいちいち修正していたのだという。
それから職人さんが写植を貼る。
白黒ページならまだしも2色ページの時は特に手間がかかったという。
「後にDTPを導入したのでそういう事もなくなりましたけどね。
ちなみにガロに台割は無くて、漫画は出来上がったモノから順に載せて行きました。
なにしろ原稿のゴミとり作業に時間がかかってましたから・・・
そういえばこの頃は編集部にコピー機すらありませんでした。
コピーが必要なときは、経理から小銭もらって、外でとりに行ってました」
ガロおよび青林堂の貧乏伝説は噂にはきいていたが、
コピー機も無い環境で編集していたとは正直驚きました。
当然、後にキチンとコピー機も導入する。
「編集部員の給料も当時10万ほどでした。
だけど、青林堂は残業がほとんどなく、9時〜5時で終わっていました。
それでも追い込み作業で夜おそくまで残業する事はあって、
そんなある日の夜中ファックスが僕の自宅に編集部員から送られてきた事があります。
『お前は今頃オンナと一緒に寝てる頃だろーなー』ってな(笑)
青林堂では夜6時すぎたら、仕事中でも酒を飲む事が許されていたんですよ。
だから酔っぱらってそういうファックスを送ったんですね」
それもまたガロらしい、おおらかなエピソードだ。
・・・その3に続く。
文責・構成
原田 高夕己
注釈解説は追記にて。
ガロ曼陀羅
木造モルタルの王国―ガロ20年史
注1・・・原マスミ(はら・ますみ)
1955年千葉生まれ。シンガーソングライター。
その中性的な特徴のある声で、ナレーションや声優の仕事も多数。
フジテレビ『ストレイシープ』のひつじのポーの声と語りを担当。
またイラストレーターとしてよしもとばなな作品の挿絵を手がける。
注2・・・松沢呉一(まつざわ・くれいち)
1958年生まれ。早大卒。
ライターとして色々な活動を行い、ガロ系作家との交流も多い。
サブカル・アングラグッズや書籍・CDを取り扱うショップ『タコシェ』創立者。
注3・・・赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)
1937年生まれの前衛芸術家。
朝日ジャーナル掲載の『櫻画報』で朝日新聞を揶揄した、
『アカイアカイアサヒ』という戦中の教科書パロディを載せた号が、
回収される騒ぎになり、ガロに連載を移す。
そのガロにて『ねじ式』パロディ漫画『おざ式』を発表。
純文学作家としても尾辻克彦名義で81年「父が消えた」で芥川賞受賞等、
幅広いジャンルで活躍をしている。
その他、現代思潮社美学校の講師として多数の人材を輩出する。
注4・・・あがた森魚(あがた・もりお)
1948年北海道生まれ。シンガーソングライター。
代表曲は林静一の同名作品を題材に作った『赤色エレジー』
映画監督としても『僕は天使ぢゃないよ』『オートバイ少女』等の作品がある。
注5・・・ムーンライダース
はっびいえんどと共に日本語ロックの先駆者とされるグループ『はちみつぱい』を母体にして、
75年結成されたロックバンド。
数多くの漫画家やミュージシャンらに影響を与える。
注6・・・荒木経惟(あらき・のぶよし)
1940年東京生まれ。アラーキーの愛称で有名な、日本を代表する写真家の一人。
多数の写真集を今まで刊行し続けている。
妻・陽子との日々を綴った著作『東京日和』は竹中直人監督・主演で映画化された。
注7・・・沼田元氣(ぬまた・げんき)
写真家詩人。80年代に前衛芸術家としてデビュー。
アーティストのジャケットデザインや本の装丁を多数手がける。
注8・・・渡辺和博(わたなべ・かずひろ)
1950年広島生まれ。愛称はナベゾ。美学校で赤瀬川原平に師事する。
その美学校の先輩・南伸坊に誘われ75年、青林堂に入社。
ガロ編集長を経て、80年退社し、エッセイスト・イラストレーターとして活躍。
84年著書『金魂巻』がベストセラー。マル金・マルビが流行語になる。
2007年、肝臓癌で亡くなる。享年56歳。
1955年千葉生まれ。シンガーソングライター。
その中性的な特徴のある声で、ナレーションや声優の仕事も多数。
フジテレビ『ストレイシープ』のひつじのポーの声と語りを担当。
またイラストレーターとしてよしもとばなな作品の挿絵を手がける。
注2・・・松沢呉一(まつざわ・くれいち)
1958年生まれ。早大卒。
ライターとして色々な活動を行い、ガロ系作家との交流も多い。
サブカル・アングラグッズや書籍・CDを取り扱うショップ『タコシェ』創立者。
注3・・・赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)
1937年生まれの前衛芸術家。
朝日ジャーナル掲載の『櫻画報』で朝日新聞を揶揄した、
『アカイアカイアサヒ』という戦中の教科書パロディを載せた号が、
回収される騒ぎになり、ガロに連載を移す。
そのガロにて『ねじ式』パロディ漫画『おざ式』を発表。
純文学作家としても尾辻克彦名義で81年「父が消えた」で芥川賞受賞等、
幅広いジャンルで活躍をしている。
その他、現代思潮社美学校の講師として多数の人材を輩出する。
注4・・・あがた森魚(あがた・もりお)
1948年北海道生まれ。シンガーソングライター。
代表曲は林静一の同名作品を題材に作った『赤色エレジー』
映画監督としても『僕は天使ぢゃないよ』『オートバイ少女』等の作品がある。
注5・・・ムーンライダース
はっびいえんどと共に日本語ロックの先駆者とされるグループ『はちみつぱい』を母体にして、
75年結成されたロックバンド。
数多くの漫画家やミュージシャンらに影響を与える。
注6・・・荒木経惟(あらき・のぶよし)
1940年東京生まれ。アラーキーの愛称で有名な、日本を代表する写真家の一人。
多数の写真集を今まで刊行し続けている。
妻・陽子との日々を綴った著作『東京日和』は竹中直人監督・主演で映画化された。
注7・・・沼田元氣(ぬまた・げんき)
写真家詩人。80年代に前衛芸術家としてデビュー。
アーティストのジャケットデザインや本の装丁を多数手がける。
注8・・・渡辺和博(わたなべ・かずひろ)
1950年広島生まれ。愛称はナベゾ。美学校で赤瀬川原平に師事する。
その美学校の先輩・南伸坊に誘われ75年、青林堂に入社。
ガロ編集長を経て、80年退社し、エッセイスト・イラストレーターとして活躍。
84年著書『金魂巻』がベストセラー。マル金・マルビが流行語になる。
2007年、肝臓癌で亡くなる。享年56歳。