2008年10月11日
山中潤氏の語る「ガロ」・1
"ガロ"についてのお話をうかがうために、
山中潤氏の事務所にお邪魔したのは先週の土曜日。
山中さんは、どこの馬の骨かもよくわからぬ私を笑顔で迎えてくれました。
山中さんは実年齢より幾らか若く見える、
どこか浮世離れというか、飄々とした雰囲気の方でした。
まず、山中さんは「ガロ」に出会うまでの話をして下さいました。
(以下、カギカッコ内は山中さんの談話になります)
「僕は東京でうまれましたが、両親が離婚したので、和歌山に引っ越しました。
高校生の頃はっぴいえんど(注1)のライナーノーツに林静一(注2)さんら、
ガロの作家の事がかかれていて、それがガロを知ったきっかけです。
和歌山市内の二冊か三冊位しか入荷しない本屋でガロを初めて買いました。
確か鴨沢祐仁(注3)さんの『クシー君』の表紙で、他に川崎ゆきお(注4)さんや、
ひさうちみちお(注5)さんらが描かれていました」
鴨沢祐仁は1978年、丸一年間ガロの表紙を担当している。
「その頃はバンドをやっていて、テレビにも出た事があった。
音楽の他に、当時スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』が公開されて、
映画にも興味がありました。
それで、本格的に映画を撮りたいと思って、18で単身上京しました。
東京生まれといっても、友達もいないし、映画は一人では撮れない。
新聞勧誘員のバイトをしていたんですが、
みんなは仕事中のヒマな時間にゲーセンに言ってサボッてたりしてたんですが、
自分だけは仕事が終わってから一人でゲーセンにいってました」
そのゲームが山中さんの人生をまず動かした。
「ゲーセン通いもお金がかかる。ならば自分で作ってみようと思ったんです。
映画は一人では出来ないけど、ゲームだったら一人でも出来ますし。
当時は『ぴゅう太』(注6)があればゲームが出来ると思ってましたが、
アキバに行ったら店の人に『そんなんじゃダメだよ』といわれて、
マトモな『PC6001』(注7)を紹介されました」
その後、山中さんはテーブルゲームの製作チームの手伝いをして、
そこでたまたまゲームコンテストの事を知って応募する。
その『マジカルズー・アドベンチャーゲームコンテスト』にて、
山中さんは見事優勝を果たした。
「そのマジカルズーでつげ義春ファンの人たちと出会って、
ソフト制作会社『ツァイト』を創立しました。
そこにはつげ先生の作品の他、評論本もそろえていて、
みんな『ねじ式』とかのつげ作品の台詞を言い合ったりしてました」
"テッテ的"とか"医者はどこだ!"とか言い合っていたのだろうか?
そこまでは詳しく尋ねませんでした。
「『ツァイト』で製作したゲームを最初エニックスに売り込みに行ってたりしたのですが、
いい返事はもらえませんでした。
そこで、アスキーに行って、古川氏という人が買ってくれました。
流通はアスキーで、製作はツァイトという形でソフトを作っていく事になりました。
当時のアスキーは社員がみんな独立したがってる雰囲気でしたね」
ツァイトもアスキー本社のある初台に構える。
「その頃、調布の国領の中華料理屋でどこかでみたような三人家族をみかけました。
旦那さんのほうはよくわからなかったけれど、奥さんがオカッパ頭で、
子供もつれていたし、もしや・・・と思って声をかけたら、
その旦那さんがつげ義春先生だったんです」
全く偶然の出会い。
これが山中さんが、ガロとますます接近していくきっかけになった。
「その時につげ先生に『ねじ式をゲームにさせて下さい』とお願いしました。
後日正式にOKの返事がきて、『ねじ式』のゲーム化が決まったんですが、
完成までには一年半か二年はかかりましたね」
その後、名作シリーズ第二弾として、ひさうちみちお『アソコの幸福』をゲーム化。
第三弾に川崎ゆきお『猟奇王』の制作を予定していたが、それは実現しなかった。
・・・2に続く。(追記は注釈説明です)
文責・構成
原田高夕己
山中潤氏の事務所にお邪魔したのは先週の土曜日。
山中さんは、どこの馬の骨かもよくわからぬ私を笑顔で迎えてくれました。
山中さんは実年齢より幾らか若く見える、
どこか浮世離れというか、飄々とした雰囲気の方でした。
まず、山中さんは「ガロ」に出会うまでの話をして下さいました。
(以下、カギカッコ内は山中さんの談話になります)
「僕は東京でうまれましたが、両親が離婚したので、和歌山に引っ越しました。
高校生の頃はっぴいえんど(注1)のライナーノーツに林静一(注2)さんら、
ガロの作家の事がかかれていて、それがガロを知ったきっかけです。
和歌山市内の二冊か三冊位しか入荷しない本屋でガロを初めて買いました。
確か鴨沢祐仁(注3)さんの『クシー君』の表紙で、他に川崎ゆきお(注4)さんや、
ひさうちみちお(注5)さんらが描かれていました」
鴨沢祐仁は1978年、丸一年間ガロの表紙を担当している。
「その頃はバンドをやっていて、テレビにも出た事があった。
音楽の他に、当時スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』が公開されて、
映画にも興味がありました。
それで、本格的に映画を撮りたいと思って、18で単身上京しました。
東京生まれといっても、友達もいないし、映画は一人では撮れない。
新聞勧誘員のバイトをしていたんですが、
みんなは仕事中のヒマな時間にゲーセンに言ってサボッてたりしてたんですが、
自分だけは仕事が終わってから一人でゲーセンにいってました」
そのゲームが山中さんの人生をまず動かした。
「ゲーセン通いもお金がかかる。ならば自分で作ってみようと思ったんです。
映画は一人では出来ないけど、ゲームだったら一人でも出来ますし。
当時は『ぴゅう太』(注6)があればゲームが出来ると思ってましたが、
アキバに行ったら店の人に『そんなんじゃダメだよ』といわれて、
マトモな『PC6001』(注7)を紹介されました」
その後、山中さんはテーブルゲームの製作チームの手伝いをして、
そこでたまたまゲームコンテストの事を知って応募する。
その『マジカルズー・アドベンチャーゲームコンテスト』にて、
山中さんは見事優勝を果たした。
「そのマジカルズーでつげ義春ファンの人たちと出会って、
ソフト制作会社『ツァイト』を創立しました。
そこにはつげ先生の作品の他、評論本もそろえていて、
みんな『ねじ式』とかのつげ作品の台詞を言い合ったりしてました」
"テッテ的"とか"医者はどこだ!"とか言い合っていたのだろうか?
そこまでは詳しく尋ねませんでした。
「『ツァイト』で製作したゲームを最初エニックスに売り込みに行ってたりしたのですが、
いい返事はもらえませんでした。
そこで、アスキーに行って、古川氏という人が買ってくれました。
流通はアスキーで、製作はツァイトという形でソフトを作っていく事になりました。
当時のアスキーは社員がみんな独立したがってる雰囲気でしたね」
ツァイトもアスキー本社のある初台に構える。
「その頃、調布の国領の中華料理屋でどこかでみたような三人家族をみかけました。
旦那さんのほうはよくわからなかったけれど、奥さんがオカッパ頭で、
子供もつれていたし、もしや・・・と思って声をかけたら、
その旦那さんがつげ義春先生だったんです」
全く偶然の出会い。
これが山中さんが、ガロとますます接近していくきっかけになった。
「その時につげ先生に『ねじ式をゲームにさせて下さい』とお願いしました。
後日正式にOKの返事がきて、『ねじ式』のゲーム化が決まったんですが、
完成までには一年半か二年はかかりましたね」
その後、名作シリーズ第二弾として、ひさうちみちお『アソコの幸福』をゲーム化。
第三弾に川崎ゆきお『猟奇王』の制作を予定していたが、それは実現しなかった。
・・・2に続く。(追記は注釈説明です)
文責・構成
原田高夕己
注1・・・はっぴいえんど
細野晴臣・大瀧詠一・松本隆・鈴木茂の4人組のロックバンド。
日本語ロックの先駆者として、余りにも有名。
代表曲「風をあつめて」は多くのアーティストにカバーされ、
現在でもCMソングに使われる等、時代を超えた名曲として名高い。
注2・・・林静一(はやし・せいいち)
1945年旧満州生まれ。東映動画のアニメーターを経て、
67年ガロにて「アグマと息子と食えない魂」を発表。
70年に代表作「赤色エレジー」を発表し衝撃を与える。
あがた森魚による同タイトルの楽曲も大ヒットする。
現在は主にイラストレーターとして活動。ロッテ小梅ちゃんのデザインでも知られる。
注3・・・鴨沢祐仁(かもさわ・ゆうじ)
1952年岩手出身。代表作は「クシー君」シリーズ。
稲垣足穂に影響をうけた世界観と、外国作品の様なセンスあふれる絵柄が特徴。
今年2008年、不慮の事故でこの世を去る。
注4・・・川崎ゆきお(かわさき・ゆきお)
1951年兵庫県伊丹市出身。伊丹市在住。代表作「猟奇王」シリーズ。
デビュー作「うらぶれ夜風」は、まさにガロだからこそ掲載されたと話題になった。
注5・・・ひさうちみちお
1951年京都出身。ガロに「パースペクティブキッド」でデビュー。
製図ペンを使用した均一な線で描かれた端正な絵柄で知られる。
イラストレーターや俳優としての活動も多い。
注6・・・ぴゅう太
トミーから82年に発売された16ビット"マイコン"
基本はゲーム機でパソコンとしても使用できるというコンセプトで、
玩具売り場で販売していた。
注7・・・PC6001
81年発売のパソコン。すがやみつる著「こんにちはマイコン」の教材にもなった。
83年に後継機PC6001mkll、84年にmkllSRが発売。
細野晴臣・大瀧詠一・松本隆・鈴木茂の4人組のロックバンド。
日本語ロックの先駆者として、余りにも有名。
代表曲「風をあつめて」は多くのアーティストにカバーされ、
現在でもCMソングに使われる等、時代を超えた名曲として名高い。
注2・・・林静一(はやし・せいいち)
1945年旧満州生まれ。東映動画のアニメーターを経て、
67年ガロにて「アグマと息子と食えない魂」を発表。
70年に代表作「赤色エレジー」を発表し衝撃を与える。
あがた森魚による同タイトルの楽曲も大ヒットする。
現在は主にイラストレーターとして活動。ロッテ小梅ちゃんのデザインでも知られる。
注3・・・鴨沢祐仁(かもさわ・ゆうじ)
1952年岩手出身。代表作は「クシー君」シリーズ。
稲垣足穂に影響をうけた世界観と、外国作品の様なセンスあふれる絵柄が特徴。
今年2008年、不慮の事故でこの世を去る。
注4・・・川崎ゆきお(かわさき・ゆきお)
1951年兵庫県伊丹市出身。伊丹市在住。代表作「猟奇王」シリーズ。
デビュー作「うらぶれ夜風」は、まさにガロだからこそ掲載されたと話題になった。
注5・・・ひさうちみちお
1951年京都出身。ガロに「パースペクティブキッド」でデビュー。
製図ペンを使用した均一な線で描かれた端正な絵柄で知られる。
イラストレーターや俳優としての活動も多い。
注6・・・ぴゅう太
トミーから82年に発売された16ビット"マイコン"
基本はゲーム機でパソコンとしても使用できるというコンセプトで、
玩具売り場で販売していた。
注7・・・PC6001
81年発売のパソコン。すがやみつる著「こんにちはマイコン」の教材にもなった。
83年に後継機PC6001mkll、84年にmkllSRが発売。