infinity>文化・歴史>メディア論 [東大教授 浜野保樹が語るメディアの革命 ]

鉄腕アトムの成功と著作権の罠
日本アニメ 輸出の歴史

2009年05月19日(Tue) 浜野保樹

日本映画海外進出の先駆け 『白蛇伝』

 東宝の草創期から映画製作の指揮をとっていた森岩雄(1899-1979)は、自伝『私の藝界遍歴』(青蛙房) に次のように記している。

  「そのころ(1950年代後半)日本内地に於いて洋画の人気も上昇し、ドルのない日本からアメリカへ毎年2,000 万ドル~3,000万ドルの金が流れていった。日本は輸出をしなければ食べて行けない国だから、映画界も大いに奮発をしなければならない。政府も輸出奨励におおわらわとなり、大がかりな制度を設け、映画もその一単位にされた」239頁。

  映画輸出に熱心になった通商産業省は2冊の『映画産業白書』を残している。昭和33年版には、「輸出適格映画」として「漫画映画」をあげ、昭和37年版には、「輸出を意識した作品」の例として、「言語風俗等にまったく関係なく、特殊な技術をいかした空想科学ものまたは動画」があるとしている。

  アニメ制作会社東映動画(現・東映アニメーション)は、まさにそのまっただ中の1956年に設立された。「東洋のディズニー」を標榜する東映動画は、映画人が輸出に最も熱心に取り組んだ時代の意気込みを体現したような会社だった。映画輸出を設立当初から目的としており、第一回長編映画『白蛇伝』の予告編に、社長の大川博(1896-1971)が登場して次のように挨拶をする。

  「皆さま、日本で初めての総天然色長編漫画映画(カラー映画) が、わが東映の手によって完成いたしました。この漫画映画は『白蛇伝』といいまして、中国の有名な昔話を題材としたのであります。皆さまご承知のごとく漫画映画は、一般の映画と比較しても、多分に国際性を持っております。そこで私どもは立派な漫画映画を作り、世界に広く進出したいと考え、昨年(1957年)の1月わが東京撮影所の中に、日本ではもちろん、世界でも珍しい最新式のスタジオを作りました。(以下略)」

  大川の挨拶にあるように、中国伝説をもとに第1回作品を作ったのも海外市場を考慮してのことだった。もくろみ通り、海外の映画祭で数々の受賞に輝き、社史によると、9万5000ドルの外貨を獲得したという。その後も手間隙かけて作られた劇場用アニメーションは海外で高い評価を獲得していたが、製作費がかさむ劇場用映画からビジネスの主軸を移さざるを得なくなる事件が起こる。1963年に開始されたわが国初のTVアニメーション・シリーズ『鉄腕アトム』のヒットと、海外販売の成功である。

アトム海外進出の立役者

 『鉄腕アトム』の放映が開始された1963年、歌手アイ・ジョージ はニューヨークのカーネギー・ホールで開くコンサートの準備のために渡米することになる。アイ・ジョージのマネージメントを行っていた広告代理店ビデオプロモーション社長の藤田潔が同行することになった。藤田は渡米するなら他のビジネスもやろうと、日本アニメーションのアメリカへの売り込みを画策する。彼の会社は、「3人のアニメーションの会」の久里洋二真鍋博柳原良平のマネージングもしていたが、彼らのショート・アニメーションだけでなく、テレビ・アニメーションも一緒に売り込もうと思い、TBSの常務に『鉄人28号』を貸すように頼むが、日本のものはアメリカでは売れないと断られる。しかし虫プロから『鉄腕アトム』(フジテレビ系列)の16ミリ・フィルムを一本借りることができた。当然、字幕など付いていなかった。

  渡米した藤田は、3大ネットワークと呼ばれていた放送局にアニメーションを見せてまわる。NBCだけが『鉄腕アトム』に興味を示し、契約にこぎ着けることができた。『鉄腕アトム』の輸出は大きな事件となり、当時の『TVガイド』誌は、こう報じている。

  「昭和38年2月1日、米国にそのフィルムが年間3億円の契約で売られると報道されるや、一夜にして町全体の名物にまでなった。『二つ返事でまとまりました。フジで使う52本を全部買い取るというものです。1本1万ドルで、手取りは日本円で1億円ちょっとというところです』。それに加えて買い取った局とスポンサーとのマーチャンダイス(取引)によってオモチャや出版の案もあり、その特許料を含めると3〜4倍になるとのこと」

  その年の9月3日にアメリカ版『鉄腕アトム』である『アストロ・ボーイ(ASTRO BOY)』が放送される。当時、NBCと関係が深かったフジテレビは、NBCが『アストロ・ボーイ』という新しいアニメーション・シリーズを放映したと聞き、わざわざ買い付けに行った。するとそこで目にしたものは、フジテレビで放映している『鉄腕アトム』であった。

  ディズニーはクリエーターとしての才能には恵まれなかったが、プロデュース力には優れていた。一方、手塚治虫(1928-1989)は漫画の神様だったが、経営者としての才能を欠いていたようで、1973年、虫プロダクションは倒産する。

※新「虫プロダクション」(1977年に新たに設立された虫プロ)

DVD不振 構築できなかった海外流通システム 

 1980年代に日本の大手家電メーカーでアメリカへのビデオデッキの売り込みを担当していたアメリカ人ジョン・オダネル(John O'Donnell)氏。サンディエゴに訪れた時、コミック・コンベンションが偶然開かれていて、覗いてみることにした。会場では日本の漫画やアニメーションが販売されており、それも半端な数ではなかった。当時、日本のアニメーションはアメリカでは市販されていなかったため、日本で販売されたものや、個人録画をダビングしたものばかりだった。

  アメリカに日本のアニメーションの市場があることを察知したオダネル氏は日本人の上司に、日本のアニメーションのビデオパッケージをアメリカで販売することを提案する。彼が勤めている会社のビデオのフォーマットは他社が採用せず、苦戦していたが、フォーマットの普及にも追い風になると付け加えたが、「日本のアニメなんか海外で商売になるわけがない」と相手してくれず、自分でアニメ・マンガ販売会社セントラル・パーク・メディア社を起業する。

  テレビ放送の『鉄腕アトム』(虫プロダクション)は、アメリカの放送局と直接交渉したが、東映動画をはじめ、その後の日本のアニメーション会社は、海外での流通を人任せにしてしまった。こうして、パッケージにおいても、日本企業は流通機構を海外で整備をする機会を逸したのであった。前述の映画プロデューサー森岩雄が海外で成功した特撮映画『ゴジラ』シリーズについて、次のように語っているが、アニメーションにおいても似た話を頻繁に耳にする。

  「この映画は自信のない商売をして安く売り渡してしまったので、これを買ったアメリカ人は大儲けをし、ハリウッドに『ゴジラ御殿』という立派な家を買いこんだという」(『私の藝界遍歴』1975年)

  セントラル・パーク・メディア社などが市場開拓を行うことで、アメリカや海外でのパッケージ市場が顕在化し、著作権を保持している日本の企業が海外市場に乗り出していった。海外の会社は人気作品を買い付けられなくなり、さらにはインターネットでの違法視聴が追い打ちをかけ、セントラル・パーク・メディア社は2009年4月倒産し、会社精算の憂き目にあう。

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