今の臨時国会は「熟議の国会」だそうである。あまり耳慣れないことばだが、deliberative democracyの訳語だろう。これは1990年代に欧州で流行したもので、代表的な論客はハーバーマス・・・といえば想像がつくだろうが、「参加民主主義」とか「直接民主主義」とかいう類の話だ。ねじれ国会で多数決を使えない民主党が、苦しまぎれに「話せばわかる」という意味で持ち出したのだろうが、文脈が違う。
おまけに文科省は「熟議カケアイ」とかいうウェブサイトまでつくって「元気な日本枠」の予算獲得に利用しようとしている。商魂たくましいと言うべきか、意味もわからずバズワードにすぐ食いつく官僚(正確には鈴木副大臣らしいが)の浅はかさというべきか、見ていて恥ずかしい。
こういう「コミュニケーション的理性」で市民的公共性が形成されるとかいう類の啓蒙主義は、もう思想的には葬られたものだ。民主主義が合意による統治だというのは、井上達夫氏の言葉によれば「便利な嘘」にすぎない。論理と説得で政治が動くなら、政党も選挙もいらない。民主主義とは議論するための制度ではなく、利害の対立する中で国家意志を多数決によって決定する装置である。
もちろん民主主義には多くの欠陥があるので、「ネット世論」がそれを補完して無党派層の声を代弁し、それが政治家に一定の影響を与えることもあるだろう。しかし人々がつねに熟議によって政治に参加するのは不可能であり、望ましくもない。すべての国民が「主権者」であるというなどというのも法的なフィクションであり、多くの国民は政治なんて面倒な問題には興味がない。
Posnerも指摘するように、代議制は有権者の情報コストを節約し、政策を「商品」として提供する政治家を競争させる、一種の市場メカニズムである。市場のメリットは、消費者が商品がどのようにつくられたかを知らなくても、価格だけを見て意思決定できるところにあるのだ。国民の生活には、政治よりも大事なことがたくさんある。必要なのは政治に参加することではなく、政府が余計なことに口を出さず、生活の中で政治の領分をできるだけ小さくすることだ。
こういう「コミュニケーション的理性」で市民的公共性が形成されるとかいう類の啓蒙主義は、もう思想的には葬られたものだ。民主主義が合意による統治だというのは、井上達夫氏の言葉によれば「便利な嘘」にすぎない。論理と説得で政治が動くなら、政党も選挙もいらない。民主主義とは議論するための制度ではなく、利害の対立する中で国家意志を多数決によって決定する装置である。
もちろん民主主義には多くの欠陥があるので、「ネット世論」がそれを補完して無党派層の声を代弁し、それが政治家に一定の影響を与えることもあるだろう。しかし人々がつねに熟議によって政治に参加するのは不可能であり、望ましくもない。すべての国民が「主権者」であるというなどというのも法的なフィクションであり、多くの国民は政治なんて面倒な問題には興味がない。
Posnerも指摘するように、代議制は有権者の情報コストを節約し、政策を「商品」として提供する政治家を競争させる、一種の市場メカニズムである。市場のメリットは、消費者が商品がどのようにつくられたかを知らなくても、価格だけを見て意思決定できるところにあるのだ。国民の生活には、政治よりも大事なことがたくさんある。必要なのは政治に参加することではなく、政府が余計なことに口を出さず、生活の中で政治の領分をできるだけ小さくすることだ。
コメント一覧
言葉としての「民主主義」は既にあまりに神格化されていて、様々に解釈可能です。共産主義的な「集中民主制」と西洋型民主主義でも、その内情は大きく変わります。
一つの政策であっても様々な側面を持ち、メリットとデメリットのウエイトの取り方でその是非は論じられます。そして、メリット、デメリットは政策を唱えられた時期や目的によって変化します。例えば、高速道路無料化政策は野党だった民主党が選挙で勝利するためにはメリットの大きかった政策ですが、選挙で勝利した後ではデメリットの大きいものになりました。
政策は実施する前には判らない問題点も内包していますから、事前にそのメリット、デメリットを可能な限り精密にシュミュレーションする必要があります。その為に多くの視点からの意見を集め、これを分析するべきです。その意見集約のための最高の機関として国会があると私は認識しています。そして、可能なかぎり効率的制度を設計する。しかし、それでも実施した後に改善点が見いだされるのは間違いありませんから、順次改良して完成度を高める、その為にも国会は活用されるべきでしょう。
「西洋型民主主義」は常に多くの視点からの意見を求めてその諸制度の正当性を検証、補強することにより、その有効性ゆえに国民から必要とされ支持され、よって国内に安寧と希望を与えることができます。メリット、デメリットが明確になった後でも、そのウエイトをどう取るかで意見が分れるでしょう。その時こそが政党の理念が問われる時で、国民は選挙における投票行動をこれを見て決定するわけです。
選挙目当ての人気取り政策を与党内で決めて多数を取ったからと言って強硬採決を繰り返した鳩山首相の国会運営は上記の理由から本来の西洋型民主主義とは似て非なるものでした。数が多いから正しいのではない事を果たして管総理は学習できたでしょうか?
私は、自分の専門分野では一人のプロとして、他分野のアマチュアの方が余計なことを考えなくても皆さんがより良く生きていけるように、日々努力と研鑽と積んでプロの技を社会に提供してその見返りに報酬を得ています。立場をかえて、私がアマチュアの分野は、その道の専門家にお任せして報酬を支払っています。政治家もプロであるならちゃんとプロとして一人でしっかりと仕事をしてください。私が政治に関わるのは、選挙の時の一票だけにして欲しいと思います。私はこんなとこでコメントできるほど時間的余裕があって申し訳ない気持ちですが、世の中本当に忙しくて熟議なるものに参加できるほど暇じゃない仕事人はいっぱいいて、その人達の声が届かないのは全く民主的ではありません。
日常的に多数決に直面する人々が数の暴力に無理解なはずがないと思いますので、逆手にとった攻方だと思いますけど・・。
個人的な妄想を申し上げると・・
政治家は国民から委任状をもらったエージェントだと思います。国民は、より信頼できるエージェントに委任状を渡す。エージェントが競争によって生き残るには、顧客たる国民からより多くの委任状を獲得しなければならないのです。もし、エージェントの質に失望するなら、エージェント市場の質を変えなければなりません。結局、市場の資源を制約する顧客たる国民の質を変えなければならないという話に帰結します。参加民主主義は国民の質を変えるというお話で、合意について結果に過ぎないと思います。政治の質にこだわるなら、国民は政治に参加せざるを得ないと思います。一つ一つの政策がというお話ではなくて、どういう国家を作るかというお話です。ビジョナリーカンパニー流にいえば「時を告げるのではなく時計をつくる」仕事なのではないかと思います。
逆に、政府に余計なことをさせないために、政府の役割を憲法か何かで縛ってしまえば、政治の質なんてさほど気にならないかもしれません。だけれども、危機のようなものが一つ起きれば簡単に瓦解してしまう制度のような気がします。
私は民主制は主義(イデオロギー)ではないと思っています.
民主制だろうと君主制だろうと共産制だろうと, 社会がうまく運営されていれば十分です. 現在でも君主制の小国があります. 原始共産制だったアメリカインディアンの社会は, 白人が来るまで問題ありませんでした.
しかし, 社会が大きくなり複雑化すると, 君主制や共産制は難しくなってきます. ダモクレスの剣の逸話のように王1人が決定権と責任を負う制度では, 対処しきれなくなります. 共産制も同様です.
私の見る民主制とは, 決定権と責任を分散するシステムです. これは優劣ではなく特徴です. もちろん制度設計はかなり難しく, 大英断もできる必要があります. 菅首相の「議会制民主主義というのは期限を切ったあるレベルの独裁を認めることだ」という発言は時間軸方向への分散を意味し, 本質を突いていると思います.
同様に市場とは, 経済活動における決定権と責任を分散するシステムです. 巨大化・複雑化した経済を中央が全てコントロールするのが難しいのは, 全く同じです. 江戸時代の日本の商人はそれを既に理解していて, 世界初の先物取引市場を作ったのでしょう.
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余談ですが, 決定権と責任は必ずセットのものです. しかし決定権だけ欲しがり責任をまぬかれようとするのが現れます. 官僚はしばしばやります. 最近だと, 検察審査会は決定権だけあって責任を負わない集まりのようです. 正直言って何もわからないので論評が困難なのですが, 説明責任ぐらいは果たしてほしいものです.
>Posnerも指摘するように、代議制は有権者の情報コ
>ストを節約し、政策を「商品」として提供する政治
>家を競争させる、一種の市場メカニズムである。
17日の日経朝刊で宇野東大准教授も似たようなことを述べられていますが、「多様な利害を前提とする政治は『これが日本全体の利益だ』を絶えず再定義しつつ、政策パッケージをつくらなくてはならないので」利益第一の市場メカニズとは一緒にできないとも指摘されています。