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[21440] 憂国
Name: ---◆b6852166 ID:74ed470d
Date: 2010/09/03 18:35
 窓から射す光が、美しく伸びている。
 少女はゆっくりと青の絨毯を踏み、彼女が訪れることを知る奉公人が活けてくれたのだろう、眠るこの部屋を行くその頬を柔らかに芳香が過ぎていく。
 母親と弟と共に、彼女は会合のためにここへ来た。
 大切なことを話し合う重要なものであることを少女は知っていたが、机の向こうに座るであろう、その人たちと顔を合わせることに彼女は気が引けた。
 母を残し、彼らと顔を合わせることもなく、彼女は席に着くことはしなかった。
 幼い弟を連れ少女はこの広い屋敷を歩きまわり、疲れたのだろう、母のもとへ戻るという弟を人に預け、一人になった彼女は、逃げ込むようにこの部屋にやってきた。
 部屋の中心、彼女が足を止めた先には、一枚の肖像画が掛けてある。
 それは変わらぬ姿で、温かく彼女を向かい入れ、彼女の足はまた一歩、彼へ向かう。彼、――少女の父親は、ここではない静かな丘で眠りの中にいる。
 写真がないわけではない。しかし彼女は、この画を好んだ。穏やかな陽に照らされ、今このとき、彼はこの画のように彼女に微笑みかけているようで、彼女の心に酷く染み入るのだ。
 窓の外で、声がする。
 母と弟のものであるそれに、逸れることのなかった彼女の視線は光の方へと向かう。つられるように楽しげに、足も自然と窓に向かい、彼女の頬は小さく緩む。
 そして平穏の陽のもと、一つの銃声が鳴った。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※※
大変申し訳ないことに、時差があった関係ではじめの方の文章が非常に読みにくいものになっております。
後ろにいくほど改善されていると思いますので、途中からでも、お暇があれば是非覗いてみてください。

→模索中。ご意見お待ちしております。

初投稿です。
お見苦しい点も多々あるとは思いますが、楽しんで頂ければ幸いです。



[21440] Ⅰ-1
Name: ---◆b6852166 ID:74ed470d
Date: 2010/08/25 02:34
 太陽はどこだろうか。
 青い空がただ美しく広がるこの見上げた先には、鳥も雲もなく、光はとろけるようにやわらかく彼の瞳になじんでいく。
 何も遮るもののない、空の底が――見上げているのに覘いている気分にする今日の不思議な空の底が、この眼ひとつで見えてしまいそうだ。
 木箱の上に寝転ぶリツは、ひとつ舌打ちをする。
 けだるい体を預けた先、見計らったようになぜこんな青空が目前に用意されているのだと、彼は苛立つ。青く透き通るこの清々しさは彼にとっては皮肉そのもので、彼自身それが単に言いがかりであることはわかっていても、不愉快を隠すことはしない。いや、隠すことが出来ない。この空とは裏腹に、彼の中では沸々と邪魔なものが湧き出して、そればかりに支配されてしまう。
 馬鹿にしている、と思うのだ。この空が自身を。
 なぜ、と聞かれればリツは答えに困ってしまう。直感と言ってしまえばそれまでで、直情であるが故にうまく処理できない。しかし、彼はそもそも根拠の不在を好しとしない男である。自身の中にこの感情の理由を見つけることが必要だ。だけれど、この直情はけだるさに拍車をかけ、彼をその作業から遠ざける。捌け処のない苛立ちは蛇のように体の中を這い、彼の口は知らないうちに歪み不機嫌の体はますます濃くなる。
 この苛立ちから脱することは難しい。ならばいっそのこと瞼を閉じてすべて忘れてしまおうか、そうちらりと思ってリツは躊躇する。不愉快で面白くもない、だがどういうわけか心地悪いわけではない。
 矛盾を抱えながら、彼は空と格闘を続ける。ここに留まることは苦痛であり苦痛ではない。
 そうして、ふと突然呼吸を意識してみる時のように、彼はここが無音であることに気づく。
 刹那、目の前が黒一色に染まった。
 急な光と一気に帰ってくる賑わいの声と足音、そこに混ざる不気味な声、極めつけは黒光りの中に写りこんだリツ自身の顔、それが不自然なほどに近い――
「うっ――」
 出た声ははじめの一音だけだったが、体は瞬時に反応し、彼は全速力で後退る。あまりの勢いに、ベッド代わりにしていた木箱から落下し、さらに後頭部を強打、しかし衝撃に他ならない驚きが、頭部の痛みに勝る。混乱する頭の中と愕然とする心拍数を必死に払いのけ、
「っざけるな!」
「あら酷い。うなされてたから起こしてあげたのよ、親切にも」
「うなされてた方がまだましだ!」
 夢に出そうだ、と呼吸を整えつつも見てしまった恐ろしい画に頭を抱えるリツの横で、酷いわーとわざとらしく傷つく彼、改め自称彼女は屈めた体を起こす。
 ジルはいわゆる性別を飛び越えてしまった存在で、唇は艶やか、きれいに整えられた金髪の少し長めのショートヘアーは毛先がおしゃれに巻かれている。それだけならまだしも、鍛えられた筋肉と生まれつきの褐色の肌が似合い過ぎる立派な体格、上背もある。常にかけている黒のサングラスが不気味さを倍増させており、もはや何を目指しているのか全くわからない、とリツは思うのだが、不思議なことにこの街では彼が注視されることは少ない。
「大体店番はいいわけ?」
「……うるせぇ」
 もっともなことを言われリツは返答に詰まる。穏やかに時が刻まれるこの街では、物を盗られる心配はほとんどないが、商品を見張るだけが物売りの仕事ではない。
 些かふてくされたまま、リツは辺りを確認する。 
 赤レンガが敷き詰められた眩しい広場の中で、布を張っただけの簡単な屋根と並ぶ木箱、キャベツやらかぶやらが積まれたその向こう側には、それらを目に留めながら人々がにぎやかに行き来する。途切れることなく、カラン、とぶら下げられた空き缶にはコインが入れられ、木箱の中身は次々に買われていく。
左右も、流れていく人のその向こう側にも、彼と同じようにその日限りの露店を広げ、商人やら農夫やらが元気よく客引きをしている。カラリと晴れた天上では頂上に近づきつつある五月の太陽が軽やかな白で輝き、雲も鳥もゆったりとそのもとで優雅にたゆたう。
 いつ現実が飛んでったと、耳を間断なく賑わす中でリツは眉を顰める。
「豪気なもんね、この街の住人は。混乱の最中にあって普段とまるで変わらないんだもの」
 リツに倣い人ごみを眺めていたジルが感心しているような、呆れたような、どっちつかずの態度で言う。
「王家が勝手に騒いでるだけだろ。そもそも知らされてない」
「公表されてなくたって、市民というものは本来変化には敏感なものよ。ただでさえ情報管理は甘甘なのに」
 その分こっちはやりやすいけど、とジルは微笑する。
「面白かったでしょ? こないだの」
「そこそこ」
「そこそこ? 素直じゃないわねぇ、譲りがいがないわ。もっとこう、輝く少年の瞳!みたいなのがないと。若さが足りないわ、若さが!」
「今月のは?」
 ジルの大げさなブーイングを、なるべく視界から外しリツは促す。
「やっぱり気になってるんじゃない」
 ジルは尖らせていた唇をにやりと持ち上げる。そして彼はぶら下げていた鞄の中から紙袋を取り出し、用意されていたリツの手のひらに乗っけた。
 中には本が一冊と雑誌が三冊。雑誌と言っても絵の描かれた表紙はでたらめで、中身は文字で埋めつくされている。リツはそのうちの一冊をぱらぱらとめくり、大雑把に確認してから、今度は本のほうを取り出す。
「積極防衛論?」
 尋ねながら彼はページをめくり、文字を追っていく。
「お隣フィオレダ王国の流行」
「中身は?」
「まあ、それなりに役に立つわよ」
 視線を落としたままのリツは、ふーん、と簡単な返事だけを返して、それから二、三ページをざっと眺めると、パタンという音とともに本を閉じた。
 そして、受け取ったものはしっかりと懐に抱えつつ、リツは再び要求の手のひらを上げる。
「……なによ?」
「こないだの、ちゃんと届いたって連絡入ってんだろ? 報酬」
「あら、先払いしてあげたじゃない?」
「あんなんで足りるか! なにが年代もののワインだ、取引禁止の拳銃運ばせやがって」
「ちゃんとワイン入れたけど?」
「あんな雑なカモフラ、入れたうちにはいるわけねえだろ。俺が兄貴と憲兵の目をごまかすのにどれだけ苦労したと思ってんだ。盗賊の類にはやけに絡まれるし、お前んとこの情報管理こそ怪しいな」
「うちの管理はいつだって万全よ。それに、そんなの全部いつものことじゃない」
「だったら中身をごまかす必要もないだろ。倹約なら他でしろ」
「そもそも、どっかの誰かさんが、雑なワインのカモフラで騙されちゃったのが原因じゃないかしら?」
「うっ」
「ま、私に寄せるその絶大なる信用は買ってあげるけど」
 うふっ、と自信たっぷりの笑みを向けられ、リツは過去の自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
「報酬ねぇ、小銭集めて何したいか知らないけど、どうするつもり? もう〝お祭り〟も終わり。今立たないとこの国ではあきらめる他ないかもよ」
 冗談の延長のような口調でジルは問う。リツの耳からこの賑わいがわずかに遠ざかる。
「世の中貴族様至上主義なんだから、儲けたいなら混乱に乗じるのが一番。シュドル陣営にちょっとでも貢いどけば足場は簡単に作れるわ。口利いてあげてもいいわよ、安価で」
 にやりと口角を上げるジルとは裏腹に、人ごみを眺めるリツの表情は変わらない。
「そう簡単にいくもんでもねえだろ」
「まあ、末はうちで使いっぱぐらいはやらせてあげてもいいわよ」
 リツは黙り、穏やかな喧騒が二人の周りをくるくると回る。
「……俺にも立場がある。村は離れられない」
「あんたって意外と律儀よねぇ」
「そういう決まりだ」
「掟なんて守る柄だったかしら?」
「そういう問題じゃない」
 一向に顔を上げないリツに、しかしジルは口角を下げようとはしない。
「勿体ないわー、こんな商売のしやすい国、めったにないのに。こうして野菜売って、それでいいの?」
 大げさに立ち回り、ジルはしゃがみ込むリツにあわせるようにわずかに身を屈めた。
「ホントは試してみたいってうずうずしてるくせに」
「くどい!」
「あら怖い」
 思わず睨みつけた先で、怒ったわー、とけらけら笑うジルとかち合い、リツは面白くないと描いた顔を再び雑踏に戻す。
「もういい、早く帰ればいいだろ」
「いやよ、アイくんにも会いたいしー」
「兄貴ならまだ帰って来ねえよ」
「あら残念ねぇ」
 追い払う態度のリツにまるでジルは怯まない。
「なら仕事の話ね。今回の雑誌代埋め合わせてもらわなくっちゃ」
「こないだの分でイーブンだ」
「それこそ足りないわ! あんた、相変わらずあれの価値がわかってないわね。あたしの素晴らしい実力がなかったら、あんな高度な情報は手に入らないの! おまけに今回のは特別大変だったんだから」
「わかった、わかった」
 乱暴に繰り返し、リツは文句を投げつけ迫りくるジルを追い払う。わかればいいのよ、とジルはにんまりと笑い、近づけた顔をもとの位置に戻す。
「あんた、今日は二条村経由帰るんでしょ?」
「そうしろっつーなら、それで帰るけど」
 リツはなおざりに答える。
「ならそうして。今夜出発すれば、三日後には着くわね。今回も運び屋さんよろしく」
「今度はなんだよ」
「今度こそ年代物のワイン」
 即座に返ってきた疑いの目を、ジルは心外だという態度で受け、
「今度こそホントよ」
 言葉に少しの重みを乗せて答えた。
「……ワインじゃなかったら、今度こそ大金払わせる」
 不服ながらに了承すると、リツはようやく店番に立ちあがる。
「十八時、大手通り、十一番目ね」
「夜? これから持ってくるんじゃないのか?」
 行きがけのリツは足を止め振り返る。
「まだこっちに届いてないのよ」
 相変わらずしれっとしているジルに、リツは不審感を練り上げる。
 しかしそれに言及する前に、彼の後頭部に声がぶつかる。
「ごめん、遅くなってしまった」
 名前を呼ばれた先を振り返れば、そこにはレンガの地面を鳴らしながら台車を引く青年がいた。
 人ごみを上手く避けながらやってくるその姿を認めると、ジルはリツに向き直り、
「おにいちゃん、随分早いお帰りねぇ」
 にやりと笑った。
 アイくーん、と早速手を振るジルに気づいたアイは明るい笑顔で答え、店に帰ってくるなり、丁寧に挨拶をした。
リツとジルの取引などまるで知らない彼だが、それでも弟の年の離れた友人としてジルになんの疑念も違和感も抱かないらしく、リツは彼の感覚と、自身における兄の認識を心配せざるを得ない。
 いつも弟がお世話になっています、と和やかに言うアイの横で、リツは苦い顔をする。
「外の配達に行ってたの?」
「はい、おかげ様で最近は箱での注文も多いんですよ。ああ、よかったらいくつかどうぞ」
 そう素直に笑うアイは大きな紙袋を手にすると並べてあるものを次々に詰め込んでいく。
 彼は目元が些かきつく鋭い印象を人に与えるリツとは違い、親しみを与える緩やかな曲線を持ち、柔和な面持ちをしている。よく見れば、二人は輪郭や鼻など似ているところのほうが多いのだが、一見した印象に性格の違いが手伝ってか、ジルを含め似ていないと判断するのが大多数である。
「嬉しいわぁ、すっごぉくおいしいからいつも助かってるのよぉ」
「こいつにそんなにやらなくていい!」
 リツは慌てて阻むが、努力むなしく、ジルは紙袋を両手にずっしりと提げ、帰って行った。




[21440] Ⅰ-2
Name: ---◆b6852166 ID:74ed470d
Date: 2010/08/25 02:35
 荷台を覆う布越しに、差した夕日がそこかしこに色をつけ、そこに立つリツの頬も腕も、すべてが赤く染まっている。
 街灯の明かりが徐々に灯され、賑わいが過ぎ去った広場は、静かに夜を待っている。
 夕日を眺めるように浮かぶ雲は黒く伸び、赤いレンガはさらに赤く輝く。店仕舞いに追われる人々の、時折上がる笑い声は爽快に響きわたり、この壮大な美しさによく似合う充足感が満ちていた。
「あとは?」
「これで全部だ」
 ふうーっ、と二人は汗を拭う。
 車の荷台は、彼らの帰る村のために街で買い揃えた品々で既に半分以上が埋まっている。それを整理しながら、商売道具の畳んだ天布やら空の木箱やらをやっと積み終え、彼らの帰り支度もようやく成った。
 まだ残る人々を注意深く避けながら、車を走らせ二人は広場を後にする。
夜を照らす街灯を両端に見ながら、歩く人を抜き、いくらかの馬車や車とすれ違い、彼らはゆっくりと街を進んでいく。
大手通りの途中、車を道端に寄せリツは運転席から降りる。
「すぐ戻る」
 乗車席のアイに断り、彼はバタンとドアを閉めた。
 車から登る白い蒸気の中をくぐり、リツは通りの端にひっそりと構える路地へ進んでいく。
 道はそれほど広くない。並ぶいくつかのバーが玄関口を照らしているおかげで暗くはないが、それも奥に行くほど少なくなり、ついには壁ばかりの暗闇になった。
 雲の中を出入りする月明かりを頼りに進むうち、夜の冷えた空気が急にはっきりと肌に触れ、リツはいくらか身ぶるいする。
「こっちよ」
 声は後ろから投げられた。彼は気づかず通り過ぎたが、細い別れ道があったらしい。
 リツが振り返ると、暗い壁の切れ目で、明かりも持たずに女性が立っていた。
 なだらかに波打つ茶色の長髪、黒縁の眼鏡をかけた彼女は、その顔立ちの美しさもさることながら体の均整もとれた、まさに美女というに十分な人だった。
「シェイラ?」
 こんばんは、と微笑した彼女にリツは怪訝そうな顔をする。
「あら、私じゃだめなの?」
「ただのワインだろ? なんでわざわざ」
 彼女はすぐに踵を返し、続くリツも細く分かれた路地のさらに奥へ進んで行く。
「変装までして」
「ワインだって、高価なものなら金塊にだって化けるのよ。厳重にするに越したことはないわ」
ここ、と彼女は壁ばかりのなかに埋まる、古びた小さなドアの前で止まった。
 音を立てながら開いた中にも、やはり明かりはない。
「重いから気をつけて。取り扱いは厳重にね」
 闇になれた目を注げば、木箱がひとつ、台車の上に乗っている。
 高さはそれほどないが、幅は両腕を広げてやっと端から端まで抱えられる大きさだ。
「二条村を回って帰るんでしょ?」
「ああ、受け渡し場所は?」
 殆ど幅に余裕がない戸口を丁寧に通して外に出し、メモを受け取りそこでシェイラとは別れた。台車を押す感覚はずっしりと重い。
「兄貴」
 まっすぐ伸びた大手通りの終わり、遠く正面に見える王宮を囲んだ城壁をじっと眺めていたアイは、ガラスを叩く声でようやくドアを開ける。
「どうした? なんかあったのか?」
 尋ねたのはリツだ。アイの眺めていた先を彼も注意深く眺めてみる。しかし街灯が照らす城頭では、黒き梟の標された王家の御旗が羽ばたくように閃き、いつもと変わらぬ姿で城はそびえている。
「いや、なんでもない。お前の用は済んだのか?」
「荷物が増えた。積むの手伝ってくれ」


「ああそうだ!」
 そう思い出したようにアイが言ったのは、石壁に囲まれたこの街の南東、東門を出た頃だった。
 南北と東西に伸びる二つの山脈が丁度交わる、その裾に構えられたこの街には東西と南、街と外をつなぐ三つの門がある。夜に沈むと共にたった今、それが閉じられた音を背で聞いたリツは、読んでいた雑誌から顔を上げアイの思い出し事に些か身構える。兄が抜けているのは、弟であるリツが身に沁みて最もよく知っている。万が一街での用事だと言い出せば、朝まで待たなければ戻れず、予定が崩れてしまう。
「帰りにミナキのところに寄って行かないと。今季の出来を見せ合う約束をしてたんだ」
 ああそういえば、とリツも思い当たるところがあったらしい。
 しかし、彼はちょっと考える。二人の友人である、ミナキ、彼の住む村はここから東に進んだ山の向こうにある。リツが通過点としようとしていた二条村も東に進んだ先にあり、最終的な受け取り場所へ向かう方向としては、どちらを選んでも問題はない。むしろ彼の住んでいる村は距離にしてみれば二条村よりもここに近いのだが、山間にあるため道のりが複雑で、山の中をいくらか北に迂回せざるを得ない。
 城下に通ずる山であるから、山道はそれなりに整備されている。だがそうは言っても暗闇で簡単に進めるほどのものではないし、山賊の類も潜んでいる。王家のお膝元といえども、完全に取締まるには連なる山は広すぎるのだ。夜の山を進む者は稀である。
「なら、そっちで行くか」
 夜の山を進む者は稀、つまり山道は空いている、ならば問題ないというのがリツの結論である。
 頷くアイはハンドルを左に切り、車内に吊るしたランプが揺れる。月は相変らず気まぐれに雲の中をくぐり、ヘッドライトが淡く灯っているものの、視界はすこぶる暗い。リツが雑誌を読むのに灯したランプも、絞ってあるとはいえ、窓を反射してさらに視界を悪くしている。しかし夜目のきくアイにとってはあまり関係がないらしく、運転に滞りはない。窓の外を田畑ばかりが穏やかに過ぎていく。
「シュドル第二王子優勢決定的、第一王子カナト巻き返しは絶望的――」
 雑誌に顔を戻したリツが急に、その一文を読み上げた。
「ん? なんの話だ?」
 顔はガラス越しに続く暗路に向けたまま、アイが首をかしげる。
「国勢の話」
「国勢? この国のか?」
「そう、殊に王家の」
 王家、と再びアイが疑問符を付けて繰り返す。
「王位の相続で皇室同士が遣り合ってたんだが、それが終わりそうだ」
 うん、とアイは少し困ったように返事をする。それから、彼は少し考え、
「お前はそういうのをいつも熱心に読んでいるが、俺たちにあまり関係なくないか?」
 アイの疑問ももっともで、そもそも彼らはこの国の国民ではない。
「そうとも言い切れねぇよ。王が変わって外からの物売りに規制が増えた、なんて話は他国でもある」
「ああそれは困るな。他の街に行くとなれば買い物する店をまた一から探さなきゃならない」
「あいつらの要求は変なものばっかだから、下手したらわざわざここに寄るはめになるぞ」
 リツは明らかに嫌そうな顔をし、アイは唸り考えこむ。
「変わらないってことはないのか」
「いや、先王はもう死んでる」
 アイは思わずリツの言葉に顔を向ける。前前、とリツに冷静に注意され彼は顔を戻す。直線が続くあぜ道を抜け、もう山の入り口に差し掛かっている。方々に曲がり、高低もある山道はただでさえ車輪を取られやすい。
「そうか、まるでそんな雰囲気がなかったから気付かなかった」
 神妙に言うアイにリツはため息混じりで答える。
「そもそも先王の急死がお家騒動の原因だ」
「……ああなるほど、それでか」
「なにが?」
 今度はリツが疑問符を浮かべる。
「ん? あれ、ここは左でいいんだよな」
 しかしアイは答えずに、車はゆるゆると自信なさ気にスピードを落とす。もともとなおざり整えられた上に、さらに山を縦横無尽に廻る山賊道やらで、木々に覆われ月明かりが奪われた暗い山の中ではどれが本道だか判断は難しい。
「右だ右」
 とはいえ何度となく通った道筋だ。リツは目を棒にしてなおざりに指示し、先ほどの疑問の方に話を戻す。
「いや、なんだか付けられているようだから変だと思ったんだ」
 今度はリツが目を丸くする。
「俺たち国籍不明だから、きっと疑われてるんだろう」
 犯人に、と悠長に言ってのける様にリツはまた長いため息を漏らす。
「急死っつってもただの病死だ。暗殺とは言ってねえだろ」
「そうか」
 口だけで答えるアイは、既に辺りを窺うことに集中し始めている。
「そうだ。で、いつから」
「門を出たときにはもういたな」
「ならもっと早く言え!」
「一台回り込んで来てる」
「距離は?」
 リツは乱暴に聞くが、彼にも思い当たる節がないわけではない。
「まだある」
「よし、なら一回止めてくれ」
 リツがドアを開けかけたところで、アイが、あ、と些か緊張感に欠けた声を上げた。と同時に車は俄かに減速する。
「やられた」
 銃声はリツも聞いた。嫌な予感が彼の中で確実に現実に近づいてくる。しかし、ざらりとしてただ居心地の悪い、いつものその感覚の中にいて、閃きに撃たれるような眩しい衝撃を彼は確かに感じる。
「おそらくどこかのパイプだな」
 アイの声で、リツははっとする。
「この距離でパイプに穴を開ける威力、間違いない、新型だ!」
 がばっと勢いよく顔を上げ、子供のように瞳を輝かせたのはアイ、裏腹にリツの頭は一気に冷静さを取り戻す。
 彼は一見ただ喜んでいるように見えて――実際喜んでいるだけなのだが、その目を爛々と輝かせるのは一種の殺気であることをリツは知っている。
「これは勝負するほかない」
 楽しそうに言い切る兄に、リツは頭に痛みを覚える。
「出来れば持って帰りたいが斬りに行くには遠すぎる」
 捲くし立てるアイは座席の裏をガチャリと重みのある音をたてて漁り、そして三本の、それぞれ形の違う剣を取り出した。それらを見比べ、少し考えてから、彼は片刃の一本を選び、残りをまた座席裏に放り込む。
 リツはリツで、座席横に差すように置いてある拳銃を手に、その弾数を確認してから、再びドアに手をかける。
「敵がいんのはそっち側だよな?」
「今のところはな」
 その言葉に首根っこを捕まれたみたいにリツは構えた体を翻す。
「おい、そんなに数が――」
 リツが最後まで言い切る前に、アイは勢いよく飛び出して行く。おい、と慌てるリツだが、すぐにまた一つ銃声が響いて、彼は即座に腕を伸ばしアイが開け放したままのドアを引っ張り閉じる。兄の姿はもうない。
 はあ、と苦労の色を浮かべて眉間に指を当てた、その時、リツは再びの銃声とピシリと裂けるような小さな衝撃音に凍り付く。
 目前のフロントガラスに螺旋状の亀裂が走り、その中心には鉛玉が突き刺さっている。
 ばっと音が立つほど唐突に、リツは車を飛び出した。開け放したドアを背にまっすぐ荷台へ走り、そしてひょいと軽やかに飛び乗る。
「どうかしたか?」
 その姿を尻目に見たアイが剣を構えたまま尋ねる。そうしているうちにも飛んできた銃弾がアイの横を過ぎるが彼に気にする様子はない。
「数はいくつだって聞いてんだよ!」
「狙撃手二人の一台には回り込まれたが、他の三台はまだ遠い」
 多いな、とリツは苦い顔をする。
「時間がない。遊ぶのも大概にしてやられたパイプの切り替えをしねえと」
 言いながらリツは目的の木箱の上に乗った、邪魔な物をどけていく。
「三台くらいならやれるさ」
 にやりとアイが暗闇の中で攻撃的な笑みを浮かべる。
「冗談はよせ、この攻め方山賊にしては上等すぎる」
 リツの言葉尻に響く銃声と同時に、アイはきらりと一瞬のうちに、その刀身から鋭く光を放ちながら剣を振るう。乾いた短い高音ののちに、振り切られた彼の剣もぴたりと止まり、構えを下ろしたアイはそのまましゃがみ込む。
「おい、聞いてんのか!」
 ああ聞いてる、と答えはするものの地面に落ちた鉛玉を持ち上げ、アイは難しい顔をしている。リツは疲労の表情を覗かせ、あきらめたのか、
「せめて前でやってくれ、あれじゃあガラスがもたねえ」
「あれは特別丈夫だから平気だろう。それに後ろの方が腕がいい」
 アイは再び剣を構える。リツも今度はため息を付く暇も惜しみ、彼自身の目的に頭を切り替える。
 シェイラから受け取った木箱のことである。
 街から付けられていたとなると、原因はこの木箱を除いて他にない。それにこの敵の手法、彼は自身の立てた仮定にそれなりの自信がある。他の木箱も退かし、彼は目の前の木箱を開きに掛かる。ヒップポケットから小ぶりの鑿を取り出し、念のための拳銃を片手にぶら下げたまま、四辺に付けられた金具を落として行く。
 一つ、二つ、三つ、無言で彼は数を数える。鬼が出るか蛇が出るか、ろくなものを寄越さないという点ではリツはジルを信用している。リツにとってこの木箱は、不吉で幸福な玉手箱に違いない。期待感で彼の胸は躍る。
 上下に手をかけ、彼は迷うことなく一息に蓋を持ち上げた。
 ――ボトルワインが数本、きれいに収まっている。
 その形にラベル、彼にはすべて見覚えがある。前回ジルにつかまされたものと寸分変わらない。何かに急かされるようにリツは更にそれらを掴み出す。転がるのも構わず床に次々に投げ出し、残った木枠も取り払い中を覗き込む。
 しかし、何もない。
 厳密言えば、覗いた先にはワインがまた数本、同じように並んでいる。そしてその下も、そのさらに下も、中にはワイン以外に何もない。
 リツは木箱にドスンと体が沈むままに、音を立てて寄りかかった。幾本のボトルを転がしたまま、目を瞑り押さえつけるように息を吐く。
 彼はそれに何の価値も見出せず、おそらくこのワインにも大した価値はないのだろう。何の変哲のないつまらない箱には、面白味も利用価値もまるでない。
「一体何の当て付けだ」
 リツは苛立つ。興が醒めた彼は渦巻く失望と倦怠感で、酷い不愉快に襲われる。しかし何よりついさっきまでの感情を 自分自身に突きつけられたようで面白くないのだ。自分の中身を鏡で見せつけられた気すらする。だが彼は、その姿を認めるわけにはいかない。リツは乱暴に苛立ちを噛み潰す。
 冷静にもとのように片付けをして、彼は一人荷台を降り無防備に乗車口へ歩いた。開けっ放しのドアが、盾となって一発、また一発と緩やかな間を持って放たれる銃弾から彼を守る。それに目を呉れることなく、フラリと助手席にたどり着き、彼は乱暴にドアを閉めた。
 フロントガラスには、もともと用意してあった弾除けの特殊な布を、先程荷台で操作し、下ろしてあるから、ガラスに入るのは小さな罅ばかりにはなったが、車内はなおさら暗くなった。
 彼は無言で、座席に腰を下ろすことはせずに、天板に吊るしたランプを引き寄せ身を屈める。ポケットから取り出した軍手を片手にはめながら、座席の下から小さな工具箱と汚れた冊子を取り出すと、リツはそれらを抱えてハンドル下の狭い空間に、殆ど寝転ぶように体をねじ込んだ。
 厄介事に巻き込まれるのが日常茶飯事のこの車は、攻撃を受けてもそれなりの融通はきくよう作られている。パイプが壊れたなら、予備のパイプに切り替えればいい。
 ランプの明かりを頼りに、片手でめくった冊子をざっと読みながら、彼の目の前に並ぶいくつものパイプの中に埋まった、いくつかのバルブを注意しながら少しずつ回していく。ピーピー、と細い音を立てるものもあれば、何の反応もないものもある。それぞれの細々とした音やら状態などを確認し、その都度彼は縮こまり、冊子をめくり照らし合わせていく。
 その作業を数度、淡々と繰り返し、今度は工具箱をあさりだす。スパナを握り、一つのボルトに幅を調節しながら上手くはめこみ、いくらか体重を乗せ、リツは思い切り下へ押す。
が、その瞬間、彼の予想外にスパナはガッと音を立ててはずれ、ボルトを掠め、勢いよく空を切る。彼の右手は込めていた力のままにスパナを振り回し、危うくパイプの中に突っ込むところで、やっと意識が追いつき止まった。
 心底驚いた表情でリツは自身の右手を眺める。しかし、眺めているうちに彼の表情は彼の表情は歪む。くすぶる炎のように、酷い不愉快が再び吹き上がり、頭まで上り詰めた苛立ちでパイプたちを写す瞳は見開かれる。そして、彼は殆ど反射的に右手を激しく振り上げた。
 持ち上げた右手が、スパナを握る指先に集まる力で小刻みに震える。叩きつけるように降下しかけた腕は動かない。 リツはいっそう強く奥歯を噛んだ。しかし握り締める力は離れずに、無言の時がじっとのしかかる。
 しん、と静まり帰った車内で、彼はうなだれるように顔を伏せた。震えの止まった右手は虚しく下ろされ、力なく床に落ち、その手は静かにスパナを放した。
「馬鹿なことは考えるな」
 リツは小さくつぶやき、もう一度奥歯を噛んだ。




[21440] Ⅰ-3
Name: ---◆b6852166 ID:74ed470d
Date: 2010/08/25 02:35
 荷台の外、アイが構えるのは中段、音もなく佇む。口元は楽しそうに弧を描き、眼光は鋭い。
 五月のまだ肌寒い、澄んだ空気は人の気配、微妙な空気の流れをより鮮明に伝えるようで、彼は張り詰められた独特の雰囲気を拾い上げ、いとも簡単に敵の動きを追っていく。
 中段の構えから右手首を少しかぶせ、彼は剣をゆっくりと水平に傾ける。そして突如刀身は視界から消える。銀の切っ先が残像ですらりと美しい直線を描き、それを追うように銃声が響いた。
 光がきらめくように銃弾が弾ける。まもなく彼は腕を止め、何事もなかったかのような表情で剣を降ろし、銃弾の残骸を拾い上げる。
 うまくいかないな、と首をひねり眺める弾丸は、拉げてはいるが切れてはいない。
 アイは再び立ち上がり、今度は下段に剣を構える。搾るように手首を内側に入れ、瞳にも鋭い光が灯る。
 しかし、すぐに彼の光は消える。アイはふっとすばやく、どこか動物じみた動きで顔をよそへ逸らし、構えも僅かに緩んだ。
 敵はそれを見逃さない。間髪入れず銃声が上がり、弾は彼めがけて飛んでくる。だがアイは、逸らした顔を戻すことなく、握った剣を僅かに立てて、刀身の側面に銃弾を当て往なすと、キン、と高い音上げ落ちたそれを一瞥することもなく、直ちに乗車口に向かって翔け出した。
「そろそろ出るか」
ドアを開け助手席に乗りながら、アイはたいした未練もなさそうにカラリと言う。
「もういいのか?」
 リツの表情は酷く落ち着いている。運転席で縄を引き、弾除けの布をあげて行く。
「ああ、なんだか数が増えてきてる」
 剣を鞘に収めながら答えたアイの言葉に、ハンドルを握るリツは少し考える。
「どこまで着いてくる気か知らねえが、ここで頭の二、三台は潰しておくか」
「そうだな、撒くなら早いほうがいい。ミナキのとこまで連れてくわけにはいかないからな」
 ガラスはまた敵の銃弾にさらされるが、車が動き出すにつれ、それも追いつかなくなる。
 車は枝を払い林の中へ分け入り、速度を増していく。
「車に乗ったな」
 葉が落ち、枝が折れる音が終始うるさい中で、アイは何かを感じ分けるように、じっと瞳を闇に据えている。
「狙撃の一台か。奥へ逃げる気か?」
「いや、南に下り始めてる。本体と合流するみたいだな」
「ならこっちの位置を取ってんのは先発の三台か。このまま北に登るぞ」
「ああ」
 右に折れ、左に折れ、車は複雑に進んでいく。高低が激しく辛うじて道と呼べる程度の狭い山賊道を、リツは速さを保ったまま、器用に進めて行く。
 一度すばやく北上し、大きな楕円を描くようにぐるりと東に回り込む。月も星も稀な夜の闇で登る蒸気は殆ど闇に紛れ、車内は草木を掻き分ける音に支配されざるを得ない。リツは難なく車を進め、三台のうち先頭を走る一台の上手に付けた。そして十分な距離を保ちつつ並走をはじめる。そこから徐々に高度を下げ、リツの左手、アイにすぐ横の窓の下方にちらちらと小型の黒い敵車の光が見えるほどに近づいてゆく。
「気付かれたな」
「もう遅えよ」
 引き窓が開かれた思った途端、敵車中からは銃撃が放たれる。二人の車に僅かに追われる格好となって車は前進を続け、銃声を次々と打ち鳴らす。
 いくらかの銃弾は上手く木々の隙間を通って二人の車にぶつかり、サイドガラスはますます傷を作り、ドアはへこんでいく。しかし、リツはむしろ敵の銃口に向かって急速に進めていく。
 ガタガタと上下左右に揺れを増す中で、アイの右手は乱れることなくまっすぐに、音も立てず鞘を抜き取った。そして間を見てドアをすばやく開き、アイは前進する車から飛び降りる。
 リツはそこから一気にスピードを上げ、敵車の真横に踊り出て殆どぶつけるように車を横に付けた。
 地鳴りのような激しい音を上げ、ぶつかった衝撃で車輪は瞬間的に地面を離れる。しかし両車とも重みで土を殴りつけるように踏みとどまり、そのまま火花を飛ばしながら至近距離で山道を並走する。
 リツは敵車を押し込んでいくが、スピードで勝る敵はだんだんと前方へ抜け出し、ついには完璧にリツの前方に陣取った。敵はいっぺん攻勢に出る。速度を急激に落とし、リツの前進を妨げながら、敵は発砲を再開する。
 狭い道を出来るだけ蛇行し銃弾をかわしながら、リツは近距離での追走を続ける。そして緩やかに道が右に折れ始めたのを見計らい、彼はすばやくハンドルを切った。車輪はザザザと派手な音で地面を削り、差すように敵の内側に車をつけると、右折する遠心力に引きずられ外へ流れる敵の車を激しい音と共に道の外まで押し出し、そのまま木へ叩きつけた。更に自身は、鋭くUターンをして、動かなくなった車から敵が降り出すより早く、ボンネットめがけ銃弾を打ち込んだ。
 数発の銃声が鳴り、敵の車からはぶあっと音を立てて白い蒸気が煙のように吹き出した。動力源からとめどなく蒸気は瞬く間にあふれ出し、辺りは一瞬で白い霧に包まれる。リツは急ぎドアを閉め、霧が視界を塞ぐ前に車を発進させる。追いかける霧をかわし、車は方向を変え次へ向かう。
 一方アイは山道へ出て突っ立っていた。彼が下げる抜き身はちかちかと光を反射し輝き始め、彼は林を見つめにやりと口角を上げる。リツが抜けて行った方向とはまた別に、豪快な音がだんだんと彼に近づいてくる。
 そしてぱっと彼の全身が黄色の光で照らされた瞬間、彼の目の前に一台の車が飛び出した。
 アイは突っ込んでくる車の軌道からひらりと外れ、彼を追って鋭く方向転換を図る敵の車へ、飛ぶように踏み切った。一気に距離を詰めまずは一人、アイは運転席をガラスごと突き刺すと、またすさまじい速さで剣を引く。しかし車はすぐには止まらず、彼の太刀筋の前でゆっくり進む。運転席の後ろ、後部座席がアイの正面に到達すると同時に、後部ドアが蹴り開けられ、それをアイはそれをくるりと後方へ跳ねてかわし、放たれた銃弾を着地するなり剣で払った。
 操縦者を失った車は木に激突し、車を捨てた敵はそれを盾に銃撃を続けるが、剣を振り下げ、振り上げアイは瞬く間に踏み込んでいく。近距離での発砲をかわし、銃を持つ手を腕ごと切り落とすと、握りをそのままに、今度は背後で振りかぶっていた男の胴を鮮やかに切り捨てた。
 身を屈め背中を狙う最後の一人の銃弾もかわし、踏み込みかけたところで、敵のもう一台が姿を現し、アイは一度後退し距離を取ってから、更にその車に突撃する。銃弾をひらりひらりと払い、再び立ち回りを始めかけた時、枝をへし折りリツの車が敵車に突っ込んだ。
 アイはすばやく身を引き、リツは思い切りハンドルを回し、急カーブで滑らせた車体の後部を敵車の横っ腹へぶつけをなぎ払う。敵はそのまま立ち並ぶ木にぶつかりにひどく変形し動かない。リツはそれを振り返ることなく林の中に潜り、彼の車は姿を消した。
「お前は相変らず無茶をする」
「兄貴にだけは言われたくねえ」
 パイプ伝いに聞こえてきた声に、リツは無表情できっぱりと否定する。
「後続の足が思いのほか速いな」
 ああ、と荷台で剣に滴る血を払いながら、アイも同意する。
「もう頭は潰したんだ。さっさと逃げるに限る!」
 いいながらリツは速度を上げる。敵よりも大型で荷台に物も積んであるこの車は、速度で劣るが、複雑な迷路のように張り巡らされた山賊道を的確に進むことでその距離はどんどん広がっていく。
 敵を見送りアイが、
「……憲兵だろうか」
 荷台から問うのに、リツはじっと前を見つめたまま考える。
 アイの言うことは、戦闘に関してなら間違いはまずない。実際、数やその攻撃手法、武器を鑑みても山賊でないことは明らかだとリツも思う。
 しかし、国直属の軍である憲兵がなぜ――、回そうとした思考がふと途切れる。リツ自身、意識的に思考を止めた。
「なんにしろ、撒いちまえば同じだろ」
「……そうだな」
 アイは苦笑交じりに答え、それ以上追求しなかった。
 リツも目の前に広がる夜の森に注意を戻す。いくら通りなれているといえど、そう易々と進める道ではない。
 車体を掠めた葉がざわりと鳴り、車輪は枝を踏み折り進む。アイも剣でも磨いているのか、夜は再び眠りに付いたかのように急に静けさを取り戻し、同じ音ばかりが繰り返されていく。窓の外では闇に埋もれた木々が入れ替わり立ち代り終わることなく過ぎていく。
 くるくると音もなく軽やかに回る現実は、リツを知らずのうちに内側へと押し込める。敵の目的、ジルの思惑、疑問が誘惑にも似た感覚で、頭を蛇のように這い、彼の思考を乱していく。
 ハンドルを握る拳は硬くなっていく。
 頭が熱い。しつこくまとわり付く思考は、身勝手に感情を蘇えらせ、彼は再び苛立ちを思い出す。
 いくら探しても着地点を見つけることが出来ない。彼は苛立つ。しかし一方で、お前に思考する資格が果たしてあるのかと、自身に向かう憤怒が存在している。
 混沌に引き込まれていく彼は、激情により思考を進め、また良く似た別の感情のために足を止める。そして更にそれを押しのけ、無理やり足を進め――
 はっ、とリツの顔が跳ね上がる。
 その無意識の反射で、彼はようやく現実を取り残していたことに気がつく。全身から冷や汗が流れたが、目の前に取り戻した視界は、優秀に木々を避け、車は相変らず森を疾走していた。
 強張った全身は安堵と共に平静を取り戻したが、瞼の上がらない狭い視界には、黒い大きな斑点が散っている。リツは順序をさかのぼり、自分が光によって連れ戻されたことを思い出す。
 なんの明かりだ、と闇を探し始めたその時、
「伏せろっ!」
 今度は冷や汗のほうが追いつかない。リツは反射的にアイに知らせ、足は必死にブレーキを踏む。甲高い金属音が激しく上がり、咄嗟に切ったハンドルが叩きつける枝葉を土砂降りに変える。
 火花と共に衝撃音が轟く。
 車は勢いを残し、それから僅かに進んだが、ようやく慣性に揺さぶられながら停車した。
「……おい平気か?」
 ハンドルに付き合わせた頭を上げながら、リツは問いかける。多少頭をぶつけたものの、木への激突は免れ、彼は無傷だ。
 返事はない。
「おい!」
「平気だが平気じゃない」
 木箱が雪崩れてすごいことになってる、とがたがたと持ち上げる音と混ざった声がパイプの中から返ってくる。
「今行く」
 リツは安堵のため息と共に言う。
「ああ助かる。一体どうした?」
「いや、ぼっとしてたら、確か車が止まってて……」
 瞬間に見た記憶をたどり始めると共に冷静になったリツは、不自然な光景に眉を寄せる。
「敵か?」
「同じ黒だが、形が違う」
「ぶつかったぞ? まさか一般車じゃないだろうな?」
 リツは無言だ。それは肯定に他ならないとアイは顔色を変える。
「大変だ、こっちはいいからそっちを!」
 無事だといいが……、とアイの不安げな言葉を背に聞きながら、リツは外へ飛び出す。
 後方に回ると、彼の記憶通り一台の車がいた。彼がハンドルを切ったことにより衝突は逃れたが、後部で蹴り付けてしまったらしい。その車体前方は大きく壊れている。
 目の当たりにした状況に嫌な汗が滴り駆け寄るも、リツは冷静な考察でもっていくらか怪訝そうな顔をする。
 車の窓には、車体と同じ黒い布が張られている。ほぼ無傷の後部はその布のため、ガラスが割れ落ちドアが潰れかけている前方は布の存在は確認ができないが、いずれにせよ明かりのない車内は外から窺うことが出来ない。
 そもそも一般人があれだけの銃声と轟音を聞いてこの山にとどまろうと思うか、という疑問も彼にはある。下手に動かないほうがいいと思ったのか、と考察するが、いくら考えても想像の域を出ないことは彼も心得ている。持ってきた拳銃を片手にしながら、後部ドアを迷いなく開けた。
「――――」
 大丈夫か、と用意していた言葉は喉で止まる。しかし開きかけた口は閉じることなく、リツは目を丸くしていく。
 リツの額に突きつけられた銃口が、黒く光る。
 ドアを開けた途端、彼を迎えたのは待ち構えた拳銃で、そしてそれを握るのは一人の少女、幼さを残す瞳はきつくリツを捉えている。
 リツは驚愕に打たれたまま、少女は唇を震わせるが言葉は紡がれない。
 時は動き出さない。
「王族――」
 リツが口だけで小さくつぶやく。見開いたその瞳に写るのは、拳銃に施された、雄雄しく美しいふくろうの紋様。
 つぶやいた口が、今度は大きく開かれる。
「王族か、お前!」
 突きつけられた拳銃を鷲づかみ退け、彼は思わず少女に詰め寄る。
「なっ――」
 驚いた少女は身を退くが、引き金を引くことはしない。よく見れば、彼女の背後には一人の幼い少年が、身を縮め、心配そうに顔を覗かせている。
 リツの心臓が音を立て大きく脈打つ。
「第一王子カナト――!」
 少女は目を見開く。リツも王子の顔を知っているわけではない。しかし王子がまだ十に満たない少年であること、少年には歳の離れた実姉がいることを情報として得ている。直感は直ちに確信に直結し、そう結びつけざるを得ないほど彼は衝撃を受けていた。彼は、はっ、と短く息を吸う。
「ぶっ、無礼者!」
 我に返った少女が、再び銃口を向けようともがく。
 リツは素直にその手を離し、かがめていた身を起こし二人を見下ろす。そして、彼の口は綺麗な弓なりを描く。
「成程そういうことか、遂に逃げたか」
 リツは一点の曇りない笑顔で、爽快に言う。
 少女は戸惑う。しかし彼は、彼女らなどまるでないもののように、一人喉を振るわせ笑い声を上げる。
「はっ、ハハハ――」
 肩を揺らし、手で顔を覆い、リツは楽しげに笑う。
「――っ」
 呆然していた少女の顔が、悔しげ歪んで行く。
「無礼者! 王家と知って笑うとは何事じゃ!」
 銃口をもう一度しっかりと向け、少女は噛み付くように言う。
 リツの笑い声は途切れない。だが声を飲み込み笑う姿は、彼が顔を伏せて行く度に、悲しみに涙を流す姿に似てきて、泣いているのか笑っているのか見分けの付かない彼を前に、少女は向けた銃口をさ迷わせる。
 やがて終着点にたどり着いた彼は、静かに息を呑んで顔を上げる。
 彼女とぶつかるその視線は鋭い。
「国を捨てて逃げるか」
 リツはもう一度、今度はにやりと不穏な笑みを浮かべる。
 その言葉に少女は顔色を変え、瞳は強く、鋭さは増す。
「違う」
「ならなんだ? この劣勢の中で城を空けてもつはずがない。お前らは王座を捨てに来たのか?」
「黙れっ!」
 拳銃を握る少女の両手が一層強く握られる。
「逃げるのではない、今は……今は身を引くが、必ずこの恨みは晴らす、あの首は必ずとる」
 強い口調とは裏腹に、つぶやくようなその声はすぐに闇に吸い込まれ、残響は残らない。
 しかし彼女は、きっ、と顔を上げ、
「我らへの無礼、今すぐ詫びよ。さもなければ即刻引き金を引く」
 震える腕でリツに照準を合わせる。リツの口元は涼しげに上げられたまま崩れない。
「首をとる? 今身を引いて、それが出来ると思うのか」
 言い放たれた言葉に、少女の瞳はほんの僅か、揺れる。強く結ばれた口の中、彼女は精一杯奥歯を噛み締める。
 震えたままの指先は、静かに引き金へ掛けられる。
「リツ」
 交差していた二人の視線が逸れる。
 いくらかの木箱と一緒にアイはようやく荷台から抜け出していた。その苦労は、乱れた髪と手にした木箱の破片から見て取れる。
 リツの姿と大きく傷ついた車の惨状を見るなり、アイは慌てて近づき、
「平気だったのか?」
 言いながら、リツの肩越しに車内を覗き込む。
 彼の視線は少女のそれとカチリと合う。
 肩より少し長い赤みがかった美しい髪と緑色の瞳を持ち、派手な作りではないが品の良い服を着て座っている。そしてその脇の少年、見るからに幼い彼は少女よりもやや暗い赤髪と、彼女と同じ緑の瞳で不思議そうにアイを見ている。
「怪我は!?」
 アイは更に焦った。目前の拳銃を飛び越して、一気に青ざめる彼に、少女は目をしばたきながら、殆ど驚いた勢いで小さく頷く。
 はぁ、と大きく息をつき、冷や汗を額に浮かべながら胸を撫で下ろす彼は、ふわりと彼らに安堵の笑顔を漏らした。 彼の様子に拳銃を持つ少女の腕はさ迷うように小さく下がる。
「運転席は?」
 アイは振り返り、ぼおっと突っ立っていることへの非難も含んだ視線をリツに向かわせる。
「まだ」
 短く返事をし、リツは反対側の運転席へ回る。
「全く、何をしてたんだあいつは」
 彼のらしくない様子に、アイは顔を顰める。
 それから再び二人に向き直った彼は、
「怖い思いをさせて本当にすまない」
 きっちりと頭を下げた。
「前に乗っているのは一人だけ?」
 深刻な面持ちに、彼女は無言で頷く。
「そうか、今助けるから心配しないで」
 車の前方を一瞥すると、彼は早口で二人に車を降りるよう指示する。
「今この山はちょっと物騒だからすぐに移動しないとまずい。俺たちが責任を持って送るから」
 いい残してアイはリツの応援に走る。
 その背をいくらか追った少女の視線は、地面に引かれるように、ゆっくりと落ちる。沈黙した瞳は、影を背負いつつも、冷静な思惟の中にある。
 佇む闇が、静かに彼らを見守る。
「どうだ?」
 リツは歪んで開かなくなったドアをあきらめ、ポケットに入ったままになっていた鑿で窓枠に残ったガラスを落とす作業をしていた。
「頭を打ったみたいだが、傷は深くなさそうだ」
 車内には一人の男性が意識を失いハンドルに凭れている。
「ミナキのところで診てもらうのが一番早いか。とりあえず応急処置を、荷台も空けないと」
「時間は?」
「そんなにない。急がないと追いつかれるな」
 答えながら、彼も乗車席を覗き込み、それからガラス窓と、ざっと状況の確認を済ます。
「二人とも、」
 彼は顔を上げると、車の反対側でこちらを見張るように窺っていた少女らを見やり、
「……ええっと」
「アルディスにカナトだ」
「アルディス、カナト、少し手伝って欲しい」
 ん、とアイはしゃべりながら首をかしげる。察したリツが、
「この国の姫と王子だ」
「ああ、通りで」
 聞いたことがあるはずだ、と納得する彼に驚きは伴わない。
「そうか、なら城に送ればいいのか?」
「いや――」
 そののんきな様子にアルディスは小さく驚くが、リツは慣れたように冷静に、下を向いたまま否定の言葉を口にしかける。
「そう、城に届けてくれればいいわ」
 今度はリツが顔を上げる。驚いたその表情は少女の視線にぶつかる。彼女は、やはり耐えるように口を引き結び、彼と視線が合った途端、それを反らした。
 リツはまたすぐに表情を変え、
「逃げるんじゃなかったのか?」
 挑発するような笑みを浮かべる。
「はじめから逃げる気などありはしない」
 彼女はリツを見ようとはしない。
「急がないとまずいのか?」
 怪訝そうな顔をしながらも、彼女の表情の深刻さをそう解釈したアイは、眉間を寄せる。
 アルディスは頷く。
「困ったな。敵の数が多い、この状態で突破するのは難しい」
「敵?」
 繰り返す彼女の瞳に、ふと瞬間的に動揺の色が浮かぶ。
「聞こえないはずはねえ。あれは全部お前らの敵だ」
 俺たちは囮だったわけだ、とリツは作業に戻りながら淡々と言う。
「なら尚更まずいな」
「ミナキのとこを回って戻るしかねえよ」
 アイは頷き、自身の車に翔け戻る。アルディスは心細げにその姿を視線で追っていく。暗闇は不安ばかりを誇張する。車の中でおとなしく座っていたカナトが、静かに彼女に寄り添った。
「まだ間に合う」
 リツは独り小さくつぶやいた。その声に彼女は顔を戻す。
 声は呼び止めるようではなかったのに、振り返った彼女を待っていたのは、鋭く、しかし冷ややかではない、その底に炎を宿したまっすぐな視線だった。
「お前らが戻るなら、まだ遅くはない」
 リツははっきりと彼女に言う。
 言葉ではない、その突き刺すような瞳に、彼女は恐怖に似た嫌な感じを覚える。足下を崩してしまうような、気持ちの悪い圧力がきゅっと彼女の心臓が緊張させる。
 だが、と彼は続ける。
「お前、本当に戦う気はあるのか?」
 息の詰まるような動揺が、彼女を襲う。リツは表情を変えることなく、瞬きもせずにその瞳を向ける。
 思わず彼女は顔を下げ、握られた拳にぐっと爪が立てられる。傍らのカナトは眉を曇らし彼女の袖をより一層強く掴む。
 リツはふっと視線をそむけて、飛んできた布をすばやく掴んだ。
 ついで、アイが乗車席から救急箱を持って戻ってくる。リツがガラスを取りさらった窓枠へその布をかぶせ、車内から男を引っ張りあげる。救急箱を置きアイも加勢し、男は車外にゆっくり横にされた。
「アルディス、名前は?」
 アイが急ぎ尋ねる。
「エイク」
 アイは、すぐさまエイクに名前を呼びかける。すると彼は眉を顰め、小さくうなった。
 その様子を見て、二人はいくらかほっとした表情を見せたが、またすぐに、アイは忙しく立ち上がる。彼らの動きを眺める二人に、
「アリス、カナト、来てくれ」
 と呼びかけ、アイは荷台に走っていく。
 アルディスはただ驚き、カナトはぼんやりとアイを眺めている。
「お前だ、アリス。時間がないんだ早くしろ」
 とすばやく包帯を巻きながらリツがあごでしゃくり、彼女はあからさまにむっとし反論の口を開きかけるが、
「これを解いて欲しいんだ」
 空の木箱をいくらか外へ投げ出して、更にロープを乗っけた木箱をずっしりと抱え、荷台を降りたアイに純粋な笑顔で呼ばれ、彼女はしぶしぶ彼に従う。
 アイは次々と木箱を降ろし、また積みを繰り返し、アリスが解いたロープですばやく固定していく。そして手当てをし終えたリツも一緒になって、ジルから受け取った例の木箱を二人係で持ち出す。
「重いと不利だ。余計な物は、これも捨てて行っていい」
「いいのか?」
「いい。もういらねえ。場所も丁度空くだろ」
 木箱は車から少し離れた、彼らの進行方向とは反対の道の真ん中に、塞ぐように置かれる。
 荷台はしっかりと整理され、空けたスペースにエイクを寝かせ、アリスたちも既にそこに乗り込んだ。出発準備は迅速に行われたが、
「まずいな、足が速い」
 出入り口を塞ぐ大布を降ろすアイは背後を気にする。木箱に刺さっていた抜き身の剣を手にし、彼は乗車席へ走る。
「すぐに出るぞ」
「わかってる」
 答えるリツは既に運転席で車を起こしにかかっている。その横でアイは、座席の裏から、投げてあった鞘といくらかの武器、予備のランプを引っ張り出す。
「敵は二・四・六方向だ。ルートは任せる。多少は俺が後ろで何とかするから安全運転でな」
「ああ」
 それから、とリツも背から一冊の本を取り出す。
「これ読んどけ」
 受取ったアイは難しい顔をして、これを、ともう一度聞き返す。それはアイにも見覚えがある、中を小さな文字ばかりで埋め尽くされた、リツが好んで読むものだ。
 アイは渋るが、もう敵の音が聞こえ始めている。場所を変え、数を増やし、木々が警鐘を鳴らしている。時間はない。止むを得ず、受取ったそれも腕に抱え、アイは急いで車を降りた。
閉めるドアに手をかけた時、兄貴、とアイはやけにはっきりとした声に呼ばれた。
 顔を上げた彼に輝く双眼が突き当たる。まるで燃えるようなそれに、アイは思わず身構える。
 リツは自信をそのまま形にするように、にやりと笑う。そして実に愉快そうに、
「兄貴、この国を獲るぞ」
 断言した。
アイは戸惑う。彼の中で炎が渦巻いていることは、直感している。しかし、アイにはその言葉が示す意味を上手く理解に結び付けることが出来ない。
だがあまりに楽しそうな彼の顔を無下にすることも出来ずに、困惑の混ざり合った笑顔でアイは、
「そうか」
 と、短く答えた。
 リツはもう一度、今度は冗談めいて口角をすっと上げ、前方に向き直りハンドルに手をかける。アイがドアを閉め、車は急激に動き出す。
 すばやくアイが荷台へ飛び乗ると同時に、その背後、一台の敵が枝葉を撒き散らす。車体を揺らし、勢いよく車輪を滑らせ、辺りに衝撃音が鳴り響く。
「伏せて!」
 すぐさま敵はアイを照らし出し、彼は防壁のように積んだ木箱をすばやく飛び超え、姿を隠す。手に持つものを放り、彼は急いでアリスとカナトの頭を腕で覆い伏せさせた。
 間髪入れず、銃弾が次々と木箱に突き刺さる。いくらか貫通したそれが、荷台を覆う布を乾いた音で揺らす。
 急変した状況にアリスは震える。恐怖心は膨張していくばかりで、まるで彼女の言うことを聞いてくれない。銃声たちは易々と頭の中までやってきて、耳を閉ざそうと押さえつけたはずの両手は、役立たずにガタガタと音を立てている。彼女は必死に瞼を閉じる。
「心配することはない。すぐに撒く」
 アイの音色は変わらない、柔らかいままだ。彼は持ってきた武器の中から、片手に拳銃、もう一方に抜き身を構え、木箱の裏に身を潜めた。そして、間合いを見計らい銃撃戦を開始する。
 近くなった銃声に、カナトはより一層アリスにしがみつく。二人は横たわるエイクの隣で、身を寄せ合い、一心に耐える。
 車体を揺らしリツは速度を上げるが、敵は張り付き離されることなく追撃する。
 撃っては装填し、更に剣で弾いてと、音は様々にしかしどれも殺伐としたものばかりが繰り返えされる。
 一際大きな破裂音が鳴った。
 砕ける音に、残骸がはじける軽い音。しかし、それほど残酷ではない。カランカランと足元に転がって来たものに、アリスも想像がつく。
 彼女は恐る恐る瞼を開ける。薄目で捉えたものは、木の破片、そして僅かに顔を上げながら、彼女はその先にあるものをたどって行く。
 壊れて、防壁の役割を果たせなくなった木箱が一つ、その横には拳銃を構えるアイ、そして更にその先、彼女は視線を上げた。
 一瞬、アリスの視界は、はっきりと停止する。
 くっきりと闇に浮かび上がる黒光りの銃口、それがまっすぐにこちらを指している。
 息を呑むのも追いつかない。だが、彼女は自身の中で何かが凍り付く音を確かに聞いた。そしてにわかに、銃口は光る。
 銃声と聞きなれた高音が鳴ったのは同時、彼女の視界を刹那、アイの剣が光となって過ぎた。
「ねえ様?」
 アリスは力なく頭を垂れて行く。
返答はない。カナトはもう一度、彼女を呼ぶ。
「ねえ様!」
 剣を振るうアイにもその声は届く。
「どうしたっ?」
 銃声に潰されかけながらも、声はアリスの意識を幾度かたゆたい、そしてやがてそれが遠くに消える。同時に、彼女の瞼は吸い込まれるように落ちた。



[21440] Ⅰ-4
Name: ---◆b6852166 ID:74ed470d
Date: 2010/08/25 02:35
 深く、鐘が鳴る。
 ゆっくりと溶け合い、いずれなくなろうとするその音を追って、また一つ、平静が訪れる前に鐘が打ち鳴らされる。
 高く開いた窓からは、柔らかな光がまっすぐに床を切り取り、整然と一様に並ぶ長椅子を過去のもののように霞ませる。
 美しいこの広い部屋で、彼女は行き来する鐘の音の数を数えることもなく、ただただ佇む。
「姉さん、もう帰ろう」
 沈めた顔を上げることなく、アリスは無言で首を振る。
 二人の間をまた、崇高な音が通り過ぎて行く。
 耐えるように口を引き結ぶ少年は、俯いたままもう一度彼女に言う。
「もう帰ろう」
 アリスは答えない。
 鐘の音がやけにうるさい。そしてまた鐘が鳴る。
「カナトも、ミラおばさんも、母さんも、皆待ってる」
 早く、そう続く言葉が途切れるように消える。
 鐘が、そして更にもう一つ、間髪入れずに鐘が鳴る。連なり急速に音は増し、少年の声を消し去り、彼女の頭を直接揺らす。
 音は止まない。警鐘のように迫るそれに、アリスは耳を塞ぎ、気付けば目の前にあるはずの自身の足は失われ、そこには闇しかない。
 辺りを見回す余裕もなく、声をも失った彼女は、ただ必死に逃れようと、恐怖を押しつぶして瞼を閉じようと力を込める。
 勢いよく、瞼が開かれ、彼女は夢から醒めた。
「――違う」
 夢の延長で、しかし妙にはっきりとした意識で、アリスは真っ先に呟く。
 目前は未だ暗く、しかし完全な闇ではない。積まれた木箱には淡く明かりが映り、控えめな音と共に車内は緩やかに揺れている。
 ふわふわと安定しない影を茫然と眺めていた彼女は、唐突に目を覚ます。
 血相を変え、まるで脅かされているかのように、その視線は慌しく左右をさ迷う。
 引かれた布、木箱の破片――いない。
 焦った彼女は無意識に体を起こす。彼女の肩から○布が落ち、ようやく自身の側に目をやったアリスは、深く胸を撫で下ろす。彼女に寄り添うように、カナトは穏やかに眠っていた。
「ああ、アリス、おはよう」
 アイがランプに照らされたその顔を上げた。
「大丈夫か? 驚いただろ?」
 全部撒いたからもう安心だよ、と傷の一つもない顔でアイは微笑む。
 アリスは頷くような曖昧な動作で、布に包まるカナトに視線を戻す。
「二人ともさっきまで起きてたんだ」
 彼女に倣い、アイもカナトとエイクに視線を寄せる。
「エイクさんの怪我、痛みはあるようだが、幸いそんなに酷くはないみたいだ。着くまでまだ少し掛かるから、アリスももう一眠りするといい」
 アリスはぼうっ二人を見つめたまま、答えはしなかった。
 静かな夜と柔らかな黄色の明かり、やけに穏やかな、知りもしないこの空間は、彼女の意識に優しい靄をかける。現実であるのに現実から遠いような、漠然とした非現実は彼女にとって望ましい。
 だが一つ一つ、揺れる車と、土を漕ぐ音、色に姿、頬に触れる冷ややかな空気、五感には酷く鮮明な現実が与えられ、彼女の心を淡く引っ掻く。
 小さくさ迷うアリスの視線は、ふと床に伸びた小さな明かりに出会う。
 アイがランプを寄せ、木箱を机に、本を読んでいた。
「どうかしたの?」
 アリスは思わず尋ねる。紙面に向かって寄せられた彼の表情は、ちょっとびっくりするほど難しい。
 アイはうーんとうなり声に似た長い返事をした後に、
「だめだ」
 頭から紙面に墜落した。
アリスは肩を跳ねさせ、唖然とする。
「訳がわからない」
 搾りだすように訴えるアイが、机に潰れたまま大きなため息を漏らした。
「だ、大丈夫?」
 困惑の色を浮かべるアリスに、彼は、うん、と力ない声を寄越す。しかしそれきり、動く様子はない。
彼女に見守られてしばらく、
「アリス、字を読むのは得意?」
 アイは唐突に音を立ててその深刻な顔を上げる。
「苦手ではないけど……」
「何かコツを教えてくれないだろうか」
「え?」
「俺は苦手なんだ、字を読むの」
 そして彼はまた、ため息を吐く。
「どうにかしてこれを読まないといけないんだが、このままじゃ絶対に無理だ、寝てしまう」
 机に近付き覗き込めば、ぎっしりと詰まった小さな文字に、彼女も少し尻込みする。
「人名とか地名とか、とにかくよくわからない単語ばかりだし、そもそも何の話をしているのかわからない」
 アイは頭を沈めながら、はあ、と更にため息を吐く。
 彼が殆ど放棄しかけているその紙面を自身の方へ寄せ、アリスは文字を追い始める。
「あいつはなんでこんなものを読む気がするんだろう」
 悩ましげに呟きつつも、ページをめくる音にアイは頭を起こす。
「……アリス?」
 ページは次々にめくられる。瞬きもせずに文字を追う視線は忙しく動き、そしてまた薄い一枚一枚が擦れていく度に、アリスの表情は険しくなり、顔色も思わしくない。
 アイが再び彼女への心配を言葉にしかけた時、音は止まり、彼女はゆっくりと文字をなぞった。
 やがてその指も、一点で止まる。
「女王ミラ、」
 彼女が読み上げたのは、指が示す単語。
「私の母よ」
 抑揚の無いその告白に、アイは息を呑む。
 彼女の指の続きには、暗殺、とあった。
 アリスは、鋭く顔を上げる。
「これをどこで手に入れたの?」
 詰問の視線は厳しい。
「女王の死など以ての外、王の死だって公表していないのに――」
 ここにはすべて書いてある、言う彼女は顔を歪める。
「貴方たち、一体何者?」
 突き刺さる眼光に、アイは顔を曇らせる。
「な、何者と聞かれると困る……」
 彼女の視線から逃れるように顔を傾けた彼は、少し思慮する様子を見せてから、身構える彼女に向き直る。
「本当は、あまりしゃべっていいことじゃないんだが、」
 曇ったままの表情で、彼は言う。
「俺たちは所謂秘境に住む人間なんだ」
「……秘境?」
「世捨て人というか、そういう人ばかりの村で、外との交流はまるで無いし、どこの国にも所属していない。村の存在自体、無いものなんだ」
 眉を顰めるアリスを窺うことなく、アイは続ける。
「だから、外のことはよくわからない。これも普通に売っているものかと思っていたが……確かに店で見たことはないな……。これはリツのだから、あいつに聞けばどこで手に入れたかぐらいはわかるかもしれないが、詳しいことはきっとわからないだろう」
 すまない、とアイは目を伏せる。
 視線を下ろしたアリスの表情は硬い。
「……それは本当のこと?」
 詰問は続く。だが彼は、きょとんとした様子で首を傾げた。
「本当だよ」
 答えたアイが、今度は心配そうな顔をする。
 彼女が瞳を閉じると同時に、小さく漏らしたため息は、緊張からの解放のようでも、悲しみを吐露するようでもある。
 ランプの炎が揺れ、彼女がなぞった残酷な文字を揺らす。瞳に写り込むその字列に、アイは後悔をする。
「……嫌なものを見せてしまった」
 アリスは緩く首を振る。
「事実だもの、貴方は悪くない」
 ごめんなさい、と彼女は謝る。
 そして抱えた膝に顔を隠し、彼女は呟くようにアイに言う。
「きっとそこには、私の知らない事実も書いてあるわ。自分のことなのに――」
 まるで他人の事みたい、そう呟いたアリスの言葉は切ないほどに澄んでいた。
 机に残されたページには、シュドル、の名があった。アイは静かに文字を追い、彼が王女を暗殺し、彼が彼女の腹違いの弟であることを知った。
 迷い込んだ夜風が冷たく、アイは瞼を閉じ、暗闇をさ迷う彼女は銃声を思い出す。
「帰るところなんて、どこにあるっていうの」
 誰に聞かせるでもなく彼女は、独り問う。
「奪ったのは、あなたでしょう?」



[21440] Ⅱ-1
Name: ---◆b6852166 ID:11ddd56c
Date: 2010/08/27 11:26

「おっ、やっぱりそうだ」
 一枚の皿を手にひょいと顔を出した青年が、嬉そうに言う。
 窓の外は、暗闇の中でもはっきりと浮かび上がる青い山々と新緑が続く田畑。撫ぜる風と淑やかな虫の声ばかりの、彼の愛する美しくのどかな風景に爽快さを引き連れて、車は穏やかな夜に突撃する。
「よお、久しぶりだなアイ! 元気だった?」
 家の明かりを頼りに、玄関先に停車するなりアイは荷台から飛び降りた。
「ミナキ、怪我人だ、ラントさんは?」
 まだ泡のついた皿を振り回す勢いで手を振る能天気な笑顔を振り返るなり、尋ねたアイは同時に荷台に降りた布をまとめていく。
 その慌しさにぽかんとするミナキだが、すぐにさして珍しくもないように、
「また何かやらかしたの?」
 親しみの篭った呆れ顔で言う。
「ちょっと待って、今玄関開けっから」
 窓の外から手を戻し、彼はガチャガチャと音を立て、手早く手元の作業を切り上げる。
 すると今度は、
「何、また無茶やったの?」
 声と一緒に、手を拭くミナキの横から女性がひょこりと首を出す。
 みたいよ、と答えるミナキは苦笑が交じりで、彼女も、あーあ、とカラカラと彼によく似た笑いを漏らす。
「まったく、相変らずね。あら、」
「リイナさん、ラントさんは?」
 乗車席から降りてきたリツは、荷台でてきぱき動くアイに比べると割にのんびり尋ねた。
「あ、そうだった……って」
 言いながらミナキは部屋の中を振り返る。
「あー、残念ながら酔い潰れてる」
 あれじゃ今日は使い物にならない、と閉口するミナキは目を棒のようにして断言する。しかしその隣で、リイナは何でもないような笑顔のまま、
「待ってね、今起こすから」
「……え? ちょっと姉ちゃん!?」
 部屋に戻っていく彼女は、慌てるミナキをあえて振り返ろうとはしない。
「何に考えてるんだか」
 ため息と共に諦めた彼は、重い頭をカクンと垂れるが、しかし、ふと思い出したように再び顔を上げ、
「当てにするなよ」
 無言で佇むリツに釘を刺す。
「……この村には他に医者がいないんだから、やむを得ないだろ」
 彼はミナキの目を見ることなくさらっと答える。
「あと担架頼む」
 付け足すなり、彼は早々に荷台へ引き上げる。
「そんな重症!? いや絶対無理だって!」
 だが、リツもまた振り替える様子はない。
 そして視線は流れ、遠い目をしたミナキは、清々しい哀愁でもって雄大にたたずむ山々を眺めた。

「すごく遠くへ来たみたい」
 王城からそう遠くないはずの景色を見渡しアリスは呟く。
 山の向こう側にあるはずの城下の、いつでもくるくると回っているような忙しなさは露程もなく、音や明かりに乏しい、ひっそりとした空気は、どこか寂しげでもあり、また城壁を越え一歩踏み入った彼女たちの城塞のようでもあり、アリスは小さく眉を寄せる。
 荷台を降りるなり、彼女の影に隠れるように辺りを窺っていたカナトが、さっ、と彼女にしがみつき姿を隠す。そして同時に、
「何で子供? えっ、怪我させたってまさか子供!?」
 騒がしい声が彼女にぶつかる。
 担架を片手に抱え込み、ミナキは慌てて荷台に駆け寄ると、ばっと音を立てて荷台に上半身を乗り出した。
「やっぱ、やめたほうがいいって! 罪もない子供に命の綱渡りさせる気かー!?」
「え?」
 アイは首を傾げ、上半身を起こしていたエイクは不安げに笑みを崩す。
 透かさずリツが、整理していた木箱を放って、二人の視線を遮りミナキの前に立ちはだかる。
「担架ご苦労!」
 やけに威勢よく言い放ち、彼は強引に担架を奪いにかかる。
 だが、ミナキは応戦に出る。
「人として渡すわけには!」
「子供じゃねぇだろ」
「けど子連れだろ! あんまり適当だから、命乞いしてきた山賊のおっさんとか想像しただろ! 違うじゃん!」
「違くねぇよ、子連れの山賊のおっさんだっていんだろ」
「はっ」
 成程、とミナキが顔に描いた隙に、担架はリツの手に渡る。
「あ、担架来ましたね」
「いや、もう私一人で歩けると思うので……」
 言い合う二人の背中を眺め、エイクが遠まわしな笑みで言う。しかしアイは、用心に越したことはないと好意で彼の主張を退ける。
 そんなに具合がいいなら良かった、とアイは微笑みながら、兄弟は彼を担架に乗せていく。
 一方、外のミナキは深刻な顔をしていた。
 ぽかんといざこざを眺めていたアリスとカナトに向き直り、重苦しく口を開くと、
「なんていうか、まだ知らないだろうが、君たちの父ちゃんは、山賊っていう、割と……いや、すっごい迷惑な仕事をしてるんだ。倉庫から作物盗んだり、収穫前の作物盗んだり、そして畑荒らしたり、とにかくそれはとってもとっても悪い、鬼にも勝る所業なんだ。だからこれは、君たちが真っ当な道に進むためのいい機会かもしれない」
 時より自身に頷きながら力説する。
 ミナキの後ろを担架が通り過ぎるのを見つけ、アリスは懇願にも似た困惑の眼差しを向けるが、そこで待ってて、というアイの笑顔は清々しい。
「こっちこっち」
 リイナに誘導されて、一室に迎えられた彼らの元に姿を現したのは、形だけは白衣を着た男性。
 とはいえ、その白衣もリイナに直されつつ、ふらふらとやってくる彼に、ラントさんお久しぶりです、とアイが短く挨拶する横で、エイクは腑に落ちたと青い顔をする。
「いやーあんた運がいいね!」
 エイクを見るなりそう言ったラントは、表情、顔色ともに温泉にでも浸かっているように緩く、赤い。
 エイクの顔色はますます悪くなり、ちらりとアイを窺うが、彼の表情は曇りなく、リツの姿は既にない。
「今日ちょーど、とっても旨い酒が手にはいったんだ! 多少惜しいがこれも何かの縁だろう、存分に飲みたまえ!」
 え、とベッドの上のエイクは聞き返す。
「その様子なら、脳と骨は大丈夫だろう。けど、傷は縫わないと」
「いや、なんと言いますか、麻酔薬というのを使ったりは――」
「うん、今切らしてる」
 彼は酷く爽やかに言い切った。
「大丈夫、うちの人腕だけはいいから!」
「アリス達には俺たちがついてますから、安心してください」
 頼もしく頷くアイとリイナに、エイクの視界はひとりでに、ぼやっと揺らいだ。

「今度はまた、随分かわいいのを拾って来たね」
 お前はホント拾いものが得意だな、と、アイが居間に戻るなり、ふやけた笑顔で男性が言う。
「俺じゃありませんよ、大抵はリツの奴が見つけて連れてくるんです」
 アイも笑顔を見せて、それから、
「クラウおじさん、ナナイおばさん、挨拶が遅れました」
 と、丁寧に頭を下げる彼に、うんうん、と頷きクラウは陽気に手招きをする。が、頭の重さに引きずられ、上げた手も、体の軸も、船を漕ぐようにあやふや、その顔はラントで見たように赤い。
「この子らは、まったく乱暴ものだぞ」
 広い居間の食卓を小ぢんまりとぎこちなく囲むアリスとカナトに、彼は酔いのままにアイを指差し、悪戯めいた口調で言う。
「野荒しやら盗賊やらが出ると、大喜びで山に出て行く。けど散々暴れまわるくせして、息のある奴はしっかり連れて帰ってくるんだ、怪我治せって。まったくとんだ奴らだろう?」
 そう楽しげに笑う横から、
「いいのよ、こんな酔っ払いに付き合わなくて」
 盆を手に台所から顔を出した女性が、身動き出来ずにただただ聞くアリスとカナトを、彼から隠してしまうように割って入る。力ない非難の声を無視して、彼女は彼のものをさっさと盆の上に片していく。二人がぐだぐだと机上の攻防を繰り広げるうちに、彼らの斜向かい、隣に座ったアイに、アリスはいくらか硬い表情を和らげる。
 しかし、またすぐに顔を上げ、
「エイクは?」
「大丈夫、念のために傷は縫うけど、他は平気みたいだ。ラントさんは優秀な医者だから任せておけば心配ないよ」
 頷くものの、彼女の表情には不安が残る。
「あの人は、もともと貴族の出なんだ。それも城下で名の知れた、代々医者の。腕は折り紙つきだよ」
「あの人、貴族なの?」
「うん。だけど、こっちに住んで長いし、本人も、もうそのつもりはないみたいだけどね」
 ふうん、とアリスは視線を落として小さく呟く。
「ご飯まだなんですって?」
 クラウを退けたナナイが、アイの手前に湯のみを差し出し尋ねる。二人は手をつけないが、アリス達の前には、既にジュースが並べられている。
「急いで作るからちょっと待ってね。二人は何か食べられないものとかある?」
 視線から逃れるように、すっと身を潜めてしまうカナトの代わりに、アリスが、彼女もいくらか縮こまって、控え目に首を振る。
「すいません、俺も何か手伝いますよ」
「いいのいいの、お客さんなんだからゆっくりしてて。それで、今度はどのくらいいられるの?」
「いえ、それが、一度城下に戻るので、明日の朝にでも、」
「あら、ホント? それは忙しいわね。でもこの様子じゃ、かなり降るわよ」
 彼女が見上げるのは、窓の外。倣うアイも、暗夜に些か眉間を寄せる。
「山道だから危ないし、もう少しいたら?」
「そうですね……」
 リツと相談してみます、とアイは難い顔つきで答えたが、自分の発言でころりと思い至り、
「あれ、そういえばリツは?」
 彼は悠長に辺りを見回す。
「リツなら、さっき車入れに行ったよ」
 丁度居間にやって来たミナキの答えではなく、はっとアイの表情を変えたのはミナキの手にするもので、それを彼も見計らい、
「ふふん、今季の自信作だ」
 誇らしげに一つのレタスを掲げてみせた。
「すごいじゃないか!」
「だろっ」
 ぱっと途端に二人の表情は明るくなり、
「今年は大分綺麗な形に出来たんだ」
「うん、立派だ」
「色々工夫したのがうまいこといったみたいでさ、」
 うんうん、とアイが頷き、農作話は楽しげに転がる。さらには、呆然とする傍らのアリスとカナトを、
「持ってみる?」
 と引き入れ、手渡されたカナトが両手で危なっかしく抱えるのに、アリスは冷や汗を流す。
「俺も少しだが、お土産に持って来たんだ。あ、リツに先に運んでもらえばよかったな」
「おぉ! 見たい見たい」
「じゃあ今取に行って来――」
「待ったっ!」
 レタスを興味深げに眺めたままのカナトを除き、クラウは一斉に視線を浴びる。沈没したものと片付けられていた彼は、復活したかのように姿勢を正し、
「――ミナキ、母さんも、席について」
 強いて自らを、厳かに演出する。
「なんだよ、親父」
 カナトからレタスを受け取りながら、ミナキは身構えて言う。
 改まるクラウに、ナナイは察しがついたのか、
「今? ご飯出来てからでいいじゃない」
「いや、ダメだ」
 もう無理、とぐらつく彼に、ミナキも見当をつけ、ため息が混じるもののナナイと一緒に、仕方がない、温かい笑顔で席に着く。
 何事かと、揺れる瞳で尋ねるアリスに、アイは答えようと口を開くが、目の前に差し出された杯にクラウが手際よく酒を注いでいくのに、
「おじさん、俺はダメですよ、飲まないことに――」
「よーし、みんな持ってー!」
 彼の気のよい強引さに、どんどん巻き込まれていく。
「一体何、」
「ごめんね、適当にコップ持ってくれればあれの気も済むから」
 諦めた微笑で言うミナキの隣で、
「そうそう上手、こぼさないように気をつけてね」
 その声に、アリスの視線は、反射でもってカナトへ向かう。
 カナトは、素直に顔を上げている。促されるままに、コップを持ち上げて、これから始まることを待っている。
 同時にアリスの狼狽はすっと姿を消す。打ち払ったのは単に驚きであったが、彼女にとって喜ばしいはずのその光景は、不思議と胸のうちを、きゅっとつまむ。
「では、足りないのもいるけど、」
「あ、始まった」
「アリス、」
 もう身を任せてしまったアイに呼ばれ、アリスは慌ててコップを持ち上げる。
「まずはアイに、いないけどリツ、よく来たな! お前たちは相変らず元気で結構!」
 酔いの残った、たどたどしい口調で、クラウは鷹揚に頷く。
「それに、えー、アリスちゃんに、カナトくん、」
 アリスの肩はまた跳ねる。
「二人ともよーく聞きなさい。君たち二人、こうして我々とここに座った以上、泣こうがわめこうがどんなに嫌がろうとも、既に二人は、うちの一員だ! そして我が家の隊員に課せられた義務はひとつ! こいつらのように無茶しろとは決して言わない。だがこうして、元気な顔をここへ見せに来ること! どんなに楽しいときでも、どんなに苦しいときでも、この家はいつでもここにある。だから来たくなったら、思い出したら、いつでも遊びに来ること! おーけー?」
 据わりかけた目を、二人に向けて、彼は満面に微笑む。
「それでは皆さん、」
 ゆらりと威勢よく、真っ赤な顔で腕を上げる。クラウはぐるっと見渡し、
「皆さんの健在ぶりと、新しい、この幸せな出会いに、」
 そして音頭と共に、一斉に、
「乾杯!」
 幸福な音が鳴らされた。





[21440] Ⅱ-2
Name: ---◆b6852166 ID:11ddd56c
Date: 2010/08/27 11:27


「みんな、私のことを子供扱いするわ。そんな歳じゃないのに」
 アイの持った灯りに照らされながら、彼女は口を尖らせ言う。
 彼は自然な笑顔で、
「ほら、俺たちと比べれば若いし、背もちいさいから」
 悪気があるわけじゃないよ、と彼は楽しそうに歩みを進め、彼女は小さく顔をほころばす。
 薄っすらと湿る風は、賑やかな余韻を纏った頬に心地よい。稲は一様に揺れ、鼻を掠める緑の匂いはしつこくはない。
 家を出て、少し歩いたところに車庫はある。灯りも人もない静かな夜道は、開けた闇の中で、切り取られたように続く。
「けど、少し疲れたわ、あんなに賑やかなのは久しぶりだから……」
「いいところだろう?」
「――ええ」
 アイはにこりと笑い、
「よーし、早く戻ろ」
 元気よくカナトを抱き上げ、ひょいと肩車してみせた。
 が、彼の予想に反し、重心はぐらりとよろける。
「あれ、軽くて逆にバランスが、」
 言いながら、彼の体は傾いていく。肩に乗せたはいいが、持ち上げたその勢いは、カナトの重みと釣り合わない。
 カナトは驚きで目を開いたまま、咄嗟にアイの頭にしがみつき、彼の体は勢いのままに、ひょいと仰け反り戻ってこない。
「ちょっと!」
 アリスは焦る。アイの体はあっという間に地面とかち合うところまで落ち、カナトの頭は放物線を描く。彼女は咄嗟に手を伸ばすが、届かない。
 ふ、と彼女の息が止まる。突然、臓物がぐっと上に押し上がるような緊張が体を襲い、突如現れた、対象も実体もない激しい感情の起伏が、彼女の心臓を一瞬の内にぎゅっと握る。
 瞬間、無言が彼らを包む。
 アイは目を瞬かせながら、地面にしゃがんでいた。
「はーびっくりした」
 彼は反射的に上半身を勢いよく起こし、気付けば無事に地面へ着地している。
 アリスはしかし、凍った背筋が溶けない。自身に訪れた感覚への恐怖が、彼女を離さない。
「びっくりしたのはこっちよ……万が一のことがあったらどうするの……?」
 搾り出すように言う彼女に、アイは驚き、思わずその顔を覗き込む。
「大丈夫?」
 地面は土である。この感覚は度が過ぎていると彼女自身も理解している。だが、彼女の思うように呼吸は整わない。
「ん?」
 不意にアイは顔を上げる。
 カナトが彼の髪を引き、そしてけろりとした顔で、
「もう一回、」
 にこにこと笑っている。
 アリスは一瞬、目を丸くしたが、我に返り、
「カナト、やめなさい、危ないことはしてはだめ!」
 説教を始める彼女は、弾かれたように表情を取り戻す。
 それを認めたアイは僅かな違和感を残しつつも、安堵と共に期待に輝く少年の瞳と対峙する。カナトにつられるようにアイも、にっ、と頬を上げ、意気揚々と立ち上がる。
「アイ!」
 咎めるアリスに、大丈夫、と繰り返し、アイは重心を揺ら揺らと変えながら歩いていく。
 その隣で彼女は、一挙一動に、はらはらと顔を青くし、一方で笑い声を上げるカナトの様子に安心したように微笑み、と百面相に忙しい。
 暗い影の引いた彼女を横目に見て、アイはふっと笑みを漏らす。
「リツにもそういうところがあるが、アリスもだな。二人とも心配のしすぎだ」
「貴方が心配しなすぎなの」
 きっぱりと言ったものの、彼女は、伏し目がちにちょっと考え、それに、と続ける。
「あの人少し苦手だわ」
 控えめに呟く彼女に、アイは気さくに言う。
「それはアイツが悪いな。言葉は乱暴だし、愛想もないから」
 しかしながら、それには彼も懸念しているところがあるようで、少し困ったようでもある。
「勘違いされやすいけど悪い奴じゃないんだ、仲良くしてやってほしい」
 にっ、と強く微笑んで、彼はすぐに顔を上げる。
「さ、着いた」
 彼に倣い顔を上げ、闇と緑に囲まれた孤独な建物をアリスは見た。


「気分は?」
「おかげさまで、大分いいよ」
 頭に包帯を巻かれ、ベッドの上から、エイクは弱い笑みを返す。
「君たちの言った通り、彼はいい腕をしているね。もう問題なく動けそうだ」
 上半身を起こしていた彼は、言いながら腕を軽く回して見せる。
 既に治療に当たったラントとリイナの姿はなく、窓が開けられているために、この狭い部屋に薬臭さは残っていない。
「リツ君、だったね?」
 ああ、と頷きながら、リツは彼の側にあったランプをとり、その火を室内灯に移していく。その動作を目で追いつつ、エイクは続ける。
「ひょんなことに巻き込んでしまって、すまなかったね。もっとちゃんと話すべきなんだろうけど、ちょっと時間がない」
 一つ目の火元に灯がつき、次の一つに火を寄せるリツは相槌を打つことはしない。
「車の手配を頼めないだろうか、すぐに発ちたいんだ」
 三つめを灯し、彼は振り返る。
「それは出来ない」
 たった今灯した明かりが、彼の無表情を照らし、彼は平淡に言う。
「あいにく俺たちの車を渡すことは出来ないし、敵も時期にここにたどり着く。狭い村だ、車が一台消えただけでも、お前らがここにいた事実が割れる可能性がある。逆賊に加担したとなれば、この村が制裁を受けるのは免れない」
「逆賊……」
「違うのか?」
 ふ、とリツは初めて口角を上げ、エイクは僅かに雰囲気を変える。
「……君たちの事はおおよそ、君の兄上の話を聞かせてもらった。何が目的かは知らないが、こちらにもそれなりの準備があるとだけは警告させてもらう」
 二人の視線はぶつかりあったまま動かない。
「勘ぐる必要はない、俺たちの後ろにはなにもない。これは全くの偶然だ。街を出て、この村に向かう途中でぶつけた車がお前らだった、それだけだ」
「それは少し無理がある。君たちはひどく慣れている上に、知りすぎている」
 リツは余裕覗かせる。
「この程度の情報、少し探せばいくらでも手にはいる。そもそもここまでお前らが追い込まれたのも、情報戦で後手に回ったのが原因だろ? それにうちの兄貴は山賊追っかけ回すのが趣味みたいなもんなんだ、慣れもする」
 エイクから懐疑の色は消えないが、彼はかまわず続ける。
「なにより、第二王子シュドルの母イレーネは、かのフィオレダ王国王族の血筋だ。今更この後継争いに手を出して、フィオレダを敵に回すようなまねを演じる国はありはしねえ」
 彼は淡々と言い、
「俺にお前らをどうしようなんて気はない。ただ、」
 繰り返すように、エイクが彼の言葉に構える。
「一つ提案をしたい」
「提案?」
 リツの瞳は一際強く光る。
「ああ、王座を取り戻すための提案だ」





[21440] Ⅱ-3
Name: ---◆b6852166 ID:11ddd56c
Date: 2010/08/27 11:28

 ドアの開いた先は、暗闇一つだった。アイは注意深く足元を照らし、明かりは壁に行き止まり、黒い靄は払われて行く。闇に慣れた彼らの瞳に馴染む程には、車庫の中身をぼんやりと位置づける。
 彼らの車は、行儀よくそこに収まっていた。
 荷台を布で覆われた、中型の、少し変わった形をしているところはあるものの、先程まで乗っていた車であるそれは、珍しいものでもない。
 アリスは浮かび上がったその輪郭を、意味を持たず、ただ単純に目で追った。アイが近付く度に、くっきりと現れる外様は、銃弾に傷つき、残された痕が点々と続く。その一つ一つでさえ、彼女は漠然と眺め、双眼は冷たい光を持って、吸い込まれるように、視線が動くことはない。アリスは目視することに取り付かれる。
 ひどく規則正しく冷静に、心臓が脈打つ音が、彼女には聞こえる。
 自身の内が肌寒い。肌寒ほどに冷静に、この傷は彼女の輪郭を示し出す。
「アリス?」
 名を呼ばれ、彼女ははっとする。
「な、なに?」
 アリスは反射的にその双眼をしまいこみ、嫌な動揺が残る。
 彼女の足はいつの間にか止まっていたようで、既に荷を降ろし終えたアイと、その傍らのカナトは不思議そうな顔で彼女を窺う。
「アリスも食べる?」
 彼の近くに照る灯りのおかげで、彼女には、カナトが苺の積まれた篭を手にしているのが良く見える。
 アイの抱えた木箱に、傷はない。
 頷いたアリスは、すっと視線は僅かに車をなぞったが、それきり、彼女は彼らの元へ早足で戻っていく。
「それにしても、リツの奴どこに行ったんだ」
 まったく、と口を曲げて辺りを見回すアイの隣で、見上げるカナトは手に持ったそれを彼女に見せる。
「おいしい?」
「うん」
 彼の笑顔は屈託ない。
 アリスも自然と口角を上げ、上がりかけて、ふっ、と突然、表情から色が消える。
「……ねえ様?」
「おーい!」
 ん、とアイが顔を向けたのは車庫の入り口、ミナキが顔を出す。
「傘持ってってないだろ、もう降ってるぞ」
 傘を差したまま、彼は数本まとめて握った片手をかざす。
「おお、ありがとう、どうしようかと思ってたんだ」
 助かった、と言うアイの木箱にミナキは気が付き、
「おっ、それ?」
「ああ」
 頷くアイの表情は優れない。
「ミナキ、リツと合わなかったか?」
「ん? 見てないな」
「おかしいな、どこ行ったんだ……」
 半ば反射的に二人を見上げていたカナトは、解放されたように慌ててアリスに顔を戻す。彼女はカナトを見返すと、困ったように微笑み、それは彼の良く知る顔に違いなかった。

 机の上には、代えのろうそくやら小物入れやら、部屋の中から適当に集められた物が秩序なく並ぶ。
「シュドルの離脱で、兵力は二分、いや大半を奴らに持っていかれてることは知っている。おまけに情報は敵に筒抜け、城内の統率も危うい。内通者が多いことは確かだが、一方でこれだけの状況でもカナト陣営が倒れないのは、忠義の臣が存在するからに他ならない」
 背の低い二本のろうそくの間で、倒れた一本のペンに指を掛け、リツは弄ぶように人差し指で机の上に立ててみせる。
「小数でも精鋭なら、これで十分やれる」
 誰に向けるようでもなく、リツはすっと刃物の冷たさの宿った双眼を光らせ、口元は終始弧を描く。
 エイクは衝撃に打たれるままに、見開かれた瞳は愕然とその一見無秩序な机上を見下ろす。
「まさかこれほどの――」
 呟かれた言葉に、リツの視線は彼に戻り、エイクは顔を上げる。
「やはり、納得がいかない。これほどの策を組み立ておいて、それでも君はただの一個人だというのか?」
「……一個人だからこそ、この偶然にしがみつこうと必死なんだろうが」
 自嘲を、リツは他人事のように雑に投げ捨てる。
「――俺たちについての話は聞いたといったな。なんてことはない、俺たちは山奥の小さな村から来たただの村人だ。だが、たまたまその村は秘境の村、つまり世捨て人の村でな。多少特殊な人間が多い」
「それはまた随分――」
「得体の知れない話ではある。だが、事実なんだから仕方ない」
 彼自身、呆れるように緩く笑う。だが、潜ませた鋭さは消えない。
「たとえば車、あれは村で作られたものだから、世間に出回ってるのとは仕組みが違う。性能も上だ。俺たちが戦闘に慣れているように見えるのも、その実、性能の違いが物を言ってるに過ぎない。そもそも、世間には存在を知られていないのが俺たちだ。それがどうして、謀計の歯車になりうる?」
 攻撃的な瞳はぶつかり合い、空気は糸の左右を引くように凝縮し、張り詰める。
「ならば、君たちの目的は?」
「目的もなにも、もうこれだけ盾突いてんだ。王が変わるとこっちだって迷惑すんだよ。それに――」
 切り込むようにエイクに向かう瞳は揺れることなく、一方でまるで鼻歌でも歌うように軽やかな、楽しげな色を滲ませる。
「俺には勝つ自信がある。なら、舞台に立って損はないだろ?」
 積み上げられる確たる根拠に、エイクの片眉が微かに動いた。






[21440] Ⅱ-4
Name: ---◆b6852166 ID:11ddd56c
Date: 2010/08/27 11:29

「兄貴」
「お前は一体どこで何をしてたんだ」
 リツが呼ぶより早く、振り返ったアイの気色ばんだ声が重なる。突っ立つリツを咎める視線で捉え、アイの雰囲気は俄かに威圧的なもの変わる。
「まったくお前は、」
 説教を引き連れ、すぐさまリツに足を向けた彼に、玄関先の姉弟はひやりと内心を震わせる。だが、隣で眺めるミナキはいたって気楽だ。
「人に迷惑をかけるようなことはしてはいけないといつも――」
 相対した彼が不意に口を閉ざす。
「……どうした、何か変だぞお前」
 思わず、アイが怪訝な顔をする。
 リツはいやに落ち着いている。
「いや。その件は俺が悪かった」
 かわすように、すっと、リツは彼から目線を外し、彼の後ろを見やり、
「戻ってきたとこ悪いが、そろそろ出る準備を始めたほうがいいな」
 割に真面目に提言する。
「あ、ああ。そうだな……」
 そしてリツの視線は、アリスに向かう。
「話があるそうだ」
「エイクが?」
「ああ」
「もう平気なのか?」
 アイが尋ねるのに、リツは彼に向き直り、頷く。
「車の整備を頼む、俺もすぐ行く」
「……わかった」
 アイの了承を見届けると、リツはアリスを一瞥し、元来た方へ歩き出す。
「カナト、」
「カナトはここで待ってろ。まだ薬のにおいがきつい」
 手を引きかけた手を静止され、彼女は表情を不安げに変える。
「いいよ、俺が見てるから」
 なっ、とカナトに笑いかけるミナキに頷き、アリスは急いでリツの後を追う。
 二人の背を見送るアイの表情は、はっきりしない。
「……車、手伝う?」
「いや、大した作業じゃないんだ、大丈夫」
 そう、とカナトと顔を並べたミナキが控え目に言う。
「何かおかしいな……」
 再び玄関をくぐりながら、感覚を反芻するようにアイは呟く。
「あまり良くないの?」
 廊下を曲がり、アリスはリツの一歩後ろに続く。
「そんなことはない」
 答え、彼はまた無言で進む。
 居心地が悪そうに、アリスはリツを窺うが、彼が口を開く様子はない。
 身を縮める彼女はふと、抜け道を見つけるように、アイの言っていた事を思いだす。
「そういえば、」
 一歩前に出るように、アリスは口を切る。
「おじ様から聞いたわ、あなた面白いことしているのね。悪人を成敗して、でも怪我人は助けて、正義の味方みたいなこと」
 彼女としては褒めたつもりだったが、
「……捨て置いて生き残れば面倒だが、こっちで生かせば恩を受けた気になる。百人殺っても一人を助ければ、悪になることはない。お前は王族をやるくせに、その程度の頭もないのか」
 にべもない。淡々と言い放つ、その言い様にアリスはひとえに驚く。口をはくはくと開けはするものの、返す言葉のない彼女は結局口を噤んでしまう。
 リツの後ろで、アリスは膨れっ面でその背を睨むが、彼が振り返ることはない。
 それからしばらく、歩き続けていた彼が不意に足を止める。
 廊下にまだ扉はない。
「話はしてある。後はお前が指示するだけだ」
 会話は唐突に始まる。
「……なんの話?」
「この国の話だ」
 リツは振り返り、すっとアリスの瞳を捉える。
 頬を冷気がかすめるような、冷たい緊張が彼女に近付く。
「もう一度聞く。お前は本当に、戦う気があるのか?」
 アリスが双眼に宿す、その色が、静かに変容する。
「戦う気があるのなら、俺が王座をお前にやろう」
「……この国はそんなに簡単じゃない」
「当たり前だ、簡単じゃ困る。だが、やれるだけの余地は十分ある」
 見つめるアリスにリツは笑みを残す。
「お前にとってこの国がどれほどのものかは知らねえが、俺はもう、すべてくれてやることにしたんだ」
「……一体なんのために?」
 冷静な瞳を彼女は反らそうとはしない。
「俺のために」
 言い放ち、足を止めたまま彼は廊下の先を指差す。
「角を曲がってすぐの部屋だ。直に出発する、早く決めろ」
 そしてリツは踵を返す。
「……あなたは馬鹿だわ。こんなにも手にしているくせに――」
 その背を見ることなくアリスは呟く。
 足音が、つ、と止まる。
「馬鹿はお前だ。これだけ奪われてまだ、逃げ果せる気でいる」
 淀みなく再開された足音を背に、アリスは静かに視線を落とした。


 控えめにノックをし、アリスはノブに手をかける。
「エイク、入るわ」
 部屋の中心、彼は立ち上がり、机に向かっていた。
 机上に手を付き、乱雑に置かれた小間物たちを一心に見つめたまま、開いたドアには気付かない。
「エイク?」
 二度目でようやく、彼は弾かれたように顔を上げる。
「、姫様」
 その姿を認めると同時に、すぐさまエイクは膝を折り、肩膝を立てて頭を下げる。
「申し訳ありません、姫様にとんだ失礼を――」
「それより怪我のほうは」
「見ての通り、大事ありません」
 顔を上げて笑みを見せるエイクに、よかった、とアリスは大きく息をつく。
「面を」
「は、」
 立ち上がる彼に歩み寄り、アリスは机上に目を止める。
 立てられた、あるいは寝かせられた本やろうそく、倒れた一本のペン、それらを一通り視線でなぞり、無秩序な盤面に彼女の眉は寄る。
「これは?」
 彼女は改めてエイクを見やるが、彼は答えない。伏せられたその瞳の元、眉が深く寄っている。
 一層強く口を結んで、それから軌跡を描くように、エイクは静かに思慮の視線を上げる。
 酷く真剣な面持ちがアリスに向けられる。
「……姫様、私の任務は、御二人と共にこの国より無事逃れ、御身をお守りすることです。ですから、これから申し上げることは、戯れ言です」
 アリスは頷く。
 待ち構える彼女を見据え、エイクははっきりと口を開く。
「勝機がございます」
 いつでも和やかな彼の瞳が、暗く光る。
「あのリツという少年、到底只者とは思えません。彼は我々が渇望した策……勝利に直結する非常に現実的な策を持っています」
 驚きで顰めた眉をそのままに、アリスは冷やかな色をもって瞳を細める。
「彼の策に依れば、我々の勝利も夢ではありません」
「……確かか?」
「確かです」
 エイクは微動だにせず断言する。
「そう……勝てる……」
 彼女は小さく反芻し、俯かせたその顔に、感情はのらない。
「お父様がいらしたら、どうなさるだろう……」
 霧中にあるような、ぽつりと呟かれた言葉はエイクに届く前に、彼女の自嘲めいた口元に緩やかに消されてしまう。
 どこか、空虚を眺めていた彼女が、やがて、小さく口を開く。
「エイク、私は一体どれほど許される?」
 声は震えてはいなかった。だが、すぐに消えてしまうその様は、あまりにも儚い。
 慈愛の嘆きを上げるように、彼は悲しみを双眼に浮かべるも、すぐにその瞳を瞼で隠し、
「我々には、忠誠を誓った姫様、カナト様、そしてこの王国こそがすべてです。ですから、この身、この命を捧げることなど、容易いのです」
 再び開かれたその瞳で、この優しい姫に微笑んだ。






[21440] Ⅱ-5
Name: ---◆b6852166 ID:831f7702
Date: 2010/08/31 21:24

 雨は、酷くはない。
 低くしぶきを上げて傘に弾かれ、浅い水溜りに落ちては、軽やかな音を上げる。
 車庫には車が二台と他にも雑多なものが色々、十分広いとはいえ、混み合っているのがよく見える。地面に置かれた一つと壁に備え付けられた一つのランプに入れられた明かりが、割によく照らし、リツは少し目を細める。
「特に壊れたところは見当たらない、これなら問題なく動くな」
 二つの灯りが照らし合わせる中、僅かにもう一つの灯りが揺れ、車の下へ潜ったアイが小さな灯りを手に顔を出した。
 頷くリツは入り口で傘を置き、まっすぐ車用の大きな出入り口へ向かう。
「一度動かしてみたほうがいいだろ」
 言いながら彼は、滑りの悪い引戸に両手をかける。広いとはいえ、閉じられたここで動かせば、蒸気で真っ白になってしまう。
 引きずる鈍い音と共に、押し開かれるその隙間から僅かに闇が入り込む。
 立ち上がり、アイは傷だらけの車体を過ぎる。その緩やかな足取りが、運転席の前で止まる。同時に、手にした炎が大きく揺らぐ。
「リツ、お前、この国を獲るといったな」
 リツは答えない。それは肯定であると知るアイは、いくらか顔を引き締める。
「それはつまり、あの子たちに姉弟で殺し合いをさせるということか?」
 開けた引き戸から外を眺めるその背を、アイは厳しい視線で詰問する。
 軽い雨は沈黙を埋めはしない。アイの苛立ちは増していく。彼は、この沈黙が意味しようとしているものを、察したくはない。詰まる所それは――
「……そうだ」
 雨の中へ投げされた肯定は、アイに十分届く。顰められた彼の表情が、更に深くなる。
「どうして、そんなこと……」
「王族に権力争いは付き物だ」
「そうじゃない」
 語勢は、些か乱暴にリツを切り捨てる。白刃を降ろすように、彼は短く息を吐く。
「……一体どうしたんだ、今日はお前、何か変だぞ?」
 暗澹の空でもなく、地で跳ねる雫でもなく、リツは暗闇をただただ眺める。背は振り返らない。
「なぜそんなことをさせる必要がある? 身内同士の争いなんて、どれだけ無意味で残酷か、わかりきってるだろう……リツ、これは俺たちにどうこう出来る話でもなければ、首を突っ込むような話でもない。俺たちに出来ることと言えば、このままあの子たちを逃がすことぐらい」
 すっと彼の表情に影が差す。
「身内で殺し合うくらいなら、あの子たちは逃げてしまった方がずっといい……」
 呟くアイは、痛ましげに目を伏せる。
「――リツ、聞いているのか」
 叱責の短い語尾が、車庫の中で小さく響く。
 途端に寄せる沈黙の波が、彼らをわずらわしく取り巻いていく。耐えるようにアイはじっと、暗中の背を見つめる。
 足をとられることなくリツは佇み、その右手がゆっくりと握られていく。五本の指が折りたたまれ、一層力の込められた拳は一瞬小さく揺れ、そして虚しく緩んだ。
「……兄貴、ここで別れよう」
 リツはひたすら闇を睨む。
「俺はあいつらと城下に行く。車は手配してある、兄貴はこのまま村に帰ってくれ」
「馬鹿なことを言うな、このまま帰ろう」
「嫌だ」
「リツ、」
「なんと言おうが俺はやる」
 音を立てて振り返ったリツの瞳が、アイのそれと激しくぶつかる。
 戦うように、鋭く向かい合い退くことのない視線が、闇と光の中にあって明確に閃く。
「……お前の腕じゃ、あの子たちは守れない。不幸にするどころか、命を落とすぞ」
「そうだ、だから俺も命を賭ける」
 アイは目を見張る。
「城下に下って、俺はもう村には帰らない」
 咄嗟に開いたアイの口が上手く言葉にする前に、リツは告げる。
「俺は村に出る」
 しん、と沈黙の波すら引いていくように、音が消える。それは、唐突に途切れた糸に似ている。
「……いい加減にしろ」
 愕然と正体を失っていたアイの瞳が、灯すように光を取り戻す。
「それがお前の目的か?」
 それは静かに、はっきりと怒りを写し出す。
「村を出たいがために、そんなことをするのか?」
 リツは、意識的に背を向ける。
「答えろ!」
 言葉は痛々しく地面に叩きつけられる。
 答えは、ない。
「……見損なった」
 アイの視線が落ちる。
「……村を出ることは許されない。そういう掟だ。だが、お前がそれを望むなら、俺も一緒に頭を下げよう。俺たちはあの村に育ててもらったも同然だ、命の恩人に対してのそれがせめてもの礼儀のはずだ」
 ぐっと音を立てて握られた拳が、力のままに白く変わっていく。
「それを、まるでなかったもののように裏切って……皆をどれだけ傷つけることになるか、わからないはずがない……!」
「もう決めたことだ」
「ふざけるな! 人を裏切り、人の命を利用することが、許されると思うのか」
 彼の怒りは、氷のようにリツの背を突き刺す。振りかざすのも、貫かれるのも、触れる肌を殺すように痛めつける。
「頭を冷やせ」
「俺は十分冷静だ」
「リツっ、」
「兄貴は!」
 俯く彼が、顔を上げることなしに叩き出す。跳ねるように散った音が静寂をつくる。
「このまま帰ってくれ」
 彼は光に背を向ける。
「俺のことは憎んでいい、だから、帰ってくれ」
 いつの間にか雨は音を立てて泥を突き、傘もささずに踏み出したリツは、決して振り返らなかった。




[21440] Ⅱ-6
Name: ---◆b6852166 ID:831f7702
Date: 2010/09/03 18:31


 ほとんど地下に埋まっているこの部屋は、太陽の昇っている内ならまだしも、沈んでしまえば、まるで穴倉になる。高い天井沿いに空いた横長の窓も、外を通り過ぎる人の靴ばかりを、おぼろげに写す高さでしかなく、夜になれば月明かりも街灯も拾えない。
 陽が沈み早々に塞がれた窓の代わりに、過不足なくランプが灯る。
「ジル」
 炎が一斉に揺れ、返事を待たずにドアが開かれる。金の髪を後ろでまとめ上げ、紫色の瞳で彼を捉えるシェイラは、些か不機嫌そうにも見える。
 しかしそれが彼女の本来であることを知るジルは、広くも狭くもない丸テーブルの上、書類を読む視線を上げることなく、生返事だけを返す。長くもない深い黒の髪を後方になでつけた彼の、サングラスで隠されることない目元は切れ長く、線のはっきりした顔立ちはいかにも涼しげで、整っている。
「どうしたの、そんなに真剣に。目新しいことは書いてないけど」
 彼が割に真面目に眺めているそれが、自身も既に目を通した定期報告であることに気付いた彼女が、不思議そうな顔をする。
「いや、ただの確認。どうした?」
「手紙」
「誰から?」
「さあ」
 宛名も差し出し人もない真白な封筒を受け取ったジルは封を開けながら、徐に立ち上がる。
「それで、用は?」
「急ぎじゃないから後でいい」
 入れ替わりに彼の向かいに座った彼女は机の上に残ったコーヒーを飲みながら、彼の読んでいた書類をやはり怪訝そうに手に取る。
 戸棚から取り出した小箱を手に、ジルは元の様に座ると、封筒から手紙をつまみ出す。
 広げた手紙に文字はない。ただの真っ白な紙であるそれに、ジルは青色をした液体を薄っすらと筆で伸ばしていく。
「見てもいいの?」
 机の上で大っぴら作業を始めるジルに、シェイラは書面の向こうから顔を覗かせる。
「見ても読めないよ」
 ジルの言う通り青地に浮かび上がった白い文字は暗号文であった。
「……生きてたらしい」
 読み始めてすぐ、文面に向かったままジルがにやりと笑う。
「……ああ、あの子?」
 その一言でわかったらしい、
「リツくんでしょ? 心配するくらいなら最初から囮なんてよせばいいのに」
 合点がいったと、シェイラは書類を手放す。
「それじゃ面白くない」
 悪戯っぽい微笑を向けられた彼女が、呆れたため息を漏らす。
「でも、うまくいったならよかった、あなたの見込みも外れずにすんで」
 ふわり笑みを返し、シェイラはコーヒーを片手に、ジルが読み終えるのを待つ。
 壁にめぐらされた本棚の、どこまでいっても終わらない色とりどりの背表紙たちを、彼女はぐるりと眺る。めぼしいものでもあればそれを手に待つのが常だが、あいにくそういう本は見つからなかったらしい、視線は旅を終え一向に読み終わる気配のないジルに帰り着く。
「……どうしたの、」
 彼女の表情が、にわかに切迫する。
 彼は手紙を見つめたまま動かない。上げられた口角とは裏腹に、その眉はきつく寄せられている。
「どうやら俺はまた盲目だったらしい」
 彼女がもう一度尋ねる前に、ジルは顔を上げた。難儀そうに言う彼の表情は、しかし冗談でも口にするように、もう落ち着いている。
 ふう、とため息と共に彼は口を開く。
「俺はもともと兄の方を買っていたんだ。兄のアイは恐ろしいほど腕が立つ……。だが弟の方もどうも随分な食わせ者だったらしい」
 ジルはもう一度、笑みを浮かべる。対照的にシェイラの眉は寄っていく。
「脅迫状」
 ひらひらと、彼が手紙をつまみ上げる。
「え?」
「俺を売る気らしい。それもこれ以上なく立派な材料でな」
「――――ヴァン、まさか」
 酷く動揺した表情を向けるシェイラに、ジルは差し指を彼女の口の前に立て、微笑んで見せる。はっとしたように口を結び、それから改めて真偽を尋ねる彼女に、彼はあきらめたような顔を大げさに作る。
 直感したシェイラは瞬時に表情を険しくし、彼女の想像をジルは無言で肯定して見せた。
「だけど、一体どうやって……知る余地なんて絶対に無い、断言できる」
「俺もそう思ったが……よくよく記憶を洗ってみれば、思いあたるところがひとつだけある。おそらく、あれと初めて会ったと俺が記憶しているより前に、俺はあいつと一度会ってる」
「会ってるって……リツくんとの付き合いはもう長いじゃない。あの子の歳でそれ以上前といっても……」
「ガキもいいところだ。その上、俺も忘れるぐらいたわい無い……」
 一息、ジルはゆるりとコーヒーを飲み込む。
「おそらくこっちに来てすぐだ。人をつけてたか、待ち合わせでもしてたか、よく覚えてないが……その途中、路地で子供と思い切りぶつかったことがある」
「ぶつかった?」
「出会い頭にな。確かむこうは荷物を抱えていた、その上ほんの子供だ、たいした速度じゃ歩けない」
「だから気が付けなかった、と?」
「覚えてなかったことを思えば、そう片付けたんだろう。だが時期も時期だ。ぶつかったその時はそれなりに焦った。つまり、“演じ”損ねた」
 さして重要でもなさそうに、ジルは肩をすぼめて見せる。
「それであなたの過去に疑問を持ったって言いたいの? それだけで気付くなんて……しかもそんな子供の頃のこと、そもそも覚えているかどうかもあやしいわ。それに、気付いたからといってどうこうなる話でもない」
「まあ俺も遊び半分で、せがまれるままにこっちの世の中の仕組みやらなんやら、一通りは教えてあるからな……」
「飼い犬に手を噛まれたなんて笑えない……可能性が本当にないかもう一度調べてみないと……」
 シェイラはあごに指を添え、思考をはじめる。
「いや、その必要ないな。お前の言う通り流れ出る余地はない」
「じゃあ……」
「要はただの仮定だろう」
 言い切るジルに、シェイラは苛立ちと不安の混ざった瞳で彼を見る。
「……想像で組上がるもの?」
「実際の情報が持つ関連性はわずかであっても、最初からある仮定を持って結び付けていったなら、組みあがらないこともない」
「信じられないわ。普通ならその関連性にすら気付くはずない」
「だが、事実こうして突き付けられてる訳だからな」
「……それで、要求は?」
 腑に落ちないと、顔には書きつつも彼女は話を次へ進める。
「それが問題だ」
 彼はまた、ため息を吐く。
「あの馬鹿、手元の駒で天下を取ると言い出した」
「駒? ……時間通りに出したんだから、出会うはずがない……」
「大方、お姫サマらしく随分ごゆっくりな道中だったんだろ。まったく、囮の意味がない。まあ、それについては後で報告を聞こう」
 彼女は頷くも、やはり不機嫌な表情は変わらずに、
「……なんにしろ、時期尚早よ」
 冷静に一蹴する。
「俺もそう思ったから奴にのってやったわけだが、まったくとんだ誤算だ」
 しかしその言葉とは裏腹に、彼は不敵な笑みを浮かべる。
「……買いかぶりが過ぎるわ。のるべきじゃない」
「根拠のない空想だろうが、あいつが握ってるのが真実である以上、逆らえねぇだろ?」
 子供っぽくにやっと口角を上げるジルに、彼女は厳しい視線を向ける。
「ヅラかぶる手間が省けるようになるかもしれないし。俺に春が来るかもよ?」
「馬鹿らし」
 コーヒーを飲みながら、彼女の顔は更に不機嫌になる。
「勝手に処理するなよ」
「さあ、それは約束できないわ」
 カップを置き、シェイラは席を立つ。
「だけどあなたが処理してくれた方が、手間がかからないのは確かね」
 彼女の含みのありげな美しい笑みに、ジルはもう一度にやりと笑ってみせた。




[21440] Ⅱ-7
Name: ---◆b6852166 ID:d8e9d6a8
Date: 2010/09/08 23:28

 油の臭う浅黄の傘は、次第に強くなっていく雨に巻き込まれ、闇に隠れるように進む。
 アイはランプをつけてはいなかった。
 雨と傘にくぎられた狭い隙間の向こうで、遠い山肌は時折ちかりと光り、また消える。彼らを捜索するものに違いないそれを、彼は無感動に視界に入れ、次ぐ足は泥に塗れていく。
「アイ、」
 たどり着いた家の明かりに、彼が顔を上げたときだった。雨に歪められることなく、声は鈴の音が鳴るようにすっと彼の耳に届く。
「アリス、どうしたそんなところで」
 あぜ道の終わり、ミナキの家に続く広い道の入り口に、一本のクヌギが立っている。裾が汚れてしまうのも構わずに、彼女はその根に丸まるように佇んでいた。
「貴方を待っていたの」
 立ち上がり、アリスは踏み出す。広くなった葉の間から雫は落ち、その頬を濡らす。彼女は傘を持ってはいなかった。
「貴方に頼みがある」
 アイに向かう瞳が、薄っすらと射す光を受けている。冷たくも温かくもないそれは、ただ彼女が真剣であることだけをアイに伝える。
「……あんまり濡れると風邪を引くよ」
 アイは微笑み、彼女の上に傘を差し伸べる。
「私は、いいの」
 すっ、と顔を伏せ、足を引くアリスに、彼は困ったような顔をしたものの、傘を閉じて優しく彼女の腕を引く。幹まで入ってしまえば、葉が雨粒を消す。
 彼は振り返り、
「俺もアリスに訊きたいことがあるんだ。先にいい?」
 尋ねる笑顔は、顔に乗った影が濃いせいだろうか、忍ぶようでぎこちない。
 緩くアリスが頷いたのに、ありがとう、と短く言う彼の表情が重苦しく変わる。
「城に戻りたいと、今も思う?」
「……ええ」
 彼女はアイと視線を交えようとはしない。眩しいものを見るときのように、細められた瞳は雨の向こうばかりを眺めている。
「何のために?」
「……戦うために」
 苦く、彼は口を閉じる。
 雨の音が重くのしかかり、夜が深くなっていく。
「……アリス、カナトを連れて逃げるんだ」
 彼の眉間が厳しく寄る。
「俺はこの国の出じゃないから、行き先ならいくらでも紹介できる。きっと逃げ切れる」
 アリスは緩く首を振る。美しいその髪からゆっくりと雫は落ち、彼女はようやくアイと向き合う。
「私には、他に行くべき場所がない」
「それは違う」
「違わない」
「そんなことはない、どこだってきっとアリスは――」
「私が、」
 遮る彼女の語気は強く儚い。
「私が、許せないの。私には他の選択肢なんてない!」
 噛み付くように色を変かえたアリスの瞳は、酷く感情的な光を湛えた。
 苦しげに眉を寄せ、アイは沈黙する。
「だけど、あの子は違う」
 小さな声は、しかし澄んでいる。
「カナトは、別の道を生きていける……」
 唐突に、アリスは泥の中に膝を折る。冷たい地面に両手を着き、ゆっくりとその頭は伏せられる。
 垂れた、美しい髪が泥に浸った。
 クヌギの樹の下、アリスは土下座し、アイは目を見張る。
「私はこれから戦争をする。もし私が負けるときは、カナトを連れて貴方の村まで逃げ欲しい」
 張り詰めた彼女の声が、動きかけたアイを制止する。悲痛なほどに、彼女の心がそこにあった。
 思わず顔を伏せた彼は、ぐっと拳を握り、立ち竦む。
「貴方にこんなことを頼む私は、ずるくて、汚いわ。だけど、私は絶対にカナトを守りたい」
 アリスは額を一層汚して、言葉を絞る。
「どうか、カナトを……!」



[21440] Ⅲ-1
Name: ---◆b6852166 ID:d8e9d6a8
Date: 2010/09/08 23:31

「足取りは?」
 技巧の凝らされた美しいドアを些か乱暴に閉め、部屋に入るなり彼は尋ねた。四十代初頭だろう、気難しそうに眉を寄せた端整なその顔は年月に疲れてはいないが、すでに重厚な雰囲気を漂わせている。
「いえ、まだ……」
 彼の様子を見るなり、答える少女の表情は憂いを色濃くする。彼と同じ色の瞳と黒のスーツを纏った小柄な彼女は、色の白さのせいか、しっかりとしたその瞳と裏腹に、どこか儚い。
「ギーゼラ様は……」
 白い手袋はずしながら執務机に向かう彼に駆け寄り、追い縋るように彼女は言う。
 彼は首を振り、
「あの御仁、どうあっても言うつもりはないらしい」
 ため息と共に革張りの椅子に沈み、眉間にしわを刻んだまま目を瞑る。
 彼の言葉に顔を伏せた少女は、用意してあったポットを取り、紅茶を注いでいく。金で縁取られた白いティーカップが、窓から入る薄日で静かに光る。
 丁寧に置かれたそれを手に取り、彼は優雅に一口含み、また下ろす。
「敵は今朝も変わらず捜索を続けている。そんな顔をしなくても、御二人はご無事だ」
「ですがっ……」
 ぱっ、と顔を上げた少女はまた瞳を伏せてしまう。
「心配でなりません」
 少し小さくなった声に、彼は力を抜くように優しく微笑む。
「ミオリ、国境線近くにも動きはないのだろう?」
「はい」
「援軍要請にお出でになったというのは、さすがに偽りだろう。ギーゼラ公もよもや陛下のお命をあえて危険にさらすようなことはしまい……」
 彼はまた考え込むように、表情を硬くしていく。その変化を察したミオリの眉が、彼を気遣うように揺れる。
「クライトに会ってみます」
「知っていても何もしゃべりはしないだろう、彼も今や一軍の将だ」
 彼はまた一口紅茶を飲み、ミオリは口を噤む。
「お前の気持ちもわからないわけではない。しかし――」
 彼が言葉を切ってすぐ、ドアが二度叩かれる。
「入れ」
 彼に命じられ部屋に入った男はすばやく膝を折り、頭を下げる。
「ハイデン様、ミオリ様、今し方カナト様、アルディス様共にお戻りになられました」
 二人は同時に息をつく。
「……そうか。して御様子は、」
「御二人ともご無事のようです。お付きになっていたのは、エイク様、それに、」
 報告を行う彼は、上げた顔をいくらか顰める。
「三名程未確認人物が――」

 昨晩の雨は霧雨に変わったが、雲は厚く日は薄い。窓から入るくぐもった朝陽は、高貴に飾られたこの色彩豊かな部屋をひどく単調に見せる。
「貴公の読みは正しい」
 部屋の中心、青年が机上に広げられた地図から顔を上げた。
「もともとこれはこちらのもの、構造から設備まで良く知っている。落とすのならすぐに済む」
 彼は貴族然とした態度で、向こう側のリツに言う。
 低い机を囲み、広いソファーに二人はそれぞれ掛け、地図には書き込まれた黒い印と、赤くあるいは青く塗られた駒が並ぶ。
 青年の後ろにはエイクが控え、彼は成り行きを見守るように彼らと共に地図を見下ろす。そして部屋にはもう一人、男が部屋の一番端に置かれたソファーに掛け、肩肘を付きながら彼らを見物している。
 高貴な身なりをした彼は老いてはいないが、リツに対座する青年はもとより、エイクよりも年上である。しかし彼は口を挟む気などまるでないように、好奇心を浮かべた長閑な顔をしている。
 青年は続ける。
「貴公らを襲撃したのも、エイクの言う通り敵のものに間違いない。我らも、今現在監視をしている最中なれば、こちらも問題ない。成程、良い策だな」
 淡白な口調のまま言うと、彼は体の向きを変え、四角い机を囲むもう一辺のソファーに対向する。
「――しかしよろしいのですか、アルディス姫」
 ソファーに上品に腰掛け、地図を眺めるアリスは、
「ええ」
 抑揚もなく答える。
「わかりました」
 青年は驚きもせず頷き、立ち上がると、右手を添え軽く頭を下げる。
「それでは、我ら陛下のため、これより出陣致します」
「……貴方がたの武運を祈ります、クライト」
 顔を上げたアリスと視線を合わせた彼は、もう一度頭を下げると、黙礼するエイクの前を過ぎ、部屋を出た。




[21440] Ⅲ-2
Name: ---◆b6852166 ID:9fd2c17c
Date: 2010/09/23 01:03

「なんだ、糸引いてるのはお前か」
 ソファーに座る人物を見つけるなり、男は納得がいったと間が抜けた声を上げた。
 たった今まで見物人に徹していたこの男は、軍議の終了と共にアリスに追い払われ、今度はふらりとこの部屋を訪れた。
 部屋には先客がいたが、彼は気にする様子もなく一直線にソファーに座り、一人頷く。
「道理で賢い」
「違うわよ。私が、あの子に雇われてるの」
 黒いサングラスを光らせたもっともらしい顔で、彼の向かいには当たり前のようにジルが座っている。
「んな馬鹿な」
 取り合う気もない彼は背もたれに頭を預け、大げさにため息をつきながら、
「遂に乗っ取りに来たわけね。これ許していいんですか、ギーゼラ公」
 彼らと斜めに対座する老翁を見やる。
「許すわけがあるまい」
「だそうだ。さ、退散したまえ」
「何を今更。いつでも持ちつ持たれつの仲じゃない」
 大仰に驚くジルに向かう二人の視線は変わらない。ジルはふん、と鼻を鳴らし、
「何度も言うけど、こっちに非はないわよ。むしろ感謝されたいわ。せっかく上手く逃がしてあげたのに、あんたたちのお姫サマがもたもたしてるから足がついたの」
 余裕の笑みでジルは言ってのける。
「どうせ、お姫サマが渋ったんでしょ」
「――では、姫様に非があると?」
 ギロリ、とギーゼラは重い瞼の隙間から目を光らせる。
 ジルはその余裕を仕舞おうとはしない。しかしすぐに、参ったといわんばかりに肩をすぼめ、彼は冗談めいたその態度をいくらか潜めて、唇で弧を作る。
「別にあなたに楯突くつもりはないわ。こう見えて義理堅いのよ、私って。これまで通り仲良くやりましょ、これからも」
 ギーゼラは言葉を返さない。無言は、否定ではない。
「さてと、」
 ジルは腰を上げる。
「見物人が帰って来たってことは、軍議も終わったってことね。そろそろお暇するわ」
 彼は軽やかに身を翻し、ドアの閉まる音が鳴る。
 ギーゼラは使用人が注いだコーヒーをゆっくりと含むと、短いため息を吐く。
「まったく、これでは意味がない……よもやあの男にこれほどの気概があったとは」
「ああ、エイクのことですか。そう言われてみれば彼は確か、もともと軍の人間でしたね」
「だが、親衛に移って長い。気性は良く知っていたつもりだったが……」
「軍人魂ってやつですかね。なんとも質の悪い」
 悠長に言う彼とは対象的に、ギーゼラは難しい顔でまたカップに手を伸ばす。
「それで、貴殿の用向きは?」
 答える彼はギーゼラに向き直り、歳相応の落ち着いた微笑を見せる。
「いえ、特には。しかし、時の分岐点に立ち会うのが私の役目なものですから」
「学者殿も大儀なものだな、ロディッチ殿」
 ロディッチは洒落た笑みをギーゼラに返すものの、その目に潜めた真剣さは消えない。
 ギーゼラの視線は彼を外れ、しかし悠然と答える。
「この老骨が最早動くまい……。ただただ先王に代わり御二人をお守りするのみよ」

 開いたドアから、ジルが顔をのぞかせる。
「あら、一人? てっきり姫サマと一緒だと思ったわ」
「アリスならさっき出てった」
 地図の広がったままの机の上には構わず数冊の本が重ね置かれ、なおもリツは壁に並ぶ本棚の前に立つ。
「あらそう……、まあ勉強熱心なこと」
「軍議する部屋だけあって、それなりに面白いのが置いてある」
「ふうん」
 リツの背中に生返事を返しながら、彼が座っていただろう向かいに腰掛けると、ジルは机の上にすでに積まれた本の背表紙をなぞり見、一人満足気に微笑する。
「記録書が見当たらねえ。この部屋にはないのか」
「ああ、それだったらここの歴史家に聞きなさい」
「歴史家? 城に学者がいるのか?」
「学者で貴族なのよ。それなりに権威だから名前くらいは知ってるかもね」
「……ふうん」
 俄かに止まったリツの指は、返答すると共に本を追う作業を再開する。しかしそれは申し訳程度で、既に手に提げていた一冊を抱え、彼はソファーに戻る。
「それで、敵の動きは?」
「まだないわよ、気が早いわね」
「何だ違うのか」
「心配しなくたって、何かあれば逐一教えてあげるわよ」
「だといいが」
「まあ、なんて可愛くないのかしら、健気に迎えにまで行ってあげたっていうのにこの態度!まったく、よくそれで姫サマを落とせたものね」 
 天を仰いでみせるジルを無視して、リツの視線はいつの間にか開いた本に向かっている。
「もとをたどればカナト派が後手に回ったのだって、交戦を嫌った姫サマの意思を丸呑みしたのが始まりよ? 相当頑固だと思ったのに、まさかあんたみたいのにほだされるなんて」
「みたいなのは余計だ」
「だいたい外の敵より、まずは内の敵よ」
 ため息を引き伸ばしたジルの口ぶりから拾い上げるように、字句を追うリツの瞳が動きを止める。
「わかってる」
「姫サマにどれほどの危機感があるかは知らないけど、裏切り者を泳がせておけるほど堅い状況じゃあないわよ」
 ジルは反応を窺うように意地の悪い笑みを向ける。リツはそれをちらりと見、それから何食わぬ顔でパタンと音を立てて本を閉じると、
「アリスにはもう言ってある」
「あら。あんたがこんなに入り込める程ユルくて仲良しこよしなのがここの売りよ? ショック受けちゃったんじゃない?」
「さあ……」
 立ち上がる彼は、眉を上げるジルに鋭く光るような微笑を浮かべて見せる。
「まあ、見てろよ。すぐに片付く」
「……随分と楽しそうだこと」
 呼応するようにジルは再び口角を上げた。



[21440] Ⅲ-3
Name: ---◆b6852166 ID:d65d416d
Date: 2010/09/23 01:08
※前話のⅢ-2を少しですが修正致しました。非常にお手数をお掛けしますがご確認いただけるとありがたいです。(9/23)
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 観音開きの立派な扉をくぐり、ハイデンは一人議場に入った。
 広い部屋の中心に置かれた横長のテーブルには、既に数人の貴族が席に着いている。ハイデンの姿を認めると、彼らの話し声はすっと退く。
 手前に座る者たちが立ち上がり挨拶するのに短く答え、彼はその長辺の最も奥に座わる。
 太陽はおおよそ天辺に昇ったが、やはり空は白く、テーブルには等間隔に置かれた燭台の炎が銘銘揺らぐ。
「しかしこれはまた、急な召集ですね」
「……ええ。セルドラ殿の方には何か?」
「いえ、何も。ハイデン様の方もですか。はて、何事でしょう」
 ハイデンの隣に掛けていた男、セルドラが首を捻る。相変らず眉間の寄ったハイデンは一座を見回し、いくつか空いた席の一つに目を止め、眉は更に僅かばかり動くが、
「御成あり」
 掛け声に一同の注意は一様に入り口に向かう。同時に規律し、扉を潜るギーゼラを筆頭に続くカナトとアリスを向かい入れる。
 ハイデンの右斜め、この場を見渡せる席にカナトとアリスが座り、それから全員が一斉に席につく。最中、軽く会釈をしたハイデンに、アリスの横に行儀よく座ったカナトが嬉しそうに微笑み返す。
 椅子を引く音が止み、閉じられる扉の重い低音は会議の始まりを意味する。
 部屋には緊張を誘う無音が台頭し始める。
「ギーゼラ公、クライト殿の姿が見当たりませんが?」
 問うハイデンの向かいに座すギーゼラ、その隣は空席のままである。
「彼は任務で欠席だ」
「任務?」
「今朝未明、東方山にて山賊の被害が報告されている。放置するには問題となる程度の武装が確認された故、クライト殿国軍が征伐に当たっている」
「山賊に国軍とは少々大袈裟では? 今国軍が動けば、シュドル派の警戒心を煽ることになりかねません」
 顔付きを堅くするハイデンに加勢するように、セルドラが言う。それを受け止めるような表情を示すもののギーゼラは、しかし、と言葉を次ぐ。
「些か困ったことになった。先程入ったクライト殿の報告によれば、追撃を続けた結果、標的の賊群は南方に下り、条関城に入城を果たしたとのこと」
「なんと……」
「今や条関城はこの王宮に最も近い敵城。件の賊とシュドル派における関係に疑念を抱かざるを得ないが、我々にとってはいずれであろうと関するところではない」
 ざわりと浮き足だした下座を正すように、ギーゼラの一層重厚な態度で言う。
 静観を続けていたアリスが動く。美しい姿勢で座る彼女は、どこか幼いところのあるその顔つきにまるで似合わない鋭さで端を発する。
「我が軍は現在、賊の引渡しに応ずるよう、心ならずも城主となっているマルタ方に交渉中である。しかし、本日正午を期限に返答なくばこれを国賊とみなし、正当なる武力を持って排除する」
 皆が息を呑む。
 議場は凍りつき、支配するただならぬ緊張感は彼女の威厳に他ならない。
「万一敵が応戦に転じた場合、それはすなわち逆臣シュドルの我々に対する宣戦である。我が方は全勢力を持って迎え撃つ」
「お待ちください、姫様!」
 声を上げたのはハイデンである。
「ご決断を早まってはなりません。正午とはあまりに急。賊とシュドル派の関係が明確でない以上、攻勢に出るのは危険です。まずはシュドル派に正式な警告を行い、敵の出方を見極めた上で――」
「異論は認めぬ」
「姫様!」
「これより我が方は臨戦態勢に入る。当城の出入を現状をもって禁止、各自私兵を召集及びその数、装備等を改めて報告、詳しい配置等については追って伝える。ギーゼラ、手配せよ」
 は、と短い返事でギーゼラは受諾する。
 アリスの冷静な瞳は、しかしまざまざとその強固な意志をそこに写す。
「ここに戦時規範への移行を宣言する。各々戦闘に備え君命を待て」
 明言し終えると同時に彼女は立ち上がり、カナトがそれに続く。
 戸惑を浮かべた議場を、それを許さない毅然とした態度で彼女は見下ろし、貴族たちは慌てて起立し退室する彼女たちを見送る。
「もともとご意志の固い方ではありましたが……あれほど張り詰めたお顔は見たことがありません。非常なご覚悟なのでは」
 彼女らを追うように、すぐさま歩き出したハイデンをセルドラが制止する。
 ハイデンは動きを止め、彼の忠言に耳を貸したものの、答えることなく足早に議場を去っていく。

 条関城を視界に据え、クライトは陣中に座していた。
 東方山からの追撃部隊は南方へ直接下ったクライト指揮下の本隊と合流を果たし、相当数となったカナト軍は、賊の武装に対する警戒を名目に既に城を包囲、条関城有する小山に正対した丘陵に本陣を置き、敵の返答を待っている。
「動きませんね」
「大方、脅しだと踏んでいるのだろう。何しろ姫様の心変わりは味方も読めないほどだからな」
「熱心な敵状視察が裏目に出ましたな。我慢もしてみるもんだ」
「まったく、その通りだ」
 共に本営に詰める将官にクライトは苦笑しながら答える。
 陣営の兵がたびたび懐中時計を確認し、彼らの目下の緑間には兵たちの姿が見て取れる。鷹揚に臨む彼らのもとに昇る風にも、時折高揚と緊張が滲む。
 ふと将官が、見取り図に落ち込むクライトの目線に気が付く。
「なにか気になることでも?」
「いや、」
 尋ねられて、クライトはいくらか驚いた様子で顔を上げる。何でもないと彼はさらりと答えたが将官は怪訝そうに、
「作戦なら抜かりありませんよ」
「当然だ。違う、気にするな」
「総督、」
 彼が早口で言ったとこで、時計を手にした一人がきりりとした声を上げる。
「マルタ氏から回答なし、最終警告済みです」
「よし」
 頷くクライトは勢いよく立ち上がる。
 兵士たちの表情は一層引き締まり、クライトもまた鋭い視線を敵城に据える。
「時間だ。これより攻撃を開始する、全軍直ちに出陣せよ!」




[21440] Ⅲ-4
Name: ---◆b6852166 ID:d65d416d
Date: 2010/10/04 21:00

「お父様!」
 自室に戻ったハイデンに待ち侘びたと言わんばかりにミオリは駆け寄る。その瞳は不安に揺れている。
「クライトが条関城に攻撃を……!」
「……そうか」
 彼は正午を回った時計を確認し、重々しく答える。
「今からでも姫様に」
「いや、姫様は……姫様の、ご命令だ」
 目を見開くミオリは声を呑む。
「まるでお人が変わったようだ……あれほど戦うことを否定なされていた方が……」
 立ち竦む彼女の顔を見ずに、ハイデンはいくらか感情的に言った。
「主導したのは軍部かギーゼラ公か、……どちらにせよ条関城への誘導は意図的と考えて間違いない。――城内に残った軍部の動きは?」
「はい……依然軍備に慌しく動いております。おそらくは次なる攻撃の準備かと」
 入り口近くで待機していた彼の部下が答える。
「やはり、条関城だけで終わらせるつもりではないな」
「ですが、戦力の差は変わらず歴然、その上お味方は動揺が広がっています。現状のままでは、シュドル派と一戦交えるどころでは――」
「……知っていたからこそ、お逃がししたのではないのか、ギーゼラ公」
 呟き、握る彼の拳が震える。
「何か策があるのではないかと探っているのですが、今のところ掴めていません」
「いかような策があろうとシュドルは動く。……決断せねばならない」
 険しい顔でハイデンは唇を強く引き結ぶ。

「俺に恨みでもあんのかよお」
 背もたれに頭を預け、ぐたりとソファーに埋まるミナキは天井に向かって疲れきった声を上げる。
「こういうのはアイの得意分野だろ! なんで俺!? 俺を殺す気!?」
「死んでねえだろ」
「死んでたまるか!」
前のめりのミナキの抗議に、奥の机で本を広げるリツは顔を上げる気配すらない。
「仕方ねえだろ。こっちは人がいない上に、信用もされてねえんだから」
「だから、アイを――」
「兄貴は兄貴だ」
 リツはぴしゃりと言い切り、頬に絆創膏をつけたミナキからは長々とため息が漏れる。しかしそれをあっさりと無視して、
「で?」
「……でもなにも、万事上手くいってるよ。お前に聞いた通りにちゃんと戦ってたし、怪しいところも、そういう奴のうわさもないし。明日には落ちんじゃないかって話だから、順調も順調、あれだけ強いんだから、まあ当然だな」
「王軍が優秀だというのは確かか……」
 やけに朗らかな報告にリツはそう呟き、僅かに上げた視線は考え込むように動かなくなる。
 彼の様子にミナキは首を傾げるが、気にする様子もなく、
「俺に言わせれば軍なんかより、あのサングラスかけたマッチョのオカマのほうがよっぽど怪しい」
「ああ、あれは信用するには足りないが……まあ外して問題はない。とりあえずはな」
「……俺さ、お前のこと今まで友達少ない奴だと思ってたけど、なんていうか、お前の世界って恐ろしいほど広かったんだな。勘違いして悪かっ」
「それ以上ぬかすと殴り飛ばすぞ」
「……あ、そうだ。伝言頼まれてたんだ、そのオカマに」
 恨めしげな目をリツ向けていた彼は唐突に手を打つ。
「敵先発隊が進軍を開始したって」
「そうか……急がねえと」
「……何が?」
「内通者の始末をだ」
「え、聞いてないよ? 俺たち多分邪魔者だけど命大丈夫?」
「まあ、すぐに済む」
「すぐ済む顔なのそれ?」
「おそらくミナキには関係ない、多分。そろそろ後続部隊が発つはずだ。引き続き、条関城の方頼んだ」
「”え、また!? もう陽も沈むし俺やだよ」
「ここで暗殺されんのとどっちがいい?」
「いや、今関係ないって言ったじゃん!」
「多分な」
「………………コンチクショおー!」
 嘆きを残し、ミナキは再び部屋を去っていった。

「備えの程に問題ありません。詳細はこちらに」
 セルドラは机に差し出た書類に手を添える。ギーゼラは頷き、
「貴殿の私兵隊は我が方でも指折りの戦力、陛下も期待しておられる」
「恐悦至極にございます。ご期待に添えられるようきつく気を引き締めねば」
 相槌を打ち、彼はそこに書かれた概要を手早く確認していく。
「……姫様には少し驚かされました。あれ程勇ましくご指示をなさるとは」
 ティーカップを傾け、いくらか味わった紅茶の味に賛辞を満足げ述べた後、まるでその延長にあるような簡素さでセルドラが言う。
「陛下のご決断に異議を申したいわけではないのです。ですが、果たすべき役割もわからなければ、歯がゆいばかりではありませんか」
「貴殿の言わんとするところはよくよく心得ている、この老骨とてそれは同じ。しかしながら、待たれるほかあるまい。戦況も直固まる」
「戦況、ですか……」
「条関城が落ち次第、再び命が下ろう」
 セルドラは彼に頷くことはせず、眉を下げた笑みのまま彼を見る。歳を重ねた皮膚に表情を埋め、ギーゼラはただただゆったりと紅茶を口にする。
 何かを紛らわすように、セルドラの視線はふらりと窓に行き着く。
「雲が退きませんね……雨になってはクライト殿の分が悪い」
 誘われるようにギーゼラの視線もまた、月の無い夜空に向かう。

 終わりなく続くランプは次々と入れ替わり、彼女と彼女の行く先を照らす。
 頬に赤く明かりが移ったその顔はどこか苦しげであったが、行く先をだけをまっすぐ見つめて俯くことはない。いくつかのドアを過ぎ、彼女は滞りなく廊下を進んだが、幾度目かの角を目前にしてそれが不意に止まる。
 僅かばかりに伏せた瞳が、音のない廊下でランプの炎と一緒に揺れる。
 深呼吸をするように浅く目を瞑り、それから意を決したように顔を上げた彼女は、角を曲がりそこにある一つのドアに向かう。
「陛下と、……姫様にお取次ぎを」
「……少しお待ちを」
 腰に剣を携え、簡単な防備をした二人の衛兵のうち一人が頷き、彼はドアを叩く。
「姫様、ミオリ様がお見えです」
 水底に沈んだような部屋で、アリスの肩が跳ねる。手にしていた写真立てを反射的に引き寄せ、それを目前の小さな机の引き出しに伏せると、焦ったようにそのまま仕舞う。
「……わかりました、通して」
 彼女はそこを離れ、ドアが開く。
 彼女とカナトの私室はいくらかの部屋が隣同士に繋がれ、そのうちのひとつ、カナトの眠る彼らの寝室と隣り合うこの部屋には長足の机を中心に、角の小机など彼女の私物が多く並ぶ。
「姫様、少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
「ええ、大丈夫。今お茶を淹れるから」
「いえ、私が、」
「いいの、ミオリは座って」
「……ありがとうございます」
 いくらか緊張した面持ちで部屋に入った彼女の表情は、アリスの見せる笑顔にいくらか和らぐ。しかし、注がれていく紅茶と注ぐアリスを見ているうちに、彼女の表情には憂いの色がぶり返し、揺らぐ視線は小机の上に行き着いて、それは明確になる。
「……姫様、どうしてもお聞きしたいことがあるのです」
「それはハイデンの?」
「いえ、父は関係ありません。私自身が知りたいのです……。姫様は、……姫様は本当に開戦をお望みでなのすか?」
 アリスに向かう真剣な眼差しには不安が混じる。逃れるように、口を結ぶアリスの瞳は深い色をしてカップに浮かぶ湯気を追う。
「私には、どうしても姫様が出された結論だと信じられないのです。あれほど戦われるのを拒まれたお優しい姫様が……。もしも、姫様のお望みでないのなら、どうか私に打ち明けてください、私たちでなんとしてでもクライトを収めて、シュドル側との会談を――」
「違う、私の決断よ」
 ミオリの言葉が空白になる。開いたままの口は、それでも宙を噛むように、
「なぜですか、どうして――」
「――シュドルはお母様を殺したのよ、なぜ……、なぜ許せるというの……!」
「しかしそれでも姫様は――、」
 俯くアリスの肩が震えている。ミオリの眉は切なげ歪み、言葉は結ばれた口に飲み込まれ、視点は落ちていく。
 音は俄かに途絶える。
「……申し訳ありません、出すぎたことを言いました。
 ……ですが姫様、おこがましいことではありますが、私は姫様のことを実の妹のように思っているのです。どうか、お困りのことがあれば何でもこのミオリにおっしゃってください」
 彼女の微笑みは優しくも寂しげで、顔を上げたアリスは言葉を紡ごうと口を開くが、それを禁じるようにドアが打ち鳴らされる。
「姫様、ご夕食をお持ちいたしました」
「もうそんな時間、」
 ドアの向こうでは、衛兵が最後の皿の毒見を終えている。アリスの了承を得た給仕が一人、白く清潔な布が掛けられた配膳台を押し、部屋に入った彼は丁寧にドアを閉めた。
「姫様ありがとうございました。では、私はこれで――」
「その、もしよければ、ミオリも一緒にどうかしら、夕食」
「よろしいのですか、」
「もちろんよ。もう一人分、お願いするわ」
 釣鐘型の銀の覆いを外し、料理を並べ始めていた給仕は笑顔で了解し、既に席を立っていたミオリは顔をほころばし足を戻す。戻しかけて、ふっと彼女は鋭く顔を上げる。
 白い布がふわりと舞う。
 飛び出す男は銀の刀身を伴い白布の配膳台の中から一直線にアリスへ翔ける。躊躇なく振るわれた白刃が鮮やかに軌跡を描き、切っ先の静止と共にドタリと床が鳴る。
 伏せるアリス、そして覆いかぶさるようにミオリが倒れこみ、浅く切られたミオリの肩口には僅かに血が滲む。
 叫ぶ間も与えず男は踏み込み、刀は迫る。怯まずミオリは身を返し、手にした釣鐘型の銀蓋を振りかざす。
 衝突音と火花が爆ぜる。
「ミオリっ!」
「お逃げください姫様!」
 ミオリは振り返らずに言う。競り合う銀はギリギリと音を立て、受け止めるミオリは徐々に押し負けていく。
 彼女の背で震えるアリスは助けを呼ぼうと咽喉を開くが、行く手を覆うように給仕が回り込み、上げた凶刃をまさに振り下ろす。
 金属音は唐突に鳴る。アリスの前に割り込んだ一人の衛兵は刀を受け止め、敵の腕が僅かに浮いたところを透かさず、痛烈に腹を蹴り飛ばす。
 敵はなるがまま壁に叩きつけられ、棒のように崩れ落ちる。方は一瞬で付いた。
「ミオリっ」
「私は大丈夫です、それより姫様にお怪我はっ」
 かぶりを振るアリスにミオリは息を吐きかける。だが彼女の息は瞬時に止まり、直ちに立ち上がる。
「陛下はっ」
「大丈夫、刺客はこれで全部だ」
 引き止める衛兵に、顔を凍りつかせたアリスは大きくため息を吐く。
 ミオリは些か目を丸くし、彼に懐疑の眼を向ける。見回せば、彼女の目の前と壁際、開け放たれたドアの外にも衛兵であったはずの一人が倒れている。
 床に落ちかけた白の布を切り裂き、彼は顔をいくらか覆っていた衛兵揃いの鉄甲を外して、彼女に歩み寄る。
「アイ、早く医者を」
「私は平気です。すぐに人も来るでしょうから、先に敵の拘束をなさってください」
「いや、先に止血をするよ。救急箱を用意しておけばよかった」
 傷はミオリが言うようにごく浅い。しかしアイの顔は暗く険しく、アリスは酷く不安げに巻かれていく布を見つめている。
「姫様ご心配には及びません、痛みもありませんし、すぐに治ります。ですが、これではクライトに稽古を付け直してもらわなくてはなりませんね」
 今にも涙を流しそうなアリスに、穏やかな微笑むミオリは肩を小さく竦めて言う。
 だがアリスは一層泣き顔になって、隠すように頭を垂れた彼女は消え入りそうな声で、
「……よかった、裏切り者がミオリじゃなくて本当にっ――」
 柔らかくアリスの頭を撫でるミオリの唇が、僅かに張り詰めた。




[21440] Ⅳ-1
Name: ---◆b6852166 ID:d65d416d
Date: 2010/10/20 12:03

 常駐の衛士の前を過ぎ、角に差し掛かり少年は反射的に身を潜める。彼が向かっていたその部屋に、急使が緊迫の表情で入っていく。
 少年の顔が俄かに強張る。深夜の廊下には人も音も無い。ドアが閉じられると同時に彼は足早に近付き、耳を立てる。中は広い部屋ではない、会話は僅かばかり途切れ途切れに、立ち込める鋭さと一緒になって彼まで届く――
「――状況は思わしくありません。敵の夜通しの攻撃で、条関城は落城間近、」
「流石にやる。継いだばかりの若造が陣頭といえどもその実力は変わらんか」
「もともと磐石な組織なのだから、そのくらいで揺らがないのは当然。それは織り込み済みでしょう、デュレル」
 机の上の地図を臨み、男はうなる。奥にかける女性の冷静さは揺らがない。聡明な顔付きをした彼女の、女性らしいしなやかな声音には鋼のような強さがある。
 デュレルはちらりと彼女の脇に控えるもう一人の凛とした女性を見やり、
「オリアさんとこの部隊は別として、こっちの大半は旧王軍離反組と貴族私兵隊、数では勝っても寄せ集め感は否めない……、もちろん勝ち負けの話をしてるんじゃない。ただあんまり動かれると、こっちも余計な被害が出かねません。それはよろしくありませんよ」
 面倒だといわんばかりの口調とは裏腹に、初老の彼の眼光は攻撃的に鋭い。
「願わくば――」
 少年は半ばドアを突き放すように耳を離す。少年の肩は反射的に大きく跳ねたが、慌しい咳払いで取り繕うと背後の人影に振り向き、
「他言無用で頼む」
「言いませんわ、陛下のご命令とあらば」
 すらりと立つ官女は特に柔らかい笑みを崩さず、さらりと言う。
 ばつが悪いのを隠すように彼は顔を逸らすが、彼女が手にしているのが書簡用入れであるのに気付くと歳相応の表情は影を潜める。
「例の間者か」
「ご覧になりますか? もちろん他言は致しません」
「ありがとう、助かるよ」
 強く頷き少年は、彼女が開いた箱の中に手を伸ばす。幾重にも折られた手紙に触れる指がほんの一瞬、戸惑うように震えたが、彼は硬い無表情のまま、酷く真剣な瞳は走り書きの文字を追う。
 滞ることなく終わりまでたどりついき、再び手紙は畳まれる。
 官女は窺うように彼に視線を投げかけたが、少年は答えようとはせず、口にした礼と共に手紙はもとのように箱に収まった。
 少年がドアを叩き、彼が名を告げればドアは開かれる。
「遅くまで苦労を掛ける」
 そう労う少年の姿に、皆一様に頭を下げる。奥に座る女性を彼は特に見やり穏やかに、
「母上、先に休ませていただきます。くれぐれもご無理はなさらずに、お早くお休みになってください」
「ええ、ありがとう。お休みなさい、シュドル」
「お休みなさい」
 一礼するシュドルを愛しむ、彼女の微笑は安堵の表情に似ている。しかしシュドルが部屋を後にするなり緊張は逆戻りし、彼と入れ替わりに部屋に入った官女が差し出す書簡を手にした彼女の顔は難い。
「芳しくありませんわ」
「カナト王子が健在となると、そろそろ、本腰を入れねばなりませんな」
 折りたたまれた書簡は再び官女に預けられ、その処理を確認するように、
「陛下にはお伝えしなくてよろしいのですか?」
 彼女は王妃を推し量る。
「こんなことを、あの子が知る必要はないわ」
「失礼致しました」
 王妃は切り捨て、頭を下げ書簡を火にくべていく黒髪の女性、シェイラは密やかに口角を上げる。

「シュドル王子はアルディス姫の一つ下、母親は側室のイレーネ様だ。お二方の母親で正室ミラ皇后はルアーク国の、イレーネ様はフィオレダ国王族の血縁だが、双方とも直系ではなく、その境遇に似たところがあったからか気が合うようで、仲はとても良かった。もちろん陛下との関係も円満で、陛下が娶られたのもこのお二方のみ。陛下が崩御なされるまで問題といえるような問題も特に起こったことはない」
 背もたれにゆるりと体を預け、白い朝日を浴びるロディッチは一息に述べ、更にいかにも貴族風な廉潔な笑みを浮かべる。
「君の監督責任は、あの鼻につく両性類に問えばいいのかい?」
「ああ、文句はそっちに言ってくれ。それで――」
「勘弁してよ、俺朝苦手なんだよ」
 言うなり纏うのは気だるさに切り替わり、彼の頭は山の様に書籍の積まれた執務机にがくりと落っこちる。部屋に唯一空いた窓の光は短く途切れ、リツは一面に乱立する本棚の黄ばんだ色に埋まりつつ、容赦ない無表情で続ける。
「つまり、そもそも世継ぎ問題は存在しなかったのか?」
 ため息で肩肘を付くロディッチは、文言を読み上げるように、
「伝統的に継承権は第一王子に優先される。カナト様がお生まれになった時点で、後継がカナト王子であることは当然であり、揺らぐことない共通認識であった。もちろんこれはイレーネ妃も例外ではない。談義が起こるはずもなく、陛下も明言を急ぐ必要が無かった。だが陛下は若くして急逝なされ、残されたカナト王子はまだ幼子。明言はなく、伝統も所詮守るべきとされるに過ぎない」
「過ぎなくとも、伝統とはすなわち正義。伝統とは歴史であり、それを司るのが歴史学者、そういう構造で、あんたはここにいるんだろ?」
「違いない。例えうわべの存在であっても人は伝統を必要とし、現にこの国のそれに未練のある俺は、愚かしくも、かくも職務を全うしてる。だが、歴史とは決して正義ではない」
「正義でなくとも、正義になりうる、つまりはそういうものか」
 ロディッチは洒落た笑みで肯定を示して見せる。
 リツはようやく固定されたような無表情と首筋を、ふ、と緩め、僅かに上がった口角は人知れず鋭い。しかしそれはすらりと消え、彼は敬虔なほどに真剣な顔に改まる。
「一つ、頼みたいことがある」

 心地よい冷たさで過ぎる風をアイは一太刀斬りつける。空に舞い、空にぴたりと止まるその刃に、彼の意思は無い。体のなるままに動く切っ先は、しかし一本の軌跡を寸分違わず行き来を繰り返す――
「本当に申し訳ない、」
 深い赤の絨毯とランプの灯が続く廊下で、アイは一心に頭を下げる。
「お顔を上げてください、こんなものは怪我のうちに入りません。姫様も貴方もご心配が過ぎます」
「だが、あまりにも不甲斐ない、」
「いえ、いいのです」
 深深と思い詰めるように垂れる頭に持ち上がる様子はなく、ミオリは一層狼狽する。同じやり取りを数回繰り返し、ようやく顔を上げたアイは、しかし歯切れ悪く俯き、
「まさか、こんな失敗をするとは思ってもみなかったから、こういう時にどうしていいかわからないんだ。俺に何か――」
 初めてしっかりと、彼女を見たアイの言葉が思わず途絶える。俯くミオリの唇は引き結ばれ、顔色は目に見えて悪い。
 驚いたアイが再び口を開く前に、
「人払いをお願いします」
「了解致しました、姫様」
 どこを見るでもなく、だが深く眉を寄せたミオリが言うのに、廊下の少し先、正した姿勢で人形のように立つ衛士が彼女に答え、浅く頭を下げる。
「少しお時間をいただけませんか、お聞きしたいことがあります」
 彼女は顔を上げ、立ち尽くすアイに鋭く真剣な眼差しを向ける。有無を言わさぬ強い瞳にアイは頷くが、彼女の顔は変わらず蒼く、寄った彼の眉は緩まない。
 衛士の右手、彼の開けたドアを潜る彼女をアイは素直に追い、
「お待ちを。武器はこちらに」
 衛士に従い腰の刀を預け、アイの背でドアは閉められた。
 部屋は小洒落た喫茶室で、中心の円机と壁の絵画、背の低い本棚のほかには何もない。
「どうぞ、おかけください」
「いや、」
「では、このままで失礼いたします」
 ランプと燭台に火を入れ終えたミオリが振り返る。互いに立ち尽くす表情は重苦しい。
「あなたが衛兵でないことは、いえ、こちらの方ではないことも、存じています。昨晩、あなた方が現れたと同時に事態は急速に変化し、先のあの場に衛兵でない貴方がいた――、あなた方の目的は、何ですか、」
 恭しく冷静に問う彼女の瞳には、しかし、詰問の色と僅かな感情が滲む。彼女を写すアイの瞳は憂いの色濃く、
「俺はアリスに、姫に、カナトを守るよう頼まれている……、やっぱり顔色が良くない、先に医者に、」
「いえ、もともとこういう色なのです、そんなことよりも質問に、」
「俺には何もわからない。本当に、ただそれだけでここに来たんだ」
「ならば、これほどに事が動くはずがありません」
「そうじゃない」
「では一体、」
 迫る声は焦燥感を増し、一方彼女の眉は痛ましげに歪む。目の当たりにするアイの答えは、口淀む。
「アリスが、望んでいる。アリスが戦争をしようとしている」
「そんなはずはありません。貴方はご存知ないのです、この戦争がどんなものか、」
 即座の否定は強くも、弱く揺れる彼女の瞳に、アイは首を振る。
「そんなはずはないのです。姫様はいつでも、皇后様がお亡くなりになられた後でさえ、シュドル様を、イレーネ様を確かにご家族と、御二人のことを想っていらっしゃった、確かなのです、いつも大事にお写真を飾られて、つい先日にだって――、」
 俯くミオリは唇を噛む。
「人の心がそれほどに、変わることがあるでしょうか、」
 アイの瞳が、静かに見開かれる。
 継ぎ接ぎだらけの彼女の否定は儚くアイの内を突き、だがやがて彼の気付かぬうちに、はらはらと崩れて消えていく。無意識に開かれた彼の唇は、彼の無言のうちに閉じられる。
「変わってしまうのかもしれない」
 睫で影を引いた瞳を上げ、彼の視線は彼女の動揺するそれを捉える。
「きっと君は正しい。だけど俺には、――」
 振りぬかれた腕は微塵の余勢も無く止まり、陽に当てられて刀身ばかりがぎらりと光る。
「なに、どうかしたの?」
 身を翻すのに音はない、尋常でない速さでアイは構えを気配に対向させる。だが切っ先が捉えた人物に、彼は、はっとして殺気を収める。
「なんだよびっくりするなよ、びっくりするだろ! 俺今一瞬死ぬかと思った」
 切っ先の延長線上で、仰け反るように身を引くミナキが必死の形相で言う。アイは目を丸くして、
「いつから居た?」
「いつって、結構前からだけど……ええ、熱でもあるんじゃないの?」
 驚くミナキは眉を顰める。いや、と彼を短く否定したアイは、浅く瞼を閉じるとため息で剣を降ろす。
「というか、俺の話は聞いてなかったわけね」
「ああ、すまない。もう一度頼む」
「いや、別にいいんだけどさ。……まったく二人して、調子狂うなあ」
 呟くミナキはなんとも疲れた顔で倉庫の前の、もともとの段差に座り直し、彼の向こうには広い訓練場と多くの兵士、その奥には王宮がある。
「で、どうしたんだこんなところで?」
 穏やかに尋ねる彼は、徐に素振りを再開する。
「今丁度こっちに戻って来たところなんだ。そしたらこんなところに居るから、何してんのって」
「うん、訓練を受けてるんだ。今は休憩中なんだが、次は銃剣の実践らしい」
「……習いたいのそれ?」
「いや、それで若手部隊に編入してもらえるように話をつけてもらったんだ。次の出陣には、俺も行きたい」
 剣の切り裂く先を無表情で見つめるアイはさらりと言い、彼を見てミナキは茫然と二度瞼を瞬かせる。不可解だという顔をしながら、まあそうだよな、と頷きながらミナキは広い訓練場に視線を戻していく。
「むしろ、何で今まで行きたいって言わないのか不思議だったんだ。真っ先に行きそうなのに」
「いや、そんなこと考えもしなかった。なのに急に行きたくなったんだ」
 アイはぼんやりと曖昧に口を閉じるが、振り下ろされる刀身の鋭さはほんの僅かも曇らない。寧ろそれは、剣に一心を注ぐ揺らぎない姿に他ならない。
「なんでかわからないけれど、やっぱり、行きたくて仕方がないんだ」


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