政治ネタです。
創価学会不信組(脱会者や非活の方々)の中で
公明党が自民党と連立を組んだ事が間違いの始まりだと言う人が多いです。
俺はまるで逆です。
公明党の最後の良識は自民党との連立にあったと考えます。
自民党と公明党に限らず
現与党で考えれば
民主党と国民新党の連立と言う形は非常にベストなカップリングだと思います。
俺が政治に必要なものという事は
自立と供給のバランスだと思っています。
更に言えば自立が先にたっての供給です。
供給はあくまで自立が出来ない人への供給であり
また自立を促す為の供給でなくてはいけないものだと考えています。
福祉は弱者と呼ばれる方たちを
強者と呼ばれる人たちが終始守っていくものではなく
弱者と呼ばれる方たちを自立させる事により
強者と呼ばれる力を付けさせる為に成長させる為に行うべきだと思います。
民主党、公明党、みんなの党の考える福祉政策は
強者を引き摺り下ろし弱者を自立させることなく
更なる弱者へと陥れようとしていると思います。
自公政権が行った
障害者自立支援法や後期高齢者医療制度は
その考え方の方向性は実に正しい考え方であると俺は思っています。
もちろんこの制度の導入により弱者に掛かる負担が増したという問題点はあります。
しかし、この議題を語る上で確実にその論点がずれていると俺は思います。
この制度の問題点は支援が減ったと言う事ではなく
自立させると言う要素があまりにも少なすぎると言う事が問題なのだと思います。
また支援に関して言えばもう限界と言う事が実のところの答えなのではないですかね。
あれほどこの政策を揶揄していた民主党が巨大勢力となり
政権をとった今尚この制度の見直しを行い
以前のような形で支援が出来ないでいる現状は何なんでしょうかね?
その答えはやっぱりこれ以上の支援は無理って事でしょう。
であればあっさりそれを認めて自立の策を練るほうがより賢明だと俺は思うのですが。
空論の策を唱えるだけであればそれは政権に携わらない共産党に任せておけばよい話であり
俺は共産党もこれはまた必要勢力と考えるのであるが
これ以上の数は必要ないと思っています。
こういう言い方するとなんですが
俺は自分の事を"薬害成金"だと思っています。
実際は金はほとんど泡と消えるように使ってしまっているので
全然持っていないのですが
医療保障の面では国から手厚く保護されている状態で
食うだけの事を考えれば正直仕事をしなくても充分に生活できるご身分なんですね。
また考えようによっては仕事をしない方が楽に生きて行ける世の中に過ごしています。
そういった意味でも弱者権力バンザイと言う感じですね。
更に言えば俺と同じような"薬害成金"の人が
今の日本の国会に3名も現職国会議員としてバッチをつけて活動をしている。
もちろんそれは日本の選挙制度に則り公平かつ公正な判断の元
立派に当選し選ばれた人たちなので俺個人がどうこう言う筋合いのものではないのですが
今一度考え直して欲しいと言う事は訴え続けたいとは思っています。
日本における自衛隊のあり方についても
日本と言う国の目的が世界平和へ向けてという目的を見失う事がなければ
その手段はあまり問う事ではないと考えています。
自衛隊と言う組織があくまで戦争へむけてと言う事ではなく
あくまで平和を願う為の自衛であり
また、抑止力を持つ事が平和という目的に繋がるものであれば
手段としては効果的なものではあると俺は考えます。
常に目的が何なのかを中心に据える事がなにより肝心な事であり
その部分をしっかりと監視していけるようになれば
いちいち手段に翻弄される事もなくなるであろうし
目的がしっかり理解できればその手段を見たときにそれが実現可能かどうかも
見えてくると思います。
申し訳ないですが
先の衆議院選挙で民主党のマニフェストを拝見させていただいたとき
明らかにその手段のお粗末さに全て実現不可能と判断させていただきました。
それでも周りの方々はその手段に共鳴されていたみたいで
これはもう止められないものであるなと感じましたし
結果もその通りになりました。
当事の意見はやってみないと解らないが大半だったので
いざ、やってみられてスッキリしたのではないでしょうかね。
今の公明党もその本来の目的を失ってしまっていますね。
手段となるマニフェストを見ただけでもう
その目的が見透かされてしまっています。
かつて創価学会という組織以外からも票を獲得していた時代とは
明らかに違いますね。
なにが目的となっているかはあえてここで書きはしませんが
本当にやりたいと思うことを配布用のパンフに記さないところでも
それは伺う事が出来ます。
自立という観点に立てば自民党の流れを汲む各政党は評価する点は非常に高いです。
ただこの政党は強者を作る点には物凄く長けているのですが
弱者を救済するという事に関しては物凄く無慈悲な事を感じるところがあります。
自民党独裁の長きに渡る歴史を振り返るとそれは物語っていると思います。
民主党の元自民党議員の方はおそらくこの事をよく熟知しているのだと思います。
したがって自分たちが政権を手に入れたら
大量の隠し金の存在があると判断したのでしょう。
で、実際に蓋を開けてみてみると
なるほど天下りや官僚の金の流れを国民に一部公開して
「そりゃーけしからん」とうならせた訳ですが
実際の話は俺たちが知っていた時とは一桁も二桁も違うじゃないかと
思ったんじゃないですかね。
そりゃー情報が古すぎるよ
それは君たちがまだ自民党にいた20年30年前の話だよって。
俺が自民党に対し最も悪政を敷いた時代は
自民党が最も安定勢力を確保し長きに渡って政権を維持していた
中曽根内閣時代だと思っています。
それに連なる故橋本龍太郎元首相なども最も嫌いな政治家の一人。
薬害問題においても
パフォーマンスでの当事の管直人厚生大臣の謝罪ではなく
発生時に関わる厚生大臣経験者であり
その時の首相であった橋本龍太郎の謝罪が見たかったところではありますけどね。
と、話が反れたのかこのブログの本義に戻ったのかはさておき
今の日本の現状を考えたときに
俺が求めるのは交互に政権が変わると言う二大政党制よりも
お互いの手段が異なる党との連立による内閣と言う形が
より理想的な形であると思っています。
日本と言う国が総弱者化している状態のときに
自分たちが強くなれとか自立しろといくら促したところで
賛同が得られないのは重々承知な事ですが
それでも言いたいと思います。
今日本を蝕んでいるのは強者よりも弱者権力の行使を求める声にあると言う事を。
- 2010/05/29(土) 15:01:20|
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しばらく間を置いてしまったが。
脱会手続きが延び延びとなっている最たる理由は
本尊(曼荼羅)の組織側からの返還請求によるものです。
一部創価学会版の曼荼羅はニセ本尊であると言う話があります。
これに関して俺は一切否定しますね。
また、創価学会版の本尊こそ正しいと言う事も思いません。
更に言えば曼荼羅自体が信心において必要不可欠なものであるかと問われれば
これも否定します。
したがって黙って組織へ返還という方法もあるのですが
あえてそれを行わないのも理由があります。
1つは学会版曼荼羅を使っても充分に本尊となりうるという
宗門や正信会や顕正会への証明と言う事。
更には学会に不信を抱いている人たちへ向けてもと言う事ですね。
もう1つは一度己心の分身として受け取ったものに関して
返却する事によってその後の対応が
今の創価学会がどの様に処理するかと言う事が
全く持って信用できないからと言う所です。
正直、曼荼羅の意味を充分に説明できない人たちに
仮にも自分がこれまで使用していたものを預けられるかと言う話です。
本尊の真偽に関してはまた別の機会にでも行うとして
言っても解らないだろうと思い
軽くこの曼荼羅は俺が組織から金を出して買ったものだから
所有権は俺の方にある。
なので曼荼羅はそのままにして脱会だけを要求したと言う事である。
そこで最初の組織の反応は
これは"創価学会の本尊だ"と、これまた狂った事を言い出したので
本尊がどういう意味のものであるか
お互い話の場を設けましょうよと言う事になりました。
ハッキリ言いましょう創価学会の本尊の意義の捉え方は
会員によってバラバラです。
そりゃそうでしょう当の永遠の指導者が明確な発言を避け
公式見解がなされてないですからね。
せめて公式見解がされていれば討論の場に上げることは出来るのですが
それすら適わない状態です。
何を持っての永遠の指導者なのか全く持って理解できない。
公式見解は無いにせよその大半は
曼荼羅は書かれた人の人格によって変化するものであり
人格が悪い人が書いた曼荼羅は良くないものであると。
こう考える人が多いみたいですね。
ちなみにうちへ訪れた幹部たちは確実にその考えの方でした。
俺はそもそも曼荼羅自体はあくまで物質的なものと捉えていますので
書く人の精神状態によって変化するという
そういったオカルティクな物とは一切捉えていません。
聖職と呼ばれる教師が仮に犯罪を犯したとしても
罰せられるのはその犯罪行為にある訳で
教壇に立って教えていた学問が正しければそれを否定する事はないと考えています。
犯罪者が作ったものが全て誤りと言うのなら
刑務所の中で作られたタンスはタンスではないという原理になります。
これは明らかに納得しかねる理屈です。
宗教に嵌ってく大半の方たちはその不可思議なオカルティクなものに
引かれていくようですが
俺は元来そういった感情は全く持って持ち合わせておりません。
あくまで道理の中で考えられるもの
どの様な法則や理念に基づいて構築されているか
ただそれだけを考えています。
基本こういったオカルト信仰の方とどれだけ話をしても話は平行線に終わるので
こちらから幾つかの質問をしてその回答を待った。
あくまでその方の回答例ですが
信心の血脈は創価学会にしかないと言うこと。
つまりは創価学会を脱会した時点で信心は絶対に続ける事は不可能であると。
なぜなら御書(日蓮の言葉)の意味は会員レベルでは一切理解できないものであり
これを確実に理解できるものは池田名誉会長以外不可能であると。
ま、こんな感じですね。
どう考えてもさようならと言わざるを得ない。
他にもこれは対日蓮正宗で創価学会自体も苦しめられている事だと思い。
「本因妙抄」や「百六箇抄」の真偽に関してどう思うかなど質問してみたが
名言は避けましたね。
全く持って変な話である。
更に公明党の政策云々の話に及ぶと
それは全く話が違うと言い出し
いやいや、あなた方はその政策が良いと考えているから全面的にバックアップしているわけで
それが違うとなれば何故にその団体を支援しているかが解らなくなってくるではないか。
結局そういった何故に支援しているかわからない公明党の支援をする為に
時間がなくなったという事で話し半ばで幹部の方々は途中退散していった。
ちなみにおれ自身
何故に創価学会は日蓮信仰から池田信仰へシフトしていったのかを確かめる為
なるだけいろいろな人たちとの対話の場を設けてきて
その原因を探るようにしてきた。
当初、5年前に変革された教本での広宣流布の項によるものと判断し
この時点でこれを唱える全ての人が狂ってしまったと断定していたところがあるが
極まれにそれでも掻い潜って話の通じる人も存在すると言う事も解った。
その理由も自分なりの答えは一応掴んではいる。
もっとも今の時点で池田名誉会長を永遠の指導者として
認めている行為は狂っている以外なんでもない事は確かな話なのだが
今回うちへ訪れた幹部連中とは確実に違う返答をしてくる幹部の存在もあったりする。
つまり、創価学会をやめても個人で信心は続ける事は可能であると言う事と
日顕さんが書いた曼荼羅でも本尊としての役割は同一であるとか
法水瀉瓶なんて言葉は単なる後付であると断言したり
かなりおれ自身の考えに近い状態の人である。
こういった方は確実に組織に対し発展し続けていると盲目的に捉えてはいないし
現段階の組織における問題点も同時に指摘し対策を考慮する姿勢でいる。
この辺は評価に値する点であり
比較的に組織の現状も冷静に捉えているところが感じられたりもする。
ただ今の状況でまだ池田さんを守ろうと考えているのは
やはり組織を見ているようで見ていないと思います。
行き着くところは己心で立ち止まり現実を直視するか
池田さんを守ろうとするあまり己心を見失う事になるかのいずれかでしょう。
しかしもって同じ会員の中で何故に答えが一致していないかという事。
これはあきらかにおかしい事ですね。
先生、先生といって盲目的にただ唱えている人が多いのであるが
幹部の中でもそれぞれの見識や答えが違うと言う事は
一体どういうことなのかと言うことである。
確固たる答えを導き出してくれない先生とはそもそも先生とは呼べないのではないだろうか。
- 2010/05/26(水) 15:34:25|
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人は何故宗教に嵌るか
答えは簡単である。
それは自分に対して強欲だからだと思います。
いや違う世のため人のため平和のためだといいたい人は多いでしょう。
まあそれでもいいや、
では、何故に世のため人のため平和のためと考えるかと言えば
それは結局自分の為に繋がるからでしょう。
これに関する異論はありますかね。
世のため人のため平和のためという事は自分の中での目的の通過点にしか過ぎない。
俺は確実に単なる綺麗ごとだと思います。
ただ、綺麗ごとを言っちゃいけないかと言えば
それもまた違うと思います。
綺麗ごとを言う事で自分自身がスッキリするのであれば
それはそれで良いのではないでしょうか。
またそれが綺麗ごとだけではなく
相手もスッキリさせる事ができれば
それは人のための行為と発展させ
結果的にはそれが自分自身の得となって帰ってくるわけです。
逆にこの綺麗ごとが単なる言葉遊びで
相手を不快にさせることであれば
人のためでもなんでもなくなり
また、結果的に自分自身が損をしてしまうと言う事です。
さてさて異論があるでしょうか?
宗教に嵌りこむ根本的な理由は自分自身の欲求を満たす為だと思います。
最終的に自分に得があると思うから行うのではないでしょうか
日蓮の法の根本もそこにあると思うが故
少なくともおれ自身はその思いで信仰をしている。
これに関して誰に文句を言われる筋合いはない。
一見、信仰対象を自分以外の誰かに求めると言う事は
とても尊い事や崇高なものに感じられるかとも思います。
自分の為に行うなんてけしからん
他人を思う気持ちこそ第一であると思うでしょう。
なんて自分勝手な人間だと。
ざーんねんでした。
そう思う方が確実に自分勝手な話なんですよ。
自分自身を信じると言う事は即ち自分自身で責任を取ると言う事。
こういう人の事を自分勝手とは言いませんよね。
対し自分以外の誰かに頼んで何かを得ようとする行為は
他力本願な行為ですね。
物事の解決を自分自身で行わないで全て他人任せにする考えですね。
これを自分勝手と言わず何を自分勝手と言うのでしょう。
ちなみに他力本願とはもともと念仏の教えから来るものである。
日蓮は念仏を唱えると無間地獄へ落ちると言った。
これを現代に当てはめて考えてみると
俺は鳩山総理の掲げる「友愛」と言う言葉がそれに当てはまるのではないかと思っている。
「友愛」とは"友に愛を"と言う事でしょう。
なんとも素晴らしき言葉だと思います。
まさに民主党政権が行おうとしている政治はこの言葉が全て物語っていると思います。
他人の為に良きことをしよう
他人の為に尽くせばきっとこの国は良い国になるのではないだろうか
おそらくこの思いでバラマキと言われる数多くの政策を行いたいのであろう。
また、有権者も自分たちの生活を少しでも楽にしてくれるのだろうと思い
こぞって民主党を支持したものだと思われる。
言ってみればなんだ。
誰も自分たちでなんとかしようとは全く思わず
ただ単に他力本願な思いを胸に
「助けてください民主党さま」と言って信じたともいえるのではないでしょうか。
結果どうなったかと言えば言うまでもない。
他人任せの「助けてください」がただ広がっただけで
なんら根本的な解決を見出せていないのが現状なのではないですかね。
「助けてくれ」と思う気持ちは自分じゃもうどうにもならないと言う事であり
この環境化において生活すると言う事が即ち地獄であると解釈しています。
文字通り今の日本の現状を考えると無間地獄へ落ちたと言ってもいいのかとも思います。
流石に次期選挙ではもう民主党はおしまいだと思います。
しかしながら有権者の方たちの他力本願は続き
その対象が民主党からみんなの党あたりへ移行する程度だと思います。
ざっくり言いまして俺の中では
民主党と公明党とみんなの党の政策の違いは全く持って区別が付きません。
と言うより現在の政治家に俺が求める事は
国民に対し何をしてくれるかと言う事より何をするべきかをうったえて頂きたいと思っています。
考えられる良き事は各党が掲げられている事に然したる違いは無い様にも見受けられますが
その為になにをするべきなのかという政策が全く持って見えてこないと言うのが現状です。
他人に媚を売るのもその人の勝手な行為であるあるから
それは好きにしていただきたい。
しかし、それは何の為に行うかをもう一度考え直してもらいたいと思いますね。
自分自身を見失った状態で他人を救おうと思ったとしても
結果的に自分自身も救う事など出来ないと思うのですが如何でしょうか?
- 2010/05/24(月) 12:58:00|
- 雑記
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友人(Mくん)は結果的に創価学会に所属したままだったので
当然葬儀は創価学会に倣い友人葬で執り行なった。
また葬儀会場は母親が住んでいる地元で執り行なわれた訳で
俺にしても亡骸となったMくんにしても久々に地元の面々と顔を合わす形となったわけだ。
創価学会の狂いの根本は名誉会長である池田さんを永遠の指導者として仰ぎ
それを信じてしまっているところにあるわけで
信仰対象をあくまでも自分自身の心(己心)として理解している人は
まだ正常な状態と言えるのである。
そう言う意味ではまだ地元の学会員は
下手な確信を持って近隣に迷惑をかける学会員より
淀んでしまった今の組織を暗く嘆いている人が多い印象を受けた。
ここで、ハッキリと永遠の指導者という事を断ち切る事が出来れば
全ての事柄が納得できるはずなのに
そこにはなかなか至らないと言う事ですね。
それはまた別の機会にでも。
友人葬と言うことで流石に訪れた人は物凄く多かったですね。
これ自体は大変にMくんにとっても喜ばしい事でしょう。
それに加えMくんが勤めていた会社からや親戚一同など
学会員以外からも訪れた人だ沢山いた。
とりあえず俺の父親と一緒に行ったのだが
会場見て親父がポツリと一言
「花や供養のものがこの前亡くなった副会長のものより多いな。
副会長のときは花なんか1つもなかった。」と
一般の人には解り辛い話なのですが
学会では祭壇に供養する際に花は使わないのですね。
基本的に"しきみ"と呼ばれる葉物の植物なのです。
通常はこれオンリーでその他を良しとしないものなのである。
では何故に花が混ざっているかと言えば当然それは
学会員以外からの献花と言う事になるわけだ。
ま、副会長の遺族が徹底したのかもしれないのであるが
可能性とすれば学会以外からの供養が全くなかったのかもしれない。
但しこれはあくまで憶測の範疇の話。
それはそれとして
確かに花が並んでいると純粋に綺麗だとは思いましたね。
そもそも供養するものに関して花がいけないとすることは
なんとなくナンセンスだなとも思いました。
果物がよくて花がいけない。
日蓮がそんな物質的な事を拘ったりするのかなと思ったりする。
この辺も今一度考察しなおす必要はあるのかなと思ったところです。
続いて友人葬の特徴として坊さんを呼ばない葬式である。
それはそれで全然構わない。
何故ならばお経なんてものは学会員たるもの
坊さんを頼まずともみんな毎日唱えているものなのでこの辺は問題ない。
ただ1つ思ったのは
そうは言っても先頭に立って唱える導師と呼ばれる人は流石に必要なのです。
通常これが坊さんの役目ですね。
だれがやるのかなと言えばそれは地元の学会幹部の人ですね。
幹部と言えどもこの人は別に創価学会の職員ではない。
普通に普段は自分の仕事をしてその合間に組織の活動を行う人。
まー一般信者って事ですね。
こういった人が導師を勤めているわけだ。
好きでやっているのだろうと言う話なのだが
地域の人たちが亡くなる度に葬儀に呼ばれて導師を勤めるとなると
なかなかそれは大変なのではないかと思いました。
ちなみに今回の葬儀でも通や、葬式、納骨までの期間
日程にして一日半に渡る大仕事になるわけだ。
これに携わるって事になると自分の仕事を差し置いて時間を捻出しなければならない。
金額の問題だけでもなくこれはどうなんだろうと思う。
ただこれを学会職員の仕事とすると今の学会組織の感覚だと
またそれはそれで法外な金額を弾き出しそうで怖い気もするが。
学会員の方たちは坊さんを使わない学会の葬儀はなんと素晴らしいという人が多いが
坊さんが偉いとか偉くないと言う観点ではなく
純粋に職業として必要な存在なのではないのだろうかと思う。
坊さん自体に供養すると言う感覚ではなく
単純に労働に対しての支払いと言う感覚として。
それと一番気になったことは経を唱える際
経本の配布を全く持って行わないと言う事。
他の宗派の葬式にも参加した事はあるが経を唱える際
参加者に経本は普通配るでしょう。
葬儀は故人を偲んで弔うものなので来た人はただ聞くだけではなく
参加できるものなら自分も参加したいと思うわけですよね。
その為に皆さんもご一緒にと言う場を作り経本を配るわけですね。
もちろん宗派で抵抗がある人は参加しないだろうけど
それはもちろん個人の判断によるもの。
学会員は自分が経を唱えれるので当たり前のようにソラで読経しているのだが
学会員しか葬儀に来ていないと考えている方が異常だと思う。
それになんだ
君たちはこの法を広める為に日夜時間を割いて活動しているのではないか。
折角の機会と言う言い方をすると故人に対して失礼な事かもしれないのだが
外部の人により自然に自分たちが信じている経を唱えてもらう
最大の機会を逃している事に気がついていないのかと思う。
ハッキリ言って学会を全く知らない人が友人葬に参加して
大人数の人たちが自分を完全に無視した形で
ソラで全く聞いたことがない呪文のようなものを
読経している状況を目の当たりにしたら確実に引くぞ。
つーか、実際に引きましたという話も幾度か聞いたことがある。
コンサートでもなんでも歌にそれほど関心がなくても
参加するとによって楽しくなるので
MCで盛り上げて会場を巻き込もうとするわけではないか。
置いてきぼりのコンサートへ行って楽しいと思うか。
これを帰ってうちの母に話をすると
「そうじゃなく外部の人も友人葬に参加して良かったって声は一杯聞くよ。」といった。
もちろんそのソースは聖教新聞である。
これも嘘とは言わない。
ただそれ以上に反感を覚える事例の方が圧倒的に多いと思う。
これが創価学会の体質という事は言わざるを得ない。
ともかく自分たちの組織の事しか全く考えてなく世間に対してはどこまでも盲目であるという事。
通やの弔電に永遠の指導者である池田名誉会長のものが
真っ先に読み上げられた。
ある程度のフォーマットが決まっていて誰彼構わず亡くなった人へ向けて
組織が送っているのであろう。
こんなものでもありがたがる会員へ更なる池田さんへの忠誠心を増す為に。
なにげに聞いていたが
他の誰の弔電にもない言葉があった。
それは故人へ対して「不幸」と言う言葉である。
おそらく池田さんの中では死を連想させる言葉は「不幸」と言う事しかないのだろう。
自分が死んでしまう事を考えると怖くて怖くてたまらないのだろう。
本当に日蓮の言葉を学んでいるのかすら疑いたくなる。
俺はMくんの死がMくんにとっての「不幸」だとはけして思わない。
あれだけ池田さんの事が大好きであったMくんがこの言葉を最後に聞いてどう思っただろう。
Mくんが最後に読んだ池田さんの本は「一生成仏抄」の講義本である。
彼自身まさかと思い自分で確かめてみたかったのだろうが
そこに書かれている内容に寂しげな表情を浮かべていた事を思い出す。
また流石に思わず吹いてしまったのは亡くなった場合
組織での役職がアップするみたいですね。
殉職制度があるんだ創価学会って。
でも名誉会長はそれでも「不幸」だと言い放つ。
何なんでしょうかね。
俺にとって最も救われたと感じた事がMくんの姉の旦那さんの言葉だった。
Mくんは今年に入って病気が回復し
特に亡くなるまでのここ3ヶ月はとにかく元気になっていたと言う言葉。
3ヶ月前と言えば言うまでもなくMくんが創価学会の間違いを
自分で調べその間違いを確信した頃である。
- 2010/05/23(日) 02:29:20|
- 創価学会
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今回の友人の突然の逝去で自分の中でもいろいろな事を
考え、また学ばせてもらったと思う。
基本人間は常に生きている間は生きる為にどうするべきかを考えるべきだと思う。
この考え方は捨てるつもりは全くない。
何故ならば死ぬ為の生き方を考えるという事は
どう考えても不幸だと言わざるを得ないと思うからである。
したがって死ぬ為に生きている間にその手段を使う自殺と言う行為は
絶対にあってはならない行為だと思う。
それはやはり不幸だと思えるから。
しかし、生きている限りやはり死は避けられない。
どれだけ長生きをしていてもやがて死は確実に訪れるもの。
また、千年二千年と生き続けることが幸福な事かと言われれば
それもまたなんとも言えないところでもある。
では、どの様な形で死を迎えること幸せと呼べるのだろうか?
単純に長生きする事が幸せなのだろうか
身体の自由が効かなくなり寝たきりで自分のやりたい事ができなくった状態や
痛みや苦しみで毎日もがき苦しんでいる生活を続けている事が
果たして幸せなのだろうか?
人間は苦しみの中で生きていると
こんな事なら死んだ方がましと思えば
生きている間に死を願う事になってしまう。
死を願う時点で自殺ではないにせよやはりそれは不幸だと言わざるを得ない。
では人間は何故苦しみを抱く事になるのかと言えば
やりたいと思う事が出来ないと感じるからなのではないだろうか。
当事彼はうつ病を患い入院していた事を楽しげに俺に語っていた。
病気は病気で大変だったけど非常に良い経験をしてきたと。
もちろんまだ完治をしている状態ではなくまだ薬の服用をしている段階でだ。
世間のみんなは自分が病気になったと言う事だけで
それが不幸だと感じるらしいがその事だけを取って不幸だと決め付けて欲しくないと。
僕は充分に幸せを感じる事が出来たよという。
実はこの意見は俺も物凄く共感し得るところでもあったんですよね。
おれ自身も病気を持っている人間なのでこの考えは非常に良く解る話なのである。
不幸は自分がやりたいと思う事が出来なくなる瞬間にあり。
自身が仮に病気を持っていようがなんであろうが
自分でやりたいことを見つけてそれに打ち込める事が出来れば
全然不幸は感じないのである。
むしろ自分の行き先を見失ったり
自身の能力を嘆き自分は何も出来ない人間だと思い込んでいる人など
この世には沢山いる。
そんな人たちこそが不幸であり
そんな人たちから勝手に不幸だと決め付けられたりしたくもなければ
仲間意識を持たれたりする事が全く持って迷惑な話だと言えるのである。
病気を抱えている多くの人は自分が出来ない事ばかり気にして
自分が出来る事ややりたい事まで放棄してしまっているから不幸なのだと思います。
結果他人を羨ましく思ったり妬んだりして
そう言った比較対象の元で幸せの判断を持とうとする事が
自分だけが不幸だと言う価値判断を持ってしまうのではないのかと思う。
ハッキリ言って不毛です。
ちなみに入院中の彼は医者の勧めで絵を一生懸命描いていたという。
家には入院中に描かれていたであろう10数枚の絵が残っていた。
つまり、闘病中の彼は自分でやりたいことを見つけて
それを一生懸命にやっていたのだと思う。
また、退院後はピアノを独学で学んでいたと言う。
もともとギターが趣味であったので他の楽器にも興味があったのだと思う。
つまり、闘病中といえども自分でやりたいことを見つけ
それに没頭する事が出来たので不幸は全くと言うほど感じなかったのだと思われる。
さて、毎日の仕事に追われて生活している人が
この様なゆったりとした形で未開拓の趣味に没頭する時間の捻出など出来るであろうか
そう考えただけでも彼より幸福な毎日を送っていると言える人は
果たして何人要るのでしょうかね。
ちなみに俺が家を訪れたときにはもう絵を描く事はやめていて
ピアノも蓋が閉まったままで埃が被っている状態であった。
つまりは、これらの趣味はあくまでも療養中においての趣味であり
身体が回復に向かった彼の趣向は会社で一生懸命に仕事をする目標に切り替わっていた。
これもまた素晴らしい事ですね。
さて、話をまた死の方へと戻すのですが
死への恐怖は自身の肉体の衰えから出来なくなる事に不幸を感じて恐怖すると言う事。
もう一つは絶えず自分の中で遣り残した事があると感じた事に苦悩するのではないか。
眠る前、今日一日出来なかった事ややらなかった事があれば
それが不安で眠れなくなってしまう事はないだろうか
その不安が強ければ折角の眠りにつく時間にもう一度起きてやり直さなければいけない。
また、あきらめてしまう場合は不安を抱いたまま眠りにつかなければならない。
ある意味死を迎える状況と似ていると思える。
使ったらちゃんと片付ける。
やるべき事はその場でちゃんとやっていく
この幼稚園や小学校で習う基本的な作業を繰り返していたら
日々の不安は少しでも解決していくようにも思える。
もっとも自分に関心がないことであれば放って置いてもいいと言う
楽観的な気持ちも同時に持ち合わせる必要もあると思う。
自分の中でそれが完全なる規則としてしまっていたら
それはまた出来なかった時に不安を感じて眠れなくなってしまうからでもある。
亡くなる前に彼の書斎へ入ったら本が沢山並べられていた。
もちろん沢山並べられていた事に感心したのではなく
沢山読んでいたことに感心したのである。
もちろん途中で興味がなくなって読むのをやめたものも混ざってはいたとも思うが。
ともかく言える事は日々の生活の中で
その都度その都度に置いて悔いを残さないと言う事が肝心なのかもしれない。
悔いを残す生き方と言う事はこれもまた不幸の1つともいえるのだと思う。
彼との付き合いは彼が高校生の時からであり
その時から俺も彼からいろいろな相談を受けていたところがある。
ただ、最後にあった日に彼といろいろな事をしゃべったが
それまで彼が感じていた悩みの数々が悉く解決へと向かっている状態であった。
それを踏まえての彼の発言が
「今は自分には悩みが全く感じられない。悩みが無いのが悩みである。」
と言うことであった。
ただ、当然これ自体も悩みである事は確かであるから
彼の事でもあるから恐らくは次は何をしようかと言う模索には入っていたのだと思われる。
目標は常に自分の前においておく事も当然心がけていた事も理解している。
仕事面にしてもそうである。
やりかけの仕事を残したわけでもなく次から新しい仕事に掛かると言う時であった。
彼が亡くなったその時はこれまでに抱えた全ての問題を解決し
全てが心機一転の再出発でのスタート地点に立とうと思った瞬間の出来事である。
もちろん不幸を感じ死を意識するなんて事は全く持って感じる事もなく。
もちろん一人の人間の寿命とすれば32歳と言うのはあまりにも早い死だといえるでしょう。
しかしもって自分に振り返って考えたときに
いざ臨終の瞬間に一切の不幸を感じず、また後悔の念にも駆られずに
この様な綺麗な結末を迎えることは出来るのだろうかと言う事は思う。
少なくとも彼の立場にたって考えてみると
そこに不幸の要素は全く持って感じる事ができなかった。
逆に残された人間の方が彼を失った事に対し不幸を感じているようにも思える。
彼の通やと葬式には親戚から組織から会社から数多くの人が訪れていた。
自分自身に取って悔いを残さず、周りからは惜しまれて死んでいく
こんな死に方はなかなか出来るものではないと思った。
病気を持つ事がそのまま不幸と言うわけではないという事は
なんとなくではあるが理解できる俺ですら
死そのものが即ち不幸とは限らないと言う事は正直言って思いもよらなかった。
それを教えてくれただけでも俺は彼に物凄く感謝したいと思っている。
彼の死が彼にとって残念だとか可哀想だと言う事は全く持って思わないし
またそんな事を思うのは彼に対して大変に失礼な行為だと思う。
ただ一つ言える事はいなくなって本当に寂しいと言う気持ちは物凄く強く感じ
それで悲しいと言う思いで一杯である。
- 2010/05/21(金) 14:20:50|
- 雑記
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都合がいいと思われることしか書かない聖教新聞を見習わず
あえて都合が悪いと思われる事を書く。
先週末俺の友人が急死した。
俺と同じく今年に入って創価学会に疑問を持ち始め意見交換していた友人である。
享年32歳
実に早い死である。
しかも学会に不信を抱きその後
間違いだと確信を得たあと直ぐにの突然の死という事である。
さて、バリ信者の方たちは
学会に牙を向くからそんな哀れな結末を迎えるのだと思われるでしょう。
それはそれで構いません。
人間の死をどう捉えるかと言う事です。
今の聖教新聞を読んでも何処にも描かれていませんからね。
俺と彼の意見交換は今年の正月の新年勤行会から始まる。
彼は学会二世で彼が高校生の時に
俺が任用試験を教える担当になったところからその付き合いは始まる。
俺と彼との違いはその後彼は学会組織の中に入り込み
文字通り「信・行・学」を実践し続けた事に対し
俺は10年前ぐらいから組織からはずれたのと同時にあまり意識をしなかったと言う事。
また、彼は池田大作という人間が非常に好きで
池田大作の出版物をそこいらの学会員より読んでいたという事。
最初に泣きついて来たのは彼の方である。
彼は5年前よりうつ病を煩い3年前にはその事で入院していたと言う事であります。
彼と再会したのはその退院後で職場復帰を決め
学会組織に復帰したその時であります。
彼が悩んでいたのはうつ病と言う病気自体の話ではなかった。
病気そのものに関しては彼自身は患った事で
自分自身を見つめなおす良い経験になったと言う事だと言う。
では悩みとは何かと言えば他でもない
最近の組織がどうも好きになれないという話だった。
彼が言うには
「僕は池田先生は本当に大好きだ。
ただ、今の学会の池田先生に対する接し方におかしいものを感じている。
僕は人間としての池田大作が好きなのに
組織の人間はなにか池田先生が神か仏の様に接している。」と
時同じくして俺も彼も組織に対して不信感を抱いていたので
お互いの意見交換を行い始めたわけだ。
これまで身に付けた教学などを駆使し
今起こりえている組織の現状などを1つ1つ当てはめていく作業を繰り返した結果。
お互いに創価学会が確実に狂い始めていると言う結論が出た訳だ。
ただ彼にとっての最後の関門は
いわゆる彼の尊敬していた師匠である池田先生の存在である。
もちろん自分にとっての仏ではないなせよ
誤った事は指導していないと思い込みたかったと言う事はあったと思います。
その答えを確かめたくなかったと思います。
もう一つは彼はもともと俺と違い戦い好きではなかったと言う事。
基本彼は我慢できる事は極力我慢する性格で
その辺で苦しんでいる部分をよく知ってたので
やりたいならもっと自分を主張しろとも言ってたのですが
とにかく争う事の方が面倒だと言う考えで
戦いを避けれるのであれば避けれる道を選ぶと人間であった。
その性格が元でのうつ病に陥ったところもあると思う。
創価学会の狂いが確実という事が共通認識となった後
そのテンションは変わった。
更に真相の追究を考え行動を強めた俺に対し
間違っているのが解ったからもういいやと思ったのが彼だった。
その後彼は全てがスッキリした状態で今悩みらしい悩みが無くなったんだよと話していた。
流石にこの発言は少し気になったのだが
まだうつ病の薬を服用している段階だったので
感情の抑制を行っている薬を徐々に減らしていけば
感情が動き始め悩みらしい悩みはまた現れてくるだろうと考えていました。
そこに来ての突然死。
俺にとっても非常に驚きました。
薬はまだ服用していたと言う事は周知の事実であった。
当然自殺も大いに考えられた。
ただ、真実はまるで逆だった。
週末に会社からその仕事ぶりでもう病気の事は大丈夫であると評価され
部署移動を命じられていたそうだ。
病気を克服しての完全なる職場復帰という事である。
喜んだ彼は母親にこの事を伝え
その後スポーツジムへ向かい軽く運動を行った後に帰宅。
家で食事を取った後そのままベットで就寝。
月曜日の朝に母親のところに会社から彼が出勤してこないという連絡を聞き
家の中を探してみたらベットの中で眠るように亡くなっていたそうだ。
警察の調べによれば死亡推定時間から考えて
亡くなったのはほぼ週末の晩の出来事であり
薬の量も医者に言われていた規定の量しか摂取していなく
自殺の疑いも全くないという。
彼の家に行ってあらためて彼の遺体と対面して
彼が生前遣り残した事はないだろうかといろいろと考えてみたが
なんとも思い浮かばない。
もちろん遺族の方々にしてみれば彼に期待していた事は非常に多いことだろう。
特に残された母親のことを考えると非常に胸が痛む。
また、おれ自身も今年に入って密に連絡を取っていたという事は
おれ自身の生活の一部となっていたので
おれ自身もこのポッカリと開いた穴は埋めようがなく物凄く寂しくて
残念な思いが沢山ある。
ただそれらはあくまで周りの人の悲しみであって
彼自身の悲しみや遣り残してしまった事と言うのが全く持って思い浮かばない。
自宅には彼が趣味で描いていた絵が10枚ばかりあった。
繊細な性格を物語るかのように物凄く独特で尚且つ繊細なタッチで描かれていた絵だ。
またその絵は全て完成されたものであり描きかけのものは一枚もなかった。
GWに彼の家で彼の部屋を見て周り書斎で彼が読んだ本などの話をした。
その後、10数年ぶりに出会った頃の話をを交えカラオケボックスへ行った。
次の日俺から送ったメッセージに対する返答が
「昨日はありがとうございます またいつでも来て下さい」
これが俺にとっての彼からの最後の言葉である。
- 2010/05/20(木) 23:41:09|
- 創価学会
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学会をやめるにあたっていろいろと学会員の人たちと話をした。
皆一応に今の学会に関して少なからず疑問を感じている箇所はあるようだ。
ハッキリと認めたがらないところはあるにせよ。
その最たる理由は自身が過去に感じたそれぞれ持つ信仰体験だ。
これは一度でも経験した事がない人には口で言っても説明できない事なのだが。
単にやめたら地獄へ落ちるという恐怖に支配されているだけでなく
信仰が長い人ほど多かれ少なかれ経験はあるらしい。
おかしいと思いつつも組織にしがみついている理由もここにある。
そう言った方々が皆一応に口にするのは
この信心に出会ったのは誰のおかげだ
それは創価学会のおかげであろう
更に言えばそれは三代会長であろうと言い始める。
感謝を忘れてはいけないと言う訳だ。
なるほどねぇ。
そこを突かれたら確かに厳しいよね。
もちろんおれ自身もきっかけは創価学会だからね。
ただここでハッキリさせよう。
だからといって信仰体験自体には別に誰に感謝する必要はない。
基本は全て自分で努力して築き上げてきた結果によるものと言えるから。
何故ならばだ。
日蓮の法での本尊とは何かをもう一度理解するべきである。
それ即ち自分自身の心(己心)であるという事
全ての事柄を他力本願ではなく自分自身でどうにかするという事が基本であり
その為に誰か自分とは別の人や物や仏と言う存在などに叶えてもらうと言う事ではないですよね。
と言う事は自分自身に頼んだのではないか?
感謝するなら自分自身に感謝でいいのではないですかね。
病気を克服したなんて話も
自分自身が自分自身の力を信じた結果克服したのである。
けして創価学会の誰かに直してもらったわけではない。
この自分で何とかしようと考え祈る信仰を
自分で考えるな永遠の指導者の心を合わせ
それに従えロボットになれ他力本願になれと言ってるんですよ。
何処でどう感謝していいのか俺にはさっぱり解らない。
感謝の気持ちがあるのならば学会に感謝する前に
実際に見てもらった医者にちゃんと感謝しろと言う話だ。
その時に手伝ってくれた人がいれば
その相手の人に感謝しろという話だ。
自分が勤めている会社の中でも同じ感情を抱くだろうか
仕事をして給料を貰うたびにいちいち社長や会社に感謝するだろうか
感謝だけならまだいいが
雇ってくれたという恩義だけで自分の生活を捨ててまで
一生隷属する気持ちを持っているのだろうかという事。
更にその会社は社員の個々の意見を取り入れる事で大きくなったはずなのに
社長が年を取ってボケ始め
会社がここまで大きくなったのは全て俺の力だと過去の栄光にすがり
これからは全て俺の言うとおりに従えと言って来ているわけだ。
おかげで会社が傾き始めているというのに。
それでもあなたはこの会社がまともだと思いますか
社長に意見もせず感謝の気持ちを胸に
黙って隷属する気になりますかと言う事です。
その後の行動は各人の思うとおりに進んでいけばよいわけで
会社を建て直そうと考えるのも会社を去ろう思うのも
当然答えは1つではないと思います。
ただ一緒に心中と言う事は避けたほうが良いのではないですか
自分自身の為にも誰かを救う為にもと思います。
感謝の意を示す行為と言っても
黙って言う事を聞くことだけではないと言う事は伝わると思うのですが。
更に法を広めると言う事はそれ自体も
自身の信仰体験として返ってくる訳ですよね。
理論的にはあなたが感謝の意を形として示さなくても
あなたに教えた段階で既にその人はその分を形として受け取っているはずです。
感謝の意があるのであれば
それはまだ法を知らない人へ向けていくのが
広宣流布への道ってやつではないでしょうかね。
ねずみ講やってるんじゃないんだしさ。
もっとも今の創価学会はねずみ講みたいなもんだけどね。
- 2010/05/17(月) 18:07:20|
- 創価学会
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取りあえずは今現在創価学会には脱会の意を示している。
最初にこの決断したのが3月末で
意向を組織に伝えたのが4月半ばである。
何故に今尚確実に脱会していないかといえば
こちらからの一方的な通達によるものではなく
なるべく同義的なものは守り組織の納得の元での脱会を希望しているからである。
更に言えば学会員がしつこく家への訪問してきても困る事は1つもない。
来るなら勝手に来て頂ければ構わないと思っているし
いくらでも話の相手ぐらいするつもりはある。
呼ばれればそちらの会合に出向いていってもなんら構わない。
何故なら今の創価学会を信じている人間程度でどうこう出来るものとも思ってないし
逆に組織に対して疑問を持っている人も多いだろうから
そんな人に俺を会わせてもいいのかなと思っているからでもある。
それに選挙に一生懸命の彼らであるからそんな暇も無いようで
望んでこの様な人間に会う度胸も人間性のある人はいないと確信している。
行くならもっと自分の意見に簡単に従ってくれる
騙しやすい人たちへ向かうことでしょう。
まさに永遠の指導者の心と自分自身の心を合わせようとしている人たちである。
頑張って師匠の言われるとおり自分の生活を犠牲にして
選挙の為の票を集めるロボットに専念してください。
3月末に「聖教新聞」の購読の打ち切りを連絡した。
もっとも創価学会が確実におかしな団体であると言う事を知る上でも
これほど突っ込みどころの満載の面白可笑しい新聞はない。
そう言う意味でも取ったら取ったなりの使い道はないわけでもないし
それ以前にテレビのラテ欄やスポーツの結果だけを知る分には割と良い新聞で
何より天ぷらをする際にもあると便利ではある。
一般紙となるとさして全てに目を通さない割りに値段が高く
何よりチラシなども含めとにかく嵩張るのが嫌だという事もある。
話はズレるが現行の半分程度のページの新聞があれば
意外とニーズは高いのではないかと思ったりもするのだが。
ただ、購読となると少しでも創価学会に資金援助する事となるので
ここはきっぱりとやめようと判断した。
新聞の打ち切りをお願いしたのが
所謂新聞の配達員のおばちゃんにである。
気持ち的には明日から要らないよと言う感じではあったのだが
聖教新聞の配達は多少の給金は出るのだがそれは微々たる物で
実際はほぼボランティアの部類である。
したがって急な購読中止は単に配達のおばちゃんに迷惑を掛けるだけの行為であるので
取りあえずの猶予期間として4月一杯は取るんで
購読中止は5月一日からでお願いをした。
俺が感じるところでは新聞配達をしている会員はとても人間的にいい人が多いと感じている。
毎朝の配達もさることながら
集金業務は実は大変な作業の1つなんですよ。
と言うのも集金の再に組織の不満を最初に聞く立場というか
一手に引き受ける事になるのです。
また組織に出てこない人に関しては
この配達員の態度がそのまま組織の人間性と捉えられることも多い
結構大変な仕事なのである。
一見地味な仕事ではあるのだが
こういった地味な仕事をこなす事が出来る人は
人間的な成長があると思われるのでいい人が多いのではと思われる。
なのでいくら組織に不満があったとしても
こういった人に毒を吐いたり迷惑を掛ける事は人間的にどうかと思うという事です。
購読中止を伝えるとおばちゃんは
なんと恐ろしい事をと言う感じで震えていた。
ま、そりゃそうだ。
このおばちゃんも創価学会を信じていますからね。
一応ざっくりと何故に購読の中止を決めたかを簡単に説明し
創価学会がこれまでの考え方から大幅に路線変更を決めたからだと言う事を伝えた。
会話のやり取り中で感じたのは完全に池田教に陥っている訳ではないなとも感じたが
核心部分に触れるとやはり思考停止の側面は伺えた。
まだ、完全なるロボトミー状態に陥ってないだけになんとも惜しいとも感じたが
現時点で俺のできることはここまでだろうと思った。
ここで無理に押さえつけるのは必ずしも得策ではない。
心に関するケアは慎重に行うべき事でもある。
無理に強行突破し後はほったらかしと言うのでは
創価学会がこれまで行ってきた行為とまるで同じであるという事。
ただ、早く自分で間違いが気づく日が訪れて欲しいものだという事は
願ったりはするのではあるが。
おばちゃんは最後に今月の「開目抄」を読んでもう一度考え直して欲しいと
言って来たのだが
残念な事にその「開目抄」をよく読んで考えたおかげで
今の創価学会が重大な間違いを起こし間違った方向へ進んでいると確信したので
もうどうしようもない事なのだが。
と同時に近年の「聖教新聞」に日蓮の御書が極力カットされている事。
日蓮の教学を学ぶと言う事を選挙を理由にどんどん省略している事も頷けたりする。
会員一人一人がまともに勉強してしまったら
今の池田大作さんのスピーチが如何に日蓮の法から外れたうそっぱちの講義をしているという事が
簡単にばれてしまいますからね。
続きはまた後日。
- 2010/05/16(日) 19:56:40|
- 創価学会
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何から話そうか
まず創価学会を全く知らないアンチの人に向けてから行こうか。
創価学会員を見てキモイとかウザイと思うでしょう。
生理的に合わないのに無理やり押し付けてくるのは迷惑だとも感じるでしょう。
気持ちは凄く解る。
またそう言うのが好きな連中がやっているんだろうという考えだと思う。
失笑したくなる気持ちも大変良く解る。
ただ一つ冷静に眺めてみてください。
何故そのような団体が戦後80年間も続いて来たと言う事も去ることながら
一時は国民の10分の1まで信者を獲得するまでに至ったのかその理由とは何なのか
アンチの方々はこの辺が全く気にならないのかなと思ったりしています。
ただ批判するだけではなく何があるのか探ってみるほうが
発展的なのではないかと俺は思いますけどね。
ぶっ潰したいと思うのなら尚更。
創価学会と言うキーワードで
今も昔も共通しているところがある。
それはとにかく世間から悪口を言われる嫌われ者の団体と言う所です。
しかし、その嫌われ方が今と昔では種類が違うという事がお気づきでしょうか?
その昔の創価学会は貧乏人と病人を代表とする
とても世間では評価を受ける事のないどちらかと言えば
いじめられっこの類の人が多かった。
もちろん皆がこれまで大事にしてきた先祖の仏様を捨てろなど
大柄な態度を取るからと言う事もあるが
それ以上にこんな貧相な人たちと一緒に行動するほど
自分たちの生活は落ちてはいない。
そんな気持ちからと言う事ではないでしょうか。
こんないじめられっこと一緒にいたら自分もいじめられる立場に回ってしまう
"えんがちょ"
てな感じですね。
ところが今はどうでしょう
"嫌い"の理由はしきりに権力との結託や金満主義を指摘してくる。
創価学会に入っていると仕事を斡旋してくれるのではないか
罪をもみ消してくれるのではないか
金を都合してくれるのではないか
つー感じですね。
事実政治の分野での公明党だけではなく
財界や芸能界までもを見渡しても今かなりの確立で日本を牛耳っているとも言えますね。
しかもその頂上に一人の人間の存在が見えてくる
これは大変に危険だって事ですよねアンチとしては。
嫌いは嫌いで解ったから
では何故このような金もコネもなかった地位の人たちが
今の日本を牛耳るまでに発展して言ったのでしょうか
ここを抑えるのは重要ではないのですかね。
ハッキリ言って人間は得のないことはやらないですよ。
また、得がないことが解ってしまえば継続する事もありません。
もっとも負けても負けても次こそは勝てるという思いで
深みに嵌っていく人たちもいますが
それにしても欲の持続が保てる人であり多少の勝ちが見えないと続けれないものですよ。
それより何よりここは一つ不満かと思いますが
何らかの形にせよそれぞれの人たちが
欲しいものを得る事が出来たと考える方が自然ではないですかね。
一貫して"嫌い"と言う立場に立ってしまっていると
移り行く状況の変化に気づかないところがあるんですね。
答えありきの考え方では本当の答えは導き出せないと思います。
して、同じ事は創価学会の中でもこれは言えるんですね。
始めっから嫌われ続けている中にいるもんだから
嫌われる事が前提となっていて
嫌われている内容の変化に全く気がついていない。
どちらも全く自分の中での思考が固まってしまっていて
そこから抜け出せなくなってしまっているんですね。
俺も今まで創価学会の中にどっぷりと漬かってしまっていたので
この違いに殆ど気がついていなかったという事でもあります。
今、創価学会と一線を引いてじっくり考え直した事で見えてきたことはあります。
何故に創価学会がこれまで発展してきたのか
また、今現在何故に衰退の一途を辿り始めているかが。
アンチ諸氏が叫ぶまでもなく創価学会は衰退していきます。
と言うより既にもうかなりの勢いで衰退していますけどね。
衰退なんて言い方すると創価学会のバリ活の信者たちは怒り狂うでしょうが
怒り狂うのは本人の勝手ですが
単に現実を直視できないだけだと思います。
その理由を考える材料は既に持っているはずなのですが
ま、それにいつ気がつくかと言う事だけなんですけどね。
- 2010/05/15(土) 11:17:55|
- 創価学会
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日蓮仏法となると創価学会に限らず
自らの正当性を主張し
その他を認めない凶暴性を取り質されていると思う。
そのルーツをたどると
日蓮は世の中にある全ての悪は宗教にあると断言し
その一切の宗教を否定し
自身が語る宗教を一国の全てに広めろと言ったわけです。
確かに周りが全て間違いで
自分だけが正義かと思われるこの態度はなんとも傲慢な話である。
この教えを忠実に行おうとする
宗教団体は他に対し凶暴で傲慢な態度になる事もうなずけ
他を全く認めようとしないカルト信仰に陥る現状も確かに頷ける。
これは確かに危険ですね。
さて、この日蓮仏法は他の宗教と一体何が違うのかと言う事です。
宗教とは何かを信じるものの事であり
当然日蓮仏法もその信仰の対象物がある。
所謂本尊と呼ばれるものです。
日蓮の法でのその本尊とは何かだが
軽くかじった人は知っているであろうが
その正体は「自分自身の心」である(創価学会では自分自身の生命と習いますが)
つまり決定的な違いは信仰対象物を他の物や他人ではなく
自分自身に向けると言う事なのです。
この部分が物凄く重要な事で
大事な事を他人を信じて任せるのではなく
自分自身を信じて考えて努力して切り開いていくものだと言う事である。
何故ならば、自分の人生は自分自身のものであり
他人にどうこう言われて生きていくものだからであると。
日蓮はこの自分自身の心を信じて生きていく事を
「妙法」と呼び、これこそが自分にとって最も幸せな人生を送れる方法であると言ったわけです。
さて、この考え方に誰か異論がある人はいますかね。
自分以外の誰かを信じ誰かに幸せを分け与えてもらい
また支配されるの方が幸せと感じる人がいれば別ですが。
ところが人間と言うものは弱いもので
困った時にすぐ他人に頼ろうとしてしまう。
頼るだけなら良いが心を奪われ心を支配されてしまうと言う事なんですね。
なので世にある一切の宗教を捨て
自分自身の心を信ずるべき法を広めろという話なのであります。
まず何を置いても自分を信じ自由に生きろってのが基本って事ですね。
これを無視して法を広げようなんざ
いくら似たような形式を取っていたとしても
日蓮の唱える法でもなんでもないということである。
日蓮の法を広げると言う事は
自分自身以外を信じている人がいればその考え方が間違いだと言う事を諭す事であり
自分の考えや他人の考えを無理に押し付けると言う事ではない。
創価学会も日蓮正宗を始め日蓮の名を語る全ての団体組織は
こんな基本的な事を忘れ
ただ自身の組織の信者を増やす事を第一義としているところがある。
当然、永遠の指導者という特別な存在を作り
自分自身の心と永遠の指導者たる人の心を合わせようとする創価学会は
もはや日蓮の法に背きその組織の信者だけを増やそうとする団体であり
大変に危険なカルト集団であると言える。
これまでの創価学会での信仰体験により創価学会という組織に感謝し
信じている人はまだまだ多いと思われる。
しかし今一度考え直して欲しいあなたは一体何に対して祈ったのかを。
それは全て自分自身の心を信じ祈った結果であり
また自分で考えて自分で努力した結果であると言う事を。
もちろん他人に感謝する気持ちは忘れてはいけないが
それは自分自身の心を売る事ではないと言う事は理解しよう。
信じるものの根本を間違えると言う事は大変に不幸な事である。
「己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」
己心の外に法ありと思う事は困ったときには誰かが助けてくれると考える
他力本願のことを意味し
己心の法を求めるとは何時いかなるときも自分で何とかしようと頑張るという事である。
つまり「妙法」とは言い換えれば
自分で出来る事は自分で行い
また出来ないと思う事も出来るようになる為に努力するという
全く持って当たり前の事でもある。
「妙法」の使い手など日蓮の法を知らずとも自分の信念がしっかりしている人なら
出来る人はこの世の中には沢山にいる。
というより偉人と言われる多くの人は間違いなく
この「妙法」の原理と同じ事を行った結果であると少し考えれば理解できるではないか。
日蓮の法は一部の組織で使われる特殊な言葉ではなく
世間一般にも通じるごく当たり前な道理であると言う事も理解して欲しい。
みなさんが今現在信じているものははたして「己心」なのでしょうか
それともそれ以外のものなのでしょうか
あまりにも単純な話ですが自分で学ぶ事を放棄し
誰か他人に組織にへと短絡的に依存しているところがありませんか?
- 2010/05/12(水) 00:17:46|
- 創価学会
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本当に久しぶりの書き込みです。
3年前の参議院選挙が終わった段階で
続けては見たものの取り立てて書くことは無かったってのが本音ですね。
ま、ぶっちゃけクレーマーが嫌いといいながら
結局のところ俺の方もクレーマーに対するクレーマー行為ですから。
いずれにせよ民意が良しとしたものに関して
これ以上どうこう言う筋合いがないってこってすね。
もっともそれで後悔してももう知ったこっちゃないという意味も含め。
んじゃまーここは一つ対する自分の生い立ちを交え自分の考え方でも書こうかと
ずっと思っていたのですがなかなか踏み切れない。
それには実は1つ大きな壁にぶち当たっていたという事があります。
自分自身の考え方や人格形成に当たって言える事
1つは自身が血友病という病気を持って生まれてきたという事
これだけならぜんぜん普通に語れる事なのだが
もう1つ切っても切り離せないものがある。
それは幼少期から創価学会という宗教団体に属し
そこで日蓮仏法という考え方に触れて育ったという事である。
この日蓮仏法と出会わなければ
自分の生い立ちを恨み人を恨み国を恨み
俺も「誰か何とかしてくれよこの世の中」と叫んでいたのかもしれない。
もともとが親が入会したと言う事で
半ば強制の始まりではあったが
日蓮仏法の考え方は良い事も悪い事も全て自分自身が作った
原因と結果にしか過ぎないと言う話であった。
つまりなんだ病気として生まれてくる事も事故にあって死ぬ事も
金持ちに生まれてくる事も天才に生まれてくる事も
それは全て自分自身の原因と結果で現れてくるものだちゅー話ね。
更に言えば未来の自分を作るのは現在の自分自身だと言う話。
という事は血友病という血が止まりにくい病気として生まれてきた俺は
過去生においてそれ相応他人を傷つけてきた極悪人という解釈になる。
ぶっちゃけた話、輪廻だとか三世なんてものは本当にあるのか当然解らない。
解らないし確かめようのない話ではある訳で
更に子供心に自分の置かれた立場に対して酷な話と思える半面
なんだか良く解らない運と呼ばれるもので成り立っているより
ましてや自分とは全くかかわりを持たない神様が与えてくれたものだと
考えるより物凄く建設的な話ではないだろうかと思い
この考え方自体を取り入れるのはアリだ。
そう判断したのだと思います。
そうは言ってもこいつは宗教だ
良く解らないものに結局は拝めと言ってくる
拝む事が生きていくうちの最良の善根を積むことだという。
こりゃーなんだか物凄く胡散臭いものですね。
なんだ結局誰かにお願いするって話じゃねーか良くわからないけれどもだ。
母親は自分の病気を治すためとにかく拝めと言ってくる。
いやいや現代医学で治らない病気が祈ったところで直るという話は到底信じれない。
しかも拝むときは正座だという
俺にとっての正座なんてものは苦痛でしょうがないもの
では足を崩してとなると周りの人が正座している中
僕は足が悪いのですと自己紹介しているみたいなものではないか
ハッキリ言ってどちらを取っても苦痛以外のなにものでもない
こんな思いをするくらいならしない方がましだと言う感じではありましたね。
とは言え日蓮仏法の教学と言うのは物凄く魅力的なものでした。
もともと正座が嫌な事もあり仏前にはそれほど座らなかったし
何か1つでも納得いかないことがあれば
直ぐにでもこんな信仰やめてやると思っていたのです。
例えば聖書の様に人間は泥から作られたんだとか言われたりしたら
ざけんなコラ、人間は猿から進化したんだよオイ。
てな具合に。
これがまたいつまでたっても矛盾と感じるところに遭遇しない。
こいつもしかしたら本当に凄いのではないかと思い始めたという感じです。
さてさて、ご存知の方も多いかと思いますが
創価学会と言えば普段到底友達とは思えない人から
選挙の時になるとしつこく公明党を入れてねと電話をかけてくるあのうざい団体ですね。
日蓮仏法の素晴らしさは充分に体験済みな話で
出来ればこれをみんなに話したいと言う事は常日頃から思ってはいる。
ただ、どうしても創価学会の素晴らしさと言う事を語るには抵抗がある
何故だろうこの日蓮仏法を広めようとしている団体のはずなのに・・・。
この葛藤は俺の中に常にありましたね。
故にその一歩が踏み出せない。
正直に言えばここ10年くらい創価学会の組織的な活動からほぼ身を引いていた。
その理由は仕事が忙しく活動なんかしてられないと言う理由なのだが
もう1つは組織の活動がつまらなく思えてあえて避けていたと言うのが本音かもしれない。
今年に入って少し体を休める事を含めしばらく休業を決めたのですが
その折に出来れば少し活動を再開してみようかと思い
組織を覗いてみようと顔を出してみた。
もともと創価学会自体が完璧な組織だとはけして思ってはいなかったのだか
と同時に言うほど悪い組織だとは思ってもいなかったというのも本心。
しかし10年ぶりに覗いた組織は確実に俺の知っているそれとは違っていた。
良く解らない事ではあるが「なにかがおかしい」とにかくそんな印象を受けた。
俺の知らない10年間に一体何が起こったのか?
そこでその10年間を取り戻す為と言うか組織内の人間
また俺と同じく非活となった人間や退転して言った人間
更にはこれまでに起こった事柄など
実際に会える人間には極力会って話をし
またネットも駆使し対話できるところでは対話をし
拾える事柄を極力拾って模索を始めた。
そこでたどり着いた結論は
今の創価学会は完全に狂ってしまってと言う事。
端的に言えば日蓮仏法を完全に捨て去ろうとしていると言う事ですね。
何故にこうなってしまったか
これも全て原因と結果によるもの
今尚創価学会の会員であると言う人たちには創価学会という組織の功罪を。
また、そうではない人たちへも日蓮仏法とは何かを
今なら自分の口から少しでも伝えられるのではないかと思っています。
要はしばらくはこの手のネタが続きますと言う事をご了承くださいなというお話です。
ちなみに更に立ち位置をハッキリとさせますと。
創価学会だけではなくその大元である日蓮正宗や法華講。
または正信会はもとより顕正会など、どの団体においても今は属するつもりは毛頭ありません。
- 2010/05/10(月) 02:22:33|
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