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http://www.seikyoonline.jp/news/top/1192758_2118.html
もう4ヶ月も欠席した所をみると、もう人前に姿を現すことがないのでは。今は平静を保っている様にみえる学会ですが、学会員の動揺は大きく広がっていくでしょうね。
- 2010.10.20 00:27:59
秋の叙勲で、元公明党委員長の矢野絢也氏(78)の受章が内定したことが17日分かった。政府関係者が明らかにした。公明党OBの受章は異例。矢野氏はここ数年、評論活動をめぐり党支持母体の創価学会と関係がこじれており、公明党が菅政権に不信感を持ちそうだ。参院与党過半数割れの「ねじれ国会」で、野党との連携構築にも影響が出る可能性がある。
受章は11月初旬に正式発表される。矢野氏には主要政党党首を務めた功績で、各省事務次官や大使、主要大学学長経験者らに与えられる瑞宝大綬章が有力。既に内々に打診したもようだ。
菅首相は参院選大敗後、公明党との協力関係を模索しているが、反発を呼ぶ矢野氏への叙勲はその障害となりかねない。公明党サイドには、首相と仙谷官房長官が、かねて公明党と創価学会の関係に批判的だったことから官邸の意向が働いたのではないかとの見方がある。
2010/10/18 02:02 【共同通信】
- 2010.10.18 20:02:48
特集/「言論出版妨害事件」を再検証する
【インタビュー】
妨害された側の出版社代表が語る
言論出版妨害は歴史的事実 歴史改竄は許されない
遠藤留治(日新報道代表取締役)
昭和四十四年末から四十五年にかけて一大社会問題となった創価学会・公明党による言論出版妨害事件。そのターゲットになったのは、気鋭の政治評論家として売り出していた藤原弘達明治大学教授が執筆した『創価学会を斬る』(日新報道刊)だった。
現在、(株)日新報道の代表取締役を務める遠藤留治氏は、当時、この『創価学会を斬る』の出版・編集担当として、創価学会・公明党による著者の藤原氏、そして日新報道に対する直接的な圧力や妨害、さらには出版取次会社や書店に対する圧力の事実を実体験した一人。
今回、その遠藤氏に、当時、つぶさに体験した創価学会・公明党による言論出版妨害の事実を、生き証人として語ってもらった。
――言論出版妨害事件から早くも三十四年の月日が流れ、すでに世間の多くの人の記憶から薄れてしまっていること、また、活動の主体である青年部員などは、当時の実状を全く知らないことを背景に、いま創価学会は言論出版妨害事件について、自らは加害者ではなく被害者であるとか、あの事件は、創価学会・公明党の勢力伸張を阻もうとした政治的謀略だなどと主張しています。
遠藤 とんでもないことです。創価学会・公明党が自分たちにとって都合の悪い批判的言論を封殺するために、出版を妨害したことは歴史的事実です。時間的経過にともなう事件の風化を利用して、歴史の偽造を図ろうなどとは、許されることではありません。
そうしたウソを平気でつき、歴史まで改竄しようとする傲慢でファッショ的な姿勢こそが、『創価学会を斬る』でも問題とされた、創価学会の悪しき体質なのです。
――では、具体的にお聞きしますが、そもそも『創価学会を斬る』を出版された動機とはどういったものだったのでしょうか。
遠藤 昭和四十四年十月末に発刊された藤原弘達氏の『創価学会を斬る』は、もともと「この日本をどうする」という藤原弘達氏の警世キャンペーンシリーズの第二巻として企画されたものでした。第一巻は『日本教育改造法案』で、教育ならびに教育界の問題を取り扱ったものだったのです。藤原弘達氏が、創価学会・公明党を取り上げた理由は、『創価学会を斬る』の文中にある次のような問題意識に基づいています。
「創価学会・公明党が目下ねらっているものは、自民党との連立政権ではないのか」
「もし自由民主党が過半数の議席を失なうというようなことになった場合、公明党に手をさしのべてこれとの連立によって圧倒的多数の政権を構成するならば、そのときは、日本の保守独裁体制が明らかにファシズムへのワンステップを踏み出すときではないかと思う」
それだけに出版の企画・検討の段階で藤原弘達氏は、公明党と自民党が連立政権を組めば、ファッショ政治になると、何度も何度も言われていました。
――『創価学会を斬る』の中にある次のような主張ですね。
「ちょうどナチス・ヒトラーが出た時の形と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における宗教的ファナティックな要素、この両者の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制を安定化する機能を果たしながら、同時にこれを強力にファッショ的傾向にもっていく起爆剤的役割として働く可能性も非常に多くもっている」
遠藤 その通りです。現在、日本の政治体制は、自・公・保連立政権となってますが、日本の政治は国政も地方も創価学会・公明党に蹂躙されているといっても過言ではありません。すでに三十年以上も前に、今日の事態、危機を予測し、警鐘を鳴らした藤原弘達氏の炯眼にあらためて驚くばかりです。
――『創価学会を斬る』には、事実関係等に些末な間違いはあるものの、創価学会の本質を衝き、その危険な体質を炙り出していただけに、創価学会・公明党はエキセントリックに反応、熾烈な圧力をかけたのだと思います。具体的な圧力は、まず、抗議電話から始まったということですが。
遠藤 先ほど申し上げた「この日本をどうするシリーズ」第一巻の『日本教育改造法案』を昭和四十四年八月に出版した際、国鉄(当時)、私鉄の各線に中吊り広告を出したんですが、その広告の左端に次作として『創価学会を斬る』の出版予告を載せたんです。抗議電話が始まったのは、この出版予告を出した直後からでした。
会社にいると電話がジャンジャンかかってくる。それは「日本教育改造法案」についての問い合わせ電話ではなく、ほとんどすべてが『創価学会を斬る』についてのものでした。「いったいどういう内容なんだ」「いつ出版するんだ」という探りの電話から、「出版をやめろ」とか、「ぶっ殺すぞ」「地獄に堕ちるぞ」という脅迫電話まで、ひっきりなしでした。もちろん名前は名乗りません。一方的に怒鳴りまくった上で電話を切るというパターンが延々と続きました。
また、この抗議電話とともに、舞い込んだのが抗議の葉書や手紙でした。段ボール何箱分になったでしょうか。とにかくもの凄い数でした。
当時、すでに「鶴タブー」と言われていた創価学会による批判的な記事に対する圧力の噂は、広くマスコミ界、言論界に流れていましたので、創価学会について批判的な本を出版すると決めた時から、圧力はあるものと思っていましたが、激しい抗議電話や手紙の数に、これは容易ならざる事態だと改めて痛感させられました。
――当然、日新報道ばかりではなく、著者である藤原弘達氏の所にも、抗議電話や抗議の葉書、手紙が送られてきたわけですね。
遠藤 それはひどいものでした。やはり段ボール箱で何箱にものぼったんじゃないでしょうか。電話での脅迫もひどいものでしたので、警察がそれとなく藤原弘達氏のお子さんなど家族の警備をしたほどでした。
ですから藤原弘達氏は身の安全を図るため、都内のホテルを転々として『創価学会を斬る』の執筆を続け、私たちも移動しながら編集作業を続ける有り様でした。
なお、この抗議電話や葉書は出版後もますますエスカレートし、内容もひどいものでした。
――そうした動きと並行して、創価学会・公明党の幹部である藤原行正東京都議が、池田大作会長の指示を受けて、藤原弘達氏と日新報道に出版の中止を申し入れてきた? 遠藤 八月三十一日に藤原行正都議が、藤原弘達氏の自宅に訪ねて来て、出版の取りやめを求めてきたんです。もちろん藤原弘達氏は拒否しました。また、同時に藤原行正都議は、私どもの会社に対しても面談を申し入れて来ました。もとより私どもとしても圧力があることは予想していましたし、断固、創価学会の圧力を跳ね返して『創価学会を斬る』を世に出そうと、藤原弘達氏とも固く約束していましたので、藤原行正都議の申し入れを断りました。
その後、藤原行正都議は、秋谷栄之助氏(現会長)を伴い、再び、藤原弘達氏宅を訪ねてきて、再度、出版の中止を申し入れたのです。もちろん藤原弘達氏はその申し入れを拒否しましたが、創価学会・公明党による言論出版妨害の事実が、後々、言った、言わないで誤魔化されるようなことになっては大変だという思いから、この時の会談の模様をテープに録音しておいたのです。これが、後に言論出版妨害の動かぬ証拠になりました。
――結局、電話や手紙による脅しも、藤原行正都議、秋谷氏による出版の取りやめの圧力も不調に終わった結果、創価学会・公明党というより、池田会長が出版の中止を自民党の田中角栄幹事長に依頼したため、田中幹事長の登場ということになったわけです。
遠藤 藤原弘達氏は田中幹事長と面識がありましたから、田中氏の顔を立てる意味で、二度ほど赤坂の料亭で会ったのです。その際、藤原弘達氏と田中幹事長の面談の様子を、隣の部屋で池田大作会長、竹入義勝公明党委員長が聞いていたというのは有名な事実です。
結局、田中幹事長の仲介も不調に終わり、むしろ田中幹事長という与党の大物政治家までが出版に圧力をかけたことを、藤原弘達氏が明らかにしたことから、創価学会・公明党による言論出版妨害事件は、一大社会問題、一大政治問題へと発展していきました。
――田中氏に藤原弘達氏の懐柔を依頼する一方で、創価学会・公明党は、書籍流通の取次会社や書店に圧力をかけ、『創価学会を斬る』を世に出さないよう画策します。その結果、取次や書店に配本を拒否されたということですが。
遠藤 ひどいものでした。日販、東販という大手書籍流通会社をはじめ、のきなみ拒否です。「取り扱えない」というので、「なぜだ」「どうして」と理由を聞くと、誤魔化していましたが、そっと創価学会の圧力であることを教えてくれる業者もありました。結局、書籍の配本契約を結んでいた十一社のうち、初版の配本を請け負ってくれたのは栗田書店一社だけという悲惨な状況でした。
――書店にも軒並み圧力がかかっていた?
遠藤 潮の社員や「聖教新聞」の社員などが書店回りをして、「置くな」と圧力をかけていたんです。「『創価学会を斬る』を置くと、『人間革命』などの売れ筋の創価学会の本を引き上げるぞ」という脅しだったそうです。それでも中には、「これはいい本だ」といって置いてくれる気骨ある本屋さんもありました。
ですから『創価学会を斬る』は四十四年の十月末に出版したものの、ほとんど流通には乗らず、書店にも置いてもらえないので、社員が現物を風呂敷に包んで書店回りをして、直談判で置いてもらえるように交渉し、やっとの思いで売って貰うという有り様でした。
――その後、藤原弘達氏が創価学会・公明党による言論出版妨害の事実を明らかにしたところ、国民世論の大きな反発を招き、事態は大きく変わっていくわけですが。
遠藤 それでも最初は公明党の竹入義勝委員長や矢野絢也書記長が「事実無根」と否定するなど、強気でしたが、四十五年の国会でこの問題が取り上げられるようになってから、火がつきました。
ただ、藤原弘達氏が創価学会・公明党による言論出版妨害の事実を明らかにする以前、私も「朝日新聞」や「読売新聞」など、全国紙の記者や編集幹部に会って、創価学会・公明党がこんなひどいことをしていると事実を説明しました。ところが、彼らはこの問題を全く扱おうとはせず、政治問題化してから初めて扱うようになったんです。このマスコミの怠慢には本当に失望し、怒りを憶えました。
今日も、創価学会の莫大な広告費や「聖教新聞」の印刷費、購読部数、視聴率などの前に、新聞・テレビなどの巨大メディアは屈し、創価学会問題を積極的に報じようとしませんが、当時から彼らは、勇気とジャーナリズム精神を喪失していたと言わざるを得ません。
――今日、ただいまも創価学会は、自らにとって批判的な言論の抑圧に血道をあげています。当時から分かってはいたことですが、今回、「新・人間革命」で言論出版妨害の事実を否定し、言論出版妨害事件は、創価学会・公明党を貶めるための政治的謀略だったと主張している事実は、結局、昭和四十五年五月三日に池田会長が行った「謝罪」が、世間を欺くための芝居にすぎなかったということを自ら認めたということです。
あらためて創価学会の反省なき無残な体質が明らかになったといえますが、こうした創価学会の主張を聞いて、どんな感想をもたれますか。
遠藤 本質的には、当時となにも変わっていないということです。
先ほど、藤原弘達氏が『創価学会を斬る』の中で鳴らしていた警鐘を紹介しましたが、言論の自由を侵害した創価学会・公明党が政権与党の一角を占めている事実に、愕然とせざるを得ません。
創価学会・公明党が基本的人権である言論の自由を侵害したという歴史的事実を、きちんと後世に伝え、藤原弘達氏が叫んだ「日本をファシズム国家にしてはいけない」との警鐘を乱打する必要を、あらためて痛感します。
遠藤 留治(えんどう・とめじ)一九三七年福島県生まれ。数社の出版社の編集・企画・営業を経て、現在、株式会社日新報道の代表取締役。携わった出版点数は千六百点余。そのうち、二十数点は創価学会関係の批判書籍。
FORUM212003年7月1日号
- 2010.10.18 19:48:23
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[63] Re:これでも池田大作を信ずるか下山正行氏 |
>> 返信元メッセージを表示 |
どれが本当の指導なんだ
( これではまるで詐欺ではないか )
そして本門戒壇建立の時すなわち広宣流布達成の時と、明確に指導されたのである。しかし現実は験しい。
正本堂完成の昭和四十七年から現在に至るも、広宣流布がまだまだ未来のことであるのは、いかに池田会長や創価学会のいうことを盲目的に信じてきた私達にもはっきりしている。(略)
こんな状況で広宣流布とは、池田会長や創価学会幹部は気が狂ったのか、と思っていたら、正本堂完工式のときに、またまたそれまでと違うことをいいはじめた。
昭和四十七年十月三日の「聖教新開」に、「正本堂落慶の時を迎えて」と題する和泉理事長(当時)の発表があった。
14) 「私達の待ちに待った正本堂落慶の日を、ついに迎えることとなった。だれびとの胸中にも万感迫る思いであろう。……ここで私達が銘記したいことは、再び心新たに広宣流布の大目的に向かって、未曾有暫廃(みぞうざんぱい)の決意で進むことである。
……ひるがえって、現今の世界は「末法濁悪」の御金言の通り、濁乱の様相を色濃く漂わせている。……苦悩のうめきは、深く、また大きく、私達の耳を打つ。しかし、この大悪は大善の瑞相であり、黎明を待つ深き闇であると考えたい。今や、顕在的にも潜在的にも、偉大な宗教を求める方向へと時代は動いている。……大聖人の仏法は、本因妙の仏法である。全民衆を救おうとの大聖人の大精神に立つならば、現在は広宣流布の一歩にすぎない。
したがって、正本堂は、なお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、ご遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである。また、この正本堂には信心強盛の人のみがここには集いきたり、御開扉を願う資格がある。したがって、正本堂は広宣流布のその日まで信徒に限って内拝を許されることはいうまでもない」(「聖教新開」、昭和四十七年十月三日)
これではまるで詐欺ではないか。“御本仏日蓮大聖人様の御遺命たる本門戒壇建立のため……正本堂建立に御供養申しあげる、大福運と大功徳”と池田会長の指導があったからこそ、私達創価学会員は大福運と大功徳を信じて、御供養したのである。退転者や外部の人達が、財産を処分したり借金をしてまで、と私達の御供養に悪口をいっていたが、本当に事の戒壇建立のために必要ならば、私達創価学会員は日蓮正宗信徒として、命を御供養することもためらわない。
それなのに、正本堂が完成してみたら、“正本堂は、なお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇ではない”といわれたら、詐欺だといいたくもなろう。御供義金返還訴訟を起こす人が出るのも、けだし当然といえよう。これらの人達に、創価学会では金を返す、といったそうだが、金を返してことが済むとでも思っているのだろうか。池田会長や創価学会の幹部は、創価学会員の「まごころ」をなんと思っているのだろうか。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )
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下山正行氏が「これではまるで詐欺ではないか」と言うほどに、創価学会のこの変節は大きなものでありました。そしてその背景には、講中の命運を賭しての妙信講の御遺命守護の働きがあったのでした。
昭和四十七年十月の正本堂落成式を眼前に、妙信講と創価学会の最後の法論が常泉寺において九月十三日より同二十八日までの間七回にわたって行われ、その激論の末・創価学会はついに自らの非を認め、機関紙上における訂正を約したのでありました。
正本堂を「三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇」と云いこれを以て「御遺命は成就、広宣流布は達成」と云い続けた誑惑を、自ら「誤りである」と明言し、「正本堂には信心強盛の人のみが…」以下の文言で正本堂の性格を奉安殿の延長と規定し、明確な誑惑の訂正がなされたのでした。
( 平成十四年五月十九日、櫻川 記 )
- 2010.10.18 19:33:19
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[62] Re:これでも池田大作を信ずるか下山正行氏 |
>> 返信元メッセージを表示 |
どれが本当の指導なんだ
( 正本堂と本門戒壇堂がいつの間にか同一に )
もっとも、あえて自己弁護をすれは、私達創価学会員がこんな大きな矛盾にも気がつく暇がないくらい、池田会長や創価学会の熱気のある指導が、やつぎばやに、そのころは行なわれていた。
7) 「正本堂建立こそ、日蓮大聖人の御遺命たる本門戒壇建立の具体化であり、宗門七百年来待望の壮挙ということができるのである。……日蓮大聖人御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって完全に終了するのである」(「立正安国論講義」)
8) 「この戒壇建立を、日蓮大聖人は『時を待つ可きのみ』とおおせられて、減後に託されたのであります。以来、七百年、この時機到来のきざしはなく、日蓮大聖人のご遺命は、いたずらに虚妄になるところでありました。だが『仏語は虚しからず』のご金言どおり……七百年来の宿願である正本堂建立のはこびとなったのであります」(昭和42年5月第三十同総会での池田会長講演)
9) 「今滋に発願せる正本堂は、文底独一本門事の戒壇にして……詮ずる所、正本堂の完成を以て、三大秘法ここに成就し」(「正本堂建立発誓願文」)
10) 「戒壇については、すでに三大秘法を成就する本門の戒壇・正本堂が昭和四十七年完成の運びとなり」(「折伏教典」)
11) 「昭和四十七年(一九七二年)、日蓮正宗総本山大石寺に建立される正本堂が事実上の本門戒壇にあたる。この戒壇は仏法史上三千年来の念願であり、末法事の戒壇にして、日本民衆の鎮護国家のみならず……」(「仏教哲学大辞典」創価学会刊)
12) 「本門の戒壇に義と事がある。事の戒壇とは広宣流布のときに本門戒壇の大御本尊を安置し奉る所である。……広宣流布の時到来し、本門戒壇の大御本尊は奉安殿から本門戒壇堂である正本堂へお出ましになるのである」(同上)
13) 「正本堂が建立され、本門戒壇の大御本尊がご安置されることは、本門の戒壇建立、すなわち化儀の広宣流布の実現である。……今まさに、本門戒壇建立の時である。すなわち大御本尊を信受し、功徳に浴し、歓喜している衆生が、日本ばかりでなく世界に満ち、日蓮大聖人のご予言である化儀の広宣流布の時が到来したのである。ここにおいて、法華講総講頭・創価学会第三代会長池田会長の発願により、これ等純信な民衆の心からの供養によって、正本堂の建立が実現されることになった。したがって、本門戒壇の大御本尊が安置される正本堂こそ、日蓮大聖人の弟子が長い間待望し、念顕していた本門戒壇なのである。……したがって正本堂建立により、日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。これこそ化儀の広宣流布実現であり」(同上)
きりがないから、引用はこのくらいにする。
引用文にいわれている「正本堂」とその後に建立されるはずの 「本門戒壇堂」がいつの間にか同一になり、同一になったままにより強固に指導された様子が、これらの引用文からよく理解できると思う。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )
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下山正行氏が語るように、「矛盾にも気がつく暇がないくらい」に昭和四十年三月二十六日の 「正本堂建立御供養趣意書」以来「熱気のある指導がやつぎばやに」なされ、それがやがては宗門の公論のごとくになっていったのでありました。
( 平成十四年五月十七日、櫻川 記 )
- 2010.10.17 11:54:36
日本正学館の破産
《戸田のところへいったからというので、家からは勘当同然でした。14、5人の研究会の仲間からもやられました》
家族は池田の創価学会入信に反対しつつ゛けたし、池田も四兄と同居の六畳間で朝晩、題目や経典をあげることをやめなかったから、両者の関係は当然、険悪であった。
池田が文筆で立つ志望を持ち、五男であったかぎり、家と出版社とどちらを選ぶかは明白であった。また彼が世の荒波に揉まれて家や協友会の友人のもとに舞いもどり、おとなしく退転するには、それまで病・貧・争の苦しみに慣れすぎて免疫になっていたうえ、戸田の提供する体験の場が貧しいとはいえ、魅力的でありつつ゛けたのだろう。
しかし、池田の別居には周囲の反対から逃れ、世に乗り出すという以上の積極的な意味がこめられていた。家族や友人からの離脱は、池田を否応なく戸田のもとに押しやり、もともと冷静な観察力に乏しく、対人関係に古風な一面をも残す池田をして戸田に、父なき世代にもかかわらず、父を見出せることになった。
同年5月から池田は『冒険少年』の編集を手がけはじめ、原稿とりに野村胡堂や西条八十、挿絵画家などの家を訪ね、また時に山本紳一郎というペンネームで穴埋め記事を書いたという。
そのころ、他の編集員・小平芳平らは前年までの『価値創造』にかわる創価学会の機関誌としての『大百蓮華』の編集にあたってい、戸田も自ら同誌の巻頭論文に「生命論」を寄稿した。
シラミの話で始まる「生命論」は、生命とは過去、現在、未来の三世にわたって連続し、永遠に存在するもので宇宙自体が生命であるとの主張に尽き、せいぜい古代インドのウパニシャッド哲学以来の素朴な観念論のやきなおし(日隈、前掲書)にすぎないというしろものであったが、池田は当時の彼の感動として、「鮮烈な感動が、孤独に沈んでいた彼を、いきなり襲ってきた。彼はしばらく茫然としてしまった」と記すばかりか、現在の評価としても、「まことに新しい、生命の世紀の夜明けを告げる宣言書」(池田『人間革命』四)など、思いつく限りの最大級の讃辞を連ねている。
- 2010.10.16 18:23:04
この回想にもうかがえるが、通信教授にかわる単行本の出版も日本正学館の経営を安定させるには至らなかった。池田はその理由を、出版社の高い利益は再版によるが、再版の間に資材、印刷費が暴騰して初版と同じ定価では採算がとれず、また値上げしてなお売れる本も少なかったからとしている。
23年、またしても戸田は、雑誌なら定価改訂でインフレに対応できようという、変わりばえしない思惑から、雑誌の発刊を決意し、雑誌を主、単行本を従とする経営に方針転換した。まず『冒険少年』を、ついで婦人雑誌『ルビー』を創刊し、池田によれば数カ月後には『冒険少年』十数万部、『ルビー』数万部を数えていたようだという。
だが、昭和24年に入ると金融事情が逼迫したうえ、戦前からの大手出版社の本格的な回復が緒につき、乱立模様の小出版社が存続する余地は狭められていた。カストリ雑誌や仙花紙の時代は、復刊された『文藝春秋』『中央公論』『婦人公論』『オール読物』、創刊された『少年』や『婦人生活』に徐々にその席を譲りはじめ、そのような時点では、池田の日本正学館入社も、決して傍目にはよい就職口とはいえなかった。同社での池田の役目が、入社後しばらくは雑誌記者ではなく、彼のいうところの『小僧』だったことは、「会社の用事で、大八車を引いて銀座を歩いたこともある」(池田『勇気と確信と希望』)との一文からも、うなずかれる。たぶんそれは試用というより、小企業のため、手すきのものには何でもやらせたのだろうし、池田の健康も微熱が続く程度で、大八車を引くほどの労働には、どうやら耐え得たのだろう。
このころ、彼は森ヶ埼の実家を出、大森・新井宿の青葉荘(二反長、前掲書)というアパートに一室を借り、一人住まいを始めた。それは通勤の便というより、家族との関係の悪化からであった。
- 2010.10.15 21:38:24
part1
http://www.youtube.com/watch?v=1cpBeMmWN8Y
part2
http://www.youtube.com/watch?v=UoafOc7OOgg
アップいたしましたよ〜♪
- 2010.10.14 15:53:34
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[58] Re:降魔の剣より貼り付けます |
>> 返信元メッセージを表示 |
池田大作が何に勝ったのか抽象的ですが、創価学会の第3代会長に就任し、創価学会を日蓮正宗の信徒団体から離れて池田教に変質させた事を意味しているのだと思います。
創価学会の不幸は周りに諫言する人物を遠ざけイエスマンばかりを側近に据えた事と池田大作が会長になった事です。
- 2010.10.14 10:58:26
池田大作──その行動と軌跡 第1回 若き指導者は勝った
>
>
>
> 2009年1月1日付 聖教新聞
> 池田大作──その行動と軌跡 第1回 若き指導者は勝った−1
>
> 日本正学館 1
>
> 昭和二十四年一月三日──ドラマは六十年前、恩師の会社に初めて出勤した日から始まった
>
> 池田青年の十年
>
> 総武線の水道橋駅で降り、東京・千代田区の神田に向かった。
> 有名な東京ドームを背にして、水道橋西通りを南に歩く。いま地図で見ると距離にして五百メートルほどか。
> 西神田三の八の一。ブルーに輝く窓ガラスが印象的な高層ビルで占められている。
> ここに「日本正学館」の小さな看板を掲げた出版社があった。近くに日本橋川が流れている。
> 昭和二十四年(一九四九年)の寒い一月三日の月曜日だった。
> 池田大作青年は、恩師である戸田城聖第二代会長(当時・理事長)の経営する日本正学館へ初出勤した。
> 前日に二十一歳の誕生日を迎えたばかりである。この日の東京の天候は小雨時々晴れであった。
> 現在は日本橋川の上を覆うように、高速道路が走っている。高いビルも高速道路もなかった六十年前の正月。日本橋川は、冬空に舞う色とりどりの凧をながめていたはずである。
>
> 当時の池田青年を知る一人に評論家の塩田丸男がいる。
> 中国から復員した塩田は、縁あって「日本婦人新聞社」に勤める。その編集室が、実は日本正学館の三階にあったというのである。
> 塩田は取材班のインタビューに快く応じてくれた。
> 「三階というと聞こえはいいが、実際は屋根裏で物置に使っていたところにちょっと手を入れただけ。広さ? 広さなんてものではなく、"狭さ"と言ったほうがいい」
> 日本婦人新聞社の看板は一階の戸口のわきに小さくぶら下がっていた。いっしょに並んでもうーつ、達筆な文字で創価学会の看板が掲げられていたという。
> 「新聞記者はたいていズボラで朝も遅い。私がのそのそと出勤していくころには、一階の創価学会の部屋は大勢の人たちが活発に動きまわっていて、その間をくぐりぬけて、こそこそと三階の屋根裏へ上っていったものです」
> 西神田の旧学会本部。
> 二階までは、関係者の記憶から間取り図(5面)をほぼ正確に示せるが、その上に、さらに三階があったことは、あまり知られていない。
> 「創価学会が大家さんで、こちらは屋根裏の住人なんだから腰を低くしなければならないのに、新聞記者は図々しい連中ばかりで、私もあまり頭を下げなかったように思います」
> そんななかで、大変印象に残っているのが、池田青年だった。いつも「おはようございます!」「仕事のほうはどうですか?」と、気さくに声をかけてくれた。
> 「大きな声で、明るい顔色で、元気いっぱいの目立つ青年でした。
> まさか、こんなに偉くなられるとは!
> その後、直接お目にかかる機会はありませんが、私のなかにある『池田大作』は今でも、あの元気な、明るい大作青年です!」
>
> 日本正学館は池田SGI会長の人生の軌跡を追ううえで、最初のキーポイントとなる場所である。
> 二十一歳から日本正学館で働きはじめ、三十歳で永訣するまで、ちょうど十年間、戸田会長に師事している。
> これより十年早ければ、第二次世界大戦の戦雲が二人を裂き、十年遅ければ、戸田会長はすでにいない。不思議な巡り合わせの十年である。
> 二十一歳から三十歳。この十年こそ、池田会長の人間形成にとって決定的な歳月であったといってよい。
>
> 橋本忍のインタビュー
>
> 映画「人間革命」の続編を制作するにあたり、脚本を手けた橋本忍が原作者・池田会長に聞いている。「初めて日本正学館に出勤した日のことを教えてください」
> 以下は「橋本インタビユー」によるところの会長自身の述懐である。
> 一月三日は底冷えのする日だった。午前八時、弁当を手にして出社したが、仕事始めの前で、神田に人影は、まばらだった。
> この日を選んだのは戸田会長に「来年からこい」と言われていたからで、ほかの理由はない。少し早いかと思ったが、ちょうど月曜日。新しいスタートに決めた。
> 事務所のガラス戸をたたいたが、だれもいない。あらかじめカギを渡されていたので中へ入った。
> コンクリート打ちの玄関を入るとカウンターがあり、一階が事務所、二階の一部が編集室となっていた。奥の階段を三段ほど上がったところに中二階がある。
> 火の気もなく、足下から冷気が伝わる。掃除をして先輩社員を待つことにした。バケツの水で雑巾をしぼる。みっちり一時間かけ、机や窓をふいたが、だれも来ない。
> どうなっているのか。この会社は大丈夫なのか。初出勤ながら心配した。
> 十時をすぎたころ、ガラッと音をたてて正面のガラス戸が開いた。
> 「おめでとうございます!」
> 顔をあげると、立っていたのは電報の配達人だった。
> 戸田先生あての電報を受け取った。急ぎの案件にちがいない。ご自宅まで持っていくことにした。
> 事務所の戸締まりをして、当時、港区の芝白金台町にあった戸田宅へ向かった。
> 玄関で用向きを伝えると、年配の女性が「ご苦労さま」と錠を開けてくれた......
>
> 短い回想だが、いくつかの興味深い点がある。
> 朝が早く、出社が早い。きれい好き。機転がきく。受け身で構えるのでなく、すぐさま行動に打って出る。
> たった半日ほどのエピソードだが、池田会長の人となりを物語っている。
> 一方、新入社員を採用していながら「来年から来い」の一言ですませ、出勤日も定めなかった戸田会長......。
> 時代が時代だったとはいえ、いかにも豪放な人柄が浮かび上がってくる。
> 二人の師弟関係とは、つまりは、このような間柄だったとも思える。
> つまり師が何かを決め細かく指示するのではなく、根本の大綱のみを示す。
> むしろ弟子の側が細目を定め、行動し、すべてをグイグイと具体化していく。初出勤の日にして、すでに師弟の命運は決定づけられていたかのようである。
> この時点での池田青年は、決して宗教、信仰というものに納得していたわけではなかった。
> 「日蓮」と聞くと、思い浮かぶ原風景がある。
> 団扇太鼓をドンドン打ち鳴らしながら、大声で題目を唱え、町中をねり歩く信徒の一団──。
> 少年時代に見た光景は、宗教への無知や盲信などを連想させた。
> 宗教というものにありがちな視野のせまさ、独善性。
> 仲間うちにしか通じない、閉ざされた言語感覚や、教祖を頂点にしたピラミッド形の息苦しい上下関係。
> 多くの宗教団体がおちいりやすい点である。
> しかも、戦前の日本は国家神道を精神的な柱に立てて破局した。池田青年ならずとも、宗教は、こりごりであったろう。
> 入会後も、なんとか自らの運命から免れないものかと一年間ほど悩み、抗っている。
> それは、小説『人間革命』第三巻「漣」の章で告白している。
> 夏に静岡で開かれた学会の講習会。まわりは騒がしく、どうも、とけ込めない。伝統的な儀式も、しつくりこない。ひとりギリシャの詩を口ずさみ眠りについた......。
> 後年の回想。
> 「宗教、仏法のことが理解できて、納得したのではなかった」
> 「宗教には反発しながらも、戸田城聖という人間的な魅力に対しては、どうすることもできなかった」
>
> 池田大作──その行動と軌跡 第1回 若き指導者は勝った−2に続く
> 時代と背景
> 「私は、やがてルビコンを渡った」(池田大作著『私の履歴書』)。昭和22年8月14日、蒲田の座談会で戸田城聖と出会い、入会(同24日)するが、一緒に働きはじめるまでの葛藤を古代ローマの故事にたとえている。
> 翌23年秋、法華経講義を受講してまもなく、日本正学館入りを打診され「一も二もなく『お願いします』と即座に答えた」(同)。大みそか、蒲田工業会を円満退社。初出動は、その3日後のことだった。賽は投げられたのである。
何故か、池田大作氏の履歴書には、大蔵商事は出て来ませんね。
だから、池田創価詐欺学会と呼ばれるのです。
1948(昭和23)12 蒲田工業会を退社
1949(昭和24)01 日本正学館に入社
同年 10 日本正学館倒産
同年 10 東京建設信用組合の社員に異動
1950(昭和25)08 同社営業停止命令を受ける
同年 秋 大蔵商事の社員に異動
同年 11 同商事営業部長
1951(昭和26)03 東京建設信用組合解散
1952(昭和27)05 白木かねと結婚
同年 10 大蔵商事取締役兼営業部長
1953(昭和28)01 男子部第一部隊長兼教育参謀
同年 11 太作を大作に改名
1954(昭和29)12 渉外部長
1955(昭和30)03 「小樽問答」に司会者として参加
同年 12 父・子之吉死亡
1956(昭和31)06 選挙妨害対策委員会委員
1957(昭和32)07 大阪参院補選にからみ、戸別訪問で逮捕される
1958(昭和33)06 総務に就任(渉外部長解任)
1959(昭和34)06 理事に就任
1960(昭和35)04 第三代会長に池田就任決定、発表
同年 05 池田、創価学会第三代会長に就任
池田大作氏が第三代会長になれたのは、大蔵商事での債権の取立てで辣腕をふるったことが大きな理由なのです。
勿論、債権の取立てにはあくどい手口も含まれています。
果たして、これらは宗教人(仏教者)足り得るのか、甚だ疑問です。
従い、池田創価詐欺学会と呼ばれる所以なのです。
- 2010.10.13 21:06:47
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日蓮正宗より破門され、新興宗教と化した創価学会、教祖のXディが現実に近づいている昨今、そろそろ正信に目覚める時です。多数の参加お待ちしています。携帯からも参加できます。
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