|

サンタの国からやってきた世直し人 |
日本で初めての、しかも唯一の「青い目の議員」として有名になったフィンランド出身のツルネン・マルテイさん。骨を埋める覚悟で来日し、35年後にようやく国会での活動の場を得た。2009年9月に所属政党の民主党が政権に就き、彼の「奉仕活動」はいよいよ本格化している。
白髪交じりの髪に口ひげをたくわえ、トレードマークの「道着(和装スーツ)」に身を包むツルネンさん。ひと昔前なら親戚や町内に1人や2人はいた、“こうるさいおやじさん”といった印象だ。道着にこだわる理由は、「国際会議などで、アフリカやアラブ諸国の参加者は民族衣装を着ていることが多い。日本も和服という独自の文化を広めた方がよいから」。4年ほど前から、毎日、もちろん議場でも着用している。そのほかにこだわるのは日本の伝統食。奥様手作りの有機玄米弁当を毎日持参する。そのおかげか、ここ数年、医者にはかかっていない、と言う。
宣教師として派遣
ツルネンさんは、フィンランドのルーテル宣教師会から派遣されて1967年に来日した。少年のころ見たアフリカのスライドに魅せられ、いつか自分も宣教師としてアフリカに行こうと心に誓った。だが、勉強してようやく南アフリカへの派遣が決まった直後、内乱で査証(ビザ)の発行が停止に。落胆した彼の目にとまったのが日本での宣教師募集だった。「これも何かの縁」と思い、妻子とともに日本に行くことを即座に決意した。
東京で2年間日本語を学んだ後、ツルネンさんは別府の児童養護施設で奉仕することになった。都内にも奉仕先はあったが、同郷の先輩に囲まれていては日本の真の姿を理解することは難しい、と判断したからだ。ところが、養護施設では簡単な仕事しかさせてもらえず、ツルネンさんは「一生を日本のために捧げようと思ってやってきたのに、このままでは何も見えてこない」と、悩んだ。4年の滞在期間の終わりに、ツルネンさんが出した結論は「宣教師を辞して日本に残る」だった。日本の大卒初任給の何倍もの給料を投げ打ってのことだった。当然、家族は養えないし、自分の身分も不安定になる。話し合いの末、妻は離婚に同意し、子どもたちとフィンランドに帰国した。
「どうしてあんな苦しい決断をすることができたのか――。それが私の運命だった、としか思えません」とツルネンさんは当時を振り返る。ツルネンさんの代わりに査証解禁後南アに派遣された宣教師は数カ月後に現地の秘密警察に射殺されたそうだ。「それは彼の運命だし、こうやってずっと日本にいるのも私の運命なのでしょう」
日本人女性と再婚したツルネンさんは、長野県安曇村(当時)で新生活を始め、古典文学の翻訳や英語塾教師で身を立てながら、地元の人たちとの交流を深めていった。その間、日本国籍も取得した。「帰化して母国を裏切ったと思わないか、アイデンティティーを失わないか、とよく聞かれますが、私にとって帰化は日本で日本人と同じように暮らすための単なる届け出。国籍が変わっても、私がフィンランド生まれであることに変わりはありません」と割り切っている。
クリーン選挙で湯河原町議に
安曇村での暮らしは充実していたが、新境地を開くために、縁のあった神奈川県湯河原町に移り住んだ。そこで生活の糧にしていた英語塾の生徒に地元町議会の議員がいて、ツルネンさんはその人の話を興味をもって聴いていた。当時、「塾の講師をやるために苦しい決断をしたわけではないし。もっと何かほかにやるべきことがあるはず」と思い悩んでいたツルネンさんは、「自分も、政治家となってこの国のために働くことができるかもしれない」と決心し、湯河原町議会議員選挙に立候補した。結果は24人中4位で当選、数名のボランティアに支えられ、お金を使わない、地元組織に頼らない、クリーンな選挙の見事な勝利だった。
晴れて町会議員となったツルネンさんはさっそく、湯河原の国際化や生ごみ問題、開かれた選挙などに取り組んだ。日本初の「青い目の議員」としてマスコミに取り上げられて一躍有名人となり、日本各地を回って講演をするうち、「地方政治では限界がある。国政に打って出れば、もっと多くの人に自分の意見を聴いてもらえる」と考えるようになった。「本来ならば、地方議会を2〜3期務めてから国政に出るべきなのですが、私の場合年齢も高かったので時間に余裕もありませんでした。結果的に4度落選して、時間はかかってしまいましたが――(笑)」。
湯河原町議を辞して臨んだ最初の参院選から3度続けて落選。2001年の4度目の挑戦でも次点だった。ところが、これも運命だったのだろうか、半年後に民主党の大橋巨泉議員が突然辞め、次点のツルネンさんが繰り上げ当選した。
第3者の目でチェック
ツルネンさんは「国会議員としての私の使命は、他の議員がやれなかったことをやること」と明言する。「かつては完全に日本人になりきろうとしたこともありますが、それは無理です。私に期待されているのは、第三者の目でチェックすることや、新しい見方を提案すること」。民主党のネクスト内閣では環境副大臣だったが、「政権与党となった今、できれば私は政府の中には入りたくない。『良識の府』である参議院の議員として、民主党政権に対してもどんどん質問し、意見を言ってチェック機能を果たしたい」と自分の立場を貫く。
現在、環境、教育、国際化、安全、福祉などの問題に取り組んでいるが、中でも勢力をつぎ込んでいるのが、有機農業を日本全国に広めることだ。「今、日本の食料自給率は40%を割っています。私はこれを60%まで高めたい。そして、有機農業の割合を50%に引き上げたい。食の安全や農業による環境破壊の問題から有機農業は非常に重要です」
その最初のステップとして、2006年に有機農業推進法を超党派議員で成立させた。現在は「生ごみリサイクル基本法」に取りかかっている。家庭や各種施設から出る生ごみのリサイクルを地方自治体に義務付ける画期的な法案だ。「リサイクルでできる堆肥や飼料は有機農業に欠かせませんし、バイオマスで再生可能エネルギーの利用率を上げることは、温暖化対策にもなります」。自らも自宅のある鎌倉で有機農業をはじめ、フィンランド風の自然に従ったオーガニック(有機的)な生き方を実践しているツルネンさんならではの取り組みだろう。
「政治は社会奉仕」
日本の政治とフィンランドの政治はどう違うのだろうか。「一番大きな違いは、フィンランドでは国会議員は一生の仕事ではない、という点です。政治は『社会奉仕』ととらえられているので、だいたい2、3期務めて交替します。市民の政治参加も積極的で、投票率は70%ぐらいあります。女性の政治参加も高く、大臣の半数以上が女性です。わいろは皆無に等しく、フィンランドの政治は世界一『クリーン』と言われています」
ツルネンさんはかつて、日本とフィンランドの国民性の違いを「本音を言わないあいまいな日本人、思ったことを率直に口にするあからさまなフィンランド人」
と評した。それから数十年経った今、一般の日本人はずいぶんはっきり物を言うようになったが、「政治の世界は、まだあいまい」と残念がる。
ツルネンさんの座右の銘は「至誠天に通ず」。自身の名前に当てた「弦念丸呈」という漢字は、「信念を貫き、多くの人に奉仕する」という意味だそうだ。「私は日本を愛しています。愛とは、結婚生活と同じで、時間をかけて育てるもの」――。40年かけて育てた愛を胸に、ツルネンさんはこれからも日本に奉仕し続ける。
|
『ヨーロッパ』(2010年冬号)より |
|

ツルネンマルテイ公式サイト Copyright
(C) 2010 tsurunen.net. All Rights Reserved. |
|