目覚めはいつも曖昧だった。
まるで夢の延長線上に日常があるような不確かさ。気が付けば当たり前のように通学路を歩く毎日が続いていた。
朝の通学路を行く。
午前七時半、いつもよりわずかばかり早い登校時間であることを除けば代わり映えのしない日常だ。
月海原学園の校門前にたどり着くと当然のように立っている生徒会長の柳洞一成。
生徒証の確認による身分証明。風紀強化週間とやらのため征服から鞄の中身までチェックされ、それらのチェックは身体の天辺から爪先までされる。
「うむ、実に素晴らしい。どこから見ても文句の付けようのない、完璧な月海原学園の生徒の姿だ!」
誰も居ない虚空のチェックを済ませた生徒会長が清々しい笑顔で言う。
生徒会長のチェックを途中でボイコットした自分の存在は誰にも見咎められない。虚空に喋り続ける生徒会長の奇行に視線を向ける者さえいない。
ここは違う。
ここは、決して自分の存在すべき学校じゃない。
行かなければならない。
早く目覚めないと何もかもが手遅れになる。
Fate/EXTRA 麗しき黄金の君
第0日 黄金の契約
ありえない日常の中を当然のように生活していることに焦燥感を抱きながらも違和の根源にたどり着けない。
気持ちさえ焦燥と平穏を両立する奇妙な状態を当然のように受け入れている。
急がなければならない。このようなおかしな状況と状態の突破口を見つけなければ自分はきっと曖昧なままこの“セカイ”に溶けてしまうかもしれない。
放課後になり校内を散策する。
わずかな糸口でも認識することができることを祈りながら。
っ!?
一階に下りた瞬間、強烈な違和感に襲われた。
紅い服を纏った生徒――転校生のレオナルド・ビスタリオ・ハーウェイ。
彼が視界に入った瞬間、ノイズだらけのセカイが少しだけ晴れたような気がした。
廊下を悠然と歩き往くレオナルド。彼は自分の陥った現状を打破する突破口となりうるのだろうか?
そんな彼のあとを追いかける一人の生徒。あれは……同じクラスの――
……追おう。
この学校を支配する違和感。
レオナルドからだけではない。この学校のいたるところに空虚感があったはずだ。
思い出せ。
曖昧なセカイを曖昧なままに受け入れるな。
真実は何か。
このセカイは自分の知る世界ではない。
目を背けるな。
ここに居る、自分の存在は曖昧なセカイではないはずだ。
レオナルドとその後を追った生徒が向かった廊下の先。そこでレオナルドと男子生徒が会話している。
「本当によくできていますね。ディテールだけじゃなく、ここは空気でさえリアルだ。ともすれば、現実よりずっと現実らしい」
レオナルドの言葉を男子生徒が訝しげな表情で受けている。
その呟きは果たしてその男子生徒に向けたものなのか。それともただの独白なのか。
「ねぇ……貴方たちはどう思います?」
貴方たち?
レオナルドが立つ位置から見えるのは男子生徒だけだ。
廊下の角から覗き見ている自分の姿を捉えられるはずがない。
まさか、自分が後を着けていたことも把握していたというのだろうか?
「こんにちは。こうして話をするのは初めてですね」
敵意などまったく感じさせない笑顔を男子生徒にむけるレオナルド。
しかし、その背後にはもっと別の何かが潜んでいる。なぜか、それが解ってしまう。
「ここの生活も悪くはありませんでした。……でも、それもここまでです。この場所は、僕のいるべきところではない」
そのレオナルドの言葉に自分は息を呑む。
彼の言った言葉はそのまま自分が内包する違和の答えだった。
「寄り道はしょせん寄り道。いずれ本来の道へと戻る時がくる。それが今……」
それだけ言うとレオナルドは踵を返し、男子生徒に背を向けた。
「別れを言いたい所ですが、僕は貴方にまた会える気がしている。だから、ここは“また今度”と言うべきでしょう。……では先に行きますね」
貴方たちに幸運を――。
そう言ったレオナルドは、一瞬、確かにこちらに視線を向けた。
やはり、自分が覗き見ていたのは気付かれていたようだ。
当然のように廊下の突き当たりである壁へと消えていったレオナルドを追って、男子生徒も壁に手をかけ消える。
……見つけた。彼らが壁に消える瞬間、セカイのノイズが強くなった。
それは自分の中に残っている曖昧な感覚を除去するのに十分な衝撃だった。
ここが、この違和感の終着点……いや、ここは出発点。欠落した真実へと至る道――
壁に手を掛けた瞬間、セカイの空気がわかった。
コンクリートの壁だった場所に淡い光を帯びる扉が現れる。
それは此の世のモノに非ず。この先にあるセカイは、きっとありえない世界に違いない。
そこは自分のあるべき世界なのか。
今は恐れを抱くべき時ではない。前へと進む時。
異界の入り口に足を踏み入れる。
扉を抜けると目の前には新たな扉があり、その扉の前には曲線を描く痩躯と鋭角的な手足の人形があった。
これは、この先で自分の剣となり、盾となるもの……
どこからともなく、そんな声が聞こえてきた。
この奇妙な人形の従者と共に進むことが今の自分に課せられたルール。
歩みを進めるとセカイは一変した。未処理のテクスチャに彩られた一本道を進むとさまざまな映像が周囲を流れ始める。それでも前へと進むと通路に壁が現れる。さらに前へと歩み続ける。あらゆるモノがあの学校とは違った。形容するならば簡略化された地下迷宮といったところか。いつ物陰からモンスターが現れてもおかしくない異様な空間だった。
……ようこそ、新たなマスター候補よ
虚空に声が響く。
周囲を見渡すが自分と人形以外に人影はない。
君が答えを知りたいのなら、まずはゴールを目指すがいい。さあ、足を進めたまえ
虚空に響いた声に促されるように迷宮世界を進んだ。
途中に幾度か障害となる敵性プログラムが配置されていたが、謎の声によるナビゲートが続いたため奥に進むことは容易だった。
案内されるままに通路を進むと青い光が渦巻く球状の空間へと足を踏み入れることになった。
謎の声が言うにはこの空間が最後の間であるという。
重々しい空気に満たされた荘厳な空間。今は失われた聖霊の宿る場所。ここが始まりへと続く終着の地。
そこに誰かが倒れていた。
それは先ほどレオナルドを追っていった男子生徒だった。
すぐに傍へと駆け寄り、声をかける。
右手で手首を触れ、左手を額に置き、男子生徒の顔に自分の顔を近づけ頬で呼吸を確認する。
触れている肌がとても冷たい。呼吸も心臓の鼓動も確認することができない。
視界が一瞬揺らぐ。
彼の生きている証明はどこにも確認できなかった。
一体、何があった!?
叫ぶも謎の声はからの解答はもうない。
かわりに彼の傍らに崩れていた人形が乾いた音と共に立ち上がる。
幾度か敵性プログラムとの戦闘を経てこの場に辿りついた今なら理解できた。
目の前の人形は、敵だ。
それを自分の頭で反芻したのを合図としたかのように人形は、大きく身体を揺らしてこちらへ突進してきた。
敵対する人形は、この場にたどり着くまでに戦った敵性プログラムたちとはまったく別物だった。
謎の声からのナビゲートがなかったことを考慮してもこちらの攻撃はほとんど届かず、相手の攻撃は易々と自分の人形に叩きつけられた。
数にして16手。敵の人形に自分の人形が打ち倒された。
闘争の代行者である人形が打ち倒されたということは自分も打ち倒されるということ。
乾いた無機質な人形の表面から感情らしいものは読み取れない。それでも違えることなく敵を前に攻撃を仕掛けてきた。
……ふむ、君も駄目か
再び声が聞こえた。
それは自分をこの場へと案内した声と同じものだったように思える。
急速に力が失われていく身体。手足の一本、指の先すら思うように動かない。
そろそろ刻限だ。君を最後の候補とし、その落選をもって、今回の予選を終了しよう
……候補? ……落選?
いつの間にか自分は誰かに測られていた。
その測りから漏れたから自分は……
――さらばだ。安らかに消滅したまえ
そう言い放った声には事務的な機械のような印象を覚えた。――ゆえにその言葉を否定する。
視界には冷たい床が広がり、そこから起き上がる力もない。――ゆえにその事実を否定する。
霞んだ視界の端に土色の塊が幾重にも重なりあっているのが見えた。――ゆえにその現実を否定する。
この場で朽ち果てた月海原学園の生徒たち。――ゆえにその存在を否定する。
彼らはここまでたどり着き、自分と同じようにこの場で倒れた者たちだ。
それゆえに自分はこのまま消え往くのをよしとしない。
このまま目を閉ざすことはできない。ようやく真実を知ることができる場所に立ったばかりだ。終わりにしていいはずがない。
諦めない……動こうとしない身体を心で罵倒しながら立ち上がろうと力を入れる。
身体中に激痛が走った。痛みがある。痛みを感じることができる。つまり、まだ生きている。
それならば……まだ動ける。
生きているのならば動けるはずだ。このまま終わるのは、許されない。
全身に駆け巡る痛みは、容赦なく心を削る。それでも諦めない。
……許さない。
痛みから逃れることを許さない。
まわりの死体と同じになることを許さない。
……そして。
何も解らないまま無意味に消える事が、何よりも許せない。
立つ。
痛みが消えなくとも構わない。自らの足で立つことがすべての始まりだ。
そう思ったらそれだけを考える。自分が生きているという証明を実行しなくてはならない。
自分の意志で戦ってすらいない戦闘で倒れ伏すわけにはいかない。
「なんとも生き汚い声。そのような声で吾の耳を叩くなど不遜にもほどがあるぞ?」
頭蓋を砕き、身体を破裂させんとする激痛に耐えながら立ち上がろうとしていると再び虚空から声が響いた。
それは先ほどの無機質で事務的な声とは一線を画す力が宿った声音だった。
「ほう……。吾の声で立ち上がるというのか?」
傲岸不遜にして挑発的な台詞だが、何故か、その声が身体に力を与える。
指先ひとつ震わすことのできなかった身体が力を取り戻し、自らの足が正しく身体を支えた。
「ふむ、死の淵にあっても我が声を受け続けたいというのか。なるほど、その傲慢なる願いゆえに吾が下に届いたというわけか」
自意識過剰にもほどがある。
そう言ってやりたかったが力を取り戻したといってもまだ身体の自由は取り戻せていない。
それにこの声ならば確かに聞き続けたいという欲求が少なからず好奇心という形で胸中に宿っている。
「ふん、雑種の分際で吾を求めるか?」
この声の主を求めるか否か。その程度の問いならば激痛に冒される思考でも簡単に答を出せる。
「よくぞ言った。己が分を超えた生への執着。人として分を超えた真実への探求。貴様の命運がここで潰えるというのは吾がつまらん!」
声の力強い返事が響いたと同時にガラスの砕ける音がセカイを揺らした。
それと共に部屋全体を眩い光が埋め尽くす。
視界が失われたのは一瞬。それこそ瞬きすら許さない刹那だった。
蘇った視界に映し出されたのは無数の鎖に雁字搦めにされ、空中に縛り付けられた人形だった。
「木偶の分際で吾のオモチャを壊そうというのか? 些か以上に礼を逸していると思わんか?」
声は背後からした。
まだぎこちなさが抜けない身体を捩って首だけを横に向ける。
そこに存在したのは黄金に身を包んだ一人の女性。
輝く黄金の髪が流れ、同じ色の鎧が申し訳程度に四肢を覆い、腹部の剥き出しの肌は髪や鎧の輝きを浴びて淡い金色を帯びていた。
形だけを見れば人間と変わらない。
しかし、この女性は人間ではない。それが本能的に理解できた。
人間を超越した、触れただけで蒸発しそうな圧倒的なまでの力の奔流を身の内に宿らせていることが嫌でも感じ取らされる。
「ふん。この人形めは言葉を介することもできぬ木偶であったな。興は乗らぬが……仕方あるまい」
威厳と気品、そしてどこか官能的でさえあるその姿に似合いすぎる凄惨な微笑みが振り返る。
それと同時に人形を縛り付けていた鎖が引き絞られた。
視線を黄金の女性の腕に向けるとそこには人形を捕らえていたものと同じ鎖が握られていた。黄金の女性の動きに合わせて鎖が奔り、空中に縫い止められていた人形はその四肢を残さず引き裂かれてしまった。
「……では、答えよ。貴様が吾のマスターか?」
人形を完膚なきまでに粉砕した黄金の女性が測るような眼差しを向ける。
マスターという響きの下に下僕という文字が刻まれていることを魂レベルで理解してしまった。
この女性と契りを交わすということは、あるかどうかも定かではない自分の魂すら捧げることになるのだろう。
しかし、それを躊躇うような意識はまったくなかった。
自分の本能は生きることを選んだ。諦めることを否定した。真実に至ることを決意した。
なればこそ、その障害足りえない事象に躊躇う必要などない。
本能が赴くままに前進すればいい。その先に求める答があるはずだ。
「久方ぶりに良い道化に出逢えたようだ。吾の傍らに立つ栄誉を賜りしことを子々孫々誇るがいい!!」
黄金の髪と真紅の瞳。黄金の鎧と真っ赤な腰巻。天の鎖と天地を引き裂いた剣。
可憐なる女帝が傍らに立つ。それがどれほどの奇跡であるかを理解できるようになるのはもう少し時間を要する。
今は再び得た生の証と手に刻まれた三画の紋様を未来への切符として終わりの見えぬ旅立ちを始めよう。
※指摘に伴い一人称修正しました。