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【グローバルインタビュー】「非情のブリザード」(下)50年前に南極で犠牲になった友を思う 国立極地研究所 吉田栄夫名誉教授 (2/4ページ)
「しかし、結局、福島君は戻ってこなかった。ある日の夜、基地で会合が開かれて、私は重大な事故を起こしてしまったことをわびました。あふれ出る涙をはらいながら、ベルギー隊の一人が、そっとたばこを私に出して、火をつけてくれました。あのときの友情は今でも忘れることができない。遭難から7日後の10月17日、東京の南極本部の決定で、福島君の死亡が認定されました。その後も、第4次隊が昭和基地を去るまで、時間が許す限り、私たちは辺りを捜索しました。彼の霊を弔うため、ケルンを積み上げました。後に、これは、福島ケルンと呼ばれるようになりました。当時、私は生きているのがとても辛かった」
――遺体が見つかったのは7年後でした。
「1968年2月9日のことでした。西オングル島で地学調査を行っていた第9次隊員が島の西海岸に面した小高い丘で、雪の吹きだまりになっていたところで横たわっていた福島君を発見しました。基地から約5キロも離れていました。地形からみて、風や氷でここまで運ばれたわけではなく、福島君がブリザードの中、ここまでさまよい歩き、力尽きたのだと思われました。当時、誰もそんな遠いところまで行くとは考えていなかった。遺体は腐敗していませんでした。福島君はグリーンの服を着ていましたが、その色も鮮やかでした。一斉捜索のときも、このあたりは確認した場所でしたが68年、大陸は記録的な暖かさで、昔からの雪が溶けていました。だから、遺体が雪の下から姿を現したのかもしれません。彼が腕にしていた手巻きのエニカ製時計は、遺体から取り外したた瞬間、再び動き始めました。この腕時計は、第4次隊員15人全員に、エニカ社からプレゼントされたものでした。10メートルまで水の中に潜れるという最新の時計で、福島君がコップの中に時計をいれて防水できるかどうか確かめていたことを今でも覚えています」