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【グローバルインタビュー】「非情のブリザード」(上)50年前に南極で犠牲になった友を思う 国立極地研究所 吉田栄夫名誉教授 (1/3ページ)

2010.10.10 07:00
このニュースのトピックスグローバルインタビュー
日本極地研究振興会の吉田栄夫理事長 =7日午前、東京都千代田区平河町(荻窪佳撮影)日本極地研究振興会の吉田栄夫理事長 =7日午前、東京都千代田区平河町(荻窪佳撮影)

 今からちょうど50年前の1960年10月10日、南極大陸の昭和基地で1人の日本人隊員が強烈なブリザードに巻き込まれ、行方不明になった。手の先さえ見えない視界ゼロの世界。第4次越冬隊員、福島紳さんは南極観測犬のタロたちに餌をやりに行き、そのまま帰らぬ人となった。享年30。福島さんは50年以上にもなる日本の南極観測史上、唯一の犠牲者となる。

 遺体が発見されたのは7年後の1968年2月だった。基地から5キロ以上も離れた海岸べりで当時の服装のまま、見つかった。仲間は、その場所に石の塚(ケルン)を作り、福島さんの霊を弔った。

 ブリザードの中、福島さんと一緒に外に出たのが吉田栄夫さん(80)だった。南極大陸の地形研究の第一人者。南極観測に長年携わり、国立極地研究所名誉教授や立正大学長などを歴任し、日本極地研究振興会理事長として、今も極地研究に携わっている。吉田さんは半世紀前の出来事を鮮明に覚えている。(佐々木正明)

 ――あの日から半世紀が過ぎました。

 「昨年は50回忌で、彼の故郷である京都に行き、お墓参りをしてきました。福島君は僕と同い年で、存命であれば80歳になる。京都大学で、宇宙線やオーロラを研究していました。僕の仕事を手伝ってくれようとして基地から一緒に出て、私だけが生きて帰ってきた。本当に残念なことをした。当時の仲間は『お前が悪いわけではない』と慰めてくれましたが、私は、今でも負い目を感じています。私が助かったのは偶然だった。運命としかいいようがない」

このニュースの写真

日本極地研究振興会の吉田栄夫理事長 =7日午前、東京都千代田区平河町(荻窪佳撮影)
1960年1月、昭和基地に近づいた観測船「宗谷」の船上で、第4次隊全員と夏隊の立見隊長が記念撮影した。前列左から二人目が吉田栄夫さん。後列左から4番目が福島紳さん。手で顔がよくみえない (提供写真)
昭和基地で、福島紳さんの肩を持って写真に収まる吉田栄夫さん(国立極地研究所名誉教授)=1960年撮影 (提供写真)
日本極地研究振興会の吉田栄夫理事長 =7日午前、東京都千代田区平河町(荻窪佳撮影)
1961年1月、越冬終了直前に最後の捜索を行い、福島ケルンの前で越冬隊隊員全員で写真を撮った。右から5人目が吉田栄夫さん (提供写真)
慰霊祭後の福島ケルン。ケルンには第5次越冬隊が持参した墓碑銘がはめこまれた (提供写真 1961年撮影と思われる) 
福島ケルン 右手後方は岩島 (提供写真 1960年代の撮影と思われる)
1961年1月に福島ケルンで行われた慰霊祭。観測船・宗谷の明日船長が弔辞を読み上げた。(提供写真)

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