■建築の起源についてはいろいろな説がある。そのひとつは「プリミティブハット」と呼ばれる説で、立木に横材を渡して屋根をかけたことに起源を求めるものである。壁はなくても、屋根があれば雨をしのぐことはできる。そこには居場所という領域ができる。さらに壁を付け加えれば、寒さや外敵から身を守ることも可能になる。上部と周囲の覆い(シェルター)がこうして完成するのである。そして外部から区別された領域としての内部が成立する。
■内部と外部との区別は、建築にとって本質的なものと現在では理解されている。たとえば建築を彫刻から区別するのに、内部があるかどうかが基準にされるといった具合に。現代の建築は、人の活動のために機能的につくられた内部と、建築物の存在を示すための外部とから成る。いったんこうして分けられた後、開口部を通じて内部と外部との関連付けが行なわれる。
■しかし内部と外部との区別は、単に建築の造りの問題だけではないだろう。個人や家族、あるいは特定の集団を、それ以外から区別するものとして建築は働く。初めは外敵から自分や家族を守るものだったかもしれないが、次第に身体の延長として、社会の中での自分を代理表象するものになっていったであろう。シェルターと人間との間にあった隙間は、「空間」と名を変え、それまでとは別の質を獲得したかのように振舞い始める。シェルターの外側は、内部を表象することもあれば、表象しないこともある。いずれにしても、内部そのものではなく、それに被せられた仮面である。
■実際には、シェルター内は部屋に区切られ、部屋を区画する壁もまた内部と外部を分けるものになる。そうして内部と外部の関係は重層構造になり、濃度の分布が生じ、そこにプログラムが発生する。しかしそれは応用問題なので、ここでは単純に建築の内部と外部との二分法を考えることにする。
■近代社会の基本単位である方法論的個人や経済的主体と呼ばれるものは、人間がむき出しのまま社会に投げ込まれることで成立したのではなく、内部と外部という建築的装置を媒介することによって成立したのではないかと思う。もちろん方法論的個人や経済的主体は、理念としては場所性を持たない。地縁的、血縁的共同体の制約を離れて、自由に判断する個人というのがその理念だからである。しかし現実には主体の居場所は必要であり、なおかつその場所は、共同体的な色彩を払拭した中立的(ニュートラル)なものでなければならない。そうした要請に符合したのが、いわゆるインターナショナル・スタイルだったのである。
■自我が他者に侵食されるのを防ぐために、内部と外部とを隔てるシェルターは強固なものでなければならない。ガラスの多用を引き合いに出して、近代建築(モダニズム)の透明性が語られることがあるが、近代建築は基本的には不透明だと思う。ガラスによる見かけの透明性や、壁の薄さの追求は、中立性を確保するためにだけ必要とされるのであって、内部と外部という枠組みを破壊するものではない。近代建築に透明性があるとすれば、それは、貨幣を一元的な価値とする市場経済の透明さである。内部と外部を分けるという一見不透明さを増す操作が、同時に市場経済が浸透するための基盤になるという両義性がここにある。
■内部−外部という枠組みの行き着いた呪縛からわれわれは逃れられないのだろうか。近代建築は、内部空間と外部空間の相互貫入をテーマにしてきたのではなかったのか。確かにそういう側面はある。しかし、それは近代建築の不透明性という自覚が先立つことなしには意味をなさない。そうした自覚なしに語られる表面上の透明性は、単に市場経済がグローバルに浸透していることを追認しているに過ぎない。内部と外部という枠組みを破壊しようといういくつかの試みはあったが、それらを除けば、第二次大戦後の建築の枠組みに基本的な変更はない。
■規模も意匠も異なるように見えながら、分譲の戸建住宅もマンションもオフィスビルも、内部と外部を持つという点において違いはない。新しく建つそれらの建物に既視感を抱くのは、基本的な構成に違いがないからだ。モダニズムが行き詰った後のポストモダンにしても、表装を取り替えたに過ぎない。むしろ表層のみの取替えであったがゆえに、混乱なく移行が行なわれたとも言えるだろう。
■内部と外部という枠組みに、われわれがいかに抜けがたく捕らえられているかは、設計のプロセスを思い浮かべてみればすぐに分かる。その建物を使う人のために内部をつくり、社会に向けて外部をつくる。そうした発想が染み付いてしまっている。構造体や壁などの仕切りは、内部と外部を調停するための便宜的な手段となる。それらは黒子として、背景に溶け込むことを要請される。つまり実際には内外を隔てるものとして存在するにも関わらず、存在しないもの見做そうということである。しかしそれだけでは説得力がないので、壁を薄くしたり、ガラスを使ったりして、実際に壁の存在を希薄に見せようとしたのである。そのための技術は中立的・中性的であることを要請される。つまり目的は空間なのであって、技術はそのための道具として奉仕することを強いられるのである。
■これからもこうした枠組みで建築はつくられていくのだろう。表面的なデザインが移り変わることはあっても、内部と外部という枠組みは残るだろう。そもそもわれわれがこの枠組みから抜け出すことは可能なのだろうか。その方策を考えるためには、別の建築の起源や、インターナショナル・スタイルとして固定化される以前の近代建築運動にまで遡る必要があるだろう。
■石器時代には、洞穴住居(洞窟住居)と呼ばれる住居形態があった。こちらを建築の起源と考えたらどうだろうか。洞穴住居といっても、奥深くに住むのではない。実際に住むのは浅い洞穴で、むしろ岩の窪みと言った方がよいだろう。地表のテクスチャーがそのまま窪みに流れこむ。そこには外部しかない。もちろん窪みの入口に壁をつくって蓋をすれば、内部空間ができる。しかし、上下と周囲の6面のうちの5面は、地表の連続である。そこでは内部と外部という区別よりは、連続した外部という意識の方が卓越するのではないだろうか。人間は常に「もの」の外側にあって、「もの」と向き合うことになる。その意識は、近代のわれわれとは異なるはずである。ここにひとつのヒントがあるように思う。
■20世紀の近代建築運動では、ミース・ファン・デル・ローエに注目したい。ユニバーサル・スペースの提唱者と呼ばれ、空間という概念で建築をつくったように言われるが、むしろ逆のように私には思える。彼の第一の関心は、空間ではなく「もの」である。空間は「もの」との関係においてのみ生じる。つまり空間の起源を問題にしたと言えるだろう。ミースのプランはシングルグリッドではない。シングルグリッド・プランであれば、柱や壁は理念としては厚みを持たないことになる。それが通常の近代建築の理解であろうが、ミースの場合ははじめからダブルグリッドである。つまり構造体のための場所が用意されている。「もの」には「もの」の場所があるということなのだ。
■初期のミースのプロジェクトである「レンガ造の田園住宅」では、レンガの壁が四方に大きく伸びている。それは、単に建築の輪郭を曖昧にするためというだけでなく、もっと根本的に、内部と外部との区別を不可能にする装置である。世界が一枚の壁でふたつに分けられていたとしても、壁のこちらと向こうを同時に見る視点がなければ、こちらと向こうという概念は生じない。同じように、理念としては果てしなく続くレンガの壁は、その向こうを見ることができない以上、内部と外部とを隔てる壁としては認識されない。つまり、内部も外部もないのだ。人間は常に「もの」の外側に立つしかない。それがすべての出発点になっている。
(TEXT:斉藤昭彦)
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