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【正論】防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛 語られなかった西独の「核武装」

2010.10.19 02:42
このニュースのトピックス正論
防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛

 「スクープドキュメント」と銘打ち10月3日夜に放映されたNHK番組「“核”を求めた日本・被爆国の知られざる真実」が、霞ケ関、永田町に波紋を広げている。翌日の記者会見で松本剛明外務副大臣は、前原誠司外相が省内の事情調査を行うよう指示したと述べた。仙谷由人官房長官も同日、ことの「命令系統」に関心を見せつつ、当面は外務省の事実関係解明に期待する考えを示した。

 ◆日本の核開発打診にノー

 今年3月に死去した村田良平元外務次官が死の1カ月前、日本、西ドイツ(当時)間で核開発をめぐり村田氏自身も参加した外交事務レベル秘密会議が1969年2月にあったという事実を取材陣に明かした。それが機縁で取材対象が日本外務省以外の関係諸筋へと広げられていった。そして、「被爆国日本」が「核廃絶を求めながら“核”を求めてきたこの矛盾」という指摘で番組は終わる。

 登場人物は多岐にわたるが、他を断然圧する存在は、村田氏と当時西独側を率いたエゴン・バール元首相府次官だ。秘密会談に出席した両人は番組終盤で再登場し、自説を開陳する。こういう趣向ゆえに、前原外相は41年前の両国秘密交渉を問題視するのだろう。

 村田氏が証言するように、日本側は当時、核保有5カ国に特権的地位を与える核不拡散体制が確立されれば、自国の「至高の利益が脅かされる」事態が生まれると強く懸念した。だから、核の開発、製造で日本と共同歩調をとる意志の有無が西独側に打診される。西独側は同調を断る。打診を受けてバール元代表は「驚愕」した当時の模様をNHKに語る。関連してブラント外相に提出された西独側の会議報告書が明るみに出る。このいきさつは極めて衝撃的で、世人は番組を力作、いや良心作とさえ評価することだろう。

 ◆NHK力作に危険な陥穽

 だが、私にはひどい後味の悪さが残った。私見ではこの力作には意図されざる危険な陥穽(かんせい)がある。番組は41年前の日本、西独間の実務密議という一点に強烈な照明を当てた結果、かえって、それ以前の経緯、特に西独の核兵器政策が暗闇に沈んでしまったからだ。

 番組を精査すると、密議でバール元代表は日本側提案を断る理由に自国の国際的境遇を挙げている。だが、決定的に重要なこの理由の意味は全く詮索されていない。それを詮索すれば、つまり西独核兵器政策の経緯を知れば、視聴者の多くは仰天するだろう。

 概要のみ記す。西独は55年に国防主権を回復して北大西洋条約機構(NATO)に加盟する際、核兵器の開発断念を西側諸国と約した。が、保有の断念ではない。やがてアデナウアー首相とシュトラウス国防相は国防上の理由から自国軍の核武装方針を唱え、実際58年にはNATOの共同防衛義務を果たすためとして、西独軍の核武装決議が議会で成立した。

 無論、議会にも国内にも核武装反対勢力はあり、野党、社会民主党(SPD、バール氏は同党員)はその雄だった。だが、57年総選挙でアデナウアーの党が空前絶後の単独過半数を制した事実が示すように、西独国民はアデナウアーの安全保障政策、つまり核武装政策を圧倒的に支持していた。だから、SPDはやがて核武装反対を取り下げて、アデナウアー流安保政策の軍門に下ったのである。

 日本が60年代末から70年代初頭に「つくらず、持たず、持ち込ませず」の「非核三原則」を固めたのに対し、あえて単純化すると、西独の方針は「つくらないが持ちたい。それがダメなら同盟国と共同保有したい。何より米国に核を持ち込ませたい」だった。

 ◆日独協力不要だっただけ

 この西独事情は当時、国際的に周知だったから、日本外務省がボンに核協議を提案したのは何ら奇異ではない。箱根でバール元代表が日本提案を断ったのは「日独協力でつくる」ことの拒否に過ぎない。そんな事情は「スクープドキュメント」からは分からない。

 バール元代表は番組終盤で核廃絶への今日の信奉を語った。今日の多くの視聴者は、「非核三原則」を唱えながら核開発の道も模索した日本は「悪玉」、往時に日本の秘密提案を拒否し今日は核廃絶を誓うバール的ドイツは「善玉」と、対比的に捉(とら)えかねまい。

 が、用心が肝要だ。冷戦期の西独軍は一定の核運搬手段を手放さず、有事には在独米軍保管の核弾頭が提供される仕組みになっていた。また、70年代末、ソ連中距離核問題で悩んだシュミットSPD政権はカーター米政権を叱咤(しった)し、米新型中距離核をドイツおよび西欧諸国に「持ち込ませる」ことに腐心し、シュミット挫折後にはコール政権がその路線を貫徹、「持ち込ませる」ことに成功した。

 核政策では、日独それぞれが異なる悩みを抱えた。それを理解せずに69年2月の両国「秘密協議」の一点に絞っての「事情調査」は瞬間反応に過ぎず、政治的判断力の涵養(かんよう)には資さない。歴史を重視した故高坂正堯教授の弟子たることを誇りにする前原外相に、あえて、この一文を呈上する。(させ まさもり)

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防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛

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