一部で話題になっているCaballeroの論文を読んでみた。テーマはよくあるマクロ経済学批判なのだが、ジャーナリストとは違って、自分で理論をつくる立場から改革を提案している。その出発点は、ハイエクのノーベル賞講演、「知ったかぶり」(The Pretence of Knowledge)である(邦訳)。
ハイエクは、物理学は物理量が正確にわかるので未来を予測できるが、経済学者のもっている情報はきわめて貧弱なので、未来を予測することはできないと論じた。だから経済学は大ざっぱな予想を立てる次善の科学でしかないのだが、厳密科学を装うために数式や計量データで武装して、いい加減な予想を正確に見せようとする「知ったかぶり」が経済学を混乱させている。
Caballeroも認めるように、コアの理論(DSGE)だけではマクロ経済について何もいえない。それは「代表的家計」と呼ばれる計画当局が行なう動的計画によって均衡成長経路(自然水準)が決まり、「不均衡」はすべて摩擦や無知によって起こる過渡的な現象と考える「中身のない理論」だからである。このため学会誌に出る論文のほとんどは、コア理論にいろいろな「不完全性」を付け加えて現実を説明する周辺の理論である。
この二分法は、ナイトもケインズもハイエクも指摘したように、根本的に間違っている。経済的な混乱が起こる原因は不完全性ではなく、本質的な不確実性だからである。代表的家計(すべての経済主体)が正しい状態を知っているのなら、摩擦さえなくなれば経済は均衡状態に復帰するだろう。しかし誰も正しい状態を知らない、あるいはそういう均衡状態がもともと存在しないとすれば、DSGEの知ったかぶり理論は根底から崩れてしまう。
しかしCaballeroは、もちろんマクロ経済学を否定するわけではない。こういう批判は新しいものではなく、ヴェブレンのころから「制度学派」は細々と続いてきたが、学問的には何も生み出さなかった。かといって、理論的にもゆきづまったDSGEをこれ以上、精密化しても何も生まれない。必要なのは、厳密だが役に立たないコアの「大きな物語」にこだわらないで、具体的な実証データによって周辺の「小さな物語」を積み重ねていくことだろう。
Caballeroも認めるように、コアの理論(DSGE)だけではマクロ経済について何もいえない。それは「代表的家計」と呼ばれる計画当局が行なう動的計画によって均衡成長経路(自然水準)が決まり、「不均衡」はすべて摩擦や無知によって起こる過渡的な現象と考える「中身のない理論」だからである。このため学会誌に出る論文のほとんどは、コア理論にいろいろな「不完全性」を付け加えて現実を説明する周辺の理論である。
この二分法は、ナイトもケインズもハイエクも指摘したように、根本的に間違っている。経済的な混乱が起こる原因は不完全性ではなく、本質的な不確実性だからである。代表的家計(すべての経済主体)が正しい状態を知っているのなら、摩擦さえなくなれば経済は均衡状態に復帰するだろう。しかし誰も正しい状態を知らない、あるいはそういう均衡状態がもともと存在しないとすれば、DSGEの知ったかぶり理論は根底から崩れてしまう。
しかしCaballeroは、もちろんマクロ経済学を否定するわけではない。こういう批判は新しいものではなく、ヴェブレンのころから「制度学派」は細々と続いてきたが、学問的には何も生み出さなかった。かといって、理論的にもゆきづまったDSGEをこれ以上、精密化しても何も生まれない。必要なのは、厳密だが役に立たないコアの「大きな物語」にこだわらないで、具体的な実証データによって周辺の「小さな物語」を積み重ねていくことだろう。
コメント一覧
DSGEについては仰るとおりと思います。小さい物語を積み重ねることについては、それが正しいというよりは「それしかやりようがない」からやっているというか。ただし小さい物語を紡ぐために実証の精緻化に固執することに最近意義を感じません。議論が沸騰している金融政策の実証にしたところで、肝心のマネーストックの時系列データすら1967年以降しか連続で取得できません(月次で500個強)。計量が細かくなってもデータの精度や個数が著しく貧弱なので、最近の学界はパネルとか個票分析の森に分け入っていますが、まさに木を見て森を見ず。「僕、こんなに大量のデータで計算回してみました」「へえー。お疲れさん。それで?」みたいな研究が多すぎる。小さい物語も限界に達しているのかも・・。