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2009年2月号 − No.593
目次
  ローマ教皇のメッセージと「献堂10周年」  ハビエル・ガラルダ
   《主任司祭の窓》  愛とゆるし  ドメニコ・ヴィタリ   四旬節のつとめ
イエズス会最終誓願式   教会とホームレス   子供と家庭のクリスマスミサ
2009年 "新年祝賀会"   財務報告
 

ローマ教皇のメッセージと「献堂10周年」

M.I.Rupnik 「 ノアの箱舟 」

  「貧困と戦い、平和を築く」とは、教皇ベネディクト十六世の新年メッセージです。ゆっくりと読むべき言葉だと思います。
 この世の中には、食べる物もなければ、失う物もない貧しい人が多く、町の治安と世界の平和は難しい問題です。実際、テロを行う国や刑務所に入っている人々は、たいてい貧しい状態に置かれています。
 だから、ローマ教皇は、経済、法律、倫理などの相互の協力で貧困と戦って、グローバル・ソリダリティーにおける「世界の家族」を作るように呼びかけています。
 実は、いつわりの平和はすでにあります。強い人が、自分を守る不公平な現状を維持しながら、弱い人を黙らせるというヘイワは、確かにあります。しかし、イエスは、まさにそのヘイワを壊して、分かち合いと助け合いの平和をもたらすために来ました。キリストの平和とは、社会と世界が開かれた家族として、親である神と一緒に、食事を仲良く分かち合うという「神の国」です。
 ところが、私たちの醜いエゴイズムと冷たいうぬぼれは、キリストの平和を妨げています。現在、10人中7人は、運が良ければ一日一回、ほんの少ししか食べられないという国があります。これは決して、「世界の家族」とは言えません。

 そこで、イグナチオ教会の私たちが、教皇さまのメッセージの実現を真剣に求めるのは当然だと思います。教会報の新年特別号に、鈴木教会委員長が、「献堂10周年を迎えて」という文章の中に、次の「新年の抱負」を書きました。「今後、新たな目標設定が必要と思われます」。
 その通りだと思いますが、ローマ教皇のこのメッセージの実現こそ、イグナチオ教会のあらゆる目標設定の根底に深く流れる必要があると思います。優先的に。

 わが教会には、社会的に影響力のある人もいれば、財産と肩書はあまりなくても、純粋な心とやる気は十分という信者も多い。イグナチオ教会の皆が、「献堂10周年」を機に、この教会に新たな特徴をより明らかにすればと思います。すなわち、交通の便がいいというような特徴よりも、このメッセージを具体的に実行するという特徴をつければ良いのではないでしょうか。そうすれば、本当に困っている人はもちろん、わが共同体も極めて助かると思います。

ハビエル・ガラルダ S.J.  

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《主任司祭の窓》

愛とゆるし

ドメニコ・ヴィタリ S.J.  


 「愛は多くの罪を覆うからです」 (一ペトロ4・8)

 聖書を開くと、ほとんどどこでも罪の話が出てきます。私たちは大昔から現代に至るまで、常に罪を犯し続けているからでしょう。しかし、その罪と一緒に必ず、神様の赦しと慈しみ、そしてあがないも告げられています。やはり、よく罪を犯す私たちは赦しなしでは立ち上がることはできないし、生きる力も湧いてきません。
 そのためにイエス様は「主の祈り」を教えてくださったときに、日用の糧とともに罪の赦しを願わせてくださいました。

 この四旬節にあたり、私たちは罪の赦しを頂こうとしていますが、何をしたらその赦しを頂くことができるのか、もう少し考えてみたいと思います。
 まず、赦しの秘跡(告解)がありますが、それは唯一の方法ではありません。  そこで古代の教父オリゲネス(185〜254)の文章を思い出します。
 彼が、福音書において赦しをもらうためにどんな方法があるかについて論じている説教が残っています。その中で次の7つを挙げています。
@ 洗礼  A 殉教  B 施し
C「主の祈り」の中にあるように私たちが他人の罪を赦すこと。
D 罪を犯した人が正しい道を歩めるようにすること。
E 隣人愛ゆえの赦し。
F 厳しい長い道としての赦しの秘跡(告解)。
   オリゲネスの時代には、赦しの秘跡というと、殺人、背教、姦通に限られていて、何年間かの準備と苦行のあとに赦しが与えられます。場合によっては死ぬ前にやっと与えられたこともありました。

 


 そのような告解の対象もだんだん小さな罪にまで及び頻繁にされるようになりました。それは言うまでもなくよいことなのですが、唯一の方法にしてしまうのは正しくないし、イエス様の示されている他の方法がおろそかになっているのではないでしょうか。
 特に四旬節の間に隣人愛を示すこと。つまり、自分の持っているもの(時間、物、お金など)を差し出して人を助けることによっても赦しを得ましょう。

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四旬節のつとめ

シスター景山  

  復活祭前の40日間は初代教会のころから、復活祭に洗礼を受ける人たちの準備の期間でしたが、やがて洗礼を受ける人たちだけでなく、教会全体がキリストの過越しにあずかるために、四旬節と呼んで祈りや、食事の節制をしたり、特にキリストのように愛をもって日々を生きるようにして復活祭を迎える準備をする時になりました。

 今年の復活祭は4月12日ですから、四旬節は2月25日(水)から始まります。私たちが神のいのちを頂けるようにと、命をかけてくださったイエスは体にも心にも苦しみを受け、十字架につけられて死に、3日目に復活なさいました。私たちはこの救いの恵みへの感謝を深めながら、イエスにもっと一致して生活するように努めます。


 イエスのように祈り、イエスのように弱い人、苦しむ人を助けるために自分を差し出し、イエスのように人々のよろこびのために自分を犠牲にし、人々と共によろこびを大きくしながら、復活祭を迎えます。四旬節は愛と分かち合いをよろこんで生きる時です。








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イエズス会最終誓願式

誓願: 自己を捧げるひとつの生き方

イエズス会司祭 竹内修一  


 12月26日、イエズス会再来日100周年記念ミサが、イエズス会総長アドルフォ・ニコラス神父主司式のもとで行われました。聖堂はほぼ満席であったかと思いますが、厳かな中にもどこか穏やかな雰囲気の漂うミサでした。その中で、私を含め7人のイエズス会士が「最終誓願」を宣立しました。この最終誓願とはイエズス会独特のもので、他の修道会で行われる終生誓願とは異なります。イエズス会には有期誓願というものがなく、二年間の修練を終えるときに立てる初誓願が、実質的な終生誓願となります。

 イエズス会の養成は、実際長く、司祭に叙階された後も、第三修練というだめ押しの修練を経た後、「最終誓願」の許可を受けます。これによってようやく、会から全面的に受け容れられたことになります。そこにおいては、すべての修道者が立てる三つの誓願(貞潔、清貧、従順)に加えて、いわば第四誓願と呼ばれる誓願を立てます。(その中の一つに、派遣に関する教皇への特別な従順があります)。



 誓願は、福音的勧告としてまったく自由に行われるものですが、そこには二つの特徴を見ることができます。まずそれは、「永遠の誓い」(perpetual vow)であるということ、そしてもう一つは、「公の誓い」(public vow)であるということです。
 私たちは、極めて不確かな存在です。その不確かな存在が、あることを生涯をかけて公に誓う−−その事実の不思議さに改めて静かな感動を覚えます。確信の基はどこにあるのでしょうか。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6;38)−−誓願は、このイエスのことばに連なるものだと思います。不確かなものが不確かなものに対して誓うことはできません。誓うとすれば、それは揺るぎないもの(神)に対して誓います。求められること、それは惜しみない心で自己をまったく捧げるということでしょう。そのとき、自分の奥深くに与えられる恵み、それは感謝です。

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教会とホームレス

ベス・ミリアム代表 菅原 悟  


 公会議文書やカテキズムを見ると、貧困者への援助が教会にとっていかに重要な責務か、教父たちが大変厳しい調子で強調していることに驚きます。
 「自分の財産を貧しい人に分かち与えないとすれば、それは貧しい人々のものを盗むことになり、彼らの生命を奪うことになります。私たちが持っている物は私たちのものではなく、貧しい人々のものです」。「貧しい人々に何か必要なものを与えるとき、私たちは自分のものを寛大に与えているわけではありません。彼ら自身のものを彼らに返しているだけです。そのときには、愛の行為を果たしているというよりも、正義の義務を果たしているのです」。「かりにも正義の立場からすでに与えなければならなかったものを、愛の贈り物として与えるようなことはあってはならない」。(カテキズム2446)



 失業やホームレス問題がかつてなく身近になった現今、都会の真ん中で、立派で清潔な聖堂で平穏に信仰生活を送れるということは、どれほど大きな恵みなのでしょう。同時に、私たちは貧困者に対して、どれほど大きな負債を抱えていたのでしょう。この負債を少々返そうと施しをしたところで、それを愛の行いと誇ることなどできないということに気づくとき、多少なりとも「善い行いをした」と得意になっていた自分を恥じる気持ちでいっぱいになります。実際には、清潔な教会施設にホームレスが立ち入ることにすら抵抗を感じてしまうのが私たちの現実なのです。
 先日、炊き出しの予定の変更を知らずに来てあぶれた一人のホームレスがこう言いました。「いや、俺は食べ物は何でも良かったんだ。ここに来ると自分は受け入れられている、と感じるんだ、だから北千住から歩いてきたんだよ」。
 私たちが本当に彼らを受け入れるために、何から始めたら良いでしょうか。

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子供と家庭のクリスマスミサ

− 2008年12月23日 (火) −

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2009"年新年祝賀会"

− 1月11日(日) −

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財務報告

一粒会の献金

クリスマスバザーの献金

 宣教地司祭育成の日の献金
 一粒会献金¥645,835は、日本の神学生育成のために使われます。

 クリスマスバザーの献金
 クリスマスミサの献金は、24日と25日を合わせて、 ¥4,804,166になりました。

 皆様の寛大なご協力に心より感謝いたします。


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